◯「天保二年辛卯日記」②335 四月 九日(『馬琴日記』第二巻)
〝清右衛門来ル。過日申付候八犬伝にしき絵三枚ヅヽ弐通り、つるやにてかひ取、持参〟
〈この八犬伝の錦絵、三枚づつ二通、鶴屋にて買い取るのだが、誰の八犬伝であろうか。四月十四日付、殿村篠斎宛書
翰によると、歌川国芳画『本朝水滸伝豪傑八百人一個』所収の「芳流閣」(竪二枚続き)と「対牛楼の場」のようで
ある。四月二十五日の記事を見ると、この錦絵のうち三枚一通は伊勢松坂の殿村篠斎に送っている。画像は上記書翰
参照〉
◯『馬琴書翰集成』②18 天保二年四月十四日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-3)
〝「八犬伝のにしき絵」、此節三枚出来いたし候。信乃・見八くみ打の二枚つゞきと、毛乃仇討の処也。
画は国よしに御座候。八人追々に揃行候よし。右三枚、御めにかけ可申と存、先以かひ入置申候。これ
も『水滸後伝』返上の節、一処に上ゲ可申候。よみ本をにしき絵にいたし候事、古今未曾有に候得ば、
みな/\きもをつぶし申候〟
〈この歌川国芳画「八犬伝のにしき絵」とは両国加賀屋の板。(八月二十八日、殿村宛書翰参照)とすると、『本朝水
滸伝豪傑八百人一個』の中に収められたものであろう。犬塚信乃と犬飼見八の竪二枚続き「芳流閣」の場面と、犬阪
毛野、父の仇馬加常武を討つ「対牛楼の場」である。馬琴は、題材を読本から取った古今未曾有の錦絵だと得意化で
ある〉
◯『馬琴書翰集成』②22 天保二年四月二十六日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-4)
〝「八犬伝のにしき絵」之事、先便申上候。此間、二通りかひ取置候間、一通りづゝ三枚進上仕候。錦画
ハその節のミにて、後年ニ至り候てハ、無之品ニ御座候。あとも追々出板可致候。よミ本の人物を錦画
ニ出し候事、古今未曾有と申迄之話柄ニ御座候〟
〈錦画は「その節のミ」当座のものという意識は馬琴に限らず一般のものであったに違いない〉
◯「天保二年辛卯日記」②379 六月廿七日(『馬琴日記』第二巻)
〝西村や与八、為暑中見舞、来ル(中略)八犬伝人物大錦画ニ彫刻のよしにて、右筆工書入稿案、被頼之。
国芳画にて、尚下画のまゝ也。先づ預り置申候〟
〈この八犬伝人物大錦画とは「曲亭翁精著八犬士随一」八枚組。ただ、作品を見ると、画題の署名は馬琴ではなく、櫟
亭琴魚(殿村精吉・殿村篠斎の妻の弟)となっている。天保七年(1836)六月二十一日、小津桂窓宛書簡によると〝己
が著を、みづから賛いたし候もいかゞニ付、琴魚子の代作にいたし置候〟とある。なお、この出版は天保七年である。
同上書簡に〝西村や、近来身上向むつかしく、しバらく店の戸をさしやり(略)右錦画も、板下のまゝにてうち捨置
候〟と板元西村屋与八が手元不如意のため出板できなかったのである〉
◯『馬琴書翰集成』②51 天保二年八月二十六日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-8)
〝「八犬伝の錦画」、いぬる比致進上候ハ、板元両国のかゞ屋に御座候。然処、西村与八が又『八犬伝』
八枚つゞきのにしき絵ほり立候よしニて、七月中、右下画を持参いたし、是へ八士の略伝を書くれ候様、
たのまれ候。ヶ様之もの、外より出候てハ、なか/\におかしからず。何分外人へたのミ候様申候て、
辞し候へども、承引致し不申候。依之、琴魚様御名を借用いたし、文ハ老拙綴り候て、作名は琴魚様ニ
いたし可申候間、それニて納得いたし候様、申示し候へバ、やう/\致承引候。尤、来春のうり物ニい
たし候間、九月中迄ニ出来候へバよろしきよし、又四五日前、板元与八参りテ申候。左候へバ、尚余日
も有之、琴魚様、御なぐさミに作文被成候てハいかゞ可有之哉。それも、御病中御面倒ニ思召候ハヾ、
老拙代作可致候。
画ハ、
房八親兵衛を背負ひ、使者二人を、一人ハ腕をねぢあげ、一人をバふみたふし居候図 一枚
毛乃女の衣裳、ふり袖にて雑兵ト血戦の図 一枚
【道節 壮介】やみ仕合、二枚つヾき
小文吾前髪、相撲とりの出立ニて、小ずまうの片頬をはりまぐる図
【信乃 源八】芳流閣の大刀打、二枚つゞき
右八枚ニ御座候。長キ事ハかゝれず、八犬士の略をかなまじりに、だれニもわかるやうニ、約ニ書キ候
へバよろしく御座候。此義、琴魚様へ御伝声可被成下候。扨此画へ、古人嵓軒翁の八犬士の御歌を加入
いたし候てハ、いかゞ可有之哉。御追薦のひとつニも思召候ハヾ、書加へ可申候。然ながら、錦画の事
なれば、あらずもがなと思召候ハヾ、書加へ申まじく候。此両条ハ、御近便ニ一筆、いづれとも御しら
せ可被下候。右の貴答ニよりて、いか様ニも取斗可申候。これハ当暮、八枚一度ニうり出し候よしニ御
座候〟
〈加賀屋板「八犬伝の錦画」とは国芳画『本朝水滸伝豪傑八百人一個』三図。(四月十四日付書翰参照)西村与八の
『八犬伝』八枚続きとは同じく国芳画『曲亭翁精著八犬士随一』のこと。櫟亭琴魚とは殿村精吉。狂名、鈴留森近。
篠斎の妻の弟。文化五年正月十八日以来の親交。十一月二十一日、京都にて逝去するが、この時点では存命。嵓軒翁
は殿村万蔵。号を常久、巌軒、蟹麿。篠斎の異母兄弟。文政十三年(1830)七月没。篠斎は琴魚の代作と嵓軒翁の歌を
載せることを結局依頼した。「これハ当暮、八枚一度ニうり出し候よし」とあるが、西村屋の経営が難しくなり、実
際に出版されるのは、ずっと後年の天保七年に四枚、翌八年に四枚という難産であった。『曲亭翁精著八犬士随一』
の画像は日記の六月廿七日にある〉
◯「天保二年辛卯日記」②478 十一月八日(『馬琴日記』第二巻)
〝山口や藤兵衛来ル(中略)殺生石五編、当年は並合巻ニいたし度旨、申に付、ふくろの画稿二枚、則、
表紙に用い、国芳ニ画せ候様、示談。英泉にては間に不合故也。五編下帙は画未出来、とても当暮うり
出しの間ニ不合候間、去(ママ)年に延し候様、是又示談。尤、来年は二年子(ママ)有之ニ付、山口やぇは
新著休之趣、申聞おく〟
〈英泉の遅筆の余波が国芳に及んだかたちだ。十一月十二日には国芳画の表紙外題が出来、馬琴の許に届いている。結
局、英泉画は五編の上までで、天保四年刊、五編の下は国安、表紙は国貞の担当に変わった。国芳はどのような事情
があったものか、採用されなかった。日記上からみると、歌川国貞、国安への督促は殆どないが、英泉と北渓の遅筆
は常態化している。また、八犬伝の柳川重信もそうで、八月十八日には、版元丁字屋同道の上、今後滞り無なく画く
ことを馬琴に誓約していた〉
〝西村や与八たのミ、八犬士にしき画略伝八枚之内、七枚め迄、稿之。一枚遺ル〟
〈『曲亭翁精著八犬士随一』の原稿は七枚目まで出来上がったようだが、実際に国芳が描き始めたのはいつのことであ
ろうか〉
◯「天保二年辛卯日記」②481 十一月十二日(『馬琴日記』巻二)
〝山口や藤兵衛より使札。殺生石後日五編壱・弐両巻、表紙外題、国芳画出来のよしにて、見せらる〟
〈壱の表紙には「殺生石【馬琴作 英泉画】」「後日怪談第五編」「外題 国芳画」「天保壬辰」「壱
【錦畊堂 山口版】」とある。天保壬辰は同三年〉
◯『馬琴書翰集成』②86 天保二年十一月二十五日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-20)
〝「八犬伝にしき画賛」、本月上旬稿し畢り、板元へ遣し候。当年おそなはり候故、まづ四枚出板のつも
りのよし。板元申候。一枚に候へば、道節・額蔵の二枚つゞき、並に犬江親兵衛・犬村大角、此四人を
先へ出し候様、申談じ度候。然ル処、今以直出来不申、幕の間に合候哉、これも斗難候。琴魚様御代作
にいたし、故人蟹丸ぬしの御歌、加入いたし度也〟
〈「八犬伝にしき画」とは国芳画『曲亭翁精著八犬士随一』〉
◯『馬琴書翰集成』②98 天保二年十二月十四日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-25)
〝(馬琴、門人櫟亭琴魚の訃報に接して)『美少年録』三輯ヘハ、琴魚様御評加入いたし置候処、御生前
ニ被成御覧候よし。是尤本望の至に奉存候。「八犬伝にしき画」の御代作ヲ見せ申さぬのミ、遺憾ニ御
座候。其後、右にしき画、いかゞいたし候哉、いまだ画も不出来候哉、筆工校合ニも差越し不申候。左
候へバ、いまだほり立不申事と被存候。春ニも至り、出板次第、早々可入御覧候〟
〈この国芳画『曲亭翁精著八犬士随一』が出版されるのは後年の天保七年(1836)である〉