◯「文政十年丁亥日記」①39 文政十年正月廿七日(『馬琴日記』第一巻)
〝日本橋名張や竹芳・尾張町英泉・芝神明前泉市、片門前豊広・かゞ町ミのや甚三郎・すきやがし真顔方
へ、為年始祝儀として(ママ)罷越候処、甚三郎・真顔は他行のよし、泉市も同断、(以下略)〟
〈この日、年始と祝儀のために廻ったのは、浮世絵師の渓斎英泉・歌川豊広、狂歌師の鹿津部真顔、板元の和泉屋市兵
衛、美濃屋甚三郎。名張屋竹芳は未詳。馬琴はこの春、読本『南総里見八見伝』六輯(板元・美濃屋)と合巻『金毘
羅船利生纜』四編(板元・泉市)を英泉の挿画で、読本『朝夷巡島記』六編(板元・須原屋茂兵衛)を豊広画で出版
していた〉
◯「文政十年丁亥日記」①45 文政十年二月九日(『馬琴日記』第一巻)
〝宗伯ヲ以、尾張町英泉方へ、端午かけ物料あやめ兜の図画稿壱枚、うら打唐紙、并ニ絵の具代等、もた
せ遣ス。八時比出宅、薄暮帰宅。但、武具訓蒙図会>一ノ巻、英泉へかし遣ス〟
〈宗伯は嫡男。馬琴は英泉に端午の節句用掛軸「あやめ兜」の絵を依頼したのである。武具訓蒙図会に拠って兜の図柄
を指示したものであろうか。武具訓蒙図会は『武具訓蒙図彙』(貞享元(1684)年・湯浅得之編)であろう。同月一日
に〝武具訓蒙図彙五冊、入用ニ付、携かへる〟とあり〉
◯「文政十年丁亥日記」①73 文政十年三月廿二日(『馬琴日記』第一巻)
〝画工英泉来ル、二月中たのミ置候あやめ兜の画本出来、持参。且、国貞雑(ムシ二字不明)之事、勧解
被申述。右之意味合、予も申述おく。其後、帰去〟
〈「勧解」とは和解の意味であるが、仲裁したのは英泉か。すると国貞と馬琴との間の紛争ということになるが、この
あと国貞が来訪して、忰孝貞の名弘書画会への参加を要請しているところをみると、そうでもなさそうである〉
◯「文政十年丁亥日記」①119 文政十年六月十一日(『馬琴日記』第一巻)
〝今日、五雲箋百枚、おみちへ遣ス。是は英泉よりおくられしもの也〟
〈五雲箋は最高級の雁皮紙。おみちは後に失明する馬琴の代筆をした嫡男宗伯の妻の路(みち)。この三月二十七日に
結婚式をあげたばかりである〉
◯「文政十年丁亥日記」①170 文政十年八月六日(『馬琴日記』第一巻)
(馬琴、明日の床上の祝。病気見舞いに訪れた人々に対して赤飯による返礼の記事あり。浮世絵師として
は唯一英泉の名があがる)
〈当時英泉は馬琴の合巻『金毘羅船利生纜』(泉屋市兵衛板)の画工を担当していた〉
◯「文政十年丁亥日記」①172 文政十年八月十日(『馬琴日記』第一巻)
〝英泉来る。御床上げ為御祝儀、醤油切手持参。
〈英泉の馬琴に対する病気見舞い等の心遣いは浮世絵師の中ではきわだっている〉
◯「文政十年丁亥日記」①176 文政十年八月廿日(『馬琴日記』第一巻)
〝大坂屋半蔵来ル。昨日英泉方ぇ罷越、委細談候由。且、英泉ぇ貸被遣候石魂録前編持参、返ル〟
〈「石魂録」とは『松浦佐用媛石魂録』。前編は文化五(1808)年、歌川豊広画、板元鶴屋喜右衛門で刊行。後編は来春
文政十一(1828)年正月出版、英泉画、大坂屋半蔵はその板元である〉
◯「文政十年丁亥日記」①183 文政十年九月四日(『馬琴日記』第一巻)
〝英泉来ル。石魂録壱之巻さし画弐丁写本出来、持参〟
〝英泉近所之貸本屋弟ニて、筆工いたし候者有之、過日鶴喜申上候者ニ御座候。今明日中上り候間、御教
諭、御取立被成下候様、申之〟
〈「石魂録」とは『松浦佐用媛石魂録』後編。八月廿日参照〉
〝筆工仙吉来る。鰹節一連持参。被為遊御逢、書体一々御教諭、石魂録筆工被仰付候間、節句前後参り候
様、被仰遣〟
〈この仙吉(仙橘)は、八犬伝の第七輯の筆工に筑波仙橘、第八輯に墨田仙橘として出てくる。「滝沢家訪問往来人名
簿」に〝丁亥九月四日初テ来ル 山下御門外筑波町河岸通り紺屋ト酒やの間の裏ニて 筆工書 本屋 丸屋吉右衛門
弟 仙橘〟とある。また天保四年(1833)成立の英泉著『無名翁随筆』(別名『続浮世絵類考』)では〝渓斎英泉門人
【俗称仙吉、向島、中本多ク、画作ヲ出セリ、筆耕ヲ業トス】〟と出ている〉
◯「文政十年丁亥日記」①185 文政十年九月七日(『馬琴日記』第一巻)
〝英泉使来ル。過日御約束御座候六樹園訳本排悶録三冊被見せ、銅板煙草入地壱枚、被恵。石魂録さし画
清水舞台之所不安(ママ)内、認兼候間、そのゝ雪拝借之事、頼来ル。則、二之巻壱冊、御貸被遣候〟
〈「六樹園訳本排悶録」とは、清人・孫洙著『排悶録』の原本に六樹園の訳と英泉画を加えた『通俗排悶録』のこと。
翌文政十一年、十二年に刊行される。英泉は馬琴の読本『松浦佐用媛石魂録』の画工を担当していたが、清水の舞台
の挿絵に手こずっている様子、その時「そのゝ雪」の二之巻に同舞台の挿絵があることを思い出したのであろうか、
その作者馬琴に、同図を参考にしたい旨申し出たのである。その英泉の清水舞台の挿絵は「後集巻之二」に載る。そ
のもとになった読本『園の雪』の清水舞台は北斎画で、版元角丸屋甚助・文化四年(1807)刊。なお英泉は同月十一日
返却している〉
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p117(曲亭馬琴記・文政十年十月十一日)
〝丁亥(文政十年)十月十一日初入来英泉紹介 榊原遠江守殿家臣湯嶋七軒町(上)中やしきに在り 雪麿
事 田中源治〟
(貼紙)
〝口上 雪麿
先達而画工英泉御宅ぇ罷出候節 御話申上候志賀随翁の手紙為御一覧持参仕候 己(ママ)上〟
(貼紙・馬琴筆)
〝随翁手帋伝来 牧野新左衛門ひまご 當時 牧野新介
同 持主ハ 岡嶋但見
榊原遠江守殿家臣 雪丸事 田中源治〟
〈通常、馬琴は未知の人には面会をしないが、雪麿には英泉の紹介があった。ただ馬琴が英泉を通して雪麿に面会を許
したのは、雪麿に興味があったというより、雪麿が仲介できる志賀随翁の真跡に関心があったからだと思われる。英
泉は馬琴の興味関心のアンテナ役を果たしたのである〉
◯「文政十年丁亥日記」①210 文政十年十月廿七日 (『馬琴日記』第一巻)
〝画工英泉来ル。氷砂糖壱曲、被恵之。八犬伝口絵御注文。御要談数刻、帰去〟
〈この年、英泉も重信と共に『南総里見八犬伝』第七輯の挿絵を担当していた〉
◯「文政十年丁亥日記」①216 文政十年十一月九日(『馬琴日記』第一巻)
〝画工英泉来る。石魂録五丁之下巻さし画壱丁、直し出来、指越〟
◯「文政十年丁亥日記」①217 文政十年十一月十一日(『馬琴日記』第一巻)
〝雪麿事田中源治来ル。先達而、英泉より、志賀随翁真跡所持之人有之、同藩雪麿ト申者持参、入御覧度
旨、私迄頼候間、罷出候ハヾ、御逢被下候様申上候ニ付、今日逢有之〟
〈雪麿は戯作名墨川亭雪麿。「滝沢家訪問往来人名簿」には〝丁亥十月十一日初入来英泉紹介 榊原遠江守殿家臣湯嶋
七軒町(上)中やしきに在り 雪麿事 田中源治〟とあり、ちょうど一ヶ月前に英泉の紹介で対面したばかりである。
雪麿が持参した「志賀随翁真跡」の随翁は、大田南畝の『一話一言』巻四十九に〝春毎に松のみどりの数そひて千代
の末葉のかぎりしられず 藤恕軒志賀氏随応行年百有余歳〝と書き留められた長寿で有名な人であった〉
◯「文政十年丁亥日記」①237 文政十年十二月廿日(『馬琴日記』第一巻)
〝(お路を以て、お遣いの帰路)尾張丁英泉ぇ、御書翰被遣。所要は、殺生石さし画注文也。使、昼前帰
来。英泉今日此方ぇ罷越候趣、御返事不来〟
〝英泉来る。為手土産、白砂糖一袋・かも折詰、持参。於御書斎、御逢。殺生石さし画御示談後、薄暮帰
去〟
〈合巻『殺生石後日怪談』の初編は初代豊国画で文政七年の刊行。豊国は文政八年に没しているから、英泉に画工の仕
事が回ってきたのである。「殺生石」の出版経緯については『馬琴日記』第一巻の十一月十三日の記事参照〉
◯『馬琴書翰集成』①206 文政十一年正月三日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-40)
〝『雪譜』之事、此節彫刻いたし度と申板元、有之よし、去冬十二月中、画工英泉参り、被申述候。板元
たしかなるものニ候ハヾ、追々可致す相談旨、申談じ置候〟
〈渓斎英泉も『北越雪譜』(鈴木牧之著・初編・天保七(1836)年刊)出版の引き受け先を探していたのである。しかし
これも不調に終わる〉