☆ 天保三年(1832)(閏十一月廿八日没・四十六歳)
〈忌日は『馬琴書翰集成』②265 天保3年12月8日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-63)参照〉
◯「天保三年壬辰日記」③16 正月十六日(『馬琴日記』第三巻)
〝画工柳川来ル。余、対面。とし玉二種持参。八犬伝八輯、二の巻さし画遣り二丁出来、見せらる〟
◯「天保三年壬辰日記」③26 二月朔日(『馬琴日記』第三巻)
〝(宗伯を以て)根岸画工柳川重信方へ、年賀礼ニ立寄候様、申付、とし玉二種もたせ遣ス。依之、柳川
方へ立寄、夕七時前帰宅〟
〈この年、浮世絵師の中で、馬琴と年賀の礼を交わしたのは柳川重信だけである〉
◯「天保三年壬辰日記」③33 二月十二日(『馬琴日記』第三巻)
〝八犬伝八輯三の巻さし画、旅人馬上之図、右旅人きせるを持居候ニ付、きせるハ不宜候。扇ニ画キ直さ
せ候様、申遣ス〟
〈版本は確かに扇になっている。「八犬伝」の時代設定に煙草も煙管も存在しないからである〉
◯「天保三年壬辰日記」③36 二月十七日(『馬琴日記』第三巻)
〝画工柳川重信来ル。八犬伝八輯四の下さし画の壱、一枚出来、見せらる。是より、板元丁子やぇ罷越候
よしニ付、右さし画直ニわたし遣ス。柳川手みやげ二種、被送之〟
◯「天保三年壬辰日記」③55 三月十一日(『馬琴日記』第三巻)
〝画工柳川重信来ル。予、対面。手みやげ、被贈之。且、八犬伝八輯四の下残り画写本、并ニふくろ画写
本出来、見せらる。是より板元へ持参のよし、稿本もそのまゝさし添遣す〟
◯「天保三年壬辰日記」③70-71 四月五日(『馬琴日記』第三巻)
〝画工柳川重信来ル。予、対面。右ハかねて頼置候根岸ニ売地面有之、百坪弱ニて、代金百両のよし。六
十両ニつけ候もの有之候へ共、未売場所は比丘尼寺辺ニて、不宜候へ共、望も有之候ハヾ、一覧いたし
候様、被申之。いづれ一両日中、宗伯可遣旨、及約束、則、帰去。柳川、此節脚気ニて休筆、右ニ付、
八犬伝さし画、出来かね候よし也〟
〝(宗伯)柳川方へ罷越、右売地、一覧可致之処、売主他行ニ付、来ル八日ニ可罷越よし、やくそくいた
し候よし也〟
〈文政十二年(1829)の根岸転居騒動以降、馬琴の移住願望は沈静化したかに見えるが、〝かねて頼置候〟という書きぶ
りから想像すると、依然として意欲は継続していたのである。馬琴が頼りとしたのは、前回あれほど熱心に動いた英
泉ではなく、今回は柳川重信であった。当時、重信は根岸大塚村に住んでいた。その関係であろうか。それにしても、
重信の脚気、休筆するほどであるからひどい病状なのであろう〉
◯「天保三年壬辰日記」③71 四月六日(『馬琴日記』第三巻)
〝丁子や平兵衛来ル(中略)是より根岸柳川方へ罷越候間、さし画壱丁ヅヽも方便を以、画せ候様、示談〟
〈柳川重信の「八犬伝」挿絵またまた滞りがちになったようである〉
◯「天保三年壬辰日記」③72 四月八日(『馬琴日記』第三巻)
〝宗伯、根岸柳川重信方へ罷越、同人紹介の売地面一見いたし、夕七時比帰宅〟
◯「天保三年壬辰日記」③73 四月九日(『馬琴日記』第三巻)
〝(宗伯)昨日根岸へ罷越、柳川口入之売地一見いたし候処、七畳の間一ヶ所母屋ニて、外ハ茶ノ湯坐敷
のみニて、住居になりかね候よし(中略、もう一件、別人口入れの売家の記事あり)先見合せ候様、談
じおく〟
◯『馬琴書翰集成』②122 天保三年四月二十六日 小津桂窓宛(第二巻・書翰番号-32)
〝(「八犬伝」八輯)下帙も引つゞき、八九月比出板のつもりニて、五六の巻ハ板木師ニわたし(三字ム
シ)ほらせ候得ども、画工柳川病気のよしニて、下帙ハ画は一枚も出来不申、板元も甚困り候得ども、
いたし方なく、又画ニて幕つかへ候。〟
〈文化十一年の初輯以来、「八犬伝」の挿絵をひとりで担当してきた柳川重信、このところの体調不良で、挿絵がまま
ならず、八輯の上帙の出板が四月下旬から五月下旬にずれ込んだり、また八九月出板予定の下帙の画が一枚も出来て
いなかったりで、とうとう「幕がつかへ」てしまった。またしても画工で延引か、という馬琴たちのため息である。
重信に限らないが、戯作者は画工の病気・我が儘に手を焼いたようである。五月二十一日付、篠斎宛書翰によると八
輯上帙の発売は五月二十日であった〉
◯『馬琴書翰集成』②136 天保三年四月二十八日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-33)
〝(「八犬伝」第八輯)上帙五冊は、まづ申さば、下帙の仕入趣向にて、うまみは下帙の方に可有之候。
下帙も八九月中迄にうり出し度とヤ、板元連りに急ギ候故、五ノ巻ははやほりに出し候へ共、画工柳川
労下地のやうなる病症にて、机にかゝるとふさぎて筆がとられぬと申、下帙の画、一枚も出来不申候。
又画工にて幕つかへ候故、いそぎ稿し候かひもなく、中だるみいたし候。此画工は、画にて飯をくはぬ
人故、かやうの病気も起り候事と存候。何とぞ、はやく画せたく存候へ共、病気と申事故、さいそくも
いたしかね、板元も大困りに御座候。とかく障り出来たがり、こまり申候〟
〈柳川重信は「此画工は、画にて飯をくはぬ人」とある。これは本業を別に持っているという意味であろうか。『滝沢
家訪問往来人名録』(天保六年四月頃)〝根岸中村御玄関番鈴木忠次郎養子重信婿養嗣 鈴木佐源次事 二代目 柳
川重信〟の記事からすると、初代の重信は「根岸中村御玄関番鈴木忠次郎養子」ということになる。すると本業は
「根岸中村御玄関番」か。「根岸中村」は重信の住所、役職は「御玄関番」ということであろうか〉
◯『馬琴書翰集成』②144 天保三年五月二十一日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-35)
〝(「八犬伝」第八輯下帙)此節八ノ下、不残稿し畢、但つけがなのミ、半分遺り候。筆工も七の巻出来
候へ共、画工不快のよしニて、今に一枚も画キ不申、はり合無之候へ共、もはや下帙五冊、あらまし稿
し畢候間、一安心ニ御座候〟
〈画工柳川重信の不快は馬琴の精神状態にまで影響したのである〉
◯「天保三年壬辰日記」③113 五月廿八日(『馬琴日記』第三巻)
〝画工柳川重信来ル。予、対面。八犬伝八輯五ノさし画の弐、出来、被為見之(中略)柳川へは、八ノ上
下さし画稿、四丁わたし、画ぐみ注文、示談畢〟
◯「天保三年壬辰日記」③121 六月八日(『馬琴日記』第三巻)
〝画工柳川重信来ル。予、対面。八犬伝八輯六の巻さし画の弐、画写本一枚出来、見せらる(中略)去冬、
大和八滝村ニてほり出し候文忌寸禰丸の骨龕の図説写し一綴、見せらる。去冬、松前大野幸治郎より贈
候ハ右図のみ也。柳川の写しの方、精細ニ付、しばらくかりおく。兎園別集へかき入るべき為也〟
〈壬申の乱の功臣・文忌寸禰麻呂の墓碑が発掘されたのは天保二年九月。重信は版本の挿絵だけでなく、こうした珍し
い図の模写も請け負っていたのである。この図は馬琴著『兎園小説別集』の「文忌寸禰麿骨龕所掘図説」に収められ
ている。(『日本随筆大成』第二期4所収)〉
◯『馬琴書翰集成』天保三年六月二十一日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-37)
◇ ②150
〝(「八犬伝」第八輯下帙五冊。原稿出来、筆耕も終わり、彫は八月下旬に仕上がる予定)但、画工柳川、
素人狂言などに耽り候よしニて、画ニ身を不入、やう/\七ノ巻の内、壱のさし画迄出来、今に六七枚
画キ残り有之。板元大に気をもミ、せわり候へども、今に出来かね、困り申候〟
〈柳川重信「素人狂言などに耽り候よしニて、画ニ身を不入」。昨年八月十八日、「八犬伝」の板元丁子屋平兵衛、重
信を同道して、馬琴に以後遅滞なく画くことを約束していたのに、このていたらくである。病気なのか怠慢なのか。
国貞、北渓しかり、どうも画工だけは、馬琴をもってしても、板元をもってしても、制御しにくい存在であったよう
だ〉
◇ ②153
〝先年、英平吉ほりかけ候『水滸画伝』の板株ハ、大坂河内や茂兵衛買取候よし、此度初て聞知申候。右
蘭山作ハ、百回迄稿本出来、北斎画も三十五冊め迄出来居候而、右板ニ添、かひ取候間、ほり立、当節
河茂方ニて、又十冊うり出し候よしニ御座候。乍去、英平吉うり出し候節、二編の評判宜しからず候間、
丁子屋ニてハ引受不申、断候ニ付、河茂甚こまり候よし申候。右ニ付、『水滸略伝』と申ものヲ被頼候。
是ハ、柳川画キ候『水滸伝』百八人の像、略画のやうニ画キ候もの、先年狂歌連ニて出来いたし候。右
板を、丁子やかひ取候よりの思ひ付ニ御座候。なれ共、『水滸伝』ハ株物ニ付、丁平のミにてハ出板い
たしかね候間、河茂と合刻ニいたし、右百八人の像を口画ニいたし度旨申候。この略伝ハ、少々著し可
申心も有之、且附録ニ「水滸伝略評」を加へ、五六冊ニ書とり可申候旨、約束いたし候。稿本出来次第、
来年彫刻いたし度旨、両板元申居候。此附録の「水滸伝の評」ハ、後世へ遣し度心も御座候間、手透次
第、来年より創し可申存候事に御座候〟
〈『新編水滸画伝』はもともと馬琴と北斎の組み合わせで、文化二年と四年に初編として出していたもの。ところが、
板元の角丸屋甚助及び北斎と馬琴との間にトラブルが生じて、この出板から馬琴が降りてしまい、以降途絶していた。
それを文政十一年、板元英平吉が高井蘭山訳・北斎画の組み合わせで二編として出版した。(文政十一年正月十七日
付、殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-41))こんどの出版はそれ以来のものであるが、二編の評判
があまりよくないこともあって、英平吉にかわってこの板株の持ち主になった河内屋茂兵衛が『水滸略伝』なる企画
を馬琴に持ち込んだのであった。これは狂歌連が制作した略画のような『水滸伝』すなわち『狂歌水滸画伝』(芍薬
亭長根編・柳川重政画・文政十三年跋)に着想を得たものらしい〉
◯「天保三年壬辰日記」③134 六月廿三日(『馬琴日記』第三巻)
〝画工柳川重信、為暑中見廻、来ル。団扇四柄、被贈之。八犬伝八輯七の巻さし絵の三出来、持参。今日
ハ板元へ不参よし申ニ付、預置、筆工へ廻し可申旨、示談。此後、水滸略伝画の事、其外、及示談〟
◯「天保三年壬辰日記」③147 七月九日(『馬琴日記』第三巻)
〝画工柳川重信来ル。予、対面。八犬伝八輯八ノ上さし画の弐出来、見せらる。(中略)水滸伝、狂歌師
ニて出来の柳川が水滸百八人の像古板、丁子やかひ入、今日取引相済、金子請取、板主へわたし参候よ
し、物語也。八犬伝八輯の上とびらの画、紅毛狗画キ候様、示談。外わくもやう注文いたし、紅毛画箋
一枚かし遣す〟
〈丁子屋平兵衛は『狂歌水滸伝集』(重信画)の板木を入手して、いよいよ『水滸略伝』の出版に向けて準備が整った
のである〉
◯「天保三年壬辰日記」③153 七月十六日(『馬琴日記』第三巻)
〝丁子や平兵衛、富士登山紀行、今朝出立いたし、柳川も同道のよし〟
〈七月晦日の日記、丁子屋平兵衛来訪記事に〝富士登山、去ル十六日出立ニて、廿七日ニ帰府のよし〟とあり、柳川重
信も同着であろう〉
◯『馬琴書翰集成』②174 天保三年七月二十一日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-40)
〝(「八犬伝」)画者病気も、先比痊可ニて、やう/\本月十六日ニ惣さし画・とびら共、不残出来揃ひ
申候〟
〈仕事の遅れで板元のみならず馬琴をもやきもきさせたこの画者は柳川重信、病が癒えてやっと仕事に復帰したのであ
る。しかも七月十六日には「八犬伝」の挿画等全て仕上げて、富士登山に出かけている〉
◯『馬琴書翰集成』 天保三年八月十一日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-42)
◇②184
〝清の陸謙が画キ候『水滸伝』百八人の像を、南溟が摸し候画巻一巻、黙老購得候よし。おく書をたのま
れ、右之巻物差越され候間、一覧いたし候。かやうのものを見候毎に、柳川が画き候は、素人好キ可致
候へども、天罡地煞の順もなく、半和半唐にて、いやなるものに御座候。阮小二抔は、定九郎に似より
候。あまりわろきは、入木直しいたさせ可申哉とも存候。公孫勝は、魔法つかひのやうに御座候。それ
を板元はじめ、うれしがり候もの多し〟
〈南溟は春木南溟か。黙老は高松藩家老・木村黙老。殿村篠斎や小津桂窓と同様、馬琴作品の書評仲間にして書籍愛好
家。「天罡地煞」とは天罡星・地煞星の意味。『水滸伝』に登場する百八人を象徴するの星である。「順もなく」と
は、天罡星の人三十六人、地煞星の人七十二人、柳川重信は、これをかき分けてないというのであろうか。また「半
和半唐」とは和漢折衷の中途半端な描き方をいうのだろう。馬琴が苦々しげにいう重信の『水滸伝』とは『狂歌水滸
画伝』(芍薬亭長根編・文政十三年跋)であろうか〉
◇②184
〝恩貺の本居翁画像かしらの事、いぬる比、柳川に相談いたし候処、柳川申候は、画は拙からず宜く候。
かくまで画きながら、毛がきをせざりしは心得がたし。忘れたるにても候はん。六十翁にて白髪なく候
はゞ、髪際はまばらにかきおこしをいたし、それより段々あつく毛がきをいたし候はゞ、年齢位に見え
可申よし申候に付、則毛がきをたのみ遣す置候〟
〈馬琴は本居宣長肖像の「毛がき」を柳川重信に依頼する。九月中旬までには完成している。九月二十一日付、殿村篠
斎宛書翰(番号49)参照〉
◯『馬琴書翰集成』②199 天保三年九月十六日 河内屋茂兵衛宛(第二巻・書翰番号-46)
〝(『開巻驚奇俠客伝』二集)柳川へもきびしく申談じ、此度ハずるけなしニ画せ候つもりニとり極メ申
候〟
〈河内屋茂兵衛は『開巻驚奇侠客伝』の板元。またしても、画工柳川重信の「ずるけ」のため「幕につかえ」が生じて
いる。そこで今度こそはと「ずるけなし」の約束を重信と取り決めたのであるが、実は、昨年の八月十八日、「八犬
伝」の板元丁子屋平兵衛、重信を同道して、馬琴に以後遅滞なく画くことを約束していた。にもかかわらず、六月二
十一日付、殿村篠斎宛書翰には、重信が「素人狂言などに耽り候よしニて、画ニ身を不入」と記されいる。あてには
ならないようだ〉
◯『馬琴書翰集成』②212 天保三年九月二十一日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-49)
〝本居翁像頭毛がき、やう/\過日、柳川より出来申候。白髪少々まじへ、六十歳の恰好ニ成り、格別よ
ろしく成候。御歓び可被下候。柳川も、賛どもすきうつしにうつしとり候よし。此節、その下画を壁に
張り置、日々ながめ、尚又工夫を以清画いたし、秘蔵可致度(ママ)と申候。頭毛がきの故を以、彼人幸ひ
を得候事に御座候〟
〈柳川重信、本居宣長肖像の頭の「毛がき」の方は早速仕上げた。九月十六日書翰にある、以降「ずるけなし」の約束
を果たそうとしているのかもしれない〉
◯『馬琴書翰集成』②216 天保三年十月十八日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-50)
〝(『開巻驚奇侠客伝』二集)柳川の画、埒あき不申、やう/\画ハ弐の巻迄出来故、暮うり出しの間
に合可申哉、心もとなく存候。いかなれば、かゝるせわしき世をわたるやと、われながらあやしうもつ
ぶやかれ、自笑いたし候事ニ御座候〟
◯『馬琴書翰集成』②222 天保三年十月十八日 小津桂窓宛(第二巻・書翰番号-52)
〝(『開巻驚奇侠客伝』二集)画工柳川の画、埒明かね候故、暮うり出しの間に合可申候哉、是又不安
心ニ御座候〟
◯『馬琴書翰集成』 天保三年十月十八日 河内屋茂兵衛宛(第二巻・書翰番号-53)
◇②224
〝『俠客伝』稿本、追々出来、四の巻迄出来、只今五の巻ニ取かゝり居申候。もはや末少しニいたし候間、
当月中ニハ、不残出来可致候。但、画工柳川画埒明かね、やう/\二の巻迄出来申候。丁平殿、油断な
くさいそくいたし候間、どうやら間ニ合せ候半と存候へども、心ならず候〟
◇②225
〝画工のふやくそくニハ、ほとんどこまり申候。何分暮うり出しの間ニ合候様、せり立候事ニ御座候〟
〈「丁平」は河内屋茂兵衛と共に「俠客伝」の板元である丁子屋平兵衛。心配の種は依然として重信の挿絵〉
◯『馬琴日記』巻三p227(天保三年十一月朔日記)
〝柳川重信来ル。予、対面。手みやげ持参。右の人風邪の処、快方ニ候へども、持参(ママ)の鬱滞ニて筆硯
ニ不親、気分不宜候間、宗伯ニ様子見もらひ度よし也。宗伯、今日ハ別して寒熱つよく打臥居候へども、
懇意之事故、胗(ママ)脈いたし、尚又、薬を乞候間、明朝とりニ人遣し候様、及約束〟
◯『馬琴日記』巻三p232(天保三年十一月七日記)
〝柳川重信来ル。予、対面。手みやげ持参。右の人風邪の処、快方ニ候へども、持参(ママ)の鬱滞ニて筆硯
ニ不親、気分不宜候間、宗伯ニ様子見もらひ度よし也。宗伯、今日ハ別して寒熱つよく打臥居候へども、
懇意之事故、胗(ママ)脈いたし、尚又、薬を乞候間、明朝とりニ人遣し候様、及約束〟
◯『馬琴日記』三巻p232(天保三年十一月七日記)
〝柳川忰、今朝薬取罷越、柳川昨夕より腹痛いたし、困申候よし、申之〟
〝(宗伯)根岸柳川重信方へ罷越、胗(ママ)脉いたし、薄暮帰宅〟
〈体調悪化が進む〉
◯『馬琴日記』三巻p237(天保三年十一月十四日記)
〝丁子やより、手代来る(中略)重信画延引に付、暮うり出しの間に合かね可申、左候はゞ、三集は引つゞ
き綴まじき旨、丁平へ申遣之〟
◯『馬琴日記』三巻p241(天保三年十一月十九日記)
〝丁子や平兵衛来る。昨夕、根岸柳川方へ罷越候処、他行ニ付、尚又罷越、対面の上、俠客伝二輯残りさし
画の事、くはしく面談いたし候処、柳川疝積(ママ)とかく同様に候へども、推て出精いたし、当月中、不残
画終り可申旨、申ニ付、ぜひ/\当暮うり出可申、序文之事、何分御急ぎ被下候様、仕度旨、申之〟
〈丁字屋平兵衛は重信の意欲を感じ取ったのであろう。『開巻驚奇俠客伝』二輯の年内発売をするべく馬琴に序文を乞
うたのである〉
◯『馬琴書翰集成』②237 天保三年十一月二十五日 河内屋茂兵衛宛(第二巻・書翰番号-59)
〝『俠客伝』二集五冊の稿本、五冊不残出来いたし候。筆工も大かた出来候へども、画工重信病気のよし
ニて、何分画出来不申候。扨々、是ニハ困り入候。打臥候程の病気にハ無之候へども、とかくふさぎ候
て、机にかゝるがいやと申病気ニ御座候。右画工ニて差支、当暮うれ出しの間ニ合かね候ハヾ、御地ハ
春うり出し不宜よしニ付、来巳の暮迄もちこしニ可成候。左候へバ、作者の勢ひもぬけ候て、引つゞき
三集の作いたし候ちからもおち候間、来夏秋の比より取かゝり可申候旨、丁平殿ぇ申聞候処、丁平殿承
知不致、画工之義は何分ニもいたし、間ニ合せ可申候間、三集稿本、引つゞき綴りくれ候様、達而被申
候〟
◯『馬琴書翰集成』 天保三年十一月二十五日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-60)
◇②250
〝『俠客伝』二集、八月廿日頃より取かゝり、十一月廿日頃迄に、塵ものこさず稿し畢り候。壱弐の巻は、
彫刻も大抵出来候よしに候へども、何分画工、持病の疝にて気が塞ギ、机にかゝるがものうしと申候て、
一向に画キ不申候。画ヲ以飯をくはぬ人故、かやう成ルずるけ病ひも起り候事と存候。忰被頼、薬遣し
候へども、煎薬嫌ひにて、少しばかり飲候て、休薬いたし候故、実にせんかたなく候。只今さし画出来
不致候へば、とれもくれうり出しの間に合不申候間、作者の勢ひ大にぬけ、三集を引つゞき綴り候心も
なく候間、三集は、来年夏秋の比より取かゝり可申候旨、申断候処、上方板元とは申ながら、丁子やの
算盤へ大に拘り候事故、丁子や何分承知不致、ともかくもいたし、年内間に合せ可申候間、御任せ被下、
何分三集を引つゞき御綴り被下様にとくどき立、両三日前、三集の潤筆内金十枚持参致候〟
〈「画ヲ以飯をくはぬ人」「ずるけ病ひ」の画工とは柳川重信のことである。長子宗伯の調合した薬もすぐ止めてしま
う、画は仕上がらないでは、愚痴も出るというもの。経営上年内売り出しにこだわる丁子屋はなお一層気が気でない
様子〉
◯『馬琴書翰集成』②258 天保三年十一月二十六日 小津桂窓宛(第二巻・書翰番号-62)
〝(『俠客伝』二集)画工病気のよしニて、一向ニ画が出来不申候。只今画が出来かねてハ、とても当暮
うり出しニ成不申候。大坂板元ニ付、浪花ハ暮ニ出し不申候て、春出し候てハ、捌ヶ宜しからざるよし
にて、わづかの遅速のわけを以、来年巳のくれのうり出しに成候。左様ニ成ゆき候てハ、作者の勢ひヌ
ケ、はり合無之間、三集は引つゞき書候心もなくなり候ニ不、来夏秋の間、綴り候半と存、其段、丁子
やぇ申聞候処、丁子や何分承知いたし不申、ともかくも仕り、暮うり出しの間ニ合せ可申候間、何とぞ
三集、引つゞき綴り被下候へと口説立、三四日前、潤筆内金多分持参いたし、『俠客伝』三集出来次第、
引つゞき『美少年録』四輯を御書可被下候。その跡へ、『八犬伝』九輯を願候よし、勝手のミ被申候。
尤、『巡島記』は昨今被頼候事、且年来打捨置候間、急ニハ趣向も立不申候上、丁子屋のごとく、身に
しミ候板元ハ多く得がたく、今日のまゝにうけ引申候。依之、只今の内、合巻もの、今年のおこたり、
二三部稿し遣し、来早春より『俠客伝』三集を稿し候つもり、取極め候。なれども二輯年内ニ出板可致
哉、未詳。来暮迄延び候てハ、第一丁子やの懐、大ちがひニ成候間、如才あるまじく候へども、画にて
飯をたべぬ画工のずるけ病ひ、故障に成候事故、実におぼつかなく存候也〟
◯『馬琴日記』三巻p259(天保三年閏十一月十四日記)
〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。画工重信病気、とかくむづかしき様子ニ付、今日根岸に罷越、俠客伝二集
さし画残り四丁、画稿うつしとらせ、稿本の付の分、請取、罷帰候。早々稿本改ニ出し度よし申ニ付、右
画稿四丁、稿本へはり入、稿本五冊ふくろかけ拵置候間、今日わたし遣ス。残りさし画四丁は、重信婿重
政に画せ候よし也〟
〈柳川重信の病状が思わしくない。婿重政は天保四年三月八日記事〝古人柳川重信壻、鈴木左源二事柳川重正初て来ル〟
の重正と同人か。ただ柳川重政(重正)の画名は「日本古典籍総合目録」には見あたらない。しかるに渓斎英泉の
『無名翁随筆』(別名『続浮世絵類考』)柳川重信の項に〝重山は師重信の聟となれり、馬琴作の俠客伝二篇五ノ巻
の末二丁、重信病おもりし其時、重山続て画しものなり〟とあり、これは馬琴日記の「残りさし画四丁は、重信婿重
政に画せ候よし也」と吻合する。してみると、馬琴の言う重正(重政)と重山とは同人ではないのか。馬琴は来年の
十月二十一日記事に〝鈴木左源二事柳川重信〟とするまで、重正(重政)名を使用する。なぜか分からないが、馬琴
の記事中に重山名は見あたらない〉
◯『馬琴書翰集成』②265 天保三年十二月八日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-63)
〝画工重信、九十月両月ハ、外板元より急ニさし込たのまれ候春画とやらニ取かゝり、『俠客伝』のさし
画、一向ニ出来不申、十一月ニ至り、少々画キかゝり候内、同人、気分勝れ不申よしニて、又出来不申
候。これは、ずるけ病ひならんとのミ存候処、閏月より不食の病症に変じ、打臥候ニハ至らず候へ共、
日々不食故、段々おとろへ、閏十一月廿八日夜五時、物没いたし候。享年四十六。さし画の残り四丁有
之。【三の巻の内一丁、五の巻三丁】重信婿重正といふもの、若輩未熟に候へども、重信生前のたのミ
故、これニ画せ候へども、同居の事故、重信死去の取込にて、これも出来不申、やうやく三丁ハ出来候
へども、甚わろく画キ候処あり、残り壱丁ニてせり詰申候〟
〈当初、馬琴は「俠客伝」の挿画が出来ないのは柳川重信の「ずるけ病ひ」のせいだと思っていた。実は春画の仕事が
急に入り「俠客伝」に影響が及んだようだ。十一月に入って「俠客伝」にとりかかり始めたものの、閏十一月から極
度の食欲不振に陥り、遂に閏十一月二十八日死亡した。享年四十六才。残りの挿画は重信生前からの依頼で婿重正が
担当することになった。この「婿重正」は後に二代重信を襲名するので、重山のことと思われるが、馬琴はなぜか重
山と記すことはなかった。その間の事情は不明である〉
◯『馬琴書翰集成』②279 天保三年十二月八日 小津桂窓宛(第二巻・書翰番号-64)
〝画工柳川重信、九月より十月迄、外の板元に、いそぎの春画とやらをたのまれ、俄にうけ込ミ、その画
にのみ取かゝり居、『俠客伝』の前約を等閑にせし故、さし画半分ほど不出来、十一月に至り、やう
/\『俠客伝』の画を画候処、いく程もなく気分あしく塞ギ候よしニて、埒明不申、忰たのまれ、療治
いたし候へども、身にしミて薬を飲ず。そのゝち両三人に見せ、転薬両三度に及び候よし、閏十一月に
至り、不食の症に変じ、病臥ハ不致候へども、ふら/\として日をおくる内、段々におとろへ、閏十一
月廿八日の夜五時に身まかり候。享年四十六也。『俠客伝』のさし画、三の巻の内【くどき画稿】壱丁
・五の巻のさし画三丁、四丁残り、不画有之。此四丁の内弐丁ハ、重信婿重政、弱官未熟ながら、重信
柳川氏さしづいたし、弐丁画せ候。五柳村のさし画など、主従の差別もなく、大不出来ニて、にが/\
敷候得ども、無是非、そのまゝにほりニ出し候処、重信没し候故、此取込にて、代画も今に不出来候。
ケ様之仕合故、年内出板いたしがたく候。然ル上は、来巳の十二月うり出しにいたし候。大坂板元にハ
勝手に候へども、左候てハ合板の丁平、ふところ大ちがひにて、世話いたし候かひもなく候間、無理に
おしすくめ候て、大坂・江戸共、来正月中うり出し申度よし、むなだくみにて、筆工、彫刻出来の分、
先月より校合、今以最中也。画ハ口画三丁・さし画弐丁、彫刻出来致し候のミ。筆工ハ五冊不残、彫刻
出来いたし候内、四の巻迄、追々校合いたし遣し、此節すり込せ候へども、さし画一丁、いまだ板下出
来不申、不都合、御賢察可被成候。弥来正月のうり出しのつもりニは候へども、大坂板元不の字を可申
哉難斗、いまだ何とも取極め候てハ申がたく候〟
〈柳川重信の後を引き継いだ重正(重山)の挿画は「主従の差別もなく、大不出来ニて、にが/\敷」思うのだが、い
かんともしがたかった。この時点で挿絵一丁まだならず、年内の出版は無理、それでも江戸の板元丁子屋平兵衛は、
経済的事情から正月出版を目指す。だが、大坂では江戸と違い、年の暮れのほうが勝手がよいという理由で、板元河
内屋茂兵衛は翌四年の暮れ出版を望んでいた。しかしこの商習慣の相違が調整された様子はない。ともかく大急ぎで
「俠客伝」の仕上げにかかっていたのである。このあたり丁子屋平兵衛の執念が事態を動かしていたのである。この
年、画工の歌川国安と柳川重信が亡くなって、それぞれ北尾重政二代と柳川重正(重山)に代わったが、どうも力量
に問題があって国安や重信ほどの出来を期待出来ない、その上江戸と大坂の思惑違いもあって出版時期がハッキリし
ない、そのため馬琴の苛立ちはなお一層募っていったようだ〉