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☆ しゅんちょう かつかわ 勝川 春潮 (吉左堂 俊朝)浮世絵師名一覧
〔生没年未詳 一説に文政7年(1824)没〕
〈没年については明治26年の番付『古今博識一覧』を参照した〉
 ※〔漆山年表〕  :『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」国文学研究資料館   〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」  〔白倉〕  :『絵入春画艶本目録』   『稗史提要』 比志島文軒(漣水散人)編   『黄表紙總覧』棚橋正博著・日本書誌学大系48   『洒落本大成』1-29巻・補巻 中央公論社   『噺本大系』「所収書目解題」武藤禎夫編    角書は省略  ☆ 安永年間(1772~1781)    ◯『増訂武江年表』1p206(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「安永年間記事」)   〝浮世絵師鳥居清長(彩色摺鈴木春信の頃より次第に巧みに成しを、清長が工夫より殊に美麗に成たり)、    尚左堂、春潮、恋川春町(倉橋寿平)、歌川豊春(一竜斎)等行はる〟    ☆ 天明元年(安永十年・1781)     ◯『洒落本大成』第十~十一・補巻   ◇洒落本(安永十年刊)    勝川春朝画『傾城異見之規矩』署名「春朝画」呉綾軒作    ☆ 天明三年(1783)    ◯『稗史提要』p363(天明三年刊)   ◇草双紙    作者の部 春町 喜三二 通笑 京伝 全交 杜芳 紫蘭 里舟 四方山人 南杣笑楚満人         奈蒔野馬鹿人・在原艶美・四方門人新社・春卯    画工の部 清長 重政 政演 政美 春潮    ◯『黄表紙總覧』前編(天明三年刊)    勝川春潮画『通人心得違』署名「春潮画」「通笑作」西村屋板    ◯「国書データベース」(天明三年刊)   ◇黄表紙    勝川春潮画『通人講釈』「春潮画」通笑作 西村板(注:『通人心得違』の改題本)  ☆ 天明四年(1784)    ◯『黄表紙總覧』前編(天明四年刊)    勝川春潮画    『返々目出鯛春参』署名「春潮画」「四方山人著」  西村屋板    『頭てん天口有』 署名「春潮画」「四方作」    西村屋板    『能魂胆気』   署名「春潮画」「四方山人新杜作」西村屋板    『拳角力』    署名「春潮画」「四方山人著」  西村屋板        ◯『頭てん天口有』〔南畝〕⑦350(天明四年刊)    〈南畝の黄表紙で〝四方〟の署名。挿画は〝四方作 春潮画〟とあり。西村与八板〉   ◯『返々目出鯛春参』〔南畝〕⑦382(天明四年刊)    〈南畝の黄表紙で〝四方山人〟の署名。挿画〝四方山人作 春潮画〟とあり。西村与八板〉     ◯『拳角力』〔南畝〕⑦404(天明四年刊)    〈南畝の黄表紙で〝四方山人〟の署名。挿画〝四方山人作 春潮画〟とあり。西村与八板〉    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天明四年刊)    勝川春章画    『番(ツガイ)枕陸(クガ)の緑』墨摺 半紙本 三冊 春章画・作 天明四年     (序題「番枕陸之翠」白倉注「春章作の艶本としては珍しく落款がないので、重政かとの説もあるが、春章と見るのが順当。      上巻第一図はのちに春章の肉筆春画絵巻に流用されている」)  ☆ 天明五年(1785)     ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(天明五年刊)    勝川春潮画『艶本千夜多女志』墨摺 半紙本 三冊 天明五年頃          序「丙の臓のつよい午ほとなもので正月」〈天明六年丙午刊?〉    ◯「日本古典籍総合目録」(天明五年刊)   ◇黄表紙    勝川春潮画『流行七福参』四方山人作    ☆ 天明六年(1786)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天明六年刊)    勝川春潮画    『艶本千夜多女志』墨摺 半紙本 三冊「陰戸のすきなり(朋誠堂喜三二・俳名月成)」序 天明六年             序「丙の臓のつよい午ほとなもので正月」     (白倉注「集中「海女と蛸」の図が知られる。北斎のそれの先行作」)    ☆ 天明七年(1787)      ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕〔白倉〕(天明七年刊)   ◇艶本    勝川春潮画    『艶図美哉花』墨摺 半紙本 二冊 良寧 天明七年     (白倉注「改題再摺本に『本恋の楽』とある。勝川春好の説あるが、春潮なるべし」)  ☆ 天明八年(1788)     ◯「艶本年表」(天明八年刊)    勝川春潮画〔白倉〕    『会本和良怡副女』墨摺 半紙本 三冊「雄芝童春潮画」(上巻第一図) 天明八年             序「九のとし口を陬月」〈陬月は正月。天明九年刊?〉     (白倉注「春潮の墨摺艶本の代表作だが、それだけに情景の詳密さは、息苦しいほどだ」)    『好色図会十二候』大錦 十二枚組物 天明八年頃     (白倉注「四季十二ヶ月を描き分けた春潮の代表作。清長の『色道十二番』の模倣作との説もあるが、その華やかな色彩感覚      は、優に春潮らしさが出ている」)    『阿満男婦寝』  墨摺 半紙本 三冊 天明八年     (白倉注「再彫再摺本に『会本男妓沙乃浮寝』春潮の最も充実していた時期の作で、彼の代表作の一つ」)    『色部類十二好』 大錦倍判 十二組物「春潮画」天明八年頃     (白倉注「春画には珍しい大錦倍判サイズだが、残念なことにいまのところ一図しか発見されていない」)    勝川春潮画〔目録DB〕    『絵本笑通女』  三冊 勝川春潮画(注記「艶本目録による」)    ☆ 天明年間(1781~1788)    ◯『黄表紙總覧』後編「刊年未詳・補遺」   ◇黄表紙(天明年間刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春潮画〔かたきうち〕署名「春潮画」「五退斎戯作」板元不明    ☆ 天明年間(1781~1788)    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(天明年間刊)    勝川春潮画『千代の秋』一冊 勝川春潮画 天明・寛政頃 蔦屋重三郎板    ☆ 寛政元年(1789)    ◯「艶本年表」(寛政元年刊)    勝川春潮画    『会本男妓沙乃浮寝』墨摺 半紙本 一冊 寛政元年頃〔日文研・艶本〕    『御覧男女姿』   三冊 勝川春潮画〔目録DB〕    ☆ 寛政二年(1790)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政二年刊)    勝川春潮画『絵本栄家種』二巻 江都画工中林舎勝川春潮 旭朗井西爾序 和泉屋市兵衛板    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(寛政二年刊)    勝川春潮画『狂歌紅葉の橋』一冊 勝川春潮画 寛政2頃    ◯「艶本年表」(寛政二年刊)    勝川春潮画〔白倉〕    『好色十二通笑・好色十二通気』色摺 横小本 一冊 好亭(式亭三馬)序 寛政二年頃     (白倉注「外題簽不明。画中に交互に右の題名がはいっている。全二十四図」)    『男女色交合之糸』大判 紅嫌絵 十二枚組 好亭序(白倉注「改板後摺本に『會本邯鄲枕』がある」)     『笑本婦久阿羅恋』墨摺 半紙本 三冊「吐淫子」序 寛政二年     (白倉注「改題再摺本に『笑本連理枝』(寛政十年・1798)がある」)    『色道出世鏡』  中錦 十二枚組物 寛政二年頃     (白倉注「画中の短冊型の囲みの中に、題字と番号がはいっている」)    勝川春潮画〔日文研・艶本〕〔白倉〕    『笑本連理枝』墨摺 半紙本 三冊 寛政二年           序「人の戌間に一番正月 吐淫子」     〈「戌」は寛政2年だが、上掲(白倉注)によればこれは寛政10年刊で『笑本婦久阿羅恋』の再摺本〉    『会本妃女始』墨摺 半紙本 三冊「歌麿・春潮画」湿深の性伝(唐来参和)序           序「まつちなる湿深の性伝記 寛政ふたつ 目に正月をさする頃」     (白倉注「改題再摺本に『初霞』(寛政四年・1792)」と『閨之雌雄裏』(寛政六年・1794)がある)    ☆ 寛政三年(1791)    ◯「日本古典籍総合目録」(安政元年刊)   ◇風俗    勝川春潮画『絵本栄家種』勝川春潮画  ☆ 寛政四年 壬子(1792)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(寛政四年)   ①「春潮画」(唐子書き初め)2/68    「花人改紀若丸」狂歌賛  ☆ 寛政五年(1793)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(寛政五年刊)    勝川春潮画『好色十二躰』中錦 十二枚組物 寛政五年頃     (白倉注「本集も画面に題名がはいっている」)  ☆ 寛政九年(1797)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政九年刊)    勝川春潮画『美満寿組入』狂歌 一巻 談州楼焉馬作 四方歌垣真顔跋 上総屋利兵衛板     二代目清満門弟鳥居清長・東紫園春潮画・春好左筆・元祖鳥居清信画・二代目鳥居清信     勝九徳斎春英画・邦易祇画賛・嵩琳応求・歌川豊国画    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(寛政九年刊)    勝川春潮画『美満寿組入』一冊 烏亭焉馬編 上総屋利兵衛板     署名「東紫園春潮画」(白猿肖像)     他に、二代目清満門弟鳥居清長画・春好左筆・二代目鳥居清倍画・元祖鳥居清信画     勝九徳斎春英画・歌川豊国・嵩琳・易祇     ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕〔白倉〕(寛政九年刊)    勝川春潮画    『会図之腎水』色摺 大判 十二枚組物 寛政九年頃     (白倉注「十二図の交合図の他に「蛸開之図」「上品開之図」を描いた付録が付いる。春潮後期の傑作)    ☆ 寛政十年(1798)    ◯『噺本大系』巻十三「所収書目解題」(寛政十年刊)    勝川春潮画『無事志有意』署名「紫園春潮画」立川談洲楼焉馬撰(板元名なし)    〈解題は「けん酒」という小咄に「月盛楼紫園作」とあることから、画工の紫園は作者の月盛楼紫園と同人かとする。     春潮は月盛楼紫園とも称したか〉  ◯「艶本年表」〔白倉〕(寛政十年刊)    勝川春潮画    『閨中股庫二色』 中錦 十二枚組物  寛政十年頃     (白倉注「春潮の寛政期の作品で、画中に題名が摺り込まれている」)    『笑本連理枝』墨摺 半紙本 三冊 寛政二年           序「人の戌間に一番正月 吐淫子」    〈白倉注によると、これは寛政2年刊『笑本婦久阿羅恋』(序の「戌」は寛政2年)の再摺本で、寛政10年刊〉    ☆ 寛政十一年(1799)    ◯『今日歌白猿一首』(立川焉馬編・寛政十一年刊)   〝口上と狂哥におちをとりがなく あつまの名所市川/\ 勝川春潮〟      〈寛政十年十一月、中村座の顔見世興行において、二十一歳の六代目団十郎が初めて座頭を務めることのなった。その     とき、寛政八年の引退以来、成田屋七左衛門と称して隠居していた五代目が、約二年ぶりに舞台に復帰して市川白猿     の名で口上を述べた。これを江戸の人々がこぞって大歓迎した。そして狂歌を詠んで祝意を表した。この狂歌集はそ     のとき披露された口上や白猿自身の狂歌、また人々から寄せられた狂歌などを編集してなったもの。春潮は上掲の狂     歌を詠んで祝福したのである。なおこの時狂歌を寄せた浮世絵師は他に、左尚堂俊満・歌川豊国。また勝川春好・勝     川春英・俵屋宗理(北斎)・歌川国政は狂歌のほかに挿絵も画いている〉    ☆ 寛政十二年(1800)    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(寛政十二年刊)    勝川春潮画『会本阿満男婦寐』三冊 勝川春潮画    ☆ 寛政年間(1789~1800)    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(寛政年間刊)    勝川春潮画『絵本千代の秋』一冊 勝川春潮画 金鶏撰 天明・寛政頃 蔦屋重三郎板    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(寛政年間刊)    勝川春潮画    『好色図会十二候』一帖 勝川春潮画 寛政年間刊 (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『ひめはじめ』  一冊 勝川春潮画 寛政頃刊  (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『閨の雌雄裏』  三冊 歌麿・春潮画 寛政年間刊     (注記「笑本/初霞の改題本、日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱447(大田南畝著・寛政十二年五月以前記)  〝春潮  鳥居清長の筆意をよく贋たり。にしき絵、また草双紙多し〟    〈南畝の黄表紙は確認出来るもの六種、全て天明三年から六年の作品で、版元が二つあり蔦屋と西村与八。絵師は蔦屋     板の時は歌麿か北尾政美、西村板の時にはこの春潮である〉    ☆ 享和二年(1802)       △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年)〔日本名著全集『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)     昔絵は奥村鈴木富川や湖龍石川鳥居絵まで 清長に北尾勝川歌川と麿に北斎これは当世    勝川旭朗井春章  勝川九徳斎春英  春好  春潮  春常  春鶴  春林  春山  蘭徳斎    (他の絵師は省略)〟
   『稗史億説年代記』 式亭三馬自画作(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)     〝青本 草双紙、だん/\と理屈におちる    画工 女絵の姿は清長に始まつて春潮に至り当世に変化する    同  彩色絵の遍数(ヘンカズ)、中古に倍す。江戸絵ます/\尊し    同  柱かくしの女絵は湖龍斎よりはやり出し清長に至つてます/\世に用ゆ    作者 森羅亭万宝、双紙を作す。烏亭焉馬久しく廃れたる落噺を再興す。談洲楼と号す〟
    〝昔より青本の画をかゝざる人の名    奥村   鈴木春信  石川豊信  文調    湖龍斎  勝川春章  春好    春潮    春林   春山    春鶴    春常 【勝川門人数多あり】    歌川豊春 【此外にも洩れたる画者多かるべし。追て加之】〟    〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によれば、春潮は天明三年~五年(1783~5)にかけて合計七点の黄表紙     を担当している〉    ☆ 文化五年(1808)    ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝春潮 鳥居清長の筆意を能くにせたり。錦絵・草双紙多し〟    〈大田南畝の『浮世絵考証』と同文〉    ☆ 文政四年(1821)    ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)       〝三馬按、春潮浮世絵ヲ廃シテ後、俊朝ト改ム。吉左堂ト号ス。文政四年ノ今尚存ス。長寿ノ人ナリ。伝    ハ別ニ記ス。俗称吉左衛門〟     ☆ 刊年未詳    ◯「艶本年表」(刊年未詳)    勝川春潮画〔目録DB〕    『男女交合之糸』一帖 勝川春潮画    『色道出世鏡』 一帖 勝川春潮画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『笑本連理』  三冊 勝川春潮画(注記「艶本目録による、笑本婦久阿羅恋の改題本)    『笑本婦多』  三冊 勝川春潮画(注記「艶本目録による」)    『子宝艸』   一帖 勝川春潮画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    勝川春潮画〔日文研・艶本〕    『巫山帖』   色摺 横小判組物 十二図    「逸題組物」  色摺 大判 一帖    春潮画(「江戸時代の変態趣味」山崎麓・『江戸文化』第二巻第六号 昭和三年六月刊)    『笑本雙が岡』春本    ☆ 没後資料    ☆ 天保四年(1833)    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③296(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝春潮【明和、安永、天明、寛政、享和、文化、文政年人】     俗称吉左衛門、後俊朝と改、号吉左堂    鳥居清長の筆意をよく贋たり、錦絵また草双紙に多し 類考     三馬云、春潮浮世絵を廃して俊潮と改む、吉左堂と号す、文政四年、今尚存す、長寿の人也、伝は別 記に録す〟〈「別記」は未詳〉    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)
   「勝川春章系図」〝春章門人 勝川春潮 中林舎〟     ◇「春潮」の項   〝〈勝川〉春潮、〔明和〕〈安永の〉頃より寛政中の人     俗称 吉左衛門、居(空白)後、俊朝と改、号 吉左堂 中林〔斎〕〈舎〉    〈春章の門人なれど〉鳥居清長の筆意をよく贋たり。錦絵又草双紙に多し(類考)     三馬云、春潮、浮世絵を廃して俊潮と改む。吉左堂と号す。文政四年辛巳今尚存す。長寿の人也、伝     別記に録す。     〈花の寿 二冊 師旭朗井酉爾の序文あり〟    〈「旭朗井酉爾」は勝川春章〉    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   ◇中p1401   〝吉左堂春潮 安永中、後俊朝ト改ム〟     ◇中p1408   〝春潮 鳥居清長の筆意をよく贋せたり、錦画又草双紙多し【浮世絵類考】    (補)後浮世絵を廃し、名を俊朝と改む、号を吉左堂と云    (補)[署名]「東紫園春潮」[印章]「刻字未詳」(朱文丸印)〟
   「宮川長春系譜」     〝春章門人    春好 春英【勝川九徳斎、寛政年間】 春常 春山 春徳    春林 春潮             春玉〟    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪204(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝春潮    安永の頃より寛政の頃の人、俗称吉左衛門、鳥居清長の筆意をよく贋たり。錦絵又草双紙に多し。後浮    世絵を廃して名を俊朝と改む。号を吉左堂と云。役者絵もあれば春章門人歟〟  ☆ 明治二十二年(1889)    ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝安永 吉左堂俊朝 通称吉左衞門、初め春朝と称す、画風春信に似たり〟    〈春朝は春潮の誤記か〉    ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』下p479(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝春潮    後チ名ヲ俊朝ト改メ、吉左堂ト号ス、通称吉右衛門、初メ錦画ヲ画クニ、筆意能ク鳥居清長ニ似タリ、    又草双紙板下ヲ画ク、後ニ浮世絵ヲ廃止ス、文政年中ノ人(人名辞書)〟  ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『古今博識一覧』番付 大坂(自択散人編 赤志忠七出版 明治二十六年十二月)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)〈本HP「浮世絵事典・う・浮世絵師番付」参照〉   〝流行浮世絵師 文政七年 東都 吉左堂春潮 七十一年〟〈文政七年は没年。ただその根拠は明らかではない〉  ◯『古代浮世絵買入必携』p7(酒井松之助編・明治二十六年刊)   〝勝川春潮    本名〔空欄〕  号 雄芝堂、中林堂  師匠の名 春英  年代 凡百年前    女絵髪の結ひ方 第七図・第八図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 大判、並判、中判、小判、細絵、長絵、絵本、肉筆    備考  〔空欄〕〟  ◯『浮世絵師便覧』p235(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝春潮(テウ)    勝川春章門人、東紫園、中林舎と号す、俗称吉左衛門、文化年間浮世絵を廃し、名を俊朝と改め、吉左    堂といふ、◯安永、寛政〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(36/103コマ)   〝勝川春潮【天明元年~八年 1781-1788】    通称吉左衛門、中林舎、また東紫園と号す、春章の門弟なりしが、文化の頃、浮世絵を廃し、名を俊朝    と改め、号を吉左堂といふ、鳥居清長の筆意をよく贋せたりとぞ〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(201/218コマ)   〝春潮    後の名を俊朝と改む 通称は吉左衛門といふ 吉左堂と号す 浮世絵を能くす 其の鳥居清長の筆意に    髣髴たり 文政年中の人なり〟  ◯『浮世絵の諸派』上下(原栄 弘学館書店 大正五年(1916)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(下75/110コマ)   〝春潮 号は中林舎、東紫園などいふ。作画期は安永・天明・寛政頃。文化頃から尚左堂窪俊満の門人と    なり、吉左堂俊満と改め、浮世絵をやめて、狂歌、狂文などの戯作に転じたやうである〟  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年(1923)九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇小林亮一所蔵〈小林文七嗣子〉    勝川春潮「花下美人図」日本絵東紫園春潮  ☆ 昭和年間(1926~1987)    ◯『狂歌人名辞書』p95(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝勝川春潮、通称吉左衛門、別号中林舎三江、初め春章門人、後ち俊満に従ひ俊朝と改め、吉左堂と号す、    狂文狂歌を作る、文政頃の人〟    ◯『浮世絵師伝』p95(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春潮    【生】  【歿】  【画系】春章門人  【作画期】安永~寛政    勝川を称す、俗称吉左衛門、雄芝堂・紫園・東紫園・中林舎・三江等の別号あり、役者絵には殆ど筆を    染めざりしことは、例へば口絵第三十八図の如く役者は春英、美人は春潮の筆に合作せるを見ても知る    べし。美人画に於ては特に傑出せる作品尠からず、「浮世絵板画傑作集」の第十集柱絵の内、及び十一    輯の内、美人行歩の図等天明より寛政初期までの作は清長と対立し得る程度の作なり。又黄表紙、絵本    などをも画きたり、其の最も早き時期のものとしては、安永六年版の黄表紙『敵討七色唐辛子』あり、    絵本中の傑作には『絵本栄家種』二册(寛政二年版)あり、最後に寛政十年版の落款本『無事志有意』    の挿画を描きしが、錦絵の作は、それ以前に跡を絶ちしものの如し。初め馬喰町に住し、中頃日本橋大    工町に移り、文化年間に至りて瀬戸物町に転ず、其の頃よりして窪俊満の門に入り、号を吉左堂俊潮    (或は朝)と改め、専ら狂歌狂文の作を事とせり、而して、彼が文政頃まで生存せしことは、写本『浮    世絵類考』に式亭三馬の書入れせし文中に「文政四年今猶存す長寿の人なり」とあるを以て証とすべし。      ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「寛政二年 庚戌」(1790)p151   〝正月、勝川春潮の『絵本栄家種』出版〟     ◇「寛政九年 丁巳」(1797)p161   〝正月、鳥居清長・勝川春潮・同春好・同春英・歌川豊国等の挿画に成れる『美満寿組入』出版〟    〈『美満寿組入』は烏亭焉馬編〉     ◇「文化一一年 甲戌」(1814)p185   〝此頃、勝川春潮歿す。(春潮は勝川春章の門人にして通称を吉左衛門、雄文堂・忠林舎・吉左堂・東紫    園等の号あり。春潮は春章の高弟なれども、勝川派といはんよりは、大に鳥居清長の筆致に似たり)〟    △『増訂浮世絵』p137(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝勝川春潮    春潮は通称を吉左衛門と云ひ、雄文堂、東紫園、忠林舎、吉左堂等の号を用ひた。晩年に浮世絵を廃し    てから、俊朝と号したといふことである。製作したのは、天明初めから寛政年中へ掛けてであり、春章    門中では、優秀なる一人である。    その画風は、師の感化が割合少く、反つて鳥居清長の長所をとり入れたので、画風は他の勝川流の人々    とは、異つて居る。そのモデルとなつた女は、歌麿が好んで画いた女と同じく、高島屋おひさや難波屋    おきたである。女の楚々たる姿は誠によく写されたのである。春章門では美人画に頭角をあらはしたも    のである。その代表的なものでは、不忍池のほとりを散歩する美人図で、これには地上に人物の影を映    して居る。八ッ橋菖蒲見物遊女図や、夕顔棚下の遊女などは、俗に紫摺といふて、紅を殆ど用ひないで、    紫を多く用ひたからの名である。挿図にした三美人図に見ても、清長の美人と如何によく相似たもので    あることがわかる。然かもその姿といひ相貌といひ、立派なもので、天明期の優れた作である。    春潮は絵は中々優れて居たのであつたが、当時は美人画家として、清長、歌麿、栄之等が、名声籍甚な    る為め、遂にそれ等の人々に圧せられ、中途で、丹青界から筆を絶つた。惜いことである。春潮は文才    があつたので、狂歌狂文をよくし、吉左堂俊潮(又は朝)といふた。没年は明かでないが、文政頃まで    生存して居たやうである〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔勝川春潮画版本〕    作品数:26点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:勝川春潮・紫園・紫園春潮・春潮    分 類:艶本13・黄表紙7・絵本4・狂歌2・咄本1    成 立:天明3~5・8年(8点)        天明寛政頃   (1点)        寛政1~2・10・12年(7点)(寛政年間合計9点)