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☆ せきえん とりやま 鳥山 石燕浮世絵師名一覧
〔正徳2年(1712) ~ 天明8年(1788)8月3日・77歳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」  姓名 佐野豊房  別称 船月堂・零陵洞・玉樹軒・月窓(月窗)・飛雨郷・梧柳庵・石散人  ☆ 宝暦初年(1751~)    ◯『塵塚談』〔燕石〕①282(小川顕道著・文化十一年(1814)記)   〝歌舞妓役者写真画の事、宝暦始の頃、画工鳥山石燕なる者、白木の麁末なる長サ弐尺四五寸、幅八九寸    の額に、女形中村喜代三郎が狂言の似顔を画して、浅草観音堂の中、常香炉の脇なる柱へ掛たり、諸人    珍敷事に沙汰に及し也、是、江戸にて似顔画の濫觴成べし、其頃迄は、一枚絵とて、役者一人を、糊入    紙を三ッ切にして、狂言の姿を色どり、三四返摺にして、肩へ、市川海老蔵、瀬川菊之丞抔と銘を記す    のみにて、顔を少しも似ず、一枚四ヅゝに売たり、近頃は、右体の一枚絵はさらになし、浮世草紙迄も    似面になれり、錦絵と名付、色どりも七八返摺にする也、歌舞妓役者に限らず、吉原遊女、水茶屋女、    角力取迄も似面絵にしてうる事になれり〟    〈小川顕道曰く、役者似顔絵の濫觴は、宝暦始め、浅草寺に奉納された鳥山石燕の絵馬、女形中村喜代三郎の肉筆画で     あると〉  ☆ 宝暦九年(1759)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦九年刊)    鳥山石燕画『歳旦試筆』宝珠数交画九図 海北長嶌八図 一語一図 冝長画一図          ◎◎子興画二図 石燕画〔豊房印〕一図    ☆ 安永三年(1774)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安永三年刊)    鳥山石燕画    『俳諧午のいさみ』一巻 石燕社中書画     久英筆 石燕叟筆 亀白画 田川画 石寿画 子興画 萬亀画 祇徳画 其鳳画 草志画 月沙画     燕鳥画 紫◎ 燕二画 燕川舎石鳥 鳥燕十画 華藍(重政也)梅窓耕雨自画 春◎画 春◎     吾山画 石賀画 風雲亭東光自画 山里庵而◎ 英時画 ◎喬写 川教画(燕二同人歟)     羽石改北艸塘露谷 以上石燕門人社中の寄合書き也     『石燕画譜』彩色二巻 鳥山石燕画 校合門人子興/石鳥/月沙    『鳥山彦』   二巻 鳥山石燕豊房画    ◯『増訂武江年表』1p191(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「安永三年」)   〝画人鳥山石燕豊房、「鳥山彦」と云へる絵本二巻を著はす。フキボカシの彩色摺を工夫せしは此の本を    始めとする由、安間貞翁の話也(石燕は周信の門人なり。板刻の画本多し)〟      ☆ 安永四年(1775)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安永四年刊)    鳥山石燕画    『生花百枝折』前編一冊 応書林需石燕叟図〔豊房〕     ◎亭写 祇徳画 東都金龍下志菴素庭自図 好文堂雪仙画 藤雪仙秀信図 直澄画 川鳳翼挿花並画    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(安永四年刊)   〔新板道中名所双六〕画工未詳「安永乙未春新板 西村屋与八板」    〈『日本絵双六集成』は「同じ図柄を筆写した双六に鳥山石燕筆とあるので、これも石燕作に間違いない」とする。    (都立)の題名は〔東海道五十三次双六〕〉  ☆ 安永五年(1776)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安永五年刊)    鳥山石燕画『百鬼夜行』前編三冊 鳥山石燕豊房 校合門人子興/月沙 雪中菴蓼太序 遠州屋弥七板    ☆ 安永六年(1777)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安永六年刊)    鳥山石燕画『水滸画潜覧』三巻 鳥山石燕豊房筆 校合門人子興/月沙/燕十 雪中庵蓼太序     ☆ 安永七年(1778)    ◯「日本古典籍総合目録」(安永七年刊)   ◇絵本    鳥山石燕画『絵事比肩』三冊 鳥山石燕画    ◯『南畝集 四』〔南畝〕③195(安永七年六月賦)(漢詩番号553) 〝雨中過石燕丈人梧柳庵 碧柳千条梧十尋 池亭更入芰荷深 自逢風雨多幽興 石舞零陵古洞陰〟    〈石燕丈人は鳥山石燕と思われる。住居を梧柳庵と呼んだらしい。折りからの風雨にいっそうゆかしさを増した石燕の     庵を、南畝は訪問したのである〉    ◯『反古袋』〔鼠璞〕付録2p7(編者未詳・享保~天明二年記事)   (「続未刊随筆談(二)」中村幸彦著)   〝石燕主にて、寝ぼけ師を招て、蓮飯を振廻ける由、同僚には平賀氏を召しけるとぞ、席にて一作有りけ    るよし、人の見せけるに、       雨中過梧柳庵           南 畝      碧柳千条梧十尋 池亭更入芰荷深 自逢風雨多幽興 石舞零陵洞裏陰       荷葉飯をよめる         四方赤良     はちす葉のにごらぬ水にときあけて焚ぬる飯は玉をあざむく〟       〈中村幸彦はこの記事に〝石燕は歌麿や恋川春町の師画家鳥山石燕、平賀はどうやら平賀源内らしい。役者が揃い過ぎ     ているが、作は如何であろう〟としている。「寝ぼけ師」は寝惚先生で大田南畝(蜀山人)。この詩は大田南畝側の     資料にもあり、『大田南畝全集』第三巻「南畝集四」に「雨中石燕丈人梧柳庵」(漢詩番号553。但し結句は〝石舞     零陵古洞陰〟)として収録されている〉    ◯『四方のあか』〔南畝〕①134(安永七年十月十五日)  (狂文「日ぐらしの日記」は牛込~駒込~日暮里遊山記。十月十五日は遊山当日)  〝あるまばらなる垣のやぶれより(修業者の)白き腕さしいでて布施するさま、近比石燕翁のゑがける百   鬼夜行の図に似たり。錦江おかしがりて      石燕にみせたらすぐにかきねから手ばかり出して内にまちぶせ〟    〈石燕の『百鬼夜行』は安永五年刊。後出のように、安永八年刊行の『続百鬼夜行』は南畝の序。錦江とあるのは春日     部錦江という人で、南畝の風雅の友であった〉    ◯『南畝集 五』〔南畝〕③298(安永七年十月賦)(漢詩番号866)  〝題石燕丈人幽居  庭陰都入画 林景好山水 一望足山水 清音無尽時〟    〈庭もまた画題とするに足る風情のようだ〉    ☆ 安永八年(1779)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安永八年刊)     鳥山石燕画『続百鬼夜行』三巻 鳥山石燕豊房 校合門人子興/燕二/燕十 遠州屋弥七板    ◯『月露草』〔南畝〕⑱3・4・15(安永八年八月十三~十七日明記)  (安永八年八月十三日から十七日にかけて、南畝の呼びかけで、高田馬場五夜連続月見の宴が行われた。    『月露草』は参加した諸家の詩歌連俳・狂詩狂文狂歌を集めたもの。石燕は挿画を門人の燕寿、石柳女、    石仲女等とともに担当した)   〝よもに名のたかたのばゞに見し月のひかりをのこす松のことの葉 源孟雅     (「松」の絵)石燕画〟   〝多計雄良我阿止毛比都礼天真玉如都久余乎於志美万登為須羅慈母 呉竹     (「月に萩と薄」の絵)石燕画〟   〝月弓のやまとから歌ひきつれてみなよる筈とまどゐするかな 黒人     (「弓引く武士」の絵)石燕画〟    〈源孟雅は浜辺黒人。この風流な詩歌集の挿絵を、石燕派が担当することになった経緯は未詳である〉    ◯『四方の留粕』〔南畝〕①188(安永八年刊)  (南畝の狂文「続百鬼夜行序」)   〝今此続編百鬼夜行も、石燕叟が絵そらごとを見て〟    〈前出の「丈人」も「叟」も尊称〉    ☆ 安永九年(1780)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安永九年刊)    鳥山石燕画『俳諧はつね』一巻     〝久英書始 行年六拾七歳石燕画 十二才石柳女 行年六拾八歳石燕筆 十三才筆子      少年石室 十二才石◎ 十四才座之介 東林画 石子画 其鳳画 燕雨筆 あそを画      子興画 胡燕 若水胡燕画 川教画 燕二書 両節吟 志水燕十画 麻根房漁柳自画      石賀画 燕寿画 石仲女画 東梧画 喜久也書 黙然斎有桑画      安永九是やはつねの初細工〟    ☆ 天明元年(安永十年・1781)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天明元年刊)     鳥山石燕画『百鬼夜行拾遺』三巻 鳥山石燕豊房画 校合門人 子興 燕二 遠州屋弥七他板    ☆ 天明三年(1783)    ◯『万歳狂歌集』「夏歌」〔江戸狂歌・第一巻〕四方赤良・朱楽菅江編・天明三年(1783)刊   〝題しらす  鳥山石燕    蚊と蚤にゆふべも肌をせゝられておゐどはまだら目はふさがれず〟    ☆ 天明四年(1784)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天明四年刊)    鳥山石燕画    『通俗画図勢勇談』三巻 零陵洞鳥山石燕七十三翁豊房図 志水燕十著 蔦屋重三郎板                校合 子興/燕示/石子     『百鬼徒然袋』  三巻 七十三翁鳥山石燕豊房画 校合門人子興/燕示/石調(「文化二年求板」とあり)     〈〔目録DB〕は「百器徒然草」〉     ☆ 天明七年(1787)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天明七年刊)    鳥山石燕『俳諧ひつじ藁』一巻 石燕社中   ◇狂歌(天明七年刊)    鳥山石燕画『麦生子』一冊 鳥山石柳女画 歌麿画 七十七翁石燕戯画 蔦屋重三郎板         (巻末に蔦の本の哥麿ト署し狂歌あり、歌麿蔦屋の食客タリシ事◎明ラカナリ)    ☆ 天明八年(1788)(八月三日没・七十七歳)  ☆ 天明年間(1781~1789)    ◯『武江扁額集』(斎藤月岑編・文久二年(1862)自序)   (天明年間(1781~1789)の奉納。画題記さず。絵柄は草摺引き)    落款 〝鳥山石燕豊房画〟    識語 「湯島天満宮」「天明ノ頃也。文久癸亥ノ災ニ罹リテ今ナシ」    〈「文久癸亥ノ災」とは、『武江年表』によれば、文久三年(1863)三月十六日の火災〉
   『武江扁額集』「草摺引き」上図鳥山石燕豊房画 (国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」)    ☆ 没後資料    ☆ 寛政十二年(1800)    ◯『浮世絵考証』〔南畝〕⑱445(寛政十二年五月以前)   (「喜多川歌麿」の項)   〝(歌麿)はじめは鳥山石燕門人にして狩野派に学ぶ〟    〈南畝はこの『浮世絵考証』に石燕の項目を設けていない。どうも浮世絵師と見ていないのだ〉    ☆ 文化十一年(1814)    ◯『塵塚談』〔燕石〕①282(小川顕道著・文化十一年成立) 〝歌舞伎役者写真の事、宝暦始の頃、画工鳥山石燕なる者、白木の麁末なる長サ弐尺四五寸、幅八九寸の    額に、女形中村喜代三郎が狂言の似顔を画して、浅草観音堂の中、常香炉の脇なる柱へ掛たり、諸人珍    敷事に沙汰に及し也、是江戸にて似顔画の濫觴成べし、其頃迄は、一枚絵とて、役者を一人を、糊入紙    を三ッ切にして、狂言の姿を色どり、三四遍摺にし、肩へ、市川海老蔵、又は瀬川菊之丞抔と銘を記す    のみにて、顔は少しも似ず、一枚四文づつに売たり、近頃は、右体の一枚絵は更になし、浮世草紙迄も    似面絵になれり、錦絵と名付、色どりも七八遍摺にする也、歌舞伎役者に限らず、吉原遊女、水茶屋女、    角力取迄も似顔絵にしてうることゝなれり〟    ☆ 文政元年(文化十五年・1818)    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「根津 古人・浮世画」〝石燕 鳥山[居]〟〈[居]は見せ消ち〉    ☆ 天保四年(1833)   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③295(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝鳥山石燕【(空白)年中】     俗称(空白)、住居(空白)、号豊房、    鳥山石燕は一時の聞人なり、絵本あまた出せり、委き伝追て考べし      絵本百鬼夜行  三編迄 十五冊      水湖画伝        三冊〟    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝鳥山石燕 安永〈天明〉年中ノ人     俗称(空白)住居(空白)     号 (空白)名  豊房    〈月岑云〉狩野〈玉燕〉周信の門人なれど、浮世絵に等しき絵也。塵塚談に〔明和〕〈宝暦〉の頃、浅    草観音堂〈の中〉定香炉の〈脇なる柱〉上に、歌舞伎〈女形〉役者中村喜代太郎の〈狂言の〉似顔を、    〈長サ二尺四五寸、幅八九寸の額に〉画て奉納せし由いへり〈諸人珍敷事に沙汰せし也〉是似顔画の始    り歟。門人、子興、石鳥、月沙等あり。    小石川氷川社に樊会門破、湯島に草摺引、雑司谷鬼子母神に大森彦七等の額あり。      絵本百鬼夜行  三篇迄十五冊      水滸画潜覧   三冊      鳥山彦〈彩色摺〉弐冊(或人云、此時ふきぼかしの板行を始しむと。安永三午年板也。彫工縁交堂                 東英 摺工靄窓南李とあり)      絵事比絹〟    ☆ 嘉永四年(1851)    ◯『古画備考』二十八「名画十六 至享和」中p1150(朝岡興禎編・嘉永四年四月二日起筆)   〝鳥山石燕 住根岸、浮世絵、喜多川歌麿ノ師ナリ、    水滸画潜覧 序寥太、安永六年版行、校正門人【子與、月仙】    画図勢勇談 天明三年板、零陵堂鳥山石燕豊房、七十四歳画、    安永三年、石燕鳥山彦といへる絵本二巻をあらはす、フキボカシの彩色摺を工夫せしは此本を始とする    由、安間貞翁の話也、周信の門人なりと云云、武江年表     城南七寺、書画会記、    方今輯凞之化下洽黎庶、不但含哺皷腹、三都之間、艶玩書画、戸荊関、家顔柳、闘奇誇妙、寔太平之楽    事也哉、名府於三都也、乃魯衛伯仲之間、而韻事却有不遜者矣、寛政乙卯之秋七月吉日、府下及近邑之    好事家、袖巻携軸、咸集于城南七寺、自宋元已下数百幅、山水、花卉、翎毛、人物、篆隷行草、靡不具    備、乃不出于一堂之中、而臥游臨池之楽極矣、一時之勝会、遂至伝播于三都、即必有識出乎国家善治之    緒余者、然此会也、不庶幾称揚風化之万分也耶、因斯記梗概、以備他日談柄、是日非携書画者、不許預    此席、如旁観者、非此例云、     乙卯初秋朔、文和識于城南七寺長福精舎      蓬瀛勝会 寛政七年也〟    ☆ 嘉永年間    ◯『画家大系図』(西村兼文編・嘉永年間以降未定稿・坂崎坦著『日本画論大観』所収)
   「鳥山派画系」    ☆ 文久二年(1862)    ◯『宮川舎漫筆』〔大成Ⅰ〕⑯318(宮川政運著・文久二年刊)   (「東錦絵はじまり」の項)   〝(役者肖像画の創始を勝川春章とする説を紹介した後に)    政運云、歌舞伎役者似顔は、鳥山石燕といえる画工が始めなるべし。此頃塵塚談といえるにしるしある    を其まゝ出す。    歌舞伎役者写真画の事、宝暦のはじめの頃、画工鳥山石燕なるもの、白木の麁末なる長サ二尺四五寸、    幅八九寸の額に、女形の中村喜代三郎が狂言似面(ニガホのルビ)を画して、浅草観音堂の中常香炉の脇な    る柱に掛たり。諸人珍敷事とて沙汰に及びしなり。是江戸にて似顔絵の始めなるべし。其頃までは一枚    絵とて、役者一人を糊入紙を三ッ切にして、狂言の姿を色どり三四遍摺にし、肩へ市川海老蔵、瀬川菊    之丞などゝ銘を印すのみにて、顔は少しも似ず、一枚四銭ヅヽに売たり。近年は右体の一まい絵は更に    なし。浮世草紙迄も似顔絵になれり。錦絵と名づけ拾三四へん摺にするなり。歌舞伎役者にかぎらず、    吉原遊女水茶屋女、又は相撲取まで似顔絵にして売事になれり〟    ☆ 慶応元年(元治二年・1865)    ◯『俗事百工起源』〔未刊随筆〕②93(宮川政運著・元治二年記事)   (「似顔画のはじまり」の項)   〝塵塚談に云、歌舞伎役者写真画の事は、宝暦の始の頃、画工鳥山石燕と云へる者、白木の粗末なる長さ    二尺四五寸幅八九寸の額に、女形中村喜代三郎か狂言似顔を画して、浅草観音堂の内、常香爐の脇なる    柱へ懸たり、諸人珍敷事とて沙汰に及しなり、是江戸にて似顔画の始なるべし、其頃迄は一枚絵とて役    者を一人をのり紙を三つ切にして、狂言の色どり三四遍摺にし、肩へ市川海老蔵、又は瀬川菊之丞など    と銘を記すのみにて、顔は少しも似ず、壱枚四文づつに売たり、近年は右体の壱枚絵は更になく、浮世    草紙迄も似面絵になれり、錦絵と名付、色どりも七八遍摺にするなり、歌舞伎役者に限らず、吉原遊女    水茶屋女角力取迄も似顔絵にして売ることゝなれり、右宝暦元年より当元治二丑年迄百十五年と成、     政運が云、当時似顔に名を得しものは、歌川豊国といふ、其外にも国芳国貞等の画人あり、又今は摺     の遍もなか/\七八遍にあらず、廿三四遍ずりに及び、代料も壱枚三拾六銭の分は至て粗末なり、是     等にても世の奢おもひやるべし〟     〈『塵塚談』は小川顕道著、文化十一年の成立。『燕石十種』第一巻所収。当ホームページ「燕石十種」参照。僅かだ     が相違あり〉    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「鳥山氏系譜」の項 ⑪186
   「鳥山石燕系譜」      ◇「鳥山石燕」の項 ⑪208   〝名豊房、狩野国〈玉カ〉燕、周信の門人なれど、浮世絵に等しき画なり。塵塚談に、宝暦の頃浅草観音    堂の中定香炉の脇なる柱に、歌舞伎女形中村喜代太郎の狂言似顔を長さ二尺四五寸の額に画て奉納せし。    諸人珍識事に沙汰せし也。     絵本百鬼夜行  十五冊    絵本比絹        水滸画潜覧  三冊     鳥山彦  彩色摺弐冊〔割註 或云此時うきぼかしの板行を始とせしと云。安永三年板也。彫工縁交                   東英 摺工鶴斎南季とあり〕〟  ☆ 明治十四年(1881)    ◯『百戯述略』〔新燕石〕④228(斎藤月岑著・明治十一年成立)   〝ふきぼかし板木の事は、狩野玉燕の門人鳥山石燕豊房と申もの、安永三午年「鳥山彦」と申、二巻の絵    本をあらはし候砌、始て工夫いたし候より、追々に世に弘り、今に相用申候〟    ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   ※( )はグループを代表する絵師。◎は判読できなかった文字   〝雅俗遊戯錯雑序位混淆     (岩佐又兵衛) 小川破笠 友禅山人 浮世又平 雛屋立甫 俵屋宗理 耳鳥斎 英一蝶 鳥山名(ママ)燕     縫箔師珉江〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝明和 鳥山石燕    名豊房、初め狩野周信に学び、後邦画を慕ひて、遂に一家を興し、其妙所を究む。殊に鳥山彦とゆへる    絵本を著して名有り【日本にてボカシ彩色は此本にはじむ】〟    ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p101(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝鳥山石燕    名豊房、狩野国燕周信ノ門人ナレド、浮世絵ニ等シキ画ナリ、浅草観音堂歌舞妓役者ノ似顔ヲ奉納セシ    ト、宝暦年中ノ人〟     ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『古代浮世絵買入必携』p5(酒井松之助編・明治二十六年刊)   〝鳥山石燕    本名 豊房  号〔空欄〕  師匠の名〔空欄〕  年代 凡百年前より百二三十年迄    女絵髪の結ひ方 第五図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 絵本、肉筆    備考  〔空欄〕〟    ◯『浮世絵師便覧』p240(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝石燕(セキエン)    鳥山氏、名は豊房、狩野周信門人、フキボカシの工夫をなす、画本鳥山彦あり、天明六年死、七十六〟     ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   ◇「歌川豊春伝」p73   〝按ずるに鳥山石燕は、名は豊房、俗称詳ならず、狩野法眼周信の門人にして、よく画く、後に一機軸を    出だし、終に浮世絵の大手となる。天明三年鳥山彦といえる絵本を画き、始めてふきぼかし摺の工夫を    なし(ふきぼかしは一に渲摺という。板木に色料を施しおき、軽くこれを拭い、紙をあてて強く摺るを    いう。かくすれば天水の暈光、衣裳の染分の所など、その分界*藹然として、あるかなきかに見えて、    頗る艶彩をあらわすものなり)、大に行われ、翌年又画図百鬼徒然袋を画き、ふきぼかし摺にして発行    せり。その他通俗画図勢勇談、絵本百鬼夜行、絵事比絹、水滸画伝潜覧、石燕画譜等の、絵本読本の類    を画く多し。類考に塵塚談を引きて、宝暦のころ浅草観音堂の中、定香炉の脇なる柱に、歌舞伎女形中    村喜代太郎の狂言似顔を、長さ二尺四五寸、幅八九寸の額に画きて奉納せしが、諸人珍敷事に沙汰せし    なりと。又東都社寺額面略記(斎藤月岑著)を閲するに、雑司ヶ谷の條に大森彦七(石燕豊房)、小石    川氷川社に樊噲(ハンカイ)門破り(石燕)、湯島天神社に草摺引(石燕)とあり。その没年詳ならず。天明    六年刊春興の発句集のさし画に、七十六翁石燕筆とあり。一説に此の年石燕没せり、追悼の狂歌集あり    とぞ。かの有名なる喜多川歌麿豊章は、この石燕の一子なり。*藹然は髣髴に作る佳也〟     ◇『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p122   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又    兵衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。    中古にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛    飾北斎のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時    の風俗にして、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐    なり、雪舟なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのず    から力あり。これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり〟    〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そして     それを保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その     題材故に陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけ     た「骨法筆意」があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉     守一、清長、歌麿、北斎、そしてこの文にはないが、歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉    ☆ 明治三十年(1898)  ◯『読売新聞』1月20日記事   (小林文七主催「浮世絵歴史展覧会」1月18日-2月10日)   〝陳列中優逸にして 一幅百円以上三百余円の品    (第百七番)北尾重政筆 つみ草の図〟〈「番」は陳列番号〉  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(31/103コマ)   〝鳥山石燕【宝暦元~十三年 1751-1763】    名は豊房、狩野周信の門弟にて、後ち一家をなせり、宝永の初年、俳優中村喜代三郞が狂言の似顔を、    白木の長さ二尺四五寸、幅八九寸の額面に画きて、これを浅草観音堂の常香炉の脇なる、柱に懸けたる    を諸人見て、いと珍らしき事なりと沙汰しけり、是れ似顔絵の濫觴なるべしと云ふ、天明六年没す、享    年七十六。      石燕が画ける板本の主なるもの左の如し     『絵本百鬼夜行』『絵本比絹』『水滸画潜覧』『鳥山彦』    (本伝は『浮世絵類考』か『塵塚談』等に拠る)〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『浮世画人伝』p51(関根黙庵著・明治三十二年刊)   〝鳥山石燕(ルビとりやませきえん)    石燕は、本姓佐野氏、名は豊房、はじめ狩野周信の門に入り、後(ノチ)出でゝ浮世絵に変じ、宝暦の頃、    各神社仏殿に、絵馬(すなはち扁額)を奉納せんと志し、先づ氷川明神の社には、樊噲(ハンカイ)破門の図    を画きて掛け、湯島天神の社には、時致、義秀の草摺引を図し、雑司ヶ谷の鬼子母神には、大森彦七の    図を掲げたり。浅草寺に、俳優中村喜代三郎の像を掛けたるも、その一なり、かくて此の肖像、当時珍    らしかりければ、世評極めて高く、大(オホイ)に画名を顕(アラ)はせり。此の後『百鬼夜行』『絵事比絹』    『画図勢勇談』『水滸画伝潜覧』『石燕斎画譜』など、絵本の刊行数種に及びたりしが、中(ウチ)に『鳥    山彦』と題するは、安永三年の印行なるが、その彩色摺に、拭(ツキ)コガシと称する隈どりを発明せしは、    恰も刷毛(ハケ)を以てするが如くなりしかば、見る人最(イト)も奇と称せり。蓋(ケダ)し此の発明は、彫工    緑文堂東英、摺工鶴富南季が尽力によるといふ。天明八年八月三日、病みて歿し、浅草阿部川町新光明    寺に葬られぬ。法名、画照院月窓石燕居士とや。    辞世の句と聞えしは、      隈刷毛の消えぎはを見よ秋の月    門人登燕、師の風を得て、狂画に巧みなりきとぞ〟  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『見ぬ世の友』巻十(東都掃墓会 明治三十四年五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻6-13 38/76コマ)   〝鳥山石燕之墓  兼子伴雨     浅草永住町(旧名新寺町)浄土宗 攝取山新光明寺 左手惣卵塔の中央に有り      総高さ五尺計 小松なれ共拝掃稀なるを以て草苔滑らかなり    (表)「水無月の頃(以下三行読めず)七十六翁石燕        秋月落水別世界        隈刷毛の消ぎはを見よ秋の月」    (台)「鳥山」「佐野」     鳥山石燕  兼子伴雨    鳥山石燕、本姓佐野氏、名豊房、始め狩野玉燕周信を師とす、故に石燕の号あり、後出て浮世絵に変ず、    喜多川歌丸恋川春町等皆其門に出づ、宝暦の頃各神社仏殿に絵馬を奉納せんとし、先づ小石川氷川明神    の社に樊噲破門の図を画き、湯島天神の社には時致義秀草摺引の図を掲げ、雑司ヶ谷鬼子母神には大森    彦七の図を納めたり、就中世評の高かりしは浅草観音堂の定香炉の傍なる柱へ長さ二尺四五寸・巾八九    寸の粗造なる白木の額へ歌舞伎女形中村喜代三郞(【喜代三には非らざるか、喜代三は屋号伊勢屋俳名    花暁と云ふ、宝暦五年江戸市村座へ出勤せる上方役者なり】)の狂言似顔を画きて奉納す、是れ東都役    者似顔の濫觴なるべしと塵塚談に見へたれども疑はし、鳥山彦を刊行す、其彩色摺は今も世に伝ふる拭    ボカシと称する隈取りの板木色ザシにて、恰も刷毛を以てするが如くなりしかば、見る人最も奇と称せ    り、蓋し此法は彫工緑文堂東英・摺工鶴富南季が尽力に拠るものなり、其他著す所絵本百鬼夜行、絵事    比絹(ママ)、画図勢勇伝(ママ)、水滸画潜覧、石燕斎画譜等にして、鳥山彦、百鬼夜行殊に愛重せらる、天    明八申年八月三日没す、享年七十六、浅草永住町【旧名新寺町】浄土宗攝取山新光明寺に葬る    石燕が墳墓三面悉く法名を刻す、然れども裏面の法名は鬼籍に所見なきを以て何者たるを知るに由なし、    但し石燕以前の者なり、右側は石燕以後にて正心院哀誉宗愍居士、俗名佐野宗七は奥坊主を勤めし者に    て、明治九子年十月七日没す、今は僅に宗七の妻某が毎年一二度展墓するのみなりとぞ、又左側には、     天明八申天(ママ)八月五日 画照院月窓石燕居士  安政六午天正月五日 実相院通誉宗円居士     安永七戌天五月十三日  順光院緑誉随情大姉            大円院鏡誉永寿大姉     文化五辰天六月廿三日  究意院岸誉遊心居士  文化二丑天二月二日 冬幻智法童女    と鐫たり、画照院は石燕にて順光院は妻なり、究意院は佐野宗盛事、実相院佐野宗円事、大円院は没年    なきを以て不詳なれども、宗円の妻なるべし、冬幻智法は宗盛の子にして鬼籍に十二月七日とあり〟    〈「絵事比絹」は「絵事比肩」、「画図勢勇伝」は「画図勢勇談」が正しい〉    ☆ 大正年間(1912~1925)  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇小林亮一所蔵    鳥山石燕「群童争戯図」七十八歳石燕豊房筆/「鷹梅図」七十三翁石燕筆 狩野風    石燕、歌麿、春町合作「美人鍾馗図」鍾馗七十七翁石燕、美人歌麿、了髪春町  ☆ 昭和年間(1926~1987)    ◯『狂歌人名辞書』p111(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝鳥山石燕、本姓佐野氏、名は豊房、東都の浮世絵師にして歌麿の師(万載集に石燕の狂歌あり)、天明    八年八月三日歿す、年七十六、浅草新光明寺に葬る〟    ◯「集古会」第百八十三回 昭和六年十一月(『集古』壬申第一号 昭和7年1月刊)   〝三村清三郞(出品者)鳥山石燕 彩画 梅花小鳩図 一幅〟  ◯『浮世絵師伝』p110(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝石燕    【生】正徳三年(1713)   【歿】天明八年(1788)八月三日-七十八    【画系】狩野玉燕(周信)門人【作画期】宝暦~天明    鳥山氏、本姓佐野、名は豊房、船月堂・零陵洞・玉樹軒・月窓等の号あり、すべて人物画をよくし、又    妖怪の図に妙を得たりき、一説に、フキボカシと称する着色法は彼の創案なりと云へれど、実は然らざ    るものゝ如し。    彼は宝暦年間に、女形俳優中村喜代三郎が似顔を扁額に画きて、浅草観音堂に奉納せしに、諸人甚だ珍    らしき事に沙汰しける由『塵塚談』に見えたり、其他二三の神社に武者絵の扁額を奉納せしことあり、    錦絵は画かざりしが絵本類は大略左の如し。      ◯石燕画譜             ◯鳥山彦(安永三年版)     ◯画図百鬼夜行(同五年版)     ◯水滸画潜覧(同六年版)     ◯絵本比肩(同七年版)       ◯百鬼夜行拾遺(同十年版)     ◯画図百器 徒然袋(天明四年版)  ◯画図勢勇談(同四年版)    彼は又俳諧を嗜み、宝暦乃至安永年間に於て、数多の絵入俳諧本に門人等と共に、自詠の句並びに挿画    を入れたり。辞世は「隈刷毛の消ぎはを見よ秋の月」とし、法名は「画照院月窓石燕居士」といふ、浅    草永住町、新光明寺(浄土宗)に葬れり。彼が門下より、長喜・春町・歌麿等の如き名匠を出だしゝは、    蓋し其の薫陶宜しきにも因りしものならむ〟    ◯『ほんの話』(三村竹清著「書物展望」2-9・昭和七年(1932)九月)   (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「石燕の雅号」   〝俳書東西雑化、絵入俳書にて、英窓紀逸の題字あり(序文の一部あり:本HP省略)雪と紅葉の句をあつ    めしものなり、後篇出でしや否を知らず、調べても見ず、画は嵩谷、風窓、蘭谷、常佐、石燕にて、石    燕最も多く、末に石燕子興燕十などの句も見えたり、石燕俳諧の道に遊びて、辞世の句をも伝へ、俳書    に画けるも多き由なれど、此の書には色々の別号を用ひて、飛雨郷、梧柳庵、零陵主人、月窗主人、石    散人などとあり、この初の二つの号は、石燕伝中に洩れしかと思はれし故、記し置けるなりけり     初雪は花の手本に降やらん   石燕     酒いれぬ寺もゆるしてもみぢ哉 子興     紅葉見の顔や夕日の落る頃   燕十〟    〈「東西雑化」は未詳。「日本古典藉総合DB」には「東西雑記【写】竹清」とある。あるいは「東西雑化」は「東西雑記」の     誤記とも考えられなくもないが、未確認〉  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「安永三年 甲午」(1774)p129   〝正月、鳥山石燕の『彩色烏山彦』二冊出版(本画彩画と角画ありて彩色摺なり。其彩色は世にいふフキ    ボカシなりといふ。安間貞翁の話として武江年表に載せあれども、フキボカシは疑はし。明和四年版の    大阪の画工北尾雪坑斎の画ける『彩色画選』はフキボカシの彩色なり。それ等とは大いに趣きを異にし、    普通の彩色摺なり)〟     ◇「安永六年 丁酉」(1777)p133   〝正月、鳥山石燕の『水滸画潜覧』といへる水滸伝の画本出版〟     ◇「安永七年 戊戌」(1778)p134   〝正月、鳥山石燕の『絵事比肩』出版〟、     ◇「天明元年(四月十三日改元)辛丑」(1781)p137   〝正月、鳥山石燕の『百鬼夜行拾遺』出版〟     ◇「天明四年 甲辰」(1784)p140   〝正月、鳥山石燕の『百鬼徒然袋』『通俗図画勢勇談』出版〟     ◇「天明八年 戊申」(1788)p146   〝八月三日、鳥山石燕歿す。行年七十七歳。(石燕は本姓佐野、名は豊房、零陵洞の号あり。初め狩野玉    燕に学び、純浮世絵師にあらざる如きも、其の門人には浮世絵師として大家歌麿を始めとして、長喜・    春町の如き傑物を出だせり。其没年に就いては区々の説あるも、天明四年春出版の『通俗画図勢勇談』    及び『百鬼徒然袋』に七十三翁と署せり。此二書正月の出版なれば、其前年に画きたるものなるを知る    べく、七十三翁と記せるは其前年天明三年の意なるか、将た其翌年の出版を見越して記せるものなるか    明かならざるも、此年天明八年に七十七歳にて歿せしことは信を措くに足るものゝ如し)〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「浅草区」光明寺(永住町四七)浄土宗   〝鳥山石燕(画家)名豊房。宝暦の頃神社に絵馬を掲げて画名を博せり。天明八年八月三日歿。年七十六。    画照院月窓石燕居士。     辞世 隈刷毛の消えぎはを見よ秋の月〟    〈『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」は享年を七十七歳とする〉    △『増訂浮世絵』p119(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝鳥山石燕    石燕は本氏を佐野といひ、名を豊房と称し、天明八年八月三日七十七歳で没した。その画蹟は世い多く    はない。然し門人に歌麿あり、春町、子興があるので、世に知られて居る。始め狩野玉燕に学び、後に    浮世絵を画いたのである。石燕の遺作として、猿を画いた紙本着色の肉筆画があるが、狩野の風趣を帯    びて、然かも狩野の風とは、趣の違ふ所もあつて、石燕その人の画風の因つて来る所を知ることができ    る。また風俗画には、紙本に大夫を画いて、七十二翁石燕戯画として、零陵と読み得る印を捺したもの    がある。可なり強い線を用ひたもので、珍らしいものである。    石燕は神社仏寺に絵額を奉納して、大に世人に名を知られたといふことである。宝暦頃に浅草観音堂に、    歌舞伎女形中村喜代太郎の狂言の似顔を寄進した時には、諸人珍らしきことに沙汰し合つたといふこと    である。なほ雑司ヶ谷鬼子母神祠に大森彦七図、小石川氷川神社に樊噲破門図、湯島天神に時致義秀草    摺引図等の絵額を奉納して益々名声を得たといふことである。なほ長野県別所常楽寺にも、石燕の作が    ある。(中略)    また版本には絵本百鬼夜行、水滸画潜覧、絵本比絹、石燕画譜、画図勢勇談などがある。天明八年八月    三日没し、浅草永住町光明寺ひ葬る。画照院月窓石燕居士をいふ〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔鳥山石燕画版本〕    作品数:10点    画号他:鳥山石燕・鳥・豊房・鳥石燕    分 類:絵本5・絵画3・俳諧1・花道1     成立年:安永3~8・10年(7点)        天明4(2点)(天明年間合計3点)   (鳥石燕名の作品)    作品数:1点    画号他:鳥石燕    分 類:俳諧1    成立年:天明頃        『絵はいかい』鳥石燕画・天明頃刊    〈豊房名の作品は収録されていない〉