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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ ちんちょう はねかわ 羽川 珍重
浮世絵師名一覧
〔 ? ~ 宝暦4年(1754)7月22日・70余歳〕
※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」国文学研究資料館 〔霞亭文庫〕:(東京大学附属図書館・電子版霞亭文庫) 『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」木村八重子著 日本書誌学大系95 角書は省略
☆ 正徳年間(1711~1715)
◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」
(正徳年間刊)
◇赤本
『あくまはらひ金平』画作者名なし さがみ屋板(羽川珍重画)
〈解題、「正徳年代、赤本「あくまはらひ金平」のさしゑ画工羽川珍重なるべし」の墨記を示す〉
☆ 享保二年(1717)
◯「浄瑠璃年表」
〔霞亭文庫〕
(享保二年刊)
◇浄瑠璃本
羽川珍重画
『冨士権現筑波由来』署名「羽川珍重画」刊記「享保二丁酉歳正月吉祥日」山本板
『冨士権現筑波由来』
羽川珍重図
☆ 享保三年(1718)
◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」
(享保三年刊)
◇赤本
「松のうち」(柱題)画作者名なし 刊記・版元名なし(羽川珍重画・山本九左衛門)
〈解題、享保二年二月市村座上演「傾城冨士高根」で演じられた河東節「まつのうち」と密接な関係のある作品、享 保三年刊か」という佐藤悟氏の考察を引く。(珍重画・山本板)は昭和六年刊『浮世絵大成』に拠ったようである〉
☆ 享保五年(1720)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(享保五年刊)
羽川珍重画
『吉原丸鑑』枕本三巻 羽川珍重 蝶郎著 戸蔵屋喜兵衛板
◯『江戸吉原叢刊』第五巻
◇遊女評判記
『吉原丸鑑』横本 六巻 六冊 画工
羽川珍重
著者 武州真土山隠士 蝶郎 刊記「享保五年庚子正月」 版元 戸蔵屋喜兵衛
〈挿絵中の床の間の掛幅に「羽川珍重図」の署名あり〉
◯「浄瑠璃年表」
〔霞亭文庫〕(享保五年刊)
◇浄瑠璃本
羽川珍重画
『八百やお七江戸紫』署名「羽川珍重沖信画」刊記「享保五年庚子正月吉祥日」村田屋板
『八百やお七江戸紫』
羽川珍重図
☆ 享保六年(1721)
◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」
(享保六年刊)
◇赤本
『三国史』署名「
絵情斎羽川珍重稿
」 (漆山天童記事「絵情斎羽川珍重稿 享保六年辛丑陽春吉日 木下甚右衛門板 増補浮世絵類考」)
◯「日本古典籍総合目録」
◇赤本
(享保六年刊)
羽川珍重画
『三国志』 ◯「羽川珍重絵の評判記」水谷不倒著
(『此花』第十二号 大正二年(1913)九月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
「役者芸品定」(仮題) 羽川珍重ほか 鶴喜・正本屋九兵衛合板 江戸三座狂言尽の挿絵を担当 署名「
絵情斎羽川珍重元信図
〔珍〕印」
〈「役者芸品定」は京・大坂・江戸三都の役者評判記。署名は『此花』の図版に拠る〉
☆ 享保八年(1723) ◯「浄瑠璃年表」
〔霞亭文庫〕(享保八年刊)
◇浄瑠璃本
羽川珍重画
『西海軍記』署名「羽川元信筆」刊記「享保八年卯正月吉日」鶴屋板
『西海軍記』
羽川元信筆
◯「日本古典籍総合目録」
(享保八年刊)
◇絵本
羽川珍重画
『はいかい一字たいじぐち』一冊 羽川珍重画・作 ☆ 享保九年(1724) ◯『独寝』〔燕石〕③105(柳沢淇園著・享保九年序) 〝又、浮世絵にて英一蝶などよし、奥村政信、鳥井清信、羽川珍重、懐月堂などあれども、絵の名人とい ふたは、西川祐信より外なし、西川祐信はうき世絵の聖手なり〟
〈序の享保九年は岩波書店の「日本古典文学大系」『近世随想集』所収の「ひとりね」に拠る〉
☆ 享保年間(1716~1735)
◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」
(享保八年刊)
◇赤本
(享保八年刊)
〈刊年未詳ながら、とりあえず享保年間に入れておいた〉
『新なぞづくし』署名「
羽川元信筆
」商標(◯に「江」)江見屋板
〈解題、『国書総目録』は宝暦頃の刊行とするが、「岩崎文庫の羽川珍重画「新なぞつくし」は伝本は改装ながら、享保期 とみてよさそうな画風で、もと赤本であった可能性が高い」とする〉
『はいかい一字たいじぐち』署名「
羽川沖信
」 商標「子持ち亀甲に「ゑ」」伊賀屋勘右衛門板
〈解題、落款、結髪の形、地口附の流行等から享保前期の刊行とする〉
『【是は御存じの】ばけ物【にて御座候】』署名「
羽川珍重沖信稿
」 題簽「通あぶら町 村田板」
〈解題、書名は題簽のものだが、「題簽の絵に相当する場面が本文になく、題名も内容と合致しているとも言い切れないの で、別本の題簽かもしれず、「化物合戦」等の題だった可能性がある」とする〉
「化物合戦」(仮題)(羽川珍重画)
〈解題、朝倉無声著『日本小説年表』の「化物合戦 二 羽川珍重稿」を引く。「仮年表」は享保初期刊とする〉
『【大名】御ぎやうれつ』(羽川珍重沖信画作)
〈解題、『国書総目録』の「大名御ぎやうれつ 赤本 羽川珍重沖信作・画」を引く〉
「福神あそび」(仮題)署名「
羽川珍重
」 『【あくまはらい】金平【ゑほうみやげ年おとこ】』画作者名なし 題簽「湯嶋天神女坂さがミ屋新板」
〈解題、「正徳年代 赤本 さしゑ画工羽川珍重なるべし」とある貼込みの墨記を引く。「仮年表」では珍重画とせず〉
◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」
(宝暦年間刊)
◇ 黒本
『新なぞづくし』署名「
羽川元信筆
」 江見板
〈解題、「国書総目録」は宝暦頃の刊行とするが、「岩崎文庫の羽川珍重画「新なぞつくし」は伝本は改装ながら、享保 期とみてよさそうな画風で、もと赤本であった可能性が高い」とする〉
◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」
(刊年未詳刊)
◇赤本
『福神あそび』(仮題)署名「
羽川珍重
」 ☆ 宝暦四年(1754)
(七月二十二日没・七十余歳)
◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) ◇「宝暦四年」1p161 〝七月二十二日、浮世絵師羽川珍重卒す(七十余歳也。池のはた東円寺に葬す。其の伝、曲亭の「燕石雑 志」に見えたり。辞世 たましひのちり際も今一葉かな)〟 ◯『浮世絵類考追考』(山東京伝編・享和二年十月記・文政元年六月写)
(本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
〝
羽川珍重
沖信 享保中、江戸の人、芝居絵本、吉原細見のさし絵、赤本の絵等おほくかきぬ〟 ☆ 刊年未詳
◯『草双紙事典』
羽川珍重沖信稿『是は御ぞんじのばけ物にて御座候』 刊年未詳
☆ 没後資料
◯『燕石雑志』〔大成Ⅱ〕⑲503(飯台簑笠翁(曲亭馬琴)著・文化七年刊) (「西鶴〔附〕羽川珍重」の項) 〝羽川珍重は武蔵国埼玉郡川口村の人也。三同と号す。本の姓は真中氏、俗称を太田弁五郎といへり。太 田は川口の旧名、珍重は其の画名なり。父の諱は直知、予が祖父の為には叔父なりき。弱冠より江戸に 来りて画をまなび〔割註 元祖鳥居清信を師とし、後に羽川に改めたる歟。当初の画名をしらず〕、下 総国葛飾郡川津間の郷士藤浪氏の家に往来す〔割註 藤浪氏が妻は珍重の姪なり〕。生涯娶らず仕ざれ ども、なほ武を捨ず。只画をもて旦暮に給し、享保に至りて、ます/\行はる。万海節用集、その余珍 重の繍像(サシエのルビ)したる冊子今罕に伝ふ。心ざま老実にして言行を慎み、遊山翫水といへども肩衣を 脱ことなければ、浮世絵師には稀なる人物なりとて、人嘆賞せざるはなし。いづれの年にかありけん。 書肆某甲(ナニガシのルビ)珍重にいへりけるは、今より衣食住を吾儕(ワナミのルビ)にまかして、居を近隣にう つし、蔵板の絵本を画きて給はれかしとて、叮嚀(ネンゴロのルビ)に誘へども、珍重絶てうけ引かず。貧は 士の常なり。人に恵を受くるものは人をおそる。われは五斗米の為に腰を折(カガのルビ)むることを願ず。 況て足下に口を餬(モラハ)んとて拳をやは售ると答て、そのこゝろ画にあらざる日は、利の為に筆をとる ことなし。また志(ココロザシ)画にある日は、歌舞伎の画看板といへども辞する事なかりしとぞ。晩年に及 て自画の絵馬を、故郷川口なる稲荷五社へ奉納し、又みづから肖像を画き、小引一巻を自記して、嫡姪 恒直が二郎にとらしたるに、画像と小引は災に係りて消亡し、絵馬のみ今にありといふ。珍重既に老衰 して、みづから三同宜観居士と法号し、宝暦四年七月廿二日川津間の郷藤浪氏の家に病死す。辞世 たましひのちり際も今一葉かな 享年七十余歳、江戸下谷池の端東円禅寺に葬りぬ。 (以下「羽川珍重家譜」あり。略) (模写に)この図享保五年の印本丸鑑の巻端に見えたり。今因にこゝに摸写す〟 ◯『江都諸名家墓所一覧』〔人名録〕「下谷」「画」②263(老樗軒編・文化十五年一月刊) 〝羽川珍重、本姓真中師、号三同、称太田弁五郎、宝暦四年七月廿二日、池之端東円寺〟 ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)
(本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
〝三馬按、珍重門人ニ羽川和元アリ。別記ニ譲リテコヽニイハズ。馬琴翁が燕石雑志の文を略して云、羽 川珍重は武蔵国埼玉郡川口村の人なり。三同(サントウのルビ)と号、本姓真中(マナカのルビ)氏、俗称太田弁五 郎と云。太田は川口の旧名、珍重は画名なり。弱冠より江戸に来つて画を学び(元祖鳥居清信の弟子な り。後に羽川と改たる歟)享保の頃行る。心ざま老実にして言行を慎み、遊山翫水にも肩衣を脱事なく、 其心画にあらざる日は利の為に筆をとる事なし。又志画にある日は歌舞伎の画看板といへども辞する事 なしと。老衰して三同宜観居士と法号し、宝暦四年七月廿二日葛飾郡川津間の里藤波氏の家に病死す。 辞世 たましひのちり際も今一葉哉 享年七十余歳池の端東円禅寺に葬りぬ。
“附録云珍重は曲亭翁の伯父のよし〟 △『吾仏乃記』(曲亭馬琴著・天保十四年成立) ◇「家説第二」p168 〝浮世画師羽川珍重〔俗名太田弁五郎三同、真中鉄船翁の子にて、吾大父の叔父なり〕〟 ◇「家説第二」p176 (「十六 真中鉄船翁肖像」) 〝文化八年辛未夏四月十五日、真中忠山が川口村より携来て予に見せける真中鉄船、諱は〔真知翁〕の肖 像一幅あり。翁の三男羽川珍重〔俗名太田弁五郎〕の画く所なり。其肖像、空色服紗小袖、十徳、右の 手に扇を持、白襦袢、角鍔脇指、刀を左に置。紙中、横幅一尺七寸五分、堅三尺二寸三分許。像の上に 翁の自賛あり。神道の事をいへり。拙ければ録せず。其落款、正徳二年壬辰元三乙酉日、真中氏真知、 六十五歳謹拝書、とあり。この鉄船翁は、吾大父実家の祖父にて、真中臣峰翁の父也〟 ◯『元吉原の記』〔新燕石〕②312(曲亭馬琴著・文政八年四月中旬記) 〝菱川師宣、鳥居清信、及予が旧族羽川珍重等が画きしは、みな今の吉原になりての画図なれば、元吉原 のにはえうなし。ふるき絵巻の残欠などにも、元吉原の図の伝らざりしは、元和、寛永のころまで、江 戸はなほしかるべき浮世絵師のなかりし故也〟
〈「予」とは曲亭馬琴のこと。『兎園小説別集』(「日本随筆大成」2期4巻所収)に同文あり〉
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③289(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝羽川珍重【享保中、江戸人】 沖信、藤永【〔傍書〕別人ナルカ】【門人か、羽川と有り】 谷中感応寺の天井に竜王人は、珍重門人か、羽川藤永と画名あり、享保の比の浮世絵師なり、芝居絵本、 吉原細見記のさしゑ、赤本の絵等多くかきぬ【以上、類考追考】 三馬云、珍重門人に羽川和元あり〟 ☆ 天保十年(1839) △『声曲類纂』(斎藤月岑著・天保十年成立) ◇「巻之三」「【天下一】桜井丹波少掾正信」の項。p176 (岡清兵衛作、和泉太夫(桜井丹波少掾)の金平浄瑠璃に関する記事) 〝中古金平本とて小児のもて遊ひし草紙は、肥前節の古上るりを絵入にせしより始れりと。此時代の正本皆絵入にして、 享保の頃にいたりても板本多く、
近藤助五郎清春・奥村政信・羽川珍重
等が画多し〟 ◯『増補浮世絵類考』
(ケンブリッジ本)
(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
(( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)
〝羽川珍重 享保中 江戸人 俗称 太田弁五郎 名 沖信 羽川藤永とあるは別人なるか。谷中感応寺天井の竜と天人は羽川藤永とあり 享保の頃の浮世絵師也。芝居絵本、吉原細見記の指絵、赤本の絵多くかきぬ(以上、類考追考) 〈月岑按、説教上るり本等の差画多くかきぬ。又一枚絵もあり。遊女の絵一枚を近頃得たり〉 三馬曰、珍重門人に羽川和元あり。 馬琴が燕石雑志の文を略して云、羽川珍重は武蔵国埼玉郡川口村の人也。三同〈サントウ〉と号、本性 真中〈マナカ〉氏、俗称大田弁五郎と云。大田は川口の旧名、珍重は画名也。弱冠より江戸に来つて画 を学び(元祖鳥居清信の弟子也、後に羽川と改たる歟)享保の頃行る。心ざま老実にして言行を慎み、 遊山翫水にも肩衣を脱事なし。其心画にあらざる日は利の為に筆をとる事なし。又志画にある日は歌舞 伎の画看板といへども辞する事なしと。老衰して三同宜観居士と法号し、宝暦四年七月廿二日、葛飾郡 川津間の里、藤浪氏の家に病死す。 辞世 たましひのちり際も今一葉哉 享年七十余歳、池の端東円禅寺〈に〉葬りぬ〟 ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1388(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆) 〝
羽川珍重
武蔵国埼玉郡川口村の人也、三同と号、本姓は真中氏、俗称太田弁五郎といへり、太田は川 口の旧名、珍重は其の画名也、父の諱は直知、弱冠より江戸に来りて画を学び、元祖鳥居清信を師とし、 下総国葛飾郡川津間の郷士藤沼氏の家に往来す、生涯娶らず仕へざれ共、猶武を捨ず、只画を以て旦暮 に給し、享保に至りてます/\行はる。万海節用集、その余、珍重の繍像したる冊子、今罕に伝ふ、心 ざま老実にして言行を慎み、遊山翫水といへ共、肩衣を脱ことなければ、浮世画師には、稀なる人物也 とて、人嘆賞せざるはなし。いづれの年にかあらん。書肆某甲、珍重にいへりけるは、今より衣食住を 吾儕にまかして居を近隣にうつし、蔵板の絵本を画きて給はれかしとて、叮嚀に誘へども、珍重絶てう け引かず、貧は士の常也、人に恵を受くるものは人ををそる、われは五斗米の為に腰を折ることを願は ず、況て足下に口を餬んとて、誉をやは售ると答て、その心画にあらざる時は、利の為に筆を取ること なし。また志画にある時は、歌舞妓の画看板といへ共、辞する事なかりしとぞ。晩年に及て、自画絵馬 を故郷川口なる稲荷五社へ奉納し、自画の肖像を画き小引一巻を自記して、嫡姪恒直が二郎にとらしけ るに、画像と小引は災に係りて消亡し、絵馬のみ今にありといふ。珍重既に老衰して、みづから三同宜 観居士と法号し、宝暦四年七月廿二日、川津間の郷、藤沼氏の家に病死す、辞世 たましひのちりぎは も今一葉かな 享年七十余歳、江戸下谷池の端の東円禅寺に葬りぬ
【燕石雑志】
羽川珍重沖信、享保中、江戸の人、 芝居画本、吉原細見記の差画、赤本の画等おほくかきぬ、
浮世絵類考
〟
〈馬琴著『燕石雑志』の記事を引く。珍重は馬琴の祖父の叔父にあたる〉
☆ 明治以降 ◯『百戯述略』〔新燕石〕④226(斎藤月岑著・明治十一年成立) 〝正徳、享保の頃、羽川珍重、鳥居庄兵衛清信、西村重長、奥村政信、続て懐月堂安慶(ママ)、石川豊信等 が専に一枚絵画出し、梓に鏤めて世に行れ、彩色摺は紅と萌黄の二色に有之〟 ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊) 〝鳥居清信門人、宝暦四、七十四歿。其伝、馬琴翁の燕石誌に委ければ略す〟 ◯『日本美術画家人名詳伝』上p47(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊) 〝羽川珍重 本姓ハ真中、通称ヲ太田弁五郎ト曰フ、武州埼玉郡ノ人、鳥居清信ニ学ビ、劇場絵本及ビ吉原細見記ノ 挿画等ヲ画ケリ、冲信ト号シ、後チ三同ト号ス、宝暦四年七月廿二日歿ス(墓所一覧・人名辞書)〟 ◯『古代浮世絵買入必携』p1(酒井松之助編・明治二十六年(1893)六月刊) 〝羽川珍重 本名 沖信 号 三同 師匠の名 鳥井清信 年代 凡百四十年前より百七十年迄 女絵髪の結ひ方
第四図
(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
絵の種類 一枚絵、絵本、肉筆等 備考〔空欄〕〟 ◯『本朝画家人名辞書』下(狩野素川編・明治二十六年六月刊) 〝珍重 羽川珍重、本姓ハ真中、名ハ冲信、通称ヲ太田弁五郎ト称ス、武蔵埼玉郡川口ノ人ナリ、画ヲ鳥居清信 ニ学ビ、浮世絵及漆画ヲ能クス、吉原細見記ノ挿画モ亦珍重ノ画キ出ス所ナリ、宝暦四年七月、其姪藤 浪ノ家ニ於テ歿ス、年七十、江戸下谷池端東円寺ニ葬ル〟 ◯『浮世絵師便覧』p211(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)九月刊) 〝珍重(チンチヤウ)羽川氏、鳥居清信門人、本姓は真中、名は沖信、絵情斎と号す、◯宝暦〟 ◯『名人忌辰録』上巻p8(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊) 〝羽川珍重 三同 真中氏、名仲信、俗称太田幹五郎【太田ハ川口邑ノ旧名】号宣観居士。鳥居清信の門人。宝暦四戌年七 月廿二日歿す、歳七十六。下谷池端東淵寺に葬る〟 ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(24/103コマ) 〝羽川珍重【正徳元~五年 1711-1715】 姓は真中、名は沖信、通称太田弁五郎、三同と号す、武州埼玉川口村の人、弱冠のとき江戸に出でゝ、 鳥居清信に画を学ぶ、常に下総国葛飾郡川津間の郷士藤沼氏の家に往来し、生涯娶らず、また仕へず、 たゝ画を以て旦暮に給す、心ざま老実にして言行を慎み、遊山翫水にも肩衣を脱ぐこと無かりき、晩年 に及びて自画の絵馬を、故郷川口村の稲荷五社に奉納す、宝暦四年甲戌七月二十二日、病みて川津間の 郷藤沼氏の家に没す、没するの前自ら三同宜観居士と法号を附す、享年七十余歳、遺骸は江戸下谷池の 端東円寺に葬る、辞世の句 たましひの散り際も今一葉かな (本伝は『燕石雑誌』『浮世絵類考』等に拠る)〟 ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年(1899)三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(25/218コマ) 〝羽川冲信 珍重と称す 通称太田弁五郎といふ 本姓は真中氏 江戸の人なり 後三同と号ず 鳥居清信に学びて 浮世絵を画く 宝暦四年七月廿二日没す(浮世絵類考 扶桑画人伝 墓所一覧)〟 ◯『浮世画人伝』p28(関根黙庵著・明治三十二年(1899)五月刊) 〝羽川珍重(ルビはねかわちんちやう) 羽川珍重、本姓は真中(マナカ)、通称太田弁五郎と云へり。武州埼玉郡、川口村に生る。若うして江戸に 来り、鳥居清信の門に入り、絵事を学ぶ。資性謹厚荘重にして、観花納涼のため出遊すと雖(イエド)も、 必、肩衣(カタキヌ)を着す、一日書肆某、来りて珍重に云ひけるは、我れ今より先生のために、衣食住を資 (タス)けむ、願くば居を近隣に移して、板下を画き給(タマ)はるべしと、勧誘甚、懇篤なりしかど、珍重、 儼然(ゲンゼン)として更に応ぜず、それ貧は士の常なり、人の恩恵に浴するものは心に畏るゝところあり、 我れは五斗米のために、腰を折るものにあらず、況やそこの為に筆を售(ウ)りて、口糊を甘んぜんやと、 いたく書肆(シヨシ)某(ナニガシ)を屈折しけり。されば心(ココロ)画にあらざる時は、利のために筆を執らず。 これに反して、意に適すれば演劇の絵看板と雖も、更に辞することなし。画家たるの節操凛乎として、 気韻高く、寔(マコト)に古への士風ありと云ひつ可きなり。 説経浄瑠璃本および、吉原細見記の挿画を多く物せり。晩年自ら三同宣観居士と号す。宝暦四年七月廿 二日、武州葛飾郡川津間郷なる藤浪氏の家に没す。年七十余。江戸下谷池の端、東円禅寺に葬る、其辞 世に、 たましひのちり際もいま一葉かな〟 ☆ 大正以降(1912~) ◯「集古会」第百三十二回 大正十年(1921)三月
(『集古』辛酉第三号 大正10年4月刊)
〝羽川珍重 吉原丸鑑 一冊 享保五年〟 ◯『浮世絵の諸派』上下(原栄 弘学館書店 大正五年(1916)刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)
上(90/110コマ) 〝羽川珍重 門人には羽川藤水、羽川元信、羽川和元などがある〟 ◯『狂歌人名辞書』p131(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊) 〝羽川珍重、本姓真中氏、名は沖信、通称弁五郎、鶴鱗堂、又、絵情堂の号あり、武蔵川口町の人、画を 鳥居清信に学び後ち一家をなす、宝暦四年七月廿二日歿す、年七十六 ◯『浮世絵師伝』p122(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝珍重 【生】延宝七年(1679) 【歿】宝暦四年(1754)七月廿二日-七十六 【画系】鳥居清信門人 【作画期】正徳~享保 武州埼玉郡川口村の人、本姓真中、太田氏、俗称弁五郎、羽川(ハメカハ)を画姓とし、名を元信と云ふ、 絵情斎と号せり、蓋し、享保七年版の『役者芸品定』江戸の巻の挿画に『絵情斎羽川珍重元信図』とあ るを一証とすべし。其他彼の挿画には、享保五年版の『吉原丸鑑』、及び享保年間の赤本『大名御行列』 などあり。彼の版画は、僅かに大判墨摺の「まつの内のんこれ双六」、同じく「富士巻狩」、大判丹絵 の「遊女と禿」などを見るのみにして、現存するもの甚だ稀なり。作画期の如きも精確に知るを得ざれ ど、恐らくは正徳より享保末期までは継続したりしものなるべし。墓所下谷池之端東円(或は淵とす) 寺、法名三同宜(一に宣とも、空とも)観居士、辞世「たましひのちり際も今一葉かな」。門人に沖信 ・幸信等あり。因に、彼が父は諱を直知といひ、曲亭馬琴が祖父の叔父に当れりと、故を以て馬琴は其 の著『燕石襍志』に珍重伝を記し、尚ほ『烹雑の記』に前書の誤字を訂正せり〟 ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊) ◇「享保二年 丁酉」(1717) p73 〝正月、羽川珍重の画ける狂言本『柏木右衛門古今集』『富士権現筑波の由来』出版〟 ◇「享保五年 庚子」(1720) p75 〝正月、羽川珍重の挿画ある『吉原丸鑑』三巻出版〟 ◇「享保六年 辛丑」(1721) p76 〝正月、羽川珍重の赤本『三国志』、奥村政信の六段本『頼光山入』等出版〟 ◇「宝暦三年 癸酉」(1753) p104 〝此年羽川珍重歿せりといふ説あり。蓋し翌宝暦四年説真なるが如し〟 ◇「宝暦四年 甲戌」(1754) p108 〝七月二十二日羽川珍重歿す。行年七十七歳。(本姓真中氏、名は沖信、絵情斎、又三同と号す。俗称大 田弁五郎、鳥居清信門人なり。武州川口の産にして、曲亭馬琴の祖先と因縁あるものゝきは、馬琴の随 筆に記せるところなり)〟 △『増訂浮世絵』p(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊) 〝羽川珍重 武蔵国川口村の尽、三同と号し本氏は真中氏、俗称は太田弁五郎といふた。珍重はその画名で清真の門 下である。生涯娶らず、諸侯へ仕へもしなかつたが、武道を尚んだといふので名高い。画を以て生活し て居たのではあるが、気に向かなければ画かず、書誌も大にもて余したと伝へられて居る。常に言行を 謹み、遊山舟遊の時でも肩衣を脱がないといふ、浮世絵師には稀な人物だと伝へられて居る。晩年に自 画の絵馬を川口の稲荷五社へ奉納し、自画像と小引一巻とを子孫に遺したが、後のものは、火災にかゝ つて、失せたといふ。大版丹絵で、江戸町西田屋内こゝのゑといふ絵は名高い。これには羽川珍重筆稿 と署名している。また八百屋お七と吉三郎図には和国婀娜画と肩書がある。また壽の字の内に江戸名所 とかいたものがあるが、これは恐らく福禄寿と三枚揃のものであろう。これには羽川沖信稿と署名し (□の中に「珍」の字)の印を押して居る。(中略) この人は宝暦四年七月廿二日、下総国葛飾郡川津間の郷士藤沼の家に没した。享年七十余歳、辞世の句 がある。たましいのちりぎはも今一葉かな 江戸下谷池端東円寺に葬つた。
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
〔羽川珍重画版本〕
作品数:7点
(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)
画号他:羽川珍重・元信・羽川元信・沖信・羽川珍重沖信 分 類:赤本4・絵本1・黒本1・浄瑠璃1・遊戯1 成立年:享保2・6・8年(3点) 宝暦頃 (1点)
(沖信名の作品)
作品数:2点 画号他:羽川珍重沖信 分 類:赤本2 成立年:記載なし
〈『御行列』『化物合戦』二作とも赤本で自作自画である〉
(元信名の作品)
作品数:1点 画号他:羽川元信 分 類:黒本1 成立年:宝暦頃