Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)その他-江戸
   原本:『嬉遊笑覧』(喜多村筠庭信節著・文政十三年(1830)自序)    底本:『嬉遊笑覧』上/下二巻 名著刊行会・昭和四十九年(1974)刊    (参照『嬉遊笑覧』上下(喜多村信節著 成光館出版部 昭和七年(1932) 五版)     (国立国会図書館デジタルコレクション)  ◯『嬉遊笑覧』上下(喜多村筠庭信節著・文政十三年(1830)自序)   ◇上 巻二「服飾」友禅 p232   〝〔松落葉〕古今ぶりに いなり参の振袖ゆかしゆふぜんもやうでそんれはへ 其頃の草子どもに友禅が    うき世絵の扇のことあまたみゆ 高平春卜が著したる粉本の縮図の末に友禅が画あり 其説に云 友禅    はその姓氏不詳 衣服扇面畳紙の絵をなす 都鄙遠近友禅模様といひならはす 布上に濃淡の絵具を施    す 水に流し洗ふに少しも絵具の落ることなし 画法の外に重宝を得たりといへり 又〔女用鑑〕に     こゝに友禅といふ絵法師ありけらし 一流を扇に書出せしかば 貴賤の男女喜悦の眉うるはしく 丹花    の唇をほころばせり 是によりて衣服のひな形を作りて 呉服師に与へし由いへり    此説の如く 友禅は法師なれば扇また畳紙などにはかきもすべし 衣服の上絵まではいかゞなり 衣服    の画は友禅が筆をまねて友禅もやうといひしなるべし 友禅が画を見しに天和貞享頃のさまなり 落款    に鳳城東友禅斎筆とあり〟    〈高平春卜は大岡春卜。「粉本の縮図」「女用鑑」は未確認〉   ◇上 巻三「書画」笑ひゑ おそくづの絵 p403   〝笑ひゑ、古くはおそくづの絵といひたり。〔著聞集〕に鳥羽僧正の許に絵かく侍法師あり。それが絵の    失を難陳する処、僧正は法師が絵かたはらいたしといはれけるを、少も事とせず、さも候はず、ふるき    上手どものかきて候おそくづの絵などを御覧候へ、その物の寸法は分に過て大に書て候事、いかでか実    にはさは候べき云々、おそはたはれたる事、くづは屑なるべし、陽物をいふに似たり。古き絵の伝はれ    る物は〔小柴垣〕〔ふくろ法師〕などの外には、いまだ見及ばず。十二枚あるもの往々あるは、鎧櫃に    収めたる物とへいり、又衣櫃に納ることもあり。枕画をいふは、貞徳が〔油粕〕に、たうとくもありた    うとくもなし、枕絵を羅漢のおくに書そへて。其碩が〔賢女心化粧〕清少納言も次第に不如意にて、袋    入の枕草紙をして内証のたすけとし給へ共云々、戯文ながら其頃是を枕草紙といひしを知る〟   ◇上 巻三「書画」笑 p404   〝笑といふは〔一代男四〕枕ゑひとり笑ひを見て 〔誰袖海〕ひとり笑に殿心おこり書目にひとり笑一冊    とあり是なるべし 枕絵の名はこともなきことから〔職人尽〕枕売の旁らに 今一のかた持て候 ひそ    かにめし候へといふ詞あり 今一つと隠していへるは〔雍州府志〕に殿枕ともいへり 是長枕にや〟   ◇上 巻三「書画」枕絵 p404   〝枕絵を鎧櫃衣ひつに収むるは蠧の喰はざるまじなひ也といへり    (中略、春画は蟲や火災の厭勝(まじない)だと説く明・徐渭の『青藤山人路史』を引く)    書厨に(春画)を納るは彼処にては火災を厭(きら)ふとなれば こゝに取りちがへて覚えたるものなるべ    し 鎧びつのかたは武士の軍陣又は他国に勤番する者は携さへ その衣びつの方は奉公する婦人の秘も    たりしより始れることなるべし(中略)    (松永)貞徳が〔油粕〕に 逢坂山をこゆるはりかた 恋の文いれて旅たつ具そくひつ(中略)    好々先生は京かた 望南飛はあづまかた也 この類を〔不求人〕に角先生ともいふ       ◇上 巻三「書画」やまと絵 p408   〝菱川吉兵衛みづから大和絵師と称(とな)へしはいと妄なるを 西河祐信等顰(ひそみ)にならひて これ    を称せり 岩佐又兵衛をその頃うき世又兵衛と称へたれば 菱河等も浮世絵師と称へんにはこともなか    るべし この浮世といふことは 仏家にいふとは異にて 今世に当世といふごとし おなじく時好にか    なへるさまをいふなり 猿楽狂言きんし聟といふに浮世人といふことあり是なり 岩佐又兵衛は貞幹が    〔好古日録〕に小伝ありといへども覚束なしとぞ 土佐家の門人語りける又兵衛が画名印などある物な    ければ たしかには弁へがたけれども その時代にて絵の勝れて見ゆるを又兵衛と定む 其頃まぎらは    しき画あり 是は内匠といふ者の絵なり 専ら浮世絵をかきたる上手なり 西鶴が〔大鑑〕にも承応元    年のことをいへる処に 浮世絵の名人花田内匠といへる者美筆を尽しけるとあり また雛屋立圃といふ    者あり 許六が〔歴代滑稽伝〕に立圃は野々口氏也 貞徳門人にして撰集あまたあり画を能す 〔京童〕    は中川喜雲が撰なり 画をば立圃がかきたるにや 自画也とは紛らはし 立圃が自画讃などの草画をみ    るに 瀧本坊などが風に近く版本の絵とは異なり 許六も絵をかくことを好める者なれば みだりにい    ひしにはあらじとおもへどこゝの文疑はし〟   ◇上 巻三「書画」ひし川 p409   〝菱川師宣が絵行はれしことは〔続五元集〕などにも「菱川やうのあづまおもかげ」といふ句も有 また    其頃の草子〔女大名丹前能〕といふに 師宣がかける絵にけそうしたる男女のことを作れり 又〔色芝    居〕といふには 菱川は画図に妙あり 又人形を造るにも上手にて役者の姿を手づからきざみ 舞台衣    装そのまゝに彩色すといへり されども彫刻はそのまゝに工人にさせしにもあるべし 師信が後には西    河祐信聞えたり 同時に下河辺拾水といふ者絵本多くあり 絵本多くあり月岡丹下は美人をよく画けり    春画はわきて妙を得て勝れたり 其門人上手高名の者多し〟   ◇上 巻三「書画」江戸絵 勝川流 歌川流 p409   〝江戸絵は菱川より起りて後鳥居庄兵衛清信と云者あり 初め菱川やうを学びしが中頃画風を書かへ歌舞    伎の看板をかく 今に相続きて其家の一流たり 勝川流は宮川長春を祖とす 長春は菱川の弟子にはあ    らねども よく其風を学びたる者也 勝川流にては春章すぐれたり 歌川流は豊春より起る 豊春は西    村重長の弟子なり【重長は初めの鳥居清信の弟子なり 後に石川豊信といふ】此流にてはこの頃まで歌    麿が絵世にもてはやされたり 其外あまたあれ共枚挙にたえず〟   ◇上 巻三「書画」一枚絵 紅粉絵 漆絵 錦絵 彩色摺 丹絵 江戸絵   〝一枚絵は延宝天和の頃のものをみるに その紙美濃紙より大にて厚く武者絵を丹緑青黄土にて彩りたり    其外角力また遊女等の絵もあり歌舞伎役者絵もあり 是は元禄頃より殊に多くなれり 丹と黄汁にて色    とる紅粉絵となりしは 醒斎云 享保のはじめ 同朋町和泉屋権四郎といふもの 紅粉色の絵を売初め    是を紅粉絵といふ 夫より色々に工夫して 墨のうへに膠をぬり 金泥などを用ひて漆絵と云て 大に    行はるといへり 其頃の前句付「ひかりかゞやく/\、浮世絵にこの頃着せた黒小袖」    〈「丹緑青黄土にて彩りたり」は丹絵(たんえ)。醒斎は山東京伝。「享保のはじめ~紅粉絵といふ」の記事は京伝の『骨董     集』にあり。但し京伝記事は菊岡沾凉の『本朝世事談綺』からの引用。ここにいう「紅粉絵」とは「紅絵」のこと。本HP     「浮世絵事典」の「臙脂絵(べにえ)うり」及び「紅絵」参照。前句付は「ひかりかゞやく」とあるから、漆絵を詠んだもの〉    曲亭云 錦絵は明和二年の頃 唐山の彩色摺にならひて 版木師金六といふ者版すり某をかたらひ 版    木に見当を付ることを工夫して 初めて四五遍の彩色摺を製し出せしが 程なく所々にて摺出すことに    なりぬと金六語れり 明和已前はみな筆にて彩色したり これを丹絵といひ 又紅摺といへり【彼金六    は文化元年七月没すと云り】    〈曲亭は馬琴。「錦絵は~金六語れり」は『燕石雑志』から引く。この記事を大田南畝は否定している。本HP「浮世絵事     典」の「見当」参照。【彼金六は文化元年七月没すと云り】は『燕石雑志』の記事。錦絵(多色摺)以前の「四五遍の彩色     摺」を「紅摺絵」と呼ぶ〉    明和四年〔寐惚文集〕東の錦絵を詠ず 忽ち吾妻錦絵と移つてより 一枚の紅摺沽(う)れざる時 鳥居    は何ぞ敢えて春信に勝(かな)わん 男女写し成す当世の姿     衣装絵を詠ず 模様の雛方当世の装(よそほい) 板元は住して堺町の傍(そば)に在り 細工の仕上流々    の事 応に人形の傀儡坊(でくのぼう)に著(き)せるなるべし    〈「寐惚文集」は大田南畝の狂詩文集。原漢文、書き下し文は本HPが『大田南畝全集』第一巻所収の「寝惚先生文集」に拠     って行った〉    唐山には是を時行紙絵といへり(中略『東京夢算録』より「時行紙絵」の典拠を引く)    〔居行子後篇〕【安永五年】むかし愚が少年の頃迄は 江戸ゑといふ物は 市川団十郎、大谷広治等が    絵 漆ぬりにひからせ 大津ゑめきて甚田舎らしき物なりしに 今の江戸絵は飽迄粋に色めき 西川の    うき世絵も及ばぬ位 見れば心も動くばかり 人々のしる処なり〟    〈『居行子後編』は京・西村遠里の随筆。安永五年は序、刊年は同八年。引用箇所は巻之四「戯場之濫觴」にあり。「愚」     は自称〉   ◇上 巻三「書画」草双紙   〝南畝老人語りけるは 昔の絵双紙は唐かみ表紙にて 土佐浄るり本 文は金平などの本にてありしを     享保の頃より鱗形屋にて萌黄の表紙を付(け)鳥居流の絵本を出す 是青本の始なり 後また黄表紙とか    はりたれ共 猶それをも青本といふ 赤き表紙の本は昔よりありて 是を赤本と呼ぶ また表紙の標書    (ウハカキ)を紅摺にし 双紙の絵も鳥居風をかへて 当世錦画様の画となりしは 宝暦十年庚辰の春 油町    丸小山本九兵衛が家の草子 丈阿戯作の本を始とす これより所々のさうし題号みな紅摺となりたれ共    鱗形屋のみ古風を守しが 安永五年丙申より 草子の絵また表紙の題号ともに風をかへて 紅摺となす    【是迄は例年青表紙に題号を書(き)赤き紙に画をかきたり】といへり〟   ◇上 巻五「宴会」書画会   〝近来書画会所々の料理茶屋に於て催すこと四時絶ることなく盛りに行はる 其卑俗なること御法度のは    な会とて小歌上るりをどり子共の名弘めに異ならず 年中其事にかゝつらひて興行をなす者は 菊池五    山大窪天民が輩なり 馬喰町の扇面亭など もと狂歌会の催主占正が輩をたのみ 扇を売に出しが書画    にも出はじめ 其会になれて此会催す者は 必づ扇面亭・五山を頼みて催さねばならぬやうになりたり〟  ◯『嬉遊笑覧』上下(喜多村筠庭信節著・文政十三年(1830)自序)   ◇下 巻六「児戯」絵のぼり   〝(江戸)鍾馗のぼりは紙を用るもあれど それも此ごろは少なきや 版行の絵などは絶たり【奥村文角    などは墨絵の鍾馗を版にて摺たる目玉に金箔置たるなどありし】   ◇下 巻七「行遊」三俣新地   〝安永二年巳二月頃 新大橋際三俣埋立地できぬ 其頃伊豆天城山にて始て炭を焼 同国仁科一色村文右    衛門と云もの 運上金を差出し此事を営む 炭を上中下に別ち売に 下の分は粉砕けたるこな炭にて     蛤粉を焼に用しが 此時中州を埋め築く者ども工夫して これを買埋めしかば はか行て成就すと云ふ    此処を富永町と名付け 観場を設け茶店をしつらひ 夏日納涼の勝地となりしが 其中に売女多く出来    しかば【折ふし吉原焼て妓家こゝに仮宅せり】是を禁ぜられて 家屋は引料下し置かれ 秋元侯御手伝    にて 寛政元年霜月より川浚始り 翌人二年五月ころ迄に もとの如く河と成ぬ〟