Top        『浮世絵』(雑誌)大正四年        その他(明治以降の浮世絵記事)   出典:『浮世絵』(酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)六月創刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)  ◯『浮世絵』第一号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「江戸の錦絵店」小島烏水(4/21コマ)    江戸の錦絵店 小島烏水著   ◇「浮世絵師掃墓録(一)」渓斎英泉 荘逸楼(16/21コマ)   〝 渓斎英泉 姓は池田 名は義信 通称善次郎と云、池田環山の子 江戸に生る 函春楼北亭、一筆庵    可候の別号あり、幼少の頃 狩野白珪斎の門に入り 錦絵・草双紙・羽子板・行燈・紙鳶(たこ)に至る    迄画く 居を替る癖、其他奇行多し 一時狂言作者篠田金治の門に入り 千代田才一と云ふ 嘉永元年    八月廿六日(又七月廿三日)没す 年五十九歳と云ふのが、諸書に記してある伝記の概略である?。所が    先日墓地へ行つて没月日の相違を発見した。それは嘉永元年七月廿二日でもあつた。墓所は府下中野在    杉並村字高円寺の禅宗福寿院(四谷箪笥町より移転)で 道案内を云へば、中野停車場下車(以下、福寿    院までの道筋 省略 墓石)差渡し六尺許りの細長い台石に三基の石碑が建つて居る。中々立派なもの    でその中央の      嘉永元戊申七月廿二日  渓斎池田英泉之墓      文久三癸亥四月十九日  渓林妙声大姉     と記してあるのがそれで、向つて右側面が「俗名善次郎池田義信」左側面が「色どれる五色(ごしき)    の雲に法(のり)の道こゝろにかくるくまとりもなし」裏へ廻ると      春 かへる雁はなを見すてゝ名残哉      夏 蚊屋こしに浮世の月を見果てけり      秋 世の業も秋をかきりや気草臥(きくたびれ)      冬 石塔の下やことしの冬こもり    四季の自制が彫り付けてあつて 何時死んでも融通の付くようになつて居るなぞは、一寸洒落て居る〟   ◇「役者絵の順序」あふぎ生記(梅堂豊斎(当時六十八歳)翁談 聞き書き)(16/21コマ)   〝 私が亀井戸の師匠(三代豊国)の門に這入つたのは、十五の年で師匠が逝(な)くなる三年前、文久二年    の事でした、師匠が逝くなつてから、三世国政から二世梅蝶楼国貞になつた人に就いて修行し、四世国    政から三世香蝶楼国貞になりました。     亀戸の師匠は、本名を角田庄蔵と云つたんですが、後に名を省(ママ)造と改めました。御存じの通り国    芳と丸で肌合が違つて居たんで、貯蓄も充分出来たので、自分ぢやァもう筆を採らない積りで、亀戸井    へ隠居をしたのですが、方々から頼まれのでそうはいかず、矢張画く事になつたんです     一蝶を崇拝して 其頃英一蜻と云ふ人に就て、一蹛(たい)と云ふ号がありました、だから一寸下廻り    の捕丁(とつたり)なぞを画くのに頭から手足なぞに何処(どつか)しら一蝶風の所があります。     似顔画を画く順序ですか、それは先づ中村屋(いちちようめ)なり市村座(にちやうめ)なりが、狂言の    世界が極(き)まると、作者が画組(ゑぐみ)の下書(げしよ)を亀井戸(豊国)へもつて来る、大概一狂言に    七八枚位であります。これが師匠の許へ届きますと、今度はこれを持たして古組の所へ見せに廻します。     此古組と云ひますのは、錦絵の版元の事で、昔の錦絵問屋(とひや)は株になつて居たもので、江戸に    十一軒あつてこれを古組と称しました、其後職人の手を明けさせるのが気の毒と云ふので、此古組の内    から別に仮組と云ふものを七軒出しました。     その古組へ見せに行くものが、小僧の役で方々持つて歩行(あるく)のでどうしても一日かゝります、    朝宅(うち)から天保銭一枚呉るのを持つて、昼飯時(じぶんどき)に「しがらき」で三十二文のお茶漬を    やつて、跡の残りが焼芋と云ふような訳になるのです。     扨(さて)古組へその下書を持廻つて、こつちの店ではこれ、あつちの店ではこれと、それへぢかに印    をつけて貰ひます、仮令(たとへ)ばそれが忠臣蔵なら、コリャァ皆佳い所を取つて仕舞つたな、三段目    に仕ようと思つたら山口屋に取られたから仕方がない 藤慶が六段目を取つて居るが腹切だから、其奴    (そいつ)を避(よ)けて身売りの所をやつて貰(もら)をふ、又平野屋ぢやァ七段目か ヂャァ此方は九段    目にしよふ、と云つた具合に 決して同じものを注文しない、こゝは昔は義が堅かつたので、この狂言    にしろ、国芳の武者にしろ、片々で一ノ谷を出せば、一方では曽我の討入と云つたように、いくら他で    評判よく、売れるものでも、それを真似すると云ふ事をしなかつた。     それからこの注文に、見立(みたて)と中見(なかみ)との二つがあります、見立と云ひますと、型もの    と称する極り切つた狂言で、着附け万端在来の型で宜(い)いと云ふ事で、これを見立と称します、これ    は開場前(あくまへ)に取りかゝれますが、中見と云ふと、新狂言又は型ものにしろ、鈴ヶ森の権八は今    度はお定まりの黒の着附でなくつて、鴬茶でやるからなぞと、云ふと其芝居の開場のを待つて、その着    附其他を見て書き止める、これを中見と云ひます、此中見の役が、見習、中僧、時に依つて師匠も出掛    けます、芝居の方ではちやんとサガリが取つてありまして 大概さじきの三枚目位ひです、こゝで新狂    言なら鬘から着附、大小柄糸の色まで書き止めます、それで分らぬ時は楽屋迄行つて見るのです、です    から、中見となると、どうしても開場てから、十日目位ひでないと売出せません。     若(もし)上方役者なぞが下つて来ると、人が附随(つい)て師匠の所へ土産物やら包物なら持つて挨拶    に参ります、師匠は応対をして居る内に 其人の特長を見て置いて、此人に目隈を入れればコウとか、    アヽとか工夫をして書上げます、名題下なぞも、画面の中に入れて貰へば名誉にもなるし、名も随つて    知れますから、是等の附届けも随分ありました。〈「名題下」とはいわゆる看板役者を引き立てる役者〉     さて前に言いました、見立なり中見なりで、原図が出来ますと、是を名主の所へ持つて行つて検印を    捺して貰つて夫から彫屋へ廻して、墨板(すみはん)が出来上る、それを見て色ざしを附けてやる、これ    の校合摺が又来て、愈々よしとなつて始めて摺上げとなるのです〟   ◇「遠月堂の似顔画辻占」扇松堂(17/21コマ)   〝(弘化~明治初年迄、浅草見附外・遠月堂の辻占せんべい)これへ似顔辻占(彩色七遍摺)を折つて挟み    込んであります、画は亀戸豊国で、後には芳幾が画きました(中略)なにしろ、豊国が御贔屓の役者を    画いたと云ふ所からして、当時の花柳界は勿論、町家の娘達、さては奥女中等に非常に歓迎されて、銀    釵(ぎんかん)の足で一寸(ちよつと)つまみ出して、オヤ八代目、と懐中鏡の間へ丁寧に蔵(しま)ふもの    があるかと思ふと、アラ冠十郎(ぐそくや)とは、にくいノーと、無慙に引破(ひきさば)いて捨てるなぞ、    当時の状態がこの一枚にあり/\と分るようです。    〈「銀釵」とは銀の釵(かんざし)。「アラ冠十郎」は敵役・老役の嵐冠十郎(屋号・具足屋)〉    (安政中頃~明治初年迄、大伝馬町・梅花亭森田の辻占せんべい)     煎餅の形は分りませんが、中へ入れた辻占は、遠月堂版の縦長に対して、これを横長にして、左右二    つ枠にし、左へ芳幾の似顔、右へ其俳優の俳句を、一寸した俳画をあしらつて、梅素玄魚が書きました    が、あんまり器用すぎて、豊国のぼつてりとした味はひには、遠く及びませんでした。    (文久頃~明治初年迄、八丁堀・清真堂の辻占せんべい)     辻占画は矢張(やつぱり)芳幾(中略)春亭京鶴(清真堂の別号)の報條(ちらし)に「秀句を時の辻占に、    買い手は朝からくる/\と巻納めたる煎餅のふうじめ見する役者の似顔」なぞと書いてある    (明治十八年、久松座が千歳屋と改称した時、座の裏通り・翠月堂の「新狂言錦絵入り辻占せんべい」)     この似顔を描いたのは、今現存して居らるゝ梅堂国政翁です、しかし此翠月堂も千歳座焼失後、麻布    辺へ引移つて、煎餅形屋になつたと云ふ事で、こゝに至つて江戸名物の似顔辻占煎餅も、其跡を絶つた    訳です〟      ◇「原版と復刻との識別」無署名(18/21コマ)   〝 版画の復刻即ち再版ものと称するものは、明治廿五年頃から行はれて居る、大坂にて復刻ものをやつ    たのは、それより少々後の事であつたが 東京より技が劣つて居る。何しろ一枚何百円と云ふものも、    再版では僅かに四五十銭にて獲られると云ふのであるから、一見して原版、再版の区別はつくが、さて    これが自然の時代がついてくると、永年取扱つて居る売人でさへ一寸識別に苦しむ事がある。     だがそれは表面(うはつら)から見た事で、苟くも其道の者又は眼識の超えた人ならば、いくら巧みな    時代がついて居ようが一見して直ぐ分る、今誰にても容易に区別の出来る鑑識法を述べて見ようと思ふ。     先づ第一には色彩を見る事で、たとへば原版二度摺に対し、再版はそを模擬する為に五遍乃至(ないし)    六遍もゑのぐをかけて居るが、それでも遠く元摺に及ばない、試みにこれを手にとつて透して見ると一    番よく分かる、僅かに二度摺の原版が濃くつて、五遍六遍と手数をかけた再版の方は尚未だ淡(うす)い、    殊に再版の紅は徒らに時代をつけようとする為に、紅に墨を交ぜ、其他の色で原色を殺して、鮮やかに    行くものを、煤けたものにして居る、風景画の款傍(くわんぼう 俗に外題)によくこの紅を用ひてある    が、原版の方はコツクリとした真の紅色が現れてい居るに反し、再版は今云つた煤けた色をして居るの    で、これで大抵識別(みわけ)がつく。     それから人物画と風景画とは、人物の方区別が容易である これは赤、紅、紫なぞと云ふ 今は到底    現はせない色彩が多く用いてある為で、風景画の方は概して色彩が淡泊丈けに一寸識別に困難なところ    がある。     次に墨版を見る事で、原版と必ず一二ヶ所違つた個所(ところ)を発見する、それは再版を興すに 先    づ原版を写真木版に起す時 どうしても微細の点を彫り落すに処から来たすので、彼の広重の木曾の雪    (三枚続)に、山間の遠山が落ちて居る等、尤も例証すべきところで、人物ならば顔の輪郭に注意をして、    殊に毛彫と来ては到底原版の足元へも及ばぬ、惣じて彫が昔のコツテリと厚味のある味はひに反して、    今のは何となく薄ぺらである。それから紙質であるが、これは多く手掛けて居るものでないと一寸分ら    ない、原版は手に取つて透して見ると、一種云ふに云はれぬ紙も味はひと云ふものがある、これは筆に    も口にも述られない、こゝに至つて紙質を見ると云ふ事が一番難しいと思ふ。     また巨細に話せば中々あるが、先づざつと以上の如くで 要するに識別法は左の方法によれば 概し    て間違ひないものである。      第一 色彩  第二 墨板  第三 紙質     序に云ふが、此再版もので茶がかつた時代をつけたものは一種嫌味な感じを起して閉口だが、ところ    が巧な再版ほどこう云ふ時代な色をつけてある、恰(まる)で山出しのハイカラが 鼻の先斗(ばか)り白    粉をコテ/\塗つて歩行くのと同じ事で 感心したものでない、そこへ行くと、こんな嫌味な時代をつ    けない、所謂生地で行く復刻ものは、前に云つた通り 写真木版でやつたのであるから、原版と殆ど大    差はないのに 第一価格も低廉、こう云ふ所からして、標本として所蔵する事が一般の傾向となつたよ    うだ(次号に続く)〟   ◇「よもやま」     似顔絵 第六集新富座忠臣蔵を売出したり 筆者吉田永光同永昇 五枚一組 金三十銭 発行所は小    伝馬町にしき画会〟  ◯『浮世絵』第二号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「二代目豊国は国重か豊重か」小島烏水著(3/24コマ)   〝二世豊国は国重にあらずして、豊重なるべし〟〈以下、烏水はその理由を四点あげる〉    1初代豊国の門人は、国貞・国直のように「豊国」の「国」の字を頭に戴く、ところが豊重だけは「豊」     を頭に戴く、これは豊広の門人が広重・広昌のように「広」の字を頭に戴くのに対して、実子金蔵だ     けは「豊清」と「豊」の字を戴く例と軌を一にする。豊国と豊重との関係は豊広と豊清と同様、父子     のような特別な縁があると思われること。    2ストレンジ著『日本の色刷』(大正二年刊)所収の役者絵に「豊国伜豊重画」の落款があること    3文政十一年の「豊国先生埋筆之記」に「二代目豊国社中」として、国富・国春等とともに「国重」の     名があることから、国重と二代目豊国とは別人であること。    4『浮世絵師便覧』や『浮世絵備考』に「国重 喜斎と号す 一世豊国門人」とあること    〝決論すれば、豊重は一龍斎にして、国重は喜斎なり。二代目豊国は豊国の伜と署名せる一龍斎豊重が     署名したるものにして、師の妻に入夫云々は、口善悪(くちさが)なき人の浮説に過ぎざるべし。      併し、ここに折衷説あり、宮武外骨氏編『此花』第十一枝〟   ◇「浮世絵百種(二)鞘絵」考古洞著(9/24コマ)   〝 鞘絵は明和の初年頃 和蘭から渡来したもので、始め京都より流行つて江戸に及ぼしたので、明和安    永時代に旺んに行はれて、舶来画のみではない、我浮世絵師が種々の姿を描いて売出した、天保頃には    早や廃れたとあるが 同時代に渓斎英斎が描いたのを、三村竹清氏が所蔵して居られる所を見ると、未    だ其頃でも僅かに命脈を保つて居たと思ふ。(以下略)     先づこれを見るには(中略)下の◯形の所へ蠟塗の刀の鞘を立てゝ 側面(わき)からこれを見ると、    男が木を挽いて居るのが映るので、これは鞘と限らぬ、ビール壜(びん)でも、茶の罐でも都て光沢があ    つて平面のものでなければよいのである〟   ◇「千社札と浮世絵」扇のひろ麿(13/24コマ)   〝 浮世絵として納札(千社札)に署名したのは、自分の見た所で古いと思つたのは、秋月等琳であつた。    これは文化~文政時代で、其頃玉渓と云ふ人が「東海道五十三次」を二丁札で五十五枚揃ひを描いた、    此玉渓は伝が詳(つまびら)かでないが、或は岡田玉山の門人ではあるまいか、姑(しばら)く疑ひを存し    て置く、天保となつて渓斎英泉と北斎門人の北僊が描き出した、この人は画桂老人、卍斎と云つて、画    風は師の北斎に極似(こくじ)して居る、別図に出した「笑ひ上戸」が即ちそれである。     天保~嘉永時代は色彩も二三遍乃至(ないし)五六遍位ひの淡彩だつた、安政二年大地震後から所謂世    直しと云つて 一般に金廻りが能くなつて 殊に此連中が八分職人が多かつたので、これへ落ちる金が    少なからぬものであつた為 随つて納札交換会の開催も盛んなる事、月に五六回の多きに達した。其度    毎(そのたびごと)に各自意匠を競つて出した札は、彩色十五六遍から廿余遍摺位ひまであつて、殆んど    千社札をして錦絵化したと云つても遜色のない程で、此時代の筆者は云ふまでもない歌川派を以て占め    て居るが、流石に御大名と云はれた三代豊国は御免を蒙つたか一枚も見当らぬ 随つて門下もあまり書    いて居ぬ、只二代目梅蝶楼国貞が深川の梅春連(主催梅の屋春吉)に委嘱されて 似顔絵を描いたのと。    豊国没後 慶応の末から明治初年にかけて、国周、国輝、国峰が少し斗り描いた丈(だけ)である。     そこへ行くと、べらんめえの国芳は、門下全部を引提げて倶利伽羅(くりから)もん/\の兄イの背中    へ張りつけたような、宋朝水滸伝や尼子十勇士、さては八犬士、四十七士等を連札として描き捲つて居    る、こゝいらは豊国と国芳の性格が、自ら知れて面白いと思ふ、今文化時代から慶応末年迄の筆者を並    べて見ると、      等琳  玉渓  北僊  英泉  広重 二世広重 三世広重 ◯玄魚 ◯福新  国芳      芳艶  芳綱  芳幾 ◯芳兼  芳藤   芳盛   芳年  芳員  芳宗  芳雪      芳虎  芳春  芳景  芳辰  芳富  ◯芳豊   艶長  艶政  国貞  国周      国輝  国峰  歌綱  是真  狂斎   綾岡   光峨     右の内、◯印の、玄魚、福新、芳兼、艶豊の四人は筆耕を兼ねたので、玄魚は傭書家として名をなし    た梅素亭玄魚、福新は両国の扇子(あふぎ)屋で小杉斎と云つた、芳兼は竹内梅月、万字斎田てうと云つ    て 現今彫刻家の名手竹内久一翁の厳父である。艶豊は元多町の八百屋だつたので 通称市場豊と云つ    た、ちから文字とかぬり文字とか云ふ所謂撥鬢的の字は、玄魚(前名田キサ)と田てうの二人が殊に勝れ    て居た。     次にこれに携さはつた彫師と摺師とを挙げると、頭彫の名人たる、横川の彫竹・松島町の彫政、筆耕    彫の名手たる浅草の彫安を始め 彫辰・彫常・彫徳・彫富・佐七・兼吉、片田の彫長等で、此内彫政と    彫安は文久時代で腕はすばらしかつたが、懶(なま)けるのが疵だつた。摺師としては、中橋の不落斎、    堀田原の江ぎん(江崎屋銀蔵)・駒形の錦好斎・本定(ほんさだ)等であつた〟     ◇「亀井戸豊国の作画料」無署名(15/24コマ)   〝 三代豊国の潤筆料について、小島烏水氏は『浮世絵と風景画』に春色三代噺を引いて「一枚十匁、三    枚つゞき二百疋が通例で御座ります」と これは落語の本だから実際を書いたのか、噺の下げに都合の    いゝやうに書いのか解らなぬが」と断わられて載せてある、石井研堂氏の『雅三俗四』には「二代豊国    (五渡亭)の三枚つゞきの錦絵は画料は三分なりしと云ふ」と出て居る、二百疋は五十銭、三分は七十五    銭である、先づそこいらであつたらう〟     ◇「浮世絵師掃墓録(二)」豊原国周 荘逸楼(17/24コマ)   〝 近世似顔絵の名手だつた、豊原国周は天保六年の生れで、江戸京橋五郎兵衛町の大島屋と云ふ湯屋の    二番子息、本名を荒川八十八と云つた、幼少の時から絵が好きの所から、四日市に近春と云ふ羽子板の    弟子となり、面相書きとなつた、で重に数寄屋河岸の羽子板屋明林堂の仕事をして居たが、後三代豊国    の門に入つて国周と云ふ名を授かり其衣鉢を伝へ、明治の豊国と云はれた人だが、妻を取替へるのと、    移転数きと云ふ妙な癖があつた。     女房を取替えた数を 或人が聞いたら四十人迄は分つたが、其先は分らないと云つた、連添ふ当人が    分らないと云ふに至つては惘(あき)れざるを得ない、それから引越した数だが、これも北斎の九十度に    殆ど遜色のない、一生涯八十三度の多きに達して居る、今日移つて来てどうも居心の悪い家だなと思ふ    と、直ぐ翌日他へ移転(ひつこし)て仕舞ふ、甚しい時は一日の内に三度も移転した。荷物を下さない内    に厭になつて、そこへ車を置いたなり、他(わき)の空家を探すと云つた風だから、三度目には日が暮れ    て、もふ一度引越そうとしたのを思ひ止まつたと云ふ話しがある。     今一つは酒の上が悪かつた。飲むと前後の差別が無くなつて暴れる、醒めての上の御分別で、いつも    後で悔んで居た 朋輩だつた梅堂豊斎翁などに、今日は梅(ばい)さん(梅堂の略称)少し懐中都合が悪い    から二合でおつもりにしよう、二合になつたら一寸そう云つておくれ、イヤ大丈夫 怒るなんて事はな    い 宜(いゝ)かへ頼んだぜと 約束をして飲始める、ところがこの二合と云ふのが一番いけないところ    で、ヲイ二合だよと注意をすると、ナニ二合がどうしたんだ、止めろ、ナニが止めろだ、うぬが銭でう    ぬが飲むのに止めろとはなんでへ、ビク/\するナへ、江戸ッ子だ、なんて夫からモウ乱痴気なし、ガ    ブ/\やつつける、翌(あく)る日になると、梅さん あれ程頼んで置いたのに、スツカリ羽目を外しち    やたんで仕様がねへぢやねへか、又一かせぎ仕なくちァ追付かねへ等(など)と云ふ事が応々あつた。     生粋の江戸ッ子肌で、市川団蔵(其頃九蔵)の弟子に名題下で団六と云ふものがあつて、年中ピー/\    風車で苦しん居たのを、国周は見兼ねて、其借財を引受け 自身は裸になつて、其苦境を脱してやつた。    又困窮(こまつ)た人間が来ても自分の懐中が淋しい時は、そこに居合した来客でもあれば往生 その人    の莨入でも何でも一寸借るよと云つて 其男に遣らうとする、それを拒めば、宜いぢやァないか お前    さんなぞは幾何(いくら)でも買へる身分だあ、そんなに吝々(けち/\)するにやァ及ばねへ と人のも    のだらうが何だらうが構はない、サッサッと遣つて仕舞ふような、一寸脱線した事もやつた。     明治卅三年七月一日、病の為八十三度目(たびめ)に移転した、吉原土手下の寓居に没した、年六十六、    寺は浅草今戸の真宗大谷派本龍寺で(中略 墓)題石に大島屋とあるのがそれで、法名を鴬雲院釈国周    と云ふが 墓には刻んでない、又本堂の右手に門人だつた、羽子板の面相(めんそう)書 湯川周丸が発    起で、一周忌の法要に辞世を刻した碑を建てた、其歌は      よの中の人の似かほもあきたればゑむまや鬼の生うつしせむ     子供は三人あつたが、総領の女は早世し、二番息子と三番娘は寺へも参詣に来ぬ所を見ると 生死不    明である、只時々周丸と朋輩だつた梅堂翁が香花を捧(あ)げる位ひで、自分の参詣した時は、花立の溝    には石ころが幾つも擲り込んであつて 竹筒も行方不明。それでも感心に水は湛えてあつたが、中には    孑孑(ぼうふら)がウヂャ/\発生(わい)て居た     この人の傑作としては、若い頃に描いた大首に梅幸百種、市川団十郎演芸百番等であつた〟   ◇「渡辺華(ママ)山翁の錦絵」酉水(21/24コマ)   〝 華山の描いた錦絵を云ふものがあると云ふに至つては、頗る珍な話だが斯様(かう)云ふ次第である。    翁がある時 予ねて懇意にする 芝神明前の錦絵問屋和泉屋市兵衛を訪ふた、よもやまの話しの末、泉    市は座敷にあつた屏風を指して、先生これへ張交(はりまぜ)に致しますのですが、何卒(どうぞ)なにか    画いて頂き度いもので と頼んだのを、よし/\と承諾(うけあつ)て其日は帰つたが、程なく届けられ    たのは、俳人の肖像で、桃青・其角・嵐雪・許六・支考・秋色の六枚であつた 泉市はこれを受取ると    共に、あまりに優雅なるこの逸品に 忽ち商売気質をあらわして、翁には無断でこれを刻して大錦絵に    なし「華山先生図画」(と)云ふ印章を押して 市中へ売出した、何しろ華山先生の錦絵と云ふので、案    の條大評判 忽ちにして売切れと云ふ好況に、泉市は大喜びで、第二杯目に取りかゝらうとすると、市    中の評判が高いので 直ぐ此事が翁の耳に這入つて、錦双紙(ゑざうし)に麗々と飾つてあるのを見たか    ら堪らない、泉市は早速呼び附けられて、貴公も困るぢやァないか、屏風の張交ぜと云ふから書いて上    げたのに、錦絵にして町絵師の絵と一所に飾られて売るとは言語道断だと 厳しく談じつけられて、泉    市も一言の申訳もなく 平謝りに謝つた末が、錦絵はモウ売切れてないので、版木を差出して 漸く事    済となつた、その版木は直ちに打破られて、華山翁の錦絵と云ふものは、後にも先にも此の六枚と云ふ、    頗る珍品になつたのである。     因みに此錦絵の元摺六枚揃を、先年好古堂が得て 今復刻して売出して居る〟   ◇「浮世絵版画価格の今昔」(22/24コマ)   〝 此処に示すものは明治二十八年、同三十八年及び大正四年との各十年間に於ける優等品としての概価    表である            (M28年) (M38年) (T4年)      鳥居清信   竪大判絵    二十円   百円  三百円      鈴木春信   中 錦絵     十円  五十円  二百円      鳥居清長   大 錦絵     十円  五十円   百円      東州斎写樂  雲母摺大錦   十五円  七十円  三百円      北斎     富士卅六景横絵 五十円  二百円  四百円 卅六枚揃      初代広重   東海道横絵    十円  廿五円  六十円 五十五枚揃            甲州猿橋     五円  五十円  三百円 竪二枚継掛物絵      国貞・英泉  竪二枚継ぎ    十銭  三十銭  三十銭      国貞     役者 大錦    五厘   一銭   五銭     但し 之は東京に於て売買された価格であるが、如何に浮世絵の価格に変化が来たかを窺ひ知る事が     出来る〟  ◯『浮世絵』第三号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「国芳の大津絵」   〝(前略)此の頃偶然手に入りたる墨摺一枚絵あり、斉しく「浮世又平名画奇特」と題し、全く同一の画    図なり、只だ彼は錦絵二番物にて、是は墨摺一枚なるだけの差に過ぎず、先日吉田里子(りし)氏来話の    時、其共に展観して、墨摺錦絵先後談をなせるほどに、里子氏申さるゝには、一度発布を禁止されしも    のを説明まで付けて流布せしめんこと、幕府時代の事としては請取れず、故に此墨摺先づ行はれ、その    景気よきより錦絵も出たるならんと聞きて、如何にも然るべく思はれしが善く視れば「嘉永六丑年あと    さきなり、安政元年寅」と朱にて書入れあり。然らば此の墨摺は錦絵の後に出でたるもの歟。     錦絵の評判よく、禁止されて愈々(いよ/\)賞玩さるゝを見掛け大胆にも禁を犯して刊行せしにもあ    るべし、特に説明を印刷せる小紙片の添えられしは異様なり、其の小紙片には      東都名所 げほう  カイゾクバシ  若衆  タカナハ  やつこ  アカサカ           藤姫   カメイド    弁けい シバ    なまず  カジバシ           雷    アサクサ    おに  ソトカンダ 座頭   フタツメ     とありて的指せず、説明書にも尚ほ説明を要すべく、一面には申訳けの資たること分明なり、さはあ    れ申訳のみのものにはあらず。     老中牧野備前守忠雅。海賊橋に邸地ありしより海賊牧野と渾呼せり。赤坂奴は紀州侯、その邸地の赤    坂にありたるよりいふ。弁慶は芝増上寺、これは十二代将軍家慶公の葬儀に上野と芝の競争ありしが、    増上寺奇捷を博し、芝へ御葬送ありたり。鯰の鍛冶橋は若年寄鳥居丹波守忠挙(ただおき)邸の所在地。    雷の浅草、これは「雷年はしろいからすで、ほうだいから、はだかでのぼる手かゞり」といふ書入あり、    品川の砲台は嘉永六年八月より起工されしものなり、これは誰の事かしれず。神田の鬼も同じ、二ッ目    の座頭、アベと書入あり、老中阿部伊勢守正弘、福山侯の押の法被の印は◯なり 画中の座頭が黒餅の    紋付を着用せるより合点すべし、下屋敷も二ッ目にありたり。説明書と書入とに由(よ)りて、多少とも    其の解を得たれども 略(ほゞ)其の意味を知る段には至らず、寝転びながらに相応の解釈を得んことは    横着に過ぎたり、且つ『浮世絵』の記載としては、幕末の時世を揣摩する必要もなかるべければ、手数    のかゝる穿鑿は御免を願ひ、簡単に国芳の大津絵の発布を禁止されし後に、墨摺にて蒸し返したるもの    ありといふ事だけを申せば足れるに似たり〟   ◇「千社札と浮世絵(下)」扇のひろ麿   〝いろは壁(ママたとへ)神仏名勝双六 一立斎広重画    千社詣出世双六  梅素亭玄魚図    額面相稲荷双六  仮名垣魯文案 一惠斎芳幾画    (千社札を)合巻ものゝ外題画に応用したのは 文政頃から豊国等が用ひて居たが、包袋(ふくろ)や見    返しに烈しくこれを利用したのは、納札第二次全盛期たる 安政から文久にわたつて、時代鏡・倭文庫    ・犬の艸紙・しらぬい等で 滑稽富士詣【魯文作/芳虎画 万延元年版】の見返しには五月蠅(うるさい)    程応用してある、これは其時代 包紙や表帋、扉に筆を取つたのが、納札書師の梅素玄魚であつたのと、    且つ画工の芳幾、芳虎、作者の魯文、種員、応賀なぞも一つ仲間であつた為、この方へ図案が落ちたも    のと思はれた〟   ◇「浮世絵師掃墓録(三)」恋川春町 荘逸楼主人(20/24コマ)   〝(新宿成覚寺墓)寂静院廓誉湛水居士      本国参州生国駿州田中 倉橋寿平源格 寛政元己酉年七月七日      生涯苦楽 四十六年 即今脱却 浩然帰天 源格      我もまた身はなきものとおもいしか 今はのきはゝさひしかり鳧〟      ◯『浮世絵』第四号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「懐月堂に就いて」第六高等学校教授 原栄(7/24コマ)   〝懐月堂一派の人々で明らかに懐月堂末葉と落款に記するものは、度秀・度繁・度辰・度種、及び長陽堂    安治で、この外懐月堂の流れを汲んだであらうと思はるゝ人は、空明堂信之・東川堂里風・梅祐軒勝信    ・梅翁軒永春・西川照信・松野親信などである〟   ◇「狂歌の摺物」(8/24コマ)   〝天明寛政時代 狂歌師俳人が好事の為め配つた摺物には 春章・花藍・歌麿・清長・子興・俊満等の各    自腕を振つて居る 此出費は歌を出したものの頭割になつて居る 彼の岡持家集に「狂歌の摺物の出銭    五銭目づつなりと云ひこせしもとへその料をつかわすとて」とあつて「歌柄は古今にあらぬ文銭のごせ    ん集とも名つけてしかな」と 五銭目は五匁(八百文)なり〟    〈花藍は北尾重政。天明寛政頃の狂歌摺物の入花料は800文の由〉   ◇「浮世絵と国々」酉水(8/24コマ)   〝 浮世絵は江戸名物であつたので東京に多く存在した、一番多く出たのは江戸の所謂盛場の浅草であつ    た、彼の艶麗な吉原美人の描写の先達とも云ふべき清長や歌麿は吉原を向ふに廻し全盛の太夫水茶屋の    娘などを描いたものだ 彼等の筆になれる吉原仁和歌(にわか)図、太夫行列とか一枚ものとか三枚続と    か絵本で有名な歌麿の青楼年中行事、政演の青楼自筆鏡、美人合とか云ふやうに吉原美人を画題として    描いたものは幾百種あるか挙げて数へ切れない程沢山ある、当時新版物が出ると 絵双紙問屋は廓に縁    のある商人 例へば引手茶屋、料理店、楼主とか すべて派出(はで)商売の家に「配り」と称して必ず    之を広告的に配つた、しかも其れは皆初摺(はつずり)ものであつた、又廓の内には蔦屋と云ふ引手茶屋    がある、此店では清長や歌麿に其頃全盛の太夫の阿嬌(あだ)つぽい艶々した容姿絵を上等念入に描かせ    て売出したものである、此の店の印は蔦印で 太夫の衣紋に自家の紋所を入れてある、絵双紙屋仲間呼    んで この店を細見蔦屋と云つて名高いものであつた、今でも大門から右側一町計りの所に暖簾に黒地    で白抜きの大きい蔦の紋を見せ両側に「つたや」と書いてある店がそれである 浮世絵と廓はかやうに    密接な関係があつたので 浮世絵は此処に明治の流行時代まで可なり多く存在して居たのである、今も    錦絵の出場所としては浅草である、しかし北斎や広重の風景画は至て少ない。     又日本橋辺の旧商家の大店の芝居好きの細君や娘たちは 版元と特約を結んで錦絵を買つたもので、    新版物の出るのを待遠しがると云ふ状態で 値段にお構ひなく写樂や春章、文調の役者似顔絵とか上品    な御殿遊びの三枚続とかの上物を仕入れたものだ、それは一流の錦絵問屋十軒店の武蔵屋辺から納めた    ので 今も此旧家の土蔵の中には珍品が保存されて居るものがある。     それから春信の錦絵は 山の手辺の旗本の御隠居や旧華族の家には以前随分あつた。してそれは高価    で士族以上の身上でないと一寸手が出ないと云ふ位であつた、一体春信は概して歌舞伎役者を描かなか    つた 画題は重に優雅な気品の高い美人の容姿であつたから その作品は士族の娘の娵入道具にも用ひ    られた、階級制の甚だしい徳川時代の平民の手によつて出来た東錦絵として 上流の家庭に歓迎された    春信は寔(まこと)に仕合せものであつた、それで現今十枚二十枚と春信の絵を祖父時代から保存して居    る人の前身が 必ず相応の身分ある者に多い。     昔東土産として地方へ持ち出された浮世絵は多く三月の雛祭の雛壇の背景に木綿糸で連ねて陳列され    たもので、従つて地方出の絵には上部に細い針の穴跡がついて居るものがある、雛と浮世絵は深い友で    雛祭の盛んな所には錦絵も多数あるわけである。    (以下、関東・東北地方に残存する浮世絵の状況記事、略)〟   ◇「役者から絵師となつた歌川国春」斎藤ひろ麿(13/24コマ)     享和三年(1803) 江戸に出生(父初代嵐冠十郎・母葺屋町茶屋某家の娘)称冠之助     文化六年(1809) 父と大坂行き     文政三年(1820) 嵐徳三郎(後の璃寛)と父と江戸に下る     文政七年(1824) 市村座の顔見世において、冠之助改め二代目嵐徳三郎を襲名     この頃 父冠十郎、人形町通長谷川町に錦絵店を開業、屋号は具足屋嘉兵衛    〈この記事では国春の父嵐冠十郎が具足屋嘉兵衛を名乗ったという。すると国春の具足屋は二代目ということなのだろ     うか〉     文政十年(1827)五月 狂言「狭間合戦」の義照公一役を最後に引退     文政十一年春  歌川国春を襲名     天保十年(1839)十月二十六日没 享年三十七       法名:聞妙院歌声日慶信士・俗名:具足屋佐兵衛 芝三田三丁目聖坂下 蓮乗寺葬    (以下、襲名を祝う奉書の摺物、後素亭豊国画・大伝馬町二丁目伊賀勘板の記事)   〝「道かへて分け入るもよしはるの山」ナゾと云ふお定まりの句が 各俳優の名で列記してあつて、その    末に        こたび慶升ぬし俳優をはいして画工に道に入しを祝して      わざをきを止めて筆にや名をあげん今故郷へかざる錦絵   立川焉馬        おのれふつゝかにして父の技をもつがで有しをもし 出来る事かはと豊国ぬしの机にすがりて        かりそめに筆とる事を尋ねしか ついに名さへ玉はり歌川の流れをくむうれしさに      生(を)ひ初(そむ)る水草や何を水のあや   嵐徳三郞事 歌川国春        子をおもふやみのみち しるべを得たる此度の仕合せは月令にもなき 役者化して絵師となる        せがれが幸ひ もとより顔をぬり眉をゑがく事はおさなきより 見もし聞きもしつれど 絵の        事は又後の素人なれば もらひ得たる名の春霞 ひとはけに引きたて玉へと願ふのこそ      此棚にこゝろ定(き)めよと蚕かな   慶舎〟     〈立川焉馬は二代目。慶舎は父嵐冠十郎の俳号であろう〉    (天保の頃の役者絵(父嵐冠十郎「夏祭浪花鑑」の三河屋義平役)の署名「山風亭国春画」について)    〝亭号の山風(さんぷう)は嵐から来た〟   ◇「偽の豊国の狂詠につきて」梅堂豊斎翁談(17/24コマ)   〝歌川のうたかはしくも名乗り得て二世の豊国偽(にせ)の豊国 と云ふ狂歌について、世間では亀井戸豊    国の事を云つたのだとも云ふし 又本郷豊国が己(おの)が拙技(つたない)のも顧みず名を継いだところ    から云はれた悪口だとも云つて居りますが、あれは矢張り亀井戸豊国の事を云つたもので、御承知の如    く、国貞と国芳とは丸ツキリ肌があいません、だが豊国を継いだについては一応通知(しらせ)なければ    ならないので 門人だつた二代国麿に委細事を手紙に書いて玄冶店の国芳の家へ届けました、スルトこ    ゝへ狂歌師の梅屋(うめや)鶴寿(かくじゅ)が来合して この手紙を見て居たそうです、この人は神田佐    久間町に住んで尾張様御用の秣屋(まぐさや)で 後神田岩井町から長谷川町へ移つて待合茶屋を出しま    した、大層国芳に肩を入れて 一寸とした賛など其他書入は大概此人が書いて居ました、愈々国貞改二    世豊国と発表すると、誰が咏んだか此狂歌が世間へパツと評判になりました、咏人(よみひと)しらずと    は云へ 国貞国芳の中を知つて居るものは、ハゝアこりやア梅屋の悪戯だナと勘づきました〟   ◇「浮世絵師掃墓録(四)」初代歌川豊国 荘逸楼主人     品位の高い美人絵から、春章・写樂とは又趣きの違つた真の似顔絵に一葉を開き、豊春が開鑿した歌    川の流れを長(とこ)しへに世に伝えた功績者、初代歌川豊国は俗称倉橋熊吉、一陽斎と号した、芝神明    前の人形師倉橋五郎兵衛の男、幼年の頃 一龍斎豊春の門に入つて 天明六年十九歳で万象亭作の黄表    紙『無束話親玉』の挿絵を描いた、似顔絵に妙を得たに就ては父からの系統的もあつたので、元来倉橋    五郎兵衛は似顔人形に巧みで 就中(なかんづく)二代目市川団十郎(栢筵)の容貌は 真に生けるが如き    ものであつた、其技を膝下に居て見もし、聞きもした彼は、他日似顔絵に覇をなした由縁である。     先見の明ある芝神明前の和泉屋市兵衛は、彼が始めて持参した下画を見て 其技の凡ならざるを見て    直ちに錦絵として是を世上に紹介した、果して其画風が時世に適した為、豊国の名忽ち四方に喧伝せら    れ、錦絵は云ふも更なり絵本・黄表紙・読本・合巻に至る迄 筆を染めること数知れず、遂に合巻之挿    絵はこの一派の独占と迄なつて こゝに歌川の基礎は固められた。     斯(かく)して豊国の勢力はし(ママ)ばらしいものであつた、画工は太夫だ、作者は三味線引だ、いくら    糸がよくつても 唄ふものが悪くちやァ聞かれないと、こう云ふ事には如才ない京伝なぞはいつも合巻    の奥半丁に、豊国画 京伝作と 画工の名を上にして署名した。     文亀堂伊賀屋勘右衛門、京伝作『稲妻表紙後編本朝酔菩提』の挿絵を豊国に頼んだが中々描かぬ、果    ては我家に程近い処へ二軒ぶつ通して家を借り、是へ豊国を招いて欵待おさ/\怠りなしである、丁度    弥生の花見時で 墨田の花が見たいと云ひ出した、出せば何時帰るかわからぬ、一策を案じた伊賀屋は    花満ちたる大なる桜の枝を数多(あまた)取寄せて、これを花瓶、樽なぞへ活けて座敷へ併(なら)べ、こ    れで何卒御辛棒をとやつた。     こふ云ふ工合に小児を賺(すか)すよふにして 漸く出来上つた十冊の挿絵は実に二年の月日を費やし    たと云ふ、かく一面に於て恐ろしく傲気の彼も 又一面には非常に謙譲であつた、それはいつも人に向    つて「わたしの絵は只(ただ)もう、ゑのぐをば隈(なぞ)つたに過ぎない」と、此対照が頗る面白い、豊    国の偉大なる点もこゝにあるんだらふと思ふ。住居は始め三島町から芳町、掘留、上槙町等へ移住し     文政八年正月七日、焼筆のまゝかおぼろの影法師 の一句を辞世として病没、年五十七、法号 特妙院    実彩麗毫信士、墓所三田聖坂の功運寺は(云々 以下 墓地への道筋記事 中略)勘亭流で大きく「歌    川」と書いた台石が見える、碑面の右は亀戸豊国、左は二代国貞の法名で、同じく右側面には「歌川豊    国事 元治元甲子年十二月十五日、二代目」と彫付けてあつて 全然後素亭豊国は没却されち居る〟   ◇「浮世絵雑記 春信の座敷八景」柏原古玩氏談(19/24コマ)   〝そうですな明治十七年頃でしたろう、其頃の錦絵の相場と云つたら 丸で嘘見たような噺で、まアあの    細絵がね漆絵、紅絵一つ括(くるめ)で一枚一銭宛(ぱ)、歌麿が五銭から十銭どまり、其時分でしたよ     私がね大槻(如電翁)さんの御宅から 写楽の雲母(きら)絵を三枚一両三分で頂戴しましたが、今それ    があると一人立(いちにんだち)で二百円、二人立で三百円位ひと云ふんですからねへ。ダガネ貴君(あ    なた) 中で偉らいのは春信です、その一銭だの五銭だのと云つた相場の時代でも、此絵ばかりは一枚    二十銭と云ふ価(ね)がありました それが直(ぢ)き四十銭になつて、それが明治廿年頃だから僅か三年    の間でした。どうして此春信がそう離れて高かつたのだと云ひますと、筆意にもよるし品も無ひのにも    よりますが 昔しから此絵だけは高価(ママ)つたので、明和の頃に錦絵屋で売つた直段が 外の細絵は十    二文、大錦は廿四文と云ふのだそうで、所で此春信の中錦はと云ふと、一枚一匁(百六十文)と云ふ群    を抜いた直段でした、第一買ふ客種が違ひました、細絵や大錦は お百姓お職人中商人の土産ものと極    つて居ましたが、独り春信の絵に至つては武家か大商人でなければ買はなかつた、否(いや)外の者には    買切れなかつたのでした。あの春信の絵に座敷八景と云ふのがありませふ、あれがさ、揃八枚で其当時、    桐箱へ入れて 中へ奉書で一枚々々に合ひ紙がしてあつて、其直段は云ふと金一分。酒と肴で六百出し    や気侭と云つた尻取り文句の流行た時代よりズーツと未だ諸式の安かつた時代にですね、金一分と云ふ    錦絵は、マア余程余裕のあるものでなけりやア 手が出せませんでしたろう〟    ◯『浮世絵』第五号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「手遊絵(おもちやゑ)と芳藤」松村翠山(20/27コマ)   〝(前略)手遊絵(てあそびゑ)は古い時代から板行されて 有名の浮世絵師の描いたゑも少なくない様で    あるが、特に安政の初め頃から隆盛の機運に向つて、明治十五頃が頂上であつた。其後印刷術が進んで、    石版や写真版の為めに圧倒されて、遂々衰微して仕舞つたのは、時代の推移とは云へ、誠に惜い事であ    る。隆盛であつた三十余年間には、日本橋馬喰町の西与・江辰(江崎屋辰二郎)・樋口、横山町の岩喜・    辻文、通油町の藤慶、両国広小路の大平(だいへい)・加賀吉、芝神明前の泉市・佐野屋・若狭屋、市ヶ    谷八幡前の佐野市、下谷稲荷町の文正堂、堀江町の海老林、人形町の具足屋、土橋の松田屋、其他の版    元が、各々意匠を争つて毎年夥しい枚数を発行した、版元の内で芳藤の絵を主に扱かつたのは、稲荷町    の文正堂と横山町の辻岡屋の二軒であつた、前者は殆ど手遊絵専門で市内に顧客(とくい)が多く、後者    は手遊絵もあるが、概して婦人絵(をんなゑ)・芝居絵・双六・有卦絵の類で、文正堂の絵に比較すると    彫刻(ほり)も摺方(すり)も余程劣つて居る、而(しか)して大部分は仕入物と言ふ格で地方に売捌(はか)    れて居た。明治十五年以後今日でも手遊絵を販売して居るが、絵具と紙質が極めて劣悪になつた為め、    観賞の価値あるものは些(すこ)しもない。     手遊絵の隆盛になつたのは嘉永六年の夏、黒船の渡来が動機となつて、世の中が騒がしくなり、政治    上は勿論一般の経済状態にも著しく減した。夫が為め諸方の版元が出版を手控へる様になつた。斯なる    と従来(いまゝで)宵越の銭は使はぬと言つた風の、江戸つ児肌で生活して居た浮世絵師の連中は大恐慌    で、彼等社会の銭廻りが非常に悪くなつた。そこで普通の錦絵と形式の異つた価の廉い、児童を顧客の    中心とした、主に一枚ものの手遊絵を描き出したのが、芳藤・芳春・芳虎・芳綱・芳盛・芳艶・芳幾・    芳宗・芳員・芳正・重宜・国郷・国綱・国政・国麿・艶丸・周重・国利・幾飛亭等で 時好に適した為    めか売行きが盛になつたのである、就中(とりわけ)芳藤の如き名手が、当時の年中行事、時世粧、流行、    童話、動植物、器物等の状態を 実際的、仮相的、教訓的、諷刺的、滑稽的に 児童に同化する気分で    描いた為め最も児童に歓迎される様になつた。     芳藤は国芳門下の錚錚たるもので、初めは武者絵・風俗絵・芝居絵・婦人絵(をんなゑ)等を描いたが、    努力した割合に歓迎されなかつた、其内に錦絵の売行きが詰まつた来たので、襲来の方針を変へて組上    灯籠や手遊絵を専門に描く様になつた、元来手腕の優れて居た彼が取材や描写に非常なる苦心をして、    凡ての真髄を捉へ 巧に手遊化したので、同種類の物の内で異彩を放つ様になつた、夫が為め彼の版下    は諸所の版元で引張凧になつたらしい、芳藤の描いた手遊絵で現存して居るものの版元が多数なるに就    いても推定が出来る。而して芳藤が作画に忠実であつた実例は、私の所蔵して居る手遊絵の版下を見て    も、区画の極めて細かい絵であるに拘はらず、少なくも一二回多くは四五回の訂正を施さぬものはない、    斯様(こんな)工合で彼れは一線半点の微と雖も忽(ゆる)がせにしなかつた事が能く判る。(中略)     夫であるから 彼の没後廿余年を経た今日、手遊絵と言へば直ちに芳藤の名が連想される様になつた    のである。嘗て芳藤の絵を出版して居た馬喰町三丁目の樋口絵双紙店主の談に依ると、或年同店で三枚    続きの組上灯籠の下絵を依頼したが、数日を経るも下絵を届けて来ない 同人の気質を知つて居る主人    は 其侭にして待つて居たが、余り長くなるので催促をした、すると二三日経て 芳藤が自身で下絵を    持つて来た、主人は数日費して描き上げたのであるから、直に彫刻師へ廻せると思つて居ると、芳藤は    一旦渡した絵を披いて居たが、未だ気に入らぬ個所があるから訂正して二三日の内に届けると言つた、    其折主人が     「先生斯様(こんな)絵は左様(さう)丁寧の事は要りますまい」と言ふと 芳藤は頭を振つて     「左様(さう)ではありません 私は死んでも、絵は後に遺るものですから。自分の気に入つたもので      なければ、板にはかけられません」     と、話されたと樋口氏より聴いた事があつた、此言葉に依るも芳藤の抱負を知る事が出来よう。     芳藤は手遊絵の顧客が児童を中心として居る事に留意して、取材に苦心した事は勿論であるが、生来    凝性の彼は微細な事でも、(児童と同様の気分に)徹底するまで研究をせねば止まなかつた、夫故随分    奇行もあつた様である。     或年の冬 朝起ると直に寝衣の侭楊子を啣(くは)へて、洗湯に出懸けたが正午近くになつても戻らぬ    ので、家人は心配して居ると 空腹になつたと言つて帰つて来た、家人が何方(どちら)へ行かれたと尋    ねると、近所の知人に急用を憶ひ出したので 立寄つて来たと言ふたが、其実彼は湯屋の近所まで行く    と獅子舞が賑やかに囃子たてゝ居たので児童と伴に 其後に跟(つ)いて拍子を歩いて居たが、朝湯に出    たのに気がついた彼は 慌てゝ入浴を済せて帰つたのである事が後に判つた、此外物売の後を跟いて歩    いて 呼び声の研究をする為に肝心の用事を忘れたり、祭礼に神楽屋台の前へ立つて身振手振をして傍    の人を笑はれた事なそは数回あつた相(さう)だ。     芳藤が手遊絵を描き初めた当時の署名は「藤よし」と記した絵が多い様である。是は因襲的の習慣に    捉へられた結果であらうと思う、現今の如く芸術家が一般社会より、重視せられなかつた時代に於ては、    彼等の品位も低く自ら「絵描き」なる職人気質に甘んじて居た、随つて師弟関係の如きもなか/\厳格    なもので、些(すこ)し異なつた試みを為すには 師匠の許諾を要したものである、師匠の不承知である    事を敢へてすれば 直ちに破門の憂目に会ふたものである、其様窮屈の時代であつた為め 芳藤も師の    国芳や同門の人達に憚つて最初から「よし藤」と署名しなかつたものと考へられる〟      ◇「浮世絵手引草(一)」(19/25コマ)   〝・北斎の富士(ふじ)卅六景(横絵)の内傑作は山下白雨、凱風快晴、神奈川大浪の三種也    ・北斎の肉筆にして 絹地墨絵十二枚屏風又は画帖に張込ある富士卅六景風のものは大方偽筆なり    ・宮川長春の肉筆にて瓢箪の印章あるものも偽筆多し    ・菱川師宣の錦絵(ママ)は在銘なし、若しあらば後人の模写せしならん    ・宮川長春、西川祐信に錦絵に筆を執らざりし    ・錦絵にしてハガキ判大のものに価値あるもの稀なり    ・国芳・国貞・国員・芳虎・芳幾・芳艶・芳年時代の源氏、武者、役者絵類に高価なるものは至て少な     し    ・菱川鳥居時代より近代に至る無名の門葉派が手になれる肉筆の浮世絵は大方価値なし    ・菱川師宣の「姿絵百人一首」は奥付に師宣とあれど、画風は正に師房也、恐らくは同人の偽筆ならん     か    ・尚、師宣「和国百女」一冊ものは天保の後摺多し    ・歌麿の「虫撰(むしえらび)」は初版天明にして文政に再摺あり    ・広重竪絵「江戸百景」(百十八枚)の内には二世広重筆約十枚あり    ・菊川英山の版画に一枚五円以上のものなし〈次回の第七号で撤回〉    ・広重の「近郊八景」横絵に狂歌の賛あるもの初版にして後摺はこれを削る    ・初代広重の肉筆は晩年書多くありて若年書(わかがき)至つて少なし、若年書は英泉風也〟   ◇「浮世絵師掃墓録(五)」勝川春章 荘逸郎主人(21/27コマ)     役者絵は鳥居派から出たが、単に紋どころで其人を利かせた甘い仕打は明和頃の人にはおかたるく(マ    マ)なつた、其傾向を早くも見てとつて、あの太い描線を避けて其人の特長を巧みにとつた、真の似顔絵    と云ふものを創作したのは此春章である。     ト云つて後の写樂のような極端な写実でもない、例へばこの画(挿絵)を芝居から見たものとすると、    春章は土間の七三、写樂は小(こ)一からと云ふ行方(ゆき)であつた。    〈「土間の七三」とは花道のスッポン付近の客席。「小一」は未詳〉     春章は勝宮川春水の門で俗称祐助、旭朗井、酉爾、従(ママ)画生、六々庵、李林等の別号がある、嵩谷    翁について一蝶風の草画を学び、美人絵、武者絵等 肉筆に版画にその卓越せる伎倆を示して居る。     明和五年の夏 中村座で「操歌舞伎扇」と大名題を据えて、雁金五人男、車引、忠臣蔵、青柳硯、十    帖源氏の寄集めで 役者は幸四郎(五世団十郎)、二世八百蔵、初代秀鶴、天幸、伝九郎、四世団十郎と    云ふ顔揃ひ 各々得意の出しものに 隅から隅迄ズーイと響き渡つた大評判をとつた。これを当時人形    町絵双紙問屋林屋に寄宿して居た春章に描かしたのが この狂言の内雁金五人男の一組、落款の所へ店    の判箱から壺形に「林」と彫つた仕切判を 間に合わせの印章がはりに ポンと押して売出した。     物珍らしいのは江戸の常、鳥居風の大まかに飽きた眼には又一倍、満都の人気を錦絵屋の店先に集め    て、利いた風な大本田が村田張をしやくつて ドウモ似顔は壺屋に限りやすと、頼まれもせぬ吹聴を頼    まれたやうに云触らす、これらの手合から奉つた壺屋の表徳が大層な広告となつて、版毎に売行夥しく、    名声頓(とみ)に昂(あが)ると見ると、手の鳴る方へ魚の寄るとひとしく、春潮、春英、春好、春朗(後    に北斎)を始めとして 勝川の流に寄るもの、十数名の多きに至つた。     明和七年、一筆斎文調と合作になれる似顔絵彩色摺の『絵本舞台扇』二冊を売出した、これが又頗る    世評高く 忽ちにして千部売切の好況に、版元異数のことゝして 浅草の酒楼巴屋で 千部売切の祝宴    を開いたとある、後安永八年に同続篇を売出した これも又前に劣らぬ評判であつたと云ふ。     寛政四年十二月八日「枯れゆくや今ぞゆうことよしあしも」の一句を残して没す、年六十七、法名勝    誉春章信士、菩提寺は浅草新堀端(現今南元町)松平西福寺々中存心院(以下 墓所への道筋 省略)〟    〈役者絵は、紋所でしか区別のつかぬ鳥居風から、個々の容貌や役柄を写す役者似顔絵の世界へと変異していったが、     そのキッカケとなったのが勝川春章と一筆斎文調の合作『絵本舞台扇』であった〉  ◯『浮世絵』第六号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「一筆斎文調の絵馬」(5/25コマ)   〝角筈十二社(そう)にある文調の絵馬は中々佳い出来である 巾六尺、丈五尺位で 市村亀蔵・大谷鬼次    ・尾上民蔵、中山富三郞等 八人斗り描いてある、社殿を昇つて内側の左側に納つて居るが 今の保存    法をよくしないと 段々絵の具が剥落しそうで剣呑で仕方がない〟    〈角筈十二社とは角筈村の熊野十二所権現社〉   ◇「半狂堂散漫六(一)」宮武外骨著(6/25コマ)   〝喜多武清に対する悪声    その性質に傲岸な所か又は下劣な下劣な点でもあつて、或る一部人士に排斥されたものか、武清に対す    る悪声が、物の本に多く現れて居る。    『諸家必読出放題』に「それがし、武清などが画をかく有様を見るに、浮世絵師には遥かに劣りたる者    にて、鄙凡見るにたへざるなり(中略)当時唐画家と称する浮世画家の南嶺、武清などあはれにも文盲    なる事なり」    『妙々奇談』には「書画詩を売物にして口を糊する可庵云々の徒」と記し、又「春夏秋冬の間、万八百    川両国楼上に於て 晴雨を論ぜず書画大会興行仕候」とある相撲番附様の中にも、前頭に「可庵栄之助」    を入れてある。(可庵は武清の号)    『翟巣漫筆』には「喜多武清は谷文晁の弟子にて有しかども不器用の筆にして、壮年の頃は京の円山応    挙を慕ひて 彼が風を似せたり、山東京伝が編の『優曇華物語』のさし画は、応挙が七難の絵巻により    て画がけり、後年には様々に変じて晩年に探幽を慕ひ狩野流をまねたれど、賤しき所あり」    斯様(かやう)に四面攻撃を受けたのには、裏面に其理由があらう〟   ◇「飯島虚心翁逸話」竹生(三村竹清)著(8/25コマ)   〝 鮮碧軒にて見たる昌平聖堂学科挙の人名帳に、文久二年正月乙科の二十番目に      佐渡奉行支配組頭善蔵内  飯島半十郎    とあり、扨は今云ふ文学士なりけり。     維新後暫く文部省に出仕せられしやに聞けり、何やら教科書めきし著書もありしやうなり     (中略)     胃癌に罹りて賀古鶴所氏の診を乞ひしも捗々(はか/\)しからずとて、評判の石塚左玄氏の説に聴き、    切干の煮出し、泥鰌の肉汁などを飲み、又巻せん餅をしやぶり居られし、段々衰弱してより、横腹から    酒を注ぎ込んで貰いたいが左様(さう)もゆかぬから、活(いき)てゐる内に交換大会をやつて蔵品を買つ    て貰ひ、是非沢庵をカリカリ音をたてゝ一盃飲んで貰ひ度(たい)とて、友人を集められし事あり、其時    某先生京伝の一幅を壁間に掲げて見せしに、翁にこにことして、□□(ママ)さん五百両捨てなくつちや駄    目だねと戯れられしこと、今も思ひ出さる。     (中略)     翁状貌傀偉甚だ酒を嗜む、問はざれば多く語らず、大かた縞の被布様のものを着されし、かく画に就    きて論ぜらるれど筆は一向に動かず、書も御家流の臭気を脱せず、嘗て詠じて曰く       笛竹の根岸の里に住みぬれど世になすべき一ふしもなし     偶然か因縁か共古翁と同行して病床を訪れし其日の午後六時に没せられし、実に明治三十四年八月一    日也、其二日 小石川表町七十四番地 浄土宗真珠院に葬る、この寺伝通院の寺中と覚えし、法名静閑    院霊誉虚心居士、舎弟令息共に遠地に居らるゝ由 頃者荘逸楼主人展墓せしに 香華も打ち絶え居れり    とぞ 噫(ああ)〟    〈昌平坂学問所の科挙試験の乙科とは、御目見え以下の幕臣が受験するコース。はるか以前の寛政六年、大田南畝が受     験したのも同じ乙科。因みに甲科は御目見え以上のコース。共古翁とは民俗学者の中山笑(えむ)〉   ◇「カット代り」山兵衛著(12/25コマ)   〝藍川員正恭の随筆『譚海』巻之三に    「金龍山浅草寺境内 弥惣左衛門稲荷の社頭に 宝永年中奉納せし絵馬あり 菱川某の絵にて堺町芝居     の図をゑがきたり 其頃の芝居の体 今見るが如し 三階の桟敷なり 戯者の風俗も甚だ古質なるも     の也 此外に宝永の頃の絵馬社頭に多し 珍識観物也 又同所二王門外に地主の稲荷といふあり 是     にも元禄年中の絵馬あり 力士二人碁を囲みたる体にて 甚だ勇猛に見ゆ 側に小人麻上下にて傍観     の体を画がけり 駒形若者中奉納としるしあり云々」    菱川の絵馬 他にもありしが浅草のは多分焼失せしことならんか惜しむべし〟      ◇「国芳の遺言」(17/25コマ)   〝一勇斎国芳が死んだ時の遺言が振つて居る「おめへたちのうちで万一(もし)己(お)れの名を継ぐものが    あつたら、勘当は勿論、七日たゝぬ内に化けて出て喰殺すからそう思へ」と伎倆と名と云ふ事を貴んだ    国芳の半面が忍ばれて偉いと思った〟    〈同じ歌川豊国の弟子でも、師匠の名を継いでいく国貞の流れと、それをしない国芳の流れとは極めて対照的である。     豊国襲名をめぐっては、後素亭・本郷豊国の二代目を認める認めないのゴタゴタがあり、国貞は国貞で二代目豊国     を自称していずれが二代か三代かの混乱を招いてしまった。それに対して国芳は襲名をきっぱり拒否して「俺を頼     るな」である。国貞(三代目豊国)と国芳とは同門だが反りが合わないとされるが、その違いは襲名に対する姿勢の     違いにも現れているのである〉   ◇「歌川国丸」斎藤ひろまろ著(18/25コマ)   〝 初代豊国の高弟で大の秘蔵弟子であつた、歌川国丸は、号を一円斎と云ひ 又五彩楼、軽雲亭、彩霞    楼と云つた、俳句をよくし 鴬笠庵鴬笠(天保三大家の一人鳳朗)の門に入つて翻蝶庵龍尾と云つた。     江戸本町二丁目 質商伊勢屋の男で 始め伊八、後文治と改めた、合巻の挿絵に筆を採つたのは文化    六年 益亭三友作『花鳥風月仇討話』感和亭鬼武『敵討十三鐘由来』で、文治十六歳の時であつた、翌    七年 式亭三馬が豊広、豊国の不和を調停する為に著はした『【井筒茨城全盛合奏】一対男時花歌川』    の口絵に前髪立で居ならんで、三馬の口上がある    「(上略)これにひかへましたる小伜は豊広せがれ歌川金蔵、次にひかへまするは豊国門人文治改め歌     川国丸、安次郎改め歌川国安(以下略)」     (中略)     国丸は師の傍らに居つて専ら彩色(いろざし)をやつて居つた、それかあらぬか豊国の筆意をよく取つ    て、一寸紛はしいと思ふ程似て居るものがある、人物の目元に特長がある、蛇の目をあくで洗つたやう    なクルリッとしたのが宜い気分を与へて居る。     過日豊斎翁所蔵 国丸筆 初代豊国肖像の一幅を見た、デップリ肥つた赤ら顔の、目と口元にきかぬ    気性を現はして、茶格子の半天を引つかけて膝を崩して座つて居る図が、誠に其人らしかつた、上に六    樹園の詞書があつて、廻りは豊国が国丸に宛てた、色彩(いろざし)や、合巻挿画の指揮書(さしづがき)    で表装してある、此手紙で見ても豊国からは非常に秘蔵がられて居た事が分かつた。     (以下国丸の没年に関する記事)     この人の没年は絵類考其他でも「文政の末に没す、年三十余歳」と斗りで分らなかつたが、文政十三    年(天保元年)柳亭種彦作『其昔歌舞伎物語』四冊「前座初日夕霧藤裏葉」と小書をして出版した合巻に    国丸が描いたが、翌天保二年春 同書後編を「後座二日目怪談三島お専」と小書で四冊出した、挿絵は    国丸でなくつて国貞であつた、口絵から三枚目あたりに     「(前略)ついにはかない此御最期 三人 なむあみだぶつチヨンチヨン/\/\/\チヨンねんぶ      つの幕切ついで        さく/\とたつ間みじかし霜柱  歌川国丸      此さうしの初日の画人行年三十七 右の句を残しまして極楽の絵ぶすまを彩色にまゐりました」     行年は卅七と云ふ丈けは分つたが 天保(ママ文政)十二年か十三年の冬か一寸分らぬ、描いて死んだと    すれば十二年、出版の後とすれば十三年である     所がもう一冊合巻で十三年の冬と云ふ事が分つた。それは此天保二年の十二月廿七日に坂東三津五郎    が死んで、翌三年一月七日に瀬川菊之丞が死んだ、両人は彼のかはらけお伝の前夫後夫である 正月に    なつて坂三ッが九日、路考が翌十日で、二日続でお伝に関係した男の野辺送りになつたのも妙な因縁で    あつた。     何しろ名優がつゞいて死んだ事とて錦絵屋は書入である 死絵斗りも百五十番も出て、際ものゝ追善    双紙も数々出版した中に、種彦作、国貞画『三津瀬川上品仕立』二冊がある。    (その中で既に冥界入りしていた歌川国丸がこう語っていた)     「わたくしも此方へ参つて中年(なかとし)二年ンで昔の事はくわしく存じませぬ(以下略)」     以上の詞に依ると中年二年ンとあるは、天保元年(文政十三年十二月天保元年)の冬は動かせない事と    なつた〟    〈豊斎翁とは梅堂国政。国丸の没年については、天保元年刊の『昔々歌舞妓物語』と天保三年刊の『三津瀬川上品仕立』     とを参照のこと〉   ◇「浮世絵師掃墓録(六)」歌川国芳 荘逸郎主人(20/25コマ)   〝(前略)成程似顔絵は評判の通り拙かつた、併し単に拙いと云つて投出しちやァ困る、先づその着附の    模様に転じて頂き度(た)い、殆ど染出したかと思ふ程巧妙なもので どうしても錦絵とは思はれない、    これは摺師の名手にも依るが、一つは京染紺屋で育つて上絵から腕を叩き込んだ証拠が歴然としてこゝ    に表れて来た、此点に至つては艶麗を誇つた国貞は愚か、師匠の豊国でも此真似は出来なかつた(中略)     歌川の双柱として国貞、国芳を対照すれば一つは柔、一つは剛、性格も国貞の上品に引替へて、此方    は広袖に足座(あぐら)で 猫を懐中(ふところ)へ入れて弟子に指図すると云ふ工合だから、テンデ反り    が合はなかつた、斯云(かうい)ふ工合で 門下も皆んなベランメヘ連中斗(ばか)り 名を呼ぶにも綽名    で通つて居た、先づ真っ先にお師匠たる国芳はヒラ/\と云ふ尊号を奉つた、これは顔が平びつたいか    ら出たのだと云ふ(以下略)〟  ◯『浮世絵』第七号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)十二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「初代豊国の手紙 一九宛」林若樹(6/25コマ)   〝 家蔵に初代豊国の一九宛てたる尺牘一通あり、其全文左の如し     新春御慶御目出度奉存候 然は去年中こがやへ小本(こほん)御稿本を早速とゞけ遣はし候処 大よろ     こびにて御座候へしが 一(いつ)セつになればさたなしに御座候間(あひだ) 去暮人遣はし 出肆は     ともあれ御代料の儀 遣はされべくと申し遣はし候処 板元にも取込み御座候て おそく改方(あら     ためかた)へ出し候や 未だあらため方にたね本御座候よし 右内へ何(いづ)れ当年分出板と存じ候     と申す事に御座候て 右ゆへに先金百疋内金にとて遣はし候 いよ/\当年目にも取かかり申(まを)     せつは残金さし上(あげ)可申(まをすべく)と申す事に御座候 扨々(さて/\)下拙(げせつ)御たのみ     申し上げ 右之仕合(しあはせ)御ゆるし可被下(くださるべく)候 先内金百疋受取り候間 持たせさ     し上げ可申(まをすべき)之処 去暮つひ/\取込みにて延引御用捨 今日持たせさし上候 御落手可     被下候 御同前にあじなもので わずかな代料とらずともの心は御座候へ共 料をはらわぬくらいの     やつはそりやくに思ふかと申す処が残念ゆへ ぜひ取立てたくなるやつに候 是らは内々他人に己(お     のれ)は及ぼさぬ事/\ 尚又当年は御作御出せいねがはしく候 何れ/\永日拝顔 万々可申上候     乍末(すゑながら)御内室様へも宜敷く御伝声被下度候 早々頓首       一九先生玉机下        豊国     此書と晩年の筆跡と覚しく、其没年文政八年を距ること遠からざる折のものと察せらる、仮に文政五    年とせんか、豊国時に年五十四、一九五十九歳なり、文中こがやといふ本屋は文化七八年頃の地本問屋    連名中にもなく、又合巻外題集にも見当らず、随つて其小本といふものも書名を推察するに難し。「御    同前にあじなもので云々」の数行、皮肉なる江戸子の気性紙上に躍如として 真に溜飲の下がる心地せ    らる、其文面の様子にても一九との交情のなみ/\ならぬを察すべし。末文御内室様へも宜敷くとある    一九の細君は後妻の様に考へらる     (以下、一九の墓碑および過去帳の解説記事あり 省略)〟   ◇「思ひ出すまゝ」可阿弥(21/25コマ)〈「丈」を「だけ」と読む場合は「だけ」と直した〉   〝(浅草観音堂奉納額 国芳画「一ッ家」)    浅草観音堂に奉額した国芳の一ッ家の額は、安政二年の春、新吉原の遊女屋岡本楼の主人から頼まれて    描いたもので、娘を菱川風に、観世音の化身は仏画に依つて、扨老婆は洋画を折衷した写生でやった、    あの老婆が娘の顎を上げて居る腕は故人落合芳幾の腕を写生したと云ふ、其れから観世音は右の手で頬    杖をついて居るが あの手が頬へぴたりと附いて居なくつて 二寸斗(ばか)り放れて居ておかしいと思    つたが今度梁の上へ納めたのを再び見に居たら、ちつとも手の放れて居ないように見へた、吾々には分    らないがこれが高い所へ上げる画法なんだそうだ、この色彩(いろざし)は同人の高弟で 彩色斗りやつ    て居た初代一松斎芳宗で、此人は国芳の始めての門葉で、互いに苦労をしあつた中なので 常に同人を    呼ぶのにも松さん/\と立てて居た。    (落合芳幾)    芳幾と云ふ人は若い内から蓄財主義の人でいつも二十五両包(つゝみ)はちやんと用意をして 肌身離さ    持つて居た。若し切追(せつぱ)詰まつて入用の時があると それをほごして使用(つかふ)ことがあるが、    直ぐ自分の身の廻りのものを質に入れても又元の二十五両包にして貯へて居たと云ふ。    (芳年の画料)    芳年の月百姿は秋山滑稽堂でやつたが、あの画料は稍高くなつて来た所で一枚十円であつた、明治十年    頃には三枚続で三円五十銭、それから五円とつた。    (国芳画「水滸伝」)    国芳の水滸伝は百八枚(或ひは百九枚)であつたが終りの七枚は狸で有名な松本芳延が補筆して居る。    (国周の武者絵)    国周と云ふ人は風俗に俳優絵が専門だが 此人の武者絵三枚続きを見た、それは文久元年版で標題を三    韓征伐と据へ 左りの崖の上に佐藤正清小手をかざして遥かの谷間を見て居る 右の崖の上に志村政蔵、    何川清左衛門、正林早太が居て 正林が大なる岩石を谷間の城を目掛けて投げ附けて居る 所が此城が    洋風の建物で雲の工合から此所だけが洋画で描いて居る、あんまりお可怪(かしい)から調べると これ    は万延元年十二月五日に和蘭(おらんだ)人ヒウスケンが暗殺されて居る、即ち是が其の諷刺絵で 国周    の武者絵だけに気がついた訳である〟    〈『三韓征伐』三枚続 一鴬斎国周画 近江屋久助板。「申八改」(万延元年(1860)八月改め)の改印があるものは確認     できたが、文久元年(1961)版は未確認。評者はこの絵の洋館襲撃をヒュウストン襲撃の暗喩と捉えた訳だが、同事件     は同年十二月五日の発生だから、改め後の出来事である。つまりこの解釈には無理がある〉   ◇「浮世絵手引草(二)」(23/25コマ)   〝・北斎の二冊物「道中画譜」は北渓の筆なり    〈北斎画『五十三次北斎道中画譜』(刊年未詳)は、北渓の絵入狂歌本『狂歌東関驛路鈴』(文政十三年刊)の挿絵を流用     したもの〉    ・浮世絵画家は凡て若書より中年に至る作品に傑作多く 晩年には優逸なるもの少なし    ・油絵風のドロ絵と称するものに 司馬江漢の在銘あるは概ね偽物也    ・春宵秘戯の画に北斎と称するもの多くは北斎の娘栄女の筆に成れり    ・初代広重の晩年の落款と二代の落款とは頗る酷似し 殆ど識別に苦しむ    ・歌麿の若書きは落款楷書にして 晩年の落款は二代と頗る酷似す    ・初代広重と三世豊国(亀戸豊国)の合作 双筆東海道は両人不和なりしを 板元調停して融和せる時の     記念出板也    ・奥村政信の板書は 以前は落款のみなりしを偽板現はれしため 落款の下に瓢箪印を押捺し 世人に     注意を与へたり 且これに丸形方一寸位ひの中に(これに依らず散し書のものもあり)付記して曰く     「通塩町此方のゑにせ版候間ひやうたん印いたし候こんげん奥村板本」されば此瓢箪なきもの前書に     して これ有るもの晩年書なり    ・前号に菊川英山の板画に一枚五円以上の物なしと記せしが そは極めて少なしと云ふ意味の誤記にし     て強ち五円以上の物なしと断言は出来ず 爰に記して前言を退(のぞ)く〟