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浮世絵の筆禍史(2)天保十二年(1841)筆禍史メニュー
  ※者=は 与=と 江=え 而=て メ=貫 〆=締(〆そのまま使うこともあり)而已=のみ    ☆ 天保十二年(1841)<十二月>      筆禍 人情本 好色本 摘発・押収       ◎作者 為永春水 町奉行召喚・吟味        ◎画工 〈画工に関する記事は見当たらない〉       ◎板元 丁子屋平兵衛ほか 町奉行召喚・吟味    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 十八」(書物錦絵之部 第二件・p7)   (町奉行の市中取締り懸(カカ)り三廻(隠密廻り・定廻り・臨時廻り)同心の調書および摘発・押収した人    情本・好色本の目録)   〝天保十二丑年十二月     絵草紙并人情本好色本等風俗ニ拘候儀三廻調書     絵草紙并人情本好色本等之義ニ付申上候書付      市中取締懸り 三廻り    合巻絵草紙并人情本と唱候絵入読本之義ニ付、人情本之義は当十月申上候処、合巻絵草紙来春売出来仕    候分、表紙彩色摺遍数少々減候趣ニ御座候得共、格別遍数目立へり候様子共不相見候、且近年田舎源氏    氏と申小冊物も、年々出板売出申候。    人情本之義は、滑稽本になぞらへ色情之義を専ニ綴、好色本ニ紛敷淫風之甚敷、婦女子等えは以之外風    俗ニ拘り候処、読本掛(カカリ)名主共改之詮無之、追年数十篇出板差出候趣相聞候ニ付、当年迄差出候表    題并来春売出候分共荒増左ニ申上候。    〔頭注 合巻ノ表紙彩色摺遍数格別ニハ減ラズ。田舎源氏年々出板サル。人情本ハ婦女子風俗ニ拘ハル、     毎年数十篇出板サル。本年並ニ来春出板書目〕     〈同年十月、市中取締掛は、絵草紙(合巻)の表紙は墨一色とし色摺りは禁止、また人情本は婦女子の風俗に拘わるので     絶板にするよう上申していた。これを受けて、十一月、町奉行の遠山左衛門尉景元は、人情本の板木没収・絶版の方針     を固めていた。(この十月の上申書と十一月の遠山の文書は、本HP「浮世絵事典」の「う」の項目「浮世絵に関する     御触書」に所収)三廻(隠密廻り・定廻り・臨時廻り)同心の報告によると、来春売り出す合巻の表紙を見ると、色摺     りの回数は少なくなったようだが、従来とかわらず、ほとんど改善されていないという。その代表として『偐紫田舎源     氏』(柳亭種彦作・歌川国貞画)をあげている。一方人情本の方はというと、依然として色情を専らにし、禁制の好色     本に紛らわしく淫風甚だしい、これでは婦女子の風俗に拘わるとして摘発すべしとした。以下、摘発・押収された人情     本・好色本の書目〉
   天保十二年(1841)人情本・好色本摘発・押収書目    〈以下、押収品の内訳〉   ◇人情本      ◎大島屋伝右衛門(所持の板木)11点(人情本10点・艶本1点)      為永春水 7点  為永春雅 2点  鼻山人  1点      渓斎英泉 4点  歌川国直 4点  柳川重信 1点  柳川重山 1点      静斎英一 1点  歌川貞秀 1点  歌川国丸 1点    ◎中屋徳兵衛(所持の板木)1点(人情本)      曲山人作・画 1点     ◎丁子屋平兵衛(所持の板木)11点(人情本)      為永春水 4点  鼻山人  2点  狂文亭春江 1点 十字亭三九 1点      歌川国直 4点  渓斎英泉 3点  静斎英一  2点 歌川貞重  1点       静斎英秀 1点  歌川国芳 2点      〈11点中、2点は「日本古典籍総合目録」になし。1点は作・画者不明〉    ◎菊屋幸三郎(所持の板木)6点(人情本)      為永春水 3点  為永春雅 1点  鼻山人  1点  三亭春馬 1点  旭亭滝昇 1点      歌川国直 3点  静斎英一 1点  歌川貞秀 1点  歌川国貞 1点    ◎永楽屋東四郎(所持の板木)2点(人情本)      為永春水 2点      歌川国直 1点  歌川国貞 1点    ◎加賀屋源助(所持の板木)5点(人情本)      為永春水 2点  松亭金水 2点  柳亭種彦 1点      渓斎英泉 2点  貞斎泉晁 1点  歌川国直 1点  歌川国貞 1点    ◎釜屋又兵衛(所持の板木)4点(人情本)      為永春水 1点  鼻山人  1点  式亭三馬(再版1点) 不明 1点      貞斎泉晁 1点  春川英笑 1点  歌川芳藤 1点  春川英春 1点  喜多川歌麿(再版1点)     〈三馬・歌麿の再版本とは洒落本『辰巳婦言』。釜屋又兵衛は貸本屋とある〉      ◎来春出版、所持者不明 26点 〈作者・画工不明の作品数4点〉       為永春水 7点  松亭金水 4点  三亭春馬 2点  梅亭金鵞 1点  二世為長春水 1点       立亭京楽 1点  鸎斎梅里 1点  岳亭定岡 1点  滝亭鯉丈 1点  庭訓舎春泉  1点      曲山人  1点(自作・自画)       歌川国直 9点  歌川貞重 4点  渓斎英泉 3点  歌川国貞 1点  一宝斎芳房 1点      歌川国麿 1点  歌川麿丸 1点  静斎英一 1点  静斎英松 1点  梅の本鴬斎 1      青斎夏山 1点  梅児   1点     ◇好色本    ◎菊屋幸三郎 7点       歌川国芳 1点  歌川国貞 1点    ◎加賀屋源助 7点      不器用亦平(国貞)5点     渓斎英泉 1点    ◎釜屋平兵衛 8点     一妙開程芳(国芳)2点     不器用又平(国貞)2点    ◎本屋鉄次郎 1点    ◎  平助  3点     歌川豊国  1点     一妙開程芳(国芳)1点      〈町奉行の手入れは大規模なもので、人情本の押収は七板元で40点、来年出版予定が26点、好色本は五板元26点で     あった。下出、馬琴の『著作堂雑記』によると「画本中本之板木凡五車程、右仕入置候製本共に北町奉行所え差出候」     とある。天保十二年(1841)までに出版された人情本の板元とその表題名を見ると、調書上では作者名は現れていないが、     為永春水が圧倒的に多い。従って明らかに春水を狙っての内偵であった。直ちに町奉行による上記七軒の板元と為永春     水に対する吟味が始まるが、この調書に基づいて行われたのであろう。翌天保十三年二月、春水が吟味中手鎖になり、     六月六月十二日、丁子屋以下七軒の板元が過料五貫文に処せられる。(下出「馬琴日記」二月九日及び六月十五日記事     参照)その発端となったのが隠密同心によるこの調書なのであろう。なお画工の方をみると、渓斎英泉と歌川国直が圧     倒的多く、静斎英一がそれに次ぐ。(因みに「日本古典籍総合目録」によると、英泉の人情本は63点、国直49点、     英一20点である。次ぎに、来春正月(天保十三(1842)年)出版予定であった書目を見てみよう。(これが不思議なこ     とに板木の所有者不詳とある)全部で26点ある。この内「日本古典籍総合目録」が十三年刊とするのは「月の梅(春     宵月の梅)」「竹くらべ(多気競)」「錦の魚(沈魚伝)」の3点。(『改訂日本小説書目年表』は他に『初和仮名』     (梅亭金鵞作・梅の本鴬斎画)四五編を十三年刊とするが「日本古典籍総合目録」は四五編の刊年記載がない。また     「日本古典籍総合目録」は『春色梅美婦禰』四五編(春水作・国直、英一画)を十三年刊とする)天保十二年が19点     であるから3点とは激減である。この十二月の手入れによって、出版の変更を余儀なくされ差し控えたのである。翌十     四年は1点、十五年(弘化元年)はなし。かくて人情本はかつての勢いを失ってしまう。天保の改革が人情本に加えた     弾圧はかくのごとし。厳しいものであった。為永春水は翌十四年二月十四日には病死する。     一方、合巻『偐紫田舎源氏』は十三年の正月出版は叶ったものの、作者柳亭種彦の方は旗本の組頭から「高屋彦四郎     (種彦の本名)其方に柳亭種彦という者差置き候由、右の者戯いたすこと宜しからず、早々外(ホカ)へ遣わし、相止めさ     せ申すべし」(『きゝのまにまに』「未刊随筆百種」)と断筆を迫られ、その六月十九日には病死している。天保の改     革は、婦女子の心を魅了した人情本と合巻の代表的な戯作者二人を「風俗に拘わる」として葬りさったのである。また     版元にも苛酷であった。版元鶴屋は「田舎源氏」の評判を得て一時傾きかけた家をやや持ち直したが、今回の災難で     「其板を失ひ忽ち没落せり」(『きゝのまにまに』)という憂き目に遭っていた。では、好色本、つまり春画を画いた     絵師たちはどうであったのか。これがどういうわけか、明暗が別れた。翌年六月の史料参照〉    ◯『著作堂雑記』244/275(曲亭馬琴・天保十二年(1841)記事)   〝天保十二年丑十二月、春画本并並に人情本と唱へ候中本之儀に付、右板本丁子屋平兵衛、外七八人並中    本作者為永春水事越前屋長次郎等を、遠山左衛門尉殿北町奉行所え被召出、御吟味有之、同月廿九日春    画本中本之板木凡五車程、右仕入置候製本共に北町奉行所え差出候、翌寅年正月下旬より、右之一件又    吟味有之、二月五日板元等家主へ御預けに相成、作者春水事長次郎は御吟味中手鎖を被掛、四月に至り    板元等御預御免、六月十一日裁許落着せり、右之板は皆絶板に相成、悉く打砕きて焼被棄、板元等は過    料銭各五貫文、外に売得金七両とやら各被召上、作者春水は、改てとがめ、手鎖を掛けられて、右一件    落着す〟    〈貴重な馬琴の証言である。天保十二年十二月、人情本の第一人者・為永春水と丁子屋平兵衛ほか七八人の板元が、町     奉行へ呼び出され、そのまま吟味に入った。二十九日には、春画本(好色本)と中本(人情本)の版本及び板木、車     にして五台ほど押収された。一件落着は翌十三年六月〉
   ☆ 天保十三年<二月>      筆禍 人情本〈昨年末の好色本・人情本の押収に続いて、為永春水と板元七八名に対する取り調べが継続中〉       ◎作者 為永春水    吟味中手鎖 家主預け       ◎板元 丁子屋平兵衛等 吟味中   家主預け    ◯『【未刊史料による】日本出版文化』第三巻『江戸町奉行と本屋仲間』p75   (「第三章 江戸町奉行の出版行政」)   〝申渡                       神田多町一丁目 五郎兵衛店 為永春水事 長次郎    其方儀絵本草紙の類、風俗弘為に不相成、猥カ間敷事又は異説等書綴り作出し候儀、無用可致旨、町触    ニ相背、地本問屋共より誂へ候とて、人情本と唱候小冊物著作致、右之内ニハ婦女の勧善にも可相成と    心得違致、不束之事共書顕し、剰へ一へ遊所放蕩之体を絵入に仕組遣し、手間賃請取候段、不埒ニ付、    手鎖申付ル      天保十三寅二月〟     ◯『馬琴日記』第四巻 ④317(曲亭馬琴・天保十三年二月九日記)   〝丁子屋等、中本十色絵本板元、此節御吟味中、組合家主預けに相成候由、申来り候間、心許なく存候て、    右使いの者に尋候処、中本作者越前屋長次郎事、為永春水は、四五日以前、手鎖掛られ、家主預けにな    り、金水等は未だ御沙汰無之〟    〈人情本の板元・丁子屋平兵衛は家主のもとに監禁されて依然として吟味の最中。丁子屋は馬琴作の読本『南総里見八犬     伝』の版元でもあったから、馬琴にとっても人ごとではなかった。使いの者に聞くと、為永春水の方は、二月上旬手鎖     をかけられたまま、これまた家主のもとに監禁状態の由。それを聞いて馬琴は「金水等は未だ御沙汰無之」と不審めい     たことを洩らす。金水は松亭金水で為永春水に次ぐ人情本作者。沙汰が及んでしかるべき者に沙汰がないとは、全体ど     ういうことなんだと、馬琴は言いたげである〉    ◯『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-2 ⑥12(曲亭馬琴・殿村篠斎宛・天保十三年二月十一日付書翰)   〝旧冬より中本春絵本一件、旧冬大晦日ニ右板を五車程町奉行ぇ差出し候儘、暫御沙汰無之候所、当正月    下旬に至り、右一件の者不残召被出、丁平初中本春絵本の板元六七人、組合家主ぇ御預ケニ相成、中本    之作者越前屋長次郎事為永春水ハ、御吟味中手鎖ニ成候由聞え候。(中略)    春水門人金水、其外鯉丈抔云ゑせ作者、中本綴り候者有之ども、夫等ニは御構なく、春水のミ召被出、    御吟味の由聞え候。春絵本ハ中本より猶御吟味厳敷候間、国貞抔も罪可蒙哉といふ噂聞え候。(中略)    種彦も御支配より戯作ヲとゞめられ候事、愈実説の由聞え候。『田舎源氏』『諸国物語』等之板元鶴屋    ・山本抔、大ニ力を落し候ハんと存候〟    〈天保十二年大晦日、町奉行は中本と好色本(春本)を大量に押収した。翌十三年正月下旬、丁平(丁子屋平兵衛)など     の板元は家主に監禁され、作者の為永春水は吟味中から手鎖に処せられる。だがなぜか、松亭金水や滝亭鯉丈たちは依     然お構いなし。画工への影響も取り沙汰された。人情本より春本の方が吟味が厳しいから、歌川国貞の方はどうあって     も咎を免れ得ることはできないだろうと。また『偐紫田舎源氏』の作者・柳亭種彦が小普請支配より戯作を止められた     という「実説」なるものも飛び交っていた〉    ☆ 天保十三年<六月>      筆禍 合巻・人情本・好色本〈天保十二年末の絵草紙(合巻)・人情本・好色本一件落着〉       処分内容 絶板・版本破棄・焼却            ◎作者 為永春水 手鎖五十日             ◎画工 歌川国芳 過料五貫文            ◎板元 丁子屋平兵衛等七名 過料五貫文 板木師三名 過料五貫文       処分理由 風俗紊乱    ◯『馬琴日記』第四巻 ④318(曲亭馬琴・天保十三年六月十五日記)    〝丁子屋中本一件、去る十二日落着致、板元七人・画工国芳・板木師三人は、過料五貫文づゝ、作者春水    は、咎手鎖五十日、板木はけづり取り、或はうちわり、製本は破却の上、焼捨になり候由也・丁子屋へ    見舞口状申入候様、申付遣す〟    〈歌川国芳過料五貫文。為永春水手鎖五十日、板木は破砕、本は焼却。二月頃、咎は免れ得ないだろうという噂の立った     歌川国貞はお構いなしであった〉    ◯『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-6 ⑥30   (曲亭馬琴・殿村篠斎、小津桂窓宛・天保十三六月十九日付書翰)   〝中本一件落着之事、六月十五日、清右衛門罷越、実説初て聞知り候。九日より三日うちつゞき御呼出し、    御取しらべニて、十一日ニ落着致候。板元七人并ニ画工国芳、板木師三人ハ過料各五〆文、作者春水ハ    尚又咎手鎖五十日、板木ハ不残手斧にてけづり取、或ハうち砕き、製本ハ破却之上、焼捨被仰付候。是    にて一件相済候。右は北奉行所遠山殿御かゝり御裁許に候。春画本も右同断の由ニ候。寛政のしやれ本    一件より、板元ハ軽相済候。春画中本之画工ハ、多く国貞と重信ニ候得ども、重信ハ御家人、国貞ハ遠    方ニ居候間、国芳壱人引受、過料差出し候。春画之板元ニ成候板木師、并ニ中本之板木師ハ、こしらへ    者ニ候間、過料ハ丁平差出し候半と存候。右一件ハ相済候へ共、又丁子屋とかり金屋を南町奉行へ被召    出、当春板元無名ニて売出し候、ドヽイツぶしの中本之御吟味有之由聞え候。是ハ去年中、深川遊処ニ    て男芸者之うたひ候、ドヽイツといふさハぎ歌流行ニ付、春水夫ヲ集メ、深川芸者之名ヲ記、画を英泉    ニ画せ、中本ニ致、板元無名ニて売出し候所、よく売候由聞え候間、此御吟味ニて、丁子屋・雁がね屋    被召出候由聞え候へ共、是ハ風聞のミにて、虚実ハ未ダ不詳候〟    〈昨年末の押収から始まった中本(人情本)の一件は、六月十一日に決着が付いた。遠山北町奉行の裁許で、作者為永春     水は手鎖五十日。画工歌川国芳は過料五貫文。春画と中本の画は歌川国貞と柳川重信の手になるものが多いが、「重信     ハ御家人、国貞ハ遠方ニ居候間、国芳壱人引受過料差出候」とあり、なぜか重信と国貞はお咎めがなかった。御家人と     亀戸居住は江戸町奉行の管轄外ということなのであろうか。釈然としない。春水編・英泉画の「ドヾイツぶしの中本」     とは「日本古典籍総合目録」に『度々一図会』とあるものであろうか。この板元らしい丁子屋・雁金屋が召喚されたよ     うだが、これも風聞のみで真偽不明。柳亭種彦作・歌川国貞画・合巻『偐紫田舎源氏』については、天保十三年の項を     参照のこと〉    ◯「人情本春画本数種」(宮武外骨著『筆禍史』p138)   〝為永春水の著作なり、その題号は未だ詳かならず、『春色梅暦』なりといふ人あれども、同書は天保三    年四年の出版なるを以て、その時代違へり、春水は、春色辰巳の園、春雨日記、春色恵の花、春色恋の    白波、梅の春、春告鳥、春色籬の梅、春色田舎の花、春の若草、春色玉兎、春色霞の紫、春の月、春色    花見舟など題せし人情本といへるものを数多く公刊せしめたりしが、いづれも誨淫小説にして、其名の    如く春画好色本に似たる卑猥の作のみなりし(秘密出版の春画好色本も亦多し)、斯くの如き風致に害    ある著作を専らとせしがため、其最後天保十二年の出版にかゝる「梅暦再開」といへる『春色花見舟』    及び春画本にて捕へられたるならん、『著作堂雑記』に曰く     天保十二年丑十二月、春画本並に人情本と唱へ候中本の儀に付、板元丁子屋平兵衛外七人、並に中本     作者為永春水事越前屋長次郎等を、遠山左衛門尉殿北町奉行所え召出され、御吟味有之、同月二十九     日春画本中本の板木凡五車程、右仕入置候製本共に北町奉行ぇ差出候、翌寅年春正月下旬より右の一     件又御吟味有之、二月五日板元等家主へ御預けに相成、作者為永春水事長次郎は御吟味中手鎖を掛ら     れ、四月に至り板元等御預け御免、六月十一日裁許落着せり、右の板は皆絶版に相成、悉く打砕きて     焼棄られ、板元等は過料全各五貫文、外に売得金七両とやら各召上られ、作者為永春水は改めてとが     め手鎖を掛けられて、右一件落着す    版木五車程といへば、其数多しといへども、春画本等を合せての事なれば、人情本は二三編の版木に過    ぎざるべし、『法制論簒』に拠りて、春水に対する申渡書を左に録す       神田多町一丁目五郎兵衛店    為永春水事    長次郎     其方儀絵本草紙の類風俗の為に不相成猥ヶ敷事又は異説等書綴り作出し候儀無用可致旨町触に相背地     本屋共より誂へ候とて人情本と唱候小冊物著作致右之内には婦女の勧善にも可相成と心得違致不束之     事ども書顕し剰へ遊所放蕩之体を絵入に仕組遣し手間賃請取候段不埒に付手鎖申付る    〈この申し渡し書は天保十三年二月のものと同じ〉      〔頭注〕其人格と家庭    為永春水教訓亭号す、文政中人のために吾(馬琴)旧作の読本抔を筆削し、再板させて多く毒を流した    れば、実に憎むべき者なり、性酒を貪りて飽くことを知らず、且壬寅の秋より人情本という中本一件に    て、久しく手鎖を掛けられたる心労と内損にて終に起たずといふ、子なし養女一人あり、某侯へ妾にま    いらせしに近ごろ暇をたまはりて他人へ嫁しけるに、其婿強飲粋狂人にて親の苦労を増たりといふ(著    作堂雑記)    〈手鎖刑の原因とされる天保十二年の『春色花見舟』とは翌十三年にかけて出版された『春色梅美婦禰』の誤記であろう     か。画工は歌川国直静斎英一である〉
   以上、天保十二年の「筆禍」終了(2013/08/28)
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