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☆ ほっけい ととや 魚屋 北渓浮世絵師名一覧
〔安永9年(1780) ~ 嘉永3年(1850)4月9日・71歳〕
 ※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録データベース」「国書データベース」〔国文学研究資料館〕   ⑤〔東大〕  :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』  ⑩〔中本型読本〕:「中本型読本書目年表稿」    〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』           〔噺本〕   :『噺本体系』    〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』    〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」   〔白倉〕:『絵入春画艶本目録』    『洒落本大成』1-29巻・補巻 中央公論社     角書は省略  ☆ 寛政七年(1795)    ◯『【狂歌歳旦】江戸紫』狂歌堂主人(鹿津部真顔)序 萬亀亭主人(江戸花住)跋 寛政七年刊   〝(狂歌賛)薗の草樹ハ八ッになるまごのためにむしらるれバむつかしと抜すてゝ建長寺をまなひぬ     市川五代祖はらの白猿     草も木も植さる庭もおのつから のとけき花の春は来にけり    (雪の芝垣図)葵岡亭画〟    〈葵岡亭を魚屋北渓とみた〉    ☆ 寛政十一年(1799)     ◯「絵本年表」〔目録DB〕(寛政十一年刊)    魚屋北渓画『狂歌杓子栗』二巻 葵岡北渓画 便々館湖鯉鮒    ☆ 寛政十二年(1800)    ◯「日本古典籍総合目録」(寛政十二年刊)   ◇洒落本    魚屋北渓画『南門鼠』塩屋艶二作〈『洒落本大成』第十八巻の解題には画工名がない〉    ☆ 享和二年(1802)    ◯『洒落本大成』第二十一~二十二巻(享和二年刊)    魚屋北渓画    『魂胆胡蝶枕』「北渓画」著々楽斎作    『にほひ袋』 「北渓画」塩屋艶二作    『南門鼠帰』 「北渓画」塩屋艶二作〈寛政十二年刊『南門鼠』の後編〉    『五大力』  「北渓画」塩屋艶二作    『三躰誌』  「北渓画」塩屋艶二作    『八幡鐘』  「北渓画」喜多楼かはきち作    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(享和二年刊)    魚屋北渓画『春の戯れ歌』一冊 表紙北渓画 便々館編 琵琶連           ☆ 享和三年(1803)    ◯「咄本年表」(享和三年刊)    魚屋北渓画    『亥のとし』北渓画 桜川慈悲成、質亭主人作   ①    『軽口噺』 魚屋北渓画 桜川慈悲成作 三崎屋板 ①     〈前年刊の咄本『一口饅頭』(歌川豊国画・桜川慈悲成作)の改題本〉    『福山椒』 「魚屋北渓画」 質亭主人作 三崎屋板〔噺本⑭〕     ◯「読本年表」(享和三年刊)    魚屋北渓画『白狐伝』「魚屋北渓画」塩屋艶二作 松本屋新八他板 ⑩①    ☆ 享和年間(1801~1803)    ◯『洒落本大成』第二十二巻(享和年間刊)    魚屋北渓画『佳妓窺』「北渓画」小金あつ丸作    ◯『増訂武江年表』2p27(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「享和年間記事」)   〝江戸浮世絵師は、葛飾北斎辰政(始め春朗、宗理、群馬亭、後北斎戴斗、又為一と改む)、歌川豊国、    同豊広、蹄斎北馬、雷洲(蘭画をよくす)、盈斎北岱、閑閑楼北嵩(後柳居)、北寿(浮絵上手)、葵    岡北渓〟    ☆ 制作年未詳(寛政~文化)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(寛政~文化)   ③「北渓」(破魔弓と塩引き鮭)1-7/23〈大小表示不明〉    「蓬莱亀丸・西来居」狂歌賛   ☆ 文化四年(1807)    ◯「滑稽本年表」(文化四年刊)    魚屋北渓画『夷国滑稽羽栗毛』「北渓画」宇多楽庵嬉丸作 桃陣房太郎板 ①    ☆ 文化五年(1808)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化五年刊)    魚屋北渓画『職人尽狂歌合』二冊 北渓画 江南司馬伋 六樹園判    ◯「読本年表」(文化五年刊)    魚屋北渓画『婦人撃寇麓の花』北渓画 感和亭鬼武作 ⑩①〈書誌による〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文化五年刊)    魚屋北渓画『職人尽狂歌合』二冊 葵岡北渓画・司馬江南画 六樹園判 蔦屋重三郎板      (〔目録DB〕所収の画像の署名は「北渓画」「江南司馬伋」)    ◯『職人尽狂歌合』〔江戸狂歌・第七巻〕六樹園飯盛判・文化五年跋    挿絵「北渓」「江南司馬伋(印)」「江南写」    〈五図とも同筆と思われるが、「北渓」署名は三図、一図ずつに「江南司馬伋(印)」と「江南」の署名。北渓の仮号     であろうか〉    跋 「文化五年辰四月 文亭一通」    刊記「御江戸本町筋北エ八町目通油町/書林蔦屋重三郎寿桜」    ☆ 文化六年(1809)    ◯「読本年表」(文化六年刊)    魚屋北渓画『誓麻麓の花』魚屋北渓画 感和亭鬼武作 板元未詳 ①(注:日本小説年表による)    ☆ 文化八年(1811)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化八年刊)    魚屋北渓画    『狂歌評判記』一冊 五清絵 北渓画 六樹園序    『自讃狂歌集』初編 柳々居辰斎 俊満 素羅◎瓢天馬 広昌画 北渓画 抱亭五清画               額輔写 北寿画 蹄斎北馬画 蜂房秋艃画 菅川亭画               宿屋飯盛撰    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(文化八年刊)    魚屋北渓画    『狂歌評判記』一冊 五清・北渓画 六樹園編    『自讃狂歌集』一冊 俊満・北馬・北渓等画 六樹園編        ☆ 文化九年(1812)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文化九年刊)    魚屋北渓画『狂歌堀川太郎百首』二冊 北渓其他画 六樹園 蔦屋重三郎板    ☆ 文化十年(1813)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文化十刊)    魚屋北渓画『狂歌五十人一首』一冊 葵園北渓画 六樹園撰〈同書〔目録DB〕には見あたらず〉     ◯『馬琴書翰集成』⑥323「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
   「文化十年刊作者画工番付断片」     〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと〉    ☆ 文化十二年(1815)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文化十二刊)    魚屋北渓画『飲食狂歌合』二冊 北渓画 六樹園判 須原屋茂兵衛板    ◯『【評判】飲食狂歌合』〔江戸狂歌・第九巻〕六樹園飯盛判・文化十二年(1815)刊    挿絵「北渓画」〈全五図すべて北渓〉    ☆ 文化十三年(1816)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化十三年刊)    魚屋北渓画『狂歌御国ふり』一冊 北渓 磯野文斎画 東夷菴古渡序    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文化十三刊)    魚屋北渓画    『狂歌御園ぶり』一冊 北渓・文斎画 穂光堯楽撰 文斎万侘伎板    『春のうた』  一冊 葵園北渓画 六樹園撰 狂蝶子板    ◯『吉原十二時』〔江戸狂歌・第十巻〕石川雅望(六樹園飯盛)編・刊記なし   (解題によると、旧蔵者の筆跡で「文化十三丙子年」とある由)    挿絵「葵園北渓画」「北渓画」「北渓」〈全十二図すべて北渓〉    ☆ 文化十四年(1817)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化十四年刊)    魚屋北渓画『はじめの春の狂歌集』一冊 北渓画 六樹園選 平豊脩序    ◯「絵入狂歌本年表」(文化十四刊)    魚屋北渓画〔狂歌書目〕    『はじめの春の狂歌集』一冊 北渓画 狂蝶子平豊 美濃屋市兵衛板    『初春狂歌集』一冊 北渓画 六樹園撰 狂蝶子板    『狂歌花の雲』一冊 北渓画 六樹園撰 美津徳人板    魚屋北渓画〔目録DB〕    『狂歌六花仙』一冊 葵岡北渓画 絵馬屋額輔他編    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「赤坂 浮世画」〝北渓(空欄)永井町 肴屋(姓空欄)初太郎〟    ☆ 文化年間(1804~1818)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化年間刊)    魚屋北渓画『狂歌百人一首』 北渓 六樹園 福の屋板    ◯「絵入狂歌本年表」(文化年間刊)    魚屋北渓画〔狂歌書目〕    『北里十二時狂歌集』二冊 葵岡北渓画 六樹園撰 蔦屋重三郎板    『武者尽狂歌合』一冊 陳芬漢・北渓等画 六樹園判 玉光舎占正    『狂歌百人一首』一冊 北渓画 六樹園撰 福の屋内成    『北里十二時』 二冊 葵園北渓画 六樹園著 蔦屋重三郎板    『花のしをり』 続編 北渓・北馬 節松嫁々・窓村竹 芬陀利華庵    魚屋北渓画〔目録DB〕    『狂歌画自満』 三冊 魚屋北渓画 石川雅望編    ◯「南畝文庫蔵書目」〔南畝〕⑲408 年月日なし)  (「青楼」の部)  吉原十二時 一巻 六樹園文 北渓画〟    〈「青楼」の部は吉原に関する史料、評判記、洒落本、吉原細見の目録。ただし若干吉原以外もまじる。六樹園は宿屋     飯盛・石川雅望。「日本古典籍総合目録」には『北里十二時』別書名『吉原十二時』滑稽本 石川雅望作・魚屋北渓     画 文化文政頃刊とある〉    ☆ 文政元年(文化十五年・1818)      ◯「絵本年表」(文政元年刊)    魚屋北渓画〔漆山年表〕    『【東海道/岐岨街道】狂歌合』一冊 北渓 花園連輯 臥竜園序    魚屋北渓画〔目録DB〕    『狂歌読人名寄細見記』一冊  北渓画 式亭三馬編    『堀川太郎百題百首』 北渓画 酔亀翁天広丸著 文化一五序    『狂歌鄙鶯集』一冊  北渓画 文斎万陀伎編(注記「狂歌書目収成による」)    ◯「絵入狂歌本年表」(文政元年刊)    魚屋北渓画    『狂歌読人名寄細見記』一冊 北渓画 式亭三馬編〔目録DB〕    『狂歌鄙鴬集』    一冊 北渓画 文斎万陀伎編 書連〔狂歌書目〕    ☆ 文政二年(1819)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政二年刊)    魚屋北渓画    『狂歌五十人一首』一冊 画工拱斎北渓 六樹園飯盛撰    『東都十二景』  一冊 北渓 六樹園序 花咲庵/東水亭蔵板    ◯「絵入狂歌本年表」(文政二年刊)    魚屋北渓画    『東都十二景狂歌集』一冊 北渓画     六樹園編 〔目録DB〕    『狂歌五十人一首』 一冊 拱斎北渓画  石川雅望編〔目録DB〕    『春興集』     一冊 北渓画 六樹園撰 狂蝶子〔狂歌書目〕    ☆ 文政三年(1820)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文政三年)   ⑧「北渓画」Ⅰ-20「小僧と凧」(丁稚を引き連れた年増盛りと垣根越しに咲き匂う梅)     含笑庵道列の狂歌〈丁稚の持つ凧に「鶴」の字。茅葺き家の壁に小の月の貼り札〉     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政三年刊)    魚屋北渓画『新居狂歌合』一冊 北渓 判者六樹園    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文政三年刊)    馬屋北渓画    『狂歌小夜時雨』一冊 北渓画 淮南堂眉住撰 淮南堂板    『新居狂歌合』 一冊 北渓画 六樹園撰 五側社中      <三月 見世物 竹細工(植木屋巳之助)浅草奧山>  ◯『観物画譜』13(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収))   13「口上(略)丸竹細工 江戸 細工人 植木屋巳之助」摺物 「応需 北渓図」    ☆ 文政四年(1821)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政四年刊)    魚屋北渓画    『狂歌よみ人名寄細見』狂歌 葵岡北渓画 三馬序    『狂歌長贏集』 狂歌 北渓 文斎 六樹園・芍薬亭判    『草のはら』  狂歌 北渓 判者六樹園(零余子追善集也)    『新曲撰狂歌集』狂歌 初編 千春 北渓 英山 山川白酒画 春青斎画 素羅園写 勢砂筆                  狂蝶子文丸画 清澄画 六樹園序               二編 信亮筆 北渓 塵外楼 一峨画 静斎 岳亭 三◎画 徳成画                  雅楽◎堂 六樹園序    ◯「絵入狂歌本年表」(文政四年刊)    魚屋北渓画〔狂歌書目〕    『狂歌読入名寄細見記』一冊 北渓画 式亭三馬 錦糸亭    『新曲撰狂歌集』 三冊 千春・北渓画 六樹園撰 塩屋長兵衛板    『狂歌長嬴集』  一冊 北渓・文斎画 六樹園・芍薬亭撰 反故堆板    『草のはら』   一冊 北斎・北渓・抱一其他 六樹園撰 彷徨亭    魚屋北渓画〔目録DB画像〕    『狂歌昼夜行事集』二冊 岳亭画 北渓画 文々舎蟹子丸編 角丸屋甚助他板    ☆ 文政五年(1822)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政五年刊)    魚屋北渓画『兄弟車後編 五行集』狂歌 一冊 北渓画(〔目録DB〕悟智窓主人等編)     ◯「絵入狂歌本年表」(文政五年刊)    魚屋北渓画    『兄弟車後編五行集』一冊 北渓画 悟智窓主人等編   〔目録DB〕     『壬午月並狂歌百題』一冊 北渓・岳亭他画 芍薬亭長根撰〔狂歌書目〕     ☆ 文政六年(1823)    ◯「絵入狂歌本年表」(文政六年刊)    魚屋北渓画〔目録DB〕    『狂歌十哲集』一冊 葵岡北渓画 春道梅員編 花垣蔵板    『婦人画像集』一冊 北渓画 臥竜園梅麿撰    『女風俗鏡』 一冊 北渓画 臥竜園梅麿作    魚屋北渓画〔狂歌書目〕    『狂歌垣下集』一冊 法橋玉山・北渓・北馬画 淮南堂撰 桂眉住版    ☆ 文政七年(1824)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政七年刊)    魚屋北渓画    『列仙烈女画像集』狂歌 上巻 岳亭定岡画 下巻 拱斎北渓画 四方歌垣序 宿屋飯盛跋    『扶桑名所狂歌集』一冊 画図葵岡北渓 青陽館梅世撰    ◯「日本古典籍総合目録」(文政七年刊)   ◇狂歌    魚屋北渓画『水魚大会狂歌合』一冊 北渓画 白毛舎・至清堂編(注記「狂歌集目録」による    ☆ 文政九年(1826)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政九年刊)    魚屋北渓画    『狂歌鼎足集』一冊 北渓 六樹園撰 柳嚲林蔵板    『額面狂歌集』一冊 画工葵岡北渓 臥竜園撰    『狂歌雅友集』一冊 雲峰 大峰 文晁 閑林 富川房信 五湖亭貞景 貞景門人貞吉 北渓 葵岡渓栖    『狂歌の集』 一冊 北渓 西山 文晁 南湖 閑林 国貞 蹄斎 抱一 国直 嶌蒲 桜川慈悲成賛               辰斎 為一筆 六十翁雲峰 六樹園序 徳成蔵板    ◯「絵入狂歌本年表」(文政九年刊)    魚屋北渓画〔狂歌書目〕    『狂歌三都名所図会』一冊 北渓画 梅農屋鶴子編 本町連    『狂歌名所図会』  一冊 魚屋北渓画 芍薬亭編 菅原連    魚屋北渓画〔目録DB〕    『狂歌正流百花鳥』 一冊 北斎・北渓画 全亭正直編    『額面狂歌集』   一冊 葵岡北渓画 臥竜園編    『狂歌鼎足集』   一冊 北渓画 翠千条編    『狂歌百花鳥』   一冊 魚屋北渓画    『狂歌の集』    一冊 北渓・文晁等画 石川雅望編    ☆ 文政十年(1827)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政十年刊)    魚屋北渓画    『草木奇品家雅見』三冊 北渓・雲峰・文晁ほか 青山種樹家繁亭蔵板    『狂歌明題集』  一冊 北渓〔葵岡〕印 文々舎撰 鈍々亭新宝開巻    『剛臆狂歌合』  一冊 画工不記名 北渓歟〈〔目録DB〕は葵岡北渓画とする〉    『百化鳥』狂歌 北渓 夕顔亭元成序    ◯「絵入狂歌本年表」(文政十年刊)    魚屋北渓画    『狂歌合両岸図会』一冊 北渓画 臥龍園撰 花園連〔狂歌書目〕    『剛臆狂歌合』  一巻 葵岡北渓画 千柳亭唐丸撰〔目録DB〕    『狂歌明題集』  一冊 北渓画 文々舎編〔目録DB〕      ☆ 文政十一年(1828)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政十一年刊)    魚屋北渓画    『狂歌四季訓蒙図彙』五渡亭国貞・五湖亭貞景・呉北渓 便々館琵琶丸編    『狂歌四方之巴流』 二帖 北渓図 葵園老人筆 前集四方真顔序 後集狂歌堂嶋人    『三才花百首』狂歌 一冊 画工呉北渓 六樹園序 春友亭蔵板    ◯「絵入狂歌本年表」(文政十一年刊)    魚屋北渓画    『身延奉納額面狂歌合』一冊 北渓画 六樹園撰 白桃園〔目録DB〕    『狂歌四季訓蒙図彙』 二冊 国貞・北渓画 便々館撰 琵琶例〔狂歌書目〕    『三才花百首』    一冊 呉北渓画 六樹園他撰 春友亭 〔目録DB画像〕      ☆ 文政十二年(1829)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政十二年刊)    魚屋北渓画    『本朝狂歌英雄集』一冊 北渓 臥龍園序(水滸伝英雄彩色画集)     〈〔目録DB〕の統一書名は「狂歌水滸伝彩色画像集」〉    『狂歌甲斐家裹』  一冊 画工呉北渓〈〔目録DB〕西来居未仏編〉    『三才月百首』狂歌 一冊 画図呉北渓 浅草庵序 春友亭蔵板    『桂花集』狂歌 葵岡北渓画図 四谷庵竹杖月良撰    ◯「絵入狂歌本年表」(文政十二年刊)    魚屋北渓画〔狂歌書目〕    『水滸伝英雄彩色画集』二冊 北渓画 臥竜園編 春陽館    『狂歌甲斐家づと』一冊 葵岡北渓画 西来居編 玉光舎    『狂歌桂花集』  一冊 北渓画   四谷庵編 四谷庵    魚屋北渓画〔目録DB〕    『三才月百首』  一冊 呉北渓画 浅草庵等撰 春友亭  ◯「文政十二己丑日記」②75 四月廿三日(『馬琴日記』巻二巻)   〝大坂屋半蔵来ル。過日申遣候画工之事也。其後、原田吉十郎を以、国貞方へ両三度かけ合候処、とかく    決着いたしかね候間、乃断候。然ル処、英泉義も、石魂録後集画せ候節、義絶同様之手紙差越候ニ付、    今更たのミ候事難儀の趣、申之。いづれ花山方、北渓事問に遣し、かけ合之上、何レとも取極可申間、    四五日見合せ可然旨、及相談〟    〈大坂屋半蔵は『近世説美少年録』の画工国貞を断念する。しかし何が原因かよく分からないが、大坂屋は英泉とも     『松浦佐用媛石魂録』後編(文政十一年(1828)刊)で義絶状態にあり、今更頼み難いとする。そこで北渓の起用を考     えたようである。ただどうして花山こと渡辺崋山経由で問い合わせるのか、不思議である〉    ◯「文政十二己丑日記」②78 四月廿九日(『馬琴日記』第二巻)     〝画工北渓来ル。則、美少年録第二輯さし画之事頼可申為、委細示談之。此方ニ差置候三より五迄之画稿    ・壱の口絵。惣もくろくのわく稿等渡し遣し、板元大坂や半蔵ぇ罷越候様申談じ、手紙差添、遣之〟    〈北渓との連絡に渡辺崋山が仲介するのであるから、北渓と崋山との関係は特別なものがあるのだろう〉    ◯『滝沢家訪問往来人名録』(曲亭馬琴記)   ◇下p119(文政十二年四月二十九日)   〝己丑(文政十二年)四月廿九日初来訪 赤坂溜池上桐畑町ニて黒田様前町也 一名麻布職匠町ト云     画工北渓〟     ◇下p120   〝赤坂溜池桐畑町 画工 北渓〟       ◯「文政十二己丑日記」②95 五月廿八日(『馬琴日記』第二巻)    〝画工北渓来ル。美少年録二輯口絵三丁出来、持参。惣もくろくハ近々出来のよし也〟    〈四月廿九日に画稿等を渡してから一ヶ月、この間何度か板元大坂屋や馬琴から催促があって、やっと口絵が仕上がっ     たのである〉      ◯『馬琴書翰集成』⑥257 文政十二年(1829)四月二十九日 馬琴宛・渡辺崋山(第六巻・書翰番号-来38)   〝拝読、如示、喧寒不定之候、審文御使、常勝奉欣聴候。然バ、被仰下候通、去月祝融氏之難、知人多延    焼仕候。私も武清方へ参、桑名侯邸ノ裏ニて蹻、危難将死三度、まことにこり果申候。扨復、北渓事御    尋被下、如仰、職匠町と申所にて、先日の回禄には幸のがれ申候。且かねて吹挙相願候ニ付、高著繍像    被仰付候半との御事にて、自私も聞御受可仕段、拝諾仕候。今日にも罷越、此段申述候ハヾ、定而雀躍    可仕候。早々当人にも御礼に罷越、拝眉御礼可申と奉存候。何も御報迄、如此御座候    拝復      四月廿九日      尚々、御丁寧之御端書、厚謝仕候       曲亭先生〟    〈「去月祝融之難」「先日の回禄」はともに三月二十三日の大火をさす。武清は絵師喜多武清。北渓が馬琴の挿画に起     用されたのは『近世説美少年録』の二輯。初輯は歌川国貞である。「定而雀躍可仕候」北渓にとっても馬琴の読本に     挿絵をとることは名誉のことなのであろう。ただ、馬琴作・北渓画の作品はこの『近世説美少年録』二輯のみ。弘化     二年(1845)の続編・三輯以降は再び豊国三代(国貞)になる〉     ◯「文政十二己丑日記」②118 七月九日(『馬琴日記』第二巻)    〝花山事渡部(ママ)登来ル。予、対面。先月中、登舎弟、死去。其後、自分も中暑ニて、しばらく引籠居候    よし也。北渓美少年録のさし画延引ニ付、さいそくいたしくれ候様、頼みおく〟    〈北渓に対する影響力は馬琴より渡辺崋山の方があるのだろう〉     ◯「文政十二己丑日記」②135 八月四日(『馬琴日記』第二巻)    〝(『近世説美少年録』板元大坂屋半蔵)七月中より不出来ニて、打臥罷在候よし。右ニ付、美少年録二    輯さし画、北渓方より画キ不参、并ニ、板木師も埒明不申ニ付、其義のミ苦労ニいたし、病中日々申く    らし候よし。同人内儀申候趣、告之。并ニ、山口や藤兵衛方へ立寄、申付候口状申述候処、英泉方へハ    さし画折々催促ニ遣し候へ共、出来不申故、及(ママ)不覧ニ及び候よし。此方出来三之巻、両三日中、使    ヲ以、請取ニ参り候筈、藤兵衛申候趣、告之〟
  〝大坂や半蔵、病中、画工不埒明事苦労ニ致候趣、きのどくニ付、渡部花山方まで其段申遣し、北渓方へ    伝へさせ、一日も(ママ)出来候様いたし遣し度思ひ候間、手紙認、今日、清右衛門へ申付、花山方へ届候    様談じ、もたせ遣す〟    〈板元にとって、国貞、英泉、北渓、なかなか意のままにならない存在のようだ。最も画工すべてがそういう訳でもな     さそうで、このころ、やはり馬琴作の合巻『風俗金魚伝』『漢楚賽擬選軍談』『傾城水滸伝』を担当した歌川国安は     順調に進行しているのか、督促記事は見あたらない〉       ◯「文政十二己丑日記」②162 九月四日(『馬琴日記』第二巻)   〝画工北渓来ル。予、対面。美少年録二輯三の巻残りさし画壱丁・四の巻さし絵二丁、〆二(ママ)丁出来、    持参。(中略)北渓、今夕、板元大坂や半蔵方へ罷越候よしニ付、右写本はり入置可申間、明日夕方ニ    ても、明後日ニても、とりニ人遣し候様、板元へ可申通旨、示談し畢。暮六時過、北渓帰去。小田原提    灯一ツ、かし遣ス〟    〈「小田原提灯一ツ、かし遣ス」とは馬琴らしい細かさだ〉    ◯「文政十二己丑日記」②212 十月廿九日(『馬琴日記』第二巻)   〝大坂や半蔵より、使を以、画工北渓美少年録さし絵弐丁残り、段々延引ニ付、催促ニ人遣し申度、手紙    認くれ候様申来候ニ付、即刻、催促の書状認之。もし未出来候ハヾ、画稿かへ(四字ムシ)きびしく申    遣ス。此序ニ、北渓ぇかし置候美少年録初編并ニ小田原ちやうちん一ッかへしくれ候様、申遣候〟    〈病気の板元大坂屋半蔵、北渓の遅筆に相当悩ませられている様子。北渓に小田原提灯を貸し出したのは九月四日のこ     と。この督促まで書状に認めるとは馬琴らしい〉    ◯「文政十二己丑日記」②215 十一月三日(『馬琴日記』第二巻)   〝画工北渓、二かいより落、腕を損じ候よし。かしおき候小田原ちょうちんハ大坂やでつちもちかへり、    丁字やえ差おき候よしニて、いまだ此方へかへらず〟    〈北渓の怪我より、貸した小田原提灯がよほど気になると見える〉    ☆ 文政年間(1818~1829)    ◯「絵入狂歌本年表」(文政年間刊)    魚屋北渓画〔狂歌書目〕    『七夕狂歌願の糸』一冊 北渓・花泉画 四方真顔編 芝の門     〈〔目録DB〕『七夕歌集願の糸』一冊 北渓等画 四方真顔編 刊年不記載。      下掲『狂歌願の糸』とは別本のようである〉    『堀川後度狂歌集』六冊 北渓画 六樹園編 五側社中    『狂歌正流百花鳥』二冊 北斎・北渓画 全亭翁撰    『狂歌画賛集』二冊 定岡・北渓画 鈍々亭編 太鼓側    『狂歌万花集』一冊 北渓画 芍薬亭編 狂歌屋歌膝    魚屋北渓画〔目録DB〕    『狂歌願の糸』一冊 北渓・英泉画 四方真顔編    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(文政年間刊)    葛飾北斎画『狂歌画賛集』挿絵 表紙「葵岡北渓画 鈍々亭撰」〔跡見221〕    巻末「菊花図」落款「北斎改 為一筆〔不明〕印」〈印はひらがなを組み合わせたもの〉    〈〔目録DB〕の書誌は『狂歌画賛集』を文政年間刊とする〉  ☆ 天保元年(文政十三年・1830)    ◯「読本年表」(天保元年刊)    魚屋北渓画『近世説美少年録』二編「出像 葵岡北渓」曲亭馬琴作 大坂屋半蔵他板 ①    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(天保元年刊)    魚屋北渓画    『奉額狂歌紅鏡集』一冊 呉北溪・葵園溪栖画 臥龍園翁撰 春友亭    『狂歌東関駅路鈴』一冊 呉北渓画 臥竜園撰 花園連    『狂歌二十四剛』 一冊 呉北渓画 千柳亭撰 梅菊園    『戯咲歌三玉集』 三冊 相覧・北渓画 湖濤園    『狂歌年中行事』 二冊 抱亭五清・北渓・広昌・額輔画 六樹園編 永楽屋東四郎板    『三才雪百首』  一冊 呉北渓画 芍薬亭等撰 春友亭    ◯「艶本年表」〔白倉〕(文政十三年刊)    魚屋北渓画『六歌仙』 色摺 小色紙 六枚組物 文政十三年頃     (白倉注「文字通り六歌仙一人ずつを描いたもの」)     ◯『馬琴書翰集成』①253 文政十三年正月二十八日 殿村篠斎宛(第一巻・書翰番号-56)   〝(『近世説美少年録』二輯の製本中の正月二十三日、板元・大坂屋半蔵病死のため、売り出しが延期に    なる。馬琴、存命中に発売できるよう画工・板木師に働きかけるものの間に合わなかった)画工北渓、    ことの外づるき性ニて、去年四月よりさし画をかゝせ候処、旧冬迄ニ出来をハらず、正月ニ至り、やう    /\色外題・ふくろ・とびらの板下出来。依之、製本不都合ニ相成、板元存命之内、出板間ニ合不申候。    板元家内の歎キハ勿論、於老拙も、遺憾此事ニ御座候〟    〈馬琴によれば、「美少年録」の制作の遅れを気にしつつ病床にあった板元・大坂屋半蔵の気持ちを察して、せめて存     命中の発売にこぎ着けようという努力を、ご破算にしたのは北渓の遅筆にあるというのである〉    ◯『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②309(天保初年刊)   〝東都画 池田英泉・鳥居清満・立斎広重・勝川春亭・葛飾北斉(ママ)・歌川国貞・歌川国芳・歌川国直・        柳川重信・柳川梅麿・葵岡北渓・静斎英一〟    ☆ 天保二年(1831)    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(天保二年刊)    魚屋北渓画『春のなごり』一冊 北渓画 塵外楼・西来居編(別書名『六樹園一周忌追福』)    ◯ 天保二年(1831)正月十一日 殿村篠斎宛別翰(第二巻・書翰番号-1)②6   〝『美少年録』画工北渓、一向埒明不申、且、板元いやがり候故、四編より末ハ、外の画工ニ取かへ不申    候ハヾ、速ニ挿画出来申まじく候〟    〈渡辺崋山を介して挿絵を依頼した北渓もまた遅筆で板元と馬琴を苦しめるのである〉    ◯「天保二年辛卯日記」②308 二月廿四日(『馬琴日記』第二巻)    〝丁子や平兵衛より、使ヲ以、美少年録三輯三の巻さし画の弐、壱丁、北渓方より出来のよしにて、差越    ス。(中略)北渓画、いよ/\出来かね候はゞ、今日人遣し、稿本とり返し可申旨、丁平より申来候畢。    右の趣、北渓方、為可申遣、則、手書認、丁子やぇ遣之。さし画稿とり返し可申ための文言也。丁平、    右手書見候上、北渓方へ遣し候様、この義も使へ申ふくめ、もたせ遣ス〟      ◯「天保二年辛卯日記」②316 三月五日(『馬琴日記』第二巻)    〝画工北渓来ル。手みやげ持参。予、対面。美少年録三輯口絵の内、一丁出来、持参。残り一丁は、明後    (ママ)出来のよし、申之〟    〈八日の記事〝美少年録三輯口絵残り、北渓方よりわづかに半丁出来のよしにて、持参。明日、尚又人遣候処、北渓へ     しそくの手書認くれ候様申ニ付、則、催促状染筆、遣之〟とあり、相変わらず遅筆は続いている〉      ◯「天保二年辛卯日記」②432 九月四日(『馬琴日記』第二巻)    〝画工赤坂の北渓持参、鮎一籠カズ廿、被贈之。予、対面。美少年録さし絵、二重墨入等の事、示談〟    ◯「天保二年辛卯日記」②440 九月十三日(『馬琴日記』第二巻)   〝(『近世説美少年録』)三之巻さし画の内、稿本とぢかひ以前、五郎書写候処有之、当書林年番、北し    ま長四郎、かれ是やかましく申ニ付、入木直し致させ可哉之旨、申之。その意ニ任せ、右之処斗入木い    たし候様、示談。画かき直しの注文、図之直シ、今夕持参の三之巻、右の画の処へ朱を入レ、丁平(丁    子屋平兵衛)ニわたし遣ス。画工、北渓にては埒明かね可申候間、柳川ニ画き直させ候つもり、示談〟    〈結局、柳川重信の起用はなく全て北渓が担当した〉    ☆ 天保三年(1832)    ◯「読本年表」(天保三年刊)    魚屋北渓画『近世説美少年録』三編「出像 葵岡北渓画」曲亭馬琴作 丁字屋平兵衛他板 ①    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(天保三年刊)    魚屋北渓画    『瀬川ぼうし』二冊 香蝶楼国貞・一勇斎国芳・北渓画 琴通舎英賀著 鶴屋喜右衛門板     (角書【瀬川五代家譜】瀬川家五代の追善集)    (73/134コマ、玉鉾道広の追善歌に北渓の玩具春駒の図。署名「北渓」)    ◯「天保三年壬辰日記」③42 二月廿三日(『馬琴日記』第三巻)   〝画工北渓、為年礼、来ル。且、奥州仙台の人ニ被頼候よしニて、書画帖持参。染筆を乞ふ。夕方ニ付、    書画帖ハ預りおく〟    〈翌二十四日、馬琴はこの「書画帖」に歌一首揮毫している。『馬琴日記』参照〉    ◯「天保三年壬辰日記」③71 四月五日(『馬琴日記』第三巻)           〝画工北渓来る。予、対面。去る二日夕、近火見舞のおくれ也。手みやげ持参。先月中差越被置候書画帖、    染筆いたし置候間、今日渡し遣す〟    ◯「天保三年壬辰日記」③121 六月八日(『馬琴日記』第三巻)   〝渡辺登来ル。年始答礼のおくれ也。予、対面。(中略)画工北渓、瘡毒古疾再発。此節大病のよし等、    聞之〟    〈北渓の消息が渡辺崋山経由で来るのは不思議である〉  ◯「天保三年壬辰日記」③221 十月廿日(『馬琴日記』第三巻)   〝画工赤坂北渓来ル。時候見廻也。予、対面。手みやげとして落鮎十七、被贈之。北渓、当夏古疾再発ニ    て、久しく病臥の処、平愈(ママ)也〟    〈六月八日日記参照。「古疾」とは瘡毒〉    ☆ 天保四年(1833)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保四年刊)    魚屋北渓画『あづまあそび』一冊 北渓・一勇斎国芳画 三笑亭可楽序 鶴屋喜右衛門板          (三代目瀬川冨三郎追善集也)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保四年刊)    魚屋北渓画『蒙求画像狂歌集』二冊 北渓画 塵外楼(清澄)編 五側社中     ◯「天保四年癸巳日記」③355 四月二日(『馬琴日記』第三巻)   〝赤坂職匠町画工北渓来ル。四谷伝馬町三丁め中村屋勝五郎といふもの同道。予、対面。右勝五郎、ゑ類    并ニ湯屋株所持いたし罷在候処、地本問屋仲ヶ間ニも入候間、予著述よみ本乞請、出板いたし度よしの    たのミ也。依之、交肴一折持参。北渓も菓子一折贈らる。筆硯繁多ニ付、速ニハ出来候得ども、手透を    得次第、心がけ可申旨、及挨拶〟    〈北渓は当時『近世説美少年録』の挿画を担当していた〉     ◯「天保四年癸巳日記」③409 六月十八日(『馬琴日記』第三巻)   〝赤坂画工北渓来ル。予、対面。右は四谷勝五郎頼ミよみ本著作之事、尚又、同人ヲ以頼申越。北渓、小    折入砂糖・小朱墨二、手みやげ也。同人所望ニ付、同人画うちハ金魚売の賛、即席之発句しるし遣ス。    ◯銭亀は壱朱のつり歟金魚うりとしるし遣し候処、あとニて考候へバ、銭亀ハつり歟一朱の金魚うりと、    いハん方宜し。しかれども遠方の事ニ付、直しニ不及して止〟    〈北渓画の「金魚売り」に、馬琴の「銭亀は壱朱のつり歟金魚うり」の句賛を配した「団扇絵」。果たして遺っている     のだろうか〉     ◯「天保四年癸巳日記」③486 十月五日(『馬琴日記』第三巻)   〝画工北渓并ニ当四月中よミ本作被頼候中村屋勝五郎、外に同道人壱人、已上ニて来ル。北渓・勝五郎ハ、    各手みやげ持参。勝五郎板元ニて、大画本武者画彫刻いたし度ニ付、稿案願候よしニて、注文被申聞、    彼是雑談数刻、帰去〟     ◯「天保四年癸巳日記」③502 十月廿五日(『馬琴日記』第三巻)   〝画工北渓来ル。予、対面。手みやげ、被贈之。先比、中村や勝五郎頼候武者画本之事、北渓此節手透    (二字ムシ)画に取かゝり度よし、申之。依之、右画の注文、示談。先、頼光の四天王より画はじめ候    様、示談。尚又、同人画勝五郎板諸国名所の錦画廿番ほど出来、右折本にいたし候よしにて、序文を被    頼、右用談数刻、訖て帰去〟
   葵岡北渓画「諸国名所 上州三国越不動峠」 (山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)     〈北渓画・中村屋板「武者画本」は未詳。この横大判錦絵二十枚組ほどの「諸国名所」を折本仕立てにして、馬琴の序文    を請うたものだが、これは天保五年七月二十一日付殿村篠斎宛書翰(番号49)によると、馬琴は序文を認めなかった〉      ◯『馬琴書翰集成』③120 天保四年十一月六日 小津桂窓宛(第三巻・書翰番号-28)   〝『判官太郎白狐伝』トいふ物を綴り候腹稿ニ御座候。これハ、四谷辺の書賈中村や勝五郎といふもの、    両三年前より、画工北渓紹介ニて、よミ本被頼居候間、これニほらせ候て、責を塞ギ可申存候。これハ、    前文得貴意候『平妖伝』の翻案物也〟    〈国文学研究資料館「日本古典籍総合目録」に『判官太郎白狐伝』は見あたらない〉       ◯「天保四年癸巳日記」③539 十二月八日(『馬琴日記』第三巻)   〝渡辺登来ル。予、対面(中略)当年初来也〟    〈渡辺崋山である。次項〝同刻、赤坂画工北渓来ル〟とあるが、馬琴が北渓に連絡を取るときはどういうわけか、崋山     経由でするから、両者同道して来訪したのかもしれない〉       〝同刻、赤坂画工北渓来る。手みやげ二種、被贈之。中村屋勝五郎頼ミ、武者画本之事并諸国名所の画序    文之事、被談之。愚意之趣、巨細に示談〟   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)  ◇「葛飾為一」の項(北斎門人)③312 「葛飾為一系譜」  〝拱斎 北渓 別記アリ、赤坂ニ住ス、スリ物、ヨミ本多シ〟    ◇「魚屋北渓」の項 ③314  〝魚屋北渓【文化、文政ヨリ天保ノ今ニ至ル】     俗称初五郎、居始四谷鮫ヶ橋、後赤坂永井町代地、号拱斎、葵岡【姓氏ノ如ク用フ】、江戸ノ人也、    始めは狩野養川院門人にて、画を学び、後北斎の弟子となりて浮世絵師となる、四ツ屋の魚屋なり、仍    て画名の傍に誌したり、摺物画は勝れて妙手なり、北斎の高弟にて、画法能く師の則を得たり、読本、    張交の錦絵等有、役者、美人画はかゝず、彩色の密画は名手也、門人多し、【彫刻の画になければ、名    不知】      梺の花【鬼武作】 三冊    美少年録二編より【馬琴作】      吉原十二時画【六樹園作】   彩色摺江戸名所附〟    ☆ 天保五年(1834)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保五年刊)    魚屋北渓画『俳諧歌万寿花集』二冊 北渓画 寿宝◎実    ◯「天保五年甲午日記」④72 三月廿七日(『馬琴日記』第四巻)   〝四谷中村や勝五郎并ニ赤坂画工北渓来ル。(中略)北渓ハ、すし一折持参。かねて被頼候武者絵本の下    画、やうやう三枚出来、わく紙とも持参。予、眼病の趣申聞、うけ取おく〟    〈昨年十月二十五日記事参照〉      ◯『馬琴書翰集成』③211 天保五年七月二十一日 殿村篠斎宛(第三巻・書翰番号-49)   〝北渓画の諸国名所のよこ物にしき画、よくうれ候ニ付、折本ニいたし、うり申度よしニて、右板元中村    や勝五郎といふ者、北渓とゝもニ参り、たのミ候得ども、序文ハかゝぬと一同ニ申断候故、右之わけ合    を以断り、書き不申候〟
   北渓画「諸国名所」     〈『諸国名所』(横大短冊判)葵岡北渓画・中村屋勝五郎板。馬琴の序文を添えた折本仕立てで売り出そうというのであ    るが、馬琴は序文を認めなかった。この企画は天保四年十月二十五日の日記にも記されている〉    ☆ 天保六年(1835)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保六年刊)    魚屋北渓画    『俳優三十六花撰』一冊 香蝶楼歌川国貞画 北渓図 柳亭種彦序 文栄堂板    『北斎道中画譜』 一冊 北渓画 高井蘭山序 皓月堂久助板           (狂歌東関駅路鈴と同本也、北渓の画を北斎の名をもて売りたる)    ☆ 天保七年(1836)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保七年刊)    魚屋北渓画    『狂歌四方之巴流』后集 一帖 北渓画 狂歌堂畸人(前集は文政十一年刊也)    『とふの菅薦』一冊 香蝶楼国貞・後素園国直・朝桜楼国芳・柳川重信・葵岡北渓・              法橋雪旦・雲峯・行年六十翁可庵武清筆 梅多楼藏板    ◯『馬琴書翰集成』④221 天保七年八月十四日 馬琴、古稀の賀会、於両国万八楼   (絵師の参加者のみ。天保七年十月二十六日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-65)④221参照)   〝画工 本画ハ      長谷川雪旦 有坂蹄斎【今ハ本画師になれり】 鈴木有年【病臥ニ付名代】      一蛾 武清 谷文晁【老衰ニ付、幼年の孫女を出せり】 谷文一 南溟      南嶺 渡辺花山    浮世画工ハ      歌川国貞【貞秀等弟子八九人を将て出席ス】 同国直 同国芳 英泉 広重 北渓 柳川重信      此外、高名ならざるものハ略之〟    ☆ 天保八年(1737)    ◯「【東都高名】五虎将軍」(番付・天保八年春刊・『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝秀業 ウキヨ絵 葛飾前北斎・コキウ 鼓弓庵小輔・三味セン 播广太夫蟻鳳       雛師  原舟月 ・飾物 葛飾整珉〟          〝浮世画師 歌川国貞・歌川国直・葵岡北渓・歌川国芳・蹄斎北馬〟    〈浮世絵師として国貞・国直・北渓・国芳・北馬の名が見える。しかし、北斎は別格と見え、斯界の第一人者である三     味線の鶴沢蟻鳳や雛人形師の原舟月などと共に「秀業」の部の方に名を連ねている。やはり浮世絵師の中では飛び抜     けた存在なのである。それにしても、一立斎広重と渓斎英泉の名が見えないのは不思議な気がする〉    ☆ 天保八、九年頃(1837-8)  ◯「大江都名物流行競 二編」(番付 金湧堂 天保八、九年頃刊)   (早稲田大学図書館 古典籍総合データベース「ちり籠」所収)   〝芸能長者    師伝 アカサカ 葵岡北渓/其侭 本所 五雲亭貞秀〟    〈対にした理由がよく分からない。「師伝」「其侭」とは、師の北斎及び国貞を風をよく伝えるという意味であろうか〉  ☆ 天保九年(1838)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保九年刊)    魚屋北渓画『山海集』一冊 北渓画 金鳥園撰    ☆ 天保十年(1839)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保十年刊)    魚屋北渓画    『狂歌連環集』一冊 葵岡北渓画 玉兎園寸美麿他撰 春友亭蔵板    『絵口合種瓢』二巻 北渓他画  浪華山田案山子著     〈〔目録DB〕の書誌に北渓名はない〉    『おもほへて』一冊 北渓 橘樹園主人     〈〔目録DB〕の書誌には『花五百首』和歌とあるが北渓の名は見えない〉    ☆ 天保十年(1839)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保十年刊)    魚屋北渓画    『おもほへて』一冊 北渓画 橘樹園早苗撰 橘樹園社中    『連環集』  一冊 北渓等画 玉兎園・六朶園 春友亭版    ☆ 天保十一年(1840)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保十一年刊)    魚屋北渓画『興歌六々集』一冊 広重 北渓画 芍薬亭等詠 東嶺庵等編  ◯「【書画会席】寿茶番口演」   (北渓の還暦寿宴の引札)   〝当五月十四日、両国柳橋河内屋半次郎於楼上本卦返り寿延の会席、何かな御一笑にそなへ奉らんと、補    助並に世話人ども打より、忠臣蔵裏表幕なしにとり組相催し廉景呈、何とぞ当日御賑々敷、早朝より御    来駕偏に奉希上候 以上                  催主 葵岡北渓 大々叶 両国柳ばし 会延 河内屋〟    ☆ 天保十二年(1841)    ◯「絵本年表」〔狂歌書目〕(天保十二年刊)    魚屋北渓画    『俳諧歌清凉集』一冊 北渓 狂歌堂梅廼門蔦垣等編 四方側蔵板    『花の十文』  一冊 八十二叟画狂老人卍筆 北渓 橘樹園早苗述     ◯「合巻年表」(天保十二年刊)    魚屋北渓画    『児雷也豪傑譚』二編 国貞画 袋画工 魚屋北渓 国貞 広重 谷文晁 笑顔作 泉市板〔東大〕    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保十二年刊)    魚屋北渓画『狂歌清涼集』一冊 北渓画(真顔画像)真門・真屑等撰 四方側     ◯『馬琴書翰集成』⑤268 天保十二年三月朔日 殿村篠斎宛(書翰番号・第五巻-78)   〝壬月中旬画工北渓、六七年ぶりニて致来訪候語次、『雅俗要文』、此節出板致、人々もてあそび候と告    候〟    〈壬月は閏月。この年は正月。『雅俗要文』は文政十一年(1828)春に板元西村与八に書き与えた往来物。その稿本を零     落した西村から買い取った英文蔵が、馬琴に無断で「文政十一年春日」の序を「天保十二年」に直して、この正月出     版したという。それを六七年ぶりに来訪した北渓が知らせたのである。三月三日付、小津桂窓宛書簡にも同様の記事     あり(書翰番号81)〉    ◯『馬琴書翰集成』⑤314 天保十二年十月朔日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-91)   〝「四天王」之事、是ハ北渓にて、頼光四天王の絵本之書入を八ヶ年以前、外書肆より被頼候事有之。北    渓甚長き人ニて、其絵漸々二丁斗画キ候まゝニて、今ニ出来終ず候得ども、旧冬右の板元度々参り、連    りニ書入ヲ催促致候ゆへ、『四天王剿盗異録』入用之事有之由、旧冬申上候也。然る所、右之書ハ手ニ    入候得ども、彼板元、当春より催促もなく、又不通ニ成候。とてもかくても、出来ぬ天命なるべし〟    〈読本『四天王剿盗異録』は馬琴作・初代歌川豊国画・文化二年(1805)刊〉    ☆ 天保十三年(1842)    ◯『【江戸現在】公益諸家人名録』二編「イ部」〔人名録〕②65(天保十三年夏刊)   〝画 北渓【名辰行、字拱斎、一号葵岡】赤坂桐畑 岩窪金右衛門〟     ☆ 天保十四年(1843)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保十四年刊)    魚屋北渓画『あさひの影』一冊 北渓画 鶴廼屋松門編 常盤園蔵板    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(天保十四年刊)    魚屋北渓画『あさひの影』一冊 岩窪北渓画 篶垣真葛・鶴廼屋松門編     ☆ 天保年間(1830~1843)     ◯「絵本年表」〔目録DB〕(天保年間刊)    魚屋北渓画    『狂歌三才拾遺』三巻 其一・椿年・北渓・雲峰・渓栖(葵岡印)                千種庵諸持編 春友亭蔵版    『吉方廼滝』  一帖 北渓等画    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保年間刊)    魚屋北渓画    『閑都之可布理』一冊 北渓・北寿画 臥竜園編 葛飾連    『俳諧歌璞玉集』一冊 北渓・雪の屋撰 盛岡玉屑連    『剛臆狂歌合』 一冊 北渓画 千柳亭撰 串総連    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   ◇「葛飾為一」の項
   「葛飾北斎系譜」〝北斎と号しての門人 拱斎 北渓 別記あり赤坂住す、摺ものよみ本多し─ 春信〟    〈春信は北渓門人の岳亭春信。別記とは別に項を立てて記述するという意味で、下記の項がそれに当たる〉     ◇「魚屋北渓」の項  〝魚屋北渓 文化文政より天保の今に至る     俗称 初五郎郎 居 始四谷鮫ヶ橋 後赤坂永井町代地     号 拱斎 葵岡 姓氏の如く用 江戸人也    始は狩野養川院の門人にして、後北斎の弟子となりて浮世絵師となる。松平志州侯の用達の魚屋也(四    谷)仍て画名の傍に記したり。摺物は勝れてよし。北斎の高弟にて、能く師の風を得たり(よみ本、張    交の錦絵多し、役者画はかゝず(後魚を商はず、画を以て業とす)門人多し。彫刻の画になければ、名    を出さず。      北渓漫画      一冊             (麓の花       三冊  鬼武作   美少年録 二編より 馬琴作      江戸名所 彩色ずり 二冊        吉原十二時計    六樹園)    青山立法寺     根府川石   翁諱辰行善絵事工于時世様逐武於            菱川宮川諸名流嗜学蔵書数千巻一生            行矣無愧忠信篤敬四字           葵岡老人北渓君之墓    忌日は見へず    あつくなくさむくなくまたうゑもせず     別に墓碑あるべし   うきこときかぬ身そこやすけれ〟    ☆ 弘化二年(1845)
 △『戯作者考補遺』p447(木村黙老編・弘化二年序)   〝北渓 永井丁 肴や初五郎〟    〈『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)と同じ〉    ☆ 嘉永元年(弘化五年・1848)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永元年刊)    魚屋北渓画『狂歌葦垣集』北渓 燕栗園四谷庵 亀玉選 尚古堂のあるじ序    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(嘉永元年刊)    魚屋北渓画『狂歌葦垣集』一冊 魚屋北渓画 燕栗園千頴・四谷庵編 北斗連板  ☆ 嘉永二年(1849)  ◯「【俳優画師】高名競」嘉永二年刊(『浮世絵』第十八号  大正五年(1916)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (番付中央)    上段(行事)  秋津島 坂東三津五郎 漫画 前北斎卍翁 三国志 玄龍斎戴斗    中段(年寄)  千里鏡 歌川国丸   兼  尾上梅寿  摺物  葵岡北渓    下段(勧進元) カネル 中村歌右衛門 一陽斎豊国    〈『北斎漫画』の葛飾北斎がこの当時の浮世絵師の第一人者という処遇である。続いて弟子の玄龍斎二代目戴斗と葵岡     北渓、時代は歌川派全盛であったが、北斎門流の浮世絵師も一目置かれていたのであろう〉  ◯『名聞面赤本(なをきけばかおもあかほん)』一冊 渓斎英泉画 英魯文作〔目録DB〕    〈嘉永元年、戯作者・和堂珍海(後の仮名垣魯文)は英魯文に改名。この『名聞面赤本』(嘉永二年刊)は諸家の狂歌     ・発句を募って改名を祝福した摺物。魯文の師匠は花笠文京〉   〝葵岡北渓 わけ入(いれ)ばいよ/\深く迷ふかな色ある花の山を尋て〟      〈浮世絵師で歌と句を寄せた人々は以下の通り〉    柳川重信・葵岡北渓・一筆庵英泉・朝桜楼国芳・墨川亭雪麿・為一百翁(北斎)・香蝶楼豊国    〈野崎左文の「仮名垣魯文伝」によると、この摺本、本来は嘉永元年(1848)の頒布を予定していたが、資力不足で延     引、刊行は同二年の春の由。したがってこの詠は弘化四年頃と思われる(明治28年2月刊『早稲田文学』81号所収)20     17/11/13追記〉  ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』p148   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 分入ればいよ/\深く迷ふ哉(カナ)途(ミチ)ある花の山を尋ねて         葵岡北渓    魯曰、北渓は始め狩野養生院門人にて後に前北斎為一の弟子となり摺物の絵に名あり。四谷鮫ヶ橋のほ    とり住みて其店に魚を鬻(ヒサ)げり依て世人は魚屋(トトヤ)北渓(ホツケイ)と呼べり、嘉永二三年頃歿せりと、    余が香以山人の許にて屡々逢ひし折は七十近き老人なりき墓所法名共に詳かならず。    〔追補〕北渓通称岩窪金右衛門字は辰行、拱斎(キヨウサイ)又葵園(アフヒソノ)の別号あり。読み本さし絵狂歌の    摺物等を多く描き、就中石川雅望著す所の北里十二時の画最も評よし、嘉永三年七十一歳を以て歿すと    云う青山立法寺に墓あり〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している。〔追補〕は野崎左文が後年追考補注したもの。香以山人は細木香以、山城河岸津藤、津国屋藤次郎。文     人・画家のパトロンで豪商。明治三年歿、享年四十九歳〉    ☆ 嘉永三年(1850)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永三年刊)    魚屋北渓画    『義士肖像賛詞』文晁 北渓〔「葵」「岡」印〕蹄斎〔「北」「馬」印」秀旭斎蘭暎〔「政直」印〕            法橋雪旦画〔「長谷川」印〕武清筆〔「可庵」印〕後素園写国直 柳川重信他筆    ◯「【高名時花】三幅対」(番付・嘉永三年五月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   (上から三段目、東筆頭から二番目)    〝招画 ムロ丁 鳥井(ママ)清満 ・画工 ネギシ 柳川重信 ・山水 アカサカ 葵岡北渓    〈招画は招牌画で看板絵、芝居看板の鳥居清満は日本橋室町住。根岸の柳川重信は二世重信。赤坂住魚屋北渓の「山水」     とは漢画の山水ではなく、現在の風景画に近いニュアンスなのだろう。北渓はこの年の四月九日没〉   ☆ 刊年未詳    ◯「絵入狂歌本年表」(刊年未詳)    魚屋北渓画〔目録DB〕    『狂歌つとのにしき』呉北渓画 浅草庵・千柳亭等撰    『俳諧古今雛歌集』五巻 渓斎英泉・魚屋北渓・歌川豊広画 狂歌堂真顔編    『七夕歌集願の糸』一冊 北渓等画 狂歌堂老老師撰    『鈍々亭選狂歌集』一冊 北渓画 鈍々亭和樽編    『はなのしをり』 一冊 岩窪北渓画 芬陀利花庵(菅江)・節松嫁々撰    〔北渓狂歌絵本〕 一冊 北渓画(注記「プルヴェラー目録「狂歌扶桑名所図会」とする」)    『狂歌比玉集』  一巻 北渓・国直画 塵外楼清澄撰    『狂歌六玉川』  一巻 呉北渓画 芍薬亭・福廼屋編    『兼題秋の花』  一冊 北渓・南湖等画 臥竜翁編    『狂歌六部集』  一冊 北渓等画 石川雅望編    『狂歌双飲集』     北渓画 花月堂百雄編    『戊寅春興集』  一冊 北渓画〈戊寅は文化十五(文政元)年〉    『千草の露』   一冊 北渓・豊国画 玉光舎占正等編    『狂歌集』    一冊 北渓画 臥竜園梅麿編    魚屋北渓画〔狂歌書目〕    『堀河院次郎百首題』一冊 辰斎・岳亭 淮南堂撰    『戯咲歌続杓子栗』 一冊 葵園北渓画 戯咲歌湖鯉鮒編    『狂歌明題集』   一冊 北渓画 文々舎撰 仮綴本    ◯『俗曲挿絵本目録』(漆山又四郎著)    魚屋北渓画『花盛四の振袖』(長唄)北渓画 海松庵伺候 吉見屋板    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(刊年未詳)    魚屋北渓画(書誌のみ)    『狂歌百人一首』魚屋北渓画 唐樹園南陀羅編 板元・刊年未詳〔跡見2564〕    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(刊年未詳)    魚屋北渓画『六歌仙』一帖 北渓画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)     ☆ 嘉永三年(1850)(四月九日没・七十一歳)  ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1411(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝葵岡北渓 享和中〟    ☆ 没後資料    ☆ 安政三年(1856)    ◯「読本年表」(安政三年刊)    魚屋北渓画『水滸画伝』「葵岡北渓画」柳水亭種清作 ①    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)
 ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「宮川氏系譜」の項 ⑪188
   「宮川長春系譜」〝(葛飾北斎門人)北渓(弟子に)春信〟
  ◇「魚屋北渓」の項 ⑪219   〝魚屋北渓    俗称初五郎、号拱斎、又葵園〔割註 後氏の如くに用たり〕。始は狩野養川院の門人也〔割註 養川名 は雅信、号玄々斎、文化五年正月十二日歿す。五十六歳〕。後北斎の弟子となり、浮世絵師となる。四 ッ谷鮫ヶ橋に住して松平志州侯の用達の魚屋なり。仍て画名の傍に記したり。後赤坂永井町代地等へ移 る。摺物は勝れてよし。北斎の高弟にて能師の風を得たり。役者絵はかゝず。後魚を商はず。画を以て 業とす。門人多し。彫刻の画になければ名を出さず。     北渓漫画 一冊 名古屋永楽屋板     青山立法寺中碑 根府川石      翁諱辰行、善絵事、工于時世様、遂武於菱川宮川諸名流、嗜学蔵書数千巻、一生行矣、無愧忠信等 〈篤カ〉敬四字、葵園老人北渓君之墓。        あつくなくさむくなくまたうゑもせずうきこときかぬ身こそやすかれ     麓の花    三冊  鬼武作   美少年録 二編より 馬琴作     吉原十二時計     六樹園作  江戸名所 二冊〟  ☆ 明治二年(1869)  ◯『翟巣漫筆』〔新燕石〕④附録「随筆雑記の写本叢書(一)」p6(斎藤月岑書留・明治二年九月十三日記)   〝(九月十三日□(ママ)社前の床見世で見た、北渓の画に六樹園の狂歌を写してある)     吉原のミつのあしたハまりもつくやりはこもつくうそさへもつく   六樹園〟    ☆ 明治十九年(1886)  ◯『第七回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治19年刊)   (第七回 観古美術会 5月1日~5月31日 築地本願寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十九年五月序)   〝魚屋北渓 調布図 一幅(出品者)若井兼三郎〟  ◯「読売新聞」(明治19年5月16日付)   〝第七回観古美術会品評      魚屋北渓 調布(たつくり)の図 着色    北渓 名は辰行 通称を初五郎といひ 栱斎(こうさい)又葵園と号す 北斎門人中の一人なり〟    〈上掲「目録」参照〉  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月10日~5月31日 上野公園列品館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古製品 第一~四号」   〝魚屋北渓       婦女晒布図 一幅(出品者)若井兼三郎     墨江秋晩図 一幅(出品者)若井兼三郎〟  ◯「読売新聞」(明治21年5月31日付)   〝美術展覧会私評(第廿五回古物 若井兼三郞出品)    哥川の祖豊春の傾城 池田英泉の花下傾城 蹄斎北馬の布さらし 魚屋北渓の稲苅 勝川春亭の子供遊    び等 何れも着色鮮美なるが 中にも哥川国貞(后二(ママ)世豊国)の田舎源氏の双幅最も艶麗なり     以上数幅は若井氏の出品なり〟    〈『明治廿一年美術展覧会出品目録』では、魚屋北渓「婦女晒布図」・蹄斎北馬「穫稲図」となっている〉  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝享和 葵園北渓    東都青山に住して菓(*ママ)屋を業とせり。世にとゝや北渓と称す、北斎門〟    ☆ 明治二十三年(1890)  ◯『明治廿三年美術展覧会出品目録』3-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治23年4-6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 3月25日~5月31日 日本美術協会)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝魚屋北渓 関羽像 絹本 一幅(出品者)藤田弥助〟  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』下p300(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝魚屋北渓    通称初五郎、拱斎又葵園ト号ス、始メ狩野養川ノ門人、後チ北斎ノ門人トナル、摺物ノ書勝レテ善ク、    魚ヲ商内ニ依テ魚屋ノ名アリ、後チ商ヲ止メテ専ラ画ヲ以テ業トス、門人モ多クアリ〟  ☆ 明治二十六年(1893)    ◯『古代浮世絵買入必携』p16(酒井松之助編・明治二十六年刊)   〝魚屋北渓    本名〔空欄〕  号 葵岡  師匠の名〔空欄〕  年代 凡七八十年前    女絵髪の結ひ方 第十二図・第十三図 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    絵の種類 大判、並判、小判、細絵、摺物、絵本、肉筆    備考  〔空欄〕〟    ◯『葛飾北斎伝』p318(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年刊)    ※( )は底本のルビ、〈 〉は本HPの注記   〝魚屋(トトヤ)北渓 北渓は、岩窪氏、俗称初五郎、後に金右衛門。拱斎と号し、又葵園と号す【後に葵    園を氏の如く用ゐたり】江戸の人。四ツ谷鮫ケ橋に住し、後に赤坂永井町代地に移る。其の家魚を売る    を業とし、松平志州侯の用達たり。故に画名の傍に、魚屋としるせり。人また呼びて魚屋北渓といふ。    初め狩野養川院雅信【玄々斎と号す。文化五年正月死】の門に入り、画法を学びしが、後北斎に就き、    其の風を学び、狂歌摺物絶妙なり。北門の高弟と称せらる。後に魚屋の業を止め、絵画をもて、専業と    せり。    (以下『北渓漫画』等の絵本・読本の四作品の書名あり、略)    北渓は、唯画図に長ずるのみにあらず、学を嗜み書を蔵する多し。其の死せし年月あは、詳ならざれど    も【蓋し天保年間なるべし】。青山立法寺中に碑あり。其の文に曰く、「翁諱辰行、善絵事、工干時世    様、遂武於菱川宮川諸名流、嗜学蔵書数千巻、一生行矣、無愧忠信篤敬四字、葵園老人北渓君之墓、あ    つくなくさむくなく又うゑもせず、うきことしらぬ身こそやすけれ」。門人に、岳亭春信あり〟    〈碑文の訳「翁諱〈イミナ〉は辰行、絵事を好み、当世の様を巧みに写して、遂に菱川宮川の名流に続く。学を嗜み、書を     収めること数千巻、これ一生の行いとした。まさに忠信篤敬の四字に愧ることなし。葵園老人北渓君の墓」〉    ◯『浮世絵師便覧』p205(飯島虚心著・明治二十六年刊)   〝北渓(ホッケイ) 岩窪氏、俗称初五郎、後に金右衛門、拱斎と号し、葵園と号す、其の家魚を売るを業とす、    故に人呼ひて、魚屋北渓といふ、狂歌摺物多し、北斎門人、北渓漫画あり、◯文化、天保〟    ◯『名人忌辰録』上巻p13(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝魚屋北渓 葵園    名辰行、号拱斎、俗称岩窪金右衛門。始め養川院門人、後北斎の門に入る。家業生魚を鬻ぐ、仍て氏を    魚屋と改む、故に鯉魚を画くに妙を得たり。嘉永三年没す、歳七十。青山千駄谷立法寺に埋葬つ〟    ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(56/103コマ)   〝魚屋北渓【文化元~十四年 1804-1817】    岩窪氏、通称初五郎、後に金右衛門、名は辰行、拱斎、葵園等の号あり、四谷鮫ヶ橋に住みて、松平志    州侯の用達の魚屋なり、初め狩野養川院の門に入りしが、後ち為一の門弟となりぬ、善く師の画風を学    びて、板刻の絵を多く画けり、後年赤阪長井町代地に移り、魚を売ることを止めて、専ら絵を以て業と    せり、青山立法寺中にある所の北渓の墓碑の銘を茲に掲けて、その伝を補ふ     正面 葵園老人北渓君之墓     左側 翁諱辰行、善絵事、工于時世様、逐武於菱川宮川諸流、嗜学蔵書数千巻、一生行矣、無愧忠信        等(ママ)敬四字     右側 あつくなくさむくなくまたうゑもせず うきこときかぬ身こそやすけれ     (板本リスト五作 書名省略)〟  ◯「集古会」第十九回 明治卅二年(1899)一月(『集古会誌』明治32年6月刊)    村田幸吉出品 北渓筆 霊亀 一幅 ◯『浮世画人伝』   ◇「葛飾北斎系譜」p121 「葛飾北斎系譜」〝北渓(北斎門人)拱斎〟   ◇「魚屋北渓」の項 p125   〝魚屋北渓(ルビうをやほくけい)    北渓、名は辰行、通称岩窪金右衛門、また初五郎と呼び、拱斎また葵園と号しき。始め狩野養川院(養    川名は惟信、号玄之斎、文化五年正月十三日歿す、歳五十六)に画を学び、後、北斎の門に入て、浮世    絵をものし、落欵に魚屋北渓と記せり、(※一字未詳)は固(モト)松平志摩守の用達町人にて、魚商なれ    ばなりと。北渓の住居は四谷鮫橋なりしが、晩年赤阪永竹町代地に転じ、専ら師の画風に傚ひ、狂歌摺    物の画を認め、世に知られしが、一見識ありて、俳優画は一回も描かゝざりしと。著す所の『北渓漫画』    『吉原十二時』の挿画など高評を博したるものあり。嘉永三年、歳七十一にして歿す、墓は青山立法寺    にあり。      あつくなし寒くなし又うゑもせず憂きこときかぬ身こそやすけれ    此狂詠、北渓の辞世なるや、碑の裏面に刻せり〟  ◯『古今書画名家全伝』続編(川瀬鴎西 東雲堂 明治三十六年(1903)十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)24/149コマ   〝北渓 通称を初五郎ち云ふ、江戸の浮世絵師なり、拱斎また葵岡と号す、はじめ四谷鮫ヶ橋に居り、後    赤坂永井町に移る、性画を好み、狩野養川院の門に入りて学び、後北斎に従ひて浮世絵師となる、其の    家業は魚商なるを以て、画名の傍に魚屋と記したり、当時摺物の妙手と称せられ、此の人の右に出づる    ものなかりしとぞ、実に北斎の法を伝へたるもの、此の人を措いて亦他に求めんや、其の彩色の密なる    凡手の及ぶ所にあらずと云ふ、然れども俳優及び美人画は、未だ嘗て画かざりしとぞ、文化より天保年    間に渉り、門人甚だ多く、画名一世に嘖々たりと云ふ〟    ◯「集古会」第六十六回 明治四十一年(1908)一月(『集古会誌』戊申巻二 明治41年10月刊)   〝村田幸吉(出品者)魚屋北渓画 狂歌花鳥双六 芍薬亭撰〟  ◯「集古会」第九十五回 大正二年(1913)十一月(『集古会志』甲寅一 大正4年10月刊)   〝竹内久一 (出品者)北渓旧蔵本写本 東都三社祭宝図    吉田久兵衛(出品者)北渓筆 浅草寺図 板刻 一枚〟  ◯「集古会」第百二十七回 大正九年(1920)三月(『集古』庚申第二号 大正9年4月刊)   〝野崎左文(出品者)北渓画 新撰狂歌百人一首 飯盛撰 一冊 文化〟  ◯「集古会」第百三十二回 大正十年(1921)三月(『集古』辛酉第三号 大正10年4月刊)   〝永田有翠(出品者)     北渓画 岡目八目佳妓窺 小金厚丸作     同   南門鼠帰    塩屋主人作 袋共〟  ☆ 昭和以降(1826~)
 ◯『狂歌人名辞書』p204(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝葵園北渓、通称岩窪金右衛門、東都四ツ谷鮫ケ橋に住す、北斎門人、狂歌集挿画及狂歌摺物を多く画け    り、嘉永三年歿す、年七十一、青山立法寺に墓あり〟    ◯「日本小説作家人名辞書」p711(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   〝うはきち    魚屋北渓の匿名かと云ふ。魚屋北渓を見よ。「富岡八幡鐘」(享和二年・1802刊)の作者〟    〈「日本古典籍総合目録」『富岡八幡鐘』洒落本・喜多楼かはきち作・魚屋北渓画。享和二年。『洒落本大成』第二十     一巻は『【富岡】八幡鐘』「清々老人」序・「喜多楼乙息子かはきち」・「北渓画」・「ゑしの北渓」跋とあり。な     お「日本小説作家人名辞書」は「うはきち」となっている〉    ◯『浮世絵師伝』p170(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝北渓    【生】安永九年(1780)             【歿】嘉永三年(1850)四月九日-七十一    【画系】初め狩野養川に学び、後北斎の門人となる 【作画期】享和~嘉永     岩窪氏、名は辰行、字は拱斎、俗称初五郎、後に金右衛門と改む、別号葵岡、四谷鮫ヶ橋に居住し、     魚を鬻ぎて(一説に松平志州俟の用達の魚屋なりと云ふ)業とせしかば、世人彼を魚(トト)屋北渓と     呼び、彼も亦自から爾く称へて、後ち赤坂桐畑に移り、家業を廃して専ら作画に従事す。      彼は狂歌の摺物及び狂歌本の挿画を最も多く描き、就中『北里十二時』の如きは、彼の挿画本として     優秀の作品たり、又「諸国名所」(横判長絵)と題する数図は、彼の版画中に於ける傑作と認むべき     ものなり、画風師の北斎に酷似す。墓所千駄ケ谷立法寺〟    ◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊)   ◇「夷曲同好続編筆者小伝」p456(昭和六年九月稿)   〝魚屋北渓 名辰行、字拱斎、住赤坂長井町、称肴屋、初太郎、学画北斎、称岩窪金右衛門、住四谷鮫橋         嘉永三年四月九日、享年七十一、葬千駄ヶ谷立法寺〟  △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「杉並区」立法寺(和田本町九五七)日蓮宗(旧千駄ヶ谷)   〝岩窪北渓(画家)名辰行、通称金右衛門、葵岡と号す。狩野養川院につき、後北斎に従ひて浮世絵を学    ぶ、魚商なれば落款に魚屋北渓と記せり。北渓漫画、吉原十二時、狂歌職人尽名高し。嘉永三年四月七    日歿。年七十一。      辞世 あつくなく寒くなくまたうゑもせずうきこときかぬ身こそやすけれ〟    〈『原色 浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」は死亡日を四月九日とする〉     ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「寛政一二年 庚申」(1800)p165   〝此年、魚屋北渓の口画にて塩屋色主作なる洒落本『南門鼠』絶版を命を受く〟
  ◇「文化八年 辛未」(1811)p181   〝十月、俊満・辰斎・北馬・北渓・北寿等の挿画に成れる『自讃狂歌集』出版〟
  ◇「文化一三年 丙子」(1816)p189   〝正月、魚屋北渓・磯野文斎二人の画に成れる『狂歌御国ぶり』出版〟
  ◇「文政元年(四月二十二日改元)戊寅」(1818)p191   〝正月、北渓の画ける『東海道岐岨街道狂歌合』出版〟
  ◇「文政二年 己卯」(1819)p192   〝四月、北渓の画ける『狂歌五十人一首』出版〟
  ◇「文政三年 甲辰」(1820)p194   〝十月、北渓の画ける『新居狂歌合』出版〟
  ◇「文政四年 辛巳」(1821)p196   〝正月、北渓の挿画ある『狂歌読人名寄細見』、岳亭春信の画ける『狂歌読本詠咏奇譚』出版。    此年、北渓・英山・沖一峨・岳亭・千春等の画ける『新曲撰狂歌集』出版〟
  ◇「文政七年 甲申」(1824)p199   〝十一月、北渓の画ける『扶桑名所狂歌集』出版〟
  ◇「文政九年 丙戌」(1826)p202   〝正月、北渓の画ける『額面狂歌集』出版〟    四月、北渓の画ける『狂歌鼎足集』。    六月、北渓・国貞・北馬・国直・辰斎・北斎等の画ける『狂歌の集』出版〟
  ◇「文政一一年 戊子」(1828)p205   〝正月、国貞・貞景・北渓等の画ける『狂歌四季訓蒙図彙』出版。    四月、北渓の『絵本庭訓往来』初編出版〟
  ◇「文政一二年 己丑」(1827)p207   〝四月、北渓の『三才月百首』出版。    五月、北渓の画ける『本朝狂歌英雄集』『狂歌桂花集』出版〟
  ◇「天保元年(十二月十日改元)庚寅」(1830)p208   〝正月、北渓の画ける『狂歌東関駅路鈴』出版。    二月、北渓の画ける『三才雪百首』出版〟
  ◇「天保二年 辛卯」(1831)p209   〝三月、北渓の画ける『狂歌春のなごり』出版〟
  ◇「天保四年 癸巳」(1833)p211   〝正月、呉北渓・一勇斎国芳等の画ける『あづまあそび』出版〟
  ◇「天保六年 乙未」(1835)p214   〝正月、天保元年出版せる北渓の画ける『狂歌東関駅路鈴』を『五十三次北斎道中画譜』と改題して再版       せり。蓋し北渓の画を北斎の名もて売りたるものなり〟
  ◇「天保七年 丙申」(1836)p215   〝四月、国貞・国直・北馬・国芳・柳川重信・北渓・武清等の挿画に成る『とふの菅薦』出版〟
  ◇「天保一二年 辛丑」(1841)p219   〝正月、北斎と北渓の画ける『花の十文』出版〟
  ◇「嘉永三年 甲戌」(1850)p228   〝四月九日、魚屋北渓歿す。行年七十歳。(北渓姓は岩窪、俗称初五郎又金右衛門といひ、北斎又葵岡と    号せり。葛飾北斎の高弟なり。魚商を生業とせしを以て魚屋と称す)〟
  ◇「安政五年 戊午」(1858)p237   〝九月、葛飾為斎の画に成る『日蓮上人一代図会』出版。松亭金水の著述なり。此の書明治二十一年に至    りて画工の為斎の為の字を削り北の字を填板して葛飾北斎の画として売り出だせり。此書為斎の傑作に    して北斎に劣らぬ程の名画なるに、世俗北斎のみを崇拝して為斎を顧みざるをもて為斎の名を埋没せし    めたるは己の利を計りて他の名を永久に葬りたる悪みても余りあり。此書は東京の御徒町の金兵衛なる    者なるが、名古屋の書肆文助なる者が、北渓の画ける傑作『狂歌東関駅路鈴』を『北斎道中画譜』と改    題して販売せると一対の奸策なり〟    ◯「集古会」(第二百三十四回) 昭和十七年一月(『集古』昭和十七年第二号 昭和17年3月刊)   〝木村捨三(出品者)北渓画 新居狂歌合 六樹園飯盛霊岸島新宅祝狂歌集 文政三年版〟  △『増訂浮世絵』p237(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝魚屋北渓    北渓は北斎の門人中に重なる一人であり、且つ師の筆意を、充分よく継承した作家である。俗称を岩窪    初五郎と云ひ、後に名を金右衛門と改めた。諱を辰行と云ひ、拱斎、葵岡などの別号があつた。四谷の    鮫橋に住みて、松平志摩守に出入の魚商であつたのに因んで、画号を魚屋と云つた。初めは狩野養川院    雅信に就いて画を学んだが、後に北斎に師事して、浮世絵を習ふことゝなつた。彼れの作中、錦絵では、    諸国名所の如き、風景雅に優れたものがあり、風俗画の遺作にも相当なる作がある。また読本類の挿絵    に多く筆を取つてゐた。殊に北渓の遺作として数も多く、頗る見るべきものがあつて、特に世に知られ    たのは、それの狂歌摺物絵である。当時摺物の世に行はるゝこと甚だ盛んであり、摺物絵に得意な画家    も可なり居つた中でも、特に優れた技術を有つてゐた。摺物絵は狂歌その他の好事家連が、道楽に作る    ものが多いために、製作にも費用を惜しまないので、彫摺の巧妙を尽した作例が甚だ多い。    北渓は嘉永三年四月九日に、享年七十一歳で没し、千駄ヶ谷の立法寺に葬られた。    北渓の生筆画に、御題目図が堀之内妙法寺にある。文政四年巳歳五月吉旦 願主神田龍閑橋餅屋安兵衛    とある。南無妙法蓮華経の御題目を、小児まで合せて、十五人が拝してゐる図である。北斎の筆法とよ    く相似た特色をもち、北渓の大作であり、傑作である。幅五尺七寸、高三尺二寸、金地、胡粉をぬり金    泥をひきしもの板地四枚つぎである〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔魚屋北渓画版本〕    作品数:97点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:魚屋北渓・岩窪・呉・拱斎・葵園・葵岡・葵園北渓・葵岡北渓・岩窪北渓・北渓・呉北渓・        拱斎北渓    分 類:狂歌72・洒落本10・読本3・咄本3・絵画2・滑稽本2・絵本2・地誌1・艶本1・        演劇1    成立年:寛政11~12年(2点)        享和2~3年  (9点)(享和年間合計10点)        文化1・4~6・8・12~11年(12点)(文化年間合計14点)        文政1~7・9~13年     (34点)(文政年間合計39点)        天保1~7・10~11・14年 (9点) (天保年間合計11点)        嘉永1年(1点)        弘化年間なし        安政3年(1点)   (葵園北渓名の作品)    作品数:6点    画号他:葵園北渓    分 類:絵本2・狂歌2・地誌2・演劇1    成立年:文化13年(1点)        文政12年(1点)        天保6年 (1点)    〈『俳優三十六花撰』演劇・歌川国貞、葵園北渓画・天保六年(1835)刊〉   (葵岡北渓名の作品)    作品数:9点    画号他:葵岡北渓    分 類:狂歌8・読本1    成立年:寛政11年(1点)        享和年間なし        文化14年(1点)        文政6~7・9~10・12年(5点)        天保7年 (1点)        安政3年 (1点)   (拱斎北渓名の作品)    作品数:1点    画号他:拱斎北渓    分 類:狂歌1    成立年:文政2年    〈『狂歌五十人一首』狂歌・石川雅望編・拱斎北渓画・文政二年(1819)刊〉   (呉北渓名の作品)    作品数:4点    画号他:呉北渓    分 類:狂歌4    成立年:文政12~13年(2点)   (岩窪北渓名の作品)    作品数:4点    画号他:岩窪北渓    分 類:狂歌3・読本1    成立年:文化年間    (1点)        文政13年   (1点)        天保3・14年 (2点)    『近世説美少年録』読本 曲亭馬琴作 岩窪北渓画 二輯文政十三年(1842) 三輯天保三年(1832)刊