Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ 国周の人柄浮世絵師名一覧
 ◯『浮世絵』第二号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵師掃墓録(二)」豊原国周 荘逸楼(17/24コマ)   〝 近世似顔絵の名手だつた、豊原国周は天保六年の生れで、江戸京橋五郎兵衛町の大島屋と云ふ湯屋の    二番子息、本名を荒川八十八と云つた、幼少の時から絵が好きの所から、四日市に近春と云ふ羽子板の    弟子となり、面相書きとなつた、で重に数寄屋河岸の羽子板屋明林堂の仕事をして居たが、後三代豊国    の門に入つて国周と云ふ名を授かり其衣鉢を伝へ、明治の豊国と云はれた人だが、妻を取替へるのと、    移転数きと云ふ妙な癖があつた。     女房を取替えた数を 或人が聞いたら四十人迄は分つたが、其先は分らないと云つた、連添ふ当人が    分らないと云ふに至つては惘(あき)れざるを得ない、それから引越した数だが、これも北斎の九十度に    殆ど遜色のない、一生涯八十三度の多きに達して居る、今日移つて来てどうも居心の悪い家だなと思ふ    と、直ぐ翌日他へ移転(ひつこし)て仕舞ふ、甚しい時は一日の内に三度も移転した。荷物を下さない内    に厭になつて、そこへ車を置いたなり、他(わき)の空家を探すと云つた風だから、三度目には日が暮れ    て、もふ一度引越そうとしたのを思ひ止まつたと云ふ話しがある。     今一つは酒の上が悪かつた。飲むと前後の差別が無くなつて暴れる、醒めての上の御分別で、いつも    後で悔んで居た 朋輩だつた梅堂豊斎翁などに、今日は梅(ばい)さん(梅堂の略称)少し懐中都合が悪い    から二合でおつもりにしよう、二合になつたら一寸そう云つておくれ、イヤ大丈夫 怒るなんて事はな    い 宜(いゝ)かへ頼んだぜと 約束をして飲始める、ところがこの二合と云ふのが一番いけないところ    で、ヲイ二合だよと注意をすると、ナニ二合がどうしたんだ、止めろ、ナニが止めろだ、うぬが銭でう    ぬが飲むのに止めろとはなんでへ、ビク/\するナへ、江戸ッ子だ、なんて夫からモウ乱痴気なし、ガ    ブ/\やつつける、翌(あく)る日になると、梅さん あれ程頼んで置いたのに、スツカリ羽目を外しち    やたんで仕様がねへぢやねへか、又一かせぎ仕なくちァ追付かねへ等(など)と云ふ事が応々あつた。     生粋の江戸ッ子肌で、市川団蔵(其頃九蔵)の弟子に名題下で団六と云ふものがあつて、年中ピー/\    風車で苦しん居たのを、国周は見兼ねて、其借財を引受け 自身は裸になつて、其苦境を脱してやつた。    又困窮(こまつ)た人間が来ても自分の懐中が淋しい時は、そこに居合した来客でもあれば往生 その人    の莨入でも何でも一寸借るよと云つて 其男に遣らうとする、それを拒めば、宜いぢやァないか お前    さんなぞは幾何(いくら)でも買へる身分だあ、そんなに吝々(けち/\)するにやァ及ばねへ と人のも    のだらうが何だらうが構はない、サッサッと遣つて仕舞ふような、一寸脱線した事もやつた。     明治卅三年七月一日、病の為八十三度目(たびめ)に移転した、吉原土手下の寓居に没した、年六十六、    寺は浅草今戸の真宗大谷派本龍寺で(中略 墓)題石に大島屋とあるのがそれで、法名を鴬雲院釈国周    と云ふが 墓には刻んでない、又本堂の右手に門人だつた、羽子板の面相(めんそう)書 湯川周丸が発    起で、一周忌の法要に辞世を刻した碑を建てた、其歌は      よの中の人の似かほもあきたればゑむまや鬼の生うつしせむ     子供は三人あつたが、総領の女は早世し、二番息子と三番娘は寺へも参詣に来ぬ所を見ると 生死不    明である、只時々周丸と朋輩だつた梅堂翁が香花を捧(あ)げる位ひで、自分の参詣した時は、花立の溝    には石ころが幾つも擲り込んであつて 竹筒も行方不明。それでも感心に水は湛えてあつたが、中には    孑孑(ぼうふら)がウヂャ/\発生(わい)て居た     この人の傑作としては、若い頃に描いた大首に梅幸百種、市川団十郎演芸百番等であつた〟