◯「文政十二己丑日記」②51 三月十一日(『馬琴日記』第二巻)
〝画工英泉来ル。当月廿四五日比出立ニて、大坂へ旅行のよし、申之。依之、紹介状被頼候。右に付、大
坂河太諸勘定之事、并に河茂潤筆わたり等の事、申談じくれ候様、頼之。尤、河太取引之義、一向不行
届候趣、あらまし示談〟
〈河太は河内屋太助、河茂は河内屋茂兵衛。共に大坂の版元。馬琴は英泉の紹介状を書くとともに、これらの版元に対
して勘定や執筆等の交渉をするよう依頼したのである。大坂行きは昨年から計画されていたのであるが……〉
◯「文政十二己丑日記」②57 三月十九日(『馬琴日記』第二巻)
〝大坂や半蔵来ル。板木師方へ罷越候留守中、英泉罷越、美少年録さし画、国貞方いかゞ相成候哉、もし
ふり替、英泉へ画せ候ハヾ、上方行出立延引いたし候ても、間ニ合可申旨申候よし、老母が申置ニ付、
われら方より英泉へたのミ候哉と存、問合せ、相談之為来候よし也。われら方より英泉へ頼候事ハ無之
候。国貞方いまだ何とも決着無之故也。英泉いかゞ心得候哉、間違ニ可有之候旨、申聞。且又、国貞方
え之かけ合手段等、くハしく申聞候へば、承知之上、早々帰去。大半決着なく、板木師等にそゝのかさ
れし故也〟
〈作画に手間取っている国貞に代わって『近世説美少年録』の挿絵を担当しようという英泉の申し出、それは上方行き
を延期してまでもという強い意欲を伴ったものであった。それを聞いた板元大半こと大坂屋半蔵、それが馬琴の意向
によるものかどうかを確かめに来たのである。無論、前日大坂に発つ英泉に諸事を託した馬琴がそんなことをするは
ずはない。結局のところ、英泉は板木師等の唆しに踊らされたものらしい。また、そうされるべき遺恨が英泉と板木
師と版元との間にあったようである。四月廿三日、五月朔の日記参照〉
◯「文政十二己丑日記」②58 三月廿日(『馬琴日記』第二巻)
〝大坂や半蔵来る。昨日、国貞方え美少年録稿本とり戻しニ遣候処、他行のよし。今朝も又、人遣候処、
板木師御家人原吉十郎へかけ合置候事故、吉十郎参候はゞ、可渡旨、申来り候。いづれむつかしく候間、
とり戻し、外画工え頼可申候間、依之、且、昨日、英泉も大半方へ罷越、為永長次郎噂にて承候故、
右之画かき申度旨、申候よし。依て、かけ引等之心得、くはしく及示談。数刻之後、帰去〟
〈国貞と板木師と板元の間にどのような問題が生じているのかよく分からないが、大坂屋半蔵は他の画工に依頼する意
向を持っているらしい。それを為永長次郎(春水)から噂として聞いた英泉が大坂行きを延引してまで自ら画こうと
申し出たものらしい〉
◯「文政十二己丑日記」②59 三月廿一日(『馬琴日記』第二巻)
〝(大火)芝居も、三芝居とも類焼といふ。懇意の板元、つるや・西村や・もりや・山口や・大坂や半蔵
等、皆、類焼なるべし。すきやばし辺延焼のよしに付、みのや甚三郎・画工英泉・芝神明前泉市も類焼
せしか、未知之。はま丁伊藤半平・甚左衛門町芝や文七・小あみ町西野や幸右衛門・十軒店英平吉も大
かたやけたるべし〟
〈文政十二年三月の江戸大火である。神田佐久間町より出火、南北約一里余、東西二十余町、日本橋、京橋、新橋に至
る江戸の中心街を焼き尽くし、千九百余人の死者を出したとされる。鶴屋喜右衛門・西村屋与八といった地本問屋を
代表する大どころの板元も類焼し、尾張町(今の銀座)住の英泉も焼け出された〉
◯「文政十二己丑日記」②61 三月廿三日(『馬琴日記』第二巻)
〝今日、やけ場方角付うりニ来ル。かひ取、見候処、深川ハ恙なし。西ハかまくらがし迄、東ハ両国まで、
南ハ土橋ニてやけとまる。英泉いづれへ立退候哉、未詳〟
〈「やけ場方角付」とは、この火事で初めて登場したという江戸絵図の上に焼失範囲を書きこんだ「かわら版」のこと
であろう。英泉の避難先がまだ分からない〉
◯「文政十二己丑日記」②63 三月廿七日(『馬琴日記』第二巻)
〝今日昼前、門前脇ニて、お百、英泉ニあひ候よし。今日、根津縁者方へ罷越、当分罷在候ニ付、荷物、
船ニて筋違御門外までつミみつけ候よし、申之。近日罷出べき旨、申候よし也〟
〈お百は馬琴の妻。この「門前脇」とはどこであろうか〉
◯「文政十二己丑日記」②70 四月十二日(『馬琴日記』第二巻)
〝画工英泉来ル。先月中之餞別并類焼見舞、答礼也。芝浜松丁へ行居候処、尚又勝手ニ付、根津七軒町へ
引移候よし、申之〟
〈類焼に遭った英泉はいったん芝の浜松町に避難し、その後根津へ移ったのである。紹介状まで認めて貰った英泉の大
坂行はどうなったのであろうか〉
◯「文政十二己丑日記」②75 四月廿三日(『馬琴日記』第二巻)
〝大坂屋半蔵来ル。過日申遣候画工之事也。其後、原田吉十郎を以、国貞方へ両三度かけ合候処、とかく
決着いたしかね候間、乃断候。然ル処、英泉義も、石魂録後集画せ候節、義絶同様之手紙差越候ニ付、
今更たのミ候事難儀の趣、申之。いづれ花山方、北渓事問に遣し、かけ合之上、何レとも取極可申間、
四五日見合せ可然旨、及相談〟
〈大坂屋半蔵は国貞を断念する。しかし何が原因かよく分からないが、大坂屋は英泉とも『松浦佐用媛石魂録』後編
(文政十一年(1828)刊)で義絶状態にあり、今更頼み難いとする。そこで北渓の起用を考えたようである。ただ、ど
うして花山こと渡辺崋山経由で問い合わせるのか、不思議である〉
◯「文政十二己丑年四月二十七日」『戯作六家撰』〔燕石〕②83(岩本活東子編・安政三年成立)
(「曲亭馬琴」の項)
〝文政十二己丑年卯月すゑの七日、渓斎英泉、予が家に訪来て、物語のついでにいはく、在下いぬる日、
曲亭翁が元にいたりし時、翁の申さるゝは、(以下、長文にのため、要旨のみ。昨日、自家製の奇応丸
を購入した者で、今春出版の『近世説美少年録』を誉める一方『傾城水滸伝』を謗る内容の封書を置い
ていった者があったこと。また『傾城水滸伝』において、日本にありもしない「蒙汗薬」(痺れ薬)を
趣向として使うのは不審だとする投書があったこと。それに対して、そもそも「蒙汗薬」なるもの、
『水滸伝』の宋代にも存在しない、原本でさえ作者のこしらえ物、したがって日本においても憚ること
なし、その非難は当たらないとして、一笑に付した)と翁のいはれしとて、渓斎ものがたりき〟
〈ここの「予」は『戯作六家撰』の編者岩本活東子ではなくて、その原本となった『戯作者撰集』の石塚豊芥子である。
英泉の『無名翁随筆』は天保四年の成立、曲亭馬琴の『近世物之本江戸作者部類』は天保五年、そして石塚豊芥子の
『戯作者撰集』は天保末年以降の成立とされている。それらに先立つ文政十二年の記事である。英泉は『浮世絵類考』
『浮世絵類考追考』の典拠を持っている、馬琴は出版界での体験や見聞が豊富な上に抜群の記憶力を誇っている。ま
た、豊界子は『稗史通』(墨川亭雪麿、文化十年成立)や北斎の聞き書きを典拠としている。こうした出会いがもたら
した影響はどのようなものであったのだろうか。因みに、英泉は曲亭馬琴の七作品に挿画を画いている〉
◯「文政十二己丑日記」②79 五月朔日(『馬琴日記』第二巻)
〝画工英泉来ル。三月類焼前遣し置候ふろしき一枚、被返之。美少年録二輯さし画の事、板木師原吉、英
泉に宿恨有之、板元大坂や一致、彼是意味有之に付、右のさし画、北渓えたのみ候趣申聞ヶ、尚又、已
来大坂河茂板さし画の事抔、心得の為、内々及示談〟
〈英泉は板木師原田吉十郎とも絶縁状態のようだ。これも原因はよく分からない。大坂の河内屋茂兵衛は馬琴作・英泉
画の『松浦佐用媛石魂録』(文政十一年)後編の板元であった〉
〝大坂や半蔵来ル。過日、北渓に引付ケ遣し候謝礼也。(中略)且、英泉事、今日罷越候ニ付、画ハ北渓
えたのミ候段申聞〟
◯「文政十二己丑日記」②98 六月五日(『馬琴日記』第二巻)
〝画工英泉来ル。金ぴら船七編の画、ゑがき様相談の為のよし。今日、泉市へ罷越候よしに付、同書五よ
り八迄稿本四冊、右同人えわたし、今日、泉市へ届くれ候様、たのみ遣す〟
〈合巻『金毘羅船利生纜』(初編・文政七年(1824)~八編・天保二年(1831)迄。七編は文政十三(天保元年刊)すべて
英泉が担当している〉
◯「文政十二己丑日記」②115 七月五日(『馬琴日記』第二巻)
〝山口や藤兵衛より使札。殺生石後日三編の口画之事、画工英泉、今日迄之約束ニ付、取ニ罷来候処、無
拠用事出来、未画候よし、申之。段々延引ニ及候間、是より手紙遣しくれ候様、申来ル。四五日過、尚
又さいそくいたし可然旨、返事申遣ス〟
〈板元山口屋藤兵衛より馬琴の方が英泉に対する影響力があるのだろうか〉
◯「文政十二己丑日記」②126 七月廿一日(『馬琴日記』第二巻)
〝中川金兵衛来ル。右ハ、昨日英泉方より差越候よしニて、金ぴら船七編二・三の巻十丁、画被為見之。
此内、画工心得ちがひいたし、二の巻の内、八戒を岩さきに画キ候処有之。其外、不宜処一二ヶ処有之〟
◯「文政十二己丑日記」②132 七月廿八日(『馬琴日記』第二巻)
〝画工英泉、昼前来ル。予、対面。金ぴら船七編五より八迄画出来、見せらる〟
〝白砂糖壱斤被恵之。外に、頼み置候筆五本、持参(中略)北斎画水滸伝百八人像、過日英平吉よりかひ
取置候全一冊、今日、英泉え遣之〟
〈馬琴が北斎画を英泉に遣わしたのは参考にせよという意味であろうか〉
〝(『近世説美少年録』板元大坂屋半蔵)七月中より不出来ニて、打臥罷在候よし。右ニ付、美少年録二
輯さし画、北渓方より画キ不参、并ニ、板木師も埒明不申ニ付、其義のミ苦労ニいたし、病中日々申く
らし候よし。同人内儀申候趣、告之。并ニ、山口や藤兵衛方へ立寄、申付候口状申述候処、英泉方へハ
さし画折々催促ニ遣し候へ共、出来不申故、及(ママ)不覧ニ及び候よし。此方出来三之巻、両三日中、使
ヲ以、請取ニ参り候筈、藤兵衛申候趣、告之〟
〝大坂や半蔵、病中、画工不埒明事苦労ニ致候趣、きのどくニ付、渡部花山方まで其段申遣し、北渓方へ
伝へさせ、一日も(ママ)出来候様いたし遣し度思ひ候間、手紙認、今日、清右衛門へ申付、花山方へ届候
様談じ、もたせ遣す〟
〈板元にとって、国貞、英泉、北渓、なかなか意のままにならない存在のようだ。最も画工すべてがそういう訳でもな
さそうで、このころ、やはり馬琴作の合巻『風俗金魚伝』『漢楚賽擬選軍談』『傾城水滸伝』を担当した歌川国安は
順調に進行しているのか、督促記事は見あたらない〉
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p119(曲亭馬琴記・文政十二年)
〝己丑(文政十二年)三月廿一日類焼ニ付 当分芝浜松町三町め家主伊兵衛方同居 画工英泉〟
〝同(己丑)四月ヨリ 根津七軒町自身番隣家主利介 画工英泉〟
(翻刻者・柴田光彦注記〝森銑三「著作堂を訪うた人々」(昭和九年一月)によれば巻頭に英泉の短簡、
「大坂中屋伊三郎より細工人銅板摺煙草入地此度新製仕候よし、昨日到来仕候に付、御慰に奉御覧ニ入
候。御一笑可被下候、以上。英泉、上」の一通が貼付されているとあるが、今は亡佚してない〟由)
◯『馬琴書翰集成』①244 文政十二年八月六日 河内屋茂兵衛宛(第一巻・書翰番号-52)
〝画工英泉ハ類焼後、根津の縁者方へ参り居、片辺土ニて不都合の上、いろ/\俗事出来のよしニて、外
々の画も一向出来かね候。且、筆工書千吉抔は、何方ニ居候哉、今以しかとしれかね候〟
〈「類焼」とはこの年の三月二十一日の大火のことである。千吉は仙橘とも書く。英泉の口利きで馬琴の筆工に起用さ
れた〉
◯「文政十二己丑日記」②141 八月九日(『馬琴日記』第二巻)
〝森や次兵衛来る。予、対面。金魚伝後編催促也。且、国安事、当分本所三ツめニ在宅、遠方、且、こみ
合出来かね候故、画ハ英泉ニ可致哉之旨、不(ママ)及相談、初編を国安ニ画せ候事故、国安しかるべし。
英泉とても、画埒明かね候趣、申聞おく〟
〈国安は当時本所三ツ目に住んでいた。板元森屋次兵衛は、国安の住居が遠方で画稿等の遣り取りに効率が悪いこと、
加えて画注文が混み合っているという理由で、金魚伝の画工に英泉の起用をもちかけたのである。これを見ると、英
泉は板元に重宝がられているようである。しかし初編が国安であること、また英泉では〝埒明かね候〟と推測して、
馬琴は国安を選らんだ。ここのところの英泉の遅筆が馬琴の判断に影響したのだろうか。結局、文政十二年から天保
三年まで刊行された『風俗金魚伝』は国安が単独で画工を担当することになる〉
◯「文政十二己丑日記」②155 八月廿七日(『馬琴日記』第二巻)
〝画工英泉来ル。金ぴら船七編表紙外題の画写本出来、持参。一覧の処、画がら不宜候へ共、本写本かき
立候事故、その内少々直し候様、談之〟
〈〝画から不宜候へ共〟とあるが〝少々の直し〟で妥協したようだ。画工に対する要求の厳しい馬琴にしては珍しい〉
◯「文政十二己丑日記」②173 九月十八日(『馬琴日記』第二巻)
〝画工英泉来ル。泉市より被頼候金ぴら船初編より五編、袋入いだし候ニて、袋画稿乞ニ来ル。即刻、五
通り略絵稿筆之、英泉へわたし遣ス。今日、英泉、真書筆十一本持参。かねて頼置候故也。過日之【七
月廿八日なり】五本と共に五百三十二文。此代金壱朱と百廿文、今日、英泉へわたし遣ス。右両度分筆
代皆済也〟
◯「文政十二己丑日記」②184 九月廿九日(『馬琴日記』第二巻)
〝鶴屋嘉兵衛来ル。傾城水滸伝十編下帙稿本催促也。并ニ、根岸ニ売家二ヶ所有(二字ムシ)、過日英泉
申候よし、告之。此方清三郎地面地面借地之事、大抵規定、明日弥取極可申趣、申聞候へども、先、英
泉方へ罷越、承り合せ可然旨、達而申ニ付、嘉兵衛同道ニて、即刻英泉方へ差越シ、承り合せ候処、先
方世話人壱人松山稲荷へ参詣の留守のよし。又一ヶ処の定かならず、これハ、世話人池之端罷在候人之
よし。今夕、英泉実否可承旨、申候由也。左様ニ延々にハいたしがたく候故、不及其義旨、申断候よし。
夕七時過ニ宗帰宅、告之。嘉兵衛ハ門前より別去。尤無益之事也〟
〈明日には転居先を取り決めようという際どいタイミングで、英泉が売り家の話を持ちかけて来たのであった。馬琴は
なぜかそれに応じて、宗伯を英泉の許に遣わした。ところが世話人が留守であったり場所が不明であったりで埒が明
かない、英泉は夕刻再確認しようと言うのだが、これ以上は待てないということで、英泉の斡旋は断ったのである。
〝尤無益之事也〟とは馬琴の感慨であるが、しかし馬琴はどうして英泉を受け入れるのであろうか不思議でならない。
英泉は英泉で、どうして馬琴の世話をこんなにまで買って出るのであろうか〉
◯「文政十二己丑日記」②185 九月晦日(『馬琴日記』第二巻)
〝英泉来ル。昨日鶴屋嘉兵衛同道ニて、宗伯罷越、問合せ候根岸売居之事、昨夕池の端某方へ罷越、承糺
し候処、根岸百姓惣兵衛と申者より、某も承候よしニて、定からず(ママ)、一向ニ浮たる事ニ付、もはや、
土岐村借地之事、今日規定の積りニて、宗伯先方へ罷越候ニ付、かさねて承糺しくれ候に不及旨、及示
談〟
〈昨日の根岸の売り家の件、取次の必要なしと、馬琴は英泉に断りを入れる一方、この日、地主林清三郎の許に宗伯を
遣わし、手付け金十両を渡して普請の打ち合わせをさせた。しかし実はこの転居騒動、意外な方向に展開してゆく。
とても一件落着したわけではなかったのである。原因は馬琴の占いに対する強いこだわりにあった〉
◯「文政十二己丑日記」②187 十月 三日(『馬琴日記』第二巻)
〝英泉来ル。頼置候泉市潤筆前借之義、泉市承知の趣、并、根津七軒町かし寮之事、云云被報之。かし寮
の事、尚又、問合せくれ候様、たのみおく。今夕先方可申入旨申候而、帰去〟
〈根岸新宅の方角を占ったところ「太歳の憚り有り」ということで〟着工が延期になり、今度は英泉紹介の根津七軒町
「かし寮」の話が持ち上がった。しかしこの物件も方角が悪く取り下げになる〉
◯「文政十二己丑日記」②189 十月 四日(『馬琴日記』第二巻)
〝宗伯七軒丁へ罷越候節、英泉物語ニ、池の端の弁天より先の池畔にかし家有之、家ちん月壱両ニて、高
料ニハ候へ共、彼処にてハ、御宅よりとちがひ、方位異なるべく候へバ、御考之上、方位宜候ハヾ、か
り請進じ候様可仕旨、被申候よし〟
〈馬琴は方角占いから、神田にいたまま根岸の新宅を普請することが出来ないので、方位の叶った処に一時的に借宅を
設ける必要があった。最初、英泉紹介の根津七軒町の貸寮を検討したが、やはりこれも方角がよくなかった。また鶴
屋紹介の亀戸の売地も候補の一つにあがったが、嵩月が依然関心を示しているらしいこと、そしてまたこの住居では
宗伯が仕えている松前家への往来に難儀するという事情があって断念した。とはいえ根岸の新宅への手付金は既に渡
してある。いつまでも宙ぶらりんのまま着工を伸ばすわけにもいかないのである。そこへ英泉、今度もまた際どいタ
イミングで、上野池之端の貸家を紹介したのである。馬琴はこの池之端の貸家話にのる。ところが、六日になると、
根岸の家作は来年二月より取りかかったほうが〝年月の干支、宗伯生年ニ逆ハず、年月庚寅己卯、生年戊午甲寅也。
彼是ニ都合よく〟ということになって、結局、池之端借家は来年になると方位に支障があるということでご破算にな
るのであった〉
◯「文政十二己丑日記」②207 十月廿三日(『馬琴日記』第二巻)
〝先日、英泉噂に、通徳類情、岡田やニ有之、代金壱両弐分のよし申ニ付、右の本とりよせ候ハん為、ふ
ろしきもたせ、遣ス。然ル処、右通徳類情ハ代金弐両弐分のよし。直段相違ニ付、本不遣旨、返書ニ申
来ル。(中略)類情の代金ハ、英泉聞ちがへなるべし〟
〈『通徳類情』は中国清代の占い書。これも転宅の吉凶を卜するのであろう。英泉は馬琴の転居に全面協力だが、書籍
の代金を一両も聞き違えるなど、いささか心許ない〉
◯「文政十二己丑日記」②221 十一月七日(『馬琴日記』第二巻)
〝英泉来ル。予、対面。転宅延引之事物がたり、八犬伝七編四冊視之、且、ミのや甚三郎事等噂に及ぶ。
英泉、四大奇書之内、西遊記・三国志、払物のよしにて、一帙携来て、見せらる。西遊記は入用に候間、
泉市に申すゝめ、かひとらせ、此方差越し候様いたし度旨、談じおく。又、通鑑借書之事等も頼みおく〟
〈英泉は『南総里見八犬伝』七編の挿絵を柳川重信とともに担当していた。八犬伝は一昨日売り出されたが、その際、
板元美濃屋甚三郎は馬琴の校正を経ないまま無断で販売してしまった。その〝言語同断〟〝不埒〟(二日記)なる美
濃屋の振る舞いが話題になったのであろう。「四大奇書」とは『水滸伝』『三国志演義』『西遊記』『金瓶梅』。
「通鑑」は『資治通鑑』。英泉、今度は漢籍の斡旋である〉