Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿浮世絵師名一覧
〔宝暦3年(1753)? ~ 文化3年(1806)9月20日・54歳?〕
(北川豊章参照)
  「歌麿」は「うたまろ」か「うたまる」か うたまろ?うたまる?(本HP「浮世絵用語」の項)    ※〔漆山年表〕  :『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」国文学研究資料館   「日文研・艶本」:「艶本資料データベース」   〔白倉〕  :『絵入春画艶本目録』   『黄表紙總覧』棚橋正博著・日本書誌学大系48   『洒落本大成』1-29巻・補巻 中央公論社   『稗史提要』 比志島文軒(漣水散人)編   『江戸小咄辞典』「所収書目解題」武藤禎夫編   『噺本大系』  「所収書目解題」武藤禎夫編    ☆ 宝暦十一年(1761)    ◯「読本年表」〔目録DB〕   ◇読本(宝暦十一年刊)    北川豊章画『古実今物語』清凉井蘇来作 宝暦十一年    (『改訂日本小説書目年表』に「北川豊章画 安永八年再摺、文化元年三摺版あり」の注記あり)    〈「日本古典籍総合目録」も「『古実今物語』清凉井蘇来作・北川豊章画・宝暦一一刊」とする。渋井清著『歌麿』に     はその安永八年版が紹介されており、写真版によると「宝暦十一辛巳正月吉日/安永八己亥正月再版」の刊記があり、     署名は「画工 北川豊章画」となっている〉    ☆ 明和七年(1770)    ◯『喜多川歌麿』(千葉市美術館「喜多川歌麿展」カタログ「解説編」1995年)   (浅野秀剛著「歌麿版画の編年について」)   〝歌麿の初作は、明和7年(1770)春刊の絵入俳書『ちよのはる』の挿図一図(図版第453図)である〟    〈茄子図の「少年 石要画」の署名があり。この石要が歌麿とされる〉    ☆ 安永四年(1775)    ◯『歌麿』p41(渋井清著・アソカ書房・1952年刊)   〝富本正本、四十八手恋所訳、上下二冊、北川豊章画・安永四年中村座顔見世、花相撲源氏張謄、板元、    両国吉川町大黒屋平吉板〟    〈『黄表紙總覧』前編、棚橋正博氏の解説によると、この『四十八手恋所訳』が豊章画の初筆とされる〉    ☆ 安永六年(1777)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安永六年刊)    喜多川歌麿画『明月餘情』初~三編三冊 画工不明(歌麿風)朋誠序 蔦屋重三郎板    (吉原俄。豊章時代の画也)    ☆ 安永七年(1778)    ◯『黄表紙總覧』前編(安永七年刊)    北川豊章画『通鳧寐子の美女』「豊章画」「黄山堂作(シュンマム)印」伊勢惣板     〈黄山堂は窪俊満〉    ◯『俗曲挿絵本目録』(漆山又四郎著)    北川豊章画『大津絵姿花』(長唄)豊章画 和泉屋板 安永七年板〔安永07/02/18〕    ☆ 安永八年(1779)    ◯『黄表紙總覧』前編(安永八年刊)    北川豊章画『東都見物左衛門』「北川豊章」「松壹舎戯作」西村屋板     (備考、松壹舎は板元・西村与八とする)    ◯「国書データベース」(安永八年刊)   ◇黄表紙    北川豊章画『振袖近江八景』豊章画 松壺堂作 板元未詳    ◯『洒落本大成』第八巻(安永八年刊)    北川豊章画『女鬼産』「豊章画」無気しつちう作     ◯『噺本大系』巻十一「所収書目解題」(安永八年刊)    北川豊章画『寿々葉羅井』「豊章画」志丈作 竹川藤助板    ◯『歌麿』p44(渋井清著・アソカ書房・1952年刊)   〝読本「【童唄】古実物語」の安永八己亥正月の再版本は、松屋庄吉、竹川藤兵衛、合梓であり、筆工米    山鼎峨、画工北川豊章画の挿絵で出されている。鼎峨は高砂町隠士文渓堂といつて当時名高い筆耕師で    あつた〟    〈写真版の挿図には「画工 北川豊章画」の署名がある〉    ◯「日本古典籍総合目録」(安永八年刊)   ◇黄表紙    北川豊章画『通鳧寝子の美女』『東都見物左衛門』〈豊章は喜多川歌麿〉    〈『黄表紙總覧』は前出のように『通鳧寝子の美女』を安永七年刊とする〉    ☆ 安永九年(1780)    ◯『戯作外題鑑』〔燕石〕⑥56(岩本活東子編・文久元年)   (「安永九庚子年」)   ◇⑥55   〝芸者呼子鳥 一冊〟
  ◇⑥56   〝補 芸者虎の巻 二冊 松泉堂作 北川豊章画 西与    呼子鳥同書にや、弁天於豊、於富の噂ばなし也、画工北川豊章は北川歌麿の師なるべし、洒落本をも画    く〟    〈下出、棚橋正博著『黄表紙總覧』は『【芸者】呼子鳥』松泉堂作・北川豊章画・安永九年刊とする。『戯作外題鑑』     の「芸者呼子鳥 一冊」に作画者名はないがこれに相当する。ただ「補」注は不審である。「北川豊章は北川歌麿の     師なるべし」とあるのは豊章と歌麿とを別人とするものであるが、同人説が一般であり、豊章は喜多川歌麿の前名で     あるとされる。歌麿の師匠は鳥山石燕、名を豊房と云う、あるいはこれと混同したか。また『芸者虎の巻』を松泉堂     作・北川豊章画とするのも不審で、同書は洒落本で『妓者呼子鳥』(田螺金魚作・湖竜斎画・安永六年刊)の改題本     である。2012/02/04訂正〉    ◯『黄表紙總覧』前編(安永九年刊)(〔 〕は著者未見、諸書によるもの)    北川豊章画    『近江八景』「北川豊章画」「松壺堂作」西村屋板(備考、作者松壺堂は板元・西村与八の戯作名かとする)    『呼子鳥』 「北川豊章画」「松泉堂作」西村屋板    〔恋の浮橋〕「北川書」  「松壺堂作」西村屋板    ◯「艶本年表」〔白倉〕(安永九年刊)    喜多川歌麿画『花合瀬恋皆香美』墨摺 中本 二または三冊 安永九年頃     (白倉注「歌麿艶本の初作か。黄表紙仕立て」)  ☆ 天明元年(安永十年・1781)    ◯『黄表紙總覧』前編(安永九年刊)(〔 〕は著者未見、諸書によるもの)    喜多川歌麿画    〔身貌大通神略縁起〕「画工忍岡哥麿」「作者志水燕十」蔦屋板     序「于時安永十何やらを十八町する初春、志水燕十大笑曰、古々路もながきうしの初春 忍岡数町遊       人うた麿叙」    ◯『江戸小咄辞典』「所収書目解題」(天明元年刊)    北川豊章画『鳴呼笑』鼠足舎万化作(解題「丑年とあれば、寛政五・文化二年刊かもしれぬ」とする)    ☆ 天明二年(1782)    ◯『洒落本大成』第十一巻(天明二年)    歌麿画?『山下珍作』奈蒔野馬乎人作    △「判取帳」天明三年頃成   (浜田義一郎著「『蜀山人判取帳』補正<補正>」「大妻女子大学文学部紀要」第2号・昭和45年)   〝天明二のとし秋忍が岡にて 戯作者の会行いたし候より作者とさく者の中よく 今はみなみな親身のご    とく成候も 偏に縁をむすぶの神 人々うた麿大明神と尊契し 御うやまひ可被下候〟     〈歌麿はこの年の秋、忍が岡(上野)で戯作者の会を催し、何ごとかはっきりしないが戯作者同志のいざこざを調停し     たかのような書きぶりである。この「判取帳」の全文は天明四年の項参照〉     ☆ 天明三年(1783)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天明三年刊)    喜多川歌麿画『青楼夜の錦』一冊 画工喜多川哥麿 蔦屋重三郎板    ◯『黄表紙總覧』前編(天明三年刊)(〔 〕は著者未見、諸書によるもの)    喜多川歌麿画    〔源平総勘定〕「うた麿画」 「四方山人著」      蔦屋板    『啌多雁取帳』「忍岡哥麿画」「奈蒔野馬乎人(燕十印)」蔦屋板     〈四方山人は四方赤良(大田南畝)。奈蒔野馬乎人は志水燕十〉    ◯『洒落本大成』第十二巻(天明三年)    喜多川歌麿画    『三教色』「うた麿画」 唐来参和作 志水ゑん十序    『智恵鏡』署名なし 雲楽山人作 志水ゑん十序 忍岡うた麿跋     (解題、跋が歌麿であることから画工も歌麿であろうとする)    ◯『源平総勘定』〔南畝〕⑦501 (天明三年刊)   ◇黄表紙  〝四方山人著、うた麿画〟(蔦屋板)        △『狂文宝合記』(もとのもく網・平秩東作・竹杖為軽校合、北尾葎斎政演・北尾政美画・天明三年六月刊)   〔天明三年(1783)四月二十五日、両国柳橋河内屋において開催された宝合会の記録。主催は竹杖為軽〕   〝雲龍之硯 画工歌麿事 筆綾麿 家宝〟   (画の説明文)〝雲間の硯〟   (狂文)〝むかし此硯のうみに龍の形したる斑あり。或日天気快晴の折節、雲を発して飛去りけり。夫よ    り後は只の硯の破(ワレ)たるにて何の役にも立ざれど、龍の出た殻(カラ)ものじやと言けるを唐(カラ)もの    と間違へて、掘出しの気で買取し我家の不重宝なり〟    〈この宝合会に出品参加した浮世絵師は、歌麿(筆綾麿)のほかに、北尾政演(身軽織輔・山東京伝)、北尾政美(麦     原雄魯智)、窪俊満(一節千杖)、喜多川行麿。また、浮世絵師ではないが、浮世絵を画いた絵師までいれると、恋     川春町(酒上不埒)、高嵩松(元の木阿弥)、つむりの光など名が見える〉    △『狂歌師細見』(平秩東作作・天明三年刊)   ◇(「入山形に蔦の図」に「唐丸」の漢字を配した旗印、屋号「つたや三十郎」の狂歌連、松風、元成、     高見などに続いて)   〝うたまる〟   〝けい者 浮世ゑし うたまる 外のもかゝせ申候〟    〈天明三年当時は「歌麿」を「うたまる」と呼んでいたか。『狂歌師細見』は「吉原細見」にならって、狂歌師を遊女     に見立てて、連ごとに名寄せをしたもの。「うたまる」は「吉原連」に所属する。この「うたまる」記事も、天明三     年正月の『新吉原細見』に「つる屋忠右衛門」方の記事「げい者 千次 外へも出し申候」のもじりとされる。なお     「外のもかゝせ申候」とは、抱え主「つたや三十郎(蔦屋重三郎)」以外の求めにも応ずるという意味。(『いたみ     諸白』渡辺守邦解説(濱田義一郎編・昭和五四年刊『天明文学』所収))なお、渡辺氏は『狂歌師細見』の刊行を天     明三年六~七月のこととする〉       ◇(巻末「戯作之部」に続いて)   〝画工之部    哥川 豊春       北尾 重政 同 政演 同 政美    勝川 春章 同 春朗 同 春常 同 春卯 同 春英 同 春暁 同 春山    関  清長      うた麿 行麿〟    △「判取帳」天明三年頃成   (浜田義一郎著「『蜀山人判取帳』補正<補正>」「大妻女子大学文学部紀要」第2号・昭和45年)   (屏風の版画貼込図あり) 〝口演 此度画工哥麿義と申すり物にて 去ぬる天明二のとし秋忍が岡にて 戯作者の会行いたし候より    作者とさく者の中よく 今はみなみな親身のごとく成候も 偏に縁をむすぶの神 人々うた麿大明神    と尊契し 御うやまひ可被下候以上 四方作者どもへ うた麿大明神〟    (四方赤良(大田南畝)の注)〝画工哥麿〟    〈浜田義一郎氏によると「屏風の版画貼込」の中にある名前は次の顔ぶれとのこと。「四方の赤良、あけら菅こふ〔朱     楽菅江〕、〔市場〕通笑、〔芝〕全交、〔豊〕里舟、岸田〔杜芳〕、恋川はる〔春〕町、朋誠洞〔堂〕喜三二、しん     らばんぞう〔森羅万象〕、なんだかしらん〔南陀加紫蘭・窪俊満〕、山の手のばか人〔山手馬鹿人〕、ゑんば〔烏亭     焉馬〕、志水燕十、〔伊庭〕可笑、雲らく〔楽〕斎・田にしきんぎよ〔田螺金魚〕、風車」(〔 〕は本HPの注)以     上が戯作者。そして絵師の出席者としては、北尾、勝川、清長の名ありとする。この「北尾、勝川」は重政と春章の     ことであろう。ところで、この「貼込」は豊章から歌麿に改名したときのチラシであろうとされている。(渋井清著     『歌麿』および『いたみ諸白』渡辺守邦解説(濱田義一郎編・昭和五四年刊『天明文学』所収))版本上、豊章から     歌麿名に変わるのは、上出のように天明元年(安永十年)刊から。従って改名は安永九年、そしてその披露は同年か     天明元年のあたりと考えられる。ただ、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」を見ると、豊里舟と岸田杜芳の     作品が登場するのは、天明二年からである。もしこのチラシが天明元年のものだとすると、まだ世に出ていない里舟     や杜芳が名を連ねていることになる。気になる点である。2012/02/06追記〉     〝画はうた麿門人竹杖すがる 画譜(挿絵「遊女道中」)寄傾城神祇 うかれ女が誠をみすのかみ心と    けて近江のきやく人の宮    (四方赤良(大田南畝)注)〝森島万蔵、称竹杖為軽、初号天竺老人、号万象亭〟    〈万象亭(森島中良)は歌麿から絵を習ったようである〉    ☆ 天明四年(1784)    ◯『稗史提要』p366(天明四年)   ◇黄表紙    作者の部 春町 喜三二 通笑 京伝 全交 杜芳 亀遊女 楚満人 四方山人 窪春満 万象亭         唐来三和 黒鳶式部 二本坊寉志芸 飛田琴太 古河三蝶 幾治茂内 里山 邦杏李          紀定丸    画工の部 清長 重政 政演 政美 春町 春朗 古河三蝶 勝川春道 哥丸    ◯『黄表紙總覧』前編(天明四年刊)(〔 〕は著者未見、諸書によるもの)    喜多川歌麿画    『亀遊書双帋』 「哥麿画」 「喜三二門人亀遊作」 蔦屋板    『従夫以来記』 「うた麿画」「竹杖為軽」     蔦屋板    『太の根』   「うた麿画」〔宿屋飯盛画〕    蔦屋板    『二度の賭』  「うた麿画」「四方山人著」    鶴屋板     (備考、天明三年刊『源平総勘定』の改題再摺再板本とする)    『他不知思染井』「うた麿画」            「京伝妹十四歳 小女黒鳶式部作」 鶴屋板    『新田通戦記』 「うた麿画」「作者四方門生紀定丸」松村板    〈『戯作外題鑑』(〔燕石〕⑥63)、天明四年の項、『夫従(ママ)以来記』『二度の賭』及び『新田通戦記』の画工表記は     「歌丸画」とある。これは「うた麿」の表記を「うたまる」と呼んでいた例証の一つと捉えてよいのだろう〉    ◯『洒落本大成』第十二巻(天明四年刊)   (正月刊・洒落本『彙軌本紀』島田金谷著)   〝当世流行するものは何々ぞ(中略)浮世画は 花藍 春章 清長 湖竜 歌麿〟    〈花藍は北尾重政〉    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天明四年刊)    喜多川歌麿    『艶本仕男沙汰女』墨摺 半紙本 三冊 天明四年     (白倉注「歌麿の初期なれど、歌舞伎の恋人たちの情事を趣向としている。口絵の第一図は「妹背の門松」と題して      「おそめ久まつ」を採りあげている」)  ◯「序跋等拾遺」〔南畝〕⑳52(天明四年刊)  〝天明四年『古湊道中記』跋(【小本一冊、房州誕生寺案内記。天明四年四月十三日山谷不可勝序。喜多    川歌麿筆。蔦屋板】)(以下跋、略)〟    〈南畝が跋を認めたのは大田家自身日蓮宗だからであろう〉    ◯『二度の賭』〔南畝〕⑦296 (天明四年刊)     〈天明三年刊、黄表紙『源平総勘定』の再版〉    ◯『年始御礼帳』黄表紙(四方赤良作・千代女画・天明四年刊)   〝錦画 雲楽斎    あらたまのとしの初の一まい絵二枚屏風にはるのいへづと〟    〈錦絵の一枚絵や草双紙(青本=黄表紙)は江戸の正月を彩る風物詩になっている。家への手みやげに買い求め、二枚     屏風に張り交ぜて楽しんだのである。下出の二枚屏風の画像には「清長画」の署名が見える。「風俗東之錦」のよう     な絵柄である〉
   張り交ぜ絵 千代女画(東京大学附属図書館・電子版霞亭文庫)      〈『黄表紙總覧』前編(棚橋正博著・日本書誌学大系48・昭和六十一年)、天明四年刊『年始御礼帳』の備考によると、     この挿絵を担当した「哥麿門人千代」は歌麿自身とのこと(浜田義一郎氏説)である〉    ◯『いたみ諸白』(四方赤良編・蔦屋板・天明四年七月刊)   (狂歌師、大門喜和成追悼集 喜和成は天明三年四月十九日、摂津の池田に客死。享年十七歳・俗名 奥    田幸藏国儔)   〝親しき予が友成の一子喜和成こそ東縁に儀を結てしより、はかなく難波の煙ときへしも、今ハさりし比    暇乞に来りて、予も名残をおしみ、斯なる身とハしらでいゝけんも口おしく、はやくもまめで帰り給ふ    べしとふかく頼けれバ、喜和成 〽まめでころ/\はやくかへりなバ君もころ/\嬉しかるらん と読    てわかれしが、今日思へバ、はからざる世や 一名哥麿筆綾丸         はからざる身を一生もまめならで気をうすのめと思ひ切る世に〟   (巻軸にも綾丸の追悼歌あり)     〝其尾にも付けんと思ひし足引のやまとめぐりやながき別れ路〟       ◯『いたみ諸白』筆綾丸(歌麿)編・天明四年七月刊(『天明文学』浜田義一郎編・p378)   (狂歌師、大門喜和成追悼集 喜和成は天明三年四月十九日、摂津の池田に客死。享年十七歳・俗名 奥    田幸藏国儔)   〝親しき予が友成の一子喜和成こそ東縁に儀を結てしより、はかなく難波の煙ときへしも、今ハさりし比    暇乞に来りて、予も名残をおしみ、斯なる身とハしらでいゝけんも口おしく、はやくもまめで帰り給ふ    べしとふかく頼けれバ、喜和成 〽まめでころころ/\はやくけへりなバ君もころ/\嬉しかるらん     と読てわかれしが、今日思へバ、はからざる世や  一名哥麿 筆綾丸      はからざる身を一生にまめならで気をうすのめと思ひ切る世に    思ひ出せし言の葉を筆にのこすいとまなく、たゞ身まかりし月日のみうらみかこちて  同      命毛のみじかきさきを墨ぞめのころも卯月とかくばかりなり〟   (巻軸にも綾丸の追悼歌あり)   〝其尾にも付んと思ひし足引のやまとめぐりやながき別れ路  綾丸〟    〈『いたみ諸白』は、天明四年四月十九日、摂津の池田(伊丹)で急逝した大門喜和成(享年十七歳)の追悼狂歌集。     『天明文学』所収『いたみ諸白』の解説で、渡辺守邦氏はこの追悼集の編集者を筆綾丸(歌麿)とする。喜和成とは     共に吉原連に属していたが、極めて親密な間柄であったことが分かる〉    ◯『俗曲挿絵本目録』(天明四年刊)    喜多川歌麿画『道行野辺の書置』(富本)哥麿画 桜田次助述 蔦屋板 天明四、五月〔天明04/02/14〕     〈〔~〕は立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」の上演データ〉    ☆ 天明五年(1785)    ◯『稗史提要』p368(天明五年)   ◇黄表紙    作者の部 喜三二 通笑 京伝 全交 三和 恋川好町 蓬莱山人帰橋 夢中夢助 二水山人 鳴瀧         録山人信鮒    画工の部 清長 重政 政演 政美 春朗 哥丸 勝川春英 旭光 道麿 千代女 勝花 柳交    ◯『黄表紙總覧』前編(天明五年刊)(〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    喜多川歌麿画    『莫切自根金生木』「千代女画」    唐来参和  蔦屋板     (備考、千代女は歌麿一時の仮号とする)    『元利安売鋸商内』「哥麿門人千代女画」恋川好町  蔦屋板    『長者の飯食』  「喜田川哥麿画」  万葉亭好町 蔦屋板    『嘘皮初音鼓』  「喜田川千代女画」 桜川杜芳  蔦屋板    〔鮹入道佃沖〕  「哥麿画」     喜三二   蔦屋板    ☆ 天明六年(1786)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天明六年刊)    喜多川歌麿画    『絵本江戸爵』三巻 歌麿画 都多唐丸編 朱楽館主人序 蔦屋重三郎板    『潮干のつと』一帖 画工喜多川歌麿図 蔦屋重三郎板     〈〔目録DB〕は寛政元年刊とする〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天明六年刊)    喜多川歌麿画『絵本江戸爵』三冊 喜多川歌麿画 蔦唐丸編・朱楽菅江作 蔦屋重三郎板    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天明六年刊)    喜多川歌麿画    『艶本幾久の露』墨摺 半紙本 三冊 腎虚亭(振露亭)序 天明六年     (白倉注「色摺の再摺本あり歌麿初期の傑作。一丁半に亘る近接画法の図が新鮮だ」)    ☆ 天明七年(1787)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天明七年刊)    喜多川歌麿画    『絵本詞の花』二巻 喜多川歌麿画 宿屋飯盛序 蔦屋重三郎板    『麦生子』  一冊 鳥山石柳女画 歌麿画 七十七翁石燕戯画 蔦屋重三郎板         (巻末に蔦の本の哥麿ト署し狂歌あり、歌麿蔦屋の食客タリシ事◎明ラカナリ)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕   ◇狂歌(天明七年刊)    喜多川歌麿画『絵本詞の花』二冊 喜多川歌麿画 宿屋飯盛序 蔦屋重三郎板    ◯「日本古典籍総合目録」(天明七年)   ◇黄表紙    喜多川歌麿画『長者の飯食』好町作    〈『黄表紙總覧』は天明五年刊とする〉    ◯『洒落本大成』第十四巻(天明七年)    哥麻呂画『不仁野夫鑑』東湖山人著    ☆ 天明八年(1788)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天明八年刊)    喜多川歌麿画『画本蟲ゑらみ』一巻 喜多川歌麿筆 宿屋飯盛撰 鳥山石燕序 蔦屋重三郎板    ◯『稗史提要』p373(天明八年)   ◇黄表紙    作者の部 喜三二 通笑 京伝 三和 杜芳 春町 石山人 万宝 虚空山人 山東唐洲    画工の部 重政 政演 政美 哥丸 蘭徳 春英 行麿    ◯『黄表紙總覧』前編(天明八年刊)(〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    喜多川歌麿画    『狂言末広栄』「うた麿画」「京伝作」      蔦屋板(備考、恐らく寛政三、四年頃の作かとする)    『雪女廓八朔』「哥麻呂画」「京伝門人山東唐洲作」鶴屋板(備考、山東唐洲の黄表紙初作とする)    ◯『洒落本大成』第十四巻(天明八年)    喜多川歌麿画    『替理善運』「うた麿」甘露庵山跡蜂満作    『曾我糠袋』「うた麿」山東唐洲作    (解題『替理善運』の刊記は「天明八年正月」となっているが、これは偽装で、実際は寛政六年の成立であろうとする)    ◯『噺本大系』巻十二「所収書目解題」(天明八年刊)    喜多川歌麿画『百福物語』「うた麿画」春町・行町・喜三二合作 伏見屋板 天明八年正月刊    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天明八年刊)    喜多川歌麿画    『画本虫撰』  一帖 喜多川歌麿画 宿屋飯盛撰 蔦屋重三郎板    「夷歌連中双六」一枚 筆綾丸画 蔦唐丸撰 蔦屋重三郎板〔狂歌書目〕〈筆綾丸は歌麿の狂歌名〉   (参考)   〝「虫撰(むしえらび)」は初版天明にして文政に再摺あり〟   (『浮世絵』第五号「浮世絵手引草(一)」国立国会図書館デジタルコレクション(19/25コマ)    ◯「艶本年表」(天明八年刊)    喜多川歌麿画    『歌枕』一冊 喜多川歌麿画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『歌満くら』 大錦 十二枚組物 喜多川歌麿画「本所のしつ深(唐来参和)序」〔白倉〕     (白倉注「いわずと知れた春画の最高傑作。その斬新な画法は、国内よりも海外での評価が高い。序の板下は朱楽菅江     という」)     ☆ 天明年間(1781~1788)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天明年間刊)    喜多川歌麿画「夷歌連中双六」一枚 筆綾丸画 蔦唐丸撰 蔦屋重三郎板     ◯「艶本年表」〔目録DB〕(天明年間刊)    喜多川歌麿画    『花合瀬恋皆香美』二巻 歌麿画 天明頃刊(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ☆ 寛政元年(天明九年・1789)    ◯「絵本年表」(寛政元年刊)    喜多川歌麿画〔漆山年表〕    『絵本譬喩節』三巻 画工喜多川歌麿図 天明九のとしつむり光序 和泉屋源七板    『狂月坊狂歌』一帖 喜多川歌麿製 紀定丸序 耕書堂板    喜多川歌麿画〔目録DB〕    『潮干のつと』一帖 喜多川歌麿画 朱楽菅江編    『絵本百囀』 二冊 喜多川歌麿画 奇々羅金鶏撰    『龢謌夷(ワカエビス)』一帖 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎板    〈鈴木重三著「歌麿絵本の分析的考察」(『絵本の研究』所収)〉     ◯『黄表紙總覧』前編(天明九年刊)    喜多川歌麿画    『嗚呼奇々羅金鶏』「うた麿画」山東京伝  蔦屋板    『冠言葉七目◎記』「哥麿画」 唐来三和  蔦屋板    『炉開噺口切』  「うた麿画」「うき世伊之介題」蔦屋板     〈噺本『太の根』(天明四年刊)と噺本『わらひ男』(天明六年刊)の再利用〉    ◯『噺本大系』巻十七「所収書目解題」(天明九年刊)    喜多川歌麿画『炉開噺口切』「うた麻呂画」うき世伊之介作 蔦屋板    〈歌麿画・天明四年刊・黄表紙『太の根』と政美画かとされる天明六年刊・黄表紙『笑ひ男』を流用した細工本〉    ◯「絵入狂歌本年表」(寛政元年刊)    喜多川歌麿画〔狂歌書目〕    『絵本譬喩節』三冊 喜多川歌麿画 つむりの光撰 蔦屋重三郎板    『潮干のつと』一帖 喜多川歌麿画 朱楽菅江編  蔦屋重三郎板    『絵本百囀』 二冊 喜多川歌麿画 奇々羅金鶏撰 蔦屋重三郎板    喜多川歌麿画    『狂月坊』  一帖 喜多川歌麿画 紀定丸編   蔦屋重三郎板〈〔狂歌書目〕は寛政二年刊〉    ◯『俗曲挿絵本目録』(漆山又四郎著)    喜多川歌麿画    『誓文色謂謎』(富本)哥麿画 瀬川如皐・増山金八作 蔦屋板 寛政元年正月 〔天明09/01/15〕    『花色香婾娘』(富本)哥麿画 桜田治助述      蔦屋板 寛政元年十一月〔寛政01/11/04〕    〈〔~〕は立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」の上演データ〉    ☆ 寛政二年(1790)    ◯「絵本年表」(寛政二年刊)    喜多川歌麿画    『絵本よもきの島』三冊 喜多川歌麿画 三陀羅撰〔目録DB〕(注記「絵本の研究等による」)    『絵本駿河舞』  三冊 画工喜多川歌麿 奇々羅金鶏序 蔦屋重三郎板〔漆山年表〕    『普賢像』    一冊 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎板〔漆山年表〕    『絵本吾妻遊』  三冊 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎板     〈鈴木重三著「歌麿絵本の分析的考察」(『絵本の研究』所収)〉    『銀世界』    一帖 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎板〈同上〉    ◯『黄表紙總覧』前編(寛政二年刊)    喜多川歌麿画    『本樹真猿浮気噺』〔喜多川歌麿画〕「蔦唐丸自作」蔦屋板     (備考、歌麿画は疑問とし、むしろ重政かとする)    『雄長老寿話』  「うた麿画」「(◯に定)謹作」蔦屋板     (「◯に定」は◯の中に定の字で紀定丸。備考、天明年中成立の板行か、旧板の再板の可能性ありとする)    『福種笑門松』  「うた麿画」 山東京伝 蔦屋板〈寛政元年刊『嗚呼奇々羅金鶏』の改刻改題再板本〉    『忠孝遊仕㕝』  「うた麿画」 通笑   蔦屋板    『玉磨青砥銭』  「うた麿画」 京伝   蔦屋板    ◯『噺本大系』巻十八「所収書目解題」(寛政二年刊)    喜多川歌麿画『福種笑門松』「うた麿画」山東京伝序 蔦屋板    〈『江戸小咄辞典』「所収書目改題」によると、寛政元年刊・黄表紙『嗚呼奇々羅金鶏』の文を削り、画はそのままに     して小咄本に仕立てたものという〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(寛政二年刊)    喜多川歌麿画『絵本駿河舞』一冊 喜多川歌麿画 奇々羅金鶏撰 蔦屋重三郎板     ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕〔白倉〕(寛政二年刊)    喜多川歌麿・勝川春潮画    『会本妃女始』墨摺 半紙本 三冊「歌麿・春潮画」湿深の性伝(唐来参和)序           序「まつちなる湿深の性伝記 寛政ふたつ 目に正月をさする頃」     (白倉注「改題再摺本に『初霞』(寛政四年・1792)」と『閨之雌雄裏』(寛政六年・1794)がある)    ☆ 寛政三年(1791)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政三年刊)    喜多川歌麿画『絵本吾妻遊』狂歌 三巻 北川歌麿 奇々羅金鶏撰 蔦屋重三郎板    〈鈴木重三氏は寛政二年刊とする。寛政二年参照〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(寛政三年刊)    喜多川歌麿画『絵本吾妻遊』三冊 喜多川歌麿画 奇々羅金鶏作 蔦屋重三郎板    ☆ 寛政四年(1792)     ◯「絵本年表」(寛政四年刊)    喜多川歌麿画〔漆山年表〕    『絵本和歌夷』狂歌 一帖 喜多川歌麿画 朱楽菅江撰 蔦屋重三郎板〈寛政元年刊参照〉    『絵本銀世界』狂歌 一帖 喜多川歌麿画 宿屋飯盛序 蔦屋重三郎板〈寛政二年刊参照〉    『絵本普賢像』狂歌 一巻 北川歌麿画        蔦屋重三郎板〈寛政二年刊参照〉    喜多川歌麿画〔目録DB〕    『百千鳥』  狂歌 二冊 喜多川歌麿画 赤松金鶏撰 蔦屋重三郎板    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(寛政四年刊)    喜多川歌麿画    『百千鳥』一冊 喜多川歌麿画 赤松金鶏撰 蔦屋重三郎板    『銀世界』一冊 喜多川歌麿画       蔦屋重三郎板     〈〔狂歌書目〕は歌麿画『絵本普賢像』を寛政四年刊とするが、〔目録DB〕に従って同二年刊とし、      分類も絵本とした〉     ☆ 寛政六年(1794)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政六年刊)    喜多川歌麿画    『絵本春の和歌葉』狂歌 三巻 喜多川歌麿画 諸言潜亭浅裏成敷 丸屋文右衛門板(或は寛政七年歟)    〈〔目録DB〕は寛政六年刊。鈴木重三氏は寛政二年刊『絵本よもぎの島』の改題後摺本とする(「歌麿絵本の分析的     考察」『絵本の研究』所収)〉    『春の色』一帖 喜多川歌麿画(一図のみ描く)蔦屋重三郎板〈同上、鈴木重蔵著〉     ◯『洒落本大成』第十六巻(寛政六年刊)    喜多川歌麿画『替理善運』「うた麿」甘露庵山跡蜂満作    (第十四巻の解題は、『替理善運』の刊記は「天明八年正月」となっているが、これは偽装で、実際は寛政六年の成立     であろうとする)    ◯「絵入狂歌本年表」(寛政六年刊)    喜多川歌麿画    『絵本春の若葉』一冊 喜多川歌麿画 撰者・版元不記載〔目録DB〕    (〔狂歌書目〕は浅黄裏成撰・丸屋文右衛門板・寛政五年刊とする)    『狂歌春の色』 一冊 等琳・隣松・重政・歌麿・俊満画 つむりの光撰 蔦屋重三郎板〔狂歌書目〕    ☆ 寛政七年(1795)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政七年刊)    喜多川歌麿画『狂歌江戸紫』一冊 歌麿・宗理等画 四方歌垣等編〈下出『【狂歌歳旦】江戸紫』参照〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(寛政七年刊)    喜多川歌麿画『狂歌江戸紫』一冊 歌麿・宗理等画 四方歌垣・万象亭・江戸花住編 花屋久次郎    ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕〔白倉〕(寛政七年刊)    喜多川歌麿画『会本妃多智男比』墨摺 半紙本 三冊 蔦屋重三郎板 寛政七年     「歌麿筆」(上巻挿絵、団扇の美人画)    (白倉注「本書には勝川春章筆とおぼしき一書と、人物の頭部を彫り直した『会本恋の俤』(文化四年以降)とがある」)  ◯『四方の巴流』〔江戸狂歌・第四巻〕鹿津部真顔編・寛政七年(1795)刊   (四方赤良(後の蜀山人)が狂歌堂鹿津部真顔に古今伝授めかして判者をゆずるを寿ぐ狂歌集の詠)   〝かにめでゝねて物語る人もなし美濃と近江の中垣の梅  筆綾磨呂〟    〈中山道の美濃・近江の国境にある「寝物語の里(今須宿)」を詠んだものだが、歌麿に何か所縁であるのだろうか〉    ◯『【狂歌歳旦】江戸紫』狂歌堂主人(鹿津部真顔)序 萬亀亭主人(江戸花住)跋 寛政七年刊   〝(狂歌賛)春くれはいといそかしき奴凧 水をもくみつ米もかしきつ 埒明金     (奴凧図)哥麿画〟    ☆ 寛政八年(1796)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政八年刊)    喜多川歌麿画    『晴天闘歌集』哥麿画・仁義道守画 後巴人亭光序 蔦屋重三郎板    『百千鳥』  前編一巻 画工喜多川歌麿 奇々羅金鶏撰 巴人亭光序 蔦屋重三郎板    『絵本百千鳥』後編二帖 歌麿画〈〔目録DB〕は以上の『百千鳥』を寛政四年刊とする〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(寛政八年刊)    喜多川歌麿画『晴天闘歌集』二冊 喜多川歌麿・仁義道守画 正木桂長清編 蔦屋重三郎板    ◯『狂歌晴天闘歌集』〔江戸狂歌・第四巻〕後巴人亭つむりの光編・寛政八年(1796)刊    挿絵全二十七葉 うち八葉 「哥麿画」    ☆ 寛政九年(1797)    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(寛政九年刊)    喜多川歌麿画『絵本譬喩節』三冊 喜多川歌麿画 耕書堂序 天明九年頭光序 蔦屋重三郎板    ☆ 寛政十年(1798)     ◯「絵本年表」〔目録DB〕(寛政十年刊)    喜多川歌麿画『男踏歌』一冊 鳥文斎栄之・窪俊満・北尾政演・歌麿・北斎宗理画    ◯『洒落本大成』第十七巻(寛政十年刊)    喜多川歌麿画『辰巳婦言』「哥麿筆」式亭三馬作     ◯「艶本年表」(寛政十年刊)    喜多川歌麿画    『会本色能知功左』墨摺 半紙本 三冊 序「午のやうな物で サア正月 腎虚山人」寛政十年〔日文研・艶本〕〔白倉〕     (白倉注「多彩な趣向を盛り込んでいて、歌麿の傑作艶本の一つ。歌麿の本名勇助なる好男子の貸本屋が出てきて、      美しい後家を手に入れる」)    『会本都功密那倍』墨摺 半紙本 三冊 好亭(式亭三馬)序 寛政十年頃〔白倉〕     (白倉注「題名は、筑摩神社の祭、筑摩鍋から採ったもの」)    『艶女徒草紙』墨摺 半紙本 三冊 不埒莖(振鷺亭)序 寛政十年〔白倉〕     (白倉注「改題再摺本『絵本寝乱髪』(色摺)。変った趣向の図柄が多い。料理屋の階段で、戸棚の中で、物干台で、      蒲焼屋の二階で、縁の下で、蚊帳の中で、屋根船の中でなど」)  ◯『筆禍史』「辰巳婦言」(寛政十年・1798)p91(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝式亭三馬の著にして、関東米の序、馬笑の跋、喜多川歌麿筆の口絵普賢像あり、小本一冊にして、「石    場妓談」と標せり、石場とは江戸深川の花街七場所の一なり、其地に於ける妓女の痴態を写せるものに    して、所謂蒟蒻本なり、此書亦風教に害ありとして絶版の命を受けたりといふ、されど著者には何等の    累を及ぼさゞりしが如し〟
   『辰巳婦言』口絵 歌麿筆(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ☆ 寛政十一年(1799)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政十年刊)    喜多川歌麿画『俳優楽室通』一巻 画工一陽斎豊国 門人国政 口画 歌麿筆 式亭三馬輯 上総屋忠助板      ◯「日本古典籍総合目録」(寛政十一年刊)   ◇演劇    喜多川歌麿画『役者三十二相』一冊 喜多川歌麿・歌川豊国・歌川国政画    ◯「艶本年表」(寛政十一年刊)    喜多川歌麿画    『會本恋濃男娜巻』色摺 半紙本 三冊  好亭(式亭三馬)序、作莖山人(桜川慈悲成) 寛政十一年頃〔白倉〕     (白倉注「改題再摺本に『會本比女発思妻(墨摺、享和二年)がある。各巻前後の扉絵は、鳥尽しになっている。例え      ば色事の手本とする鳥」が鴛鴦図といった具合に)    『願ひの糸ぐち』 大錦 十二枚組物 寛政十一年〔日文研・艶本〕〔白倉〕     (内題「寐賀秘笑猪口」白倉注「序図一枚を加えて十三枚組物ともとれる。歌麿三大組物の一つ。歌麿円熟期の作と      してこれを第一に推す説もある」)    『好色十二躰』  一帖 歌麿画 寛政十一頃刊〔目録DB〕    ☆ 寛政十二年(1800)    ◯「艶本年表」(寛政十二年刊)    喜多川歌麿画〔日文研・艶本〕〔白倉〕    『会本色形容』  色摺 横半紙本 一冊 序「淫士 好亭山人」寛政十二年     (白倉注「好亭山人は式亭三馬。白倉注「歌舞伎浄瑠璃の恋人たちを描いたもの」)    『常陸帯』    墨摺 半紙本  三冊 序「夛淫山人書」寛政十二年     (白倉注「「會本妃多智男比」とは別本。歌麿艶本にお馴染の人物が幾人も出てくる。樹上の男女の交合図が珍しい)    『床の梅』    中錦 十二枚組物 好亭(式亭三馬)序 寛政十二年     (白倉注「歌麿には珍しい「紅嫌い絵」となっている。好色本の禁令の影響か」)    喜多川歌麿画〔白倉〕    『艶本多歌羅久良』色摺  半紙本  三冊 曲取主人(曲亭馬琴)序・作 寛政十二年     (白倉注「馬琴唯一の艶本。板元は蔦屋重三郎」    『会本夜密図婦美』墨摺  半紙本  三冊 好亭(式亭三馬)序・作 近江屋権九郎板 寛政十二年     (白倉注「改題色摺本に『会本佳裸錦』がある」)    喜多川歌麿画〔目録DB〕    『床の◎(ウメ)』一帖 むだ麻良画(喜多川歌麿)(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ☆ 寛政年間(1789~1801)    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(寛政年間刊)    喜多川歌麿画『閨の雌雄裏』三冊 歌麿・春潮画(注記「笑本/初霞の改題本、日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱445(寛政十二年五月以前記) 〝喜多川歌麿 俗称勇助 はじめは鳥山石燕門人にして狩野家の画を学ぶ。後男女の風俗を画がきて絵草紙屋蔦屋重三郎方に寓居    す。今弁慶橋に住す。錦絵多し〟    ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)   〝          久右衛門丁    寛政 当代女絵銘人 歌麿       此上なし〟    〈久右衛門丁は神田弁慶橋にある〉    ◯『洒落本大成』第十九巻(寛政年間刊)    喜多川歌麿画『契情実之巻』「哥麿筆」井之裏楚登美津作    ◯『増訂武江年表』2p18(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「寛政年間記事」)   〝浮世絵師 鳥文斎栄之、勝川春好、同春英(九徳斎)、東洲斎写楽、喜多川歌麿、北尾重政、同政演    (京伝)、同政美(蕙斎)、窪俊満(尚左堂と号す、狂歌師なり)葛飾北斎(狂歌の摺物読本等多く画    きて行はる)、歌舞伎堂艶鏡、栄松斎長喜、蘭徳斎春童、田中益信、古川三蝶、堤等琳、金長〟     ◯『貴賤上下考』〔未刊随筆〕⑩154(三升屋二三治著・弘化四年(1847)序)   〝水茶屋娘    寛政の末か享和の始めまでに、難波やの於きた、高しまのおひさといふ名題の水茶屋娘、錦絵に出ては    やる、なにはやは観音矢大臣門外、高島は両国米沢町横町、薬研堀への出口、今の高島せんべいやなり、    その頃湯しまの橘や、本所安宅の千代鶴などゝて、その外名代の水茶屋多し、此時代の浮世画師は歌麿    としるべし〟    ☆ 制作年未詳(寛政~文化)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(寛政~文化)   ③「哥麿画」(鯛・釣り竿・魚びく、恵比須と婦人)1-18/23     賛なし〈大小表示不明〉   ⑦「歌麿画」一三七(梅の枝に短冊を結ぶ振袖娘)〔彫工岡本松魚〕    「色つける花の笑顔に見とれても梅に香かなるおかしからまし 屋敷堅丸賛」  ☆ 享和元年(寛政十三年・1801)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政十三年刊)    喜多川歌麿画『絵本四季花』二巻 画工喜多川哥麿 四方歌垣序 和泉屋市兵衛板    ◯「艶本年表」(享和元年刊)    喜多川歌麿画〔白倉〕    『艶本婦多美賀多』墨摺 半紙本 三冊 序「甚亭大埜好人(朱楽菅江か)」     (白倉注「礫川亭永理画かとの説あり、他に歌麿、北斎説もあるので、今後の検討も要する。墨摺本が初版だが、色      摺本もある」)     『会本江戸紫』 色摺 中判  十二枚組 享和元年     (白倉注「晩年の中錦三部作ならんか。序文が未発見だが、好亭の序なるか」)    『画本帆柱丸』 色摺 横小本 一冊 序「酉初春 陰士 陽発(十返舎一九)述」享和元年     (白倉注「再摺本は三冊に分冊」)    『多満久志戯』 色摺 半紙本 三冊 好闢亭(振鷺亭)序 享和元年     (白倉注「半紙本にしては縦寸法が短い。本書は、のちに広重が『春の世和』の多くに流用しているので知られる」)    『帆柱丸』(仮題)色摺 横小本 一冊 陰士陽発(十返舎一九)作 享和元年     (外題『絵本幾寝床』か 白倉注「本書も歌舞伎や浄瑠璃の恋人どうしをテーマにしたもの」)  ◯『山東京伝書簡集』(宇都宮宛 寛政~文化)   (『近世の学芸』所収 肥田晧三記・三古会編・八木書店・昭和51年刊)   〝花墨御恵被下 忝奉拝披候 益御康健御坐被遊 泰喜雀躍奉存候 然者為新年之御祝儀 方金一箇御恵    被下、誠ニ不寄存儀 御厚志之旨 千喜万悦 忝御礼難申尽候 張交書画之儀、猶亦取揃 後便差上可    申候 歌麿画之儀も 承知仕候 これハちと急ニハ出来兼可申候得共 たのみ認めさせ差上申候 先者    右御礼申上度 昨今急便ニテ急キしたゝめ万々申残し候 後便委曲二申上候  欽白      三月十三日     宇都宮君                      京伝     呉々も御賜物御厚情忝奉存候〟    〈この書状の宛名である宇都宮なる人物についてはよく分からない。この人が、京伝の「張交書画」と歌麿画を所望した。     それに対して、京伝は、自身の「張交」の方は間もなく差し上げることができる、また歌麿の方は急には出来かねるも     のの、そこは何とか働きかけて差し上げましょう、と請け合ったのである。さて、急には出来かねるとは、作画に手     間がかかり、表装にも時間を要するという意味なのであろうか。この人が望んだ図様とはどのようなものであったの     か、いずれにせよ美人画には違いないだろうが、皆目見当もつかないので、まるで雲をつかむような書簡である。と     ころで、書簡の日付は三月十三日となっているが、年次の記載はない。それについて『山東京伝年譜稿』(水野稔著     ・ペリカン社・1991年刊)は次のように触れている。「年次未詳、寛政後半から文化以前か。三月十三日付で「宇都宮     君」と宛名した書簡あり。張交書画に歌麿依頼の件その他」と。京伝研究の第一人者を以てしても、特定することは難     しいようである〉  ☆ 享和元~二年(1801~02)    ◯『一筆斎文調』(「早稲田大学演劇博物館所蔵 芝居絵図録1」・1991年刊)    〈一筆斎文調の七回忌が六月十二日、柳橋の万八楼で行われた。その時の摺物に、当日席書に参加したと思われる絵師     たちの絵が添えられている。絵師は次の通り〉      「豊廣画・堤孫二筆・豊国画・春秀蝶・寿香亭目吉筆・画狂人北斎画・歌麿筆・雪旦・春英画」       〈この摺物には刊年がない。ただ北斎が「画狂人」を名乗っていることから、ある程度推定が可能のようで、『浮世絵     大事典』の項目「一筆斎文調」は「享和元年~二年(1801~02)頃のもの」としている。それに従った。なお摺物の     本文は本HPの「一筆斎文調」か「窪俊満」の項を参照のこと〉    ☆ 享和二年(1802)    △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年)〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)     喜多川哥麿     昔絵は奥村鈴木富川や湖龍石川鳥居絵まで 清長に北尾勝川歌川と麿に北斎これは当世〟    〈「麿に北斎」の「麿」とは下記の文面を参照すると歌麿〉
   『稗史億説年代記』 式亭三馬自画作(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)   〝青本 青本の趣向甚だ高慢になる。袋入のあとを青本にすることはやる    画工 絵のかき方また/\当世に移る。北尾、勝川、歌川、おの/\その名高し    同  歌麿当時の女絵を新たに工夫する。北斎独流のの一派をたつる    同  豊国、役者似顔絵に名誉。歌麿の錦絵、北斎の摺物世に行はる    作者 いづれもめでたし/\。千秋万々歳〟    ◯『稗史提要』p398   ◇黄表紙(享和二年(1802)刊)    作者の部 京伝 楚満人 馬琴 三馬 一九 新好 通笑 馬笑 傀儡子 石上 慈悲成 感和亭鬼武         木芽田楽 一麿    画工の部 重政 豊国 歌丸 豊広 長喜 春喬 菊丸    板元の部 鶴屋 蔦屋 榎本 西村 西宮 泉市 村田 岩戸 山口〟    ◯『黄表紙總覧』後編(享和二年刊)    喜多川歌麿画    『明花春為心』  「哥麿画」「戯作内新好作」西村屋板    『聞風耳学問』  「哥麿画」「一九作」   西村屋板    『御誂染長寿小紋』「哥麿画」「京伝戯作」  蔦屋板    ◯「艶本年表」(享和二年刊)    喜多川歌麿画〔白倉〕    『会本美津埜葉那』墨摺 半紙本 三冊 序「うぬ惚いゝつたふ ゑにしがいふ」享和二年     (白倉注「歌麿晩年の作だが、婚礼間近の姫君の局所を家老が検分するなど。ユーモラスな趣向が活かされている」      各巻扉絵に「梅は武士、薄雪姫」「桜は公家、小野小町」「山吹は傾城、扇屋夕霧」の立姿がはいり、後扉がそれ      に呼応して「男性立像がはいっている。改題改板本に『絵本/忘穂飛嘉多」あり」)    『葉男婦舞喜』  色摺 半紙本 三冊 序「享和二のむつみ月に 道楽人書」 享和二年     (道楽人は十返舎一九。白倉注「歌麿後期の代表作。彫摺が見事」)    『艶本婦多柱』  墨摺 半紙本 三冊 「独脚堂淫士(振鷺亭)」序 享和二年     (白倉注「序文中に「婢多知男美と題しぬ」とあるので注意」)    『絵本小町引』  大錦 十二枚組物  享和二年     (白倉注「『絵本小町引』とあるのは再版本か。歌麿三大組物の一つ」)    『君が手枕』   中錦 十二枚組 好亭(式亭三馬)序 享和二年頃     (白倉注「享和年中、好亭とのコンビによる中錦組物の三部作の一つ」)    『恋濃婦登佐男』 色摺 半紙本 三冊 朱楽菅江序・作 享和二年頃     (白倉注「歌舞伎の主人公たち(お染・久松、お夏・清十郎、お七・吉三郞など)の恋を主題としたもの。改題再摺      本か『春色十二調子』」)    ◯「日本古典籍総合目録」(享和二年刊)   ◇黄表紙    喜多川歌麿画『明花春為化』新好作・『御誂染長寿小紋』京伝作・『聞風 耳学問』一九作    ☆ 享和三年(1803)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(享和三年刊)    喜多川歌麿画『絵本笑上戸』色摺 半紙本 三冊 享和三年     (白倉注「歌麿晩年の傑作艶本。この頃より色摺艶本が定着。墨摺の再摺本もある」)  ☆ 文化元年(享和四年・1804)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化元年刊)    喜多川歌麿画    『吉原青楼年中行事』二冊 江戸絵師 喜多川舎紫屋歌麿筆 十返舎一九著 上総屋忠助                 校合門人 喜久麿・秀麿・竹麿    ◯「艶本年表」〔白倉〕(文化元年刊)    喜多川歌麿画    『絵本恋之奥儀』墨摺 半紙本 三冊 虎屋一新序 文化元年     (白倉注「各巻扉絵は大首絵で、それには面相の解説がなされている」)    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集十八」「書物錦絵之部 第五四件」   (天保十五年十月「川中嶋合戦其外天正之頃武者絵之儀ニ付調」北町奉行の南町奉行宛相談書)   ◇「錦絵之儀ニ付申上候書付」(天保十五年八月付・絵草紙掛・名主平四郎の書付)   〝文化元子年中ニ候哉、橋本町四丁目絵草紙屋辰右衛門、馬喰町三丁目同忠助板元ニて、太閤記(絵本太    閤記)之内絵柄不知三枚続錦絵売出候処、右板元并画師(喜多川)歌丸(麿)・(歌川)豊国両人共、    北御番所ぇ被召出御吟味之上、板元は処払、画師過料被仰付候儀有之〟    〈( )は添え書き。橋本町の絵草紙屋辰右衛門とは松村屋辰右衛門か、また馬喰町三丁目の忠助とは山口屋忠助か。     松村屋は歌麿を山口屋は豊国をそれぞれ起用して、岡田玉山の『絵本太閤記』に取材した三枚続を画かせたのであろ     う。大坂の『絵本太閤記』は寛政九年から出版されてきたから、江戸で錦絵にしても差し障りはないと思ったのかも     しれない。しかし案に相違、彼らは北町奉行所から呼び出されて吟味に回され、板元は居住地追放、歌麿と豊国は罰     金に処せられた。なおこの文書で興味深いのは「画師歌丸」の表記。(喜多川)と(麿)は添え書きであるから原文     にはないものだろう。これは何を意味するのか。文化元年当時、署名は「歌麿」であっても読みが「うたまる」だっ     たので、記載者は「歌丸」と記したのではないだろうか。すると(麿)の添え書きは「うたまる」の「まる」の表記     を正したものと考えてよいのだろう。2013/11/02追記〉    ◯『半日閑話 巻八』〔南畝〕⑪245(文化一年五月十六日明記)   (「絵本太閤記絶板仰付らる」の項) 〝文化元年五月十六日、絵本太閤記絶板被仰付候趣、大坂板元に被仰渡、江戸にて右太閤記の中より抜き    出し錦画に出候分を不残御取上、右錦画書候喜多川歌麿、豊国など手鎖、板元を十五貫文過料のよし、    絵草子屋への申渡書付有之〟    〈「絵本太閤記」は岡田玉山画〉      ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥76(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝五月十六日、難波画師玉山が図せる絵本太閤記、絶版被仰付候趣、大坂の板本被仰渡、是は江戸ニて喜    多川歌麿、歌川豊国等一枚絵に書たるを咎られて、絵本太閤記を学びたりといひしよりの事也、画師共    手鎖、板本は十貫文過料之由、絵草紙屋へ申渡書付有、右之太閤記之絵本惜しむべし〟    〈岡田玉山画『絵本太閤記』の絶版処分は、江戸の歌麿・豊国が咎められたとき、「絵本太閤記」に習ったと、白状し     たために下ったもののようである〉     ◯『摂陽奇観』巻四四(浜松歌国著)   「文化元年」   〝絵本太閤記 法橋山(ママ)画寛政九丁巳秋初編出板七篇ニ至ル江戸表より絶板仰せ付けらる、其趣意は右    の本江戸にても流行致し、往昔源平の武者を評せしごとく婦女小児迄夫々の名紋所など覚候様に相成、    一枚絵七つゞき或は三枚続きをここは何の戦ひなど申様に相成候ところ、浮世絵師歌麿と申すもの右時    代の武者に婦人の画をあしらひ紅摺にして出し候、    太閤御前へ石田児にて目見への図に、手を取り居給ふところ、長柄の侍女袖を覆ひゐるてい    清正酒えん甲冑の前に朝鮮の婦人三絃ひき舞ゐるてい、其外さま/\の戯画あり    右の錦絵 公聴に達し御咎にて、絵屋は板行御取り上げ絵師歌麿入牢仰せ付けられ、    其のうえ天正已来の武者絵紋所姓名など顕し候義相ならず趣、御触流し有り、猶亦大坂表にて出板の絵    本太閤記も童謡に絶板に相成候、初篇開板已来七編迄御許容有り候処、かゝる戯れたる紅摺絵もうつし    本書迄絶板に及ぶこと、憎き浮世絵師かなと諸人いひあへり〟    〈大坂の浜松歌国は玉山の『絵本太閤記』を絶板に追い込んだのは浮世絵師・歌麿だという。その歌麿画の絵柄は「太     閤御前へ石田児にて目見への図に、手を取り居給ふところ、長柄の侍女袖を覆ひゐるてい。清正酒えん甲冑の前に朝     鮮の婦人三絃ひき舞ゐるてい」である。     さて、享和三年の「一枚絵紅ずりに長篠武功七枚つづき」の記事がよく分からない。「紅ずり」という言い方が気に     なる。享和三年の一枚絵に対して、当時の江戸は「紅ずり」という呼び方をするであろうか。「浮世絵師歌麿と申す     もの右時代の武者に婦人の画をあしらひ紅摺にして出し候」とも「かゝる戯れたる紅摺絵もうつし本書迄絶板に及ぶ     こと、憎き浮世絵師かなと諸人いひあへり」ともある。この「紅摺絵」は歌麿に対して使っているのであるから、宝     暦頃の石川豊信たちの「紅摺絵」とは思えない。すると江戸でいう「錦絵」を大坂では「紅摺絵」と呼んでいたのだ     ろうか〉    ◯『街談文々集要』p29(石塚豊芥子編・万延元年(1860)序)   (「文化元甲子之巻 第十八 太閤記廃板」)   〝一 文化元甲子五月十六日絵本太閤記板元大阪玉山画同錦画絵双紙      絶板被仰渡           申渡    絵草紙問屋                                   行事共                                 年番名主共      絵草紙類の義ニ付度々町触申渡候趣有之処、今以以何成品商売いたし不埒の至りニ付、今般吟味の      上夫々咎申付候      以来右の通り可相心得候    一 壱枚絵、草双紙類天正の頃以来の武者等名前を顕シ書候儀は勿論、紋所、合印、名前等紛敷認候義      決て致間敷候    一 壱枚絵に和歌之類并景色の地名、其外の詞書一切認メ間敷候    一 彩色摺いたし候義絵本双紙等近来多く相見え不埒ニ候 以来絵本双紙等墨計ニて板行いたし、彩色      を加え候儀無用ニ候    右の通り相心得、其外前々触申渡趣堅く相守商売いたし行事共ノ入念可相改候。     此絶板申付候外ニも右申渡遣候分行事共相糺、早々絶板いたし、以来等閑の義無之様可致候    若於相背ハ絵草紙取上ケ、絶板申付其品ニ寄厳しく咎可申付候            子五月      此節絶板の品々    絵本太閤記 法橋玉山筆 一編十二冊ヅヾ七編迄出板     此書大に行ハる。夫にならひて今年江戸表ニて黄表紙ニ出板ス    太閤記筆の聯(ツラナリ)【鉦巵荘英作 勝川春亭画 城普請迄 寛政十一未年三冊】    太々太平記【虚空山人作 藤蘭徳画 五冊 柴田攻迄 享和三亥】    化物太平記十返舎一九作自画 化物見立太閤記 久よし蜂すか蛇かつぱ】    太閤記宝永板【画工近藤助五郎、清春なり 巻末ニ此度            歌川豊国筆ニて再板致候趣なりしか相止ム】    右玉山の太閤記、巻中の差画を所々擢て錦画三枚つゞき或ハ二枚、壱枚画に出板、画師ハ勝川春亭・歌    川豊国・喜多川哥麿、上梓の内太閤、五妻と花見遊覧の図、うた麿画ニて至極の出来也、大坂板元へ被    仰渡候は、右太閤記の中より抜出し錦画ニ出る分も不残御取上之上、画工ハ手鎖、板元ハ十五貫文ヅヽ    過料被仰付之。         「賤ヶ嶽七本槍高名之図」石上筆 (模写あり)           絵本太閤記絶板ノ話    寛政中の頃、難波の画人法橋玉山なる人、絵本太閤記初編十巻板本、大に世にもてはやし、年をかさね    て七編迄出せり。江戸にも流布し、義太夫浄瑠りにも作り、いにしへ源平の武者を評する如く、子供迄    勇士の名を覚て、合戦の噺なとしけり、享和三亥年、一枚絵紅ずりに、長篠武功七枚つゞきなど出せり。    然ルに浮世絵師哥麿といふ者、此時代の武者に婦人を添て彩色の一枚絵をだ出せり。     太閤御前へ、石田、児子髷にて、目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女袖をおおひたる形、加藤清正     甲冑酒、妾の片はらに朝鮮の妓婦三弦ヒキ舞たる形。    是より絵屋板本絵師御吟味ニ相成り、夫々に御咎めに逢ひ候て、絶板ニ相成候よし、其節の被仰渡、左    の通。    一 絵双紙類の義ニ付、度々町触申渡之趣在之処、今以如何敷品売買致候段、不埒之至ニ付、今般吟味      の上、夫々咎申付候、以来左之通、可相心得候    一 壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋字・合印・名前等紛敷認候      儀、決て致間敷候    一 壱枚絵に、和歌の類、并景色之絵、地名又ハ角力取、歌舞伎役者・遊女之名等ハ格別、其外詞書一      切認間敷候    一 彩色摺の絵本・双紙、近来多く相見へ、不埒ニ候、以来絵本・双紙墨斗ニて板行可致候       文化元甲子五月十七日    右ニ付、太閤記も絶板の由、全く浮世ゑしが申口故ニや、惜むべき事也〟    〈「日本古典籍総合目録」によると、竹内確斎著・岡田玉山画『絵本太閤記』は寛政九年(1797)~享和二年(1802)に     かけての出版。荘英作・勝川春亭画『太閤記筆の連』は寛政十一年刊。虚空山人作・藤蘭徳(蘭徳斎春童)画『太々     太平記』は天明八年(1788)刊とあり、『街談文々集要』がいう享和三年(1803)のものは見当たらない。『絵本太閤     記』の評判にあやかって、この年、再版本を出したものとも考えられる。十返舎一九作・画『化物太平記』は享和四     年(1804)(文化元年)の刊行。さて最後、宝永板、近藤助五郎清春画の「太閤記」とあるのが、よく分からない。東     北大学附属図書館・狩野文庫の目録に、近藤清春画『太閤軍記 壹之巻』なるものがあるが、あるいはそれを言うの     であろうか。しかし、そのあとに続く、歌川豊国初代の記事「再板致候趣なりしが相止む」の意味も、それ以上に分     かりずらい。清春の「太閤記」を下敷きに、豊国が新趣向で再板するという意味なのであろうか。結局のところ、企     画倒れになってしまったようであるが、それならば「此節絶板の品々」に名を連ねるのは不自然ではないのか。春亭     と一九の「太閤記」ものが名を連ねるのは分かるが、藤蘭徳と清春の「太閤記」ものがどうして入っているのか、よ     く分からない。ともあれ、以上が草双紙の絶版。     次に錦絵の方だが、勝川春亭のは未詳。豊国の錦絵は、この記事に言及はないが、『増訂武江年表』の〔筠補〕(喜     多村筠庭の補注)を参照すると、絶板に処せられたのは「豊国大錦絵に明智本能寺を囲む処」の絵柄らしい。また、     『筆禍史』の宮武外骨は、関根金四郎編の『浮世画人伝』を引いて「豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図     にして」とする。「豊国等」とあるから「太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図」が必ずしも、豊国画とも断定できないのだが。     参考までに言うと、『街談文々集要』には「賤ヶ嶽七本槍高名之図」という挿絵があり、これには「石上筆」とある。     さて、歌麿だが、『街談文々集要』は「太閤五妻と花見遊覧の図」をあげ、「絵本太閤記絶板ノ話」のところでは     「太閤御前へ石田児子髷ニて目見への手をとり給ふ處、長柄の侍女袖をおおひたる形、加藤清正甲冑酒の片ハら朝鮮     の妓婦三弦ヒキ舞たる形」の絵をあげる。(「絵本太閤記絶板ノ話」は『摂陽奇観』の記事と内容がほぼ同じである     から、『街談文々集要』の石塚豊芥子が、大坂から来た『摂陽奇観』の記事を書き留めたのかもしれない)ともあれ、     『街談文々集要』の歌麿画「太閤五妻と花見遊覧の図」(これは宮武外骨著『筆禍史』の「太閤五妻洛東遊覧之図」     に同定できよう)が絶版になったことは確かである。問題は「太閤記絶板ノ話」の記事の方にある。これは二つの錦     絵を取り上げたものと考えられる。すなわち「太閤御前へ、石田、児子髷ニて目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女     袖をおおひたる形」の錦絵と「加藤清正甲冑酒、妾の片ハらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ舞たる形」の錦絵と。「太閤記絶     板ノ話」の記事にも、そのもとになった『摂陽奇観』にも「太閤五妻と花見遊覧の図」の画題はないが、前者の「太     閤御前へ、石田、児子髷ニて目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女袖をおおひたる形」こそ、その絵柄からして「太     閤五妻と花見遊覧の図」に相当するのではないか。すると、歌麿が手鎖に遭ったのは複数の「太閤記」ものというこ     となるのだが、実際のところはどうだろうか。なお、後者の方「加藤清正甲冑酒、妾の片ハらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ     舞たる形」の画題は未詳。現存するものがあるかどうかも定かではない。     いづれにせよ、この「太閤記」一件で「壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋字・     合印・名前等紛敷認候儀、決て致間敷候」という禁制は、出版界に重くのしかかってゆくことになったのである〉
   「太閤五妻洛東遊覧之図」三枚組左 三枚組中 三枚組右 歌麿筆(東京国立博物館所蔵)
   『絵本太閤記』法橋玉山画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース)
   『化物太閤記』十返舎一九作・画〔『筆禍史』所収〕    ◯『筆禍史』「絵本太閤記及絵草紙」(文化元年・1804)p100(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝是亦同上の理由にて絶版を命ぜられ、且つ著画者も刑罰を受けたり『法制論簒』に曰く     文化の始、太閤記の絶版及び浮世絵師の入獄事件ありき、是より先、宝永年間に近藤清春といふ浮世     絵師、太閤記の所々へ挿絵して開板したるを始にて、寛政の頃難波に法橋玉山といふ画工あり、是も     太閤記の巻々を画き      〔署名〕「法橋玉山画図」〔印刻〕「岡田尚友」(白文方印)「子徳(一字未詳)」(白文方印)     絵本太閤記と題して、一編十二巻づゝを発兌し、重ねて七篇に及ぶ、此書普く海内に流布して、遂に     は院本にも作為するものあり、又江戸にては享和三年嘘空山人著の太々太閤記、十返舎一九作の化物     太閤記など、太閤記と名づくる書多く出来て、後には又勝川春亭、勝川春英、歌川豊国、喜多川歌麿、     喜多川月麿などいふ浮世絵師まで、彼の太閤記の挿画を選び、謂はゆる三枚続きの錦絵に製せしかば、     犬うつ小童にいたるまで、太閤記中の人物を評すること、遠き源平武者の如くなりき、斯くては終に     徳川家の祖および創業の功臣等にも、彼れ是れ批判の波及すらん事を慮り、文化元年五月彼の絵本太     閤記はもとより、草双紙武者絵の類すべて絶版を命ぜられき、当時武者絵の状体を聞くに、二枚続三     枚続は事にもあらず、七枚続などまで昇り、頗る精巧を極めたりとぞ、剰へ喜多川歌麿武者絵の中に、     婦女の艶なる容姿を画き加ふる事を刱め、漸く風俗をも紊すべき虞あるに至れり、例へば太閤の側に     石田三成児髷の美少年にて侍るを、太閤その手を執る、長柄の銚子盃をもてる侍女顔に袖を蔽ひたる     図、或は加藤清正甲冑して、酒宴を催せる側に、挑戦の妓婦蛇皮線を弾する図など也、かゝれば板元     絵師等それ/\糾問の上錦絵は残らず没収、画工歌麿は三日入牢の上手鎖、その外の錦絵かきたるも     の悉く手鎖、板元は十五貫つゝの過料にて此の一件事すみたり云々    又『浮世絵画人伝』には左の如く記せり     喜多川歌麿と同時に、豊国、春亭、春英、月麿及び一九等も吟味を受けて、各五十日の手鎖、版元は     版物没収の上、過料十五貫文宛申付られたり     豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図にして、一九は化物太平記といふをものし、自画を加     へて出版せしによるなり      〔頭注〕喜多川歌麿    歌麿手鎖中、京伝、焉馬、板元西村などの見舞に来りし時、歌麿これ等の人々に向ひ、己れ吟味中、恐    怖のあまり、心せきて玉山が著したる絵本太閤記の事を申述べたりしによりて、同書も出板を禁ぜられ    たるは、此道のために惜むべく、且板元に対して気の毒にて、己れ一世の過失なりと語れりといふ、さ    れば絵本太閤記が七編までにて絶版になりしは、これが為なりと『浮世絵画人伝』にあり    歌麿絵本太閤記の図を出して御咎を受たり、其後尚又御咎の事ありて獄に下りしが、出て間もなく死す    と『浮世絵類考』にあれども、其再度の御咎といふ事真否不詳なり         化物太閤記 十返舎一九作画 黄表紙二冊 山口屋忠兵衛版       享和四子初春(即文化元年)出版      全編悉く化物の絵と物語のみなれど、其化物の紋所又は旗印等に戦国次代の諸将即ち織田、明智、      真田、豊臣等の紋又は合印を附けて諷刺の意を寓しあるなり〟    ◯『伊波伝毛乃記』〔新燕石〕⑥130(無名子(曲亭馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)   〝文化二年乙丑の春より、絵本太閤記の人物を錦絵にあらはして、是に雑るに遊女を以し、或は草冊子に    作り設けしかば、画師喜多川歌麿は御吟味中入牢、其他の画工歌川豊国事熊右衛門、勝川春英、喜多川    月麿、勝川春亭、草冊子作者一九等数輩は、手鎖五十日にして御免あり、歌麿も出牢せしが、こは其明    年歿したり、至秋一件落着の後、大坂なる絵本太閤記も絶板仰付られたり〟    〈文化二年は文化元年の誤りであろう。読本『絵本太閤記』は、武内確斎作・岡田玉山画で、寛政九年から享和二年に     かけて出版された〉    ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   ◇「文化元年」2p30   〝〔筠補〕五月十六日、「絵本太閤記」絶版仰付られ候趣、大坂の板元に仰渡され、江戸にては「太閤記」    の中より抜出し候分も残らず御取上、右錦絵を書たる喜多川哥麿、歌川豊国など手鎖、板元十五貫文過    料の由、絵草紙屋へ申渡書付あり。これは其の頃「豊国大錦絵」に明智本能寺を囲む処、其の外色々書    きて咎められしに、「絵本太閤記」によりたる由を陳言せしかば、「絵本太閤記」に災及べるなり。こ    の絶版は惜しむべし〟
  ◇「文化二年」2p31   〝〔補〕五月三日、喜多川歌麿卒す(五十三歳)〟    ☆ 文化初年(1804~)    ◯『洒落本大成』二十六巻(文化初年刊)    歌麿画『相合傘』「うた麿筆」作者未詳    (解題、天明八年の刊記をもつ『替理善運』の板木を一部流用した改竄改題本とする)    ◯『反故籠』〔続燕石〕②170(万象亭(森島中良)著、文化年中前半)  (「江戸絵」の項)   〝金摺、銀摺を初めしは喜多川歌麿なり〟     ◯『会本手事之発名』艶本 春川五七画(国文学研究資料館「艶本資料データベース」所収)   (「書誌データ」は板行年を文化初年とする。引用は「付言」より)   〝予従来(もとより)美人画(うきよゑ)を好きて、古今の写意(うつしぶり)を訂(かんがふ)るに、    往古ハ云はず、中頃我が京師に西川某と云者ありて、工(たくみ)に造りたるが最よし、其後また京師    に露章(ろしやう)と云へる画工あり【壮年に関東に下りて喜多川(きたがわ)歌麿(うたまろ)と号    す】、此人もつとも美人画の妙手にして、江戸画工古人春潮と云へる者の筆意に効(ならふ)て、多く    会本を造れるに、其情至らざるハなく尽さゞるハなし。実に古今の名人と云ふべし〟    〈この春画は文化初年の刊行という。歌麿は文化三年没であるから、この作品の製作が歌麿の生前か没後か判然としな     いが、ほぼ同時期のものとみてよい。ここで春川五七(神屋蓬洲)は歌麿に「うたまろ」の読み仮名を振っている。     この当時、既に「うたまる」「うたまろ」の呼称が混在していたのかもしれない。さて、春川によれば、京都の露章     なる画工が壮年江戸に下って歌麿を称したのだという。どこからこの情報を入手したのだろうか。文化初年にして、     歌麿は既に伝説の人となっていたようである〉  ☆ 文化三年(1806)(九月二十日没・五十三歳)    ☆ 刊年未詳    ◯「日本古典籍総合目録」(刊年未詳)   ◇絵本・絵画    喜多川歌麿画    『浮世八景娘の雁かね』一冊 喜多川歌麿画    『絵本若葉栄』三冊 喜多川歌麿画 三陀羅法師撰 春松軒蔵版 寛政6              (注記「絵本よもぎの島」の改題三版)    『夷曲丹青帖』二冊 喜多川歌麿画(注記「大辞典による」)    『明の春』  三冊 喜多川歌麿画(注記「大辞典による」)    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(刊年未詳)    喜多川歌麿画    『春之曙』一帖 喜多川歌麿画 百琳宗理(北斎一世)芍薬亭長根編    『はくろ』三巻 哥麿・北尾政美画(注記「狂歌ばくろはへ」    『狂歌集』一冊 歌麿画    ◯「艶本年表」(刊年未詳)    喜多川歌麿画〔目録DB〕    『会本美津埜葉那』三冊 喜多川歌麿画(注記「会本解題による」)    『会本夜密図婦美』三冊 喜多川歌麿画(注記「会本解題による」)    『会本都功密那倍』三冊 喜多川歌麿画    『会本密須佳雅美』三冊 喜多川歌麿画    『艶本多歌羅久良』三冊 喜多川歌麿画    『絵本笑上戸』  三冊 喜多川歌麿画(注記「会本解題による」)    『絵本菊の露』  喜多川歌麿    (注記「艶本目録による」)    『艶本婦多柱』  三冊 喜多川歌麿画    『会本恋の俤』  一冊 喜多川歌麿    喜多川歌麿画〔日文研・艶本〕    『絵本手枕』   色摺 中半 十二図    歌麿門下(「江戸時代の変態趣味」山崎麓・『江戸文化』第二巻第六号 昭和三年六月刊)    『笑本久良妣裸嬉(ゑほんくらひらき)』春本    ☆ 没後資料    ☆ 文化五年(1808)    ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝喜多川歌麿【勇助・豊章 神田弁慶橋久右衛門町住】    はじめ鳥山石燕門人にて、狩野家の画を学ぶ、のち男女の風俗を画きて、当時無双の名手なり、絵草紙    屋蔦屋重三郎方に寓居せしことあり     画本の類甚多し、中にも      狂歌入 絵本虫選  狂歌入 絵本駿河舞 の画本最も名高し    同 菊麿  同 秀麿  同 千代女〟    〈大田南畝の『浮世絵考証』をベースに「豊章」と狂歌絵本名及び門人を加筆〉    ☆ 文化十年(1813)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化十年刊)    喜多川歌麿画『明けの春』歌麿画    ☆ 文化十四年(1817)    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「伝馬町 古人・画家」〝歌麿(空欄)大丸新道 北川市太郎〟    ☆ 文政元年(文化十五年・1818)    ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)   〝三馬按、歌麿門人菊麿、今月麿ト改ム。式麿、秀麿等アリ。二代目歌麿、初号春町、別記ニ伝アリ〟    ☆ 文政五年(1822)      ◯「絵本年表」(文政五年刊)    歌麿画    『上野国一宮記録』一冊 江戸歌麿画 高橋幸輔撰〔漆山年表〕    『上野国一宮正一位抜鉾大神御記録』一冊 「江戸歌麿画」〔目録DB〕     奥付「于時文政五年壬午正月吉日刻成 上野国甘楽郡南牧岩戸村 一宮大社司 高橋幸輔印施」    〈この江戸の歌麿は二代目と思われるが、参考のため収録した〉  ☆ 天保四年(1833)   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③301(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝喜多川歌麿【(空白)年中歿す】     俗称勇助、居始弁慶橋、又久右衛門町、後馬喰町三丁目に住す、号紫屋、江戸の産也、    はじめは石燕豊房の門人に入て、狩野家の画を学ぶ、後一家をなして、浮世絵中興始祖の名人と呼れし    なり、男女の風俗流行を写す事、近世此人より錦絵の華美を極めたり、自云、生涯役者絵をかゝず、劇 場繁昌なるゆへ、老若男女贔屓の役者あり、是を画きて名を弘るは拙き業なり、浮世絵一派を以て世に 名を轟すべし、と云しとなり、其意に違はず、其名海内に聞ゆ、一豪傑と云べし、     因云、長崎の人へ、清朝の商船より歌麿が名を知て、多く錦絵を求たり。唐までも聞へし浮世絵の名     人なり。殊に春画に妙を得たり、此人浅草の水茶屋難波屋おきくの姿絵を出せり。かさもりおせん、     おぐらやおふじ、なにはやおきく、三人狐けんの絵あり。絵本太閤記の図を出して、姑く咎めを受け     たり。其の後、咎の事ありて獄屋に入しが、出手間もなく病死す、おしむべし。文化年間中、奥州岩     城ゆおり来れるものあり。此人浮世絵を好む一癖あり、元江戸の産なりしが、業ひを旅中にのみす、     南部、出羽、加賀、能登に往来す。其比、江戸にては一陽斎豊国の役者絵専ら行る。此人云、遠国他     郷に往ては、江戸絵名人は歌麿とのみ云て、豊国の名を知る人は稀にもなかりきし、と云り、流行の     役者絵は、白雨の降が如し、其用る処のみなりし、歌麿が高名なる、是にて知るべし。     役者絵に、市川八百蔵一世一代、おはん長右衛門の狂言をせし時、桂川の絵評判して、求めざる人な     かりし、歌麿は、美人画にておはん長右衛門の道行の絵を出し、是に讃を書り、近頃浮世絵かき蟻の     如くに這ひ出しむらがれる趣を、悉く嘲りて書たり、今蔵る人多く有べし、    歌麿に門人多し。浮世絵のみにあらず、花鳥虫魚写真等、精巧細密の彩色摺画本等多し、此人伝奇説多    しといへども、委しくは別記に追てしるす、姑くこゝに云はず、浮世絵類考曰、始め、歌麿通油町蔦屋    重三郎と云絵双紙問屋に寓居せしとあり、      吉原年中行事 彩色摺二冊 十返舎一九狂文入      絵本 百千鳥 極彩色狂文入      同 虫選   極彩色狂歌入     其他、枚挙するにいとまあらず、世に知所なり
   「喜多川歌麿系譜」         歌麿云、吉原年中行事を大に流行す。作者十返舎一九が云、吉原の事を委しく書し文章故に行れし、と    云けれども、歌麿は、絵組ゆへに行れし、と互いにあらそひ、大いに取合となりし事ありしとぞ。是を    以て其気質を察するに、大にほこりし人と見ゆ。歿以前、絵草紙問屋云あはせ、歌麿必ず病死すべしと    て、各錦画板下を頼み込み、夥敷く書物多かりしとぞ。其比は外に画者なきが如く、錦絵をさせず、是    末なるべし、或画双紙問屋の老人ものがたりし〟    ☆ 天保五年(1834)   △『近世物之本江戸作者部類』p105(曲亭馬琴著・天保五年成立)   〝文化に至りて画工歌麿が絵本太閤記の人物を多く錦絵に画きて罪を蒙しより、錦絵道中双陸の類はさら    也、狂歌師の搨り物或は書画会の搨り物に至るまで件の名主(地本行事)等に呈閲して免許を乞ふにあ    らざれば印行することを得ずとなむ〟    〈歌麿と歌川豊国が岡田玉山画の『絵本太閤記』に依拠した一枚絵を画いて処罰を受けたのは文化元年のこと〉    ☆ 天保六年(1835)    ◯『後の為の記』(曲亭馬琴著・天保六年自序・国会図書館デジタルコレクション所収)   〝喜多川歌麿は妻もなく子もなし、没後無祀の鬼となりたるなるべし〟    ☆ 天保十一年(1840)    ◯『古今雑談思出草紙』〔大成Ⅲ〕④98(東随舎著・天保十一年序)   (「浮世絵、昔しに替る事」の項)   〝今は浮世絵さかんにして、金岡にまさりて芝居役者の似顔生写しに書る者多し。勝川(ママ)春信おなじく    春章が類とし、風流なる傾城の写し絵、当世の姿、貴賤男女の遊興の気しき、四季ともに歌麿、北斎な    ど筆意を争ふ〟    ☆ 天保十四年(1843)   △『吾仏乃記』「家説四」p477(曲亭馬琴著・天保十四年成立)   〝画工喜多川歌麿は、絵本太閣記によりて、豊大閣遊楽の図など印行の錦絵に画きたる罪にて、御吟味中、    入牢す。其後恩免あり。出牢して猶絵をもて生活にしぬること久からずして、身故りにき〟    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝喜多川歌麿     俗称 勇助〈名豊章〉 居(神田久右衛門町 後馬喰町三丁目に住す)     号 紫屋 江戸の産也、    石燕豊房の門に入て、狩野家〈鳥山石燕〉の画を学ぶ。後一家をなして、浮世絵の名人と呼れし也。男    女時世の風俗を写す事上手にして、近世錦絵の花美を極めたり。生涯役者絵をかゝずして、自云、劇場    繁昌なる故、老若男女贔屓の役者あり。是を画ひて名を弘るは拙き業也、浮世絵一派をもて、世に名を    轟すべし、と云しと也。其意に違はず、其名海内に聞へたり。     長崎の人、清朝の商船より歌麿が名を尋て、多く錦画を求たり。唐迄も聞べし浮世絵の名人なり。殊     に春画に妙を得たり。文化年間〔中〕奥州岩城より来れる者あり。此人浮世絵を好むの一癖あり。元     江戸の産なりしが、業を旅中にのみす。南部、出羽、加賀、能登に往来す。其頃一陽斎豊国の役者絵     専ら行る。此人云、遠国他郷に往ては、江戸絵名人は歌麿とのみ云て、豊国の名を知る人稀にもなか     りし、と云り。流行の役者絵は白雨の降が如し。其用る所によるのみ也と。歌麿が高名、是にて知る     べし。     役者絵に、市川八百蔵一世一代おはん長右衛門の狂言をせし時、桂川の絵評判にて求ざる人なかりし。     歌麿は美人画にておはん長右衛門道行の画を出し、是に讃を書り。近頃浮世絵かき蟻の如くに這出む     らがれるの趣を悉く嘲哢て書たり。今蔵たる人多く有るべし。    歌麿門人多く浮世絵のみにあらず。花鳥虫魚の写真等、精巧緬密の彩色摺画本等多し(歌麿浅草の水茶    屋難波屋おきたの姿画を出せり。瘡もりおせん おくら おふじ おきた三人狐けんのゑあり)    (絵本太閤記の図を出して、御咎を受たり。其後尚又御咎の事ありて獄に下りしが、出て間もなく病死    す。おしむべし)    浮世絵類考曰、始、歌麿通油町蔦屋重三郎と云絵双紙問屋に寓居せしと有り。画本枚挙すべからずとい    へども一二を挙ぐ。      吉原年中行事(十返舎一九文 彩色摺 二冊)      絵本百千鳥 (極彩色狂歌入)      同 虫撰  (極彩色狂歌入)      同 駿河舞 三(江戸名所の絵本なり。狂歌あり)
   「喜多川歌麿系譜」         歌麿の吉原年中行事は大いに流行す。作者十返舎一九が云、吉原の事を委しく書し文章故に行れしと云    ひければ、歌麿は絵組ゆへに行れしと互いに争ひ、大に取合となりし事ありしとぞ。是を以て察するに    大にほこりし人と見ゆ。    没故の前、絵草紙問屋云合せ、歌麿必此度は病死すべしとて、各錦画板下を頼み、夥しき書物なりしと    ぞ。其頃は外に画者なきが如く用られし人也。    (因に云、月岑按るに、十返舎一九、画をなせり。自画作の草双紙多し。拙き画なれど膝栗毛全部の画    は略画にして、いさゝかの風韻あり〟    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1402(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝喜多川歌麿 俗称勇助、始は鳥山石燕門人にて、狩野の画を学ぶ、後男女風俗を画きて、画双紙屋蔦屋          重三郎方に寓居す、今弁慶橋に住す、錦画多し、浮世画類考
   (千虎補)[署名]「哥麿画」[印章]「歌麿」(朱文丸印)     歌麿ノ印(補)[印章]「画餅」(朱文長形印) (補)[印章]「歌麿」(朱文丸印)
   寛政の頃、住久右衛門町、当代御女画銘人此上なし【笹屋筆記】    此名字、文政十一年春、見かけたり、中絶して名跡を継し者有之と見ゆ、坦記    〈「笹屋筆記」は未詳。「坦記」は『古画備考』が引用する『皇朝名画拾彙』の著者、檜山坦斎の記であろうか。岩佐     又兵衛の項参照〉    ☆ 嘉永六年(1853)    ◯『傍廂』〔大成Ⅲ〕(斎藤彦麿著・嘉永六年)   ◇「似顔絵」の項 ①36   〝似顔絵は、いと古きよりあり。文徳実録(記事、略)。源氏物語末摘花巻に、髪長き女をかき給ひて、    鼻に紅をつけて見給ふに云々。是は常陸宮の似顔をかき給ひしなり。後世にいたりて、菱川師宣、西川    祐信など名人なり。其のち勝川春章、鳥居清長、また近来歌麿(ウタマロのルビ)、豊国などもよくかけり〟     ◇「俗画」の項 ①99   〝むかしは西川祐信、菱川師宣ともに、一家を起したり。其後は鳥居清長、勝川春章、これら我若かりし    頃世に鳴りたり。又其後は歌麿、豊国ともに用ひられたり〟    ☆ 嘉永以降(1854~)    ◯『画家大系図』(西村兼文編・嘉永年間以降未定稿・坂崎坦著『日本画論大観』所収)
   「鳥山派(歌麿)画系」  ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 俗な絵合せ歌麻呂や栄之なり「柳多留26-30」 寛政8【柳多留】     〈歌麿と栄之の美人画で絵合せ、堂上ならぬ地下の絵合わせならこの組み合わせだろうと〉   2 歌麿の美人ふすまで年が寄り「柳多留130-34」天保5【柳多留】     〈襖に貼られた歌麿の美人画をいうか〉    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「鳥山石燕系譜」の項 ⑪186
   「喜多川歌麿系譜」      ◇「喜多川歌麿」の項 ⑪209   〝喜多川歌麿    号紫屋、俗称勇助と云。江戸の産。居神田久右衛門馬喰町三丁目に住す。始狩野家の画を学び、後石燕    の門に入て一家をなす。男女の時世風俗を写す事上手にして、近世錦絵の花美を極めたり。生涯役者絵    をかゝずして、自らいふ、劇場繁昌なる故老若男女贔屓の役者あり。是を画いて名を弘るは拙き業なり。    何ぞ俳優の余光を仮んや。浮世絵一派をもて世に名を興すべしと云し也。其意に違わず。其名海内に聞    えたり。長崎渡来の清朝の商船より歌麿が名を尋ねて多く錦絵を求めたり。殊に春画に妙を得たり。文    化年間奥州岩城より来れる者あり。此人浮世絵を好むの一癖あり。元江戸の産なりしが、業を旅中にの    みす。南部出羽加賀能登に往来す。其頃一陽斎豊国の役者絵専ら行る。此人云、遠国他郷に行ては江戸    絵の名人は歌麿とのみ云て、豊国の名を知る人稀にもなかりしと云ふ。市川八百蔵一世一代おはん長右    衛門の狂言をせし時、桂川の似顔評判して求めざる人なかりし。歌麿は美人画にて長右衛門の道行の画    を出し、是が讃に、近頃の浮世絵かき蟻の如くに這出、むらがれる趣を悉く嘲哢して書たり。門人多く    浮世絵のみにあらず。花鳥虫魚の写真等精功綿密の彩色摺絵本多し。歿後の前草双紙問屋云合せ、歌麿    必此度は病死すべしとて、各錦絵板下を頼み、夥しき書物なりしとぞ。其外に画者なきが如く用ひられ    し人也。始通油町蔦屋重三郎と云絵双紙問屋に寓居せしと云ふ。後年絵本太閤記の図を出して御咎を受    たり。其後尚また御咎の事ありて獄に下りしが、出て間もなく病て死す。画く所の画本は枚挙すべから    ずといへども一二を揚ぐ     吉原年中行事  十返舎一九彩色摺 二冊   絵本百千鳥  極彩色狂歌入     同 虫選    極彩色狂歌入        同 駿河舞  江戸名所狂歌入    吉原年中行事は大ひに流行す。作者一九云、吉原の事を委しく書し文章故行れしと云ければ、歌麿は絵    組ゆへ行れしと互に争ひ大に取合し事有しとぞ。是を以て察するに大にほこりし人と見ゆ〟    ☆ 明治五年(1872)    ◯『傍廂糾繆』〔大成Ⅲ〕①142(岡本保孝著・明治五年序)   (斎藤彦麿著『傍廂』の「似顔絵」(①36)記事に対する論駁)   〝似顔絵 末摘花巻(中略)これを似顔絵など事々しくいふは、源氏物語の趣をしらぬ也。こゝは、たゞ    紫上に戯にかきすさびたるまで也。歌麻呂、豊国などの似顔と、ひとしなみにいふはわろし〟  ☆ 明治十年(1877)  ◯「明治以降浮世絵界年譜稿(其一)」(吉田瑛二著・『浮世絵草紙』所収・1945刊)   〝明治十年(1877)    この頃西鶴本五銭なり。歌麿流行し歌麿保護会出来る。これ国内に於て漸く浮世絵趣味のきざるによる。    この時分、吉原遊郭内にて錦絵の陳列会、浅草松山町我楽堂にて細絵の陳列、猿若町の芝居にて演劇に関    する展覧会等行はれ、古版画趣味漸く普及す〟  ☆ 明治十一年(1878)  ◯『百戯述略』〔新燕石〕④226(斎藤月岑著・明治十一年成立)   〝寛政頃、鳥居清長巧者にて、専に行れ、歌川豊春、喜多川歌麻呂等も多分に画出し、勝川春章は歌舞伎    役者肖像を画き出し、門人多く、一枚絵多分に画き、世に被行申候、又其頃、東州斎写楽と申ものも、    似顔絵を画始候へども、格別行れ不申候〟    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「昔の銀座と新橋芸者」2p55   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(*明治十一二年頃)露店は今ほど盛んで無かつたが、やはり銀座一丁目から四丁目までを限りとして    東側にのみ並んで居た、始めは我楽多店(ガラクタミセ)や飲食店が多かつたが段々骨董古書画類のよい物を    持出すやうになり其の品の位が漸く値打あるものに高まつて来た。此の露店中銀座二丁目で古本のみ売    る老人が居て、折々珍書の掘出し物があり、私は茲で三馬の臆説年代記(オクセツネンダイキ)を八銭、哥麿(ウタ    マロ)の吉原年中行事を五十銭で買つた事もあつた〟  ☆ 明治十四年(1881)  ◯『明治十四年八月 博物館列品目録 芸術部』(内務省博物局 明治十五年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区 舶載品(18コマ/71)    喜多川歌麿画 遊女道中 画扇 一本〟  ☆ 明治十七年(1884)  ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌麿    北川氏、名ハ歌麿、通称勇助ト云フ、蔦屋重三郎方ニ寓居シ、後チ江戸弁慶橋ノ傍ニ住ス。初メ鳥山石    燕ノ門人ニテ、狩野家ノ画ヲ学ブ、後チ浮世絵ニ移リ、男女ヲ画ク。又錦絵等多ク画ケリ〟  ☆ 明治十九年(1886)  ◯『第七回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治19年刊)   (第七回 観古美術会 5月1日~5月31日 築地本願寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十九年五月序)   〝喜多川歌麿 遊女図 一幅(出品者)若井兼三郎〟    ◯「読売新聞」(明治19年5月16日付)   〝第七回観古美術会品評 全号続き      喜多川哥麿 窪俊満合作 遊女の図 淡彩    歌麿は俗称を勇助といひ 紫屋(しおく)と号す 始め狩野家の画を学びしが 後鳥山石燕の門に入り     終に一家をなす 哥麿生涯役者をかゝず 曾て曰く 芝居は人の愛観する所にて人各(おのお)の贔屓の    役者あり 是を画きて我名を売らんとするは拙なき業ならずやと 其見識あるを想ふべし 近時又洋客    争ッて歌麿が錦絵を購求せしより 一時大に騰貴せりといふ 寛政四年十二月八日没(ママ)〟    〈上掲「目録」参照〉  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループを代表する絵師。◎は判読できなかった文字   (番付冒頭に「無論時代 不判優劣」とあり)   〝大日本絵師     (西川祐信)勝川春章 菱川師房  西村重長 鈴木春信  勝川春好 竹原春朝 菱川友房 古山師重     宮川春水 勝川薪水 石川豊信  窪俊満    (葛飾北斎 川枝豊信 角田国貞  歌川豊広 五渡亭国政 菱川師永 古山師政 倉橋豊国 北川歌麿     勝川春水 宮川長春 磯田湖龍斎 富川房信    (菱川師宣)〟  ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月10日~5月31日 上野公園列品館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古製品 第一~四号」   〝喜多川歌麿     市女小僮図 一幅(出品者)若井兼三郎     背面娼妓図 一幅(出品者)若井兼三郎  ◯「読売新聞」(明治21年5月31日付)   〝美術展覧会私評(第廿五回古物品)    若井氏の喜多川哥麿の背面の傾城は淡彩にして 運筆軽く同筆の扇面に夏の婦人も亦同じ趣きなり〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『明治廿二年美術展覧会出品目録』1-6号 追加(松井忠兵衛編 明治22年4・5月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月1日~5月15日 上野公園桜ヶ岡)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝喜多川歌麿 浴後美人図 一幅(出品者)大坂博物場〟  ◯『明治廿二年臨時美術展覧会出品目録』1-2号(松井忠兵衛・志村政則編 明治22年11月刊)   (日本美術協会美術展覧会 11月3日~ 日本美術協会)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝喜多川歌麿 子持高尾図 一幅(出品者)黒川新三郎〟  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝文化 喜多川歌麿    鳥山石燕に学び、故に初め狩野風あり、後専ら邦俗美人を模し、其情態を善して、現今外国人に賞翫せ    られ、其名を高ふす〟  ◯「読売新聞」(明治22年12月31日付)   〝歌麿に錦絵 名人歌麿の錦絵が海外人の賞賛を受けて陸続輸出し 従ッて其価格の騰貴する趣きは 曽    (かつ)て聞及びしが 近頃仏国巴里(パリ)に於て 傾城瀬川の図を石版に興(おこ)し 着色の古ぼけた    る所までも 摸写し此程見本数枚を我国へ送りたりといふ〟  ◯「浮世絵商の今と昔」(竹田泰次郎談・昭和九年)   (『紙魚の昔がたり明治大正編』反町茂雄編・八木書店・1990年刊より)   (竹田泰次郎談)   〝恐らくは明治二十二、三年頃かと思います。(中略)    歌麿の再版というもの、今日の模造版画をこさえて見ました。昔の事ですが徳川時代の絵草紙屋が、い    わゆる破産をして、そうして例の板(はんぎ)--古板(ふるいた)をですな、古板が随分と売りに出る。    また古板というのは面白いもので、昔の絵草紙屋同士が今日の紙型の板市(いたいち)みたいなもの--    今日の出版屋の紙型市みたいなもので古板を売買交換する板市というものがあったそうです。錦絵の墨    板、色板と申しまして、これが歌麿だとかこれが広重で十五番揃いだとか、それぞれ古板の市がありま    したそうです。その板市という名称はずっと昔、それこそ天保からもっと以前、恐らくは文化・文政以    前からあったろうと思います。その板市が明治になっても引き続いてありました。日本橋の池の尾とい    う席でよくあったそうです。古板売買というのは絵本及び今の錦桧ですね、その錦絵の古板を叔父(注1)    が買いまして、歌麿の色刷の--本を読んでいる娘が行燈(あんどん)の側にいる図--「本読み」とい    いました。それと「針めど」という絵、おふくろさんがいぼじり巻きして針の目を通しているというよ    うなのと古板を二枚,板市か何かで買ったんでしょう。あるいは古本の市で買ったんでしょうか。それ    を見本刷りに摺って、そうして今のベンケイ(注2)さんの所へ持って行って見せた。「これいくらで    すか」「これいくらでもある、これならいくらでもある,これ一枚五銭宛(ッパ)です」で、これが五銭    宛(パ)の始まりだったそうです。モウその頃は歌麿がだんだん値があがって一円宛(ツパ)になっていた    そうです。「こういうのならいくらでも捜す。これはいくらでもある」というので、なるだけ煤(すす)    を塗って汚くして持って行った。それが今日の模造版画の始まりです。これがまた大変に売れるから面    白いというので新規に歌麿の「蚕手業草」という錦絵の図によって、小林永濯(えいたく)の息子--小    林永興(えいこう)という画家、その永興さんに願って、原版を写して版下を作ってもらった。今なら写    真かなんかにとるが、その時分はそんな事を知らない。スキ写しです。そうして写した版下から彫師へ    かけて、安く彫ってもらって再版をおこしました。今日では再版などというものはありません。模造版    画、複製版画と申します。昔はすべて再版--初版とか二版とか昔はそういう事を錦絵にはいわなかっ    たようです。初摺(しょずり)とか後摺(のちずり)とかがあっただけで、二版とか、三版とか、ハッキリ    した事をいわない。そうして一枚から十二枚まである--歌麿の蚕の複製版画を一枚から三枚までこさ    えるとか、四枚から六枚までこさえるとかいう風にして、ちやんと十二枚出来上がったのです。漸く板    木が出来る。印刷が上がる。--煤水をつけて時代を付ける。神田の柳原あたりに古着屋がその当時沢    山ありましたから、古い帯を買って来て、それを切って表紙をくッっける。折本にする。「これ大変よ    ろしい。これいくら」「六貰宛(パ)、いくつでもあります」と六十銭に売る。その時分原価は表紙をく    ッっけて漸く二十二、三銭位で出来たそうです。そうして見本で売って置いて、あとからずいぶん沢山    売ったそうです〟   (一心堂)   〝それは模造品とか又は再版という事を承知で売買しておったのですか〟   (竹田)   〝無論模造を承知です。今のべンケイさんが買っておった日本の特殊な美術品を、そのあとフェノノロサ    とか、ビゲローとかが来て「これは日本の特殊な風俗の研究資料で、しかも立派な芸術品だ」といって    非常に愛好し、鑑賞して、且つ海外に宣伝した。今日では美術品と申しまして、日本人まで自覚して騒    ぐよーうになったのは、ドンドン外国人が勝手に買い拡めてくれたからなので、決して日本人の我々ど    もが、また叔父どもがそうさせたわけでもなんでもないのです〟    〈最初の複製版画は明治の22-3年頃。文化~文政期より続いてきた古板市から、江戸時代の版木を購入して増し摺りを     し、一枚5銭で売ったという。最初に歌麿の「本読み」「針めど」などが売り出されたようだ。因みに、歌麿の古版画の     方は当時一枚1円。1円=10貫=100銭だから、複製は実に1/20である。(なお明治30年代に入ると、同じく竹田談話によ     ると歌麿の古版画20~30円に急騰する。下掲「古版画浮世絵の値段の推移」参照)これを歌麿の収集で知られたベン     ケイなる人が大量に購入した。これが好評を博したので、竹田氏の叔父にして浮世絵商の草分けともされる吉田金兵     衛氏、今度は原画の透き写しから新しい板木を作って複製をし始めた。歌麿画の「蚕手業草」がそのさきがけなのだ     という。しかし煤水をつけて時代を付け、柳原の古着屋から古切れを買って来て、それを表紙に折本仕立てにししま     ったとしたらどうだろうか。後世ではもう古版画か複製なのか容易に区別が付かないのではなかろうか〉     (注1)語り手竹田泰次郎の叔父、元禄堂吉田金兵衛。明治中期の浮世絵商の草分けの一人とされる   (注2)明治十二、三年頃から歌麿を中心とする古版画を収集していたドイツ人ブリンクリー。渾名がベンケイ     参考資料 ※絵柄・出来映え・保存状態等によって値段は大きく変わりますので、おおよその目安としてください
      古版画浮世絵の値段の推移  ☆ 明治二十三年(1890)    ◯『明治廿三年美術展覧会出品目録』3-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治23年4-6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 3月25日~5月31日 日本美術協会)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝喜多川歌麿 品川妓楼図 紙本 大横物 一幅(出品者)ウインケレル〟     浮世画扇子 扇掛共 十本(出品者)帝国博物館      北斎・歌丸・豊国・一珪・国貞・国芳・清信・清長・栄之・嵩谷  ◯『明治東京逸聞史』①p182「錦絵」明治二十三年(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   〝錦絵 〈国民新聞二三・五・二一〉     元禄堂主人というのは、内田魯庵であろうか。「古本相場」と題して、江戸時代の文学書の高くなっ    たことを書いている。そしてその中に、「北斎、歌麿の錦絵を、五十銭も一円も出して欲しがる世間な    れば」の一句がある。今から見ると、北斎も歌麿も、まだまだ問題でない。けれども江戸の錦絵が、邦    人にも注意せられるものになろうとしている〟  ◯「【新撰古今】書画家競」(奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊)    (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊))   〝浮世派諸大家     天保(ママ) 喜多川歌麿 浮世絵師 歴代大家番付  ◯「読売新聞」(明治23年3月24日付)   〝西京黼黻(ほふつ)生に答ふ    喜多川歌麿の伝  梅花道人    通称勇助 号を紫屋と称し 江戸の産なり 始は通油町の絵双紙問屋蔦屋重三郎方に寓居なし居りしが    後に神田久右衛門町に住み 又馬喰町三丁目などに移れり 歌麿は天質剛腹なる男なれど 伎倆は鳥山    石燕の門に出でゝ 別に一旗幟(きしき)を樹(た)て 画名海内に轟き渡り 終に清人(しんひと)にまで    其筆を喜ばるゝに至れり 浮世絵にとりて一の誉といふべし 歌麿又鈴木春信と見識を同じうし 終生    歌舞伎役者の姿絵を描かざりしとぞ 明和の頃 師石燕中村喜代三郞狂言の似顔を描きて 浅草観音の    堂に納めしより 浮世絵の風次第に芝居の方(かた)に奔(は)せ 役者の似顔を描くこと大に流行し 世    間の嗜好も亦其一途(いっと)に有りしかば 歌麿常に其子弟に語て曰く 近頃似顔絵とて役者の肖像を    もてはやし 絵師も亦それをのみ一向(ひとすら)に絵(ゑが)くやうに成りたれど 吾は大和絵師なり    焉(いずく)んぞ世間の嗜好に阿(おもね)り 李園子弟の賤像を描き不義の利を貪(むさぼ)らんや 畢竟    世の青(あを)絵師ども伎倆鈍く 名を挙ぐるの手段なきまゝ なべての人の眼(まなこ)になれし役者絵    を描き 其余光を借りて僅(わづか)に虚名を衒(てら)ふ有様 例へば屎蝿が千里の馬の尾に宿りて 指    方(さすかた)に到ると同じく耻べきの話、沙汰の限りなり云々(しか/\) 以て歌麿の性質を知るべし    さてこそ其頃市川八百蔵 一世一代の狂言にお半長右衛門を勤めし時 桂川の似顔絵 買はざるを耻づ    るまの評判となりしに 歌麿はことさら時好に反対を示し 唯尋常の美人絵にてお半長右衛門通行(み    ちゆき)の錦絵を画きて出せしに 却(かへっ)て似顔絵よりは高評を得るに至れり(此時の絵の賛に其    頃の浮世絵師を罵りて 群蟻(ぐんぎ)の如しといへり 其絵今希(まれ)に見る事ありとぞ)歌麿は役者    絵を描かざるかはり 当時に有名なる美人の姿絵を多く発市(はっし)せり 即ち浅草の水茶屋難波屋の    お菊、瘡守おせん、お今、おふぢ、お北、など即ち是なり 其筆蹟挿絵となりて今に存するもの枚挙す    べからざるうち     吉原年中行事、絵本百千鳥、絵本虫撰(えらみ)、絵本駿河舞 など最も人の知るところなり    殊に吉原年中行事は時好に投じて流行せり 或日のこと一九来りて四方山(よもやま)の話の末 談たま    /\年中行事のことに及びし時 一九は文章の作りうざま面白ければ斯(か)くまで売れるに至りしなり    と鼻蠢(うごめ)かせば 歌麿は面(つら)ふくらし 否(いな)とよ 挿絵の意匠なくば 文何ほど巧みな    りとて決して売れまじと 互ひに取って歩を譲らず 終に絶交して頼まず頼まれぬ間柄となりしとぞ    晩年に至り 絵本太閤記の図を出だし幕府の忌諱(きゐ)に触れ 其後ちも亦た絵の事にて囹圄(れいご)    に繫がれしが 放(はな)たるゝ間の無く 寛政四年十二月八日(ママ)没せり 没するの前数日 絵双紙問    屋 迭(たがひ)に歌麿死期の近よりしを察し 各自に錦絵の板下を頼みに来り 一時は紙に身体を埋め    らるゝほどとなりしとぞ〟  ☆ 明治二十四年(1891)  ◯『聴雨堂書画図録』巻二(渡辺省亭著・画 稲茂登長三郎 明治二十四年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝北川歌麻呂 妓高尾弄児図 絹本 竪四尺五寸 濶一尺二寸 (摸写図あり 落款「哥麿筆」)    歌麻魯は姓北川、紫屋と号す。江戸の人。初め鳥山石燕に従て狩野派を学び、後転じて浮世絵に入る。    蓋し浮世絵は世間の風俗を画くの称、元禄享保以来漸く盛ん、而して紫屋出るに及んで、士民男女の    状態、画き得て遺す無し。運筆軽妙、姿致幽婉、観る者歎賞せざる莫し。世所謂錦絵なる者も、亦た    紫屋に至て、其の面目を一変す。実に長春・師宣以後の能手なり〟  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯「読売新聞」(明治25年2月11日付)   〝絵画流行の変動    近頃歌川派の古画頻りに流行し 歌麿の筆に成れるものは略画・板刻ものとも売れ足よく 続々再板を    目論むものさへ多かりしが 其流行の根元を尋ぬれば 昨年一昨年の頃に当りて 仏国巴里の美術家が    日本美術の参考品として 歌麿の画(ゑ)を出板したるが為めなりと云ふ 然れ共我国の画工は其実(じ    つ)歌麿が画体の野卑に傾くを厭ひて 却って石川豊信、歌川春山若(も)しくは鳥居清長等(ら)の墨跡    を賞翫し 欧州美術家をして歌麿の上に尚ほ高雅の絵画ある事を知らしめんなど言ふ者さへあればにや    何時の間にか世の嗜好変はり 古画家の間には此の豊信、春山、清長等の絵画に価値(ねうち)を置きて    売買する事となり 宝暦板の如きは一枚二十五銭の相場を有(たも)ちて 客への売値は五十銭以上に及    ぶと云ふ されば此先歌麿に次で世に出でんものは 此三人の墨跡にて大いに絵画好尚の進歩を来した    りと云ふべけれ〟    〈歌麿は歌川派にあらず。歌川春山は勝川の誤り。「宝暦板」とあるが該当するのは石川豊信くらいか〉  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十五年刊)    歌麿画『虫類画譜』歌麿筆 大倉書店(11月)〈天明8年蔦屋版『虫撰』を翻刻したもの〉  ◯『日本美術画家人名詳伝』下p445(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝北川歌麿    柴(ママ)屋ト号シ、勇助ト称ス、蔦屋重三郎ノ家ニ寓居シ、後チ弁慶橋ノ傍ニ住ス、初メ鳥山石燕ノ門ニ    入リテ狩野家ノ画ヲ学ブ、後チ浮世絵ニ移リ、男女ノ風俗ヲ画ク、又タ多ク錦絵ヲ画ケリ、曾テ罪アリ    テ獄ニ繋ガレシガ、免サレテ幾モナク没ス、生涯俳優ノ像ヲ画カズ、曰ク、俳優ノ名ヲ借リテ画名ヲ天    下ニ伝ヘントスルハ鄙ナリ、我ハ日本絵師ナリ、浮世画一派ヲ以テ名ヲ耀カシムベシト、果シテ其ノ名    声布キテ海外ニ及ベリ(燕石十種)〟    ☆ 明治二十六年(1893)  ◯「読売新聞」(明治26年5月29日記事)   〝歌丸(うたまるママ)の浮世絵益々輸出す    先年来古書画の海外に輸出する物 殊の外多く 就中(とりわけ)歌丸の浮世画は最も声価を博したるに    より 続々輸出する者多く 今は偽物さへ熾(さか)んに輸出するに至りたるが 明治七八年の頃 古仏    像の画幅大いに海外に声価を博したるより 続々偽物現はれ之が輸出を為して巨利を博せし者多く 遂    に信用失墜して 当今は殆ど輸出の形跡なしと云ふ前例もある事ゆゑ 当業者中 心ある者は憂慮し居    と云ふ〟    〈読売新聞はこれまで歌麿(うたまろ)と表記していたのだが、この記事は歌丸(うたまる)としている。下掲の『浮世絵     師便覧』も同じだから、この時期このように呼ぶ機運のようなものがあったか〉  ◯『浮世絵師便覧』p219(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝歌麿(ウタマル)    喜多川氏、名は、豊章、鳥山石燕の男、俗称勇助、紫屋と号す、文化三年死、五十三〟    〈飯島虚心は「うたまる」と呼んでいる〉  ◯『古代浮世絵買入必携』(酒井松之助編・明治二十六年刊)   ◇「喜多川歌麿」の項 p16   〝喜多川歌麿    本名 勇助    号〔空欄〕   師匠の名〔空欄〕   年代 凡百年前    女絵髪の結ひ方 第八図・第九図(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 大判、中判、小判、細絵、長絵、大判(ママ)、長絵(ママ)、雲母摺、絵本、肉筆    備考   墨摺又は淡彩色にて生花の画あれども廉価なる故買入れざるを良しとす〟       ◇「歌麿の初代と二代の区別」p22    初代哥麿は画の出来宜しく、髪の結ひ方は第八図、九図、又十図の三種にして、二代哥麿は初代に比す    れば筆拙く、髪の結ひ方は第十図、十一図、及び十二図の三種なり。尤も第十図は初代及び二代とも同    様なるも、初代は髪の毛の書き方細く、二代は粗なり。
   「女絵髪の結ひ方」 第一図~第九図 第十図~第十三図(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)  ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『明治節用大全』(博文館編輯局 明治二十七年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※(かな)は原文の読み仮名   「古今名人列伝 技芸家の部」(113/644コマより)   〝喜多川歌麿伝    歌麿(うたまろ)俗称を勇助、紫屋と号す。江戸の人なり。初め石恋(ママ)豊房の門に入りて、狩野家の画    を学ぶ。後(のち)一家を為す。浮世絵中興の名人と称せらる。明和寛政年間の人なり。男女の流行風俗    を写すこと、近世此人より始まり、其名海外に及ぶ。嘗て絵本太閤記の図を画き之を版行す。幕府の咎    責を蒙(かう)むり獄に繋がる。赦免の後、幾干(いくばく)もなくすて病て卒す。門人頗(すこぶ)る多し。    菊麿・雪麿・秀麿・美麿、皆麿名あり。二代目歌麿は文化より天保の頃の人。恋川春町と称し書を善く    す〟  ◯『名人忌辰録』下巻p24(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝喜多川歌麿 柴(*ママ)の屋    称勇助、後勇記、号燕岱斎、名信美、武州川越の人。文化二巳年五月三日歿す、歳五十三。(始め狩野    家の画を学び、後鳥山石燕の門に入り、一格をなし浮世絵の妙手、男女の時勢の粧を写す事、尤上手に    して、近世錦絵の花美を極めたり。文化元年五月十六日、豊臣太閤と五婦人を画き、錦絵にして売出せ    し事に付き、御吟味の上三日入牢の上、手鎖の罪を得、七月七日落着、歌麿此時馬喰町に住居す)〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年 新聞「小日本」に寄稿)   ◇「一世歌川豊国伝」p98   〝按ずるに、太閤記には徳川氏に関係せる事共を載せてあり。よりて幕府嘗て此の書中の事を画くを禁ぜ    しなり。一話一言に曰く、文化元年五月十六日、絵本太閤記絶板被仰付候趣、大坂板元へ被仰渡、江戸    にて右太閤記の中より抜き出し、錦画に出候分も不残御取上、右錦画かき候喜多川歌麿、歌川豊国など    手鎖五十日、板元は十五貫文過料のよし、絵双紙屋への申渡書付も有之云々〟    〈「一話一言」ではなく『半日閑話』。上記参照〉      ◇「歌川豊広伝」p109   〝按ずるに豊広が俳優似貌画は、未だ嘗て見ざるなり。一説に豊広は生涯似貌画をかかざりしと、蓋し然    らん。されどかの鈴木春信、喜多川歌麿のごとく、一見識を立て、俳優を卑しみて画かざりしにあらざ    るがごとし。蓋し同門豊国が、似顔絵をよくするを以て、彼に譲りて画かざりしものか。又風俗美人画    は、喜多川歌麿におとるといえども、細田栄之にまさりて、頗(スコブル)艶麗なる所あり。されど其の風    古体にして豊国のごとく行われざりし〟    〈歌麿には「一見識を立て、俳優を卑しみて(役者似顔絵を)画かざりし」といった印象がつきまとっていたようであ     る〉     ◇「歌川豊広伝」p117   〝従来張交画は、肉筆にあらざれば興なきことなれども、僻遠の地は名手の筆跡を請うの便よろしからず。    且肉筆の価甚だ貴ければ、この板刻の画を購いて、はりまぜとなす者多かりし也。これを画きしは、豊    広のみにあらず。堤等琳、勝川春亭、喜多川歌麿なども画きたり。一時大に行われたるものなるべし〟     ◇「歌川豊広伝」p122   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又    兵衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。    中古にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛    飾北斎のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時    の風俗にして、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐    なり、雪舟なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのず    から力あり。これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり〟    〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そして     それを保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その     題材故に陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけ     た「骨法筆意」があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉     守一、清長、歌麿、北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉  ☆ 明治二十八年(1895)  ◯『時代品展覧会出品目録』第一~六 京都版(大沢敬之編 村上勘兵衛 明治二十八年六~九月)   (時代品展覧会 3月25日~7月17日 御苑内博覧会館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝「第四」徳川時代浮世画派(182/310コマ)    一 美人図(文化年間) 一幅 歌川歌麿筆 家城伊助君蔵 京都市上京区〟  ☆ 明治二十九年(1896)  ◯『名家画譜』上中下 金港堂(12月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝中巻 目録 故北川歌麻呂「文化中女流風俗」〟  ☆ 明治三十年(1898)  ◯『読売新聞』記事(小林文七主催「浮世絵歴史展覧会」1月18日-2月10日)   ◇1月20日記事   〝陳列中優逸にして 一幅百円以上三百余円の品    (第百五十九番)喜多川歌麿筆 美人図(第百六十一番)同筆 浮世絵師図〟〈「番」は陳列番号〉   ◇1月27日記事   〝浮世絵歴史展覧会の外人の評    仏人ゴンクール氏    凡そ人物の画にして老幼其齢に適し 剛柔其性に合ふもの極めて稀なり 而して温柔の態を写すに至り    ては 古来画家の最も難しとする処 其之(これ)を能くするもの独りワツトーあるのみ 予(よ)喜多川    歌麿の画を観るに 其所謂(いはゆる)難しとする所を能くせり 即ち婦女の動作を写すに自在なるが如    き是なり 歌麿が描く所は毎(つね)に同一の婦人と雖も 之が動作を現はすに至りては 百画百態活動    の趣きを異にし 温和の性従順の風画図に溢(あふ)るゝの感あり 予一たび歌麿の画を嗜みしより 他    の美人画を観る毎(ごと)に 恰も針にて止めたる蝴蝶を観るの感なき能(あた)はず〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(38/103コマ)   〝喜多川歌麿【天明元年~八年 1781-1788】    姓は源、通称勇助、紫屋と号す、江戸の産なり、はじめ絵草紙店蔦屋重三郎の家に寓居せしが、後ち神    田久右衛門町に住み、また馬喰町三丁目に移れり、天資剛愎の人にて、鳥山石燕の門に入り、また狩野    の画風を学びしが、終に一旗幟を樹てぬ、世に美人絵の妙手と呼ばれ、其の名海内に鳴るのみならず、    清国人にまでも其の絵を喜ばるゝに至れり、歌麿は春信と見識を同うして、生涯歌舞伎役者の姿絵を画    かず、嘗て市川八百蔵が一世一代の狂言に、おはん長右衛門を勤めしとき、他の画工の描ける似顔絵を    求る人の多かりしを見て、歌麿は更に尋常の美人絵にて、おはん長右衛門が道行の姿を画きて出せしに、    却て似顔絵に勝る高評を得たりと云ふ、板刻の絵本多き中にも『吉原年中行事』は、時好に投じて尤も    流行しけるが、一日十返舎一九来りて閑談のすゑ、此の『年中行事』のことに及び、一九は文章の面白    きによりて、斯く売行の多きを見るに至りしなり、と鼻蠢せば、歌麿は否とよ挿絵の師匠拙なくば、文    章いかに巧みなりとも世に行はれじ、と互いに争論して歩を譲らず、此の時より遂に絶交したりとぞ、    歌麿嘗て難波の画工法橋玉山の画ける『絵本太閤記』に出たる、武者に美人を画き添へて、三枚続きの    錦絵を出だせり、即ち太閤の御前に稚児髷の石田が、目見えの手をとり給ふ所に、長柄を把れる侍女の    袖を掩ふ図、加藤清正の甲冑姿にて酒宴の傍に、朝鮮の妓婦が三絃を弾く図等なり、是が為めに絵草紙    店、并に歌麿も共に御咎を受けて、遂に絶板を命ぜらる、其の後再び絵の事にて、囹圄の中に繋がれし    が、間も無く放たれて家に帰りしを、絵草紙問屋等は、歌麿が死期に近よれるを察し、互いに錦絵の版    下を依頼せしかば、一時は身体を紙に埋めらるゝ程なりしとぞ、文化三年五月三日没す、享年五十三     (版本五、書名省略)    (本伝は『異本浮世絵類考』『文々集要』『浮世絵年表』等に拠る)〟    〈『文々集要』は『街談文々集要』。文化元年参照のこと〉  ☆ 明治三十二年(1899)    ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(188/218コマ)   〝北川歌麿    通称勇助といふ 紫屋と号す 江戸弁慶橋に住す 初め鳥山石燕に師事して 狩野風の画法を学び 後    浮世絵に移り 男女の風俗 錦絵及び俳優の像を描く 既にして俳優の名を借りて画名を伝へんとする    の非なるを知り 之れを描かず 自ら曰く 我は日本絵師なり 何ぞ世の画工の為す所に倣ふて 卑鄙    の業を為さんやと 遂に浮世絵を以て名を揚げ 遠く海外に及ぶに至れり(燕石十種 扶桑画人伝)〟  ◯『浮世画人伝』p62(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝喜多川歌麿(ルビきたがわうたまろ)    喜多川歌麿は、幼名市太郎、通称を勇助と称し、紫屋と号す、宝暦三年江戸に生る。初め通油町の絵草    紙舗(ミセ)、蔦屋重三郎の家に寓居し、後神田久右衛門町、馬喰町、大丸新道などに転居せり。画風は狩    野家より出でゝ、後に鳥山石燕の門に入り、別に一格を創意して、専ら浮世絵に力を尽せり。蓋(ケダ)    し錦絵の精華の域に進みしは、此時を以て始めとすべし。当時俳優の錦絵盛に行はれ、一陽斎豊国は其    最も巧なるものにして、画名歌麿の右に出る勢ありき。斯(*カ)く俳優の錦絵流行しければ、絵師は悉く    此趨勢に追はれて、錦絵は俳優の外、別に材料無きものゝ如く、人気に媚び営利に汲々たりき。歌麿、    天質剛腹一見識ある者にて、終身俳優の似顔を描かず、流行の俗気に打たれ、婦女子に心を致して、そ    が贔屓役者を描き、名を売り利を貪らむとするは、末技者流(バツギシャリュウ)の為すことなり、自ら技倆を    有して、名を当世に鳴らさむと欲するもの、豈(*アニ)河原乞児の余光によらむやと、特更に流行に背馳    して、画道の粋をみがきたりき。    享和三年八月市村座にて「桂川纈月見(カツラガワイモセノツキミ)」と題して、市川八百蔵(三世、後助高屋高助)    長右衛門を、岩井粂三郎(五世半四郎、壮若大太夫是なり)お半を演じ、三代目八百蔵一世一代の狂言    なりとて頗(*スコブ)る高評を得たりしかば、浮世絵師等競うて桂川情死の俳優錦絵を出板す、就中(*ナカ    ンヅク)歌川豊国の画、最も評判高かりし、然るに歌麿は尋常の美人絵にて、お半長右衛門の道行の図を    出し、其讃に、浮世絵師が猥(ミダリ)に世に媚び、流行に奔(*ハシ)るを以て、意匠拙劣卑陋を極め、其画    見るに足らずと嘲罵(チョウバ)しければ、人々皆其抱負に感ぜざるもの無かりきとぞ、以て其気風の一端    を想見(ソウケン)し得べし。かゝれば、其画自ら趣ありて、名匠の聞え遠く海外に轟き、長崎在留の清国人、    歌麿の名を慕ひ来りて、数千枚の錦絵を買求めたりと云ふ。明治十七年の冬に至りては、歌麿が錦絵の    価(*アタイ)大に騰貴し、三枚続五十銭、甚しきは、一枚参拾銭に及べり、蓋し歌麿の錦絵能く時俗(ジゾ    ク)を写し、殊に美人を描くに巧妙にして、世人の嘆賞する処なりしかば、外客こゝに着眼して、之を買    〆めむとしたればなり。今も尚ほしかり。    歌麿また秘画に於きては、西川祐信に亜(ツ)ぐ妙技を有せしとぞ。今歌麿が手に成りし重なるものを挙    れば、絵本江戸雀、詞の花、数寄屋釜、二十四孝、花の雲、銀世界、譬喩篩(ママ、譬喩節)、美人競、筆    の鞘、百千鳥、虫撰、駿河舞、吉原年中行事等なり、吉原年中行事の作者は十返舎一九にして、挿画(サ    シエ)は則ち歌麿なり。非常に好評を得て、一時人口に嘖々(サクサク)たり。歌麿曰く、斯(カ)く吉原年中行    事の高評を得たるは、我挿画の巧妙なるに因る、若(モ)しこれなかりせば、吉原年中行事、誰かまた之    を口にするものあらむと、自負(ジフ)たり、一九これを聞き、大に腹たゝしき事に思ひ、怪しき歌麿が    口振りかな、挿画(サシエ)豈(アニ)好評を得る点に於て、半分の価あらむや、只我が文の妙なればなりと、    互に相争ひ相誇りて、果ては隔意(カクイ)を生ぜしかば、知己の人々其間に入り、調和を計りしが、未だ    其落着を見ざるうち、歌麿等の身上に、災厄降りかゝれり、其事の起りを尋ぬるに、寛政の頃、難波の    絵師法橋玉山と云へる人、一世の健筆を揮ひて、絵本太閤記初編十巻を作り、大に世にもてはやされし    かば、年を重ねて、七編まで刊行せり。江戸にては勝川春亭、歌川豊国及(*オヨビ)歌麿等、玉山の趣向    にならひ、太閤記の巻中、所々を撰出して、これを錦絵に描き、二枚続若(モ)しくは、三枚続として出    板せり。文化元年の五月、歌麿は太閤の御膳に石田三成、児子髷にて目見(メミ)えの手を取り給ふ所、長    柄(ナガエ)の侍、女袖をおほひたる形、加藤清正、甲冑酒宴の側に朝鮮の妓婦(ギフ)三絃ひきたる形を、    錦絵に描き出板せしが、端なく官の咎めにあひ、直ちに呼出されて、吟味中入牢を申付られ、出牢の上、    手鎖となり、板元は錦絵を取上られし上、拾五貫文の過料を申付られたり。    歌麿手鎖中、京伝、焉馬、板元西村などの見舞に来りし時、歌麿これ等の人々に向ひ、己れ吟味中、恐    怖の余り心せきて、玉山が著(アラワ)したる絵本太閤記の事を申述べたり、これによりて、同書も出板を    禁ぜられたるは、此の道のために惜むべく、且(*カツ)板元に対して気の毒にて、歌麿一世の過失なりと    語れり。されば、絵本太閤記が七編までにて絶板となりしは、これが為なり。    右の出来事は、非常に歌麿の気力を害せしと覚しく、精神衰へ身体弱はりて見えければ、営利に抜目な    き、絵草紙問屋等は皆々云合せし如く、歌麿は此度の心配に、疲労して身体衰弱しければ、遠からず病    死すべし、されば死せざるうち、早く依頼するこそよけれとて、錦絵の依頼者、踵を接し、殆ど他に絵    師無きものゝ如くなりきとぞ。果して翌年、即ち文化二丑年五月三日、溘然として不帰の客となりぬ、    時に年齢六十三歳なりき。    歌麿と同時に、豊国、春亭、春英、月麿及一九等も吟味を受けて、各五十日の手鎖、版元は出板物没収    の上、過料十五貫文宛申付られたり。豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本鎗の図にして、一九は化    物太平記と云ふを物し自画を加へて出板せしによるなり。右歌麿豊国一九等の吟味未だ落着せざるうち、    根岸肥前守より左の如き町触(マチブレ)ありたりき。    一 絵草紙類之儀ニ付、度々町触申渡之趣、有之処、今以如何敷品売買致候段、不埒之至ニ付、今般吟      味之上、夫々咎申付候、以来左之通可相心得候    一 壱枚絵に和歌之類、并に景色の絵、地名又相撲取、歌舞伎役者、遊女之名等者格別、其外詞書一切、      認め間敷候    一 彩色摺之絵本、草紙類、近年多く相見え、不埒に候、以来絵本草紙、墨許りにて板行可致候、      文化元年五月十七日    右之通相心得、其外前々触申渡之趣、堅相守、商売致、行事共入念可相改候、此絶板申付候外にも、右    申渡相違候分、行事共相糺、早々絶板致、以来等閑之儀無之様可致候、若於相背者、絵草紙取上、絶板    申付、其品に寄り、厳敷咎可申付候
   「喜多川歌麿系譜」    ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※半角カッコ(かな)は本HPの補記   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画(168/225コマ)    喜多川歌麿    初め狩野の画風を学び、後ち鳥山石燕の門に入りて研究し、天明頃よりは専ら鳥居清長の風を慕ひ、遂    に名手となる。当時男女の婉美繊麗なる風俗を写し、又始めて巧なる印象的の風景をも写し出だせり。    其の筆に成る錦絵類夥多刊行せらる。実に当代第一流の画工となれり。其の没年詳(つまびらか)ならざ    れども、文化七八年の頃なるべし〟  ☆ 明治三十九年(1906)  ◯「集古会」第五十八回 明治三十九年五月(『集古会誌』丙午巻之四 明治39年9月)   〝村田幸吉(出品者)歌麿筆 美人図 団扇 二本〟  ☆ 明治四十年(1910)  ◯『考古界』六編九号(考古学会 明治四十年十二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「北川歌麿の墓に就て」武田酔霞   〝浅草専光寺の過去帳は左の如し     土 理清信女   寛政二年八月二十六日 神田白銀町 笹屋五兵衛緑 北川歌麿妻     土 秋園了教信士 文化三年九月二十日  北川歌麿    但し此頭に土とあるは、骸骨を埋みし印しなり〟   <参考>(『浮世絵』28号 大正6年9月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「歌麿の墓所及過去帳発見の由来(二)」星野朝陽   〝(過去帳の原文)   (一)「寛政二戌年」の條     土 八月廿六日 理清信女 神田白銀町 笹屋五兵衛縁   (二)「文化三寅年」の條     土 九月二十日 秋圓了教信士 北川歌麻呂 ヿ     (『考古界』の記述は)(一)に於て原文に無き「北川歌麿妻」の五字を加へながら、却て(二)に於    て「圓」を「園」に誤りたるのみならず、最後の「ヿ」字を脱してある(中略)(一)に至ては私は同    翁が之を其妻とせらるゝに反して、母と認むるものである〟    〈「ヿ」は「コト(事)」の記号。「同翁」とは上掲武田酔霞〉  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯「集古会」第八十一回 明治四十四年一月(『集古会誌』辛亥巻二 大正1年9月刊)   〝村田幸吉(出品者)歌麿筆 金太郎乗猪図 一枚〟  ◯「集古会」第八十三回 明治四十四年五月(『集古会誌』辛亥巻四 大正2年4月刊)   〝村田幸吉(出品者)歌麿筆 吉原俄 朝鮮人来朝図 七枚続〟  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第二輯(明治四十五年(1912)五月刊)    (絵師)   (画題)  (制作年代) (所蔵者)    〝喜多川歌麿 「梅と桜」  寛政頃    高嶺俊夫〟   ◇『浮世絵画集』第三輯(大正二年(1913)五月刊)    〝喜多川歌麿 「芸妓」   寛政頃    東京帝室博物館〟  ☆ 大正年間(1912~1825)    ◯「集古会」第八十九回 大正元年(1912)九月(『集古会誌』壬子巻五 大正3年5月刊)   〝村田幸吉(出品者)歌麿筆 魚市図 一枚〟  ◯「集古会」第九十五回 大正二年(1913)十一月(『集古会志』甲寅一 大正4年10月刊)   〝竹内久一(出品者)喜多川歌麿図 文化八年十月二十八日 浅草御坊遷仏参列式 一枚〟  ◯『梵雲庵雑話』(淡島寒月著)※(かな)は原文の振り仮名   ◇「幕末時代の錦絵」p121(大正六年(1917)二月『浮世絵』第二十一号)   〝(維新当時)新版の錦絵を刷出(すりだ)しますと、必ずそれを糸に吊るし竹で挟み、店頭に陳列してみ    せたものです。大道(だいどう)などで新らしい錦絵を売るという事はありませんでした。その頃はもう    写楽だとか、歌麿だとかいう錦絵は、余り歓迎されませんで、蔵前の須原屋の前に夜になると店を出す    坊主という古本屋が、一枚一銭位で売っていたものです。それでも余り買う人もなくって、それよりも    国芳とか芳年などの新らしいものが歓迎されたのです〟     ◇「古版画趣味の昔話」p131(大正七年(1918)一月『浮世絵』第三十二号)   〝昨年(大正六年)の十月には、歌麿墓碑建設会の主催で、遺作展覧会が開かれたのに因(ちな)んで、私    の歌麿観を一言附添(つけそ)えて置きたい。既に本誌の歌麿記念倍大号が発行され、諸大家の歌麿に関    する考証やら、批評やらが種々発表され尽したのである故、今更(いまさら)蛇足とは思われるが、所感    のままを列ねて置く。私は古今の浮世絵師中、美人を画くに当って、艶美(えんび)という点において、    歌麿の右に出づるものは全く無いと信ずる。春信なども筆行(ふでゆ)きはよく、技巧も表現法も立派で    あるけれども、むしろ上品に描いたものであって、艶美の点に至っては、到底歌麿に匹敵し得るもので    はない。美人画においては、歌麿を以(も)って浮世絵師中第一のものと称するに何人も異論はあるまい    と思う〟  ◯『読売新聞』(大正6年(1917)9月19日)   〝歌麿の碑を建てる ことし百十二回忌 -来月三十一日の記念- 橋口五葉画伯語る    あした、九月二十日、それを陰暦にした来月の三十一日は浮世絵の大家と断る迄もない喜多川歌麿の    百十二回忌に当たるので、橋口五葉、高橋太華、武田信賢、星野日子四郎、鏑木清方、市原一郎、ハ    ツパーの諸氏発起となり、当日    その菩提寺なる浅草区松山町専光寺に建碑式を行ひ、また歌麿の遺作展覧会を開くことになつた。右    に就き 橋口五葉氏は語る    「歌麿の墓が何所にあるか、余り人が知らなかつたが、高橋太華氏が明治卅五年墓所一覧の続編を見     て 浅草の専光寺に在ることを知り、わざ/\同寺へ出かけて在職と共に 墓所方角帳を調べると、     成程在つた 然し無縁であるから只台石があるばかりで、墓石が無くなつて居た。そこでこれが歌     麿の墓だといふ標(しるし)だけをしておいた     その後明治四十年 史学編纂所の武田信賢氏が歌麿の墓所を研究して、雑誌考古界に発表され、か     うして歌麿の墓は世間に知らることになつたのであるが、本年の七月 同寺の墓所の一部を下谷警     察署へ貸すことになつたので、歌麿の墓も取払はねばならぬことになつたので、私は星野日子四郎     氏と共に専光寺に行つて 歌麿の墓から骨(こつ)を取り出し、之を骨壺に納めて一先づ同寺の骨堂     に預けて置いたが、そのまゝにして置く訳に行かぬから 私共が発起人になつて 故人に縁故のあ     る人達の寄付金を集め、同寺へ新たに歌麿の墓碑を建てることにしたのである。     もし忌日までに墓碑が建てられなかつたら、同日は歌麿祭を行ひ故人の絵画を陳列して一般に見せ     るだけにする      歌麿は一生独身で暮した人で、妻子のなかつたことは馬琴の『後のための記』に書いてあるが 何     年頃に生れたか、どうも分らぬ、歌麿の描いた絵が世の中に出たのは安永五六年頃で、死んだのが     文化三年九月二十日であるから、その間が約三十二年になる 二十才の時から絵を描いたとしても     五十二三歳になるから 五十歳以上で亡くなつたことだけは確かである     日本には浮世絵の大家も◎いに、歌麿一人が名高くなつて、師匠の鳥山石燕よりも偉くなつたのは     如何(どう)いふ訳か、それは歌麿が知的の発達の鈍い徳川時代の女性の特徴を捉へることに余程苦     心をして、独特の線で他人の企てることの出来ない女性美を発揮することに成功したからである。     ルノアー氏は色彩をその特徴として居るが、歌麿は線をその特徴として居る、歌麿の中年は女の写     生時代で、此の時代の作品が最も潤ひがある。歌麿の絵は頗る尠(すくな)いので、よく出来た絵な     ら版画のもので、一枚千円が相場である。それでも良いものはなか/\手に入らぬ」云々〟  ◯「集古会」第百四十一回 大正十二年(1923)三月(『集古』癸亥第三号 大正12年月刊)    〝浅田澱橋(出品者)華魁錦絵 歌麿 角玉屋歌浜 / 同上 扇屋滝川〟  ◯「集古会」第百四十六回 大正十三年(1924)五月(『集古』甲子第四号 大正13年8月刊)   〝浅田澱橋(出品者)喜多川歌麿 浮絵江戸両国納涼 一枚〟  ◯「集古会」第百五十三回 大正十四年(1925)十一月(『集古』丙寅第一号 大正14年12月刊)   〝三村清三郞(出品者)歌麿画 忠孝遊仕事 寛政二 通笑作〟  ◯『罹災美術品目録』(国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   (大正十二年(1923)九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)    喜多川歌麿画(◇は所蔵者)   ◇大畑多右衛門「美人図」紙本墨画密画 巾一尺二寸   ◇小林亮一所蔵〈小林文七嗣子〉    「布袋観唐児角力図」歌麿源豊章と款す(若年の作)/「遊女図」八十三歳通用亭狂歌賛    「美人立姿図」真顔狂歌賛(面相俊満風を帯ぶ)  /「美人読書男子吹煙図」    「美人画工図」     (画工前に坐し美人小供を抱いて後に立ち、画工は歌麿の自画像ならん、此画工と同じ面貌、版画「見立忠臣蔵」にあ      りて、歌麿自ら艶容を画く云々と記せりと云ふ)    石燕、歌麿、春町合作「美人鍾馗図」鍾馗七十七翁石燕、美人歌麿、了髪春町  ◯『本之話』(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊)   (『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)   〝歌枕    かのとのとり年とはきけど、いつのむかしにかありけむ、麻布のはくさくの家より一風呂敷のおそくず    ゑぞ市に出たりける、大かたは師宣より春信までの墨摺ものにてありけるが、中に歌麿の歌枕といふも    のあり、十二枚もの帖仕立、肉摺とて、人の肌は、からずりにして、豊かにふくよかにしたるなりけり、    これが千五百金と聞けり。八年前に或博士の家より出でし時は六十五金となりけるものをと、人々目を    瞠りぬ、或すきものこれをきゝて、さるふみならば我ももてりとて、千二百金に払ひけりとぞ、世の富    貴なる頃なりけるとかや、罰当りしれものも多かりける〟    〈「かのととり(辛酉)」は大正10年〉    ☆ 昭和年間(1926~1987)     ◯『狂歌人名辞書』p8(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝筆綾丸、通称喜多川勇助、則ち東都の浮世絵師歌麿狂歌の号、文化三年九月二十日歿す、年五十三、浅    草北松山町専光寺に葬る〟    ◯「日本小説作家人名辞書」p725(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   〝喜多川歌麿    鳥山豊章、源姓、通称は勇助、後勇記と改む。鳥山石燕の門人で歌麿といふ。筆の綾丸、一窗主等の号    がある。始め根津に住み、弁慶橋に移り、久右衛門町に転じ、後馬喰町三丁目に移転す。宝暦三酉年    (1753)生、文化二巳年(1805)五月三日歿、享年五十三〟    ◯『浮世絵師伝』p8(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝歌麿    【生】宝暦三年(1753)  【歿】文化三年(1806)九月二十日-五十四    【画系】鳥山石燕門人   【作画期】安永五~文化三    源姓、北川(後に喜多川とも書せり)氏、名は信実、幼称市太郎、後に勇助と称し、更に勇記と改む、    一説に拠れば、武州川越の産にして、早く父を失ひ、少年時代に母と共に江戸に来りしものならむと云、    夙に石燕に師事して出藍の譽れあり、画名を豊章といひしが、天明二年頃より歌麿と改め、旧名は僅か    に印章などに用ゐたり、別に石要、木燕、燕岱斎、紫屋と号す、又狂歌名を筆の綾丸といへり。    初め忍ケ岡に住せしが、曾て通油町(天明三年九月、吉原五十間道より移る)なる版元蔦屋重三郎方に    寄寓せしこともあり、後ち神田久右衛門町、馬喰町三丁目、神田弁慶橋等に転居す。彼の果して処女作    と認むべきものは不明なれど、安永五年(廿四歳)十月出版の「市川五粒名殘り惣役者発句集」と題す    る一枚摺に市川海老藏(四代目団十郎)の肖像を描き「北川豊章書」と落款せり、それに次ぎて、安永    七年十一月、五代目市川団十郎の「荒川太郎まけず」に扮したる「暫ノ図」(細絵)あり、されば、其    の頃既に作品を発表しつゝありし事を知るべし。次で安永八年には、黄表紙『都見物太郎』及び洒落本    『女鬼産(オキミヤゲ)』の挿画あり、同九年には、黄表紙『芸者呼子鳥』、同『恋の浮橋」等ありて、彼    の画風の未だ定型を成さゞる時代の好作例を示せり。爾後、天明年間に入るに及んで、漸次其の特徴を    現はし、それより寛政四五年頃に至りて技巧益々円熟の域に進み、其の前後に亘りて数多の傑作を出し    たりき。今試みに彼が作品の一斑を示せば左の如し。     絵本の重なるものとしては、     絵本時津風    一册(天明二年版) 絵木江戸爵(スズメ)  三册(同六年)     和歌夷      一册(同六年)   絵本詞の花      二册(同七年)     絵本虫撰(ムシエラミ) 二册(同八年)   絵本譬喩節(タトヘノフシ) 三册(同九年)     絵本狂月望    一册(寛政元年)  汐干のつと      一册(同元年?)     百千鳥狂歌合   二册(同二年?)  絵本普賢像      一册(同二年)     絵本銀世界    一册(同二年)   絵本歌まくら     一册(同初年頃)     絵本吾妻遊    三册(同二年)   絵本駿河舞      三册(同二年)     絵本四季の花   二册(同十三年)  吉原青楼年中行事   二册(享和四年)    等なるが、就中『絵本虫撰』及び『汐干のつと』に於ける写生の努力と、『絵本歌まくら』に於ける描    写の精緻とは、流石に彼が真面目を窺ふに足るものなり。    次に錦絵のうち最も優秀の作として挙ぐれば左の如きものなり。     四季造花之色香       風流花の香遊        青楼爾和嘉鹿島踊続        青楼仁和嘉女芸者部      (以上天明前半期の作)     役者六家選(細絵三枚)   小伊勢屋おちゑ(雲母地)  富木豊雛(雲母地)        難波屋おきた(雲母地)   歌撰戀の部(雲母地)    婦女人相十品(雲母地)     婦人相学十体(雲母地)     (以上寛政前半期の作)     美人裁縫の図(黄地三枚続) 青楼十二時(同十二枚)   娘日時計(同十二枚)     北国五色墨(同五枚)    錦織歌麿形新摸樣(同三枚) 五人美人愛敬競(正銘歌麿)     青楼七小町(同)      高名美人六家撰       六玉川     婦人泊り客之図(三枚続)  台所美人(二枚続)     鮑取り(三枚続)     両国橋上橋下納涼之図(六枚揃) 逢身八契        実競色の美名家見     婦人手業拾二工       婦人手業撰競     (以上寛政後半期の作)     男女魚釣の図其他(長判)  婦人相学拾体(再題)     (以上享和年間の作)    尚ほ右の外にも佳作尠からざるべし。    彼が錦絵に於ける技巧の優れたる点は、一々指摘するに遑なけれども、其の寛政前半期の作に見ゆる雲    母の応用及同時期の作たる細絵両面摺(「難波屋おきた」「高島おひさ」の二図)の如きは、正に特筆    すべきものなりとす。当時江戸の水茶屋女として評判高かりしおきた、おひさ其他の二三人は、天性の    美貌を以て人氣を呼びしものなるべけれど、一面彼れが錦絵に描かれて、弥が上に世評を高めしことは    論を俟たず、其の点、先に春信の好画題となりし笠森お仙及び柳屋お藤と比儔するものなり。げに彼が    女性観は徹底的にして、些細の動作を写せしものにも無限の情調を漾はしむる所あり、正に「美人画の    天才」の名実共に相備はれるものと謂ふべし。    但し、この天才歌麿も、ひそかに先輩春信を畏敬せしものゝ如く、彼が寛政中期の作たる黄地大判錦絵、    男女虚無僧姿の図には、傍書に故人春信図と明記せり(口絵第四十一図参照)。以上、絵本、錦絵等の    外、黄表紙二十余種、洒落本数種にも挿画し、また小咄本などの挿画もありて、頗る多種多樣の図に富    み、尚ほ数多の肉筆画の遺存せるもあり、殊に春宵秘戯の絵本類に至りては、彼の面目躍如たるものあ    れど、遺憾乍ら茲に詳録の自由を有せず。    彼れが作画上に於ける自負心の強かりし事は、曾て其の作品に附刻せる彼れの告白に由つて明かなる所    なり、曰く「人まねきらい、しきうつしなし、自力画師歌麿が筆に」云々、又曰く、「予が画くお半長    右衛門は、悪癖をにせたる似づら絵にはあらず」云々、と自ら高く標榜し、暗に他を蔑視せる傾きあり    しが如し。又、かの『【吉原青楼】年中行事』に就て、作者十返舎一九と功を争ひしが如き、自己の芸    術に就いて相譲らざりし彼の態度を想見するに足れり。    彼は、文化元年「太閤洛東五妻遊観」(三枚続)を画きて罪せられ、入牢及び手鎖の刑を受け、大いに    心身に打撃を蒙りしにや、其後幾年ならずして遂に他界せり、法名、秋円了教信士、浅草北松山町なる    専光寺(浄土宗)に葬る。    門人二代目恋川春町、彼の後を襲ひて二代目歌麿を名乗りしかども、その技到底彼に及ぶべくもあらず、    血統亦彼れ一代にして絶えたり、然れども彼が芸術上の生命は不朽にして、夙に海外にまで其の名を称    へられ、幾多の著述に依つて殆ど全世界に喧伝せられつゝあり。    曾て其が墓域の將に不明に終らむとせしを、(故)武田信賢氏の捜訪によつて其の跡を確認され、次に    (故)橋口五葉氏と星野日子四郎氏との首唱を以て有志を募り、其が墓碑再建の挙は全うせられたりき、    これ大正六年十月の事に属す。(本稿亦両氏の研究より得る所甚だ多し)      (歌麿の肖像あり。「栄之六十歳筆」(大英博物館藏))〟    ◯「集古会」第百八十回 昭和六年三月 於無極亭(『集古』辛未第三号 昭和6年5月刊)    浅田澱橋(出品者)     歌麿画 錦絵 七変化子宝遊 一枚 /同画 錦絵 美人乳を出せる図 一枚〟  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「安永八年 己亥」(1779)p135   〝此年、喜多川歌麿、豊章と署して『寿々はらゐ』『おきみやげ』等の洒落本に画く〟    〈『寿々葉羅井』は志丈作の咄本。『女鬼産』(無気しつちう作)が洒落本。この年他に黄表紙を二点画いている。一     点は黄山堂(南陀加紫蘭・浮世絵師窪俊満)作の『通鳧寝子の美女』、もう一点は松壱舎作の『東都見物左衛門』〉     ◇「天明元年(四月十三日改元)辛丑」(1781)p137   〝此年、鳥山豊章、歌麿と号して、志水燕十作の『身貌大通神略縁記(ママ)』に画く〟
  ◇「天明六年 丙午」(1786)p143   〝正月、喜多川歌麿の『潮干のつと』『絵本江戸爵』出版〟
  ◇「天明七年 丁未」(1787)p144   〝正月、喜多川歌麿の『絵本詞の花』出版    此年五月、歌麿の画ける洒落本『不仁野夫鑑』出版。(此の書東湖山人の作にして、安永四年に成れる    ものなれば、世人為に誤りて歌麿も安永四年に画けるものと為せり。実は長く写本にてありしを、本年    出版に際して挿画を歌麿に画かせしものなれば、安永四年の画とはいひ難きものなり。歌麿の処女作は    安永八年に豊章と称して口画を画ける洒落本『すゝはらゐ』『おきみやげ』等を以て嚆矢とすべきが如    し)〟
  ◇「天明八年 戊申」(1788)p146   〝正月、歌麿の『画本虫ゑらみ』出版〟
  ◇「寛政元年(正月二十五日改元)」(1789)p149   〝八月、喜多川歌麿の『狂月妨』出版〟
  ◇「寛政二年 庚戌」(1790)p151   〝正月、喜多川歌麿の『絵本駿河舞』出版〟
  ◇「寛政四年 壬子」(1792)p154   〝正月、喜多川歌麿の『絵本銀世界』『絵本普賢像』『絵本和歌夷』等出版〟
  ◇「寛政八年 丙辰」(1796)p159   〝正月、喜多川歌麿の『絵本百千鳥』出版〟
  ◇「寛政九年 丁巳」(1797)p161   〝正月、歌麿の『絵本天の川』『絵本譬喩節』出版〟
  ◇「寛政一〇年 戊午」(1798)p162   〝此年、歌麿の口画にて式亭三馬の作になれる洒落本『辰巳婦言』幕府より絶版の命を受けたり〟
  ◇「寛政一一年 己未」(1799)p164   〝正月、歌麿・豊国・国政三人の手に成れる『俳優楽室通』出版〟
  ◇「寛政年間」(1789~1801)p166    〝浅草寺随神門前の茶屋、難波屋のおきた、両国薬研堀の茶店、高島屋のおひさ、芝神明前の茶店、菊本    おはん、此の三人美人の名高く、能く清長・歌麿の錦絵に画かれたり〟
  ◇「享和元年(二月五日改元)辛酉」(1801)p166   〝正月、歌麿の『絵本四季花』出版〟
  ◇「文化元年(二月十九日改元)甲子」(1804)p171   〝正月、歌麿に画ける『吉原青楼年中行事』出版。    五月、江戸の浮世絵師勝川春英・同春亭・歌川豊国・喜多川歌麿・同月麿等作画により手鎖五十日の刑    に処せらる〟
  ◇「文化三年 丙寅」(1806)p174   〝九月二十日、喜多川歌麿歿す。行年五十四歳。(歌麿は鳥山石燕の門人にして、初め豊章と称せり、即    ち師の豊房の豊の一字を譲られしものゝ如し。歌麿は浮世絵界第一流の傑物にて時代も亦天明の黄金時    代に最も其妙腕を振へり。殊に美人を画くに艶麗なること歌麿の右に出づる者無きは世の定評あるとこ    ろなり)〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「世田谷区」専光寺(烏山町一四四七)浄土宗(旧浅草北松山町)   〝喜多川歌麿(画家)名信美、通称勇助、紫乃屋と号す。画風は狩野家より出でゝ、鳥山石燕に従ひ、更    に浮世画に力を尽せり。性剛腹、他の作者の如く俳優の似顔を描かず、美人画に一機軸を出し、錦画中    興の祖と称せらる。江島三枚続、蚫取図、絵本蟲えらみ等名も最高し。文化三年九月二十日歿。年五十    三。秋円了教信士〟    〈『原色 浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」は享年を五十四歳?とする〉    △『増訂浮世絵』p155(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝(前略)歌麿の肉筆中に、可なり拙なものがあるが、それは極めて晩年の作か、或は二世歌麿の筆であ    る。二世歌麿の筆と初代のものとは、よく区別しなければならぬ。    歌麿の肉筆画に於ける手法は、歌麿独特のものであり、清長のやうに暢達の筆致ではない。余り速力の    早くない筆と運で、色彩には不透明色を濃厚に塗つたものが多い。    (中略)歌麿は安永の初期から、版画を作つて居るが、清長の影響をうけて居ることは著しい。また北    尾の流れに倣ふ所もある。天明から寛政の初までのものには殊によいものが多い。歌麿が版画に種々の    工夫を凝らしたことは一通りではない。    歌麿の作品中で、優れたものゝ一は、所謂大首で半身の美人画である。美女の顔の表情を巧に芸術化す    る伎倆は、この大首にて発揮され、背色を黄摺にしたもの、或は雲母で背色を潰したものなど、種々の    意匠を凝らして居る。    或は無線摺にして、色の感をやはらかくしやうとしたものもある。美人の顔の輪郭に墨線を用ひず、カ    ラ摺であらはし、また着物の皺などにも、カラ摺をかけて居る。その効果としては、色彩の感まで、や    はらかに見せて居る。描線と色彩とで、絵をつくる時に、描線の力を軽くすれば、色彩は従つて強く、    有効にはたらく訳である。歌麿は描線と色彩との関係を考へて、描線の働きを軽減したのである。清長    の線が肉筆と同じく版画にまで、強くはたらいて居るのとは、その趣を異にするのである。無線描法を    以てした有名な錦織歌麿形新模様は、そのよい例である。その内の、ふみ見の図では、没線式とし、線    のあるものでも、努めて目立たないやうに薄墨で摺刷し、唯必要な部分だけを墨で摺つて居る。女の衣    服は紫色だが、これに藍で陰影をつけて、板ぼかしを用ひた。全く線を用ひないのは、襟、帯、下着等    で、カラ摺をかけて居る。これなどは歌麿形と銘を打つて居るだけに、会心の作であらうが、この図中    には、歌麿の大気焔を吐いた文字が載せてある。頗る面白い資料である。        夫れ、吾妻にしき絵は、江都の名産なり、然るを近世この葉画師専ら蟻のごとく多出生、只紅藍      の光沢をたのみに怪敷形を写して、異国迄も、其恥を伝る事の歎かはしく、美人画の実意を出て、      世のこの葉どもに与ることしかり    とある。その自負の大きいのに注目すべきである。結辞の「世のこの葉どもに与ふることしかり」とい    ふは、如何にも歌麿の気焔万丈の状を偲ぶことができる。かやうな勢であり、また世の中でも歌麿を大    に尊重し、名声は辺陬の地にまで及んだのである。かゝる有様故、偽版が起つたのも当然のことであら    う。歌麿はそれに対して正銘歌麿と署した程である。以てその旺盛であつたことが窺はれる。    さて当時は彫摺の技術が著しく進歩した為めに、種々の精妙なる技巧を、制作上に用ひたのであるが、    無線式以外色色の手法がある。例へば、夏装の美人の羅衣で、下着の紅い色が透けて見ゆる処や、衝    立に掛け紗の羽織など、巧みなる方法で、実物の感じをよく見せてゐる。蚊帳などは、これまでとても    相当に技巧を用ひられてはいたが、歌麿に至つて最も巧妙に作られたのである。子供を寝せてある母衣    蚊帳や、世に知られた婦人泊り客三枚続など、蚊帳の表現はなか/\立派にできて居る。肉筆では画き    にくにものを、版画として巧妙に表現したのである。     (歌麿版画の具体的作例あり、省略)    この他に、歌麿の為めに、特筆しなければならぬのは、美人画以外の作物である。まづその花鳥魚介の    絵から挙げねはならぬ。何となれば、それに非常な傑作があるからである。絵本百千鳥狂歌合、絵本蟲    ゑらみ、絵本汐干のつとなどはその例である。これは恐らく今まで筆にしなかつた題材であるから、そ    の物を描写しやうとする時に、特殊な注意をこれに向けることができたのであらう。花鳥書画専門家で    あると、反つて見落して所を、忠実に観察することを得たのは注意すべき点である。これ歌麿が驚くべ    き写実主義を以てしたことを証するもので、恐らく歌麿が初めて美人が観察した時も、かゝる注意を以    てしたのであらう。その内に写実から離れて、自己の観察の上に理想化を加へることになつたのであら    う。その他寛政元年版の狂月坊、寛政四年版の絵本和歌夷なども有名である。なほこの他に、絵本黄表    紙の挿絵をも中々多く画いて居る。    以上述べたのは、何れも極彩色の精巧な版画であるが、なほ墨摺のものとか極めて淡彩を以てしたもの    などもあることを忘れてはならない。竹に雀、高砂、栗鼠、その他の例が少くない。    歌麿の災厄 徳川幕府は世態の甚しく奢侈遊惰に傾いた際には、屡々禁令を発して、華美驕奢を厳重に    抑圧が加はつてゐる。その鉄槌を受けた一人は此の歌麿である。    太閤記の絵で幕府の忌諱に触れ、歌麿は手錠五十日の刑を受けたが、それこれの心労に堪え切れなかつ    たのか、処刑の事があつてから、幾程もなく、病にかゝり、文化三年九月二十日に没した。浅草松山町    浄土宗専光寺に葬り、法号を秋円了教信士と云つた。      (以下、大正六年の墓石修復のこと、大正十二年の震災後、専光寺世田谷移転の記事あり、省略)    門下に二世歌麿、月麿、秀麿などがあり、師風を継いだ絵を画いてゐるが、傑出した作品に乏しい〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔喜多川歌麿画版本〕    作品数:96点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限らない)    画号他:北川・豊章・北川豊章・忍岡・哥麿・歌麿・忍岡歌麿・喜多川歌麿・むだ麻良 分 類:黄表紙29・艶本23・絵本20・洒落本8・狂歌13・絵画6・咄本4・風俗1・地誌1        和歌1・浮世絵1    成立年:宝暦11年      (1点)        安永8~9年     (7点)        天明1・3~8年   (23点)        寛政1~4・6~12年(32点)(寛政年間合計36点)        享和1~2・4年   (8点) (享和年間合計9点)        文化1年       (1点)    (豊章名の作品)    作品数:8点    画号他:北川豊章    分 類:黄表紙5・洒落本1・読本1・咄本1    成立年:宝暦11年(1点)安永8・9年(7点)    〈「国書基本DB」は北川豊章と喜多川歌麿を同人視しているが、宝暦十一年刊清凉井蘇来作・北川豊章画『古実今物     語』は不審。安永八年の再刊本が豊章画である〉    <『大歌麿展』図録(1998年・南アルプス市立春仙美術館)石田泰弘氏の解説は喜多川歌麿・北川豊章別人説をとる>   (忍岡名の作品)    作品数:2点    画号他:忍岡歌麿    分 類:黄表紙2    成立年:天明1・3年(2点)   (むだ麻良名の作品)    作品数:1点    画号他:むだ麻良    分 類:艶本一帖    成立年:寛政12年         『床の◎(とこのうめ)』一帖・艶本・むだ麻良画・寛政十二年(1800)刊