☆ 大正八年(1919)
◯「大蘇芳年」饗庭篁村著(『錦絵』第廿二号所収 大正八年一月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝(前略)明治十五年の絵画共進会に出品された保昌笛を吹く図(注1)は立派なものと思つたに、それが
浮世絵といふ廉で、陳列された場所がよくなかつた、チヤツパなつく芋山水(注2)などが巾を利かして
浮世絵だからとて麁末に取扱ふのはきこえぬ事だと思つたので、僕は其の頃読売新聞者の世話になつて
居たが、根岸の住居から朝の出がけに根津の芳年氏の許をはじめて訪ふた、庭も家も荒はてた、夜は物
凄からうと思ふ家であつた、名刺を出して来意を通じると、ヤ饗庭さんがお出か サア此方へ と快闊
な声がして直に座敷へ通して呉れた、見ると芳年氏は腹掛の上に温袍(注3)を引掛けたといふ様な職人
風の形であつたので 僕は心中聊か驚いたが、話して見ると面白くつて初対面といふ事は忘れて仕舞つ
て共進会へ出品の絵の事について話を交へた、苦心談やら不平談やら同氏も腹蔵なく語られて 果は酒
肴をもてなされた、是が同氏との逢ひはじめで、
芳年氏の名も天下に響いて住居も浅草須賀町の立派な家となりし頃も折々尋ね、また諸所で出会した
事もあつて 隔てなく話しかはされて呉れた、殊にいつでも昔の修業時代の面白い話で、感服なこと、
また時世風俗の変遷、物価の安かつた事などで 為になる事が多かつたが 今は皆忘れました、中に一
事、同氏が師の国芳の許に寄宿して居た頃の修行振についての話のあとに「私は国芳に附いて居たのは
長い間の事ぢやァありません、はじめは松月といふ四條風の絵師に就いて習つたのですがネ 是ぢァ売
れないと見切て 国芳の門下になつたのです」と語られた、芳年の伝に はじめから入つたといふ事が
無かつたのでいつかは此事を何かに書かうと思つて居たので 今思ひ出してかきました、
芳年氏について 僕が最も嬉しいと思つたことは、これも昔し紅葉山人が『新作十二番』といふのを
出して二冊めを僕にとの注文、安受合に受けこんで『勝鬨』といふのを作り、偖(さて)その挿画を芳年
にと云ふと 板元の春陽堂は眼を円くし、芳年先生は今なか/\盛んで口絵を頼んでも一月や二月では
出来ません、どうか他の画家へとのこと、マア頼んで見て呉れ、おそくなる様なら外へ頼むから と無
理に頼ませ下字(僕は画がかけないので下絵のかはりに下字と号して委しく書くだけ)を持たせてやる
と、芳年氏見て大喜び、書くよ下絵はいけねェ 饗庭さんの下字に限らァ、大急ぎなら明日中に書き上
げるよ、表紙はどうする 見かへしは と上機嫌なのに春陽堂の使は吃驚し、表紙と表紙裏は川崎千虎
先生が書れるさおうです と恐る/\云へば、それでは序文のところの地へ花紅葉を己が書かう、と頼
まぬ所まで引受けたので、使の男(これが気の利いた若者で今は外国に居るとやら)は急ぎ僕の許へ来
て、先生の御威光は今さらに驚きました、下字を見ると大にこつきで明日書くよ、ばかりでなく序文の
ところへ花紅葉のから摺をしろ それもおれが書くよです、下地は好なり御意はよしとは真個に此事で
せうと此男コツサに洒落て帰りしが、其のかはり彫工も摺師も絵の具までも芳年の差図で立派な口絵に
出来上つたが入費は予想外でしたと、これは春陽堂主人が後の話しなり、芳年氏は気持の能い真の江戸
ッ子なり、今思ひ出しても其の姿(さま)目の前に、其の清元が猶耳に残るごとし、浮世絵の名人なるこ
とは諸君が知らるゝ通りなれば 云ふに及びませんが、何にしても明治年代の一名物でしたよ〟
(注1)「藤原保昌月下弄笛図」 (注2)「つくね芋山水」文人画の蔑称 (注3)どてら
(注4)『新作十二番』春陽堂(明治23年4月創刊~24年12月終刊 8冊)「勝鬨」饗庭篁村著・口絵芳年画 23年4月刊