バンド「曙光」が解散したとき、和郎は23歳でした。
ちなみに、その後の「曙光」のメンバーの行方、

ドラマーは複数のフュージョングループを掛け持ちし、
そのうち2つのバンドでレコーディングまで行い、
自分の道を着実に歩んでいきました。

サックス奏者は関西の有名ビッグバンドに所属、
ギターはロンドンへ飛び、そこでバンドを結成。
さらに、ベーシストは、
後にジャズのメインストリームの演奏家を目指し、
現在は関西のボサノヴァ界の重鎮になりました。

それぞれが、やはり、自分の「人生の仕事」と「音楽」を切り離すことが出来なかったのです。
和郎もそうでした。

23歳の和郎は、その後ジャズクラブのオーディションを2つ受け、
不合格の通知を片手に、師匠である大塚善章さんのところへ行きます。
大塚さんは、それを聞いて、新しい仕事を紹介してくれました。

神戸北野坂の「クロス」というパブリックハウスでの演奏の仕事です。
そこでは、月に20日間の、カルテットでのレギュラーの演奏者を探していました。

日替わりのシンガーを迎え、演奏する仕事です。1ヶ月のうち、
レギュラーが出演しない10日間は、
東京から迎える有名ゲストプレーヤーが来て、
オシャレな音楽を奏でているとのことでした。

和郎は、すぐに、「ギター」「ベース」「ドラム」のメンバーを集め。
自分はキーボードを担当することにし、月に20日間,自分のカルテット
「トップシークレット」で夕方6時半から夜11時まで、演奏しました。

 

 



初めての「パブリックハウス」での仕事。和郎を驚かせたのは、
そのお店の洗練された内装、グレードの高い料理、最先端の音響機材。
そしてなんといっても、
「客層」でした。

それまで和郎が働いてきたクラブやキャバレーのお客さんと違い、
そのお店のお客さんのお目当ては、「女性」や「自分が唄う」
ことではなく
「店の雰囲気」そして「音楽」だったのです。

和郎は、若い人たちがデートコースにするこのお店「クロス」で働けることに、とても喜びを感じました。

和郎は、自分と同じ年代のお客さん達と、気軽に会話を交わしながら、
とても楽しい日々を過ごしました。
服装も今までのような、スーツにネクタイではなく、
流行のカジュアルな洋服。
それは今までの「仕事場」で味わったことのない空気でした。

しかし、和郎には決定的な不満がありました。それは、演奏する音楽が
「ジャズ」ではなかったことでした。
そのころオシャレな若者達が集まるお店では、
きまって、当時流行っていた、
「クロスオーバーミュージック」といわれる曲がかかっていました。TOTO、シャカタク、スタッフ、グローバーワシントンJr.、パットメセニー、アース・ウィンド・アンド・ファイアー・・・etc。

和郎は決してこれらのアーティストが嫌いなわけではありませんでした。
しかし、どうしても「ジャズ」がやりたかったのです。
この不満は,どんどん募っていくばかりでした。