Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ 暁斎の人柄浮世絵師名一覧
 ☆ 明治三年(1870)  ◯ 十月六日 下谷不忍弁才天の画会における泥酔事件の顛末   ◇『暁斎画談』外篇 巻之下(河鍋暁斎画 瓜生政和編 植竹新出版 明治二十年(1887)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション」( )は原文の読み仮名   〝暁斎氏乱酔狂筆を揮ひて捕縛せらる    明治三年十月六日、東京下谷不忍弁才天の境内、割烹店林長吉方に於て、俳人其角堂雨雀なる者、書画    会を催したるに、暁斎氏は其飲酒連(のみなかま)なるを以て、席上の揮毫を頼まれ、朝早くから書画の    会莚に臨みしに、会主も頗(すこぶ)る乱酔の名を得し者故、未だ来客の顔も見ざる前より、早(はや)盃    を廻らし徳利の底を叩いて飲始めければ、人集り群々(むれむれ)を以て宴を開く頃には既に三升余の酒    を傾けたる故、暁斎氏は酔て泥の如くなる と雖(いへど)も、氏に酒気あるは龍の雲を得たるが如く、    虎の風に遇(あへ)るに似たれば、足も身体(からだ)も愚弱(くにや)/\にて座に堪(たへ)られぬ程なれ    ど、筆を持てば益(ます/\)活発にて奇々妙々なる物を書(かき)出(いだ)すを、人々興じ一扇書(かけ)    ば茶碗を差し、一紙染れば丼を差し、代り/\に酒を進めて染筆を請ひければ、六升飲(のん)だか七升    飲だか、氏は鬼灯(ほうづき)提灯(てうちん)の如くになれども、筆を揮ひて屈せざり、折りから傍らに    て高声(かうせい)に噺(はな)す者あり、今日王子辺へ参りたるに、外国人壱騎乗切りにて来(きた)ると、    茶屋の者出(いで)むかへ、今日は御壱人なるかと問(とふ)と、馬鹿(ばか)を両人(りやうにん)召し連し    よし答へたりと云(いふ)が耳に入り、彼等に笑(わらは)して遣(やら)んと思ひ、足長島(あしながじま)    の人物に二人(にゝん)して沓(くつ)を履(はか)せ居(ゐ)る体を画き、又手長島(てながじま)の人物が大    仏の鼻毛を抜(ぬき)とる様(さま)を画きたりしに、画体(ぐわてい)高貴(かうき)の人を嘲弄(てふろう)    せしものと認(みとめ)られ、其の座に於て官吏に捕えられしかば、席上の混雑騒動は図に顕(あら)はせ    し如くなり、然れども此とき酔(ゑい)いよ/\甚(はなは)だ敷(しき)に至る、目は動かせども四辺(あ    たり)朦朧(もうろう)雲霧(くもきり)の中の如くにして、物の何たるを見分る事能(あた)はず、口は開    けども舌廻らざれば 詞(ことば)を出(いだ)す事能はず、只(たゞ)踊りの身振りして引かれ往き、終    (つひ)に獄舎に下されたり、斯(かく)て漸く翌朝に至り酔(ゑい)醒(さめ)、その事を聞て千悔万愧(せ    んくわいばんき)すれども詮業(せんすべ)なければ、只恐縮の外無かりし、同月十五日、御呼出(おん    よびいだ)しに成て、右の御糾(おんたゞ)し有りたれども、何事を御尋ねあるも、更に覚えなければ、    他の御答は為(な)し難き由を述(のべ)、其日は御下(おんさげ)となり、再度(ふたゝび)禁錮させられた    りしが、翌年正月三十日に至り、漸(やうや)く官の放免を請(うけ)て、晴天白日を見る事を得たれば、    忘れざる内にと思ひ、牢獄中の有様を図して我が二三の子弟に示し、且(かつ)我が酒狂に乗ずるの戒め    にも為さばやとて、書置たりことの物有しかば、其侭(そのまゝ)に出して牢獄の中の苦しき様を記すに    文章を以て贅せず、此二三の画図に附(つい)て見て、後世の戒めともならば氏が本懐ならんのみ〟    〈飯島虚心の『河鍋暁斎翁伝』も手長足長の図が「貴顕を嘲弄するもの」と見なされたと記す。そして次のように述べる〉     ◇『河鍋暁斎翁伝』「第二章 画師暁斎」飯島虚心著   〝明治の初め、法律未だ全からずといへども、何瑣々たる一狂画の故をもて人を捕ふるの理あらんや。狂    斎の捕へられたるは、蓋し別にあるべし〟    〈逮捕については腑に落ちない点もあるとする。さらに逮捕理由については、以下のような証言も伝わる〉   ◇『美術園』第七号「雑報」明治二十二年五月 ※ 読点は原文に従う   〝明治三年不忍池畔に於て書画の会ありけるに、翁狂酔して戯画二葉を作りしが、その図当時の相国を諷    譏し、尊きあたりを侮辱し奉れる寓意ありとて、大不敬の科に坐して、囹圄(れいご)に繋がる〟    〈戯画の内容に触れていないが、それには「尊きあたりを侮辱し奉れる寓意」が認められるとし、時の最高権力者ともい     うべき相国(廷臣の最高位で現代の首相に相当する)と擬えているのではないかとする風評もあったようだ〉   ◇「江戸座談会-江戸の暮」(『江戸文化』第三巻二号 昭和四年(1929)二月刊)    (今泉雄作談)〈美術史家、岡倉天心らと東京美術学校創立・京都市美術工芸学校校長。昭和6年没82歳〉   〝それから狂斎が牢に入るときなんか大へんでした。    書画会の時に、弾正台の役人も沢山入りこんで居る中で、日本人が外人に尻をほられてゐる所をかいた、    これは誰だといふと、三條だといふので、とう/\弾正台の役人につれてゆかれた、その時「いやだ/\    俺アいやだ」といつたけれど、仕方がない。とう/\ひつぱられてしまつた。    其の書画会は、不忍弁天の龍池院といふ寺の座敷でやつた〟    〈弾正台は明治2年に発足した警察機関、後明治4年司法省と合併。三条とは新政府の右大臣であった三条実美を指すの     であろう。ここでの図様は「日本人が外人に尻をほられてゐる所」と極めて具体的、しかも吟味において、この日本     人は誰かと問われたとき、狂斎は三条と答えたとある。この談話の方が『暁斎画談』のいう「画体高貴の人を嘲弄せ     しもの」に、あるいは『美術園』(明治22年刊)「その図当時の相国を諷譏し、尊きあたりを侮辱し奉れる寓意あり」に     よく符合するように思う。三条は明治24年没、『暁斎画談』も『美術園』それ以前の出版である。そこに遠慮がなか     ったはずはないと思うのだが、果たして真相はどうか〉   〈以下、飯島虚心著『河鍋暁斎翁伝』と併せて、逮捕後の狂斎の動向を略記する〉   十月六日 貴人を嘲弄したという容疑で逮捕され、仮牢に収容される。門人等赦免を請うも許されず   同十五日 吟味で手長足長の図について問われると、外国人が日本の士を馬鹿にしたと、誰かが言うので        憤慨のあまり、あの様な図柄を画いたと弁明。   十一月(在獄数十日) 身体衰弱、息も絶え絶えという状態に陥り、いったん自宅療養に入る   十二月末 平癒するや再び獄にもどる   翌四年一月 判決が出て、笞五十の刑に処せられる  ◇「洞郁河鍋暁斎の逸事」児玉蘭陵著(『錦絵』第十五号所収 大正七年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション」   〝 明治三年十月六日 俳人其角堂雨雀なる者の催主で 不忍弁財天の境内料理店三河屋で、書画会が開    かれた、狂斎も雨雀とは酒友の関係があるので、此の会へ臨席して、揮毫することになつた。何時とは    なしに飲み初めて、グデン/\に酔ッ払ひ酒興に乗じて、縦横無尽に毫を揮ふ折しも、「今日王子へ赴    きたるに、西洋人一人、騎馬にて駈け来たり、茶屋の者出迎へ、御一人ですかと問ひしに、件の西洋人    意気揚々として、馬鹿者を両人召し連れ参つたが、徒歩なれば駈け遅れたと見える と宛(あたか)も面    憎(つらにく)らしく◎(ほやママ)いて居た」〈◎は「口+氏+日」訓は「ほざく」〉と 傍で高々と慷慨談をやつて    居るのを聞いた狂斎先生、得たりかしこし 是よき画題なりと、早速足長島の人間に両人(ふたり)して    靴を穿かせる体を一枚、又手長島の人間が、大仏の鼻毛を抜き居る体を一枚、都合二枚を描いて、其の    慷慨の人を笑はせたが、風刺的なる此の画の人物が、高貴の人に、能く肖(に)て居ると云ふので、官吏    侮辱長上嘲弄の廉を以て、其の筋へ引き立てられ、如何に陳弁するとも聴き入れられず、遂に牢獄へ叩    き込まれることになつた。是れ実に酒の上の失敗と悔悟し、大に謹慎の状を現はしたので、翌四年正月    三十日 官の宥(ゆるし)を得て再び晴天白日の身となつた、是より狂斎を改めて、暁斎と称することに    なつたのである〟  ☆ 明治五・六年頃(1872・3)  ◯『伊蘇普寓言(イソップモノガタリ)』の挿絵   (『香亭雅談』上下(中根淑編集・出版 明治十九年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ※原文は返り点のみの漢文、書き下し及び(~)の読みや意味は本HPのもの。送りかな等の過ち、ご示教を願う   (上)   〝渡辺温 無尽蔵主人と号す、予向同して下谷西巷の某家を◎、時に無尽子『伊蘇普寓言』を訳述し、惺    惺暁斎をして其の画を作さしむ、暁斎僅かに二三紙を写して、遷延月に渉る、無尽子屡々其の家に往き    之を責めんとするも、多くは在らざるなり、一夕暁斎酔ひて来たりて曰く「我が為に酒を買はん、我且    つ散楽を奏さん」と、既にして(間もなく)且つ飲み且つ舞ひ、泥爛して昏睡す、無尽子其の酒の醒むる    を俟つて、以て宿諾を責めんと欲す、旦(あした)に至り之を視るに、被窩枵然として人無し、乃ち歎き    て曰く「意(おも)はざる、籠禽の還脱とは」〟(24/40コマ)※◎は(厲から草冠を取り除いたもの    〈『伊蘇普寓言(イソップモノガタリ)』は明治6年4・12月刊。従ってこの挿話は明治5-6年頃のものと思われる。「被窩枵然無人」     とはもぬけの殻といった意味か〉  ☆ 明治十七年(1884)  ◯「涅槃図」「太宰府・北野両天満宮奉納絵馬額」の依頼主・松浦武四郎への誓約証文    出典:『芸苑一夕話』上巻 市島春城著 早稲田大学出版部 大正十一年(1922)五月刊       (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇二五 松浦武四郎(170/253コマ)     暁斎(げうさい)差入の一札     彼れ(松浦武四郎)は、自らも画をよくしたから、近世の画家河鍋暁斎、田崎草雲などゝは懇意の中で    あつた。其の関係からでもあらう。草雲の如きは、身、蝦夷地を踏んだ事もないのに、蝦夷地の風景を    画いて居(ゐ)るものが少くない。多分、松浦の蝦夷地の「スケッチ」を粉本にしたものであらう。又武    四郎は、暁斎の画を喜んだと見える。彼れの家には、暁斎の大画が蔵されて居た。其の事は後に語るが、    こゝに一事の語るべきことがある。暁斎は大の飲抜(のみぬけ)で、どんな拠(よん)どころ無い筋から頼    まれた画でも、酒ばかり飲んで、すつぱかして了(しま)ふが例であつた。松浦はそれを知つて居るから、    或時、天満宮へ納める大きな絵馬額を暁斎に注文するに方(あた)り、例の違約を気遣ひ、ぎり/\決着    の証文を書かせた。その証文が、今自分の所蔵になつて居る     貴殿事、天満宮廿五拝え、各々私の揮毫仕候額面御奉納之由にて被仰付、難有存候。然る処若し出     来不申候はゞ、町絵師共え被仰付、私名前を書入被成候由、左様有之候共、一切申分仕間敷候也。     依ては右額面小形二円、中形三円、太宰府北野両社の大額は廿五円づゝ被下約にて、昨年より認め     来り候涅槃像も、落成後は兆殿司羅漢、元信寿老、並に信実歌仙、師宣屏風等被下候由、実に難有     仕合に奉存候。依ては月に両度づゝ必ず参上、額は小二枚、中一枚、相認め可申事、実正也。もし     違約致候はゞ、私名前にて、如何様凡絵師に被仰付、奉納被成候も、申分仕まじく候。涅槃像出来     不仕候節は、兆殿司、元信、返納可仕候。為後証、差入置一札、如件       明治十七年十二月十二日                             湯島四丁目二十二番地 河鍋暁斎           松浦武四郎殿     大酒飲の大づぼらなる暁斎に、二十幾枚の額を書かせるに、武四郎が如何に苦心したかは、斯(かゝ)    る厳重なる証文を取つたによつても察せられる。武四郎は、万一の為に若(も)し約束の期を過ぎて出    来ぬ場合は、凡庸絵師に書かせて、お前の名を署するが、それでよいかとまで念を押して居る。画家は、    己(おの)が名誉のため、拙手に代筆され、それに自分の落款を据ゑさせられる程、つらいことは無い。    武四郎は其の急所にまで触れて約束をして居(を)るが、暁斎は、果して約を履(ふ)むかどうか。此の    証文に拠ると、必ず月二回、松浦方に行き、筆を執らねばならぬことになつて居る。づぼらの暁斎に取    つては、随分難儀なことであつたらうが、涅槃の像が現に出来て居る所から推すると、天満宮奉納の額    も、二十数枚成功したらしく思はれる。それは何れにしても、武四郎より贈与の約束になつて居る信実、    兆殿司、元信等の画は、何れも幾千円の価(あたひ)のあるものだ。当時と雖も貴重の者であつたのに、    武四郎が謝礼に是れ程のものを惜気もなく与へる約束をしたのは、実にその大胆なるに驚かざるを得ぬ。    さて、是等の名画を謝礼に与へて書かせた涅槃像は、暁斎一代の傑作と云ふべきものである。次に之を    語らう        会者定離に泣く骨董に囲繞された渠(かれ)の涅槃像     武四郎は、多方面の趣味を有した好事家であつただけ、其の所蔵品は、皆ひねつた珍物のみで、一品    たりとも、人を驚かさぬはなかつた。さて彼れは、此等(これら)の珍玩を愛惜する余り、例の武四郎式    の一案を得た。それが暁斎に頼むだ涅槃像である。此の涅槃像だけは、徳川侯に帰せず、今尚松浦家の    宝物となつて、大切に保管されて居るが、頗る大幅である。     此の涅槃像は、釈尊に擬へた武四郎入寂の図である。高床に安臥して居る死骸に、細君が取附いて泣    いて居る外(ほか)、人間も動物も居らぬ代はりに、種々の骨董が雑然として床下に集まつて泣いて居る。    此の骨董の内には、茶器もあれば珠玉もあり、文房具もあれば書画もある。皆武四郎の愛翫措かざる所    のものであつて、斯様(かやう)なものを、愁ひ悲しむ如き姿に書くと云ふは、極めて困難の事であるの    を、流石(さすが)は暁斎で、皆何となく泣いて居るらしく見せて居るのは珍である。武四郎が、価高き    名画を謝物としたのも無理は無い。実は、こんな絵は、並大抵の絵師で出来るものではない〟  ☆ 明治二十二年(1880)  ◯「故河鍋暁斎翁」(『美術園』第七号「雑報」明治22年5月) ※読点は原文に従う   〝故河鍋暁斎(けうさい)翁    画伯河鍋暁斎翁が去月廿六日死去せられしハ前号に載せたるが、今其小伝をかゝけんに翁名ハ洞郁(だ    ういく)通称ハ周三郎、初め猩々(せうぜう)狂斎と号し後に暁斎とあらたむ、旧土井の藩士河鍋某の男    なり、天保二卯年四月七日下総の古河に生る、七歳にして井草国芳の門に入り後に前村洞和に従へり、    其後また狩野洞白(名ハ美信)を師とし、洞都と名告りたりしが、師の死後、自ら観る所ありて、顔    煇李・龍眼の風を慕ひ、又狂画に巧みにして、狂斎と自号せり、翁生涯の畸談多かる中に、十一歳の    時かとよ、御茶の水なる火消屋敷に寓しける頃、神田川の南岸に遊ひたりしに、折柄(おりから)川辺に    漂着せし若き溺死婦人の容態(かほかたち)、物凄きことは言ハん方なし、翁如何(いかに)思ひけん、    闇夜にまぎれて、水中に飛び入り、彼の首級(しゆきう)をねぢきりて、机下に秘(かく)し置き、人なき    折を見、欣然として之を写生しけるに、父なる人見付(みつけ)、驚くこと大方ならず、いたく翁を叱り    て、その首を奪い、やがて柩を納めて、その菩提寺に葬りしとぞ、翁性豪放不羈にして、酒を嗜み、日    々数升を尽す、酒気なけれバ筆を把らず、鯨飲(げいいん)の後ハ、必ず筆紙を乞ひて、漫に狂画を作る、    若し紙を与へざれば、障壁をも塗抹(とまつ)して、之に画けり、一年豊原国周が新居披露の書画会に臨    み、当時の豪估(がうこ)津国屋藤三郎が羽織をハぎて、硯池(すゞり)に浸し、筆に代へて忽ち鍾馗の図    をませり、又明治三年不忍池畔に於て書画の会ありけるに、翁狂酔して戯画二葉を作りしが、その図当    時の相国を諷譏し、尊きあたりを侮辱し奉れる寓意ありとて、大不敬の科に坐して、囹圄(れいご)に繋    がる年を越えて放免の後にハ、深くさとる所あり、狂斎の狂の字を改めて暁翁とぞ号しける、翁の画く    所の人物鳥獣虫魚の類ハ、すべて稍奇に過ぐるものありと雖(いへ)ども、筆々活動して真に迫る妙趣あ    るに至りてハ、凡手(ぼんしゆ)及ぶべくもあらず、その一時名誉を世に博したるも宜べなり、翁また乱    舞を善くし、古代の仮面数十個を蔵めて楽みとし、種々(くさ/\)の古物珍器を座右に陳べ置きて、愛    玩せしハ、絵事の余韻なるべし、嗚呼翁の妙技、翁の畸行、之を古に求むべきも、之を今に得べからず、    吾人悲しまざらんと欲するも得んや〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯「国周とその生活」国周談 読売新聞、明治三十一年記事   (『明治人物夜話』p246(森銑三著・底本2001年〔岩波文庫本〕)   〝「その後、わたしア日本橋の音羽町へ新宅を拵えたことがある。それは随分普請もよし、植木は皆芸者    の名を附けて、ちゃんと出来上ったから、国輝(クニテル)がその時分やかましい奉書一枚摺へ、額堂の絵を    画いた散らしを撒いて、いよいよ新宅開きとなった。音羽町というところは、岡(オカ)ッ引(ピキ)なんぞ    が多く住まっていたが、わたしは豆音(マメオト)さんという岡ッ引の世話になって、着物なんか貰ったから、    その礼廻りをした。帰って来ると、昔、今紀文といわれた山城河岸の津藤さん、猩々暁斎(シヨウジヨウキヨウ    サイ)、石井大之進という、上野広小路へ出ている居合い抜きの歯磨き、榊原藩の橋本作蔵という、今の    周延(チカノブ)なんぞが大勢来ていた。     けれどもわたしも酔っているから、二階へ上って、つい寝てしまうと、何だか下でがたがたするから、    目を覚まして、降りてッと見ると、暁斎め、酒に酔ったもんだから、津藤さんの着ていた白ちゃけた彼    布(ヒフ)を脱がして、びらを画いた丼鉢の墨ン中へ、そいつを突込んだ。津藤さんはにがい顔をしている    と、暁斎はそれを引きずり出して、被布中一面に河童さんを画いちまった。あれも酒がよくないから、    みんな変な顔していると、今度は唐紙へ何か画くてェんで、畳台の二つ三つ庭へ並べ、その上へ二階の    上り口に建ててあった、がんせきの新しい襖を敷いて、机にしたもんだ。そうしてその上で絵を画くん    だから、芸者が墨を持って立っているのもいいが、拵えたばかりの襖の上を、どしどし歩くから、ポコ    ポコ穴が明く。そこでわたしも、あんまり乱暴で見かねたから、傍へ行って、暁斎坊主、ひどいことを    するな。よしなさい、といったが、酔っているから、つんけんどんにやったんだろう。     そうすると暁斎め、持っている筆で、わたしの顔をくるりと撫でて、真ッ黒にしてしまったから、わ    たしも怒る。歯抜きの石井大之進は、暁斎の奴、反ッ歯(ソッパ)だから、おれがそいつを抜いてやると、    りきむし、周延の橋本作蔵は刀を抜いて、斬ってしまうぞと飛びかかったから、暁斎め驚いて、垣根を    破って逃げちまったが、その時分中橋の紅葉川の跡がどぶになってたんで、そこへ落ッこちたから、ま    るで溝鼠(ドブネズミ)のようになったのは、わたしの顔へ墨を塗った報いだと笑った。     けれども暁斎は、あれほどになるだけ感心のことは、その後わたしの家へ尋ねて来たから、それなり    に仲が直ってしまったが、周延が刀を抜いた時には、どうもひどい騒ぎで、往来も止まるくらいだった」    (森銑三記事)     暁斎が国周の家の新宅開きに、酒の上で乱暴したことは、外のものでも読んだ記憶があるが、何であ    ったか、今思出されない。但し暁斎の酒癖の悪かったことは、諸書に見えている〟  ◯「筆はじめ」鴬亭主人著『錦絵』第十号所収 大正七年一月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)    〈鴬亭主人は明治の戯作者・鴬亭金升。幕末-明治の戯作者・梅亭金鵞の門人〉   ◇「暁斎翁の門人と誤られた梅亭」明治二十年の挿話 (注1)   〝 暁斎先生が梅亭(注1)へ微酔(ほろよひ)でやつて来て、『暁翁画談』(注2)いふ本を出すから話を聴    いて文を作つて下さいと頼んだ、梅亭翁は承知して夫から根岸の笹の雪(注3)の横町なる先生の家へ五    六日通つて談話を聴き挿画に合せて書た、すると出版になつたのを見ると「門人瓜生政和」(注4)と出    ているので 温和なる翁も黙つて居られず暁斎先生を詰ると、先生額を撫でて、夫は本屋が勝手に門人    と書いたのだ勘弁して下さいと言つたので 梅亭も苦笑して帰つた事がある、当時翁は僕に向つて、後    に残る事だから門人と書れたのは困つたなァと言はれた〟    (注1)梅亭金鵞は幕末~明治の戯作者。本名瓜生政和    (注2)『暁斎画談』河鍋暁斎画 瓜生政和編 植竹新出版 明治二十年(1887)刊    (注3)笹乃雪は下谷根岸の豆腐料理の老舗    (注4)外編 巻之一・二に「東京 門人梅亭鵞叟編集」とあり   ◇「酒乱の暁斎と国周の大活劇」   〝 一日(あるひ)の事 根岸に住む文人を集めて会を立てやうと企てた人がある、僕も幹事のお仲間入を    した処が 河鍋暁斎先生一人脱(ぬか)す事の出来ぬ為めに 其会が毀(こは)れてしまつた、先生が入る    と例の酒乱の為めに滅茶(めちや)になるから御免だと言て逃げる人が多く有るので成り立たなかつたの    である。暁斎の酒と言つては有名なもの、画談に出て居る不忍弁天の画会で 多数の人を池へ落とし乱    暴をして伝馬町の牢へ入れられた事もあつた位(ぐらい)(注1)、僕の知た丈(だけ)でも柳橋の某楼で障    子を蹴破つた事があつた、先生は裸になつて障子に衝突り 骨を毀したので自分も坊主天窻(あたま)に    傷をつけて帰つた。     国周暁斎の酒豪が二名 浅草の国周の家で大活劇を演じ事もあつたさうな、国周が新調の羽織を見せ    ると 暁斎は何だ此んな羽織と 言つゝ墨を溜めた鉢の中に突込んだので 忽ち活劇の幕は切て落され    た、両画伯は丸裸となつて表へ飛出し 浅草田圃で長町裏の団七九郎兵衛と義平次以上の泥試合を演じ    たが 誰も止める人が無いので 結局労(ママ)れて引分けとなつたとは滑稽な話だ〟    (注1)明治三年十月六日、不忍弁財天の画会において、暁斎は泥酔の上狼藉を働き、捕縛されて伝馬町の獄舎に収監        された顛末は『暁斎画談』外編巻之下に出ている。本稿明治三年の項参照  ◯「【画も非凡/人も非凡】洞郁河鍋暁斎の逸事」児玉蘭陵著(『錦絵』第十五号所収 大正七年六月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝 筆意の豪宕意匠の非凡を以て、幕末より明治初期に亘つて、一世を驚動した洞郁河鍋暁斎の如きは、    浮世画界に於いて、殆ど古今独歩の観を呈して居るものである。     然れど其の筆蹟の錦絵として出版されて居るものが、極めて尠ない、豊国の俳優似顔画と取り合はせ    名物名勝会と云ふのがある。僕の記憶に存して居るのは「四谷怪談」で、お岩の幽霊と戸板返しとの二    ツである。戸板返しより、人魂を見せたり、幽霊の提灯抜けなど、物其の物が、話で聞いてさへ、慄然    (ぞつと)する位なるに例の得意の筆を揮つた事であるから、二タ目とは見られぬ程悽絶感極りなきもの    である。     暁斎、初めの内は、狂斎と称して居たが、明治三年以後の作には、故ありて改めて暁斎の落款を用ふ    ることにした、即ち「名物名勝会」の落款も、維新前の出版とて、狂斎戯画を記してあるのだ。而して    其の世間に売り込んだ狂斎の落款を、暁斎と改めた故由と云ふのは、抑(そもそ)も如何なる所以を以て    然るか。     狂斎の画風、固(もと)より凡ならず、而して其の人格も異なつて居た。狂斎は大酒豪であつた。結局    (つまり)大酒の失敗より、取り返しの附かぬ一代の大椿事を惹き起したのであつた。其の大椿事と云ふ    のは、斯うである。     明治三年十月六日 俳人其角堂雨雀なる者の催主で 不忍弁財天の境内料理店三河屋で、書画会が開    かれた、狂斎も雨雀とは酒友の関係があるので、此の会へ臨席して、揮毫することになつた。何時とは    なしに飲み初めて、グデン/\に酔ッ払ひ酒興に乗じて、縦横無尽に毫を揮ふ折しも、「今日王子へ赴    きたるに、西洋人一人、騎馬にて駈け来たり、茶屋の者出迎へ、御一人ですかと問ひしに、件の西洋人    意気揚々として、馬鹿者を両人召し連れ参つたが、徒歩なれば駈け遅れたと見える と宛(あたか)も面    憎(つらにく)らしく◎(ほやママ)いて居た」〈◎は「口+氏+日」訓は「ほざく」〉と 傍で高々と慷慨談をやつて    居るのを聞いた狂斎先生、得たりかしこし 是よき画題なりと、早速足長島の人間に両人(ふたり)して    靴を穿かせる体を一枚、又手長島の人間が、大仏の鼻毛を抜き居る体を一枚、都合二枚を描いて、其の    慷慨の人を笑はせたが、風刺的なる此の画の人物が、高貴の人に、能く肖(に)て居ると云ふので、官吏    侮辱長上嘲弄の廉を以て、其の筋へ引き立てられ、如何に陳弁するとも聴き入れられず、遂に牢獄へ叩    き込まれることになつた。是れ実に酒の上の失敗と悔悟し、大に謹慎の状を現はしたので、翌四年正月    三十日 官の宥(ゆるし)を得て再び晴天白日の身となつた、是より狂斎を改めて、暁斎と称することに    なつたのである。     然れど、性来の大酒豪たる暁斎は、尚々飲酒を禁めやうともしなかつた、其の後何処かの宴会で煽り    に煽つて根岸の住宅へ帰宅した、前後不覚の所(ママ体?)裁で、尾陋(ママ籠)にも八畳の坐敷に於いて、瀧    の如く放尿して、其の中に泰然自若として、高鼾をかいて居たとの事であつた。然し平素(ひごろ)は年    老いた母に仕ふること至つて孝行で、酒を飲まぬ時の暁斎は、殆ど別人であつたかの如く思はれたので    ある、古より己の揮毫に係るものを、神仏に奉納して、其の妙境に到らんことを祈る画家などが尠(す    くな)くない、暁斎も明治廿年ごろには、日課として毎日観音菩薩の像を一枚宛描き、之を浅草観世音    の伝法院、上野の清水観世音、京都知恩院内の観世音へ月々十枚宛納め、又天神の像を描いて、亀戸天    神を始め麹町平河天神、湯島天神の三社へ月々五枚宛納める事にし(ママて)居た。     暁斎、初めの名を周三郎と云ふ、天保二年四月七日、下総古河に生る、父を甲斐喜右衛門と云ふ、二    三歳のころより、果物の錦絵、団扇絵などを看て、哺乳を忘れ嬉々として楽しんで居たのであつた。斯    く絵画を好める所から、当時の大家一勇斎国芳へ、七歳と云ふに、入門させたのであつた、其の後故あ    りて門を出で、更に人の勤むるに任せて、幕府の絵所なる駿河台の狩野洞白へ入門することんになつた、    是れ暁斎が十一の時で、後一家をなすに及びて洞郁暁斎と称す所以である。     暁斎の大画は、奔放自在にして、天馬の空に駈ける如き概観であるが、是れ実に其の画論とする所の    「大画は筆勢を第一とすべし」と云へるを、実際に発揮したのである。其の大画として看るべきものは、    信州発戸隠山中院の拝殿天井に描いた雲龍の図である。     是は慶応三年、信州漫遊の序いでを以て、登山参詣した時の揮毫に係るのであつた。尚内陣の格天井    六十八枚を描く約束であつたが、時寒冷に際し、斯くては雪に降り籠められ、翌年の春ごろまで下山す    ると叶はずと聞き、一旦戸隠の山中を逃げ出したが、不幸途中にて捕へられ、格天井は、後日描くこと    を約束して漸く無事に下山することになつた。其の時戸隠山の坊中協議して、暁斎へ差し出した書状と    云ふのは礼状ではなくて全くの頼状であつた。     「当山天井画御奉納の処 時季寒冷御揮毫難く相成 依之来陽御登山相成候様 奉願候 以上、       丑八廿一日 戸隠山別当所」     暁斎は、絵画に於ける、固(もと)より天才に出たものとは云ひ條、幼少より努めて写生に熱中せしめ    られたのである。国芳の塾に在りても、狩野の塾に在りても、皆然らざるはないのである。それ故己一    家を成すに及びても」、門弟にも専心写生を怠らさぬやう諭したのである。然れば其の画論に「古の諺    に 絵は影の如し 影とは草木日の光に写りて 其の形を顕はすを云ふ影は枝葉の高下前後表裏の体ヒ    ゾミを明に見えるなり、此ヒゾミを心で画けば自ら真と雅と籠る物にて是を画の正理とす 和漢の画人    絶妙に至りしも皆此理を以てなり 画術の奥意は爰に止ると知るべし」と云へるが如き頗る肯綮に中る    議論と謂ふべきである。     暁斎が、写生に熱中したころは、珍しい逸話が沢山ある、お茶の水で渓間(たにあひ)の土左衛門 弘    化二年の大火などを始め、裏長屋の夫婦喧嘩にまで、自身写生探検に出掛けたのであつた、中にも斯う    云ふ面白い事があつた、駿河台の狩野洞白の塾へ門弟に住込んで居たころ、隅田川へ網投(あみうち)に    出掛け、三尺余の大鯉を獲り、大盤台に入れて、洞白の塾へ持返り、頭より尾に至るまで三十六鱗は勿    論、種々の形を、熱心に写生した、斯くして之を不忍の池へ放ち遣らんと思ふ折柄 同門の塾生が、开    (そ)を包丁して、汁や洗肉(あらひ)に仕立て、心地よく一盞を傾けんと企て、件の大鯉を大俎板に載せ、    アワヤ包丁を把つて、先づ鱗を落とさんとした。     暁斎、斯くと見るより打驚き「這(これ)は何とし給ふぞ、予は写生を終はりたれば、是より不忍の池    へ放ち遣らんと思ふ所である」と真面目となりて咎め立てた所、件の塾生等冷笑し「さても小僧の癖に    生意気な事を◎き居るな、我等は、之を鯉濃汁(こひこし)と洗肉に料理して、汝に江戸前の手際を知ら    せやうと思ふのだ」と云ひさま、鱗を落とさんとする一刹那、鯉は跳ね上つて、尾を以て、強く其の者    の面部を打ち付け、アツと叫んで、後へ打ち返つたので、他の熟生共も、一驚を喫し、其の侭件の大鯉    を料理することを廃め、暁斎の云ふ通り、不忍の池へ放ち遣つたとの事である。〈◎は「口+氏+日」〉     暁斎の遺著としては、暁斎画談を云ふのがある、和漢名家の筆蹟を模倣したばかりでなく、毛筆画の    妙所を西洋各国に知らしめんとする意志で、記事を和洋二様に記したのは、平素意志のある所を窺ふこ    とが出来るのである。     人物は、体格を解剖画式に則り、之に衣服を着けて、更に格好を附けたなどは、流石写生の熱心家で    あつたことを偲ばせ、和画は、巨勢、宅磨より土佐狩野、近世では、又平、師宣より浮世絵の人家の筆    蹟を模倣し、唐画では宋元明清の大家及び虫介魚鳥の写生までを網羅してあるのは、是ばかりでも尋常    画家の真似らるゝ所ではない、僕は暁斎の肉筆を見て又其の人格に徴して、即ち画も非凡人も非凡と題    名した所以である〟