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☆ 国周自伝浮世絵師名一覧
 ◯『明治人物夜話』「国周とその生活」p240(森銑三著・底本2001年〔岩波文庫本〕)    〈灰色文字は森銑三の地の文。黒文字は国周の発言〉   〝一     明治三十一年の『読売新聞』が、「明治の江戸児(エドツコ)」という続き物を載せたのは、時機を得た    企画といってよいだろう。明治も三十年代に入って、旧幕時代を知っている古老たちも、次第に凋落し    ようとしていた。そうした時に当たって、生残りの古老たちを物色して、昔話をしてもらっているので、    明治生まれの人々もそれを興味ある読物として読んだのであろうと思われる。その「明治の江戸児」の    中に、浮世絵師豊原国周も出て、思出話をしている。特に浮世絵にことには限らず、何ということなし    に、旧事を語っているのであるが、その中には国周の人物が如実に出ているし、国周の生活よりして、    江戸時代における浮世絵師たちの生活がおのずから類推せられて来るものもある。よってその談話の全    体をここに転載し、更に多少の註記を附して行って見ようと思う。その国周の談話は筆記したのは、記    者の何人だったか明らかでないが、当時の『読売新聞』には、美術記者で、名家を歴訪して、その談話    を筆記することに、特別の手腕を有した関如来(ニヨライ)がいた。この国周の項も、あるいは如来の作ると    ころではなかったろうか、などとも考えられて来るのであるが、俄かにそうではあるまいかなどという    ことは控えて置こう。     国周の談話には、記者の書くところの前文が、一字下げて出してある。即ち次の如くである。
   「豊原国周は、歌川豊国の遺鉢を継ぎて、似顔絵師の巨擘なり。通称荒川八十八(ヤソハチ)とて、本年六十    四歳、三代相伝の江戸ッ子にて、気象面白く、一世の経歴は東錦絵と共に花やかなれども、自体金銀を    数とも思はねば、今は本所表町の片隅に引込みて、いといと貧乏に浮世を送れり。彼の家は、熊谷稲荷    の東二町ほどの北裏にて、棟割長屋の真中なれども、ちょつと瀟洒の格子を立てて、名札と来状函(バ    コ)を掲げ、一間三尺の靴ぬぎの向うは、垢つきたる畳の一間なり。いかゞの長火鉢を据ゑて、仏壇をも    飾る。奥なるいぶせき二畳は、机取散らして、斯流の名画がこの所に成れりとも思はれず。頭からこれ    が大画人の住まひと心づくは稀れなるべし。彼れは炯々たる目にあたりを見廻はし、やうやう六、七寸    に伸びたる白き顎鬚掻い撫でて、江戸ッ子の全盛を語り」
    これまでが前文である。記者は明らさまに、国周の貧乏暮しをしていることを筆にしている。

     二    「わたしは全体変り者で、親父からして、よッぽどおかしいのです。じじいは何といったか知らないが、    何でも湯島の大工で、門徒だったから、今戸の本立寺に墓があります。けれどもお袋は、子供の丈夫に    育つようにと、親父を勧めて一代法華になったから、わたしは門徒と法華とごちゃまぜにしているので    す。     そこで親父は、京橋三十間堀七丁目の家主で、大島九十(クジユウ)という者、お袋は御数寄屋同心荒川    三之丞の娘お八百という者で、わたしは三十間堀七丁目の家で生れた。御城下の京橋ッ子です。少し恥    を話さなくちゃア分らないが、親父はね、股の後へ、河童がけつへ指さしをしている彫り物を彫ってた    から、河童の九十といわれて、どうも家主には似合わないいなせな男だったのです。お袋だって、若い    時分に、親父を見染めたか何かして、一緒になったに違いない」
    諸書に、国周の父の名は、九十郎としてあるが、国周はただ九十としている。

   「一体私は次男で、兄は長吉といったが、わたしには、親父が九十で、お袋がお八百だからッてんで、    八十八という名を附けたんだ。それだから苗字は大島だが、それがなぜ荒川八十八となったかというと、    どうもおかしいんだ。わたしが十三、四の時分です。苗字御免ということがあったが、その時、兄は大    島なんで苗字は、気が利かないと、妙に考んで、お袋の里の荒川を名乗って出たから、家中がとうとう    荒川になってしまったんです。まあここらからして変っているから、どうせわたしだって人並でない」
    国周は天保六年生れで、その十三、四歳といえば、弘化四年か嘉永元年であるが、その頃に苗字御免    などということがあったかどうかを知らぬ。

   「親父の時分にゃア身上もよかった。そうして通三丁目へ奥州屋という湯屋を開いたが、何だか気に食    わないというので、そこを譲って、南伝馬町へ兄貴が押絵屋を出したから、わたしも押絵をやって見よ    うというので、そこを譲って、一遊斎近信(チカノブ)の弟子になったが、全くこれが手ほどきで、それか    ら二代目豊国の弟子になった」
    一遊斎近信という押絵師については、何ら聞くところがない。二代目豊国は即ち国貞で、天明六年に    生れた。国周には四十九歳の年長で、大分年が離れていた。     国周の画く人物の顔がどこか押絵臭いのは、最初押絵の顔を画いていたかららしい。

   「二代目豊国は田舎源氏の挿絵を画いて、名人豊国といわれた男だが、わたいはちょうど十七年の間、    そこで修業した。師匠も初代豊国のところに、十七年いたということを後で聞いたから、どうも不思議    なことだと思った」
    国周は、嘉永元年に、十四歳で二代目豊国に入門したのであろうか。そうすると元治元年まで、十七    年就いていたことのなる。

   「そこでちょっと話して置きますが、わたしは生れたところを離れてから、今までに百十七回引ッ越し    た。自慢ではないが、北斎は生涯の内に、八十余度引ッ越したというけれども、引ッ越しの方では、わ    たしが兄分だ。勿論その引ッ越しは、一日の内に三度もやったことがあって、随分おかしかったから、    引ッ越したことだけは、ちゃんと日記に附けてある。こういう風だから、何をしたのはどこにいた時だ    というのが、おりおり前後するかの知れない。これだけは前からお断り申して置きます」
    国周の転居は、生涯八十何回に及んだとなどともせられているが、国周自ら百十七回と、はっきりい    っているので、北斎の上に出ている。

     三    「さてわたしが始めて世帯を持ったのは、柳島の半四郎横町で、女房はお花というんだったが、その時    分新門(シンモン)の辰五郎が幅を利かして、その子分が二丁目の芝居をてんぼうで見たことから間違いが起    こって、二丁目を荒らした。そこで京橋の清水屋直次郎という板元が、その喧嘩の絵を画いてくれろと    頼みに来たから、わたしは新門の子分を彦三郎、菊五郎、田之助の似顔に見立てて、棒を持ってあばれ    ていると、黒ン坊が向うへ逃げて行くとこを画いて出版さしたところが、新門の方では、子分どもが喧    嘩に負けて、逃げて行くとこだといい出して、大勢でわたしの家を打ちこわしに来るという騒ぎだ。そ    うしてそのついでに、五ッ目の師匠の家も、メチャメチャにこわすというんだから、わたしも驚くし、    師匠も心配した。すると師匠の弟子に、芳艶(ヨシツヤ)というのがあって、これが新門の子分だったから、    わッちが仲裁して見ますッて、骨を折ったので、まアいい塩梅に、それで和解が届いた。     ところがその時分わたしが売出しで……自分の口からそういってはおかしいが、師匠の絵よりいいと    ころがあるなんていう者があったから、このしくじりの過料に、国周という名を師匠に取揚げられてし    まった。それから仕方なしに、わたしは一写斎という名で絵を画いていると、それもならないてンで、    師匠が板元の家を、方々断って歩いた。そうこうする内、篠田仙魚という、後に員彦(カズヒコ)の名を勝    手に名乗った人が仲へ這入ってこられて、ようよう国周の名を返してもらったが、どうも一時は弱った    ね」
    芳艶は、藤懸(静也)氏の著『浮世絵』に、国芳門下として、名前だけが出ている。明治六年には、    まだ健在であった。     篠田仙魚、作名員彦は、二世笠亭仙果となった篠田久次郎であろうか。それならば、『月とスツポン    チ』の発行者である。明治十七年に四十八歳で歿したことが、『狂歌人名辞書』に見えている。
     〈「てんぼう」は「伝法(デンボウ)」芝居関係の隠語で「タダ見」。「五ッ目の師匠」は三代目歌川豊国(国貞)のこ     と。その豊国門人の国周が「師匠の弟子に芳艶というのがあって」という、これだと芳艶は豊国門人になってしま     うのだが、どうなのだろうか。この浅草の大親分・新門辰五郎の子分との騒動、国周が新所帯を構えた頃とある。     参考までにいえば、天保六年(1835)生まれの国周の二十歳は、安政元年(1854)。結婚の正確な年次は分からない     が、一時的に一写斎を名乗ったのもこの頃なのであろう。なお、最初この芳艶を二代目と考えていたが、豊国三代     の没年が元治元年(1864)であること、国周の結婚時期等を勘案すると、慶応二年(1866)没の初代芳艶とするのが適     当だと思う。2011/12/11追記〉      「その後、わたしア日本橋の音羽町へ新宅を拵えたことがある。それは随分普請もよし、植木は皆芸者    の名を附けて、ちゃんと出来上ったから、国輝(クニテル)がその時分やかましい奉書一枚摺へ、額堂の絵を    画いた散らしを撒いて、いよいよ新宅開きとなった。音羽町というところは、岡(オカ)ッ引(ピキ)なんぞ    が多く住まっていたが、わたしは豆音(マメオト)さんという岡ッ引の世話になって、着物なんか貰ったから、    その礼廻りをした。帰って来ると、昔、今紀文といわれた山城河岸の津藤だん、猩々暁斎(シヨウジヨウキヨウ    サイ)、石井大之進という、上野広小路へ出ている居合い抜きの歯磨き、榊原藩の橋本作蔵という、今の    周延(チカノブ)なんぞが大勢来ていた。     けれどもわたしも酔っているから、二階へ上って、つい寝てしまうと、何だか下でがたがたするから、    目を覚まして、降りてッと見ると、暁斎め、酒に酔ったもんだから、津藤さんの着ていた白ちゃけた彼    布(ヒフ)を脱がして、びらを画いた丼鉢の墨ン中へ、そいつを突込んだ。津藤さんはにがい顔をしている    と、暁斎はそれを引きずり出して、被布中一面に河童さんを画いちまった。あれも酒がよくないから、    みんな変な顔していると、今度は唐紙へ何か画くてェんで、畳台の二つ三つ庭へ並べ、その上へ二階の    上り口に建ててあった、がんせきの新しい襖を敷いて、机にしたもんだ。そうしてその上で絵を画くん    だから、芸者が墨を持って立っているのもいいが、拵えたばかりの襖の上を、どしどし歩くから、ポコ    ポコ穴が明く。そこでわたしも、あんまり乱暴で見かねたから、傍へ行って、暁斎坊主、ひどいことを    するな。よしなさい、といったが、酔っているから、つんけんどんにやったんだろう。     そうすると暁斎め、持っている筆で、わたしの顔をくるりと撫でて、真ッ黒にしてしまったから、わ    たしも怒る。歯抜きの石井大之進は、暁斎の奴、反ッ歯(ソッパ)だから、おれがそいつを抜いてやると、    りきむし、周延の橋本作蔵は刀を抜いて、斬ってしまうぞと飛びかかったから、暁斎め驚いて、垣根を    破って逃げちまったが、その時分中橋の紅葉川の跡がどぶになってたんで、そこへ落ッこちたから、ま    るで溝鼠(ドブネズミ)のようになったのは、わたしの顔へ墨を塗った報いだと笑った。     けれども暁斎は、あれほどになるだけ感心のことは、その後わたしの家へ尋ねて来たから、それなり    に仲が直ってしまったが、周延が刀を抜いた時には、どうもひどい騒ぎで、往来も止まるくらいだった」
    国輝は、明治七年に四十五歳で歿した二世国輝であろう。周延は、明治の浮世絵師として多くの作品    を残している。『浮世絵辞典』には、橋本直義の本名を記して、作蔵と称したことは書いていない。榊    原藩というのは、越後高田の榊原侯をいうのであり、右辞典に越後の人としてあるのと合う。然るに同    辞典の後に、幕府の御家人だったなどとしてあるのは従われぬ。     津藤さんとあるのは、森鷗外の書いている細木香以(サイキコウイ)である。よって私は改めて鷗外の香以伝    を読返して見たが、その中には、国周も暁斎も出ていなかった。     暁斎が国周の家の新宅開きに、酒の上で乱暴したことは、外のものでも読んだ記憶があるが、何であ    ったか、今思出されない。但し暁斎の酒癖の悪かったことは、諸書に見えている。     歯抜きの石井大之進などのことは、知るところが全然なかったが、明治三十五年八月中の『東京朝日    新聞』に連載した閑文字(カンモジ)「涼み台」の第二十七回に、六阿弥陀前に定店を出していたこと、面    白い男で、仮名垣魯文などとも親しかったことなどが見えていた。

     四    「一遍こういうおかしいことがある。そりゃアあッしが向島にいた時だったが、常陸の金子という医者    が須田という大尽(ダイジン)と一緒に、あッしのとこへ来たことがある。この二人は、どッちも大金持で、    前の年にあッしが絵と頼まれて画いたんで、懇意になったんだが、どッかへ飲みに行こう、というんで、    不忍(シノバズ)の長蛇亭へ上った。そこでさんざん飲んだり、喰ったりしたあげくに、女郎買に行こうと    いうから、宜(ヨロ)しいッてんで、あッしが案内して、仲の町の初音屋から、品川楼へ押上った。あッし    の女は、二枚目の金州ッて昼三(チュウサン)で、なかなかの器量だったが、権高(ケンダカ)でもって、あッし    が拳(ケン)を打ったり、洒落をいったりするから、何でも野太鼓(ノダイコ)か何かと思やがったんだろう。    つんつんしていたッけが、座敷が引けてから、あッしア一人で部屋へ行って、夏のことだったから、蚊    屋(カヤ)ン中へへえってた。     すると金州め、新造と一緒とやって来やがって、いきなり、お前は何だえ、てえから、小癪に障った    が、怒るのも野暮だ。なに、おれか、おらア絵かきよ、というと、金州は、フウン絵かきかえ、そんな    ら何か画いて御覧ッて、新造にいいつけて、赤いところへ金を撒いた、立派は紙を持って来た。それか    らあッしが、こう蚊屋ン中から首ばかし出して、さア墨を磨(ス)んねえ、ッてんで、新造にごりごりや    らして、筆を執ると、金州め、何が画けるもんかってえ風で、立膝アして、側に見ていやがった。いめ    いめしい奴だと思ったが、こいつア絵なんか画いちゃア面白くねえ。一番こうしてやろう、とドップリ    墨を附けたまンま、紙一杯にのの字を画いて、『のしのまま風こゝろみる団扇かな』と、あんまり旨か    アねえが、即吟を書いてやった。そうすると金州が、オヤオヤ洒落てるよ。なかなか生意気だねえッて、    まだ冷かしやアがるから、いい加減に切上げて、あッし一人、先へけえッちまった。     それから三日ばかりすると、あッしの隣へ、四十五、六の年増が来て、国周さんという、絵の先生の    お宅はどちらです、と聞いてるから、お花、今隣で内を聞いてる奴があるが、多分借金取りだろう。来    たら留守だッていえ、といってる内、その女がガラリと表を開けてへえッて来たから、もう隠れること    も出来ねえ。どちらからお出なすった、と尋ねると、オヤ先生ですか、ッて、上って来たのは、品川楼    の新造さ。大きな菓子折をそこへ出して、これはおいらんからおつかい物でございます。先夜はお見そ    れ申して、まことに失礼いたしましたから、宜しくお詫を申してくれろと、いいつかって出した。それ    に、どうぞもう一度、是非お出下さるように願ってまいれと、くれぐれも申されました。決して御散財    はかけませんから。……ねえ先生、今晩にもどうぞ、ッていうんだ。こン畜生、おれを田舎者か何かと    思やアがって、江戸ッ子が女郎に呼ばれて見ろ。普段十両使うところは、二十両も三十両も使わなくち    ゃアならねえ、と思ったが、そうもいえねえから、はい、いずれまたその内に、折があったら……、と    澄まして挨拶すると、かかアめ、側でプリプリしていやがった。     そうすると女はまた、風呂敷に包んだものを出しかけて、先日お書き下さいましたのを、後で主人に    見せますと、これは全く国周先生に違いない。先生の絵は沢山あるけれども、字はまことに珍しいから、    額にして、大切にしておくがよいと、こう申されましたから、早々こういう風に仕立てさせました。と    やがて風呂敷をのけたから見ると、あッしが乱暴書きしたのが、立派な額になってるンだ。ざまア見や    がれ、おれの名を聞いて、びっくりしたろうと、少し溜飲を下げたが、女はまた両手をついて、それで    この額に、先生の御印がございませんのは、いかにも残念だから、お詫びかたがた出て、一つ御印を願    ってまいるようにと申すので、まことに恐入りますが、どうぞ……、というから、ウンよしよし、と今    度は横柄に、あり合わせた朱印を捺(オ)してあやったが、跡々どうしたか、何でも金州は、よッぽどあ    ッしにこがれていたに違えねえ」
     五    「あッしアいってえ大酒飲みで、負けることが大嫌えな性分だ。或時、あッしア間部(マナベ)河岸へ、立    派な普請をして住まったが、これもちょうど夏でね。役者の時蔵が、大川へ屋根船を二、三艘浮かして、    めッぽう金びらア切るんだ。何でも柳橋の芸者ア十二、三人も揚げづめで、ドンチャンドンチャン大騒    ぎだから、あッしア内に聞いてて、何だこの端(ハ)した役者が、てえそうもねえまえエしゃアがって。    よしこッちも一番向うを張ってやれと、銭もねえくせに、屋根船を五、六艘乗出して、ドンチャカドン    チャカ腕ッこきの芸者や太鼓持を集めて、せり合った。がとうとう敗北して、借金は山の如く、拵えた    ばかりの家は、北岡文兵衛さんへ、三百両の片に渡しちまい、外の借金のために願われて、身代限(シン    ダイカギ)りを食らった。何でも東京で身代限りを食らったのは、あッしが二番目ッてこッたから、せめ    てもの腹癒(ハライ)せに、こうしてやれッてんで、身代限りの言渡し書を、一両三分出して、胡麻(ゴマ)    竹縁(チクエン)の額に拵え、それを家の前へ、麗々と掛けといた。こいつは面白えッてんで、しまいにゃア    大受に受けたなアおかしかった」
    役者の時蔵は、後の三世歌六(カロク)である。嘉永二年の生れで、国周には十四歳下である。吉右衛門    兄弟の父親で、その晩年の舞台を、私なども知っている。     「東京」の二字には、トウケイと振仮名がしてある。

   「勿論この身代限りは、時蔵の一件ばかりでなく、こういうことも手つだったんだ。その時分、林大学    頭の妾が、池の端に住まっていたが、その兄てエのは、加賀鳶の歌ッてエんで、随分顔の売れた奴さ。    こいつが、どういうわけだったか、国周が入牢したッて、いい触らして、宗十郎、小団次、半霓四郎、菊    五郎なんかンとこから金を集めて、使ッちまった。どうもひどい奴で、あッしが役者の似顔を画くもん    だから、それを種にかたりをしたんだが、後で聞いてびっくりした。けども、歌もいい顔の男だから、    赤い着物を着せるでもないと思って、あっしが金を拵えて、役者ンとこへ返しに廻ると、宗十郎が、ど    うしてもその金を受け取らねえ。仕方がないから、鮨の折か何か配って、ようよう歌の尻をぬぐッちま    ったが、借りた金は、みんなあっしが飲み食いして、引ッ使っちまった。     さアそんなことが溜まったから、忽ち身代限りを出したんだが、その内にゃア湯島の小笠原検校から    借りた金もあった。小笠原検校ッてえのは、目明きでしこたま金エ持ってて、禁廷様にお目にかかった    なんて法螺ア吹く人だから、妙にえらがってたが、あッしが身代限りの言渡し書を家の前へ掛けたッて    えのを聞いて、その金は、みんなあッしにくれるッてッた。そうして唐紙へ、『国周先生いさゝかの事    によりて、家作を棄てけるも、遊民の心を察しぬれば、実にことわりとぞ思ひ侍(ハンベ)る』として、    『慾徳の世渡船の梶次第どうせ阿弥陀にまかす身の上』ッてえ狂歌を書いてくれたから、もう何だか感    心しねえ文句だが、借金をはたらねえのはありがてえから、恭しく頂戴仕った。江戸ッ子の生れそこな    い蔵を建て、かね。娑婆ッ気ばかり出してたから、あッしもとうとういい身上をめちゃめちゃに磨(ス)    っちまった。負惜みじゃアねえが、絵かきなんてものは、金のねえ方がさっぱりしていいよ。なに金が    ねえたって、米や酒に不自由なしねえんだ」
    画工などは、金のない方が、さっぱりしていいというところに、江戸ッ児らしい国周の人物が出てい    る。

     六    「米や塩に不自由しねえッてば、こういうおかしなことがある。わっしが銭を使ッちまって、馬道(ウマ    ミチ)七丁目の滝野ッてえ内へ居候した時分、詰らねえから上州草津へ湯治に行った。すると湯治場で懇    意になったのが、武州岩槻の鈴木由三郎さんてえ大きな造り酒屋だ。酒を造るところを密画にして、成    田の不動様へ納めたいから、内へ来て画いてくれまいか、というから、ありがたい、大旱(タイカン)の雲霓    (ウンゲイ)だ。じきに出かけてくと、どうも大した内で、百人からの奉公人が、どしどし酒を造ってる。    さア先生こちらへ、てんで、奥の一番いい座敷か何かへ通り、毎日御馳走になっちゃア画き画きして、    ようよう出来上ったその額は、今でも成田に納ってるが、けえる日の前に、朝ッから始めて、日の暮れ    まで飲んだが、何でも五、六升じゃア利かなかろう。燈がついて、また飲直すてんで、膳を代えると、    旦那どの七五三、三組の盃を持出した。まず一番小さい三合入りの盃で一ぺえ、古酒のどろどろするよ    うな奴を引ッかけて、それから五合入りと七合入と、見事に飲んでしまった。     あっしの酒量にゃア、さすがの旦那どのも驚いた様子、さアこれが絵のお礼だ、てンで、金を二百両    貰ったから、これで東京へ帰ろう。家には娘も待ちくたびれてるからなンて、思い思い一と寝入しする    と火事で、あっしも畳なんか持ち出してやったが、大きい家だから、焼けたッてびくともしねえ。すぐ    に普請も立派に出来た。     ところがあっしが翌朝帰ろうとすると、旦那どのが、先生は酒がすきだから、これをお持ちなさいッ    て、一斗五升ばかりへえる酒樽を一つくれた。何よりありがたいてンで、それを車の下へぶら下げて乗    っかったら、まるでお祭の山車見たいだ。一里ばかり来て、そいつを片口に二へえばかり出して、車屋    と二人で飲むと、さア面白くッてたまらねえ。チャリンチャン/\テケストドン/\と囃しをしながら、    車の上で踊ッてるから、往来の者が、おかしがって振返る。子供は大勢、ヤーアてんで、車の後へ附い    て来るから、どうもいい心持でこてえられねえ。チキリンチャンでもって、大沢まで来ると、いつかそ    の酒樽の紐が切れて、どッかへなくなっちまった。     さア大変、折角大事にして、東京へ踊込もうと思ったに、肝心の酒をなくしちゃア仕様がねえてンで、    車屋を走らして、跡を見せたが、一向分らねえ。拠(ヨ)んどころなく警察署へ届けたが、間抜け切って    るから、あっしはただ今岩槻からまいる途中で、酒樽を遺失いたしました。勿論金高にいたしますれば、    些細なものでございますが、その酒はひどく酔う酒で、御覧の通りあっしがそれを飲みまして、気狂い    のようになッとりますのがけち然たる証拠、万一拾取(ヒロイト)りました者が、それを飲みまして、狂乱い    たしては相済まざることと存じて、お届けいたしますと、まアこう屁理屈を附けたんだ。すると警察で    もおかしがって、クスクス笑いながら、もし拾取った者が届出たら、早速沙汰をするから、といったが、    とうとう出なかった。東京でしくじって草津へ行き、そこで懇意が出来て、一月ばかり遊び遊び仕事を    して、二百円の金を貰ったから、金銭はいつでもこの通り、食うに困るなんてえことは、腰抜けか骨な    しのいうことと思ってるが、酒樽をなくした時ばかりは、どうも惜しくて惜しくてたまらなかった」
    国周が画いて、岩槻の鈴木氏から成田山へ奉納したという額は、無事であるか、いかがであろうか

     七    「あッしゃア似顔かきだから、役者は皆附合うが、団十郎ッて奴は、初めッから気に食わねえ。いつだ    ッけか、団十郎が暁天(アカツキ)星五郎の芝居をしたことがあったから、あッしがそれと菊五郎の小栗馬吉    を画いた。その時団十郎が、菊五郎とこへ行って、絵かきなんて者は、役者に金を出して、似顔を画く    のが当り前だのに、国周はどうも横柄だ、とか何とか、ぶつぶついったッてえから、あっしも癪に障っ    た。それから西郷隆盛の芝居をやった時、わざと団十郎の西郷を出目に画いて、少年隊には、団十郎の    弟子を一人も画かなかった。すると団十郎が、それと気が附いて、なおぷりぷりするから、三枚続き一    人立ちの団十郎は決して画かないと極(キ)めて、どこから頼まれても断ってたが、嵐吉六、今の坂東喜    知六がそれを聞いて、あっしに意見をするし、板元の方でも、まア我慢して画いてくれ、というから、    また画くようになった」
    国周が九代目団十郎と融和しなかったのは、性格的に相容れないものがあったのであろうが、団十郎    のまだ健在であった明治三十一年に、
国周が明らさまにそのことを口にしているのは正直でいい。
   「この喜知六といふ男は、なかなか如才のない男で、筆も執れるし、風流気もある。まア役者の中で文    字のあるというのは、あっしは仲がよくないが団十郎、それから喜知六、故人になった団六くらいのも    んだろう。団六てえ男は、なかなかいい奴で、あッしも及ばずながら引立ててやったが、俳名は青松庵    飛猿(セイショウテイヒエン)といいまして、それは古人の、『猿飛んで一枝青し峰の松』てえ句が実にいいてンで、    自分で附けたんです。そうしてよく物を弁(ワキマ)えた方だったから、『風やみて田螺の動く水田かな』    なんてえ句もあります。     あっしが発句の講釈をするでもねえが、世の中に産の軽いのは犬で、重いのは田螺だ。田螺が産をす    る時にゃア、殻から抜け出して、草の根や棒の端へ、子をひりつけるんだから、風が強いと、その殻を    吹き散らされて、けえる内がなくなるといいます。こいつを知っているから、奴がこの句をよんだんだ    が、でもじゃアとてもこうは出来ねえ。よッほど前に、あの男が郡代に住まってたことがありますが、    その時、近所から火事が始まって、両国橋ンとこまで焼払った。団六は焼け出されて、僅かばかり取出    した荷物の側に、がたがた顛(フル)えてたが、師匠の松露(ショウロ)が来て、さア団六ここだ。早くやらねえ    かッてえと、団六もすぐに気が附いて、すぐによんだのが、『古草や焼けてさはらずつくつくし』。松    露も感心して『白魚の目にも涙かこの火かげ』とやった。どうも火の中でこのくらい出来るのはえらい    もんで、あッしなんざアとても及ばねえ」
    団六のことは、まだ調べても見ない。
    〈「読売新聞」によると、団六は市川団六という俳優で、同年1月4日死亡の由。国周は役者似顔絵を作画するとき団六      のアドバイスを受けて画いたとされる 明治24年の項参照〉
   「喜知六にも句があります。しかし才物だから、洒落文の方が旨い。この間、講釈師の南国が越後へ行    った時、或客に呼ばれて料理屋へ行くと、立派な官員さんが大勢いて、芸者を揚げてたが、その中へ七    十ばかりの爺さんが、御前御前といわれて、豪然威張ってた。南国め、どんな爺さんかと思って、よく    よく見ると、なアにこれが坂東喜知六なんだ。不思議だと思ってると、先も苦労人だ。別の座敷へ南国    を呼んで、いや珍しいな、昔馴染に一杯やろうと、あぐらを掻いてやり始めたが、喜知六め声を低うし    て、おれもナ、娘がここの知事に引かされて、首尾よく北の方と御出世遊ばしたから、こちらへ来れば、    御前御前で威張ってられるんだ、と話したそうだ。南国は嘘をつく男じゃアねえから、それをほんとう    とすれば、喜知六の娘というのは、新橋ですずめといってた芸者に違えねえ。何にしても利口な男さ。    団十郎はまた一層博識だが、発句は駄調が多い。絵も少しは画くが、ああ天狗になっちまっちゃア仕様    がねえ」
    その後に、
「彼はなお旧幕の頃より揮毫せる大画の仏墺米等へ送れる名誉のものについて諄々(ジュン    ジュン)せしかど、ここにわざと省きぬ」と附記してあって、それでその談話は終っている。     講釈師の南国のことも知らないが、気を附けていたら、何かにその名は出ているであろう。喜知六は、    顎がしゃくれていて、散蓮華(チリレンゲ)という異名のあった役者で、半道(ハンドウ)で知られた。明治三十    四年十月十三日に歿したことが、『歌舞伎年表』い出ている。散蓮華の名附親は、黙阿弥だったらしい    という。     最後に、呉文炳(クレフミアキ)氏の『豊原国周役者絵撰集』という大きな図録が、数年前に刊行せられてい    ることをここに書添えて置こう。国周が団十郎をわざと出目に画いた、「西南雲晴朝東風(オキゲノクモハラ    ウアサゴチ)」の役者絵もこれに収めてある。少年隊の子供三人も、それに画添えてあって、子役の名が、    幸作、菊之介、仲太郎としてある。小島烏水氏に、この国周の浮世絵を論じた一文のある由が、右の呉    氏の編著の解説に見えているgあ、つい一見するに及ばなかった。但しここに挙げた国周の談話は、そ    れは引いてなかった。     以上を書いてしまってから、なお一事に気が附いた。人間が江戸ッ児肌に出来ていて、団十郎と反り    の合わなかった国周は、同じ意味で、師匠の豊国とも、何か気持のしっくりせぬものがあり、それで伝    統的な歌川姓をも名乗ることもしないで、豊原などといったのであるまいか。そんなことも考えられる    のである。     なお本稿の起草に当って、篠田仙魚のことその他に、向井信夫氏の示教を得た。ここに謝意を表する〟