Top        「江戸の錦絵店」小島烏水著       その他(明治以降の浮世絵記事)  ◯『浮世絵』第一号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「江戸の錦絵店」小島烏水(4/21コマ)   〝 錦絵の格から言ふと、何と言つても、日本橋が一で、神明前、麹町、飯倉、三田と段々落ちてゆく、    青山、四谷、飯田町などには、錦絵店は無かつた。尤も錦絵店の数の多いこと、商ひ高の多かつたこと    から言へば、芝の神明前であるが、あすこは、参勤交替の、諸侯方の田舎武士や、江戸見物の道者など    が、寄り集まるところで、神明前の錦絵店に限つて、今時の煙草店のやうに、若い女が、店先へ座つて    ゐたものだ 何故かと言ふと、近処に薩摩侯や、阿波仙台の大名屋敷があつて、気の荒い若侍の出入が    多かつたから、とかく間違ひが起り易い、分別顔の主人がゐたんでは さふいふときに、後が面倒なの    で、「何分女子供のことで、行き届きませんから」と、弁解すれば、格別の御構ひなく済んだからであ    る。一体江戸時代の商売は、五町から十町ぐらゐの間を、華客(とくゐ)にしてゐたのだから、近処に大    名屋敷でもあると、それだけでも、大した商ひがあつた、神明前は三島町に佐野喜だの、若与などがあ    つた、三島町は、神明前の大通りからは、裏に当たるところで、商ひはあつても、品物は二流どこが多    かつた、併し一概に、日本橋なら何処でも一流とは言へない、馬喰町などは駆け出しの初心画師(ゑし)    が多かつたが、それでも西村永寿堂などは、立派なものである如く、神明前にしても和泉屋市兵衛など    は、歴(れつき)とした大店(おほだな)である。     先づ江戸で名高ひ錦絵店を挙げると、日本橋は南伝馬町に蔦屋吉蔵、鶴屋喜右衛門の大頭株が控え、    馬喰町に森屋治郎兵衛、山口屋藤兵衛、西村与八(永寿堂)横山町には岩戸屋喜三郞通油町には藤    岡屋慶助があり、神明前には若狭屋与市、佐野屋喜兵衛、和泉屋市兵衛があり、池の端には上州屋金蔵、    伊勢屋利兵衛があり、両国には大黒屋平吉があり、銀座には川口正蔵がある。     これ等は、孰れも一流の大問屋で、板元をも兼ねてゐるが 版元を兼ねない販売店としては、十軒店    の武蔵屋が江戸一である、この店は、八代目団十郎の父、海老蔵の妾が出してゐた店だが、今の本石町    二丁目の角(この頃は角ではなかつたが)で、駿河屋といふ葉茶屋の隣家で、玄冶店のお富でも見るや    うな、粋ないゝ年増が、店頭に座つてゐた今の老人で、もし武蔵屋をよく知つてる人があつたら、その    人は、きつと錦絵好きの、お坊ッちやんであつたに違ひない、当時新版物が出ると、先づ「配り」と称    して、正銘の匂ひの高い初刷を持ち込んで来るところが、先づ第一にこの武蔵屋で、新版物は、その時    分でも、翌日か二三日内には、配られるが、神明前などになると、今月の出版が、来月になつて廻され    るやうなことがある、だから当時の人は「魚と錦絵は、日本橋を渡つちや駄目だ」と言つたもんだ そ    の代り武蔵屋の物は、同じ品でも、他所外(よそほか)より高かつたが、錦絵好きの子供は、武蔵屋のし    るしのある包み紙がなくつちや、いゝ顔をしなかつたもんだ。     武蔵屋の次は、今の三越の向ひ側にある桜井 その次が両国の大黒屋だが、こゝの特色は、場所柄だ    けに、相撲絵専門で、外では相撲の古版しかないのに、こゝばかりは、年中力士絵の新版を出してゐた     錦絵店の構造は、例外の大店は別として、大抵間口二三間奥行一間足らず、箱看板といつて、板で拵    へた行燈形の、幅一尺五寸四方、高さ四尺ぐらゐな看板を、店から六尺も離して、往来に立てゝゐる。    錦絵店と限らず、鼈甲屋でも金物屋でも、みんなこれを立てたもので、今でも薬種屋にはどうかすると、    赤玉や青玉を印したこの箱看板を出してゐるのがある、箱のうしろには、穴があけてあつて、内部は紙    屑籠に代用されてゐる、店の飾り方は版元を兼ねた大店などではやらないところもあるが、中店以下で    は、店頭(みせさき)に紙鳶(たこ)糸を張り渡し、そこへ錦絵を隙き間なく吊るしてある、節のある割竹    のワレ目の中へ、錦絵をはさんで、糸の見えないやうにしてゐる、客が来ると、主人が座りながら、錦    絵を引く 割竹だけが、糸に残つて、絵が手に入るといふやり方だ、あの柱隠しといつて、細長い美人    画を懸けるのは、無論柱の装飾であるが、浅草や、馬喰町や、神明前などの田舎物相手の店に多かつた    のである。     絵は二十四文から、三十六文が上物で、十六文が安摺や、八文のベボ絵となると、買つても包み紙を    出さない、いゝ品となると、店の名を入れた駿河半紙に包んで、版元からよこす截ち落しの柾の細紙で、    結(ゆは)ひてよこしたもんだ、中にも奉書刷の極彩色大首は、九十六文からした、さういふのは、店頭    に吊さず、影で売つてる、店頭に出すと、こんな贅沢な物を、何にするんだと、その筋の御役人に、咎    められるからだ。     錦絵の外に、草双紙は一ヶ月に、上下二冊ぐらゐ出るが、大概常得意に配つて、店頭へは、ほんの二    三冊ぐらゐしか置かない、奥女中向きの、秘画などになると、一番儲かるものであるが、さすがに小間    物屋などが、函の中へ、そつと忍ばせて、持つて往つたものだ、この外版元兼帯の錦絵店では、自製又    は取次の売薬をして、絵本などには、盛んに広告してゐる、錦絵店の前には、往来を挟めるばかりに飯    屋や露店が出がた、牛車か車力の外に、往来の邪魔をするものはなし、諸侯方の行列は、通る路筋が決    つてゐるし、至つて呑気であつた。     これは錦絵店ではないが、須原屋といふ江戸名代の本屋は日本橋通一丁目、今の白木屋の前にあつた    大店(おほだな)で、百両の買ひ物をしても、茶を一つ出さなかつたくらゐ、権式があつた、それだけ台    所は鷹揚なもので、誰が飯を喰ひに来ても、構はない、出入のものなどは、飯時には、お店へ喰ひに往    つた。     絵双紙屋の両大関は、前に述べた日本橋の南伝馬町、蔦屋吉蔵鶴屋喜右衛門である。蔦屋の店は名    高い重三郎が起して、初め通油町にあつて、紅絵問屋の函看板が出てゐた。北斎の『絵本東都遊』(寛    政十二年刊)中巻の末葉に、この店の写生があるから、就いて見られたい、南伝馬町の鶴屋の店は『江    戸名所図絵』第一巻に出てゐる(中略)この鶴屋は、京都二條通、御幸町西入南側にあつた浄瑠璃本の    問屋で名高い鶴屋喜右衛門(寛永八年版『かるかや』の奥書に、浄瑠璃屋喜右衛門後に正本屋又は鶴屋    喜右衛門と改めた)の名を、そつくり襲つたものらしい、錦絵問屋は、錦絵や絵本は勿論として、外に    全体どんな品物を、取扱つてゐたかとゆふと、若狭屋の引札に、左の如く述べてゐる。       乍憚口上(はばかりながら こうじょう)     一、私見世之儀、数年来、錦絵・絵半切商売仕来(つかまつりきたり)候(そろ)所 以御蔭(おかげを     もつて)、日に益(まし)繁昌仕(つかまつり)、難有(ありがたき)仕合(しあはせ)に奉存候(ぞんじたて     まつりそろ)、依て錦絵半切紙、生合(しようあひ)吟味仕、猶亦、紅色等格別入念(めんいれ)下直に     奉差上候間、多少共、御用向(ごようむき)為仰付被下置候(おほせつけくだしおかれそろ)様、偏(ひ     とへに)奉願上候(ねがひあげたてまつりそろ)       絵半切箱詰品々   御折手本類       東錦絵箱詰品々   雁皮紙半切類       東千代紙品々    同絵半切類       御のし色紙品々   書翰袋数品       御絵本品々     錦絵問屋(とんや)/団扇問屋 江戸芝神明前三島町  若狭屋与市     この引札文言の初めには、御目印として、店にかけた看板が引き写しにしてゐる、その看板は、波に    日の出に鷹で「風流絵半切、広重筆、若狭屋」とあるから、実際この若狭屋には、広重の作画を、絵看    板に彫刻して、軒に吊るしてあつたものと見える、外でも同じやうな、看板を出してゐあかも知れぬ、    かくして、北斎、広重、国貞等の書翰筒、鍬形蕙斎や歌川広重の江戸名所を描いた薄彩色絵半切、習字    手本絵は、店頭に並べられたのである、殊に「紅色等格別入念」とあるのは、錦絵の紅色が、よほど重    んじられてゐたことがわかる、先づ錦絵店であつて、今日の榛原を兼ねたやうな、商品を扱つたもので    ある。     私蔵の一枚の広告は、和泉屋市兵衛板で、高砂台に三つ組盃赤い日輪の彩色画があつて、形は錦絵大    である、絵に添えて一枚づゝ出したものらしい、惣振仮名つきの文句は左の通りである。     皇国(みくに)に倭絵(やまとゑ)と号(なづけ)しは、土佐の末流にして、岩佐菱川に起り、今歌川の流     れ広く、浮世絵と称し、其時々の風俗をうつして、画工の名誉多し、猶諸国の勝景を模写し、其地に     歩まずして、名所を知らしめ、且往古より近き世まで、目に見ぬ軍事のたけきさま/\なるを、今看     る如く、いさましくも描(かき)つらね、或はやごとなき君たちの、四季折々御遊覧まし/\給ふさま     など、都而(すべて)筆者の丹精をこらし、東都にこれを製せば、東錦絵とぞ美称せり、此はまた、御     客連の応需(もとめにおう)じて、之れかれを綴り合せ、一覧に備ふと云爾(しか/\)。      江戸芝神明前 書屋 甘泉堂 和泉屋市兵衛製本     一読して、浮世絵衰頽時代の錦絵のありさまが知れる、即ち北斎の時代も去つて、世は歌川派全盛と    なり、諸国の名所画では、広重一人の舞台となり、武者絵の国芳、源氏絵で豊国が、江戸市民の人気を    集中して、錦絵問屋も、之れ等を呼び物に広告をしてゐるのである。     その他、錦絵板木焼失の補ひが出来たことを、町内へ知らせに配つた錦絵問屋の広告も私蔵にあるが、    さまではと略すことにする〟