さて、和郎の肝心の受験勉強のほうは・・・というと、
和郎は音楽教科の「ピアノ実技」「和声学」「コウリュウブンゲン」
「聴音」「楽典」には自信がありました。

しかし、和郎が音大を受けようとしたその年は、「共通一次試験」
なるものが導入された年でもありました。
和郎は5教科を必死で勉強します。

しかし、和郎の夢は現実とならず、音大受験に失敗してしまいました。
「音大にいかなくたって、ピアノを職業にすることはできる」

和郎はその後、本格的にジャズの勉強をするために、
大塚善章さんのところへ弟子入りします。
和郎が弟子入りした大塚善章さんのピアノは、和郎にとってすごく格好いいものでした。

大塚さんは、「ホレス・シルバー」というピアニストに強く影響を受けていて、当時では最先端の「ビーバップ」のリフを奏でるアーティストでした。
モダンジャズしか聴いていなかった和郎は、彼の演奏に感激して、
どうしても弟子にして欲しい、とお願いしたのでした。

弟子入りが認められた和郎、大塚先生にさっそく週1回のピアノのレッスンをお願いしに彼の家を訪ねます。

しかし、大塚先生はこう言いました。
「あせるな。月に2回のレッスン以外は自分で練習しろ。」
和郎は少し物足りない気持ちでしたが、そこでこう思いました。
「必ず大塚さんの格好いいプレイを盗んでやる・・・」

 

 



当時、関西で最も有名だった「古谷充とザ・フレッシュメン」
というバンドのピアニストだった大塚さんは、
週に3回ほどライブハウスで、演奏を行っていました。

和郎はほとんどのライヴに足を運び、大塚さんのプレイを盗みに行こうと
必死になりました。

一方、和郎は生活のための仕事もしていました。

当時「シャンソニエ」といわれるシャンソンの歌い手が出演するライヴハウスがあり、そこで和郎は歌い手の後ろで伴奏者を務めていたのです。

ジャズがやりたかった和郎、リズムやノリが違うシャンソンの伴奏をすることは、とても苦痛でした。
それでもたまにやっていて楽しかったことは、
シャンソンをジャズ流に勝手にアレンジしたこと、
それから、
「イブ・モンタン」「ジルベール・ベコー」の曲を弾くこと。

そう、「イブモンタン」「ジルベール・ベコー」は、アメリカのサウンドに影響を受けている数少ないジャズテイストの楽曲だったのです。

そしてさらに、当時どうしてもジャズをやりたかった和郎、
その鬱憤は、「スウィングショップ」というスタンダードジャズの
セミプロバンドに参加することで、晴らしていました。

このバンドは、大阪心斎橋にある「ゴーストタウン」というお店に
レギュラー出演していていました。
この店は 、桑名正博さんのお父さんが経営するライヴハウスとしても有名な場所でした。

こうして週に3回の大塚さんのライブ通い
、週に3回のシャンソン伴奏の仕事、
週に3回のセミプロバンドでのライヴ、
そしてピアノの勉強と、
多忙な毎日を送っていきます。