犬矢来は、竹や丸太を縦横に組んで、庇の内側から通りにさしだしてつくられた垣。
家のすそを泥はねなどから保護するのが目的である。
町屋の表を囲った駒寄と同じ役割から「犬駒寄せ」の別名がある。
登場したのは、江戸中期頃といわれる。
末期に発刊された『花洛名勝図会』を見ると、町屋の店先に、この犬矢来が描かれている。
■ 鳥居
塀の下の方に小さな鳥居が張り付けてあるのを見た人も多いと思います。
この鳥居は、不浄除けの、お稲荷さんである。
不浄除けの鳥居の習俗は、もともとは江戸の風俗らしい。
京都には、町の辻々に桶を置いた辻便所があった。
これが維新後、どっと入洛者が増えて辻便所の良習も崩れた。
かわって、辻々に小さな鳥居が登場する事になったのである。
- 小便に鳥居は書かぬ京の町 -
■ 切子格子
町家の表にぴったりとはめ込まれた格子。
それは内と外、私と公との空間を区切る仕切である。
この格子の仕切はしかし、壁のように強い隔絶感はない。といって開放的でもない。
目にもやわらかな見事なデザインである。
よく見ると、いろんな様式がある。
古くは、その商売によって、格子の意匠もきまっていたこともある。
代表的なのが、切子格子。
上から下まで細かく通った桟と荒い貫。
桟は上部を一部、小間返しに切って、繰り返した格子がそれである。
小間返しとは桟と桟の間を等間隔にあけた手法である。
格子の材質は檜。
桟の間隔は、桟と同じ幅の、およそ三センチばかりで、繰り返される。
この格子が見られるようになるのは、江戸中期頃。
喜多村信節著『嬉遊笑覧』(1830)に記述あり。
■ 一文字瓦
一文字瓦は軒先に葺かれ、道路にのび出した先端が、まるで鋭い刃物で切り落としたような瓦である。
断面の厚さは三寸から三寸五分。
「石持ち」といって、先っぽに平たい円形の飾りのついたものもある。
けれども下端といわれる瓦の低部はきちっと、横一文字にそろっていて、一文字瓦と呼ばれる。
一文字瓦は、延宝年間(1673〜1680)、京都で考案された桟瓦とともに生みだされたのであろう。
■ 炭屋格子
明治十七年の記録によれば、薪炭商はニ百軒。
四条郷、松原郷、七条郷の、三つの郷に分けられた川筋で、四条から五条間の松原郷にはとくに薪炭商が多かった。
そんな薪炭問屋の表は特徴のある格子を持っていた。
簀戸の板子は幅三寸ばかり。
目隠しのような格子で、左右に開く。
大戸との間に、畳みの横幅くらいの空間がある。
川筋についた荷はここに納められた。
■ 卯建
庇を道路の上に伸ばして続いた、町家の平入り屋根。
その屋根にぴょこんと煙出しと並んで、メリハリをみせるのが、卯建である。
室町期の『洛中洛外図』『洛中情景屏風』に見える。
町家のほとんどがまだ瓦葺きだけれど、ところどころに卯建がのび上がっている。
室町期は、町家という都市住宅が際立って増え出した時代である。
その支えは商工業を生活の基盤にすえた人たちの台頭であった。
卯建はそうした新しい町の変貌を具体的に表現した姿でもある。
防火目的の卯建はあくまで、自分の家を火から守る壁であると同時に、隣家との境界を明確にする意味を持っていたのである。
この卯建も時代が下がって本来的な機能を失って、装飾として作られたこともあったらしい。
■ 台格子
太い格子は、米屋格子などがあるが、台格子はこれよりも桟も貫も荒い。
■ むくり屋根
気をつけて見ると屋根の平面の傾斜が、ほんのわずかだけれど、うつむき加減の、丸みを帯びている。
京ことばでいう「むっくり」した感じで、その印象から「むくり屋根」と呼ばれる。
京都の雨は風が強くないせいで、真直ぐにしとしと降る。
屋根の形もこうした気象条件から生まれたのであろう。
雨から家を守る屋根は、傾斜を急にすればうちに洩れることはない。
といって急勾配をつけ過ぎれば表通りに激しく落ちる。
■ 猿戸
町なかの町屋によく見られる表戸の一種。
ぴたりとはめ込まれた格子戸に小さな、頭を下げないと出入りできないような潜り戸のついた、それである。
戸は別に「こうぐり」の名もある。
猿戸の名は、潜り戸の内側の桟の上下二ヶ所に「さる」という簡単な差込み装置がついていることから。
戸を閉めるときには、この差込みを鴨居と敷居に差して戸締りとした。
玄関と台所の仕切にも、この「猿戸」があって、これは内にあるので、「内猿戸」の名がある。
表の猿戸を開けると、普通はもう一枚大戸が続いている。
大戸の裏には、京都人が「コロロ」と呼ぶ板状の鍵の枢が付いていて、戸を閉めると、途端に、この板がぱたんと自動的に落ちて鍵の役割を果たす。
いったん、板の枢が落ちると、外から開けようにも開かない。
京都人は、火災と同じように戸締りには細心だった。
■ 大根じめ
籾のついた稲の穂先を左に、右へ一文字を書くように引いた、力強い形で、中央に紙四手が下がる。
神祇調度装束を扱う店の門口に飾られた注連縄である。
神祇調度装束の店はいうまでもなく衣冠束帯をはじめ、几帳、燭台の調度から神器、神宝まで有職故実にのっとってつくる店である。
京都には二十数軒。
全国の関係の品々はほとんど、この店々でまかなわれているといっても過言ではない。
一般の家では注連縄はお正月の松の内だけ。
神祇の店では一年を通じて外される事はない。取替えは年末である。
門口の大根じめは、家の中の聖と外の俗をわける結界なのだ。
注連縄は明治のころには、麻で作られていたらしい。
神祇の店は、御所の近くに多い。
■ 屋根看板
町家に看板が登場したのは、桃山基ごろ。
看板は当然のように、その店で何を売っているかを表示する目印。
だから最初は、店で売っている品物を絵などに表現して軒にかけた。
随分と派手な看板もあったようで、そのエスカレートぶりを禁止する布令も出ている。
「町中諸商人諸職人のかんばん、金銀の箔を押し、蒔絵梨子地金具めっきかなもの無用にいたし、木地のかんばん等墨に書きつけ、かな物鉄銅の類相用い其外のもの一切仕間致・・・・・」 (天宝年間)
■ 板葺屋根
中京区新町四条上がるの小結棚町に残っている町会所。
会所は町の人々で共有した町家。
鉾の収納蔵があり、祇園祭のときはここで飾り付けをしたり、普段では町内の寄合いが持たれたりする。
小結棚町の会所は古く、延享元年(1744)の記録が残る。
板葺屋根は、その小屋根の部分で、一枚の板は縦約三尺、横一尺四寸、厚さニ寸五分。
板は互い違いの”あやめ”に葺かれる。
■ かけこみ
鬼門除けのまじないである。
東北の一角を差し、ここには万鬼が集まり、禍がみなぎるといわれ、人々から避けられた。
日本で信じられだしたのは平安時代。宮中が中心だった。
鬼門は天に住む日之少宮がおられるところで、犯すべからずとされた。
平安時代が造られたときに、鬼門にあたる比叡山に延暦寺が建てられたのも禍を避ける王城鎮護の意味からである。
御所では、築地塀の東北角を一部削り、屋根の破風に大津市坂本・日吉神社の神使の猿が厄除けに置かれている。
こうした方位家相説が一般に普及するのは江戸時代中期である。
東北角が鋭く尖った形では鬼を刺激してよくないというわけである。
一歩へりくだった人間の態度の表れ、といえなくもない。
■ 虫籠窓
町家の、低い二階の表に横長に開かれた、塗り壁の格子窓。
角材に荒縄を巻いて土で塗り込めた虫籠窓の発生には多くの説がある。
防火目的や、高い二階建てが規制された江戸中期は二階造りを美しく見せるためなど。
天明年間(1781−1788)の大火事の後、一時、姿を消したが、暫らくすると復活した。
現在少なくなってきている一つの原因は、戦争のためらしい。
空襲で火災が発生した場合、虫籠窓だと家の中に閉じ込められて脱出できない、との理由で改装が勧められたらしい。
■ ばったり床几
門口の寄りつきに、がっしり張りついた揚げ棚で、必要に応じてバッタリと上がったり、下がったり。
ばったり床几は格子よりも古い京都の町家の表情である。
もともと商品をならべるだけの小さな棚だった平安末期。
時代が下がって鎌倉期になると、棚はかなり広くなって、揚げ棚のかたちを持つようになる。
表戸に蔀戸といって一枚戸が天井にめくれ上がり、床からは揚げ棚がせり出す。
夜は、蔀戸を下ろし、揚げ棚を上げる。
揚げ棚は、蔀戸を上から押さえて、戸締りの役目も果たした。
室町期には、いま見かけるばったり床几と同じ様な姿で登場する。
■ 駒寄せ
町家の表に巡らした格子の垣である。
もっとも一般的なのは、六角形の桟に、細幅の板を貫にした駒寄せであろう。
桟には鋭い刃物の削りあとが波のような模様をつくる。
もともと手斧で一振り一振り削り、その刃の跡を残した手法である。
手斧で削るだけで仕上げるので「なぐり」の名称がある。
京都では、手斧の代わりに、ノミでつくったように模様をつけるので「京なぐり」とよばれる。
素材は栗である。
■ 簾
祇園新町の伝統的建造物保存地区の二階には全部の家々にある。
見た目の美しさと共に、ほこりや強い日差しを遮ってくれるし、雨の日は湿気を吸ってくれる。
■ 洗い出し
修学院離宮の高みにある上の茶屋隣雲亭の、軒うちのそれ。
■ 出窓格子
伝統的な京町家の原型が生み出されたのは元禄年間(1688〜1703)といわれる。
視覚的に一対ルートニの構成が安定を与えるといわれ、理にあったつくりである。
■ 麻暖簾 −松前屋−
三幅の真中の一幅に大きく特徴のある文字で「御用所」、左に小さく「松前屋」と書いてある。
御用所というのは、御用達とは違い、直接御所のなかで賄いの仕事に携わった店のこと。
永代使用の許可をもらって以来、この暖簾を下げる。
現在、御用所、御用達の制度はない。
当主は、室町前期の創業から数えて三十二代目である。
暖簾は、店の歴史と信用までが込められている。
「暖簾」分けといって、主家の屋号をもらい独立するのが、かつては名誉であった。
人々はまた、そんな暖簾で品物を買った。
なかでも、白の暖簾は御所の御用を受けた店だけが下げた。
暖簾に書かれた文字は、代々宝鏡寺にゆかりの志津摩流。
当主が、本麻に胡粉をかけて書くのが家のしきたりだそうな。
■ 卍崩し格子 仏教書の専門「其中堂」・黄檗山万福寺・法隆寺金堂
「卍崩し」と呼ばれる意匠の格子に、足元を支える「人字型割柄」。
高欄は、いうまでもなく、法隆寺金堂のそれである。
「卍崩し格子」の意匠はまた、宇治・黄檗山万福寺の、天王殿の歩廊にも見える。
堂号の「其中」はもともと中国の古典「老子」の二十一章の一節からとられたのが由来とか。
「惚タリ光タリ 其ノ中ニ象アリ 其ノ象ヤ真ナリ」
■ 明り窓 すき焼きの老舗「三嶋亭」
明り窓はもともと外光を内に取り込む、明かり取り。
内側の空間を少しでも明るくと配慮したのが目的であった。
風通しの役割も持っていた。
外と内の空間を結ぶ接点だけに、そこには用途に応じて、さまざまな趣向が凝らされた。
窓の大小、、形、はめこむ格子の構成まで。
■ 軒吊り看板
看板の形を見ただけで人々は店で売られている商品が何であったかわかるのである。
商品の姿を形象化して目印とし、店先に掲げた看板の歴史は古い。
桃山期に見える。
盛んになるのは江戸期である。
櫛屋は櫛を、うどん屋は板の下に紙や縄のピラピラをいっぱいさげて商いの品を表した。
酢屋と同じように液体を売る酒屋は”酒はやし”といって酒にゆかり深い杉の葉を丸く束ねて軒に吊るして目印とした。
■ ちまき
祇園祭の山鉾巡行が終わると、町屋の門口に下げられた古いちまきも新しく取り替えられる。
ちまきは自らの体になぞらえて神に供え、罪や汚れを払うおまじない。
中国で生まれ、もとは米や餅を茅萓で巻いたのが原型で、茅は乳、血、地を表すという説がある。
祇園祭とちまきのかかわりは、八坂神社の祭神、牛頭天王のエピソードが知られる。
牛頭天王は天竺の祇園精舎の守護神。
日本ではスサノオノミコトにあたる。
ミコトが南海に旅したときだった。
日が暮れて、一夜の宿を土地の蘇民将来・巨亘将来の兄弟に乞うた。
この申し出を裕福な巨亘は断り、貧しい蘇民が引き受けた。
数年後、この土地を再訪したミコトは蘇民の家族に茅の輪をつけさせ、つけていないものを殺してしまった。
そしてこう約束した。
「後の世に疫病あらば、汝、蘇民将来の子孫といって、茅の輪を持ちて腰につけたる人は免れむ」
ちまきに「蘇民将来子孫也」と書いた護符がつけられている伝承である。
ちまきを門口に下げる習俗は、家に災厄がはいらないように、という願いである。
この習俗がいつごろから始まったのかは不明である。
*菓子とは違い、中には何も入っていない。笹を巻いただけ*
■ お地蔵さん
京都では八月二十四日は地蔵盆。
いつもは祠内のお地蔵さんもこの日ばかりは表に出て、子供たちと一緒に過ごす、晴れの日なのです。
お地蔵さんをおまつりする町内では大人たちが前もって、その顔に白粉をつけ、眉をひき、口紅をさし、胸に下げた前掛けも丹精を込めて縫い直して新しいものに取り替える。
染めの町では友禅を使い、織の町の西陣では金襴の織物で。
京都の町なかにはお地蔵さんが多い。
町ごとに小さな祠がある。
家々が当番になり、回り持ちで、お守りする町内もある。
その数、市内で五千体といわれる。(町名数は、このページの上「町名表示板」にあり)
地蔵盆が盛んになるのは、一説に江戸中期といわれる。
滝沢馬琴の『覊旅漫録』に情景が見える。
ただ、「通夜して酒もり遊べり」と、肝心の子供の姿が見えない。
■ 角大師
木版刷りの護符の姿はなんとも異様である。
比叡山延暦寺の中興の祖で名高い十八代天台座主の慈恵大師良源の仮の姿である。
永観三年(985)の正月入滅したので、元三大師の名で没後も崇敬を集める。
天台修験道を創設した高僧でもある元三大師には、伝承が多い。
投げる豆を箸で挟み取る奇技を演じて戒壇の修理を行わせた話から、良源に取りつこうとした中国の天狗が逆に腰骨を折られたり、閻魔庁の権現であったり。
魔界の棟梁で、天狗はすべて配下である、といった話もある。
角大師の護符の起源にはこんな伝承がある。
ある日、疫病神が良源を襲った。
彼は試みに疫病神を小指に宿したところ、激しい痛みが全身を走り、高い熱を発した。
良源は自ら降魔の姿を示し、疫病神を追っ払った。
このときの姿が、角大師の像である。
護符の習慣は古く、鎌倉時代に見える。
虎関師錬の『源亨釈書』に、
「良源は自ら鏡をとって、我像を置く所は必ず邪気を砕くといったので、像を模写して、現在はほとんどの家の門や扉に貼付ける」とある。
京都の町では、この角大師と並んで、門口には豆大師の護符も見られるらしい(私は未だ見たことがない)
袈裟を着て座った三十三体の、可愛い元三大師らしい。
序
三千院に行かれた方は、角大師の護符を目にしておられるはずです。
また、おみくじの考案者とも言われています。
魔界封じ、僧侶にも書いています。
■ 土蔵
土蔵がたて並んだ、京の町の活況は、井原西鶴の『日本永代蔵』から推測できる。
「一に俵、二階造り、三階蔵を見渡せば、都に大黒屋といへる分限者有ける」
大黒屋は呉服商善兵衛が寛文四年(1664)、室町大門町に出した、実在の店である。
店の表に俵を積み上げ、屋敷は二階建て、蔵は三階建てで、なんと大層な大黒屋だ、というのであろう。
善兵衛は元禄年間に、室町から大坂にまで進出した分限者であったそうな。
当時の町屋の造りは防火目的から高さが制限されていて二階まで。
ただ、土蔵に限り三階建てまでが許された。
裕福な商家は競って三階建ての土蔵を建てた。
そしてその三階には客間をつくった。
土蔵はまた、屋敷内の四隅に配置するのが、京風とされた。
土蔵を防火壁として、他家への延焼を防ぐためであった。
京風の土蔵は、入洛した地方の人々の目にはあこがれであった。
帰郷して、京風の蔵を建てる人もあった。
■ 牛繋ぎ
方向寺の近くにあったらしいが、確認していない。
家は○○様宅らしい。(米騒動のおこった大正七年に米屋の店をたたんで、人に貸しているらしい)
長さ四メートル、直径十五センチ、弓なりに反った栗の原木を笠木にして、三本の足の上にゆったりとわたされる。(写真等)
○○様宅は、もとは代々、井筒屋治兵衛を名乗った米問屋。
創業は嘉永五年(1852)と伝えるから、ペルリの浦賀来航の前年になる。
高瀬川に近いあたりの七条、六条筋には米問屋がならんだ。
古いいい慣わしがある。
一条 戻り橋、二条 生薬屋、三条 みすや針、四条 芝居、五条 橋弁慶、と続いて七条 米相場・・・・・。
大坂から高瀬川を上がってきた薪炭だの米だのは五条、七条の舟着場に荷揚げされた。
おかげでここには問屋が栄えた。
井筒屋はその一軒である。
牛繋ぎは舟着場から米を運んできた牛や馬を繋ぐ柵であった。
■ 煙出し
いうまでもなく家の中に籠る煙を外に吐き出す窓口。
うなぎの寝床といわれた町家の構造から生まれた、機能的な構造といってよい。
けれどもどっしりとした、その外観には、そんな役割を超えた風格さえ思わせる。
外から見る古い町屋は、ひと口に間口が狭く、二階も低い。
寛永から元禄年間(1688-1703)にかけて様式化した、造りの典型である。
しかもこの様式がなんでも、当時、間口の大きさによって決められた税金によって生まれた、といわれる。
「軒役」といって、間口三間を一軒役として一軒分の税金が取られた。
ただ、この税金も対象は間口だけ。
町屋のなかにはだから、間口を三間の一軒役にして、奥行きは二十間を超えるところもあった。
”うなぎ”の寝床の語源である。
この町屋は外観と同じように内部の構造もほぼ決まっていた。
間口をちょうど縦割りに二分する形で、片側を土間、片側を座敷に、平行して通り庭が奥まで続くといったふうに。
奥の突き当たりは奥庭であった。
長い通りの中間にはまた、おくどさんが据えられていた。
薪が燃料の炊き物では家の中に煙が籠ってしかたがない。
煙り出しが造られ、換気の役割を果たしたというわけである。
■ 真壁
壁は家の内と外との空間を分ける仕切り。
一見何の変哲もない土の平面といえばいえる。
けれども、よく見ると、そこには京都的な特徴が込められている。
壁の、ことに外の造りは、その典型である。
壁の造りは大きく「土蔵壁」と「真壁」の二つに分けられる。
土蔵壁は土蔵に見られるように柱を土で内部に塗り込めた分厚い壁で、真壁は土を柱と柱の間におさめ、柱の姿を外に露出させた壁である。
土蔵壁は古くから関東の町屋に多く、真壁は京都の町屋に多い。
土蔵壁はその姿からも想像できるようにいかにも火事に強そうである。
江戸の町では防火の意味からも流行した。
しかし重っ苦しさは拭えない。
重っ苦しい土蔵壁の町屋にくらべて、京都の真壁の町家は軽快である。
柱の素材感が壁にめりはりを持たせ、家の表情をきりりと引き締める。
そんな真壁の持つ”軽み”が人々に親しまれたのである。
この真壁、左官さんに聞くと、なかなか手間を食うらしい。
「柱と柱の間に縦横に組んだ小舞を入れ、荒縄で下地をつくらにゃならん。柱が表から見えるもんで、ええ材料をつかわなならんし・・・・・」
真壁の欠点は「ちりがきれる」といって隙間ができ、雨が入ること。
とはいえ、雨が横降りする関東と違って京都の雨はやさしい。
真壁は京都の風土と文化に合った形であるといってもよい。
■ 聖窓
聖窓 − 一体だれが名づけたのだろうか。
石組みを踏まえた、長い築地塀にかかった二つの小さな竹連子の窓。
その形が、諸国を歩いた高野聖の笈に似ているせいか。
それにしても外灯として表に掲げられたデザインは端正で精錬で、いかにも「聖」の名にふさわしい趣を持っている。
聖窓は、聖行燈として、近世の遊里の見世先に登場する。
もっとも遊里に限られた特別な窓ではない。
町なかの町家などの塀にも、明かりを点してかけられた。
暗い夜、道を歩く人たちの足下を明るくし、道案内の役割を果たしたのだろう。
■ かしき造り
糸屋町に傘いらん
つい先ごろまで、人々はこう呼んだそうである。
糸屋町は大宮の五辻から元誓願寺まで。
通りに沿って糸問屋がズラリと並んだので、この名がついた。
『京羽二重織留』にも、糸屋町は八町、の記述がある。
その活況は町のほぼ中央に位置した大宮通今出川の辻が「千両ケ辻」と呼ばれたことでもわかる。
糸商いで一日に千両の金が動いたので、ニックネームがついたのだ。
いまも糸屋町は糸問屋の町である。
町には千本格子に「かしき造り」といわれる深い庇を持った家が続く。
ごく最近まで、その深い庇に人々は店から店を回って用を足すのに、雨の日も軒伝いに歩け、手にした荷物を濡らさずに済んだというわけだ。
「かしき造り」は近世の町家に登場した庇下の造りで、「せいがい造り」ともいう。
町に二階建ての町家が多くなるにつれ、従来の一階建てのように軒先を垂木なりにしたのでは、バランスが悪い。
店構えも貧相に見える。
家全体の調和と格調を持たす意味から考え出されたのが「かしき造り」というわけだ。
正面の側柱の上から腕木を出すか、胴さしを突き出すかして、門口いっぱいに揃えて構成される。
「かしき」は「加敷」と呼ばれる和船の両舷についた船棚によく似ているところから、この名がついたようだ。
ただ「かしき造り」は町家が豪奢に見えるとあって、地方では組頭、名主の家だけに許されたとも。
京都では古くから借家であっても、つくった。
軒の深い造りだけに、その下は雨の日の、子どもの恰好の遊び場所であった。
■ 伏せ駒寄せ
町家の表に渡した長い竹の柵。
ちょうど家にもたれかかるように置かれているので、伏せ駒寄せの名で呼ばれている。
駒寄せは、家が外から傷つけられるのを防ぐ垣で、道と家の軒うちという公と私の空間を分けて仕切る境界である。
町家にとっては外に向けた表情であり、それだけに駒寄せには作る側の趣向が凝らされ、町で見かける種類も多い。
選び抜いた素材に格子の構造、垣の高低、それに移動ができるように単に置いただけのものから、桟の足を地に打ち込んで固定したの、というふうだ。
伏せ駒寄せもそんな駒寄せの一種である。
素材は真竹。
先細りが少なく、端から端までがほぼ同じ太さで、節と節との間隔の長いのが、桟として、すっきり見えるというわけだ。
孟宗竹や淡竹は使わない。
栗や欅で、桟と貫を格子に組んだ駒寄せが、どこか折り目正しさを感じるのにくらべ、竹の駒寄せはくだけた、やわらかな雰囲気を感じさせる。
構えはでしゃばったところがなくて、それでいてちゃんと自己主張している。
■ 竹垣
”立ち入り禁止”の境界というには、それは繊細で、控え目な垣である。
けれども、その低い姿勢には、素材とか大きさを越えて、垣の約束ごとを強調して訴えかける。
裏千家表門の重要文化財・兜門。
垣は、太い青竹を真っ二つに割って横に伏せ、その上に細くさらに割った竹を半円形の波形にしぼって連続させた構成である。
よく似た垣は、公園や京都御苑にも見られる。
「魚子垣 ななこ がき」の名もある。
この竹の垣が兜門につくられたのは、さほど古いことではなく、裏千家の庭を世話する「植熊」の、加藤三郎さんがつくった。
兜門はその名のように兜鉢の姿で、桧皮葺き、寄席棟造り。
代表的な数奇屋様式の門である。
それだけに、前の垣も仰々しい、出張った垣は似合わない。
素材は真竹。
年に四度、決まって取り替えられる。
新年の初釜、三月二十八日の利休忌、七月五日の精中忌、十一月十九日の宗旦忌の四度である。
加藤さんによれば
「真新しい竹の青はやはり、お見えになるお客さんへのご馳走でっさかいに」
■ 看板行灯
行灯に売り物の品を絵や文字で描いて看板としたのは古い。
元禄二年(1689)の『本朝桜隠比事』にはいろんな行灯の種類と図がともに解説されている。
屋内用は角行灯やずんどう、屋外用は辻行灯、露地行灯・・・・・。
京彫り屋さんの看板行燈は高さ1.5メートル。
裾広がりの四角柱の姿で、鎧の”錣 しころ”のように板張りした腰の上には紙張りの火袋があって「よろずほりもの」と書かれる。
行灯はもともと明かりをつけて持ち歩いた道具。
据え置かれるようになったのは、江戸前期である。
■ 聚楽壁
町家の壁の代表といえば、やはり聚楽壁である。
淡い茶褐色の土で塗られた壁である。
聚楽土は、千本丸太町あたりで得られる壁土。
名前の由来はあたりがかつて豊臣秀吉によって造営された聚楽第跡であったから。
そのやわらかな色調が好まれてか、古くから町家の壁に多く塗られた。
貞享元年(1684)に刊行された京都の地誌『雍州府誌』に、こんな記述がみえる。
「聚楽土、京師良賎の屋壁、悉く之を採用す。特に倉廩に宣しと為す。土性周密にして火災に逢うといえども、火気を入れしめず」
京都には古くから良質の壁土が出た。
鼠色の九条土、赤褐色の稲荷土、清水寺あたりの遊行土・・・・・。
良質の土は工人の技術を磨き、あわせて茶の湯が隆盛をみた環境は、町家にも配慮されたのだった。
聚楽土はその典型といえる。
縮緬のような肌をもった面は京の風土ともあって町を陰影濃い雰囲気で包んでいる。
■ 鬼瓦
「天保四年 瓦師寺本勘兵衛造之」
裏面にこんな刻印がある。
家紋の”向かい鳩”を象った、鳩居堂の鬼瓦。
鳩居堂は香と文房四宝の老舗。
創業は寛文三年(1663)。
熊谷直実の末裔の熊谷直心が薬種業として開いたのが始まり。
『詩経』の「維鳩有巣 維鳩居之」から鳩居の二字をとって堂号とした。
言い伝えによれば、鬼瓦は四代目の直恭が当時、瓦の産地で全国的に知られた京都・深草で、特に注文して焼かせた。
鬼瓦はいうまでもなく建物の棟の両端を飾る瓦。
奈良の古寺に見られるように、もともと鬼面をかたちどったが、鬼面がなくても棟の両端に位置する瓦を総称される。
意匠も時代を経てさまざま。
ことに延宝二年(1674)、深草の瓦師西村半兵衛が桟瓦を考案、瓦葺屋根が町家に広がるにつれ、デザインを凝らした種々の鬼瓦も登場した。
棟の先端で、風に向かった鬼瓦は屋根を引き締め、外からも目立つ。
それだけにこの瓦に人々は誇りと気概をこめた。
■ 物見窓
長い築地塀に、まるでまたがるかのようにしてかかった格子の窓は、町家の表造りを構成する出窓格子に似てなくもない。
けれども、窓というにはいささか大き過ぎる。
格子の向こうはまた、庭につながり、屋根の姿から独立した建物を思わせる。
■ 漆喰壁
- 昼はお日ィさんを背に塗れ、夜は提灯をかざして確かめよ
漆喰壁を塗る職人さんはかつて、親方の教えを胆に命じて仕事に取りかかったそうだ。
大屋根の下に、その白さで、家の表造りを際立たせた漆喰壁。
外からは目立つだけに、少しでも表面に凹凸があったり、ムラがあってはみっともない。
やっかいなのは、そうでなくてもツルリとした素材感が、わずかな狂いを浮き立たせるのだから、細やかな注意が必要だ。
親方の教えは見えるか見えないかのミスも許さない漆喰塗りの技術の厳しさをいったのだろう。
漆喰塗りは、いうまでもなく日本独特の工法。
建物に使われ出すのは室町中期ごろ。
それも初めは棟瓦のずり落ちるのを止めたり、隙間から雨風の吹き込むのを防いだり。
やがて、素材の強さ、美しさから武家屋敷や社寺、特定の町家の表造りや土蔵の壁面を飾るようになるのは、当然の成り行きだった。
ことに城郭の発達はその技術を高め、用途の拡大に拍車をかけた。
江戸時代前期になると、漆喰塗りの壁は町家にかなり見られるようになる。
当時の『洛中洛外図』には屋根瓦の町家の増加はさることながら、白壁の町家が多く描かれる。
どれも丁寧な仕上げで、もはや、粗壁同然といった姿は見られない。
漆喰は石灰に、麻や紙、海草を煮染めた「スサ(くさ冠に切る)」と布海苔を混ぜた壁土である。
ただ、この漆喰壁がより普及を見せたのは、川越や江戸などであった。
関東では、良質の壁土に恵まれなかったことによるのだろう。
聚楽土などの美しい土に恵まれた京都は、さまざまな壁が登場するのである。
■ つたい
「渡り六分に景四分」という言葉がある。
茶室の露地の通路に配置された「つたい」についての千利休の教えである。
渡りは用、景は美。
飛石を並べるにしても通路は何よりも歩き易さが肝要で、その上で景観の美しさが活かされるというわけだ。
たしかに、どのような意匠を凝らした露地であっても歩く人にとって不都合では意味がない。
町家の玄関に配置された、つたいもまた、微妙な感覚に裏うちされた空間といえる。
そこは住む人や訪問者が外から内へ、内から外へとうつる通路であり、さらにいえば、心の切り替えを準備する空間でもある。
外からは表通りで接してきた装いを正し、内からは日常的な身づくろいを整える場所である。
それだけに、この空間には住む人の奥深い心配りが籠められている。
■ なまこ壁
なまこ壁は土蔵などの外壁に方形の平瓦を張り、その繋ぎ目を漆喰で、蒲鉾型に盛り上げた壁だ。
『日本建築辞典』に、見える。
「なまこ漆喰、なまこ板などの略称なり。案ずるに、なまこ漆喰なる語は、なまこ餅より出でたるならん」
なまこ餅は、かき餅などにされる小口切りの餅で、なまこのように頭尾のはっきりしない形から名がついた。
漆喰で盛り上げた壁の模様がまた、この餅に似ているのが、名の由来らしい。
この壁が外壁に登場するのは江戸前期。
きっかけは江戸の町を火の海にした明暦三年(1657)の大火であった。
町には防火対策として「自今塗屋にすべし」の布令が出され、なまこ壁も生まれた。
ただ、武家屋敷の壁に限られた。
のちなまこ壁の耐久性の強さから町家の土蔵にも広がった。
■ 土蔵壁の扉
整然と町家が並んだ町通りに漆喰の白壁をのぞかせた土蔵。
そんな土蔵の壁を顔とすれば、窓や扉はさしずめ目鼻が。
町を歩いていても、美しい目鼻立ちを持った土蔵は多い。
それだけに、それを塗り上げる左官職人にとっては、腕のふるいどころであったのだろう。
扉の窓枠との合わせ部分の、何枚にもまるで角餅を重ねたような構成。
扉の内側に彫られた意匠。
それは窓と扉というだけでなく、白の壁面に造形したレリーフを思わせないでもない。
塗り籠めた土蔵に換気効果と明かりを持ち込む窓もいったん火事が起これば、もっとも弱い箇所となる。
だから、いかに小さな火の粉といえども、吹き込ませないように、頑丈に、精密に造られた。
ことに扉と窓枠との合わせ部分は閉じた時にはお互いがピタリと合って、空気の流れを完全に遮断しなければならない。
かつて職人は鏝一つで、寸分と狂いのない扉と窓枠を塗り上げたのだった。
■ 通り庭
”うなぎの寝床”型の町家スタイルが発達したのは、江戸初期である。
一説に、当時「軒役」という間口三間をもって一軒役とする課税基準が町家に制定され、それを忌避する手段が間口をひかえ、奥行きを深くさせる特徴的な町家の構造をつくり上げさせた。
”うなぎの寝床”も軒役を有利にさせる庶民の、したたかな知恵であった。
奥行きの深い町家には、当然のように細長い通り庭をつくらせたというわけだ。
通り庭は大きく分けて四つの部屋と接している。
表通りから表の間、玄関、台所、裏庭の四つで、それぞれが並列的に配置されている。
家によっては玄関が省略されているところもある。
表の間は表通りに直接、しかも同じレベルで、足下が導かれており、来客の応対の場であり、ときに自転車やバイクの置き場になる。
玄関は奥の間に招き入れる空間である。
玄関と台所との間には、中猿戸が設けられ、日常の生活空間を区切る。
台所の天井は吹き抜けで、広々とした土間を思わせ、そのまま裏庭と結ばれる。
一直線に町家の内部を貫通した通り庭。
それは単に通り庭にとどまらず、接続した部屋と関わりながら、庭として通路としての役割を果たしているのである。
住まいの見事な機能といってもよい。
■ 庇
京都の町家の庇は深い。
上京でも中京でも町家の庇は”かしき造り”と呼ばれる構造に、傘のような曲線をつけた”むくり”まで持たせて、長く伸ばしている。
京都の、やわらかな気候風土とつつましい暮らしぶりが生んだのであろう。
深い庇を持った町家は、四周を山に囲まれた自然環境に馴染み、落ち着いた町並み景観をもつくり出している。
▽ 谷崎潤一郎の代表的な作品に「陰翳礼讃」があるので、一度読んでほしいものです。
■ 長暖簾
京の三条室町(衣棚)は
聞いて極楽 居て見て地獄
お粥かくしの長暖簾
京呉服の集散地で知られた中京区室町の人たちがいまもよく口にする”はやしうた”である。
紅殻格子に虫籠窓、通り庭が深々と続いた京町家。
長暖簾は、そんな町家の前に、長々と地べたを擦るように下がった、典型的な暖簾だ。
”はやしうた”はその象徴的な長暖簾に仮託して、内に質素で慎ましい生活を閉ざし、外には旺盛な商魂を打ち出した京商人への評と読める。
暖簾の歴史は古い。
『大言海』には「もと禅家で隙間風を防ぐに用いしもの」とある。
けれども、禅が渡来する以前の平安末期、鎌倉期の絵巻に、すでに暖簾らしきものを戸前に下げた町家が見える。
ともかく暖簾の言葉が示すように、最初は「帳」「廉」と同じように風除けであり、目隠し。
商売とは縁もゆかりもなかったようである。
商いと結びつくようになるのは、やはり町家が充実をみる江戸初期から。
染色技術の飛躍的発展とあいまって屋号だの、商標、取り扱う商品だのをデザイン化して染め抜き、看板のようにも用いられた。
この暖簾の変遷は商いの形態にも変化をもたらした。
それまで揚げ棚に商品を並べていたのが、暖簾の登場によって客はそのうちに入って商いが行われるようになった。
■ 柊
町家の軒下には実にさまざまな護符が貼り付けられている。
家の内外を分ける門口を境界にして、生活の場である内部に災いをもたらす邪悪なものが侵入しないようにという、ささやかな願いの現れである。
護符に混じって下げられた、柊の枝も、災いを避けるおまじないである。
白峰神社が毎年、節分の当日に、豆と一緒に授与している魔除けの枝だ。
白峰神社は明治元年に、保元の乱で憤死した崇徳天皇の霊を讃岐の白峰から移して創建された。
境内地はもと蹴鞠と和歌の宗家で知られた飛鳥井家の屋敷跡である。
柊の魔除けは、その邸内社として奉られた地主大明神にちなんだ神事だ。
柊を挿す習俗はもともと宮中の行事で、江戸期から一般にも広まった。
柊には葉に刺があるので、鬼の目を突き、鰯は臭いで退散させようというわけである。
白峰神社では毎年、魔除けを準備する。
柊は信者が山から刈って送り、これに真っ赤な紙垂をつける。
■ から消し
半紙にくるまれた、から消しは盂蘭盆会に、この世に帰ってきた亡き人の霊を冥界に送った大文字送り火の残り炭。
山の、大の字の火床から家に持ち帰って、軒下に吊るしておくと、魔除けになると古くから言い伝えられるおまじないである。
夏の世の最後を飾るこの伝統行事を守り伝える麓の家々で、一年の無事息災を願う習俗として信じられている。
こんな話しもある。
天明二年(1782)から始まった飢餓の時だった。
送り火を守る旧浄土村は点火の危機を迎えた。
中止の噂を聞いた寺町通姉小路、鳩居堂四代目熊谷直恭は銀五百匁、金一両を送って行事の継続を支援したのだった。
援助は三年にわたって続いた。
嘉永六年(1853)浄土村で出火、点火が危ぶまれたときも割り木に金一封を贈った。
浄土村からは名物の南瓜に、魔除けのから消しが感謝の印にお返しされた。
送り火の町に伝えられるから消し −
町にとっては、それはただの魔除けのおまじないというだけでない。
人々には行事を支える気概の証ともいえそうである。
■ 紅殻格子
べんがらは、インドの地名。
傍葛刺にゆらいする顔料の名称で、いまのベンガルである。
この地から輸入された顔料にちなんで、紅殻の字が当てられて呼ばれた。
成分は、赤褐色を発色する酸化第二鉄である。
紅殻はこの顔料に、かなりの墨を交ぜ合わせて塗られた色である。
町家の表格子に、こうした紅殻塗りが登場するのは、江戸中期以降か。
喜多川信節著の『嬉遊笑覧』には、まだ「西鶴などが草子に京格子にといえるは、堅に子をあらく並べたるなり」とある。
当時はまだ、格子の材料を繊細にけずりあげる道具が普及していなかったのだろう。
その後、大工用具の発達につれ、木間返しした細い格子が組まれるようになり、あわせてその表面に紅殻が塗られたのであろう。
磨き込まれた紅殻格子には、京都人の生活と美意識が定着されているともいえる。
■ ろぉーじ
路地は「ろじ」ではない。
「ろぉーじ」なのだ。
軒を接して並んだ町家と町家との間に、深々と奥に続いた通路を、京都の人たちは、こう呼ぶ。
通路の上には表通りの二階がかぶさってのっかり、そのドンツキには家々の表札をまとめる。
表札は一、二枚のこともあれば、六枚も七枚もズラリと並んで、奥の家数を明かにしている。
家々の真ん中に『洛中洛外図』にも見える屋根付きの共同井戸が残ったところもある。
寺や貴族n邸宅が一ブロックを占めていた中世の京都の町も近世を迎えると、豊臣秀吉の区画整理で、南北の通りが増やされ、町並みにも変化が起こる。
各ブロックは、大きな邸宅に代わって、四方の表通りに面して小さな、いくつもの短冊型の町家で埋められるようになる。
けれども、この短冊型の町家も、規則正しく並んだわけではなかった。
ブロックの、真ん中に当る中心には、ぽっかりと、空き地ができた。
ここにも家が建てられ、表通りの出入りに細い通路がのばされた。
京都の路地の発祥である。
子どもにとっては、恰好の遊び場になり、八月二十三日の地蔵盆には、お地藏さんをまつって、広場にもなる。
■ 忍び返し
塀の上に組まれた槍衾の体である。
空に向かって突き上げた竹は規則正しく並び、一本一本の先端が鋭く削られる。
家の中に忍び込もうとする不届きな侵入者を、その鋭い突っ先で追い出す柵で、その構えから名もつけられたのだろうか。
見かけほど脅迫感は薄い。
柵としても、あまり強靭ではなさそうである。
大工さんに言わせると、「あまり頑丈だと、梯子やロープをかけて、逆に入りやすくなる。壊れやすく、しかも、きっちりとつくるんです」
忍び返しが泥棒除けとして町家に現れるのは、江戸前期か。
『日葡辞書』にことばが取り上げられている。
『日葡辞書』が刊行されたのは慶長八年(1603)。
その三万二千七百九十八語の一つにみえるのだから、すでに町家にかなり馴染んだ景物であったのだろう。
呼び名は別に「矢切り」「針貫き」とも。
目的は、多分に心理的効果を狙った泥棒除け。
本当に侵入者を防ぐのなら、塀を高くすればいい。
けれども、それでは家のなかが暗くなる。
風通しも悪い。
用心深さと住まいへの細やかな配慮。
忍び返しには、そんな知恵がうかがえはしまいか。
■ 平格子
「・・・・・京にのぼりて人をたずね待らんにはまぎれたる町の名、おなじような家づくり・・・・・都におくるたよりのゆきとどかぬこと多し。是を少しの案内にもなれかしと・・・・・」
江戸初期の京都案内所『京雀』の前書きに、その執筆のねらいがこう書かれている。
著者は、浅井了意。
彼がこのガイドブックをまとめた寛文五年(1665)は、町がもっとも充実をみせる元禄年間を前にして、ある整いを持ちつつあった時代である。
戦国、安土桃山期に比べて人口は倍の三十万人にふくれ上がり、やがて京都が全国でも一、二を誇る大都市に成長する前夜であった。
この了意の記述でも想像できるように、すでに町は、町家による町並みがつくられ、その町並みを特徴づけていたのが、家々の高さと格子だった。
こうした町並みが構成される背景には、家々に課せられた規制があったのはいうまでもない。
塀の高さだの、看板の様式だのに。
そしてこの規制はのちの時代にも受け継がれた。
ことに町並みの景観を決定したのは、町家のファサードをつくった格子である。
ひと口に格子といっても、様式はさまざまで、時代とともに洗練され、いろんな格子が生み出された。
平格子は平たい板の堅子をほとんど隙間なく並べ、内から障子紙が張られた格子だ。
職種に応じた格子も生まれた。
米屋格子、糸屋格子、炭屋格子がそれである。
− 完 −
[観光客の方へお願い]
京都には「門掃き」なる習慣があるようです。
毎朝、各家の前を掃除しておられます。もちろん店舗の前は店の人が掃除し、ビルの前などは社員さんがされます。
こうした光景を地元の人は子供の頃から良き習慣として身につけておられます。
煙草の吸殻、飲み物の空き缶などを道路に投げ捨てたり、白川や高瀬川に投げ込まないで下さい。