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☆ きよかた かぶらぎ 鏑木 清方浮世絵師名一覧
〔明治11年(1878)8月31日 ~ 昭和47年(1972)3月2日・94歳〕
 ※『こしかたの記』鏑木清方著〔中公文庫〕   「近代書誌・近代画像データベース」国文学研究資料館  ☆ 明治二十四年(1891)    ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   ◇「年方先生に入門」p87   〝 母に連れられて、神田東紺屋町の年方先生の許に弟子入りしたのは、明治二十四年七月なかば過ぎて    のことであった。先生は慶応二年の出生で、その時はかぞえて二十六歳になる。父は野中吉五郎と云っ    て左官の棟梁であったから、塗家造りの土間には、大小さまざまの竈(ヘツツイ)が列んでいた。     大半紙一枚に朝顔の鉢植を、毛筆、淡彩で、覚束なく写生したものが、古い綴込帳に見出される。そ    の日附には八月一日とある。それが弟子入の後、通学の第一日なのであろう。これを見ていると、その    日の思い出が銀幕に写し出される古い映画のように、ぼやけながらも印象は蘇る。店蔵の竈の間を縫っ    てはいると、木造二階建が狭い中の間と共に建て継いである、その二階が先生の画室になっていた。南    北に高窓があって、東は二尺足らずの掃出し廊下が附いたのを背にいして、丈は低いが、平たくて大き    い机を据えて、先生はいつも挿絵をそこでかいていられる。私はその前に、机の左側を師の机にピッタ    リ寄せ、南側の高窓の光線を正面に受けた座に着いた。その世話は先生の御新造のしてくださるに任せ    て、私はただ「ここへ御坐りなさい」と、御新(ゴシン)さんの云うなりになっていた。もう少し前までは    三、四人の通い弟子が来ていたこともあったが、巣立をした小山光方、竹田敬方の二人が時々機嫌きき    に見えるだけで、通うのは私一人きりであった。入門第一日目の課題として、写生の他に、丁度その時    連載され始めた桜痴居士の小説「天竺徳兵衛」第一回の挿絵を、礬水(ドウサ)のない薄美濃に敷きうつし    をすることであった。浪人すがたの徳兵衛が故郷に帰って柴刈娘に道を尋ねる。その黒の着附の線を除    けて、濃墨でベタ塗りにしたり、直線を定木で引くとは知らないので紆々(ウネウネ)に引いたところが、木    版下の場合には、黒の衣裳なら、線を除けて塗るに及ばず、薄墨を塗って置けば、彫師が心得て黒く出    るようにしてくれるのだと云うことも、直線は竹の曲(カネ)尺を定木に使って引くものだとういうのも、    たちどころに解って、習うことのありがたさを知った〟     ◇「年方先生に入門」p97   〝 父(条野採菊)の経営していた新聞(「やまと新聞」)も、戦争(日清戦争)などがあって元のよう    にはゆかなくなり、先生はまだ関係は断たれなかったけれど、私ば半ば引き継ぐような形になって来た。    新聞代を払う読者は遠慮がないから、不評判の投書はかなり来たらしい。絵を始めてから四、五年、十    七、八の青二才には重荷過ぎた〟       ◇「年方先生に入門」p96   〝 私が通っていた頃には、月に二度ぐらい鳥越に住居のある省亭さんへ行かれたのを知っている。大き    い折本にみごとな附立ての鶴のかしらを見た覚えもある。またその他にも、松原佐久と云う故実家にも    就いて、有職故実を学ばれた。小堀鞆音(トモネ)、梶田半古の両先生との交遊もそこから始まって、まだ    若々しい梶田先生を、紺屋町の二階に見たこともある。また、先生は、松原さんへ来るまだ若い人だが、    吉川(キツカワ)霊華と云うのは今に立派なものになる、と推奨していられた。私が十七、八だったろうから、    吉川さんは二十そこそこであったのであろう。これが吉川さんの名をきく始めであった。     私はその時ひたすら挿絵の新風を追って、専ら、桂舟、永洗の画が見られる雑誌を漁り、春陽堂の単    行本はなかなか買いきれないので、貸本屋から借りては口絵を敷き写しにして、色ざしをする。今も手    許に残るその三つ四つを取り出して見ると、拡大鏡を使っても、髪の毛筋などの筆さきがわかりにくい    のに、彫師はよくもこういう版下が彫れたものだと感心する〟      ☆ 明治二十六年(1893)    ◯『こしかたの記』   ◇「大根河岸の三周」p56   〝(明治)二十六年四月大根河岸に祭礼があって、踊屋台が出たり、飾り物が辻々出来たりする他に、芝    居で大当たりの塩原多助(前年正月、歌舞伎座にて三遊亭円朝原作『塩原多助一代記』の初演が尾上菊    五郎によって行われた)の昂奮がまだ醒め切らなかったと見えて、多助一代記の絵行燈を河岸中に立て    る話が極まって、年方先生の一門でそれを画くことになった、門弟一同と云ったところで、古い弟子の    小山光方の他は、私(清方)同様まで写し物の初歩段階で、自力でものの形の画けるものは一人も無い。    私は新年の新聞にコマ絵を一度画くことがあって、画号が要(イ)るからと、昔からの仕来りに従って師    匠の「方」の字を貰い、その上に適当な字を師匠がいくつか書いて、そのうちからいいのを択ぶことに    なったので、ここに苔の生えるほど使い古した「清方」の名は出来たけれども、その落款を入れるに足    る画の成るべくもない。河岸の小父さんなる三周(青物市場大根市場の顔役。落語家円朝や尾上菊五郎    の後援者)に、「そんなものは画けません」と断ったが許してくれない。籤引(クジビキ)で引き当てた    私の画題は、大団円になる多助とお花の婚礼の図であった。仕上げはどうやら自分がしたけれど、骨格    となる下画は殆ど先生の手に成ったも同様だから、画いたというより実は写しものに彩色をしたのに過    ぎなかった。何事も質素な時分なので、材料も絹地を使わず寒冷紗に礬水(ドウサ)を引いて用いたので、    それも私たちばかりではなく年方先生もこの粗末な材料に画かれたのである〟    ☆ 明治二十八年(1895)    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治二十八年刊)    清方画    『やまと新聞』2671号付録「鶉権兵衛(初)」桃川燕林 挿絵・表紙 清方 やまと新聞社(8月28日)    『やまと新聞』不明   「鶉権兵衛(三)」桃川燕林 挿絵・表紙 清方 やまと新聞社(不明)  ◯『こしかたの記』   ◇「湯島の住居」p112   〝 あまり物覚えのよくない私でも「たけくらべ」(明治二十八年(1895)刊)のところどころは、今日で    も尚お諳誦出来るほどなので、凡そどんな本でも、あのくらい長い間に、くりかえし読みかへしたもの    は尠ない。美登利を絵にした数もどのくらい有るかまだかぞえて見たこともない。それで思い出すのは、    その頃友人たちと作っていた、美濃紙二つ折の肉筆廻覧本に、筆屋の店の細螺(キシヤゴ)はじき、と、表    の潜戸を開けて、雨の夜道をとぼとぼ帰ってゆく信如のうしろ姿を見送る美登利、「軒の雨だれ前髪に    落ちて」と云う、漆のような外の闇を出そうといくら墨を重ねても、黒くはなっても雨夜の暗さが出な    かった。私は今も折々その絵にめぐり会いたいと思う心のとどめ難いことがある。読後の興奮を胸に懐    いて、純粋なこころで画いた絵には、技ではかけない何かが宿っていよう。私はそれに触れたい。心が    余って技が足りないのは、後で見ても我慢がなる。技が勝って心の足りないのはやり切れないものであ    る〟    ☆ 明治二十九年(1896)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十九年刊)    清方画     『四ツ車大八』  口絵・宜方 清方・表紙 年方    神田伯山  朗月堂(3月)    『船越重右衛門』 口絵 清方 宜方 信方・表紙 年方 邑井一   朗月堂(5月)    『石井源之亟』  口絵 宜方 清方・表紙 年方    一立斎文車 朗月堂(5月)    『蟹のおかく』  口絵 清方・挿絵 年方・表紙 未詳 採菊散人  弘文館(9月)    〈著者採菊散人は清方の実父・条野伝平(号 山々亭有人)〉    『大川友右衛門』 口絵 清方・表紙 年方       放牛舎桃林 朗月堂(10月)  ◯『こしかたの記』   ◇「湯島の住居」p109   〝(明治二十九年頃、清方かぞえて十九才の頃)「僕が小説をかいている、仙台の『東北新聞』に、挿絵    をかいてくれないか」と、岡(劇評家・岡鬼太郎)さんから切り出された時には、急にあたりが明るく    なったような気がした。現に東京で「やまと新聞」へかいてはいるが、これは縁故でかかせてもらって    いるに過ぎない。(「やまと新聞」の社長・条野採菊は清方の父)一本立で友達と組む。こんないい話    はないと、二つ返事で引き受けた〟    ☆ 明治三十年(1897)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十年刊)    清方画    『亀山仇討』口絵 宜方 清方・表紙 年方 一立斎文車 朗月堂(2月)  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第二回 日本絵画協会展 明治三十年三月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    鏑木清方 ひなた 東京      ◯『こしかたの記』   ◇「湯島の住居」p112   〝 三十年の四月に、絵画協会の第二回展覧会があって、その時私は湯島天神の額堂に、赤ん坊を負って    眠る子守をかいて初出品をした。社頭嘱目の画材であったが、下画には先生(水野年方)の朱がはいっ    ているのは云うまでもない。鑑別のやかましくない時代だから落ちはしなかったが、廻覧絵本の「たけ    くらべ」や岡さんの小説の挿絵に注いだほどの熱情はどうしても起こらなかった。     挿絵画家を本来の目的とするものが、展覧会へも出して見る気になったのは、同門以外との交渉が始    まって、他流試合の心が動いて来たからであった。同門の大石雅方は、大蔵省へ勤めの余暇に画の勉強    をしていたが、役所だの、銀行だのに出ている同好の人達が寄って、書画研究会をこしらえ、年に何度    か集まる会合があり、大石もその仲間なので、私も勧められて、十六歳の頃からそれへ加入していたが、    廻覧本に絵をかくだけで、会の方は尻込みをしてさっぱり顔を出さなかった。大石の姉は田中夕風と云    って、北田薄氷(ウスライ)と同じ頃に、紅葉門下の閨秀作家として作品も少しは世間に出ていたが、この人    も平生は教師の勤めをして、弟と共に一家の生計を立てていた。小石川水道町の大石の家で、私は始め    て自分の育って来た環境に見たこともない生活を知り、そのうち大石に誘われて研究会へも出るように    なると、それぞれ流派も違えば境涯も違う人たちとの交際が始まって、ことごとくにもの珍しく、当座    は池に養われた魚が大川に出たようであった。〟    〈「岡さんの小説」とは上記、仙台の『東北新聞』が掲載していた岡鬼太郎の小説〉     ◇「横寺町の先生」p167   〝 始めて此処(尾崎紅葉の横寺町住居)を訪れたのは、明治三十年に、友人山岸荷葉の処女作「紅筆」    が、「新著月刊」の七月号に出るので、私がそれに口絵を画くことになった。私にとってもこれが処女    作で、他の木版彩色の分は、鏡花作「清心庵」に永洗が予定されている。私のは単色の写真版なのであ    った。山岸が私を同道したのは、口絵になる雛妓の図に、先生の題句を望むためであった。三十年と云    えば「金色夜叉」がその元旦から「読売」に出はじめた時で、先生の最も元気の旺盛な時分である。濃    い髪を厚く分けて、目元と口元に、威厳と愛嬌とが入り交って、接するものに、狎(ナ)れ易からず、親    しみ深いという印象を与えるのであった。     山岸は早稲田出身で、逍遙門下でもあれば、一方紅葉社中としても、普通の師弟関係とはまた違った    心易い付合があったせいか、山岸の頼みを聴いた先生は私の持参した絵を机の上に拡げて眺め、ちょっ    との間黙考されてから、どこからか四六判ほどな奉書の紙片を取り出されて、まだ原稿は、和紙へ筆で    書いた時のことだから、筆墨はいつでも机上に整っている。先生はその筆を把るなり       撫子の露を夢みる日なたかな     淡々と書き下された。ちっともこだわりのない無造作(ムゾウサ)な態度には、後々永く教えられるもの    があった。ものの保存にとかく疎かな私も、どうやらこれは、失(ナ)くさずに、今も手回りの筥に収め    てある〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『鏑木清方文集』一「制作余談」「私の経歴」①13   〝浮世絵といはれるのが厭で社会画といふ    私は明治二十四年、十四歳の時に、水野年方の社中に入つた。其の頃の水野社中の研究法は、重に先生    の画かれた新聞の挿絵を写すのであつた。四年ばかり経つて、先生の板下絵に、模様を入れさせられる    やうになつたが、折々下手をやつて、板下を無駄にしたのを記憶して居る。    其の頃の風俗画家は、昔の浮世絵師と同じやうに仕立てられたから、唯頭が散切であるだけで、何の進    歩もして居なかつた。美術協会などから仲間はづれにされて、出品しやうとするものもなかつた。漸く    日本画会が創立されてから、初めて絹に画いて、公開の席に出陳するやうになつた。この時年方は『堀    川御所』を画いた。私達は浮世絵といはれるのが厭で、社会画といふ名を付けて自ら慰めて居た〟    〈日本画会の創立は明治三十一年。この当時、清方ら明治生まれの若い絵師たちは、国芳、芳年、年方等を輩出した徒弟制度     に身をおきながらも、そこから生み出される作品を浮世絵と呼ぶことには少なからぬ抵抗感を抱いていたのである。西洋の     文物に触発されて育ち始めた新しい感性が生み出すコンプレックスなのであろう〉  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十二年刊)    清方画    『国定忠治』   口絵・挿絵 清方・表紙 習古?    宝井馬琴  金槙堂(3月)    『優男の仇討』  口絵・挿絵 年方 清方・表紙 習古? 採菊散人  順成堂(4月)    『敵討荒馬吉五郎』口絵・表紙 正堂・挿絵 清方     双竜斎貞鏡 文明林(11月)  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第七回 日本絵画協会展 明治三十二年三月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    鏑木清方 かざし花 三等褒状    ◯『東京専門書画大家一覧表』番付 東京 市橋安吉編集・出版 明治三十二年六月刊    (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝画 鏑木清方 湯島切通シ坂丁ノ三〟  ☆ 明治三十三年(1900)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十三年刊)    清方画    『娘自雷也』口絵 清方 (未読) 表紙 鳳斎 松林伯円 三新堂(前後編 1月)〈落款一顆未読〉  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第八回 日本絵画協会展 明治三十三年四月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    鏑木清方 霜どけ  三等褒状         暮れゆく沼・冬の朝・稽古帰り  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第九回 日本絵画協会展 明治三十三年十月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    鏑木清方 紫陽花   二等褒状         琵琶行  ◯『第九回絵画共進会日本美術院展覧会/出品目録』(高木源四郎編・日本美術院・十一月刊)   (第九回 絵画共進会日本美術院展覧会 明治三十三年十-十一月開催)    鏑木清方 紫陽花 11,00 ・琵琶行 18,00    〈数字は「売値」11,00は11円〉  ◯『こしかたの記』   ◇「傘谷から京橋へ」p129   〝 病気がちだった私も、明治三十三年を迎えると、どうやら健康を取り戻していた。新聞は、東京の    「人民」と、まだ仙台の「東北」とを受け持っていたのと、吉川弘文館の教科書の版下などが凡そ極ま    ってはいる月々の収入になって、とにかく暮らして行けたが、その頃挿画家としては、春陽堂とか博文    館と一流書店の出版に、口絵を画くところまで行かなければ、力士なら幕内、役者なら名題の数に入っ    たとは云えず、延いては生活の安定も望めなかった。     文芸出版をする書肆には常勤の画家を置いた頃で、春陽堂から社員の田代暁舟が傘谷へ尋ねて見えた    のは、思い設けない「新小説」に口絵依頼の用向であった。内田魯庵の小説「青理想」と云うもので、    色は墨とも四色との限定である。少くとも五、六色なければと思うのだが選り好みをする場合ではない    ので直ちに引き受けたが、まだ色摺ものに慣れぬ不覚さに、必要以上狭義に解釈して、五月号の配本を    見た時は、顔を掩(オオ)いたなるほどの生硬未熟、紅と藍との掛け合せで出る筈の紫などは、むやみに赤    茶ちゃけて拯(スク)い難い安っぽさに墜ちている。こんなことでは二の矢の望みはないと諦めていたら、    その年の内にまた引き続いて頼まれた。あやにく右の眼を患ってはいたが、眼帯をかけたままで執筆し    た。原稿は川上眉山のもので題名は忘れたが、掲載されたのは「新小説」第十三巻であった。二度とも    使いに立った暁舟は竹内桂舟門の秀才で、翌三十四年には「新小説」誌上に、鏡花の「註文帳」と「袖    屏風」とに口絵を画いている。これまでの鏡花ものにある一流の大家の口絵にこれだけ著者を理解して    筆を執ったのは見かけなかった。この暁舟氏はどういう理由か程なく春陽堂を罷めて、その後の消息が    伝わらない。     上野で開かれる絵画協会展覧会春期には、洋画の枠で云えば凡そ十号ほどの、髪をお下げにした幼女    が、溶けかかる霜柱を踏んで往くさまを描いた「霜どけ」を出品した。その時、私の画と隣り合って掲    けられた、ごく小品の「遣唐使」があった。落款には眠草とある。高雅でものしずかな作風に私はただ    ならぬ親しさを懐いて、この画の隣りに並べられたのを何となくうれしく思えたのであった。一年の後    にこの作者と相識るようになったのであるが、それは安田靫彦さんのことである。     その秋には、現代少女がハンモックに眠る「紫陽花」と、潯陽江頭、夜客を送る、と云う「琵琶行」    とを出品した。九月に入ってわが家の裏に工事が始まって制作にもさしつかえるので、前田家の家中の    一室を借りて漸く画き上ることが出来たけれど、その前にこの下画が出来た時に、今までの慣例に従っ    て年方先生に見ていただくと、先生は白楽天が憔悴して見えるのがいけない、と云って、デップリとし    た、酒客で大人らしい風貌に、筆を把ってスッカリ訂正して下すった。たしかにそれらしい恰幅(カップク)    と貫禄は備えたけれど、それでは私の意図に背く、そうかと云って先生の朱筆を無視するのも気が咎め    る。結局どっち附かずの表現に終わったが、それ以来、善くも悪くも判断は自分で極めることにした。     浮世絵の出ではあるが、師の年方が日常歴史画を主として画いた関係もあったろうが、この年の八月    に先生の宅で開かれた研究会では、輝方が「知盛入水」静方が「伊賀の局」私も「劉備」「仁徳天皇」    他に画題を不明ながら寛方の歴史画がある。寛方は後に美術院に属した荒井寛方なので、その歴史画は    不明ながら、私や輝方がこれに筆を染めているのも一つには時世であろう、     容斎派の盛りの頃から歴史画が日本画の主流と見られる傾向を示したのが、日清戦争の済んだ後はそ    の擡頭は一層目立って、歴史画、歴史小説の流行を促した。代表的は出版者であった博文館では歴史関    係の出版は少年ものにも及んでいた。「読売新聞」は歴史画題を募って、日本美術院がこの課題制作を    採り上げた。街頭にはまた「われとにかくになるならば、世を尊氏の代となりて」の歌声が続けられて    いた〟  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十四年刊)    清方画『旗すすき』口絵・表紙 清方 小栗風葉 青木嵩山堂(12月)〈2ページ大折込口絵〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十四年刊)    清方画    『海水浴』 口絵 清方    江見水蔭 青木嵩山堂(6月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『善道邪道』口絵・表紙 清方 大沢天仙 青木嵩山堂(11月)〈2ページ大色摺折込口絵〉  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十回 日本絵画協会展 明治三十四年三月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    鏑木清方 ちりゆく花 二等         雛市・晩夏・遣羽子  ☆ 明治三十五年(1902)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十五年刊)    清方画    『女装の探偵』口絵・表紙 清方  山田美妙  青木嵩山堂(前後編 1・5月)〈2ページ大折込口絵〉    『空中飛行器』口絵・表紙 清方? 江見水蔭  青木嵩山堂(前後編 3月) 〈2ページ大折込口絵〉    『薄命の花』 口絵・表紙 清方  桜痴居士  春陽堂  (4月)〈2ページ大折込口絵〉    『若旦那』  口絵・表紙 清方  田村松魚  青木嵩山堂(4月)〈2ページ大折込口絵〉    『三升格子』 口絵・表紙 清方  伊原青々園 金槙堂  (上巻 6月)〈2ページ大折込口絵 下未見〉    『日の出島 朝日の巻』口絵 清方 村井弦斎  春陽堂  (下巻 10月)〈見開き色摺口絵〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十五年刊)    清方画    『三枚続』 口絵・表紙 清方 泉鏡花  春陽堂  (1月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『金色夜叉』口絵 清方    紅葉   春陽堂  (4月)続編〈2ページ大折込口絵〉    〈『こしかたの記』「横寺町の先生」小林清方、続編の宮の水死の場面を画くとあり〉    『小説叢書』口絵・表紙 清方      金港堂  (9月)          三作品収録「村雨日記」服部蘭秀「霜夜」行友都音子「綿帽子」大塚楠緒子    『紺暖簾』 口絵・表紙 清方 山岸荷葉 春陽堂  (10月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『人鬼』  口絵・表紙 清方 美妙   青木嵩山堂(10月)〈2ページ大色摺折込口絵〉  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十三回 日本絵画協会展 明治三十五年十月開催 於谷中初音町日本美術院)    鏑木清方 孤児院 銅牌    ◯『明治東京逸聞史』②p73(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   「梶田半古の「春宵怨」明治三十五年(1902)   〝梶田半古の「春宵怨」〈読売新聞三五・三・三一〉     この年の第十二回絵画共進会に出品して、半古の代表作とせられる「春宵怨」の縮図が、三段抜きで    出ている。清方の手になったのであろうか、それもまた出来がいい。読売新聞の挿絵画家には、半古と    清方との両人がいて、清新な感じのものを、つぎつぎと載せて居り、それに依って、新聞の全体が引立    つ感じがする〟    ☆ 明治三十六年(1903)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十六年刊)    清方画    『花山花人』 口絵・表紙 清方 奴之助   青木嵩山堂(4月)〈2ページ大折込口絵〉    『女海賊』  口絵・表紙 清方 江見水蔭  青木嵩山堂(4月)〈2ページ大折込口絵〉    『川上三吉』 口絵・表紙 清方 浪六    青木嵩山堂(後編 6月)〈2ページ大折込口絵〉    『一夜画工』 口絵 きよかた  松葉    青木嵩山堂(7月)〈2ページ大折込口絵〉    『あやめぐさ』口絵・表紙 清方 広津柳浪  春陽堂  (8月)    『ハムレット』口絵のみ  清方 春曙・荷葉 富山房  (9月)〈2ページ大折込口絵〉    『草もみぢ』 口絵 清方 桂舟 半古他 尾崎紅葉 富山房(11月)〈紅葉遺文集〉    『角笛』   口絵・表紙 清方 中村春雨  今古堂  (11月)〈2ページ大折込口絵〉     〈画工名は明治38年12月刊『雲がくれ』巻末広告による〉    『日本刀』  口絵・表紙 清方 伊原青々園 駸々堂  (12月)〈2ページ大折込口絵〉    『催眠術』  口絵・表紙 清方?大沢天仙  文禄堂  (12月)    〈明治44年刊『親の罪』日吉堂の巻末広告には清方画とある〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十六年刊)    清方画    『田毎かゞみ』口絵・表紙 清方 鏡花小史 春陽堂  (1月)〈2ページ大色摺口絵〉    『五人娘』  口絵・表紙 清方 山岸荷葉 文禄堂  (1月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『矢口渡』  口絵・表紙 清方 前田曙山 松川堂他 (5月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『花』    口絵・表紙 清方 江見水蔭 青木嵩山堂(7月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『玄雪姫』  口絵・表紙 清方 松居松葉 青木嵩山堂(前後編 9・10月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『春潮』   口絵・表紙 清方 田山花袋 新声社  (12月)〈2ページ大色摺折込口絵〉     ◯『明治東京逸聞史』②p102(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   「女学生の自転車」明治三十六年(1903)   〝女学生の自転車 〈読売新聞三六・二・二五〉     小杉天外の評判作「魔風恋風」の連載始まる。その第一回に、鏑木清方が、袖のある和服で自転車を    走らせる。、通学途上のヒロインの姿を、大ぶりに画いているのが清新である。自転車に乗る女学生を、    最初から出したところに、作者の働きがあったといえるだろう。作者と画工とで、第一回から巧みに読    者を捉えている〟    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵葉書流行の始め 意匠を凝らし合った年賀状」p37   〝新年絵葉書もまず三十六年以来で、その先駆者はやはり画家の方面、渡辺香涯、鏑木清方、鳥居清忠、    久保田米斎、同金僊、つづいて寺崎広業、山岡米華、中村不折、荒木十畝(ジツポ)、池上秀畝、小室翠    雲、荒井寛方の諸画伯いずれも早い方、以来文士、美術家または俳優そのほか芸界の人々まで、それぞ    れ意匠に特色を現わした賀状の全盛、江戸の刷物から脱化した新趣昧として、我党有難く頂戴したもの    だが、近年は時代の影響で大正以来追い追い下火〟  ☆ 明治三十四~三十六年(1901~03)    ◯『こしかたの記』   ◇「挿絵画家となりて」p137   〝(*明治三十四年~四十年まで過ごした木挽町一丁目の借家)縁側に近く、樅(モミ)の大板で拵えた机を    据えて、日々挿絵の生業(ナリワイ)にいそしんだ。座右には丸善で仕入れて来る、画集やカタログのたぐい    が取り散らされてはいても、それは移りゆく時の姿として、昔、国貞、国芳、英泉、降って国安などの、    わが先人たちも、やはりこんな日常を送っていたのかと、夏の夕、配りものの絵団扇に蚊を追いながら、    何か愉しく昔の人をなつかしむ折もあった〟     ◇「挿絵画家となりて」p137~139   〝 雑誌「歌舞伎」の関係で識るようなった安田松廼舎さんは、私がかねてその作品に心酔した泉鏡花と、    まだ一面の識もないのを、両者のために惜しむとあって、三十四年の八月十八日、本所横網の自邸で、    その引合せの一会を催された。鏡花は既に文壇の寵児として、世の人気委を鍾(アツ)めていたのに、こち    らは漸くこのごろ売り出したばかりで、凡べて未知数の存在でしかなかった。松廼舎さんのこの知遇に    は、これにも友人山岸荷葉の推輓が蔭にあったのだと思っている。     (安田邸での参集者、主人松廼舎・泉鏡花・清方の他に千葉唯継・伊臣紫葉、山岸荷葉等)     私の日記には「風あり、朝夕に秋を思わする涼風吹き初む」とある。鏡花はうす浅黄の、麻の帷子を    着ているようだったが、黒絽に例の源氏香の図、紅葉の賀の紋どころ鮮やかに、白晳、漆黒の髪厚く、    近眼鏡越しに瞬(マバタ)く眼が強く印象される。数え年で三十、私はその時二十四であった。(中略)    今度の会合があったので、三十五年一月の「三枚続」に鏡花作、清方画、の段取りになったものと、今    までそう思い込んで何かにも書いたことがあるが、手控えや日記などに散見するのを綜合して、春陽堂    から「三枚続」の口絵と装丁を頼まれたのは、三十四年の五月六日で、松廼舎の初対面より三月余の前    になる。十八日の会合より数日を過ぎた二十三日には「三枚続」の色差を春陽堂へ届けていることが分    かった。     初対面にも拘らず全く一件旧知のようで、日記には「鏡花子曰く、春陽堂で画の話の出る時は、予は    必ず君を推す。爾来刎頸(フンケイ)の友たらしむ」ともある。     三十五年には続いて「新小説」一月号の「女仙前記」、五月号の「きぬきぬ川」、十一月号に「起請    文(キショウモン)」、三十六年には「新小説」一月号に「二世の契」挿画、単行本の「田度かがみ」と、椎の    木屋敷(*安田松廼舎邸)での誓はまことに空(アダ)ではなく、硯友社初期の紅葉、桂舟にも況したコ    ンビと他からも謳われる提携は始まった。     「田度かがみ」は、「山僧」「斧の舞」「玄武朱雀」「簑谷」など十余篇の短編を集めてあるが「さ    さ蟹」だけが書下しであったろう。三十五年の九月十五日に、泉君は自らその原稿を携えて木挽町の宅    へ見えたのである。これを口絵にしたのであったが、私の手許にはいつかその本を失(ナク)していたら、    今は亡き木村(荘八)さんが、愛蔵のものに署名して私に贈られたのは、戦前まだ牛込矢来時代のこと    であった。木村さんは私の鏡花物のうち、特にこれと「風流線」とを好まれたようである。     私は鏡花の口絵を画きつづけるようになって、一作毎に自信を増してくるのが自分にもよく解った。    この人の作にかきたいという願望が、羽翼もまだ整わないうちに廻って来て然もその著者が温かい手を    さし延べてくれるなど、望んで得られることではない。縁であり、運であろう〟       ◇「読売」在勤」p147   〝「読売」にいた山岸の骨折りで、私はコマ画と呼ぶ種々の雑画をかくために、その社へ通勤するように    なった。と云っても、正式に入社したわけではなく、嘱託として、出勤の日給制という、至って栄えな    い待遇も、実は他に目指すところがあったからである。それは小説挿絵の担任者として梶田半古の存在    にあった。当時先生の清新で高雅な画風は、若い画学生に何かしら新しい希望と光明を与えたのである。    私は年方先生の薫陶を受けて、比較的堅実な技法を仕込まれては来たけれど、芳年伝承の筆法からは、    少しも早く脱け切りたいとのと踠(アガ)きが、旦暮(アケクレ)悩みの種であった。そう云う意は決してこれ    を貶すのではない。芳年は平常北斎を好いていたと聴くが、そうありそうなことで、この二人の名手は    各々何処かで通ずるものを持っておる。私を肌合は恰(マル)で違うが、芳年の錦絵には並々ならぬ愛着を    寄せていて、蒐集の数から云ってもそう尠いほうではないであろう。これは何も大師匠に当る人への敬    意ばかりではない〟       ◇「読売」在勤 p150   〝 岩波本の「鏡花全集」年譜三十五年の項に「七月末より九月上旬まで、逗子桜山海道の一軒家にあり、    胃腸を病めり、すゞ台所を手伝ふ。十月『起請文』『新小説』に出づ」とある。     私が桜山を訪れたのは、もう引き揚げるのに間もない八月二十八日で、私が口絵を画く原稿は脱稿に    近い時であったろう。     その本文劈頭(ノッケ)に「停留場前の新開地、古顔の犬も居らず、蝙蝠の棲む穴も出来ない、未だ新し    い軒並び、海水浴旅館の案内所。鮑の粕漬、木雲(モヅク)の売店、一寸一杯お中喰、お休み処などある中    に、客が駕籠で来た時から、一軒老舗(シニセ)の角の茶屋」私の降りた逗子駅前の光景は正にこの通りと    云えば足りる。泉君の居た家は、逗子から金沢へゆく街道に近く「起請文」は前篇、「舞の袖」は後篇    で、この構想はここで成ったものに違いない。     挿絵にも、口絵にも、鏡花の作を手がける時は、いつも極まって真ッ白な無罫の江戸川半紙に、筆で    書いた、その淡墨の滲んだのも、指が触れたら湿りそうな、作者の机を離れてからまだ人手に渡らない    原稿を、夜を徹してでも読み耽った。     「舞の袖」の第四章にある、「茄子の紫は絵の具でない、朱葉(モミヂ)の色は霜に冴え、露草は日向に    しほれ――紙ぎぬた、池子の麓に打つよと聞けば、虫もつゞれ刺せと鳴くとかや。針仕事は覚ゆるものと    行燈の夜は長く」ある時は諳んじていた。調子と響きのいい文章を口にすると、草深く、露繁き池子の    山里もつい身近かに、夏花の匂いも漂うように思われる。     私が訪ねた時、姉さん冠りの手拭白く、眼についたのが、車屋らしい男に、何やら絡げた荷物を渡す    ところで出合った。「よく来てくれた」と駈け出すように迎える主人に導かれて、奥というほどでもな    い、あさまな住居に座も定まり、かれこれ話し合ううちに先刻の女性が、手拭を取り、襷を外して手を    支える。泉君は笑を含みながら「この人を知っていましょう」と云う。「すゞ台所を手伝ふ」とあるそ    の人ともどうやら違う、とすぐには判じかねたが、話せば七、八年前少しの間いたことのある下谷御徒    町で見知り越しの研師の娘、父にとって師匠筋に当る名家の忰に懸想されて、昔はよく路地の片蔭に、    雨戸を斜に人目を避けて行水する慣いがあった。そんな場にまで立ち入られるのに当惑して、娘は近所    にある同じ研師なかまの家に遁れたと云って、その家の子供の話に聞いた。「御徒町では存じながら御    挨拶もいたしませんで……」と、あの頃は十七、八の娘ざかり、今はそんな昔話に恥(ハジ)らうけしき    も見せない年増になって、彼女を交えた昼餉の膳に、ひとしきり昔話の花が咲いた。     泉君は私を連れて、そこからあまり遠くない、医王山神武寺へ案内してくれた。岨道を迂回して登る    片側は、むら立つ杉の、谷を填(ウズ)め、峯を蔽う。急坂を上るにつれて、谷懐の底深さを知らず、旅    馴れぬ都人を驚かした。本堂を過ぎて裏山に到れば、木々の隙から、水天髣髴はるかに湾の内外を瞰む。    そこに古びた一宇の堂があって、まわりの木連(キツレ)格子に、何んの祈願か女の髪を髻(モトドリ)から切    ったのが、数知れない絵馬に添えてそこら中に結(ユ)い下げられてある。まだ生々(ナマナマ)しい黒髪もあ    れば、黄ばみ、白(シラ)けたおどろおどろしいのも交(マ)ざっている。     秋立つ頃の日脚(ヒアシ)もいつか傾きそめて、満山法師蝉の声も喧(カマビス)しい。山を下りて、薄暮、    客は相携えて鐙摺(アブズリ)の日影の茶屋に向かった。     翌日、社へ出ると同じ編輯室の石橋思案や関如来が、鏡花を訪ねた模様を画入でかけと唆(ソソノカ)すの    で、細流れの丸木橋にしゃがんで指先を水に浸す泉君を描き短文を添えたのと、その年の秋、烏合会の    友と一緒に碓氷、妙義に遊んだ時、三日続きの紀行文を載せたのが、今思えばこれが自分の書いたもの    を活字に組ませる始めになった〟     ◇「梶田半古」p157   〝 その頃誰でも認める文芸雑誌と云えば「新小説」か「文芸俱楽部」であったのに、三十五年三月に金    港堂から出た「文芸界」は、創刊号三百六十頁で、内容もそれに伴う堂々たる陣容を整えた花々しい門    出であった。金港堂は二十一年に「都の花」を発刊して、文芸誌の、云わば草分けであったが、その廃    刊後は久しく文芸出版に遠ざかっていたのがここで俄然捲土重来の意気を示した。紅露時代と云われた    時に、主筆の佐々醒雪がこの両大家と三人でポーズをつくった写真を巻頭に掲げたのが目に付いた。紅    葉山人は持前の俠気も動いたのか、訳文の「胸算用」を執筆した他に、詞藻欄には俳句の選をしたり、    「袖長き蝶、舞の座に直りけり」の祝の句も寄せるほどの気の入れかたで、この雑誌に半古先生が美術    面の企画に協力するようになったのも、山人との関係から見て当然と云えよう。この詞藻欄に十二個の    みごとなカットを見るが、署名はなくても恐らく自ら筆を採られたものと推さるる。なおこの欄には若    き日の結城君のものもある。     紅葉山人は図案に対してなみなみならぬ趣味があるので、その点半古先生とは相許すところあったら    しく見えた。金港堂との交渉は私にも及んで来て、友人の山岸から「梶田さんに頼まれたが、君に助手    に来てもらえまいか、金港堂へ行ってもらえばそれに越したことはない」と云うのである。古日記を閲    すると私は先ず横寺町に山人を訪ね、その足で天神町へ行っている。横寺町でどういう指示を受けたか    記してないが、結局助手の話は辞退した。この場合、かねがね私淑している先輩から声をかけられたの    で、光栄は云うまでもないが、当面挿絵画家の立場として極めて自由な立場を守りぬきたい志望が、ど    うしても承けひきかねたのであったろう。横寺町へ寄ったのも何かの諒解を得るためかと思われるが、     「十千万堂日録」その年五月九日の条に「夜清方来ル」とあって、その日午前先生は長与病院に到り、    「長与氏は胃の下部に当る隆起を虞れ、体重減少の模様なれば入院すべし、とにかく下総成東の冷泉に    浴せよと勧む、云々」そんなことのあったあととも知らず寔に心ない仕儀であった。     半古先生は私の身勝手を許されたばかりでなく、私がその頃自分たち気ごころの合う同士の小さい集    団(烏合会)にだけ制作を発表しても、上野の大きい展覧会にはとんと出品をしていないのを、それで    はいけないと戒めて、この秋には必ず出すように勧められた。     私が挿絵の職を決して一時の腰かけ仕事として択んだのではないことは、今までにもたびたび述べて、    読者にも解っていただけたと思っているが、私の画く絵の性分と云ったものが、どちらかと云えば、版    に頼るのより、じかに手に持つ筆にたよるほうが適していると、これは既にその時分からそう気付いて    いたので、挿絵家と云えども、創作を望む意欲を忘れ切るわけはない。それなればこそ同志の集団も生    じたのであるが、世間に迎えられ出した挿絵画家が、大作に費す時をつくることの難しさはひととおり    のことではない。でもこの年の春の烏合会には「宮の軀」、十月の、これも同じ会に「一葉女史の墓」、    十一月には上野で開く絵画協会の共進会に「孤児院」を出すことが出来た。     その「孤児院」に掛かりはじめた頃、何かの折か画かきの集まる会合があった。私は元来こういう席    へ出るのを好まなかったが、半古先生に誘われて出席した。その席へ、当時新鋭の意気熾(サカ)んな尾    竹竹坡、国観の両君も見えた。あるいはこれが初対面かとも思うが、相当の酒気も手伝って、頻りに私    の大天覧会へ出品の無い懈怠を責めて、挿絵の固い殻に閉じ籠る不心得を詰(ナジ)って已まない。説鋒    いささか持て余していたのを、微笑を含んで眺めた先生が「君たち心配することはない、鏑木君はいま    出品をやっているよ」と助け舟を出して下すったので、元々わる気があって絡むつもりもなかったと見    えて、二人とも気色を和らげ、「それはよかった。や、たいへん失礼なことを言ったが、これから大い    に仲よくやろう」と代る代る手を差し延べて何遍となく握手を求める。この兄弟とはその後も長く交渉    を持つに至ったが、二人とも戦国の武人に往々見られる単純で荒削りなところを剥き出しにしてなんら    修飾を加えようともしない。直情径行は兄が更に徹底していたようである。私と同じ時代苦楽を倶にし    た思い出は数々ある。また後章にも触れることがあろう。     「読売」に関係してから二年越しになるが、その間に私の身辺は日と追って、今まで予期しなかった    ほどの忙しさを加えて来た。午後の一、二時間とは云え毎日の出社を継続することは出来にくいので、    罷(ヤ)めさせてくれるように申し出た。前から懇意な石橋思案外史が最近新しく三面の主任になって、    私が社に出ているのを悦んでくれた矢先なので、宅まで来て引き留めてくれたけれど、半古先生の助手    を断ったのと同じわけで、この勧告にも従うことが出来なかった。半古先生はまた、私の手さえ欲しい    と望まれるほどの忙しい最中で、自然新聞挿絵の不時休載が起るために、社の方ではそんな時には私に    代ってくれるようにと云ってくる。それもまた断るとは云いにくいので、先生のお許しさえあれば、と    返事をした。諒解を得て折々代役を勤めたのは、三十六年に入って小杉天外の「魔風恋風」掲載の期間    であった。この小説がこれまでの新聞小説に多く例を見ない稀有な人気を博したのは、許嫁(イイナズケ)    のある大学生と、その許嫁の同窓の女学生との自由な恋愛を主題にしたのが、まだ映画もない時代の若    い読者に迎えられて、そのために女学校で生徒に読むのを禁じたのが却って異常な反響を呼ぶに至った    のであったが、これには半古画く長身美貌の女学生がちょうど映画に美しい女優の主人公を得たのに比    する効果を挙げたと私は見ている。こういう舞台の代役は仕栄えもあれば演(ヤ)りにくくもあって、そ    れがまた、女主人公の初野が始めて異性に唇を許すというクライマックスが私の方に廻って来た。散々    考えた挙句(アゲク)、まともに扱うのを避けてうしろ向きに逃げ、袖に隠して二人の手を繋いだ。この    新聞が発禁になったと云う記事を近頃見たことがあるが、私は聴いていないから、そういうことはなか    ったろう。     現在の宅へ移った時、古い文反故を整理していると、先生名儀の封書一通を見出した。その文意を約    (ツヅ)めて云えば、日々、挿絵の代筆御面倒をかけているが、自分の熱疾まだ捗々(ハカバカ)しくないとこ    ろへ、「誰の罪業(トガ)」の挿絵を自分の筆と思って、病気を疑い、他の画を催促されて困るので、御    迷惑ながら毎日記名をしてもらいたい。とのことを夫人の代筆で記してある。日付には一月三十日と解    るが年号が判明せぬ。「誰の罪業」と云うのは、著者の記憶はないが滝川今古堂から出版されて三十九    年の七月に私の口絵装釘の手が放れているので、これに紛れないことが解った。「読売」を退いた後で    も断続してではあろうが存外長く代筆が続けられていたものと見える。「魔風恋風」自分には意識して    似せたものであったが、そう声色(コワイロ)は続かない筈とは思うものの、先生の方にして見ればこれはま    た迷惑なことであったろう〟     ◇「横寺町の先生」p169   〝 三十四年十月二十九日、松廼舎氏(安田善之助)の一行と横寺町で落ち合って、先生案内で鳥屋の河    鉄に導かれたが、その中にはまだ丁年に充たない安田靫彦さんもいた。この頃は、眠草の号を用いてい    られたようである。その年の三月七日、松廼舎氏に誘われて木挽町の宅へ見えたのが、半世紀に余る久    しい厚誼の今に渝(カワ)らぬ初対面ではなかったろうか。     三十五年の二月には、浅草の宮戸座で「金色夜叉」二度目の上演があった。中野信近の間寛一、千歳    米坡の赤樫満枝で、この人物はもともと米坡を粉本にしたのだと伝えられていたが、舞台では生地と違    って案外可憐(シオ)らしく、期待したようでないとの世評であった。     二月十一日に総見があって、その折私の写生した観劇中の先生と靫彦君のスケッチが、本間久雄氏の    「明治文学史」に載っているが、葉巻を吸う先生の横顔には、著しく頬の憔悴が眼に付いた。     この年に入って私には先生との交渉が頻繁になって来たが、それの多くは何かしら「金色夜叉」にか    かわるものであった。     三十五年四月の烏合会には、新古小説を課題にして、会員がそれぞれの画きたいものを択むことのな    った。山中古洞と相談して、古洞は露伴の「二日物語」私は紅葉の「金色夜叉」を、めいめい二尺五寸    の横物に画こうと極めた。それが逸早く著者に聞えて、例の山岸から、横寺町の内意だと云って取り次    がれたのは「清方君は何処を画くか知らないが、若し画く気があるなら、夢のなかの宮の水死のところ    を画いて見ないか、『金色夜叉』続篇の口絵がまだ極まらずにいるので、使えたら使おうじゃないか」    と、耳よりの吉報なのである。直ちにそれに随ったことは云うまでもない。     第八章「咄嗟の遅(オクレ)を天に叫び、地に号(オメ)き」から「緑樹陰愁ひ、潺湲(センクワン)声咽(ムセ)びて    浅瀬に繋れる宮が軀(ムクロ)よ」まで、文字にして二百字あまり、試験前の学生のように、築地川の川縁    (ベリ)を往きつ戻りつ繰りかえしては諳んじた。何かで見たオフェリヤの水に泛ぶ潔い屍(カバネ)を波文    のうちに描きながら。     読者も知るように宮の死は貫一が暁の夢で、軀(ムクロ)と云うも現実ではない。顔かたちの詮索もある    いは不要なのかも知れないが、こうした折に、著者の心に懐いていられる面影を知って置きたいと思っ    たので、先生に訊いて見た。先生は用意されたものもように「文芸倶楽部」などの口絵からかねて切り    取られたのかと思われる写真銅版の小さい紙片を示された。それは徳島の芸者で、紫屋の雪松と、名が    体を表すように美しく、ふくよかな頬と、桃花の莟を含むに似た唇が眼を惹く、上方女の艶色である。    紅葉先生は「これに新橋のおゑんを搗き交ぜたら」と言われる。新橋、小松屋のおゑんは、一体に薄手    で痩せぎすな、眼元のキリッと引き緊まった。花なら桔梗を思わせる江戸前の美女で、雪松とは東と西    の、全く違った趣がある。歌留多会ではじめて姿を見せる宮の「色を売るものの仮の姿したるにはあら    ずやと」の形容が思い合される。     「十年万堂日録」三十五年二月二十八日に「午後一時日就社に赴き、三時木挽町一ノ十五に清方子を    訪ひ、其の宮の水死の下画を見て批評し、春陽堂を訪ひ、少談の後同行中華亭に赴く、途中文禄堂を訪    ふ、不在也。八時過出でゝ車を僦(ヤト)ひ、酔眠して神楽坂に至れば縁日也。」とある。(註、中華亭は    日本橋通一丁目の東新道、通称木原店に在って、美食家の間に知られた高名な割烹店。文禄堂は堀野与    七、号を文禄と云って、家業は紅屋の老舗であったが、文筆を嗜み、京の藁兵衛の筆名で「一分線香」    という笑話研究の雑誌を主宰していたが、とうとう紅屋を止して文禄堂の名で出版を専らにするに至っ    た。)     私の木挽町の家は、仕事場にも客間にも、ただそれきりの八畳に机を据えて、あたりは取り散らして    ある中に、畏敬する先輩を迎えたので、光栄は云うばかりないが、どうしてこれを持てなしたらいいの    か、実のところ当惑もした。平生から浅ぐろい先生の顔いろは病気のせいであろう、秀いでた眉字のへ    んに陰翳を宿すのが気になった。襦袢の襟の黒八丈が胸元をキリリと締めて、無地黒紬の羽織着物、云    うまでもなく角帯、袴を着けず、帯だけに他の色を見るが、あとは足の先きまで黒づくめ、享年三十八    であったから、この時は三十七である。先生はとりわけ夙(ハヤ)くから老成の風があったが、身装(ミナリ)    の質素(ジミ)なのにも依るだろうが、若くして何となく侵し難い貫禄を自然と身に付けていた。下画を    批評とあるが、どういう批評を受けたかまったく覚えがない。併しどうやら採用されそうな気色(ケシキ)    に窺えるのに力を得て、それからは「歌舞伎」の三木氏に誘われる好きな芝居も断って、三月中は籠居    してこの絵にかかり切っていた。     「日録」三月十五日の項には「曇、十一時清方、お宮水死の下画持参。荷葉奉額の件にて次いで来る    ――清方荷葉を明進軒に伴ふ。(註、明進軒は紅葉一門が行きつけの洋食店で、半古先生も門人などを    つれてよく行れた。後年私が牛込の矢来に住んで、この明進軒の忰だったのが、勇幸という座敷天ぷら    の店を旧地の近くに開いて居るのに邂逅(メグリア)って、いにしえの二人の先生に代わって私が贔負(ヒイキ)    にするようになったのも奇縁というべきであった。泉君(鏡花)も昔の誼(ヨシミ)があるので、主人の需    めるままに私と寄せがきをして、天ぷら屋台の前に掛ける麻の暖簾(ノレン)を贈った。それから彼は旧知    新知の文墨の士の間を廻ってのれんの寄進をねだり、かわるがわる掛けては自慢にしていた。武州金沢    に在った私の別荘に来て、漁り立ての魚のピチピチ跳ねる材料を揚げて食べさしてくれた。気稟(キップ)    のいい男であったが、戦前あっけなく病んで死んだ。)」     (尾崎紅葉の「日録」明治三十五年三月二十七日、二十九日の記事あり、省略)     (「日録」)「三十日、曇大風。(壱)原稿及十句粋を携へて出社す。清方子お宮水死の図落成と    聞き帰りに一見せんとせしかど胃の具合よろしからずで直ちに帰る。縧虫発生せし為近来不快尤甚し。    其中にての執筆なれば一倍の艱苦を感ずる也」      四月四日、第三回烏合会の会場へ、そんな中でも先生はフラリと見に来られた。     同日の「日録」を参照すると「晴。風。午後一時常盤木俱楽部の烏合会に赴く。清方宮水死の大幅を    出す。半古文録二子に遇ひ、共に三井呉服店に珍柄を看る。帰途半古と中華亭に赴き会食、いつもの酒    ながら美味に感じたり。新製の大関なりといふ。     この日の会場には、山岸にも来てもらって先生を迎えた。私の画には「宮の軀よ」一聯の文章を、山    岸が得意の筆蹟で、大奉書に書いたのが、解説の意もあって添えてある。画を見てからそれに眼を移さ    れた先生は、ひとわたり黙読して私を見かえりながら、「君、筆はあるかね、」と小音で云われる。山    岸が進み出て「何か、違いましたか……」と訊きかえすと、「ううん」と軽く否定されて、私の取って    来た硯筥の禿筆を把りあげた先生は、解説の一カ所を訂正された。それは刊行続編の第八章「心地死ぬ    べく踉蹌として近(チカヅ)き見れば」の一齣で、訂されたのは踉蹌二字の配置なのであった。惜しいこと    に、この解説はいつか失せて確かめ得えないが、前には蹌踉とあったように思っている。同じ続編の第    一章に、荒尾譲介と宮が再会のところでは「いでや長居は無益(ヤク)とばかり、彼は蹌踉(ヨロヨロ)と踏出    せり」とある。その道でもないものの文字の詮索はさし措くが、他人が抄書した、それもその場きりで    消えるただ一片の解説をも空(アダ)には見過せないところに、その頃には凝り性とのみ云っていたが、    ある文人気質(カタギ)が、私のような者には心あたたまる思い出である。     それから超えて一年、「続々金色夜叉」の刊行に当って、その口絵には塩原箒川の写真を用いるので、    その輪郭に施す意匠を相談したいとの招きに応じて、翠柳の蔭こまやかな十千万堂を訪れた。先生の病    状も一進一退をつづけ、きのう保養先の銚子から、帰られたばかりであったが、久ぶりで二階へ通され    て見ると、常に開け放してある二た間続きが襖で仕切られて、一方には寝台を据え、見慣れた唐木の大    きい卓に接脚(ツギアシ)がされて、その上には次第なく積み重ねた書物の間に、お納戸と牡丹色の縮緬の    小裂で縫い合せた、肱突のひとり鮮かなのが、いたずらにきのうまでの主なき宿を思わせる。     そこへ上って来られた先生の顔の色は決してよいとは云へないが、座談になれば、不治の難病を有つ    人とも見えぬ。用談の装画は、寛一が夢に宮の軀を背に負えば一朶の白百合大さ人面の若(ゴト)きが云    々という、その百合を用いることにした。あとの四方山(ヨモヤマ)話はいつか画の落款に及ぶと、軈(ヤガ)    て先生は私の求めるままに、有り合す紙に清方の二字をいくつも書いて示される。「上の字を草に崩せ    ば下のを行でゆくのもよかろう」とも云われる。私の先輩たちのそれにも及んで、「字はそう旨くなく    ても俗でないのがいい、なまじ習って俗臭のあるのは厭だ、なにがしは俗、年方は手紙の字がよろしく、    省亭、広業、玉堂うまし、誰それのは巧みに見えるが、落款の字は好かぬ」などと縦横に評されて、な    お諭されるには、「落款は楷書とまでは云わないが、行体ほどでありたい。始めから崩した字を倣うの    はよくない、先ず千蔭の徒然草あたりから始めて、子昂の、格の正しいものを習う、どうにか体を得た    らそれから崩すのだね」と、これがその時の先生が言われた通りであったかどうか、まだ誨えられると    ころもあったろうが今は記憶を逸している。     その日帰途、島金横町に鏡花を訪う。恰ど門下の師に献ずる「換果篇」の執筆中であった。     夏に入って伺った時には、病蓐にあって引見された。「草もみぢ」の挿絵を頼まれて、「君に進上し    ようと思って、足立疇邨に、鯱の牙の材で印が頼んである、もうじきに出来るだろう」と語られるのも    大儀そうなので、厚意を謝して退出した。     八月一日、約束の印が出来たとの報せを受けて戴きに出たら、もう病床は階下に移されてあった。こ    うして、その印章を手ずから授けられたのが、私の先生に接する最後であった。     病篤くなってからは、玄関に見舞客の署名帳が出ていて、名を記す人もあれば、絵筆を執るものは画    もかいた。私の行った日が偶々八朔に当るので、紋日(モンビ)の太夫を画き、先生から授けられた鯱の印    を、はじめてそれに試みた。三十六年十月三十日、紅葉山人は「壽盡才不盡」の印影をこの世の形見に    遺して逝去された。青山の墓地は、一時夥しい供花の菊で埋められて、さながら大きな花園の観を呈し    芳薫四方に匂い亘ったのが、いつまでも知る人の間の語りぐさになった〟    ☆ 明治三十七年(1904)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十七年刊)    清方画    『魔風恋風』口絵・表紙 清方 小杉天外 春陽堂  (中編 1月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『山桜』  口絵・表紙 清方 柳川春菜 青木嵩山堂(1月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『司法大臣』口絵 清方・挿絵 芳煙? 中村春雨 春陽堂(1月)〈2ページ大折込口絵・挿絵〉     〈挿絵画工は③の書誌による〉    『金忠輔』 口絵・表紙 清方 山田美妙 青木嵩山堂(2月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『乳姉妹』 口絵のみ  清方 菊池幽芳 春陽堂  (後編 4月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『女夫波』 口絵のみ  清方 田口掬汀 金色社  (前後編 7・10月)〈2ページ大色摺折込口絵。初出は同年万朝報〉     (後編口絵落款「清方〔七曜紋のような印〕」)    『無名城』 口絵・表紙 清方 松葉   青木嵩山堂(後編 8月)〈2ページ大色摺折込口絵 前編は5月刊〉    『錨』   口絵・表紙 清方 江見水蔭 青木嵩山堂(10月)〈2ページ大折込口絵〉    『風流線』 口絵・表紙 清方 鏡花小史 春陽堂  (12月)〈2ページ大色摺折込口絵。初出は明治36年国民新聞〉  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十七年刊)    清方画    『二人娘』口絵・表紙 清方  菊池幽芳 駸々堂  (1月)〈2ページ大折込口絵〉    『金剛盤』口絵のみ  清方? 浪六   青木嵩山堂(前後編 3月)〈2ページ大折込口絵〉    『横恋慕』口絵・表紙 清方  風葉・嶺葉合作 青木嵩山堂(11月)〈2ページ大折込口絵〉    『大暗礁』口絵・表紙 清方  江見水蔭 青木嵩山堂(前編 12月)〈2ページ大折込口絵 後編(翌年1月刊)は英朋〉    『当世女生気質 松の巻』口絵・表紙 清方 奴之助(奥付欠)  ☆ 明治三十八年(1905)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十八年刊)    清方画    『楓の下蔭』 口絵のみ  清方 大日本女学会編 郁文舎  (1月)(家庭小説)〈2ページ大折込口絵〉    『石田三成』 口絵のみ  清方 浪六      青木嵩山堂(1月)〈2ページ大折込口絵〉    『雪達磨』  口絵・表紙 清方 浪六      駸々堂  (4月)〈2ページ大折込口絵〉    『総攻撃』  口絵・表紙 清方 江見水蔭    青木嵩山堂(4月)〈2ページ大折込口絵〉    『長恨』   口絵のみ  清方 大江素天    駸々堂  (5月)〈2ページ大折込口絵〉    『妙な男』  口絵のみ  清方 菊池幽芳    金尾文淵堂(前編 6月)〈後編39年2月刊 2ページ大折込口絵〉    『不如帰の歌』口絵のみ  清方 溝口白羊    岡村書店他(7月)    『結婚難』  口絵のみ  清方 徳田秋声    今古堂  (9月)〈2ページ大口絵〉     〈画工名は同年12月刊『雲がくれ』の巻末広告による〉    『情の人』  口絵のみ  清方 田口掬汀    隆文館  (9月)〈2ページ大折込口絵〉    『吉丁字』  口絵のみ  清方 渡辺霞亭    春陽堂  (下 12月)〈2ページ大色摺折込口絵 上は英朋画11月刊 〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十八年刊)    清方画    『女波男波』  口絵・表紙 清方 広津柳浪 堺屋石割書店(4月)    『琵琶歌』   口絵・表紙 清方 大倉桃郎 金尾文淵堂 (4月)〈2ページ大色摺折込口絵 再版本〉    『当世ハイカラ競』 口絵・表紙 清方 ベネディクス 金港堂   (5月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『小幡山』   口絵のみ  清方 桜痴居士 金港堂   (6月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『極楽村』   口絵 清方・装幀 香涯 田口掬汀 新潮社(6月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『母の心』   口絵のみ  清方 柳川春葉 春陽堂   (8月)(家庭小説)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『二筋道』   口絵・表紙 清方 広津柳浪 今古書店  (前編8月)〈2ページ大口絵 後編翌39年1月刊 〉    『自殺と自殺』 口絵・表紙 清方 小栗風葉 青木嵩山堂 (9月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『にせ紫』   口絵のみ  清方 小杉天外 春陽堂   (後編 9月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『夏子 愛と罪』口絵・表紙 清方 菊池幽芳 春陽堂   (前編 10月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『伯爵夫人』  口絵・表紙 清方?田口掬汀 東京堂他  (前編 10月)〈後編39年1月刊〉    『女浪人』   口絵のみ  清方 桜痴居士 金港堂   (10月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『金色夜叉の歌』口絵のみ  清方 溝口白羊 岡村書店  (12月)〈2ページ大折込口絵〉    『雲がくれ』  口絵のみ  清方 江見水蔭 今古堂   (12月)〈2ページ大色摺口絵〉    『仇と仇』   口絵のみ  清方 広津柳浪 隆文館   (前偏 12月)〈2ページ大色摺折込口絵〉     〈画工名は翌39年2月刊後編による〉  ☆ 明治三十九年(1906)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十九年刊)    清方画    『二人女王』 口絵・表紙 清方?江見水蔭  青木嵩山堂(1月)〈2ページ大折込口絵〉    『伯爵夫人』 口絵・表紙 清方 田口掬汀  東京堂他 (後編 1月)〈前編38年10月刊〉    『愛の犠牲』 口絵のみ  清方 橋本青雨  今古堂  (1月)〈画工名は翌40年刊『金蒔絵』巻末広告による〉    『歌吉心中』 口絵・表紙 清方 橋本埋木庵 隆文館  (前編 1月)〈2ページ大折込口絵 後編は40年12月刊〉    『唐撫子』  口絵・表紙 清方 小栗風葉  青木嵩山堂(前後編 1・6月)〈2ページ大折込口絵〉    『血薔薇』  口絵・表紙 清方 徳田秋声  隆文館  (1月)〈2ページ大折込口絵〉    〈画工名、明治42年刊『春潮』の巻末広告は宮川春汀とする〉     『誓之巻』  口絵のみ  清方  泉鏡花  日高有倫堂(1月)〈2ページ大折込口絵〉    『仇と仇』  口絵のみ  清方 広津柳浪  隆文館  (後編 2月)〈2ページ大折込口絵〉    『縁の糸』  口絵のみ  清方 柳川春葉  金尾文淵堂(2月)〈2ページ大折込口絵〉    『不問語』  口絵のみ  清方 饗庭篁村  日高有倫堂(2月)〈画工名は同年4月刊『観音岩』前編の巻末広告による〉    『売花娘』  口絵のみ  清方 菊池幽芳  隆文館  (2月)〈2ページ大折込口絵〉    『麗子夫人』 口絵・表紙 清方 小栗風葉  隆文館  (前後編 3・6月)〈2ページ大折込口絵〉    『妙な男』  口絵のみ  清方 菊池幽芳  金尾文淵堂(後編 3月)〈2ページ大折込口絵 前編38年6月刊〉    『己が罪の歌』口絵のみ  清方 溝口白羊  春陽堂  (4月)    『恋の闇』  口絵・表紙 清方 伊原青々園 新鋭堂  (前後編 4・10月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『二筋道』  口絵のみ  清方 岡鬼太郎  隆文館  (4月)〈2ページ大折込口絵〉     『仍如件』  口絵・表紙 清方 浪六    青木嵩山堂(後編 4月)〈前編未見 2ページ大折込口絵〉    『めなみ男波』口絵・表紙 清方 広津柳浪  堺屋石割書店(5月)    『海賊の子』 口絵のみ  清方 江見水蔭  隆文館   (続編 5月)〈2ページ大折込口絵〉     〈画工名は明治40年『新細君』の巻末広告による〉    『昼夜帯』  口絵のみ  清方 岡鬼太郎  佐久良書房(5月)    『慰問袋』  口絵のみ  清方 桃水    日高有倫堂(5月)〈画工名は同年4月刊『観音岩』の巻末広告による〉    『人の妻』  口絵・表紙 清方 奴之助   青木嵩山堂(前編 6月)〈2ページ大折込口絵 後編8月春汀画〉    『源氏物語』 口絵・挿絵 清方 溝口白羊  岡村書店 (7月)〈2ページ大折込口絵〉    『三人書生』 口絵のみ  清方 奴之助   青木嵩山堂(7月)〈2ページ大折込口絵〉    『白浪女』  口絵・表紙 清方 小栗風葉  青木嵩山堂(前後編 7・9月)〈2ページ大折込口絵〉    『誰の罪業』 口絵のみ  清方 正宗白鳥  今古堂  (8月)〈画工名は翌40年刊『金蒔絵』巻末広告による〉    『筆子 初枝の巻』口絵  清方 菊池幽芳  隆文館  (11月)〈2ページ大折込口絵〉     〈画工名は翌40年刊『筆子 筆子の巻』の落款による〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十九年刊)    清方画    『妙な男』  口絵のみ  清方?  菊池幽芳 金尾文淵堂(後編 1月)〈2ページ大色摺折込口絵〉     〈前編は38年6月刊、但し口絵は写真、表紙のみ〉    『二筋道』  口絵・表紙 清方   広津柳浪 今古書店 (後編 1月)〈前編38年8月刊〉    『絵師の恋』 口絵(前)清方(後)川村清雄 広津柳浪 春陽堂(前後編 3月)〈2ページ大色摺折込口絵〉     〈後編の画工名は明治39年刊『自暴自棄』前編の巻末広告による〉    『破戒』   口絵のみ  鏑木清方 島崎藤村 上田屋  (3月)    『浮沈』   口絵(前)清方(後)英朋 柳川春葉 隆文館  (前後編 3・6月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『観音岩』  口絵・表紙 清方   川上眉山 日高有倫堂(前後編 4月)〈前編のみ2ページ大色摺折込口絵〉    『十七八』  口絵・表紙 清方   小栗風葉 日高有倫堂(4月)〈コロタイプ〉    『心の波』  口絵(上)百穂(下)清方 田口掬汀 東京堂  (上下 5・9月)〈2ページ大色摺口絵〉    『横恋慕』  口絵・表紙 清方   小栗風葉 青木嵩山堂(6月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『無憂樹』  口絵のみ  清方   鏡花小史 日高有倫堂(6月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『無花果』  口絵のみ  清方   中村春雨 金尾文淵堂(6月)改版10版〈初版未見 2ページ大色摺折込口絵〉    『短編傑作集』口絵のみ  清方   立木尚次 益世堂書店(8月)    『竹影集』  口絵のみ  清方   饗庭篁村 日高有倫堂(10月)〈写真版〉    『不蔵庵物語』口絵・表紙 清方   幸田露伴 橘南堂  (12月)〈2ページ大色摺口絵〉    ◯『明治東京逸聞史』②p210(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   「女子判任官」明治三十九年(1906)   〝女子判任官 〈東京経済雑誌三九・八・一八〉     女子判任官が出来たら、諸官省に雇われようという女子の数が急増した。中には、何年たったら判任    官になりますか、と聞くのもあるそうだ。殊に新聞紙で、女子判任官の写真を出したりするのに、わざ    と若い時に撮ったのを載せるものだから、女子の虚栄心が挑発されることになる。──     この三十九年か、それとも四十年であったろうか。「女学世界」の新年号の附録に、鏑木清方筆の    「当世婦人双六」というのがあった。それにも、「女子判任官」の一図があって、若くて美しい女子判    任官がデスクに向っているところが画かれていたことを覚えている。袖の着物に、袴を穿いていたよう    に思う〟    ☆ 明治四十年(1907)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治四十年刊)    清方画    『三筋の綾』  口絵のみ  清方 岡鬼太郎  隆文館  (1月)〈2ページ大折込口絵〉    『松風村雨』  口絵・表紙 清方 匿名氏   如山堂  (1月)〈画工名は41年刊『山水美論』の巻末広告による〉     『当世女』   口絵・表紙 清方 浪六    青木嵩山堂(前編 1月)〈2ページ大折込口絵 後編は4月刊〉    『緑葉集』   口絵・挿絵 清方 島崎藤村  春陽堂  (1月)    『筆子 筆子の巻』  口絵 清方 菊池幽芳  隆文館  (2月)〈2ページ大折込口絵〉    『子煩悩』   口絵のみ  清方 伊原青々園 近藤新鋭堂(3月)(『恋の闇』続編)    『鹿島灘』   口絵のみ  清方 江見水蔭  今古堂  (3月)    『草籠』    口絵・表紙 清方 田山花袋  服部書店 (5月)    〈画工名は明治41年刊『欧米紀遊二万三千哩』の巻末広告による〉    『富美子夫人』 口絵・表紙 清方 生田葵山  左久良書房(6月)〈2ページ大口絵〉    〈画工名は42年刊『田舎教師』の巻末広告による〉    『白梅紅梅』  口絵のみ  清方 春帆楼主人 隆文館  (6月)〈2ページ大折込口絵〉    〈画工名は同年9月刊『新細君』巻末広告による〉    『妻の懴悔』  口絵のみ  清方 鮫島大浪  也奈義書房(6月)    『杏葉牡丹』  口絵のみ  清方 伊藤政女  也奈義書房(6月)    〈以上也奈義書房の二作、画工名は同年刊『木村重成』(渋柿叢書4 左久良書房)巻末広告による〉    『島の秘密』  口絵 清方・表紙 松洲 徳田秋声 吾妻書房 (6月)(『黄金窟』後編 画工名は巻末広告による)    『不知火』   口絵 清方・表紙 松洲 大倉桃郎 金尾文淵堂(6月)〈2ページ大折込口絵〉    〈画工名は43年刊『琵琶歌』梁江版の巻末広告による〉    『折れ櫛』   口絵のみ  清方 正岡秋子  左久良書房(6月)    〈画工名は42年刊『田舎教師』巻末広告による〉    『新緑』    口絵のみ  清方 岡田八千代 堺屋石割書店(上下 7月)    『松山颪』   口絵のみ  清方 広津柳浪  隆文館  (8月)〈2ページ大折込口絵〉    〈画工名は同年9月刊『罪の命』の巻末広告による〉    『罪の命』   口絵のみ  清方 物集悟水  隆文館  (9月)〈2ページ大折込口絵〉    〈画工名は同月刊『新細君』巻末広告による〉    『もやひかさ』 口絵のみ  清方 岡鬼太郎  左久良書房(10月)    『紫帽子』   口絵・表紙 清方 佐野天声  矢島誠進堂(10月)〈2ページ大折込口絵〉    『浮世車』   口絵・表紙 清方?浪六    青木嵩山堂(10月)〈2ページ大折込口絵〉    『新朝顔日記』 口絵・表紙 清方 伊原青々園 春陽堂  (前後編 11・12月)    『春色輪屋なぎ』口絵・表紙 清方 岡鬼太郎  文泉堂  (12月)    『姫様阿辰』  口絵のみ  清方 広津柳浪  春陽堂  (後編 12月)〈2ページ大折込口絵 前編は英朋画、11月刊〉    『歌吉心中』  口絵・表紙 清方 橋本埋木庵 隆文館  (後編 12月)〈2ページ大折込口絵 前編は39年1月刊〉    『母の血』   口絵のみ  清方 徳田秋声  日高有倫堂(12月)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治四十年刊)    清方画    『式部小路』口絵 清方・装幀 M 泉鏡花 隆文館  (1月)〈2ページ大色摺口絵〉    『嫁ケ淵』 口絵 清方 小笠原白也 金尾文淵堂(前編 4月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『深川染』 口絵(前)英朋 (後)清方 泉斜汀 春陽堂 (5月)〈2ページ大色摺折込口絵〉   ◯『東京勧業博覧会美術館出品図録』(東京府篇 審美書院 明治四十年四月刊)   (東京勧業博覧会 3月20日~7月31日・於上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝日本画之部    尾竹竹坡 一指       尾竹国観  てがら噺    梶田半古 乳海       鏑木清方  嫁ぐ人    歌川国峰 男舞       久保田金僊 妙音天    山田敬中 雪山暮色     松本楓湖  長年奉帝    寺崎広業 王摩詰      荒井寛方  片岡山    榊原蕉園 我のたま・花の蔭 坂巻耕魚  奥山閣    桐谷洗鱗 てう/\〟  ☆ 明治四十一年(1908)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治四十一年刊)    清方画    『恋の浮島』 口絵 清方・表紙 未詳 江見水蔭 青木嵩山堂(1月)〈2ページ大折込口絵〉    『千軒長者』 口絵 清方・装幀 未詳 水谷不倒 如山堂  (1月)〈2ページ大折込口絵〉    『追恨』   口絵・表紙 清方    田口掬汀 日高有倫堂(1月)    『水中の結婚』口絵・清方・装幀 大羽 江見水蔭 今古堂  (2月)〈2ページ大折込口絵〉    〈画工・装幀者名は同年刊『維新前後』巻末広告による〉    『婦系図』  口絵・表紙 清方 英朋 鏡花小史 春陽堂  (前後編 2・6月)〈2ページ大口絵〉    『高野聖』  口絵・装幀 清方 鏡花      左久良書房(3月)    『後の不如帰』口絵・装幀 鏑木清方  なにがし 紅葉堂  (3月)〈2ページ大折込口絵〉    『大和の花』 口絵・装幀 清方    微笑小史 青木嵩山堂(3月)〈2ページ大折込口絵〉    『家内安全』 口絵 清方・表紙 未詳 瀬戸半眠 隆文館  (4月)〈2ページ大折込口絵〉    『炬火』   口絵のみ  清方    中村春雨 今古堂  (5月)    『廃船万里号』口絵・装幀 清方    江見水蔭 青木嵩山堂(前後編 6・10月)〈2ページ大折込口絵〉    『乳屋の娘』 口絵・表紙 清方    遅塚麗水 良明堂  (6月)〈画工名は42年刊『純潔』の巻末広告による〉     『女の望』  口絵のみ  清方    やなぎ生 今古堂  (6月)    『俗曲評釈』 口絵・挿絵 清方模写  佐々醒雪 忠文舎  (7月)(江戸長唄)〈鳥居派風の舞踊図〉    『犯さぬ罪』 口絵のみ  清方    中村春雨 今古堂  (7月)    『浮舟』   口絵・表紙 清方    浪六   青木嵩山堂(7月)〈2ページ大折込口絵〉    『ゆるさぬ関』口絵・装幀 清方 春川 古愚庵主人 梁江堂 (9月)〈2ページ大折込口絵、名取春川は巻末広告による〉    『維新前後』 口絵・装幀 清方    岡本綺堂 今古堂  (9月)〈2ページ大折込口絵〉    『女』    口絵「清」(清方)?   小栗風葉 小川黙水 日高有倫堂(9月)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治四十一年刊)    清方画    『筑波の月』   口絵・表紙 清方 微笑子史 青木嵩山堂(1月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『出潮』     口絵 清方    伊藤銀月 日高有倫堂(1月)〈一色網版〉    『月魄 藤乃の巻』口絵 清方・装幀 弘光 菊池幽芳  金尾文淵堂(3月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『嫁が淵』    口絵 清方・装幀 松洲 小笠原白也 金尾文淵堂(後編 9月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『紅涙』     口絵・装幀 清方 生田葵山  今古堂 (9月)    『新曲金毛狐』  口絵・表紙 清方 逍遥    春陽堂 (10月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「少女出世双六」「清方画」 小波案 博文館 明治41年1月 ⑦  ◯『日本書画名覧』番付 東京(樋口傳編集 書画骨董雑誌社出版 明治四十一年三月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    〈「古人浮世絵各派」以外は主な画家のみ収録。都県名は省略〉   〝近代国画各派名家   (一段目)竹内栖鳳 川端玉泉 渡辺省亭 鈴木華邨 梶田半古 松本楓湖 尾形月耕   (二段目)荒木寛畝 鈴木松年 佐竹永湖    (三段目)熊谷直彦 今尾景年 野村文挙 三島蕉窓 竹(ママ)内桂舟   (四段目)寺崎広業 望月玉泉 村瀬玉田 荒井寛方   (五~十段目)鏑木清方 阪巻耕漁 竹田敬方 歌川若菜〟   (欄外)〝水野年方 高橋玉淵〟  ☆ 明治四十二年(1909)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治四十二年刊)    清方画    『桜田の雪』口絵・表紙 清方 微笑小史 青木嵩山堂(前後編 1月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『野の花』 口絵のみ  清方 涙香外史 春陽堂  (前後編 1・5月)    『痣』   口絵・表紙 清方 奴之助  青木嵩山堂(前編 5月)〈2ページ大色摺折込口絵 後編は春汀画で同月刊〉    『神鑿』  口絵・表紙 清方 泉鏡花  文泉堂  (9月)〈2ページ大色摺口絵〉  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治四十二年刊)    清方画    『不如帰』 口絵のみ  清方    徳富蘆花  今古堂  (2月)〈2ページ大折込口絵〉    『新不如帰』口絵のみ  清方    小林紫軒  盛林堂  (正続編 3・6月)    『野蛮人』 口絵・表紙 清方    江見水蔭  青木嵩山堂(3月)〈2ページ大折込口絵〉    『黒牡丹』 口絵・表紙 鏑木清方  上田君子  杉本梁江堂(6月)    〈画工名は大正6年樋口隆文館刊『憐れ誰が児ぞ』後編の巻末広告より〉    『孝女白菊』口絵のみ  清方    蕨生    岡村書店 (7月)〈画工名は43年刊『後の孝女白菊』巻末広告より〉    『姉の仇』 口絵・表紙 清方    奴之助   青木嵩山堂(8月)〈2ページ大折込口絵〉    『女教師』 口絵・表紙 清方    小笠原白也 青木嵩山堂(10月)〈2ページ大折込口絵〉    『貴公子』 口絵・表紙 清方    稲岡奴之助 青木嵩山堂(前編 11月)〈2ページ大折込口絵 後編43年1月刊〉    『藤村集』 口絵・挿絵 清方    島崎藤村  博文館  (12月)    『老公爵』 口絵のみ  清方    篠原嶺葉  如山堂  (12月)    『凡人』  口絵 清方・装幀 柏亭 高浜虚子  春陽堂  (12月)〈2ページ大折込口絵〉    『野心』  口絵のみ  清方    村山鳥逕  不明   (明治42年刊)〈刊年は②の書誌による〉     ☆ 明治四十三年(1910)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治四十三年刊)    清方画    『天野屋利兵衛』口絵のみ 清方     碧瑠璃園  隆文館  (前後編 1・7月)    『後藤隠岐』  口絵 清方・装幀 春汀 緑園生   隆文館  (1月)    『貴公子』   口絵・表紙 清方    稲岡奴之助 青木嵩山堂(後編 1月)〈2ページ大折込口絵 前編42年11月刊〉    『刄の下』   口絵のみ  清方    緑園生   金尾文淵堂(1月)〈2ページ大折込口絵〉    『春の光』   口絵・表紙 清方    小島孤舟  杉本梁江堂(2月)    『美人船』   口絵・表紙 清方    江見水蔭  青木嵩山堂(2月)〈2ページ大折込口絵〉    『やどり木』  口絵のみ  清方    撫子小史  盛林堂  (3月)    『文子乃涙』  口絵・挿絵 清方    尾島菊子  金港堂  (4月)    『伯爵夫人』  口絵・表紙 清方    田口掬汀  日高有倫堂(終編 6月)    『旅の佳人』  口絵・表紙 清方    大月隆   文学同志会(6月)    『堀部安兵衛』 口絵のみ  清方    碧瑠璃園  隆文館  (前続編 8・12月)    『琵琶歌』   口絵 清方・装幀 松洲 大倉桃郎  梁江堂  (後編 9月)    『憐れなる澄子』口絵のみ  清方    稲岡奴之助 青木嵩山堂(11月)〈2ページ大折込口絵〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治四十三年刊)    清方画    『後の孝女白菊』口絵のみ  清方 阿蘇山人 岡村書店(12月)    『俗曲評釈』  口絵・挿絵 清方 佐々醒雪 博文館 (12月)(四編 上方唄)    ◯『明治東京逸聞史』②p365(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   「芝居がえり」明治四十三年(1910)   〝芝居がえり 〈読売新聞四三・五・一四〉    「東京の印象」の欄に、鏑木清方が、「芝居がえり」と題して、次のように書いている。    「二十年ばかり前、私が十歳くらゐの時には、夜帰りに芝居茶屋で、客に提灯をくれる風があった。新    富座の帰りには、築地橋の上や、川岸の柳の陰を、その提灯が幾つとなく帰つて行つた。私はその時、    耳に残った役者の口跡(コウセキ)と、芝居帰りの夜の景色とを味わったことを回想すると、なほ深い印象を    留めて忘れられぬ。……」〟    ◯『明治百話』「明治の通人菫坡翁」上p108(篠田鉱造著・原本昭和六年刊・底本1996年〔岩波文庫本〕)   〝 清方子の絵枯尾花の句     サテ私に向って、いと懇ろに「私は近い日に、この世をお暇乞(イトマゴイ)せねばならぬが、私が死んだ    と聞いたら、何を措いても即刻駈附て貰いたい、今は言えぬが、少しばかり嘱(タノ)みがある、その場で    納得して貰いたい。ソコで私(ワシ)に多少蔵書がある。その内俳書はソックリ和郎(ソナタ)に進呈する、俳    書中には例の『芳艸集』もある、アノ連句集は、十年余の春の日も秋の夜も、掌中に玩(モテアソ)び読んだ、    またモトの主人の掌(テ)へ戻るのだ」などと、沁々(シミジミ)髄にこたえる咄があったが、元気であるし、    俄かにこれが今生の別れとも永の別れの初めとも思い寄らなかったら、三日経ぬ内、卦音(フオン)に接し、    ソレコソ取る物も取り敢(アエ)ず、枕頭へ駈附けて見ると、浜町(ハマチヨウ)の御宅には、親戚方が臨終に立    会って、旧知の方々も集っていられたが、その内にまだうら若い、鏑木清方画伯が駈附ていられた。コ    ノ清方子(シ)と私に向って、娘御のお専さんが、涙ながらに言われますには「父が前以て、白金巾(シロカ    ナキン)で掛無垢(カケムク)をつくれと申しますので、言うがままこしらえましたら、父の申すには、自分の死    んだ間際には、必ず御両人が駈附るから、コノ白無垢の裾廻(スソマワ)りへは、枯尾花を清方さんに描いて    貰い、その上へは貴君(アナタ)に「旅にやんで夢は枯野をかけ廻る」と芭蕉臨終の句を書いて貰えと申し    ました、コレが遺言でございました」、イヤ御趣向々々々と言いたいくらい、行届いた即刻駈附ろの、    生前のお嘱(タノミ)が、これまた洒脱超凡であったことに感心させられました。清方さんは枯尾花の絵を、    私は不束(フツツカ)ながら輪(ワ)なりに芭蕉翁の一句を揮(カ)きましたが、通人の臨終は格別ものと、並居    る人々も感に堪え、そのまま棺に納め、野辺の送り火に附してしまいました〟    〈落合芳幾・條野採菊らとともに東京日日新聞を創立した西田菫坡が亡くなったのは明治四十三年(1910)〉    ☆ 明治四十四年(1911)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治四十四年刊)    清方画    『春次おぼえ帳』口絵・表紙 清方 平井蘆江  隆文館   (2月)〈2ページ大折込口絵〉    『漢訳/不如帰』口絵・挿絵 清方 杉原夷山訳 千代田書房 (4月)    『ゆきちがい』 口絵・装幀 清方 三島霜川  島之内同盟館(前後編 7月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『お伽十夜噺』 口絵 清方・装幀 久保田米斎 小波 スミヤ書店(9月)    『母のゆくへ』 口絵・表紙 清方 山田旭南  盛林堂   (12月)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治四十四年刊)    清方画『家の柱』口絵のみ 清方 田口掬汀 日高有倫堂(6月)  ◯『現代全国画家録』(平田三兎編 丹青書房 明治四十四年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝梅 鏑木清方  東京 浮世派 風俗〟   〝潤筆価格標準(価格 原文は漢数字)     類別   区分 価格    区分 価格     梅之部  精  20円以上 疎  10円以上    右潤筆価格ハ絹本尺五(幅壹尺五寸/丈四尺)ヲ度トシ精疎二様ノ概価ヲ表示シタ    ルモノニシテ、額面屏風其他極彩色ノ密画ハ此ノ限リニアラズ〟    〈本HP「浮世絵事典」【う】「浮世絵師人名録 明治編」参照〉  ◯『明治東京逸聞史』②p390「夢二の絵(二)」明治四十四年(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   〝夢二の絵(二) 〈現代画集(春陽堂編)〉     この年四月に版になった「現代画集」というものの後に、鏑木清方の「小説の挿絵」という談話筆記    が出ているが、その中で清方は、竹久夢二の挿絵を認めて、独創性のあるのがいい。夢二をまねて、夢    二よりも絵の上手な人はあるけれども、独創的な趣味に於て、遠く夢二に及ばない、といっているのは    さすがだ。夢二の絵を早く認めた人として、清方も挙げられることになる〟  ☆ 刊年未詳(明治)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    清方画    「教訓歴史寿語録」清方 宣方 宗方 敬方 光方 秋山武右衛門 ⑨⑩    「当世風俗寿語録」輝方 静方 清方他 秋山加弥 ②  ☆ 大正元年(明治四十五年・1912)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(大正元年刊)    清方画    『金色夜叉絵巻』口絵 鏑木清方編・画  尾崎紅葉  春陽堂(1月)    『後の巌窟王』 口絵 清方・装幀 未詳 高桑白峯訳 扶桑堂(1月)〈三色網版〉    『海と陸』   口絵・表紙 清方    稲岡奴之助 嵩山堂(前編 1月)〈2ページ大折込口絵 後編春汀画4月刊〉    『金色夜叉絵巻』口絵・表紙 鏑木清方  尾崎紅葉  春陽堂(2月)    『江戸城』   口絵 清方・装幀 未詳 大倉桃郎  同文館(5月)〈2ページ大折込口絵〉    『お三津さん』 口絵・表紙 清方    鈴木三重吉 春陽堂(6月)〈署名は裏表紙〉    『罪のくやみ』 口絵・表紙 清方    稲岡奴之助 嵩山堂(10月)〈2ページ大折込口絵〉  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正元年刊)    清方画    『合三味線 』 口絵・表紙 清方 岡鬼太郎  辰文館  (6月)    『花売女』   口絵・装幀 清方 柳川春葉  金尾文淵堂(7月)〈2ページ大折込口絵〉    『殺人倶楽部』 口絵のみ  清方 森蜈山   文成社  (10月)    『不破数右衛門』口絵・表紙 清方 春風楼主人 隆文館  (前編 11月)〈2ページ大折込口絵 後編翌年2月〉    『母のゆくへ』 口絵のみ  清方 山田旭南  盛林堂  (12月)  ◯『金色夜叉絵巻』(尾崎紅葉原著 鏑木清方 春陽堂 二月)   (巻末の新聞書評)   〝和歌山新聞 故紅葉山人一代の傑作たる金色夜叉は新体詩となり劇となり、児童走卒と雖も間貫一とお    宮の名を知らざるものなし。浮世絵の大家鏑木清方氏は更らに之を絵巻となし、多数特異の画毫を揮ひ    原文を挿入し、特にお宮の心理的変化に随ひて筆致縦横、或は濃艶なる木板摺となり、或は清麗たるス    ケッチとなり、筆力を製版と共に精巧を極め、印刷に於手も一々色彩を異にしたり、凝り性の故人に一    見せしめば定めて愛翫措ざりしなるべしと思はる〟    〈清方は原文を諳んずるなど読みをつくして画稿を考案する。それが見る者をして「お宮の心理的変化に随ひて筆致縦横」と     いった感を抱かせるのであろう〉  ◯『大日本画家名鑑』大正二年度改正 現代之部(前田鐘次郎編 東洋画館 大正元年12月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「浮世画之部」   〝鏑木清方 東京日本橋浜町〟  ☆ 大正二年(1913)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正二年刊)    清方画    『木遣り』   口絵のみ  清方 泉斜汀   東盛堂   (1月)    『不破数右衛門』口絵・表紙 清方 春風楼主人 隆文館   (後編 2月) 〈2ページ大折込口絵 前編昨年11月刊〉    『鬼の妻』   口絵・表紙 清方 稲岡奴之助 嵩山堂   (前後編 2・3月)    『夢の行方』  口絵・挿絵・表紙 清方 久留島武彦 東華堂(2月)    『お伽講壇』  口絵・挿絵・装幀 清方 久留島武彦 富山房(4月)    『女一代』   口絵・挿絵 清方 柳川春葉  金尾文淵堂 (前後編 6・7月)    『女夫心中』  口絵 清方・装幀 百穂 小栗風葉  隆文館(9月)〈2ページ大折込口絵〉    『新かつら下地』口絵 清方・装幀 非水 小栗風葉  隆文館(11月)〈2ページ大色摺折込口絵〉     『栗山大膳』  口絵のみ  鏑木清方  碧瑠璃園  隆文館(上編 12月)〈2ページ大折込口絵〉     『百合子』   口絵・挿絵 清方・装幀 非水 菊池幽芳 金尾文淵堂(前中後編 9・10・12月)〈2ページ大折込口絵〉    『秘中の秘』  口絵・挿絵 清方・表紙 非水 菊池幽芳 金尾文淵堂(前後編 12月)〈2ページ大色摺折込口絵〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(大正二年刊)    清方画    『円朝全集』口絵・装幀 清方   三遊亭円朝 春陽堂(9月)〈巻の九、巻の十二とも同じ口絵〉    『落花帖』 口絵 清方・装幀 五葉 小杉天外 春陽堂(上巻 10月)〈2ページ大折込口絵 下巻3年2月〉    『恋女房』 口絵 清方・装幀 五葉 泉鏡花  鳳鳴社(12月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    ◯『大日本絵画著名大見立』番付 名古屋(仙田半助編集・出版 大正二年十一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   (東方)   〝前頭 池田蕉園 東京市下谷中根岸九〇   (西方)   〝前頭 池田輝方 東京市下谷中根岸    前頭 鏑木清方 東京市日本橋区浜町〟  ◯『読売新聞』(大正2年8月2日)   〝鏑木照子 -明治美人伝(三十)-長谷川時雨     あのお方様の御事ならば、ほんの一ッふたつなれどおもしろきおはなしをぞんじをり候(そろ)、然    しながら噂のうけうりゆゑ真疑はしらず、御取捨はいかやうにも御判断にまかせ候。とはまをせ わ    たくし自身だけは、信実(ほんとう)のことゝ思ひて、また内々にてのお知らせ、かなりお安くなきお    話しに候。     あのお方様 お生れは山の手とはいへ立派な東京ッ子、旦那様の清方氏は御承知の通りの浮世絵の    大家、当時は此方の右にたつ人はあるまいと評判の方。明治文壇の最初の方に、やまと新聞の続きも    のに筆をとつてゐられた、故條野採菊散人といふ名の残つてゐる、通人の小説家の御子息といふこと    に候。その清方様の御理想にあつた方といへば、大概は御姿を見ずとも、御様子をうかゞはずとも照    子様といふ方がわかると存じ候。まだおかたづきにならぬうちより、むかしならば土蔵(おくら)の白    壁へ、逢相傘のかきわり、姿のかはりに両方へお名前を書かれるやうなお仲であつたとか、故紅葉先    生の御門下中になにとやらいふ会があり、其お仲間中大妬気にて、わい/\といつたものとかに候。    竹内桂舟画伯の御家にてかるた会のあつた夜、折からの雨に清方 傘をかりておかへりなされ、其翌    日にかへさせる人も人、選(よ)りによつて岡焼やかましきおてる様にもたせてやつたとか、今でも時    折其おはなし引合ひにでるように候。御婚礼なされて後、ある時の巽画会の余興に、お二人にて「金    色夜叉」の熱海の海岸の場をお出しなされ、分(わけ)を知つた見物の肝をつぶさせ 大層あてさせら    れたよし、かなり罪なところをお出しなされたことゝ思ひ候。何故ならば、あのお宮といふ女のお手    本はほかにあるとしても、かるた会のあたりは、ちよいとお二人様を御拝借のやうにも洩れ知る、内    端同士の見物が多かつてのに御座候。     六七年前 春陽堂の店の小僧さん仲間に お照さん党、お柳さん贔屓といふ反目があつたよし、右    はおなじ浜町の清正公様の地内にすんでゐられた山岸荷葉氏の夫人で美人の柳子さんと、好き好(ず)    きからの頼まれもせぬ喧嘩、御当人同士は仲よく芝居見物などなせれをりしとあり候。     たしか明治座かと思ひ候。隣のうづらにお二人をお見かけいたしたことあり、お柳様は頭髪(おぐ    し)のまつ黒な色の白い、鼻の高い目のすゞしい、お顔の寸のすこしつまつた中肉の小柄な方、お照    様はすらりとした撫肩の、お扮装(つくり)なり髪の結振りなり、さくりとした中にうまみのある御様    子、おなじ年若の、おなじ下町の意気すくりの中にも、どこやら昔好みの面影の深かつたのは、朱塗    へまきゑの差櫛をいてふがへしの前へさしておいでなられた、照子様の好みと忘れずに覚えをり候。     神田の金さんといふ人のまをされ候には、清方氏はお照さまをお手本にし、お照様は新派の女形    (おやま)河合武雄の舞台がお好きゆゑ、どうしても河合ばりになり、従つて清方様の絵の女が河合式    になる。お照様がもつと自分の色をだして見せると、絵の調子もそれにつれて異つてゆき、それこそ    後世に残す、東美人絵のたいしたものが出来るに、とのことに候。     清方様御生母も、浅草第六天の神職の御娘にて、お宮のお嬢とて有名の美人、お蔵前の船頭金蔵丸    の親方に見初められ、其家の厠から逃出したといふ逸話あるよしに候へど、あまり長くなり、それに    委敷知らぬを、女の多弁は暑中殊更つゝしむことゝ、此処にはもらし候。     美人伝へ此まゝ出されてはこまるといふのを、手紙のぬしの昼寝のひまに借用。一ツ、申訳の事と    詫証文の文案をし乍(なが)ら〟  ☆ 大正三年(1914)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正三年刊)    清方画    『雪だるま』 口絵のみ  清方      浪六   至誠堂 (1月)〈2ページ大折込口絵〉    『落花帖』  口絵 清方・装幀 五葉   小杉天外 春陽堂 (下巻 2月)〈2ページ大折込口絵 上巻2年11月〉    『誘惑』   口絵 清方・装幀 春仙?  菊池幽芳 春陽堂 (前後編 3・7月)〈2ページ大折込口絵〉     『栗山大膳』 口絵のみ  鏑木清方    碧瑠璃園 隆文館 (下編 5月)〈2ページ大折込口絵 上編は前年12月〉    『織田信長』 口絵のみ  清方      笹川臨風 中央書院(5月)〈2ページ大折込口絵〉    『松葉家乃娘』口絵 清方・装幀 五葉   泉斜汀  鳳明社 (6月)〈2ページ大口絵〉    『新渦巻』  口絵 清方・装幀 非水   渡辺霞亭 隆文館 (6月)        『初一念』  口絵 清方・装幀 非水   小栗風葉 隆文館 (6月)〈2ページ大折込口絵〉    『島の娘』  口絵 清方・装幀 町田歌三 黒岩涙香 扶桑堂 (初終編7・11月)    〈画工名は4年刊『ひと夜の情』巻末広告による〉    『実録忠臣蔵』口絵 清方・装幀 非水   半井桃水 隆文館 (前編 11月)〈2ページ大折込口絵 後編未見〉    『忘れがたみ』口絵 清方・装幀 非水   大江素天 隆文館 (11月)〈2ページ大折込口絵〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(大正三年刊)    清方画    『百合子画集』挿絵 鏑木清方・装幀 非水 菊池幽芳 金尾文淵堂(1月)    『落花帖』  口絵 清方  ・装幀 五葉 小杉天外 春陽堂(後編 10月)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「少女四季すごろく」「鏑木清方画」博文館? 大正3年12月 ⑦     ☆ 大正四年(1915)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(大正四年刊)    清方画    『お夏文代』口絵のみ 清方 菊池幽芳 春陽堂(前編 1月)〈2ページ大色摺折込口絵〉  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正四年刊)    清方画    『小ゆき』   口絵・挿絵 清方・装幀 非水 菊池幽芳 金尾文淵堂(前中後続編 4・6・8月)    『気のきいた唄』口絵 桂舟 清方・表紙 素明 中川愛氷 山陽堂  (5月)    『銀笛』    口絵 清方・装幀 未詳    小杉天外 実業之日本社(前編 10月)〈2ページ大折込口絵 後編5年1月刊〉  ☆ 大正五年(1916)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正四年刊)    清方画    『ふたおもて』口絵 清方・装幀 非水 田口掬汀 新潮社   (前編 1月)  〈後編未見〉    『お夏文代』 口絵・装幀 清方    菊池幽芳 春陽堂   (中編 1月)  〈2ページ大折込口絵 後編は6年4月刊〉    『銀笛』   口絵 清方・装幀 未詳 小杉天外 実業之日本社(後編 1月)  〈2ページ大折込口絵 前編4年11月刊〉    『銀の鍵』  口絵・挿絵 清方・装幀 未読 柳川春葉 新潮社(前後編 5・7月)〈後編口絵欠〉    『将棊島』  口絵・表紙 清方    斎藤星瀾 樋口隆文館 (前後編 6月) 〈2ページ大折込口絵〉    『日本橋心中』口絵・表紙 清方    埋木庵  金春書房  (11月)    『毒草』   口絵のみ  清方    菊池幽芳 至誠堂   (12月)(お品の巻)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(大正五年刊)    清方画『麗子夫人』口絵・装幀 清方 小栗風葉 金春書房(9月)〈2ページ大色摺折込口絵〉  ◯『【大正五年度/現代日本画】帝国絵画番附』番付(編集者・出版元記載なし 大正五年刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    ※【 】は流派( )は長所(受賞)は文展第1回(明治40年・1807)~第9回(大正4年・1915)までの受賞歴   〝文展作家   (二等賞格)    鏑木清方【浮世】(人物)本郷区龍岡町一五(受賞 二等:第8-9回 三等:4回 褒状:3・5回)    〈二等賞格では他に池田輝方も入る〉  ☆ 大正六年(1917)  ◯『日本絵画名家詳伝』下(竹内楓橋著 春潮書院 大正六年(1917)二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝鏑木清方    明治十一年を以て 東京に生る 名は健一 別に渓水・象外と号す 夙に水野年方の門に入り 浮世絵    を研究し 明治三十一年以来 諸新聞の挿画に従ひ名声あり 曩(さき)に文部省美術展覧会にて二等賞    を得 声価頓に高まり 今や浮世絵を以て 前途有望の画家として知らる 現に東京市本郷区龍岡町に    住す〟    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正六年刊)    清方画    『大石内蔵之助』 口絵のみ  清方 半井桃水 博愛館(第1巻 1月)〈2ページ大折込口絵 2-4巻口絵欠〉    『お夏文代』   口絵・装幀 清方 菊池幽芳 春陽堂(後編 4月)〈2ページ大色摺折込口絵 前編は5年1月刊〉    『毒草』(疑獄の巻)口絵 清方    菊池幽芳 至誠堂(4月)    『二人静』    口絵・装幀 清方 柳川春葉 至誠堂(後編< 5月)〈前編未見〉    『毒草』(お仙の巻)口絵のみ  清方 菊池幽芳 至誠堂(6月)    『竜巻』     口絵 滴水・挿絵 清方 渡辺霞亭 実業之日本社(前編 6月)〈2ページ大折込口絵〉    『うき潮』    口絵・挿絵 清方?磯千鳥  日吉堂(7月)〈2ページ大折込口絵〉    『竜巻』     口絵 滴水・挿絵 清方 輝方?洗厓 渡辺霞亭 実業之日本社(後編 8月)〈2ページ大折込口絵〉  ☆ 大正七年(1918)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正七年刊)    清方画『紅梅集』口絵のみ 清方 泉鏡花 春陽堂(1月)〈2ページ大口絵〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(大正七年刊)    清方画『たけくらべ』口絵・装幀 清方 樋口一葉 博文館(11月)  ◯『艶戯十二図』鏑木清方画 桐生市宮本町 岡公園裏 於金子竹太郎別邸  ☆ 大正八年(1919)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正八年刊)    清方画『須磨子』口絵・挿絵 滴水 清方・装幀 非水 菊池幽芳 東京社(9月)〈口絵画像欠〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(大正八年刊)    清方画『霊鐘』口絵 清方 深水・装幀 非水 小杉天外 実業之日本社(前編 9月)〈後編9年8月刊〉    ◯『大正八年度帝国絵画番附』番付 東京(吉岡斑嶺編 帝国絵画協会 大正八年刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    ※ 文展出品者 漢数字は年齢【 】は流派( )は長所     (受賞)は文展第1回(明治40年・1807)~第12回(大正4年・1918)までの受賞歴   〝(名人格)    鏑木清方42【年方】(人物)本郷区龍岡町一五    (受賞 推薦:第12回 二等:8-9回 特薦:11回 三等:4回 褒状:3・5回)〟  ☆ 大正年間(1912~25)  ◯「大正書画番附」(番付 編者未詳 大正年間刊)〔番付集成 下〕   (最上段 東)   〝横綱 横山大観 大関 小室翠雲 関脇 荒木十畝 小結 佐久間鉄園 張出横綱 河合玉堂    前頭 鏑木清方 結城素明(他略)〟  ☆ 昭和元年(大正十五年・1926)    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(大正十五年刊)    清方画    『円朝全集 巻一』口絵 清方・挿絵 芳年 三遊亭円朝    春陽堂(9月)    『円朝全集 巻八』口絵 清方・挿絵 芳幾 芳年 三遊亭円朝 春陽堂(9月)  ☆ 昭和二年(1927)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(昭和二年刊)    清方画『円朝全集』巻1-12 三遊亭円朝 口絵 清方 春陽堂(2年) 非売品    〈他の口絵と挿絵は初版のものと同じ。清方の口絵は巻1-12すべて同じ。画像は巻1・5・7・8を欠く〉  ☆ 昭和六年(1931)    ◯『浮世絵師伝』p30(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清方    【生】明治十一年(1878)   現在    【画系】年方門人      【作画期】明治~昭和    鏑木氏、俗称健一、條野採菊の男。明治十一年八月三十一日神田区南佐久間町に生れ、十四歳の時、水    野年方の門に入り翌年京橋大根河岸の祭礼行燈に円朝の牡丹燈籠を師及び社中一同にて執筆し、初めて    師より清方の雅号を受く。十七歳より「やまと新聞」、「仙台東北」、「読売新聞」等の挿画を描き、    明治四十年京橋区木挽町より日本橋区浜町河岸へ移り、四十五年本郷区龍閑町へ移る、現今は牛込区矢    来町に住す。明治四十三年巽画会展覧会審査員を東京府より任命さる、四十二年より文部省美術展覧会    へ数回出品して褒状及び三等賞を受け、大正三年の第八囘には「隅田河舟遊」の六曲一双、翌年には    「晴れゆく村雨」六曲一双出品し、続けて二等賞を受く、十一回には「黒髪」で特選、十二回展には    「ためさるゝ日」を出品して推薦さる、大正八年帝国美術院美術展覧会の第一囘に審査委員に任命され、    昭和二年の第八回展に出品した「築地明石町」は黒羽織を着て、其当時流行の夜会髷、中年増の美人立    姿、上品の情緒、無限の魅力を有ち、帝展唯一の傑作と認められ、帝国美術院賞を受く、昭和四年美術    院会員に任命さる。    郷土会と云ふ名称にて画塾の展覧会を聞く、氏の門下には伊東深水、山川秀峰、川瀬巴水、笠松紫浪、    小早川清、門井掬水外著名の画家多く現代浮世絵画壇の元勲者である、氏の美術批評は文才にも秀で、    画の真髄を捉へて公平無比である〟       ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」〝水野年方門人 鏑木清方〟  ◯「集古会」第二百三十七回 昭和十七年十一月 (『集古』昭和十八年第一号 昭和18年1月刊)   〝中沢澄男(出品者)鏑木清方版画 東の秋西の秋 美人画 一枚〟