Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ たいがどう 大雅堂(池霞樵)浮世絵師名一覧
〔享保8年(1723) ~ 安永5年(1776)・54歳〕
 ☆ 宝暦五年(1755)    ◯『牛馬問』〔大成Ⅲ〕⑩265(新井白峨著・宝暦五年序)   (「盧橘」の項)   〝(編者注、新井白蛾、戴叔倫の湘南詩の句「盧橘華開楓葉衰」を)叔倫、湘南に来て、此水辺に遊びし    は、盧橘の花の開く比なりしに、今来て見れば、早(ハヤのルビ)楓葉の衰(ヲトロフ)の時節也。如此月日は過    るに、我は都にかへらざる事やと解す。(中略)此ころ、此事を大雅堂にかたれば、大雅堂ノ曰、能因    法師が都をば霞とともに立出ての意思有とて同心せらる〟    〈能因法師の歌は〝都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関〟〉    ☆ 明和五年(1768)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明和五年刊)    大雅堂画『春臠折甲』一冊 茅渤活活庵主人撒潑著並画(大雅堂)菱屋孫兵衛板    ◯『平安人物志』〔人名録〕①6(弄翰子編・明和五年三月刊)   〝書家・画家 池 無名【字貸成、号大雅堂、智恵院袋町】池野秋平〟    ☆ 安永四年(1775)    ◯『平安人物志』〔人名録〕①18(弄翰子編・安永四年刊十一月刊)   〝書家・画家 池 無名【字貸成、号大雅堂、祇園下河原】池野秋平〟    ☆ 没後資料     ◯『難波江』〔大成Ⅱ〕21-533(岡本保孝著・成立年未詳)   (『近世畸人伝』(寛政二年刊)の引用)   〝池大雅〔附、妻玉瀾〕安永丙申歿。年五十四。有名於書画。玉瀾母祇園茶店女百合也。下文有百合伝。 無名〔割註 アリナト唱フトアリ。コレラアリナトヨムコト心得カネタリ〕〟    ◯『翁草 巻之百五十』〔大成Ⅲ〕23-285(神沢貞幹著・寛政三年成立)   (「窮楽大雅略伝」の項)   〝大雅堂は元は嘉左衛門とて貨殖家なり。其業を悪避て画工と成り、池野秋平と云ふ。地勤(チキンのルビ)と    号す。後には号を更て、無名と云。其質雅にして聊も利に趨(ワシ)らず。書もまめやかに殊に篆を得たり。    一日書林の許にて、年頃望し一書を見る。欣然として其価を問に、価最貴し、大雅云我に蓄へなし、故    に望も空うす、冀は是が為に今より勤めて金を積ん、積んで後、此価に足りなば我に給てん。さりなが    ら売物の事なれば、其間に他に望む人も有べし、若左有んには、我に知せてよと云。書林云、此書は高    価なる故、容易に望む人も有まじ、若有らば其由告申べしと約して、夫より大雅は、日頃に替り俄に吝    嗇になりて、物毎を約(ツツマ)やかにし、年を経て望みの通金を溜め、已に価調ひぬれば、彼書林へ雀躍    して走り行き、年頃の望み足りぬ。其書を我に給へと云。書林大に当惑して実にも先年足下へ申約せし    事、唯今存出せり、其書は其後望人有て売遣しぬ。其時足下に約せし事を忘却し、不告多罪、今さら如    何ともする事不克と慙愧す。大雅案に相違して愁然として申けるは、我斯迄貧敷中にて、金を拵しは、    此書の為なり、既に価調て望を不果は天なり。苟も此金を他用に遣はん様なし。不如祇園の地に住する    からは、恩謝の為に御社に献ぜんにはと、右金不残束ねて祇園に奉納す。是を世に伝へて大雅の廉潔を    賞し、倍此人の書画を世に翫ふ。総じて常の風俗中華の騒人に似たり。月明なる夜、近江の守山を過る    とて、宇野姓が家を深更に敲く、主人是を聞て、時四更に及て烈しく門を敲くは唯ならずと、自ら起て    立出見れば大雅なり。いかにや深更の夜行を問、大雅対て近江のそこ/\へまかりて、月夜の面白さに    うかれて夜行せり。余り清明なれば、我独ながめんも無下なり、足下を訪ひて、夜と倶に月を賞せんが    為なりとて、主客内に入て酒を酌み、興じ明せしと、宇野姓物語なり。歯耳順に不満歿す。其妻玉蘭も    夫の雅に褻て風流なり。寡婦の後も、扇の画を書き鬻で世を渡れり、是も今は亡す〟    〈「窮楽」は書家の亀田窮楽。大雅は安永四年、玉蘭は天明四年の歿。宇野は未詳〉      ◯『諸家人物志』〔人名録〕③111(南山道人編・寛政四年七月刊)   〝大雅堂    名ハ無名、字ハ貸成、九霞ト号ス、或ハ九霞山樵ノ字ヲ略シテ霞樵ト称ス、通名ハ池野秋平ト号ス、京    師ノ人、ハジメ画ヲ祇園南海及ビ柳里恭ニ学フ、ノチニ倪雲林、伊孚九ニ倣テ山水人物ヲ画ク、書ハ自    ラ古法帖ニヨツテ学ビ、書画トモニ一家ヲナス、行状ミナ口碑ニ伝フレバコヽニ贅セズ、妻玉瀾ハジメ    名ハ町、祇園ノ茶店百合子ガ女ナリ其行ヒ夫ニ配シテマタ書画ヲヨクス〟    ◯『北窓窻瑣談』〔大成Ⅱ〕⑮295(橘春暉著・寛政八年記・文政十二年刊)   〝大雅堂の画蘭亭帰去来西園雅集皆小楷賛辞あり。此三幅を今年七十五金に求玉ひし諸侯ありとぞ。近世 の画にてかゝる高料は聞も及ばず。大雅堂の書画の秀し故にや。又当今都鄙ともに書画流行ゆゑにや。 彼画幅、もとより紙表具なりしとぞ〟    〈「今年」を文中前後の関係から寛政八年と推定した〉    ◯『増訂武江年表』2p29(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「享和年間記事」の項、「梅屋敷」を設けた菊塢の記事中)   〝筠庭云ふ、北平が事もと茶がらを商ひし者なり。初め大門通り横店と称する所にすみ、それより住吉町    裏屋にも居たり。好事者にて書画をすき、大雅堂贋筆を多くなしたり。文字はなけれど諸名家に立入り、    なぐさまるゝをおのれは得意とし、遂に梅屋敷を思ひつき、諸家に募りて梅樹の料を求め乞ひ、詩を集    めて「盛音集」を板にして人々に呈す。(以下略)〟    ◯「南畝集 十二」〔南畝〕④197(享和二年一月上旬賦 漢詩番号2085)  〝題池霞樵漠々水田飛白鷺図   水気汪々千頃田 山光曖々遠村煙 一行属玉飛無迹 満目秧針緑刺天〟    〈南畝大坂赴任中に一見。大雅堂生前(安永五年没)の記事は見当たらない。これが初出記事だが、寛政二年刊の「近     世畸人伝」などを通じてこれ以前に名前は知っていたに違いない。また大阪赴任中、南畝は木村蒹葭堂と頻繁に交遊     しているから、蒹葭堂の画業の師匠・大雅堂について聞かなかったはずはない。ところで蒹葭堂は享和二年一月二十     五日の逝去。突然だったようだ。というのも一月八日、蒹葭堂は南畝の宿舎を訪問して劇談数刻に及んだばかり。こ     の詩は詩の配列から言うと、ちょうどその日あたりに相当する。またこの詩のひとつ前の詩(漢詩番号2084)には十     梅厓の山水画に対する題詩もある。するとひょっとしたら二本とも蒹葭堂が持参したのかもしれない〉    ◯『一話一言 補遺参考編三』〔南畝〕⑯436 (文化七年頃記?)  (「南畝が過去買いもらした奇書」の項)  〝大雅堂山水二幅 大坂〟    〈南畝自身その胸中を〝その値を購ずる事ならずして、買い失ひしもの胸臆の中に往来して、時々忘るヽ事あたはず〟     と述懐する。この山水画の値段に関する記述はない。大坂の書肆で見たのは享和一、二年の大坂銅座赴任中か〉    ◯『七々集』〔南畝〕②253(文化十二年八月下旬記)   〝得大雅堂書   魚麗于罶鱨鯊 君子有酒旨且多 署名三嶽霞樵印 大雅堂奈無名何  日本橋南四日市 買得青銭二十波 請看世上文無者 千人万客日往過〟    〈これは日本橋四日市の書肆で「書」を購入した時の賦。大雅堂の名がなく三嶽の署名。目の利いた南畝は四文銭で二     十、僅か八十文で購入した。〝魚麗~〟の句は『詩経』「小雅」の句で、大雅堂の書面文字か。なお「巴人集 拾遺」     ②492にも同じ記事あり〉      ◯『読老庵日札』〔鼠璞〕中136(老樗軒著・文化年間末記)   (「指頭画」の項)   〝吾邦にて指頭画をなすもの、池大雅及び黒川亀玉よく是をなす〟    ◯『半日閑話 次五』〔南畝〕⑱204(文政二年十月記)   (杉本茂十郎旧宅、恵比須庵の書画目録。一蝶の項参照)  〝恵比寿、大雅堂大掛物〟    〈これも絵ではなく「恵比寿」の書か〉    ◯『仮名世説』〔南畝〕⑩567(文政八年一月刊)  〝雅量補 名の実にかなへるは大雅堂なるべし。駔儈(スハイ)の風、軽薄の習、つゆばかりもなし。此翁の    事実、奇称すべきを詳にせば棟牛にも至るべし。〈挿話あり。若かりし時落馬の仕方を習いし事・野宿    せし時群れなす小蛇にとりつかれし事・借金は方正に返し、人への請求は寛容なる事)わかゝりし時、    二条樋口に居す。画扇并に石印を彫刻する事を業とす。債をもとむるの簿帳を篆書す。一とせ旅行して    蝋月に及べども家にかへらず。老母一族など集り、世にいふ書出しなる物を調べんとするに、正文とい    ひ、ことに篆書なればさらによめず。亀屋太助といふものを頼みて、やう/\にそのなかばをとゝのへ    しとぞ。他日一族ども此事をいましめたれば、是より後篆書をやめて楷書す。譬ば中等扇三柄、某先生    携帰、估直既済とか、或は未済とか書す。これすでに老母及び一族の理会せざる所ぞ。いはんや篆書せ    しをや。大雅が書画は逸品に入るべし。畢竟一点の俗悪の気なし〟    〈南畝の大雅堂書画の評価は高い〉    ◯「杏園稗史目録」〔南畝〕⑲452・466(年月日なし)  「詩歌部」〝春臠拆甲 大雅堂戯述 一〟  「漢字狂文狂詩」〝春臠拆甲 大雅堂戯作〟    〈この〝大雅堂〟が池大雅である確証はない。また南畝が同一視している確証もないが、とりあえず挙げておく。「国     書基本DB」には〝一冊・艶本〟著者〝活々庵撤溌〟とある。明和五年の刊行という〉     ◯「文政十年丁亥日記」①100 五月五日(『馬琴日記』第一巻)   〝覚重たのミの大雅堂書画真偽鑑定の為、(宗伯)文晁方へも出がけに立寄候積りニ出宅。不及其義、八    半時比帰宅〟    〈覚重とは馬琴の女婿、渥美覚重。画号赫州。馬琴宅の杉戸絵を画いたり馬琴の依頼で古書画の模写を行っている。戸     田因幡守の家臣。大雅堂の書画には贋作も多いとされる。馬琴は谷文晁の鑑定眼を高く買っているのだろう〉    ◯「文政十年丁亥日記」①158 七月十六日(『馬琴日記』第一巻)   〝昨日関より指越候朱子墨本之代三匁、并ニ、売残り候朱子墨本三枚、大雅堂之山水壱枚、預り置候画、    覚重ぇ、今夜、不残渡シ了〟    〈関とは関忠蔵か。覚重は渥美覚重。五月五日、大雅堂の真贋鑑定を頼みに来た人である〉    ◯「天保二年辛卯日記」②443 九月十七日(『馬琴日記』第二巻)   〝戸田内河合勇七郎来ル(中略)大雅画かけ物持参。見せらる。一幅対の処、右のかた欠候ものニ可有之    旨、鑑定いたし遣ス〟    〈河合勇七郎は深川清住町戸田因幡守下屋敷住の筆耕・河合孫太郎の父。馬琴は古書の書写を専ら「深川写し物の筆者」     達に依頼していた。孫太郎はそのグループの一人。今回、馬琴は『遺老物語』の書写を依頼していたのだが、孫太郎     は〝此節主用の書もの多く候間、出来かね候〟と、父が断りに来たのであった。併せて大雅堂掛け物持参し、馬琴に     鑑定を依頼したのである〉    ◯『筠庭雑考』〔大成Ⅱ〕⑧108(喜多村筠庭著・天保十四年序)   (「天禄」の項)   〝予(編者注、筠庭)が家に大雅堂所持の澄泥研の図あり。是又舶来の物にて其形甚奇雅なり。図のごと し(模写あり)〟    ◯『椎の實筆(抄)』〔百花苑〕⑪390(蜂屋椎園編・嘉永年間写)   ◇ 安西於菟編「近世名家書画談」の稿本より写す ⑪390   〝池大雅 名無名、字貸成、秋平と称す。五歳にして書を善す。一日黄檗千呆禅師ニ謁し、席上大楷を作    り、禅師深く奇とす。後古法帖をとりえ晋唐に泝る。画は紀国に往て祇南海に画法をとひ、又大和の柳    里恭に綵色の法を学ぶ。又土佐光芳に国画の法を学ぶ。時に望玉蟾と共に相いへらく、従来画家いまだ    漢法を学びず、ともに是をはじめんと。玉蟾は唐伯虎を学び、此翁は梅道人を学ぶ。各竟に一家をなせ    り。後又倪雲林に倣へり。  (頭注)大雅堂、漢法の山水を画はじめたる頃、扇面に図して自携へ、近江、美濃、尾張へ售らんとす。    人多怪て買者なし。於是空しく京へ帰らんとて、瀬田の橋を渡時、其扇を出し、盡く湖水に投じて曰、    是をもて龍王を祭るといへりと。凡其画の妙なるも人の知らざるに至りては、和璧も燕石にひとしとも    いはん。栗山先生の話也とて、人の語りしは、大雅堂死して後、門人等老師の敗簏中より、数百幅の遺    墨を捜出しければ、京摂并近国よりこれを乞求者、各報るに、多金を以し、既に七八百金に及しかば、    かくては我老師の不朽を謀べしとて、栗山先生へ其意を述て碑文を乞ひければ、先生思惟して、それは    いとやすき事、それに付、老画師を一大不朽にするの手段ありと云。さらばいかにと問ければ、先生云、    其多石を以大石一座を求め、仏にもあらぬ人のやうなる物にきざみ、其腹にたいがどうと刻し、もとよ    り、行状、生卒年月も記に不及、これを大津粟田口の道より望む山の小高き所へ安じておかば、後々往    来人、もはや大が堂仏迄来れり哉と云ん、されば、其多金を此一挙にて盡さば、老師無何有の郷にて一    笑して頷すべしと云。弟子とかくに碑文を乞ひければ、扨も/\も是非なき事也。されば碑文は其意に    任すべし、碑を立るは数金に過ず、其残りし多金は京師貧民に分贈らば、碑文中にも記し、老画師死後    一盛事也、といはれしかど、これも弟子の意に不協。     ◇ 安西於菟編「近世名家書画談」の稿本より写す ⑪402   〝宗達、光琳が草花、松花堂布袋、英一蝶が人物、平安の四竹、大雅堂、謝春生山水、應擧幽霊、森祖仙    祇園南海梅、柳里恭竹〟    〈「平安の四竹」とは宮崎筠圃・御園中渠・浅井図南・山科李蹊。「謝春生」は与謝蕪村。安西雲煙(於菟)著『近世     名家書画』は天保元年~嘉永五年の成立。蜂屋椎園は骨董店にて入手した写本を〝安西繍虎と云人の輯せし、近世名     家書画談といふものゝ稿本也〟と記している〉    ◯『反古のうらがき』〔鼠璞〕中83(鈴木桃野著・嘉永三年記)   (「大雅堂」の項)   〝此人の画、東都にあるはこと/\くいつはりなるよしは、みな人のしる事なれども、其門人どもが工み    に似せたるは、いかにしてもしるよしなしとぞ。京摂の間は其もてはやしも又甚しく、其門人といへど    も、あざむかれて偽物を賞翫するもあり。大雅堂歿して後、其年忌に当れる日、門人共がいゝ語らふよ    ふ、こたび打よりして追福の会を催し、おの/\師の手筆の画持寄りて、大きなる寺院の広座敷にかけ    置て、互に見もし見せもして、終日供養なしたらんは、師のよろこばしく思し玉はんとて、其日の酒飯    の料出し合て、二三十人寄り合けり。こゝに何某といへる人あり。これは大雅堂の門人なれども、師の    世にいませる頃より、師の偽筆をかきて、銭金にかゆるをもてなりはひとなしてありければ、同門の人    々賤しみ悪みて、常にも同門の数にもいれねば、此度の催しの事も告しらせざりけり。すでに其日も時    うつりて、皆酒をくみかはし、画道の物語などしていと興ありける頃に、彼の何某が麻の上下に黒小袖    着て、手に一幅の画を携へ、其席に入来れり。人々あれは如何にといふに、いや吾も師が門人なれば、    今日の列にくわへ玉へ、各が約の如く、師の画幅も持て来りぬ、寄合の酒飯料も持て来ぬとてさし出す    に、皆々かほ見合せて、如何に計らはんといふを、とし老たる門人がいふ、此人常に賤しみにくまれた    りとて、師の門人に疑ひもなく、殊に師の不興蒙りたりといふにもあらねば、師の追福の為に催せし会    に、数に加へじといふ理りなし、またかれが持て来りし師の画幅もあれば、もて帰れといふべき理りな    し、許して列にいるゝこそよからめといふにぞ、皆人々もさらばとて通しけり。何某も大によろこびて、    おのが持て来玉ふ幅ども見んとて、広座敷一ト廻り見てけり。帰り来て、元の座に付けるが、扨もよく    多く集まりてめでたし、各が師の道慕ひ玉ふ心の深きも推計られて、よろこばしく侍るなり、しかし今    見たりし中に、おのれがかきたる幅、三幅迄見ゆるといふにぞ、皆人々おどろきて、にくきかれが広言    かな、師の門人がまさしく師に授りし画なるに、彼れが筆ならんいわれなし、いづれをか自からの筆と    いふや、ことによりては其まゝに捨置がたしなど、口々にのゝしるにぞ、いや争ひは無益なり、第幾番    目の幅より、又二つ置ての幅、末より幾番目の幅、此三幅はみなおのれが筆なり、但し其持主はしらね    ども、親しく師の筆をとりて画きしをみて授りたるにはおそらくはこれあるまじ、市にて求め給ひつる    ならん、さあらんには正しき師の筆とはいゝがたし、いかにぞやと問ひたるにぞ、みな目を見合ひて辞    なし。但し市にて求るにも、一人の眼に極め兼たれば、同師の友どち助け合て見極たることゞもなれば、    今更に師自ら授け玉へるなりともいつはり兼ねて、悪しとは思へども、争ひにもならで休みけり。かゝ    れば此の何某の偽筆は、おさ/\師にもおとらざりけるが、同師の友にさへ見あやまる程ならば、他人    の見て真偽を言ひ争ふは益なきことぞと、京師より帰りたる人語りける。【◎大雅堂、文晁、応挙ナド    ノ画ハ偽シ易シ。椿山ノ画ニ至テハ、天真爛漫ニ企及スベカラズ。夫サヘ近時偽物オボタヾシクアリテ、    庸凡ハミナアザムカルヽ也。予鑑裁ニ暗シトイヘドモ、椿山ノ画ニ至ツテハ、暗中模索スルモ失ハジ】〟    〈「師の世にいませる頃より、師の偽筆をかきて、銭金にかゆるをもてなりはひとなして」とある。在世中の大雅堂は     どう思っていたのであろうか。この挿話、残念ながらそれについては触れてない。この贋作造り、それで生活してい     たというのであるから相当数流通していたのではあるまいか。結局、門人達も師匠の没後、不本意ながら贋作を真筆     として追認し、結果的にこの贋作造りに荷担してしまったのである〉      ◯『古今墨跡鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④221(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   〝池野大雅【名ハ無名、初名ハ勤、字ハ貸成、小字ハ秋平、大雅堂、霞樵、九霞山樵等ノ号アリ、京師ノ    人、初メ画ヲ祇園南海ニ学及ビ柳里恭ニ学ビ、後倪雲林、伊孚九ニ倣ヒテ山水人物ヲ画クニ風韻最妙ナ    リ、書又古法帖ニヨツテ学ビ、終超越ノ域ニ至ル、故其書画等シク世ニ大イニ賞シテ珍トス、行状ノ奇    ナル、既ニ畸人伝ニ詳ナリ、安永五年四月十二日歿ス、年五十四】〟    ◯『本朝古今新増書画便覧』「タ之部」〔人名録〕④330(河津山白原他編・文化十五年原刻、文久二年増補)   〝大雅堂(タイガのルビ)【初名子井、名ヲ改テ亮、字ハ為龍、袖亀堂ト号ス、又名ヲ改メテ耕、字ハ子職、    待賈堂ト号ス、烏滸ト号シ葭菴ト号ス、九霞ト号シ竹居ト号シ大雅堂ト号ス、後名ヲ無名(アリナのルビ)、    字ハ載成ト改ム、通称初メ菱屋嘉左衛門、後池野秋平、京師ノ人、幼ニシテ大字ヲ能ス、後米元章陳無    名ノ書ヲ学ブ、又土佐ノ光芳ニ国画ノ法ヲ学ンデ、後一家ヲ成ス、安永五年四月十二日卒、五十四】〟    ◯『睡余操瓢』⑦附録「随筆雑記の写本叢書(七)」〔新燕石〕p6(明治三年頃・斎藤月岑書留)   〝大崎善四郎弆蔵大雅堂筆草画十六羅漢図に如斯表装あり、大雅堂自画き、ミつから表装を製したる物と    なん〟    ◯『平安猶及録』〔百花苑〕⑭412(一串居士著・明治初期)   〝大雅堂展観    双林寺中、有大雅堂。池無名所棲遅也。無名死、夙夜居之、蕩尽無名之旧。僧月峯住之、義亮、清亮次    之。三月、九月二十三日、為新書画展観。展観元属岡、呉二社友之首謀。於大雅堂展之後、不復省之。    義亮清亮能続其遺事、以至近年、要展掛者、先期託書画幅杖銭、以寄、期過還寄。吉田狻、復挙旧儀。    展観正阿弥楼。一時之盛、軌大雅堂。今復廃。文章之道、与時消息盈虧。可慨也夫(カナ)〟    ◯『浮世絵年表』p123(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   「明和五年 戊子」(1768)    〝此年、大雅堂の画作なりといふ『春臠拆甲』あり、挿絵は純浮世絵なり〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔大雅堂画版本〕     作品数:17点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:池大雅・九霞山樵・無名・大雅・池無名    分 野:絵画10・書道4・絵本1・艶本(一帖)1・随筆1    成立年:明和8年 (2点)        享和3年 (1点)        文化1年 (1点)        文政10年(1点)        嘉永2年 (2点)