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見世編 【ほ】大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 〔見世編〕大田南畝関係
【望汰欄】(ぼうだら)(升屋 祝阿弥)(ますや しゅくあみ)※◯は欠字、◎は表示不能文字
詞書・詩歌出典巻・頁年月日
「正月十二日、菅江・嘉十・田阿と同に、土山沾之及び流霞夫人に陪して、洲崎に遊び、望汰欄に宴す。(中略)望太欄は酒楼なり。松江の老侯、数(シバシバ)斯の枝を然(モヤ)せしなり。其の海に瀕するが故を以て、名づけて望太欄と曰ふ。乃ち楼上に扁し、金壁目に緊(マツハ)る。楼は東南に向く。彫琢を仮らず、樸素最も妙なり。庭上に松樹あり。松間に海を見る。布帆出没し、鳬鷖浮沈す。凡そ工構の妙、包厨の美、蓋し東都第一なり」三春行楽記⑧40天明2年
1782/01/12
「春晴、望汰欄に遊ぶ【洲崎に在り】
 望太欄前万里流 紅亭麗日意悠悠 偶陪仙侶偸余暇 更対賢人散百憂 汀上浅沙随鶴歩 松間遠水見鴎浮
 飄然一酔濡足 直指三山到百十洲

【洲崎に鶴歩巷有り、主人家醸に名づけて鶴歩と曰ふ】」
南畝集5
漢詩番号01063
③367
「正月十六日、布施氏及び夫人・万年氏・金子氏・文竿と同(トモ)に、重ねて望汰欄に遊ぶ。歓、日を竟(ヲ)ふ」三春行楽記⑧40天明2年
1782/01/16
「二月二日、文竿子と同に、万年氏・青木氏・□氏・伊賀侯の臣大橋氏に陪して、望汰欄に遊ぶ。二歌妓を命ず。阿仙と曰ひ、阿兼と曰ふ。阿仙は唐詩を誦す。余に唐詩を解くことを請ふ。余、後に唐詩捷径を作りて、之に贈る」三春行楽記⑧41天明2年
1782/02/02
「春日、望汰欄に遊ぶ
 欲解劉伶五斗酲 江頭遥指一旗亭 遅々暖日含煙白 楚々新松映水青 鸚鵡杯中浮北海 大鵬天外撃南溟
 春風吹面晴光好 遮莫吾生酔不醒」
南畝集6
漢詩番号1079
杏園詩集二
③373
⑥66
天明2年
1782/03/04
「三月四日、宿酔未だ醒めざるに、望汰欄に遊ぶ。里長数人、宴を観ること終日、遂に五陵子と同に望汰欄に宿す」
〈三日、土山沾之宅にて曲水の宴、夜、万年氏宅にて杯盤狼藉、大酔して星野文竿宅に臥す〉
三春行楽記⑧41
「三月五日、夙に起き、洲崎の天女宮に至る。望汰欄に還れば、会文竿子至る。乃ち主人と相携へて鶴岡の神宝を観んと、深川八幡宮に至る」三春行楽記⑧41天明2年
1782/03/05
「三月十八日、土山沾之・流霞夫人・菅江・嘉十・文竿と同に、望汰欄に遊ぶ」三春行楽記⑧43天明2年
1782/03/18
「洲崎の望汰欄にて 望だらにならねばとても須磨の浦波こゝもとによるひるの客」巴人集②417天明3年
1783/09/
「冬の夜、州崎なる望汰欄に月をながめて
 望汰蘭になりて海べをながむれば月かげさむし宵の口しほ  空と海ひつたり月の中川のばら/\松にたつ千鳥かな」
〈『巴人集』は「月も出たり宵の口しほ」〉
巴人集
徳和歌後万載集
②423
①27
天明3年
1783/12/
「病後、諸子と同じく望汰欄に飲す
 晴日憑欄望 漁舟撃汰過 軒臨滄海闊 窓対緑陰多 把酒千憂散 開盤百味和 病余纔数日 幸得発酣歌」
南畝集6
漢詩番号1267
③435天明5年
1785/05/
「すきやがし狂歌堂をとふ。ともなひ出で、舟にのり、深川の辺、茫花楼にあそぶ
 岩にかきがらはなれぬ中を洲崎そば切きれたがる  狂歌堂
 升屋が居たらはからうか酔て望汰欄しよいとねたへ  杏花園」
細推物理⑧342享和3年
1803/01/08