☆ 天明三年(1783)
◯『狂歌師細見』(平秩東作作・天明三年刊)
◇屋号「つたや三十郎」の狂歌連
(「入山形に蔦の図」に「唐丸」の漢字を配した旗印。松風、元成、高見などの狂号に続いて)
〝うたまる〟
〝けい者 浮世ゑし うたまる 外のもかゝせ申候〟
〈天明三年当時は「歌麿」を「うたまる」と呼んでいたか。『狂歌師細見』は「吉原細見」にならって、狂歌師を遊女
に見立てて、連ごとに名寄せをしたもの。「うたまる」は「吉原連」に所属する。この「うたまる」記事も、天明三
年正月の『新吉原細見』に「つる屋忠右衛門」方の記事「げい者 千次 外へも出し申候」のもじりとされる。なお
「外のもかゝせ申候」とは、抱え主「つたや三十郎(蔦屋重三郎)」以外の求めにも応ずるという意味。(『いたみ
諸白』渡辺守邦解説(濱田義一郎編・昭和五四年刊『天明文学』所収))なお、渡辺氏は『狂歌師細見』の刊行を天
明三年六~七月のこととする〉
◯『狂文宝合記』(もとのもく網・平秩東作・竹杖為軽校合、北尾葎斎政演・北尾政美画・天明三年六月刊)
〔天明三年(1783)四月二十五日、両国柳橋河内屋において開催された宝合会の記録。主催は竹杖為軽〕
〝雲龍之硯 画工歌麿事 筆綾麿 家宝〟
〈筆綾麿は歌麿の狂歌名。綾麿と歌麿の「麿」は同じ読みであろう。つまり「あやまろ」なら「うたまろ」、「あやま
る」なら「うたまる」と。「筆綾麿」は次条『いたみ諸白』で見るように「ふでのあやまる」であるから「歌麿」は
「うたまる」と読むのであろう〉
☆ 天明四年(1784)
◯『いたみ諸白』(四方赤良編・蔦屋板・天明四年(1784)七月刊)
(狂歌師、大門喜和成追悼集 喜和成は天明三年四月十九日、摂津の池田に客死。享年十七歳・俗名 奥
田幸藏国儔)
〝親しき予が友成の一子喜和成こそ東縁に儀を結てしより、はかなく難波の煙ときへしも、今ハさりし比
暇乞に来りて、予も名残をおしみ、斯なる身とハしらでいゝけんも口おしく、はやくもまめで帰り給ふ
べしとふかく頼けれバ、喜和成 〽まめでころ/\はやくかへりなバ君もころ/\嬉しかるらん と読
てわかれしが、今日思へバ、はからざる世や 一名哥麿筆綾丸
はからざる身を一生もまめならで気をうすのめと思ひ切る世に〟
〈上掲『狂文宝合記』の「筆綾麿」がここでは「一名哥麿筆綾丸」の表記。「綾丸」は「あやまる」で「あやまろ」と
は読まないであろうから、「綾麿」の読みも「あやまる」、同様に「哥麿」は「うたまる」と読むのが自然である〉
◯『戯作外題鑑』〔燕石〕⑥62(編者未詳・成立年未詳)
(天明四年の項) 『黄表紙總覧』の画工表記
『返々目出鯛春参』四方山人作 歌丸画 「春潮画」
『夫従(ママ)以来記』万象亭作 歌丸画 「うた麿画」
『二度の賭』 四方山人作 歌丸画 「うた麿画」
『新田通戦記』 紀定丸作 歌丸画 「うた麿画」
〈『返々目出鯛春参』は勝川春潮画〉
(天明七年の項) 『黄表紙總覧』の画工表記
『鬼ヶ窟大通噺』 喜三二作 歌丸門行麿画 巳年分改 「歌麿門人行麿画」
〈棚橋正博著『黄表紙總覧』は『鬼崛大通話』とし、刊年は天明五年(巳)とする〉
〈これは「うた麿」の表記を「うたまる」と呼んでいた例証の一つと捉えてよいのだろう。但し、安永十年(天明元年)
刊の志水燕十作『身貌大通神略縁起』の画工表記については「歌麿」としている(『黄表紙總覧』は「忍岡哥麿」)〉
〈追記 上掲『戯作外題鑑』は国立国会図書館蔵写本で「文久元年九月十五日校正了 活東子」の識語を有する。その活
東子が拠り所としたものが、石塚豊介子の写本『黄表紙外題鑑』(〔国書DB〕の統一書名は『黄表紙刊行年表』)で、
上掲部分を〔国書DB〕の画像から抽出すると次のようにある〉
『夫から以来記』 万象亭作 哥麿画
『二度の賭』 四方山人作 仝
『新田通戦記』 紀定丸作 哥麿画
〈豊介子本では当該個所かすべて「哥麿」となっている。「麿」を「丸」としたのは、当時「うたまる」の読みがあって
それにならったものか、あるいは単なる誤記なのかよく分からない。したがって、これを上記のように「うたまる」と
呼んでいた例証の一つと見ることは必ずしもできないように思う。ところで、豊介子が依拠したものは何であろうか。
時評に「文軒翁云」の記述が見える、すると原本は『稗史提要』の編者・比志島文軒が編集したもののようである。但
し原本は未確認。なお、ここには〝『返々目出鯛春参』四方山人作 歌丸画〟の記述がないから、活東子があとから追
加したものと思われる。2023/12/25追記〉
◯「国書データベース」(寛政八年刊)
◇黄表紙
笑丸画『花闘戦梅魁』笑丸画・作 板元未詳
笑丸(〔笑麿〕印)
〈これは「まる」を「丸」とも「麿」とも表記していた例とみることができる〉
☆ 文化元年(1804)
◯『大日本近世史料』「市中取締類集十八」「書物錦絵之部 第五四件」
(天保十五年十月「川中嶋合戦其外天正之頃武者絵之儀ニ付調」北町奉行の南町奉行宛相談書)
◇「錦絵之儀ニ付申上候書付」(天保十五年八月付・絵草紙掛・名主平四郎の書付)
〝文化元子年中ニ候哉、橋本町四丁目絵草紙屋辰右衛門、馬喰町三丁目同忠助板元ニて、太閤記(絵本太
閤記)之内絵柄不知三枚続錦絵売出候処、右板元并画師(喜多川)歌丸(麿)・(歌川)豊国両人共、
北御番所ぇ被召出御吟味之上、板元は処払、画師過料被仰付候儀有之〟
〈( )は添え書き。橋本町の絵草紙屋辰右衛門とは松村屋辰右衛門か、また馬喰町三丁目の忠助とは山口屋忠助か。
松村屋は歌麿を山口屋は豊国をそれぞれ起用して、岡田玉山の『絵本太閤記』に取材した三枚続を画かせたのであろ
う。大坂の『絵本太閤記』は寛政九年から出版されてきたから、江戸で錦絵にしても差し障りはないと思ったのかも
しれない。しかし案に相違、彼らは北町奉行所から呼び出されて吟味に回され、板元は居住地追放、歌麿と豊国は罰
金に処せられた。なおこの文書で興味深いのは「画師歌丸」の表記。(喜多川)と(麿)は添え書きであるから原文
にはないものだろう。これは何を意味するのか。文化元年当時、署名は「歌麿」であっても読みが「うたまる」だっ
たので、記載者は「歌丸」と記したのではないだろうか。すると(麿)の添え書きは「うたまる」の「まる」の表記
を正したものと考えてよいのだろう〉
☆ 文化七年(1810)
◯『伊賀越反仇物語』合巻・北川美丸画・十返舎一九作・森屋治兵衛板
大尾「画者 北川美麿画」絵題簽「北川美丸画」
〈「美麿」と「美丸」は同人だから「麿」を「まる」と読んでいたと考えてよい。それを敷衍すると、この当時も歌麿
を「うたまる」と読んでいたのかもしれない〉
☆ 文化年間(1804~1818)
◯『会本手事之発名』艶本 春川五七画(国文学研究資料館「艶本資料データベース」所収)
(「書誌データ」は板行年を文化初年とする。引用は「付言」より)
〝予従来(もとより)美人画(うきよゑ)を好きて、古今の写意(うつしぶり)を訂(かんがふ)るに、
往古ハ云はず、中頃我が京師に西川某と云者ありて、工(たくみ)に造りたるが最よし、其後また京師
に露章(ろしやう)と云へる画工あり【壮年に関東に下りて喜多川(きたがわ)歌麿(うたまろ)と号
す】、此人もつとも美人画の妙手にして、江戸画工古人春潮と云へる者の筆意に効(ならふ)て、多く
会本を造れるに、其情至らざるハなく尽さゞるハなし。実に古今の名人と云ふべし〟
〈この春画は文化初年の刊行という。歌麿は文化三年没であるから、この作品の制作が歌麿の生前か没後か判然としな
いが、ほぼ同時期のものとみてよい。ここで春川五七(神屋蓬洲)は歌麿に「うたまろ」の読み仮名を振っている。
この当時、既に「うたまる」「うたまろ」の呼称が混在していたのかもしれない。さて、春川によれば、京都の露章
なる画工が壮年江戸に下って歌麿を称したのだという。どこからこの情報を入手したのだろうか。文化初年にして、
歌麿は既に伝説の人となっていたようである〉
☆ 文政六年(1823)
◯『地色早指南』艶本・渓斎英泉画・淫乱翁白水(英泉)の第二編序
(国文学研究資料館「艶本資料データベース」より)
〝勝川元祖春章初め鳥居庄兵衛・喜多川歌麿(うたまろ)、交接(とぼし)の絵組に奇妙を尽し、享和の
頃まで発行せしは皆是世人の知る所也〟
〈(うたまろ)はルビ。文政六年は歌麿が文化三年(1806)に没して約十数年、英泉は「うたまろ」と呼んでいた。文政
あたりから「歌麿」を「うたまろ」と読むようになっていたのかもしれない〉
☆ 明治二十六年(1897)
◯「読売新聞」(明治26年5月29日記事)
〝歌丸(うたまる)の浮世絵益々輸出す
先年来古書画の海外に輸出する物 殊の外多く 就中(とりわけ)歌丸の浮世画は最も声価を博したるに
より 続々輸出する者多く 今は偽物さへ熾(さか)んに輸出するに至りたるが 明治七八年の頃 古仏
像の画幅大いに海外に声価を博したるより 続々偽物現はれ之が輸出を為して巨利を博せし者多く 遂
に信用失墜して 当今は殆ど輸出の形跡なしと云ふ前例もある事ゆゑ 当業者中 心ある者は憂慮し居
と云ふ〟
◯『浮世絵師便覧』p219(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝歌麿(ウタマル)
喜多川師、名は、豊章、鳥山石燕の男、俗称勇助、紫屋と号す、文化三年死、五十三〟
〈飯島虚心は「うたまる」と呼んでいる〉
◯『浮世画人伝』p62(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)
〝喜多川歌麿(ルビきたがわうたまろ)〟
〈関根黙庵は「うたまろ」〉