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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ ほくば ていさい 蹄斎 北馬
浮世絵師名一覧
〔明和8年(1771) ~ 弘化1年(1844)8月16日・74歳〕
※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録」「国書データベース」 ②〔早稲田〕 :『早稲田大学所蔵合巻収覧稿』 ⑩〔中本型読本〕 :「中本型読本書目年表稿」 ⑪〔江戸読本〕:「江戸読本書目年表稿(文化期)」 〔漆山年表〕 :『日本木版挿絵本年代順目録』 〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』 「日文研・艶本」:「艶本資料データベース」 〔白倉〕 :『絵入春画艶本目録』 『黄表紙總覧』棚橋正博著・日本書誌学大系48 角書は省略
☆ 寛政十年(1798)
◯「絵入狂歌本年表」
〔目録DB〕(寛政十年刊)
蹄斎北馬画
『狂歌花鳥集』二冊 易祇・北馬・宗寿等画 千種庵編 山中要助板
〈別書名を『夷曲花鳥集』という〉
☆ 寛政十二年(1800)
◯「絵本年表」
(寛政十二年刊)
蹄斎北馬画
『狂歌花鳥集』二巻 白峯易祇画 蹄斎北馬 宗寿画 千種庵序 前川六左衛門板
〔漆山年表〕
『雨錦』 四巻 蹄斎北馬画 山家亭主人著 花屋久治郎板
〔目録DB〕
◯「絵入狂歌本年表」
〔目録DB〕(寛政十二年刊)
蹄斎北馬画
『夷曲花鳥集』二冊 易祇・蹄斎北馬・宗寿等画 千種庵霜解撰 山中要助板
〈〔狂歌書目〕は画工名易祇のみ。版元は〔狂歌書目〕より〉
◯『葛飾北斎伝』p347(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊) (北馬画の読本『席上夜話雨錦』に関して、岩波文庫本『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三氏補注)
〈本書は平成八年に二種の欠本が出て書誌事項が判明したとあり〉
〝正しく北馬の筆で、寛政十二年、花屋久治郎版で四冊。書名のよみは、巻三の題簽に「安磨仁志記」と ある〟
〈「雨錦」は「アメニシキ」と読むようだ。「日本古典籍総合目録」には山家亭主人(流霞窓広住)作とある。北馬読本の 初筆か〉
☆ 寛政年間(1789~1800)
◯「絵入狂歌本年表」
〔目録DB〕(寛政年間刊)
蹄斎北馬画
『狂歌新手集』二冊 蹄斎北馬画 千種庵霜解編 山中要助板 ☆ 制作年未詳(寛政~文化)
◯「絵暦年表」
(本HP・Top)(寛政~文化)
③
「北馬画」
(床の間に立花 大黒天の掛幅を拡げる母、腕に白ねずみのせる娘、それを見つめ る子供の図)1-17/23 賛なし
〈大小表示不明。子年だが、年号を特定できない〉
「署名なし」(緋毛氈を敷いた飾り棚に張り子の虎を据える娘)1-17/23 賛なし
〈大小表示不明。寅年を意味するのだろうが、年号を特定できない。また署名はないが、 所蔵者と思われる朱印が同じであること及び描線・色調等から上掲北馬図とセットと思われる〉
③
「蹄斎北馬写
〔印字不明〕」(魚の干物と白梅)1-22/23 「夫唐堂成益・千林亭」狂歌賛
〈大小表示不明〉
☆ 享和二年(1802)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(享和二年刊)
蹄斎北馬画
『狂歌万久乃宇知』二巻 画工 蹄斎北馬 千秋庵雪解著 若林清兵衛
〈内題は『狂歌幕之内』〉
◯「咄本年表」
〔目録DB〕(享和二年刊)
蹄斎北馬画
『水の行衛』蹄斎北馬作・画
◯「絵入狂歌本年表」
〔狂歌書目〕(享和二年刊)
蹄斎北馬画
『狂歌幕の内』二冊 蹄斎北馬画 千種庵霜解撰 山中要助板 ◯『狂歌萩古枝』〔江戸狂歌・第六巻〕浅草庵市人編・享和二年(1802)刊 (桑楊庵頭光七回忌(享和二年四月十二日)追善集) 〝初茄子 蹄亭北馬 放下師のわさかもはやき初茄子すこしも種の見ゆるのはなし〟 ◯『狂歌左鞆絵』〔江戸狂歌・第六巻〕尚左堂俊満編、自画・享和二年序 〝端伍 蹄斎北馬 あやめ草けふは軒端にふくろく寿つふりへさはる葉の長くして 賤の女か手織の布をはつのほりひをみてたつる村長か門〟 ☆ 享和三年(1803)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(享和三年刊)
蹄斎北馬画
『上州榛名詣』一冊 北馬画 清水玄叔著 高井蘭山閲
◯「読本年表」
(享和三年刊)
蹄斎北馬画
『絵本三国妖婦伝』中編「画工 蹄斎北馬子」高井蘭山作 柏屋忠七他板 ⑪ ☆ 享和年間(1801~1803) ◯『滝沢家訪問往来人名録』上p46(曲亭馬琴記・享和三年頃?) 〝下谷ミすち町
北馬
子事 有坂五郎八殿〟 ◯『増訂武江年表』2p27(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) (「享和年間記事」) 〝江戸浮世絵師は、葛飾北斎辰政(始め春朗、宗理、群馬亭、後北斎戴斗、又為一と改む)、歌川豊国、 同豊広、蹄斎北馬、雷洲(蘭画をよくす)、盈斎北岱、閑閑楼北嵩(後柳居)、北寿(浮絵上手)、葵 岡北渓〟 ☆ 文化元年(享和四年・1804)
◯「読本年表」
(文化元年刊)
蹄斎北馬画
『絵本三国妖婦伝』上編「画狂人北斎門人 蹄斎北馬画」高井蘭山作 柏屋忠七他板 ⑪① ☆ 文化二年(1805)
◯「読本年表」
(文化二年刊)
蹄斎北馬画
『絵本三国妖婦伝』下編 蹄斎北馬画 高井蘭山作 柏屋忠七他板 ⑪ 『勧善常世物語』 「蹄斎北馬画」曲亭馬琴作 柏屋半藏他板 ① 『石言遺響』 「蹄斎北馬画」曲亭馬琴作 西村源六他板 ⑪①
◯「滑稽本年表」
(文化二年刊)
蹄斎北馬画
『白痴聞集』「蹄斎北馬画」十返舎画 桃舎画 感和亭鬼武作 中村善蔵①
◯「絵入狂歌本年表」
(文化二年刊)
蹄斎北馬画
『狂歌かゆ杖』一冊 菱川宗理・北馬其他 版元不記載
〔狂歌書目〕
蹄斎北馬詠
『百囀』一冊 画狂人北斎画 桑楊編 西村屋与八板
〔目録DB〕
〝江戸 子をしかる母のことばにお◎さまのあれめを見よや春の青柳 蹄斎北馬〟 ☆ 文化初年(1804~) ◯『馬琴書翰集成』⑥286 年不詳七月二十一日 馬琴宛・蹄斎北馬(第六巻・書翰番号-来76) (文化元~二年と推定) 〝 馬琴先生
北馬
昨夜閑々得□□、大慶仕候。梓師卯八、私方へ昨日参り候よし。像之所は承知のよしに御座候へども、内 心は中の画十七匁□□、あまりきのなき様申聞帰り候よし、愚妻申聞候。相成候ハヾ、卯八へ頼み度候間、 十七匁の所、私壱匁出銀可致候間、卯八へ御申付可被下候。尤、私方より遣し候様申候而は不承知故、 画料さし引にて、其御方より直を上ゲ被遣可被下候。しかし、私出銀はゑんの下の(*力持ちの絵)に 御座候間、相成候ハヾ、五分もさきでだし候て、直□□□夫も出来候て、私壱匁ヅヽ出銀候ても不苦候。 可然御工夫奉願候。二巻目ハ、直はむつかしきよし、是も彫の所、やすあがりに致さぬ様に、ひとへに (*拝む絵)(升の図)。何れ今日明昼迄に跡出来可仕、左様思召可被下、(一図意味不明)も明日か ゝり申度候。以上 七月廿一日 一〇下第四上(ママ)〟
〈「像之所」「中の画」とあるところから、これは読本の彫りの手間賃のことと思われる。彫工の卯八が「中の画」に 十七匁の要求をしている。北馬は卯八の技量を買っているらしく、自分の画料から一分を拠出して十七匁とするから、 卯八に仕事をまわしてほしいと頼んでいる。「日本古典籍総合目録」によれば、馬琴作・北馬画の読本は文化二年 (1805)刊『石言遺響』と同年成立『勧善常世物語』の二作だけである。するとこの書簡は文化元年~二年のものだ ろう〉
☆ 文化三年(1806)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(文化三年刊)
蹄斎北馬画
『狂歌花の莚』一冊 北馬画 三蔵楼田鶴丸編 ◯『稗史提要』p404(比志島文軒(漣水散人)編・天保年間成稿)
◇黄表紙
(文化三年刊)
作者の部
京伝 楚満人 馬琴 一九 石上 鬼武 慈悲成
画工の部
重政 豊国 豊広 国長 春亭 国丸 北馬
◯『黄表紙總覧』後編
(文化三年刊) 〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの
蹄斎北馬画
『虚気の早替』「北馬画」「蘭衣戯作」山口屋板 『小人嶋仇討』(蹄亭北馬画・感和亭鬼武作・村田屋板)
〈備考、従来文化三年刊とするも、序に「巳春の新板」とあることから文化六年刊とする〉
◯「読本年表」
(文化三年刊)
蹄斎北馬画
『自来也説話』「蹄斎北馬画」 感和亭鬼武作 中村藤六板 ⑪① 江戸 『濡衣雙紙』 「画人 蹄斎北馬」芍藥亭長根作 上総屋忠助他板 ⑪① 江戸 『桜池由来』 「画工 蹄斎北馬」感和亭鬼武撰 伊勢屋藤六板 ⑩① 江戸 『鴫立沢』 蹄斎北馬画 感和亭鬼武作 伊勢屋藤六 ① 江戸
〈書誌による〉
☆ 文化四年(1807)
◯「合巻年表」
(文化四年刊)
蹄斎北馬画
『化粧阪閨中仇撃』「北馬画」感和亭鬼武作 村田屋板 ①
◯「読本年表」
(文化四年刊)
蹄斎北馬画
『翁丸物語』「蹄斎北馬画」十返舎一九作 上総屋忠助板 ⑩
◯「滑稽本年表」
(文化四年刊)
蹄斎北馬画
『春袋睾丸釣形』蹄斎北馬画 感和亭鬼武作 永楽屋五兵衛 ①
〈書誌による〉
◯「絵入狂歌本年表」
〔目録DB〕
◇狂歌
(文化四年刊)
蹄斎北馬画
『狂歌蛙合』一冊 署名「北馬画」下毛宇陽 孤松亭・夜雨亭編「文化四丁卯集」 ☆ 文化五年(1808)
◯「読本年表」
(文化五年刊)
蹄斎北馬画
『千代曩媛七変化物語』「画工 蹄斎北馬」振鷺亭主人作 石渡利助他板 ⑪① 『俊徳麻呂謡曲演義』 「画工 蹄斎北馬」振鷺亭主人作 石渡利助他板 ① 『孝子美談白鷺塚』 「画図 蹄斎北馬」十返舎一九作 上総屋忠助他板 ⑩① 『敵討猫俣屋敷』 「蹄斎北馬画」 振鷺亭主人作 上総屋忠助他板 ⑩ 『孝子嫩物語』「画工 巻之一 蹄斎北馬/巻之二三 抱亭北鵞/巻之四五 昇亭北寿」 高井蘭山作 大和田伊助他板 ⑪① 江戸
〈但し巻二の挿絵に「北寿画」の署名あり〉
『那智の白糸』 「蹄斎北馬大人画」高井蘭山作 中村久蔵他板 ⑪① 『文七髻結緒』 「蹄斎北馬画」 感和亭鬼武著 伊勢屋忠右衛門他板 ⑩① 『函嶺復讎談』 蹄斎北馬画 感和亭鬼武作 上総屋忠助他板 ⑩①
◯「艶本年表」
〔白倉〕(文化五年刊)
蹄斎北馬画
『為弄也説話』墨摺 半紙本 三冊 序「戊辰之春 怡枕主人題」文化五年
(白倉注、怡枕主人は感和亭鬼武。鬼武作読本『自来也説話』(文化三年)の艶本化)
『君手満久羅』墨摺 中本 二冊 蹄斎北馬画か 文化五年 ◯「立川談笑落語会之摺物」 (『落話会刷画帖』式亭三馬収集・文化十二年八月序・『日本庶民文化史集成』第八巻所収) 〝北馬画〟
〈絵柄は黒牛の背に乗る農婦と草刈る童、以下は三馬のコメント〉
〝此会は文化五年歟六年の秋歟、季月追可考〟 ☆ 文化六年(1809)
◯「合巻年表」
(文化六年刊)
蹄斎北馬画
『畧縁起稗蒔仇討』「北馬画」表紙 式麿画 感和亭鬼武作 村田屋板 ②
〈表紙式麿画、本文挿絵北馬画〉
『時代模様室町織』有坂北馬画 感和亭鬼武作 板元未詳 ①
◯「読本年表」
(文化六年刊)
蹄斎北馬画
『俊徳麻呂謡曲演義』「蹄斎北馬画」 振鷺亭主人作 石渡利助他板 ⑪① 『復讐竒説田村物語』「出像 蹄斎北馬」天風坊鰋翁作 大和屋伊助他板 ⑪① 『増補津国女夫池』 「画工 蹄斎北馬」感和亭鬼武作 松本屋新八他板 ⑩① 『星月夜顕晦録』初編「画図 蹄斎北馬」高井蘭山作 柏屋清兵衛他板 ⑪① 『復仇女實語教』 蹄斎北馬画 十返舎一九作 多田屋利兵衛他板 ⑩①
〈画工名は①の書誌による〉
『函嶺復讎談』 「蹄斎北馬画」 感和亭鬼武作 上総屋忠助他板 ① 『柳の糸』 「画工 蹄斎北馬」小枝繁作 伊勢屋忠右衛門他板 ⑪① 『尼城錦』 「画人 蹄斎北馬」葛飾吉満作 上総屋忠助他板 ⑪① ◯「朝寝坊夢羅久落話会披露之摺物」 (『落話会刷画帖』式亭三馬収集・文化十二年八月序・『日本庶民文化史集成』第八巻所収) 〝文化六年己巳八月廿八日、開莚於柳橋大のし富八楼〟
〈夢羅久(夢楽)最初の落語会、この摺物に、春英・豊国・北馬・拙亭翠・泉目吉が絵を添えた。以下は三馬のコメント〉
〝蹄亭北馬ハ北斎辰政の門人、当時下谷三筋町組屋敷に住す、俗称有坂五郎八〟 〈三馬のいう「当時」とは、泉目吉の記事に「当時本郷に住す」と「文化十一年秋物故」とあることからすると、この 画帖が仕立てられた文化十二年ではなくて、この落語会のあった文化六年なのであろう〉 ☆ 文化七年(1810)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(文化七年刊)
蹄斎北馬画
『千もとの華』狂歌 一帖 洛陽醍醐図 紅翠斎北尾繁昌行年七十二歳画 柳々居辰斎画 抱亭北鵞筆 文悤画 雪旦
北馬画
千首楼序
◯「合巻年表」
(文化七年刊)
蹄斎北馬画
『三島娼化粧水茎』蹄斎北馬画 感和亭鬼武作 板元未詳 ①
〈書誌による〉
『貞操之柳』 蹄斎北馬画 十返舎一九作 西与板
(注:日本小説年表による)
①
〈板元は文化7年新刊目録より〉
◯「読本年表」
(文化七年刊)
蹄斎北馬画
『星月夜顕晦録』二編「画工 蹄斎北馬」高井蘭山作 柏屋清兵衛他板 ⑪① ◯『柳亭種彦日記』p139 文化七年(1810)正月十六日 〝本日梭江君方ニゑんまきあり、八ッ頃よりゆく、京山子及
北馬
子等と種々遊戯をなす、あまり馬鹿/\ しくてしるさず〟
〈「ゑんまき」は閻魔参り。西原梭江方で山東京山や蹄斎北馬らとうち興じた馬鹿/\しい遊戯とは何であったのか〉
◯『滝沢家訪問往来人名録』 ◇上p52(文化七年二月十二日) 〝庚午(文化七年)春処々発会覚 ◯印ハ出席 ◯ 二月十二日【浅草巴や】
北馬
小河町火消やしき ニて 脇田半右衛門〟
〈「小河町火消やしきニて 脇田半右衛門」は貼紙から誤って混入したもの。浅草巴屋において行われた北馬の画会。 馬琴は出席した〉
◇下p128(天保七年八月七日) 〝同(丙申(天保七年)八月七日)同所(下谷、山本緑陰)隣家
蹄斎北馬
〟 ◯『千紅万紫』〔南畝〕①232(文化七年三月詠) (『あやめ草』②六九も同文) 〝北馬子の外一人とヽもに巴屋の酒楼に酒のみけるに、一人は下戸なりければ みつ巴ひとつどもえはき下戸にてふたつ巴はゆらゆらの助〟
〈巴屋は浅草の料理茶屋。書画会もよく行われた。狂歌は「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助気きどり〉
◯『千紅万紫』〔南畝〕①233(文化七年三月詠) (前出と同じ日の詠か) 〝北馬のゑがける傾城の二人禿つれたるに 北馬の絵北里と対の禿ふでたくさんそうに見る事なかれ〟
〈これは狂歌を揮毫したのであろう〉
◯『あやめ草』〔南畝〕②71(文化七年四月詠) 〝庸軒流生花の師五英女一周忌に いつまでも猶いけ花と思ひしにはや一めぐり水ぎはぞたつ 吟蝉女二十七回忌 かぞふればはたとせあまり七とせの春秋しらぬ空蝉のそら 右の二うたは北馬のもとめによりてよめり〟
〈五英女、吟蝉女ともに北馬ゆかりの人なのだろうが未詳〉
☆ 文化八年(1811)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(文化八年刊)
蹄亭北馬画
『自讃狂歌集』初編 柳々居辰斎 俊満 素羅◎瓢天馬 広昌画 北渓画 抱亭五清画 額輔写 北寿画 蹄斎北馬画 蜂房秋艃画 菅川亭画 宿屋飯盛撰
◯「読本年表」
(文化八年)
蹄斎北馬画
『催馬樂奇談』「画人 蹄亭北馬」小枝繁作 田辺屋古兵衞他板 ⑪① 『竹馬乃靮』 蹄斎北馬画 曲亭馬琴作 柏屋忠七他板 ①
〈書誌による〉
◯「絵入狂歌本年表」
〔目録DB〕(文化八年刊)
蹄斎北馬画
『自讃狂歌集』 一冊 北馬・北渓等画 六樹園編 『瀬川仙女追善集』一冊 遠桜山人(蜀山人)序・四方歌垣跋 (菊図) 豊国・鳥居清長・栄之・辰斎・北馬・秋艃・曻亭北寿・五清・春亭・春英・北斎等画 (追善詠)三馬・飯盛・馬琴・京伝・京山・焉馬等
〈〔目録DB〕は成立年を文化七年とするが、三代目瀬川菊之丞は文化七年十二月五日没、この追善集は一周忌のも のである。すると刊年は文化八年ではなかろうか〉
☆ 文化九年(1812)
◯「読本年表」
〔目録DB〕(文化九年刊)
蹄斎北馬画
『東男奇遇糸筋』蹄斎北馬画 感和亭鬼武作
◯「絵入狂歌本年表」
〔狂歌書目〕
◇狂歌
(文化九年刊)
蹄斎北馬画
『若緑岩代松』一冊 蹄斎北馬画 時雨庵萱根撰 夏安林藏板 ◯『狂歌若緑岩代松』〔江戸狂歌・第八巻〕時雨庵萱根編・文化九年(1812)刊 見返「蹄斎北馬画」 刊記「文化九年壬申春正月発行 哥林 浅草田原町 日野屋茂右衛門 浅草東仲町 大垣徳太郎」 奥付「画工蹄斎北馬(「北馬」丸印)」 ☆ 文化十年(1813)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(文化十年刊)
北馬画
『狂歌関東百題集』二冊 芍薬亭長根編 竹窓亭蔵板 画工 辰斎老人画・柳斎画・十返舎一九画・卓嵩画・辰光画・文鼎画・辰潮画・三馬画 辰一・蜂房秋艃画・均郷・京伝筆・北嵩毫・北馬・辰暁画・北寿画・尚左堂
◯「絵入狂歌本年表」
〔狂歌書目〕(文化十刊)
蹄斎北馬画
『狂歌道中記』一冊 蹄亭北馬画 六樹園撰 角丸屋甚助板
〈〔目録DB〕は昇亭北寿画〉
◯『狂歌関東百題集』〔江戸狂歌・第八巻〕鈍々亭和樽編・文化十年(1813)序 挿絵署名「北馬」 ◯『馬琴書翰集成』⑥323「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
「文化十年刊作者画工番付断片」
〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと。北馬は大関豊国・関脇国貞に次ぐ 小結の地位。作者の部と比較すると十返舎一九と同格である〉
☆ 文化十二年(1815)
◯「絵入狂歌本年表」
〔狂歌書目〕(文化十二刊)
蹄斎北馬画
『狂歌六々藻』一冊 蹄斎北馬画 浅草市人饌 壺側社中 ◯『六々集』〔南畝〕②232(文化十二年二月下旬記) 〝春雨宴柳花苑狂歌并序 (前略)今日こヽにあつまりて、酒をのむものはたそ、文蝶北馬の画にたくみなる人、伊勢伝福甚の興 にのる人、詩は五山、役者は杜若と、世にきこえたる駿河町の名妓になんありける 春雨にぬるヽとかつはしりながらおりたつ脛のしろきをぞみる 雨ふれば柳の糸の長々と長さかもりもかつはうれしき〟
〈新橋の料亭柳花苑(いづ喜)での席画。文蝶は未詳。伊勢伝は新橋住の知人。福甚も未詳。駿河町の名妓とは前出 (栄之の項)のように、当時全盛を誇っていた芸者お勝〉
☆ 文化年間(1804~1817)
◯「絵入狂歌本年表」
〔狂歌書目〕(文化年間刊)
蹄斎北馬画
『美知乃久布里』 一冊 北馬画 壺南楼山住撰 鶴屋金助板 『夷曲風雅集』 一冊 蹄斎北馬画 浅草庵撰 壺側社中 『花のしをり』続編 一冊 北渓・北馬画 節松嫁々・窓村竹 芬陀利華庵
◯「日本古典籍総合目録」
(文化年間刊)
◇狂歌
蹄斎北馬画
『花のしをり』一冊 蹄斎北馬・岩窪北渓画 節松嫁々・窓村武編 ◯『増訂武江年表』2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) (「文化年間記事」) 〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、 泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸〟 ☆ 文政元年(文化十五年・1818) ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立) 「浅草 浮世画・狂歌師」〝北馬 号蹄斎 新堀三筋町中ノ通り(ママ町) 有坂五郎八〟 ◯「年譜」〔南畝〕⑳303(文化十五年一月二十五日) 〝擁書楼発会。文晁・北馬・鶴陵・岸本由豆流・京山・山崎美成等と会す〟
〈「擁書楼」については谷文晁の項参照。北馬がどの程度かかわっていたのか分からないが、民間考証学の拠点ともい うべきこの擁書楼の会に、北馬は南畝や岸本由豆流、山崎美成などに伍して参会していたのである〉
◯『馬琴書翰集成』①105 文政元年十二月十八日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-19) 〝
北馬
子事、御尋被成候へども、此仁とハ十年余も交り不申候間、遊歴やら在江戸やら、一向存不申候。 乍去、先月上旬、京の書肆中川新七と申仁来訪、昨日、四日市ニて
北馬
子にあひ候所、只今ハ剃髪致候 故、見ちがへ候と噂被申候。左候ハヾ、当冬ハ在江戸なるべし。
北馬
ハ旅役者になりて、年中田舎を稼 ギ被申候よし。かねて風聞のミに候。彼書肆新七ハ、十四年前まで江戸にをれり。故に
北馬
と懇意なれ バ、此噂あり。共に江戸にをる不佞ハしらぬ
北馬
事を、京の人が来てその噂して、はじめて在江戸をし るは、われながら浮世に遠き腐レ隠者かなと、をかしく存候〟
〈北馬も師の北斎に劣らず、所を定めず渡り歩いているようだ。しかも旅役者として〉
◯ 十月十二日 『馬琴日記』巻一 ①421 〝松前老侯御使太田九吉来る。予并に宗伯、対面。
北馬
画松前ウズ牧士と蝦夷と騎炮ニて熊ヲ打図、大ふ くかけ物これを見せ給ふ。一覧之上、直ニ返し奉る。天文方高橋作左衛門あがり家へ被遣候よし、子細 不知趣、九吉余談。近来運気考密ニ流行、此等之故ニやと、予推察也〟
〈太田九吉の持参した大幅の掛け物「牧士と蝦夷と騎炮ニて熊ヲ打図」、十日の記事には柳川画、十二日には北馬画と ある。いづれが是か非か。なお文政八年七月、北馬は〝牧士代助立乗をして、百匁玉を放つ〟なる図を画いている。 (『兎園小説別集』「松前家走馬の記」)ところで、高橋作左衛門記事はジーボルト事件の発端を伝えたもの、松前 老公の使者太田九吉から聞いたのであろう。「運気考」は天気予報という意味のようだが、事件との関係は未詳〉
☆ 文政二年(1819) ◯「杏園稗史目録」〔南畝〕⑲486(文政二年) 〝話〈ママ〉本 〈十二部のうち〉 水の行衛 享和二年 北馬〟
〈南畝はこの年、咄本十二部を収得。その中に北馬作画の咄本『水の行衛』が入っていたのである。北馬との交渉は師 匠の北斎より親密であったようで、単に席画上の交渉にとどまらなかったのは、北馬ゆかりの人に追悼狂歌を詠んで いることでも知られよう〉
☆ 文政三年(1820)
◯「絵入狂歌本年表」
〔目録DB画像〕(文政三年刊)
蹄斎北馬画
『あさくさくさ』一冊 文晁 鈴木南嶺 玉渓 春華 蹄斎画 万歳逢義編 蹄斎画 〝孝行の心を天も水にせず酒と汲する養老の瀧〟 蹄斎北馬詠〝一夜さのなみだに湖や出来つらんこれもかたみの琵琶の一面〟 ☆ 文政四年(1820)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(文政四年刊)
蹄斎北馬画
『あさくさ/\』狂歌 一冊 文晁筆
蹄斎
春莑 南嶺 玉渓 蜀山人序
◯「読本年表」
(文政四年刊)
蹄斎北馬画
『星月夜顕晦録』三編「蹄斎北馬画」高井蘭山作 河内屋茂兵衛他板 ① ☆ 文政五年(1822)
◯「読本年表」
(文政五年刊)
蹄斎北馬画
『星月夜顕晦録』四編「画工 有坂蹄斎」高井蘭山作 河内屋茂兵衛他板 ① ☆ 文政六年(1823)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(文政六年刊)
蹄斎北馬画
『狂歌隅田川名所図会』画工蹄斎 浅草庵守舎等撰 春翠園蔵板 『春歌』狂歌 一冊 蹄斎画 立評浅桐菴 於布袋菴開巻
◯「絵入狂歌本年表」
(文政六年刊)
蹄斎北馬画
『狂歌隅田川名所図会 東岸之部』二冊 有坂北馬画 大垣守倉等編
〔目録DB〕
『狂歌垣下集』一冊 法橋玉山・北渓・北馬画 淮南堂撰 桂眉住版
〔狂歌書目〕
☆ 文政七年(1824)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(文政七年刊)
蹄斎北馬画
『狂歌武蔵野百首』一冊 蹄斎画 浅草庵他撰 浅草庵藏板 ◯『東のみやこ路』画工未詳 浅松庵(柴崎翁秋園)編・書 文政七年二月
〔国書DB〕
巻末広告「狂歌 越路の美園 全二まき」〝蹄斎北馬画入にて古今みさいの狂歌集也 秋園蔵板〟
〈巻末広告に北馬画の狂歌集『越路の美園』とあるが未確認。『東のみやこ路』の挿絵も北馬の可能性あり〉
☆ 文政八年(1828)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(文政八年刊)
蹄斎北馬画
『狂歌波の花』一冊 蹄斎画 都曲園河島撰 三有舎板
◯「読本年表」
(文政八年刊)
蹄斎北馬画
『星月夜顕晦録』五編 蹄斎北馬画 高井蘭山作 河内屋茂兵衛他板 ① ◯『兎園小説別集』〔新燕石〕⑥293(著作堂(曲亭馬琴)編・文政八年六月記事) (「松前家走馬の記」の項) 〝(文政八年)六月已後、馬上火炮の稽古、ます/\怠りなきにより、牧士代助立乗をして、百匁玉を放 つことを得たり、老侯(松前道広)よろこびの余り、其図を北馬に画して、板して馬場執心の武家に送 り給ふ程に、予父子(馬琴・宗伯)にも五六枚給はりしかば、屋代(弘賢)翁をはじめ、同行の人にわ かち与へたり、その蔵板の図を左にてに貼す〟 ☆ 文政九年(1826)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(文政九年刊)
蹄斎北馬画
『狂歌の集』一冊 北渓 西山 文晁 南湖 閑林 国貞 蹄斎 抱一 国直 嶌蒲 桜川慈悲成賛 辰斎 為一筆 六十翁雲峰 六樹園序 徳成蔵板
◯「読本年表」
(文政九年刊)
蹄斎北馬画『星月夜顕晦録』六編「有坂蹄斎老人画」高井蘭山作 丁子屋平兵衞他板 ① ☆ 文政十二年(1829)
◯「読本年表」
(文政十二年刊)
蹄斎北馬画
『平家物語図会』前編「有坂蹄斎翁画図」高井蘭山作 大阪屋茂吉郎他 ① 『奇説著聞集』 蹄斎北馬画 大蔵永常作 ①
〈書誌による〉
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
◇農業
(文政十二年刊)
蹄斎画
『油菜録』一冊 鐘成写・蹄斎図画 大蔵永常著 黄葉園板 ☆ 文政年間(1818~1829)
◯「絵入狂歌本年表」
〔狂歌書目〕(文政年間刊)
蹄斎北馬画
『狂歌四季遊』一冊 蹄斎北馬画 一榎庵等編 山中要助板 ☆ 文政~天保 ◯「【江戸】戯作画工【次第不同】新作者附」東邑閣 辰正月
〈文政3年・天保3年か〉
(東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)
(番付中央 行事・勧進元に相当するところ) 〝梅鉢紋 葛飾北斎 飛田財蔵 歌川豊国〟 (番付上段 東方) 〝新画工作者之部 画工 歌川豊国 同 蹄斎北馬 同 盈斎北岱 同 歌川国貞 作者 曲亭馬琴 羽栗多輔 画工 北斎◎◎〟
〈刊年等については本HP・Topの「浮世絵師番付」参照のこと〉
☆ 天保元年(文政十三年・1830)
◯「絵本年表」
(天保元年刊)〔漆山年表〕
蹄斎北馬画
『製葛録』一冊 東都有坂北馬画図 大藏永常著 河内屋長兵衛板 『書画帖』一帖 蹄斎画 大窪詩仏序 文晁・文一・法橋雪旦・杏斎雪堤・雲峰・為一・其一・武清・蹄斎・崋山等画 ☆ 天保初年(1830~) ◯『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②308(天保初年刊) 〝画家 有坂蹄斉(ママ)〟
〈師匠の北斎等の浮世絵師は「東都画」に分類されているが、なぜか北馬は長谷川雪旦などと同様「画家」に分類され ている〉
☆ 天保四年(1833)
◯「読本年表」
(天保四年刊)
蹄斎北馬画
『木曽義仲勲功図』前編「有坂蹄斎繍像」好花堂主人作 河内屋長兵衛他板 ① ◯『草庵五百人一首』巻一目録(黒川春村著・天保四年序)
〔目録DB〕
〝有坂光隆 江戸鳥越人 通称蹄斎〟 〝有坂光隆 君をわかこふるこころはあまれともことのはたらて逢よしのなき〟 ◯『無名翁随筆』〔燕石〕(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) ◇「葛飾為一」の項、北斎門人 ③312
「葛飾為一系譜」
〝北斎と号しての門人 北馬【狂歌摺物多シ、別記アリ、画入ヨミ本数十冊ヲカケリ、後一家ノ画風ヲナ ス、蹄斎ト云、下谷三スヂ町ニ住ス】〟 ◇『無名翁随筆』〔燕石〕③314 〝蹄斎北馬【文化、文政ノ頃ノ人】 俗称有坂氏、居始神田、後下谷三筋町、号(空白)、江戸ノ産、 北斎に画法の業を受て、狂歌摺物を多くかけり、読本の密画に妙を得て数十部の板刻世に行れて、人の 知る処也、左筆の曲画をよくす、後落髪す、【川柳風の狂句もよくす】絵本三国妖怪伝は、玉山が絵の 大本よりも二三年先に売出せり、平家物語、鎌倉見聞誌【星月夜顕晦緑】の類、軍書の画入もの多し、 【高井蘭山編】新著の読本は枚挙するのいとまあらず、【門人、逸斎、遊斎等、多クアリシナリ】画風 に一派の筆意ありて、後には土佐の絵を慕ふ趣など多く画り、師の画風とは大に異なり〟
〈以下三作とも高井蘭山の著作で、『絵本三国妖怪伝』は文化元年刊、『星月夜顕晦録』は文化六~文政九序、『平家 物語』は前編が文政十二年、後編が嘉永二年の刊〉
☆ 天保六年(1835) ◯「天保六年十月廿一日付 鈴木牧之宛 書翰」山東京山 (『随筆春城六種』p307「北越雪譜の出版さるゝまで」市島春城著) 〝北馬尊館へ逗留中、厚く御取扱のよしは北馬よりも聞き申候(中略)北馬は酒色をこのみ候人物ゆゑ、 尊堂逗留中も妓楼へ登り候事しば/\なる由も北馬かたり申候〟
〈北馬が鈴木牧之宅(越後南魚沼郡塩沢村)に滞在したことはこの書翰で分かるが、その時期および滞在期間がよく分か らない。たまたま通りかかったというような訪問ではなかったことは確かだが、どのような理由があって訪れたもの かもよく分からない。ただ両者はこれまで面識はなかったにせよ旧知の間柄ではあった。文政元年の曲亭馬琴の鈴木 牧之宛書翰に「当冬ハ在江戸なるべし。北馬ハ旅役者になりて、年中田舎を稼ギ被申候よし」とある。これは馬琴が 鈴木牧之の北馬に関する問い合わせに答えたものであろう。そうすると、これは鈴木牧之の求めに応じてなった滞在 と見てよいのかもしれない。鈴木牧之はその頃『北越雪譜』(天保八年刊)の出版を山東京山の協力のもとで進めてい た時期であるから、その進捗具合などを京山とは親しい間柄らしい北馬から聞くことはできたものと思われる〉
☆ 天保七年(1836) ◯『【江戸現在】公益諸家人名録』初編「ア部」〔人名録〕②48(天保七年刊) 〝画 蹄斎【名北馬、一号駿々亭】下谷二丁町 有坂蹄斎〟 ◯『馬琴書翰集成』④221 天保七年(1836)八月十四日 馬琴、古稀の賀会、於両国万八楼 (絵師の参加者のみ。天保七年十月二十六日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-65)④221参照) 〝画工 本画ハ 長谷川雪旦 有坂蹄斎【今ハ本画師になれり】 鈴木有年【病臥ニ付名代】 一蛾 武清 谷文晁【老衰ニ付、幼年の孫女を出せり】 谷文一 南溟 南嶺 渡辺花山 浮世画工ハ 歌川国貞【貞秀等弟子八九人を将て出席ス】 同国直 同国芳 英泉 広重 北渓 柳川重信 此外、高名ならざるものハ略之〟
〈「【今ハ本画師になれり】」天保の初年、有坂蹄斎と称した頃から、浮世絵師ではなく本絵師として見なされていた ようである。『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②308(天保初年刊)参照〉
☆ 天保八年(1837) ◯「【東都高名】五虎将軍」
(番付・天保八年春刊・『日本庶民文化史集成』第八巻所収)
〝秀業 ウキヨ絵
葛飾前北斎
・コキウ 鼓弓庵小輔・三味セン 播广太夫蟻鳳 雛師 原舟月 ・飾物 葛飾整珉〟 〝浮世画師
歌川国貞・歌川国直・葵岡北渓・歌川国芳・蹄斎北馬
〟
〈浮世絵師として国貞・国直・北渓・国芳・北馬の名が見える。しかし、北斎は別格と見え、斯界の第一人者である三 味線の鶴沢蟻鳳や雛人形師の原舟月などと共に「秀業」の部の方に名を連ねている。やはり浮世絵師の中では飛び抜 けた存在なのである。それにしても、一立斎広重と渓斎英泉の名が見えないのは不思議な気がする〉
☆ 天保九年(1838)
◯「絵本年表」
(天保九年刊)
蹄斎北馬画
『絵本武者合』一冊 蹄斎北馬画
(文政八年板『竹馬の靮』の解題本)
文盛堂板
〔漆山年表〕
『英雄画譜』 二冊 蹄斎北馬画 曲亭馬琴作
〔目録DB〕
◯「読本年表」
(天保九年刊)
蹄斎北馬画
『木曽義仲勲功図』後編 有坂蹄斎画 好花堂主人作 大文字屋得五郎他板 ① ☆ 天保十一年(1840)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(天保十一年刊)
蹄斎北馬画
『狂歌続歓娯集』一冊 七十一翁蹄斎筆 至清堂捨魚撰 敦鴬園蔵
◯「絵入狂歌本年表」
〔目録DB〕(天保十一年刊)
蹄斎北馬画
『狂歌続歓娯集』一冊 蹄斎北馬画 至清堂捨魚編 新鴬園版 ☆ 天保年間(1830-1844) ◯「江戸自慢 文人五大力」(番付 天保期)
(東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)
〝人莫窺其巧 画家 喜多武清 有坂北馬 大西椿年 遠坂文雍 鈴木南嶺〟 〝風流時勢粧 倭画 香蝶楼国貞 歌川国直 歌川国芳 柳川重信 渓斎英泉〟
〈北馬は北斎の門人であったが、国貞~英泉らの「絵かき」(浮世絵師)としてでなく、武清・椿年ら谷文晁の門人あるい は文晁サークルの「絵師」と見なされていたようである。「絵かき」と「絵師」の区別は本HP「浮世絵事典」の「絵かき」の項 参照〉
☆ 天保十五年(弘化元年・1844) ◯『増補浮世絵類考』
(ケンブリッジ本)
(斎藤月岑編・天保十五年序) ◇「葛飾為一」の項
「葛飾北斎系譜」
〝北斎と号しての門人 蹄斎 北馬 狂歌摺物多し 別記あり 画入よみ本数十部あり〟
〈「別記」とは別に項を立てて記述するという意味。下記がそれにあたる〉
◇「蹄斎北馬」の項 〝蹄斎北馬 文化文政天保に至る 俗称 有坂氏 居 始神田 後下谷三筋町 〔号〕(空白) 江戸産也 北斎に学んで狂歌摺物を多く出し、読本の密画に妙を得て、数十部を画き世に行る。又左筆の曲画をよく す、後落髪す。北馬の画風、師の風と大に異なり、尤筆力あり。門人逸馬遊馬等、其外多し。 板刻読本目録 石言遺響 五冊 馬琴 三国妖婦伝 十五冊 〔高井蘭山作なり玉山が画の玉藻談と同じ筋なれど一二年先に売り出たり〕 柳の糸 五冊 小枝繁作 文化六 常世物かたり 五冊 馬琴作 田村麿物語 六冊 川上老人作 孝子嫩〈フタバ〉物語 蘭山作〈北鵞北寿合画〉 俊徳麿 五冊 振鷺亭作 那智の白糸 五冊 蘭山作 自来也物語 十冊 鬼武作 〔天〕〈尼〉城錦 五冊 〔鬼武〕〈葛飾中吉満〉作 星月夜顕晦録 蘭山作 千代曩媛七変化物語五冊 振鷺亭作 催馬楽奇談 六冊 小枝繁作 文化辛未 竹馬の鞆〈タヅナ〉 三冊 武者画本 馬琴狂歌入 近年美人画彩色もの、又席上の略画に妙なり〟 ☆ 嘉永二年(1849)
◯「読本年表」
〔目録DB〕(嘉永二年刊)
蹄斎北馬画
『平家物語図会』後編 有坂蹄斎画 高井蘭山作
〈前編は文政十二年刊〉
☆ 嘉永三年(1850)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(嘉永三年刊)
蹄斎北馬画
『義士肖像賛詞』文晁 北渓〔「葵」「岡」印〕蹄斎〔「北」「馬」印」秀旭斎蘭暎〔「政直」印〕 法橋雪旦画〔「長谷川」印〕武清筆〔「可庵」印〕後素園写国直 柳川重信他筆 ☆ 刊年未詳
◯「絵入狂歌本年表」
〔目録DB〕(刊年未詳)
蹄斎北馬画
『狂歌色紙小倉形』一冊 署名「蹄斎」「立斎」六樹園・淮南堂編 『狂歌わかみどり』一冊 蹄斎北馬画 芍薬亭長根等編 『四季恋雑混雑』 一冊 歌川広重・北馬画 『狂歌風雅集』 二巻 北馬画 浅草庵編 『狂歌笹竹』 一冊 署名「北馬画」「易祇画」壺星楼繁門判
☆ 没後資料
☆ 弘化二年(1845) △『戯作者考補遺』p447(木村黙老編・弘化二年序) 〝画工 北馬 新堀三筋丁中ノ丁 有坂五郎八〟
〈『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)と同じ〉
☆ 嘉永二年(1849)
◯「読本年表」
蹄斎北馬画
『平家物語図会』前編「有坂蹄斎翁画図」高井蘭山作 大阪屋茂吉郎他 ① ◯『【現存雷鳴】江戸文人寿命附』〔人名録〕②331(畑銀雞編・嘉永二年刊) 〝蹄斎北馬 彩色は分て見事に手に入しさすが老物江戸の一人 大極上々吉 寿千載 下谷二丁目〟 ☆ 嘉永三年(1850)
◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1410(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆) 〝
蹄斎北馬
享和文化
服紗小立福助[署名]「蹄斎北馬」[印章]「北(一字未詳)」(朱文丸印)〟 ☆ 明治元年(慶応四年・1868)
◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立) ◇「宮川氏系譜」の項 ⑪187
「宮川長春系譜」
〝有坂氏、俗称五郎八、蹄斎、浅草三筋町ニ住ス〟
◇「蹄斎北馬」の項 ⑪218 〝有坂氏、江戸の産にして、始神田に住し、後下谷三筋町に移る。狂歌摺物を多く出し、読本の密画に妙 を得たり。数十部を画き世に行る。又左筆の曲画をよくす。後落髪す。師の風と大に異なり、門人逸馬、 遊馬等其外多し。 石言遺響 馬琴作 三国妖婦伝 蘭山作 孝子嫩物語 同北鵞北寿合画 柳の糸 小枝繁作 常世物語 馬琴作 田村物語 川上老人作 那智の白糸 蘭山作 自来也物語 鬼武作 千代累媛七変化物語 振鷺亭作 尼城錦 葛飾小太編作 催馬楽奇談 小枝繁作 竹馬手綱 武者画本馬琴狂歌入 俊徳麿謡曲演義 振鷺亭作 星月夜顕晦録 蘭山作 近世美人画多く書たり。彩色もの又席上の略画に妙なり〟 ☆ 明治二十一年(1888) ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊) (日本美術協会美術展覧会 上野公園列品館 4月10日~5月31日)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
「古製品 第一~四号」 〝
蹄斎北馬
穫稲図 一幅(出品者)若井兼三郎〟 ◯「読売新聞」(明治21年5月31日付) 〝美術展覧会私評(第廿五回古物 若井兼三郞出品) 哥川の祖豊春の傾城 池田英泉の花下傾城
蹄斎北馬
の布さらし 魚屋北渓の稲苅 勝川春亭の子供遊 び等 何れも着色鮮美なるが 中にも哥川国貞(后二(ママ)世豊国)の田舎源氏の双幅最も艶麗なり 以上数幅は若井氏の出品なり〟
〈『明治廿一年美術展覧会出品目録』では、魚屋北渓「婦女晒布図」・蹄斎北馬「穫稲図」となっている〉
◯『明治廿二年臨時美術展覧会出品目録』1-2号(松井忠兵衛・志村政則編 明治22年11月刊) (日本美術協会美術展覧会 日本美術協会 11月3日~)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝
蹄斎北馬
堤美人図 一幅(出品者)黒川新三郎〟 ◯『境町美術展覧会出品目録』(田口専之助編集・出版 明治二十一年刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝(明治廿一年十一月二十五六両日) 書画之部 境町 中島七平
北馬筆
太田道灌図 桑楊庵千則讃 一幅〟
〈境町は群馬県佐位郡境町。世良田村は群馬県新田郡世良田村。現在は共に伊勢崎市〉
☆ 明治二十二年(1889) ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊) 〝文化 蹄斎北馬 北斎翁の高弟、師に画法受て、人物鳥獣悉く能くす〟 ☆ 明治二十四年(1891) ◯『南越絵画共進会出品目録』(杉元平六著 南越勧美会 明治二十四年五月刊) (第一回南越絵画共進会 五月十四日~同二十一日開催 会場:福井市) 〝第二館 古画部 花月楼 第三席 美人撲蛍図 二福対
蹄斎北馬筆
毛受氏蔵〟 ☆ 明治二十五年(1892) ◯『日本美術画家人名詳伝』下p366(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊) 〝蹄斎北馬 有坂氏、東京ノ人、北斎老人ノ門人、狂歌摺物ヲ多ク出シテ読本ノ密画多シ、殊ニ星月夜顕晦録ハ其一 位ヲ備フ、画人必有益ナリ、美人画及左筆ノ曲画モ能クス、後チ落髪シテ師ノ風ト大ニ異ナリ、門人逸 馬、遊馬等アリ〟 ☆ 明治二十六年(1893) ◯『葛飾北斎伝』p318(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年刊) 〝蹄斎北馬 北馬は、有坂氏、俗称五郎八。駿々斎と号す。始め神田に住せしが、後に下谷三筋町に移る。 北斎の門に入りて、画法を学び、よく狂歌摺物読本の類を画く。殊に読本の密画に妙を得て、其の画く 所皆世に行はる。読本類は、(以下、読本十五作品の書名あり、略)草双紙は(以下、合巻四作品の書 名あり、略)又彩色の美人画を善くし、席上の略画に長じ、左筆の曲画を画く。画風少しく師と異なる 所あり。後年落髪せり。門人に、逸馬、遊馬等あり〟 ◯『浮世絵師便覧』p205(飯島虚心著・明治二十六年刊) 〝北馬(ホクバ) 蹄斎、又駿々斎と号す、有坂氏俗称五郎八、狂歌摺物読本多し、北斎門人、◯文化、天保〟 ☆ 明治二十七年(1894) ◯『名人忌辰録』下巻p16(関根只誠著・明治二十七年刊) 〝蹄斎北馬 駿々亭 俗称有坂五郎八、北斎門人。御家人の隠居。弘化元辰年八月六日歿す、歳七十四。(北馬は戯れに左筆 を揮て曲画を作り、或は席上の草画に奇才の聞え高し、又彩色に巧なるを以て、谷文晁に愛せられ密画 の模様を手伝ひて大に筆硯を潤すと云ふ。晩年薙髪して下谷二長町に住せり)〟 ☆ 明治二十八年(1895) ◯『時代品展覧会出品目録』第一~六 京都版(大沢敬之編 村上勘兵衛 明治二十八年六~九月)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〈「時代品展覧会」3月25日~7月17日 御苑内博覧会館〉
〝「第一」【徳川時代】浮世絵画派(49/310コマ) 一 茸狩図 蹄斎北馬筆 上野理一君蔵 大阪市東区〟 ☆ 明治三十年(1897) ◯『読売新聞』1月20日記事 (小林文七主催「浮世絵歴史展覧会」明治30年1月18日-2月10日) 〝陳列中優逸にして 一幅百円以上三百余円の品 (第八十七番)湖龍文調春章合筆 あつさしらずの図〟
〈「番」は陳列番号〉
☆ 明治三十一年(1898) ◯『明治期美術展覧会出品目録』 (明治美術会展(創立十年記念・明治三十一年三月開催・於上野公園旧博覧会跡五号館) 〝
有阪北馬
富士山 水彩画〟 ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(52/103コマ) 〝蹄斎北馬【享和元~三年 1801-1803】 一号駿々斎、通称有阪五郎八、為一の門弟にて、神田、また浅草三筋町に住めり、狂歌の摺物を多く画 き、読本の密画に妙を得たり、板本数十部を画きて世に行はる、また左筆の曲画を善くし、席上の略画 を巧みにして、美人絵も多く画けり、弘化元年八月十六日没す、享年七十四。〟 (板本リスト十四作 書名省略) ☆ 明治三十二年(1899) ◯『浮世画人伝』(関根黙庵著・明治三十二年五月刊) ◇「葛飾北斎系譜」p121
「葛飾北斎系譜」
〝北馬(北斎門人)蹄斎〟 ◇「蹄斎北馬」の項 p124 〝蹄斎北馬(ルビていさいほくば) 北馬は本姓星野氏、俗称有阪五郎八と称し、駿々亭と号す。天保年間下谷二長町に住み、御家人の隠居 なり。蹄斎、幼き頃より画才ありしが長じて、北斎を師と仰ぎ、馬琴、振鷺亭、蘭山等の小説の挿画を かきて名を顕せり。戯れに左筆を揮て曲画を作り、又彩色に巧なるを以て、谷文晁に愛せられ、密画の 模様を手伝ひ、奇才の聞え高し、晩年薙髪して、浅草三筋町に移り、弘化元年八月六日、七十四歳にて 歿す、一子を二世北馬と称し、門人遊馬、逸馬もまた善く蹄斎の風を守れり〟 ☆ 明治四十四年(1911) ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊) 「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇『浮世絵画集』第二輯(明治四十五年(1912)五月刊) (絵師) (画題) (制作年代)(所蔵者) 〝蹄斎北馬 「初雁」 文化頃 東京帝室博物館〟 ◇『浮世絵画集』第三輯(大正二年(1913)五月刊) 〝蹄斎北馬 「娼婦」 文化頃 東京帝室博物館 蹄斎北馬 「三国志」 文化頃 高嶺俊夫 蹄斎北馬 「渡し船」 文化頃 男爵 都筑馨六〟 ☆ 大正以降(1912~) ◯「浮世絵漫録(一)」桑原羊次郎(『浮世絵』第十八号 大正五年(1916)十一月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝(明治四十二年十月十七日、小石川関口町の本間耕曹を訪問して観た北斎ほかの作品リスト) 本間氏蔵の浮世絵 但し本間翁没後他に散逸せしやに聞く
北馬筆
「藤娘鬼念仏図」〟 ◯「集古会」第百二十六回 大正九年(1920)一月
(『集古』庚申第一号 大正9年2月刊)
〝中沢澄男(出品者)北馬画 化粧坂閨中仇討 鬼武作 一冊 文化十四年丁卯板
〈〔国書DB〕画像「文化丁卯孟春」とあり、丁卯は文化4年。合巻〉
◯『浮世絵』第参拾貳(32)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正七年(1918)一月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(17/26コマ) 〝錦絵のいろ/\そまるもみぢ葉は 故郷へかざる江戸みやげかも 蹄斎北馬〟
〈出典不明〉
◯『芸苑一夕話』上巻(市島春城著 早稲田大学出版部 大正十一年(1922)五月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(219/253コマ) ◇四七
蹄斎北馬
右手(めて)は北斎のため左手(ゆんで)は文晁の為に 『三国妖婦伝』や『自来也物語』などの挿絵で、多くの人に知られて居(を)る、浮世絵師北馬は、葛 飾北斎の門人で、北の字を名につけて居るのも、其の系統を現して居(ゐ)るのである。 此人は、通称を有坂五郎八と云うて、幕府の小使であつた。文字もあり、画もかける所から、弟に家 を譲つて早く隠居の身分となり、好む道に志した。家が非常に貧乏であつたので、糊口のためにも絵筆 を執らざるを得無かつた。 当時は北斎の全盛時代であつて、終に其の門に入ることになつたが、元来天稟に画才があつて、ひど く北斎に喜ばれ、北斎が輪郭を作つて下図を授けると、それに潤飾を加へて、立派に書き上げた。殊に 繊細な衣服の模様などを書くには、頗る上手であつた。北斎が書いた絵に北馬の助筆の加はり居るもの は、どの位あるか、数知れぬほど沢山ある。又代筆も多くあるに相違ない。 此の人は器用な性質で、左の手でも画を自在に書き、書画会の席などに、左手の画を作つて、毎度人 の喝采を博した。此の左利きにつき、おもしろい話が伝はつて居る。 谷文晁、ある時此の人の絵を見て、其の画才に感じ、これほどの力あるものが、浮世絵の補助などし てして居るは惜しいものであると、北馬に向つて此の事を言ひ出し、俺(わし)の処へ来て助手をやつて はどうか。君は必ず後に一廉の画家になるに違ひないがと勧めた。 北馬は此の勧めを聞いて、云ふには、誠に御厚意は有り難い。実は家道の不如意である所から、銭を 得ることが急で、薄志弱行とは思ひながら、北斎の下職になつたのであるが、今更北斎の門を辞するこ との出来かねる。併し、折角の御厚意もあれば、自分に叶うふことなら、先生の補助を致しませう。な になりと御申付を蒙りたい。御指図に従ひ、拙筆を揮ひませうと答へた。文晁此の一諾を得て大いに喜 び、己が住まへる下谷二長町の宅付近に家を捜して、之を引移らしめ、種々指図をして、緻密なる着色 或ひは衣服装束などの模様を書かせて見ると、よく文晁の呼吸を呑込み、其の筆意を会得して、痒い所 へ手が届く様に、うまく書くので、文晁も、よい助手を得たと悦んだ。 或る時
文晁
、諸侯の席画に招かれ、帰路出しぬけに北馬を訪ひ、案内も請けず、づかづかと其の室へ 通つて見ると、北馬は、しきりに文晁より依頼の画に模様を画いて居る。文晁之を傍観し、忽ち気がつ いて驚いたのは、左手を以て筆を遣つて居ることであつた。文晁、北馬に向ひ、君は右の手が利かぬの あるかと問うたら、北馬は漸く筆を収め、妙な所を御覧に成りました。斯(か)く露顕に及ぶ上は、包ま むやうもありません。実は、北斎の門に入つて北馬の号をも貰ひ、又その補助をなして、活計の幾分を たすけられてゐる恩誼もあれば、之を棄てるわけにまゐりません。さりとて折角先生のお見出しに預つ た恩誼も、大切に思はねばなりませんので、右手は北斎のため、左手は先生のためにせんと、試みに左 手を遣つて見ますと、格別右手と相違もありませんから、恩誼を混ぜぬ様、先生の為にい左手に筆を執 つて居りますと、意外の説明に、文晁更に、其の義理堅きと、左手運筆の縦横なるに感服し、今までは 左手の作とも心づかずありしが、如何にも熟練されたものだ。爾後も決して遠慮に及び申さず。自分よ り依頼の分は、左手にて差支へなしと許した。乃ち北馬のひだり利の由来は、斯くの通りである。 北馬は、文晁より三年後れて、弘化元年の八月、七十四歳で没した。 ☆ 昭和年間(1926~1987)
◯『狂歌人名辞書』p204(狩野快庵編・昭和三年(1928)刊) 〝蹄斎北馬、北斎門人、通称有坂五郎八、名は光隆、三世浅草庵に就て狂歌を学ぶ、弘化元年八月十五日 歿す、年七十四〟 ◯「日本小説作家人名辞書」p791(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊) 〝蹄斎北馬 星野氏、通称有坂五郎八、名は光隆、下谷二長町に住む御家人、後三筋町に移つた。北斎門人の浮世画 家、駿々亭、蹄斎と号す。三世浅草庵黒川春村に就いて狂歌を学んだ。弘化元年八月十五日歿、年七十 四。「水の行方」(享和二年(1802)刊)の作者〟 ◯「集古会」第百八十回 昭和六年(1931)三月
(『集古』辛未第三号 昭和6年5月刊)
〝鈴木馨(出品者)北馬画 絵本武者合 一冊 馬琴編集 天保九年板 四日市泉半梓〟 ◯『浮世絵師伝』p181(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝北馬 【生】明和八年(1771) 【歿】弘化元年(1844)八月十六日-七十四 【画系】北斎門人 【作画期】文化~天保 有坂氏、本姓星野氏、諱は光隆、俗称五郎八、蹄斎・駿々斎等の号あり、摺物・狂歌本の挿画・肉筆美 人画等多し(口絵第五十八図参照)。御家人の隠居にして、初め浅草三筋町に住み、晩年薙髪して下谷 二長町に移れり。彼が晩年に挿画せし天保十一年版の『狂歌続観娯集』には、七十一翁蹄斎筆とあり〟 ◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊) ◇「夷曲同好筆者小伝」p444(昭和六年九月十六日記) 〝北馬 有坂五郎八、号駿々亭、蹄斎、学画北斎、善傅彩、弘化元年甲辰八月六日没、年七十四〟 ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊) ◇「寛政一二年 庚申」(1800)p165 〝正月、蹄斎北馬の画ける『狂歌花鳥集』出版〟
◇「享和二年 壬戌」(1802)p168 〝二月、蹄斎北馬『狂歌まくのうち』出版〟
◇「文化七年 庚午」(1810)p179 〝正月、辰斎・北鵞・北馬・北尾重政・長谷川雪旦等の画ける『狂歌千もとの華』出版〟 ◇「文化八年 辛未」(1811)p181 〝十月、蹄斎北馬の画ける『十五番武者合竹馬のたづな』、 俊満・辰斎・北馬・北渓・北寿等の挿画に成れる『自讃狂歌集』出版〟
◇「文化九年 壬申」(1812)p182 〝正月、蹄斎北馬の画ける『若緑岩代松』出版〟
◇「文化一〇年 癸酉」(1813)p184 〝五月、辰斎・一九・柳斎・辰湖・京伝・三馬・北嵩・北馬・北寿・俊満・辰光・辰一・辰暁・秋艃の挿 画に成れる『狂歌関東百題集』出版〟
> ◇「文政六年 癸未」(1823)p198 〝八月、蹄斎北馬の画ける『狂歌隅田川名所図会』出版〟
◇「文政七年 甲申」(1824)p199 〝十月、北馬の画ける『狂歌武蔵野百首』出版〟
◇「文政八年 乙酉」(1825)p200 〝二月、北馬の画ける『狂歌波の花』出版〟
◇「文政一〇年 丁亥」(1827)p203 〝此年、肥前国生れにて大空武左衛門といへる大男江戸に来る、時に二十三歳。身の丈七尺五寸、体重三 十五貫目、錦絵に画きたるあり。蹄斎北馬の俳句に、大空のしぐれ飴屋の傘借らん、いへるあり。此の 武左衛門を詠めるなり〟
◇「天保七年 丙申」(1836)p215 〝四月、国貞・国直・北馬・国芳・柳川重信・北渓・武清等の挿画に成る『とふの菅薦』出版〟
◇「天保一一年 庚子」(1840)p219 〝八月、蹄斎北馬の画ける『狂歌続歓娯集』出版〟
◇「弘化元年(十二月十三日改元)甲辰」(1844)p223 〝八月十六日、有阪北馬歿す。行年七十四歳。(天保十一年八月成れる『狂歌続歓娯集』に七十一歳蹄斎 筆と署しあれば、今年は七十五歳なるが如し。北馬俗称有阪五郎八、本姓星野、駿々斎、秋園等の号あ り。北斎の門人なれども、谷文晁と交友あり。版画も少なからざれども北斎門中肉筆の作の多きは北馬 に及ぶものなし)〟 ◯「集古会」第二百三回 昭和十年(1935)十一月(『集古』丙子第一号 昭和11年1月刊) 〝鈴木好太郎(出品者) 蹄斎北馬画 狂歌墨田川名所図会 東岸之部 一冊 浅草庵守舎序 文政六年八月板 ◯「集古会」第二百四回 昭和十一年(1936)一月
(『集古』丙子第二号 昭和11年3月刊)
〝三村清三郞(出品者)蹄斎北馬画 福禄寿図 一幅〟
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
〔蹄斎北馬画版本〕
作品数:62点
(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)
画号他:葛飾北馬・有坂・蹄斎・蹄斎北馬・有坂北馬・有坂蹄斎・北馬・有阪蹄斎 分 類:読本29・狂歌17・合巻5・絵本3・黄表紙1・咄本1・滑稽本1・俳諧1・図会1 和歌(百人一首)1・工業1 成立年:寛政10・12年 (3点) (寛政年間合計4点) 享和2年 (2点) 文化1~9・12年(35点)(文化年間合計37点) 文政3・5~9・11~12年(6点)(文政年間合計7点) 天保3・9・11年(3点) 嘉永2年 (1点)
(蹄斎北馬名の作品)
作品数:50点 画号他:蹄斎北馬 分 類:読本26・狂歌11・合巻3・絵本3・黄表紙1・咄本1・滑稽本1・俳諧1・図会1 和歌(百人一首)1 成立年:寛政12年 (1点) (寛政年間合計1点) 享和2年 (2点) 文化1~9・12年(31点)(文化年間合計33点) 文政3・5・8~9・12年(2点)(文政年間合計3点) 天保9・12年 (2点)
(北馬名の作品)
作品数:5点 画号他:北馬 分 類:狂歌5 成立年:寛政10・12年(2点) 文化8年 (1点) 文政7年 (1点)
(葛飾北馬名の作品)
作品数:2点 画号他:葛飾北馬 分 類:合巻1・読本1 成立年:文化3・6年序(2点)
(有坂北馬名の作品)
作品数:3点 画号他:有坂北馬 分 類:狂歌1・合巻1・工業1 成立年:文化6年 (1点) 文政6・11年序(2点)
(有坂蹄斎名の作品)
作品数:2点 画号他:有坂蹄斎 分 類:読本2 成立年:文政12年(前編)・嘉永2年(後編)(1点) 天保3年序(1点)
〈『平家物語図会』読本・高井蘭山作・有坂蹄斎画・前編文政一二年(1829)・後編嘉永二年(1849)刊〉