その頃の和郎は、プロのトリオに所属し、
色々なジャズを覚えた時期でした。
しかし、様々なジャンルのものを覚えるにともなって、
ひとつの疑問が生まれました。

「自分がやりたい音楽と、生活していくためにやる音楽は,全然違う。」
和郎は、一方で,そんな悩みを抱えながらも、
自分のやりたいと思わないジャンルのピアノを弾いて生計をたてていたのです。

その鬱憤は、自分のグループ「曙光」で晴らしていました。
思えば,「曙光」のメンバーは、5人とも、自分のやりたいと感じる音楽が仕事にならず、
同じ思いを味わっていたのかもしれません。
しかし、同じ思いの5人が集まれば良い音楽を生み出すかと言えば、それもまた違いました。

自分達が「やりたい」と思っているものを思い思いにやれば、
それは「自我の押し付け」にしかならず、
お客さんにとっては聴くに堪えないものだったと思います。
しかし、そんなことはその当時の和郎は知るよしもなく、
そのバンド「曙光」にエネルギーを注ぐ毎日が続きます。

練習を積み,レパートリーが出来た頃,「曙光」は、ワンボックスカーを借りて機材と人を乗せ、あちこちのライヴハウスを回っていきます。

こんなこともありました。
神戸にある「チキンジョージ」というライヴハウスでは、タイバンが条件で、自分たちの前座として同志社大学の軽音楽部のグループが出演していました。
客席は満席でした。お客のお目当ては「曙光」ではなく、その学生のコピーバンドでした。
そのとき和郎はこう思いました。

 

 



「何故オリジナルを作曲し,どこにもない音楽を、自分が一番一生懸命やっているのに、このバンドは客を集められないのだろうか・・・」

和郎がそう思うのも無理はありませんでした。
そこにきていた「曙光」目当ての客は数人しかおらず、しかもそのほとんどは、和郎が集めた客でした。
他のメンバーはほとんど何もしてくれなかったのです。

和郎は、メンバーのそんな態度に、だんだんと不満がつのっていきます。
しかし、それぞれの生活があるメンバーに対して、
「このグループにもっと熱意を注げ」、と強制することも出来るわけはありません。

和郎は、ピアノを弾き続けて様々な苦労を味わってきましたが、
この時初めて,
新たな局面での苦労を知ります。

それは、「リーダーとしての器」というものでした。

そんなはがゆい気持ちがつのっていき、
それぞれのメンバーも他のグループのライヴなどで
スケジュールが合わなくなり、
とうとう大阪でのバナナホールでのライヴを最後に「曙光」は解散してしまいます。



3年間、続けたバンドの「最後のライヴ」でした。