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「曲亭馬琴資料」「天保九年(1838)」 ◯ 二月 六日『馬琴日記』第四巻 ④302 〝芝神明前泉屋市兵衛、九時過年始礼来る。例の如く、年玉三種の内、金弐百疋、被贈之。且又、金瓶梅六 集潤筆内金四両持参、受取畢。金瓶梅五集、三千五百許うれ候に付、新板四集迄も三千餘すり出し候よし、 告之〟〈合巻『新編金瓶梅』の挿絵、当時は歌川国貞(後の豊国三代)が担当していた〉 ◯ 二月 六日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-3)⑤13 〝(『絵本三国志』)右画工の事、第三編ニ葛飾戴斗 トあれバ、桂窓子ハ云云被申候へども、前の北斎 也と 思召候よし。それハ乍憚、思召ちがひニて可有之候。後の北斎 ハ、俗称近藤伴右衛門ト云、麹町平川天神 前、高家衆京極飛騨守殿家臣也。文化中、金七両ヲ以、その師ニ葛飾北斎戴斗 の名号を譲りうけし者是也。 この後、前の北斎 ハ為一 と称し候。これらニて御了然たるべき歟。その画の拙、彼近藤伴右衛門ならバ、 さこそと致想像候〟〈『絵本通俗三国志』(池田東籬亭校正・葛飾載斗画・天保七年~十二年刊)の画工葛飾戴斗を、小津桂窓は「前の北斎(為一)」 と勘違いしていたのである〉 ◯ 二月二十一日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-5)⑤17 〝「上方板役者見立八犬伝錦画」四枚つづき、御投恵被成下、忝奉存候。被仰示候ごとく、只今ハ京・大坂 共ニ、ケ様之ものも巧ニ成り、をさ/\江戸にまがひ候。この画工貞信 ハ、国貞 の名の一字をとり候哉と 存候。御蔭にて、視聴をなぐさめニ、画帖ニはり入可置候。万々奉謝候。且又、右「上方板八犬伝見立の 錦画」、多く江戸へ差越シ、正月下旬の頃より、処々小うり店ニて売り候。ケ様之事前未聞、畢竟『八犬 伝』流行の勢ひに従ひ候事ニ可有之候。然ル処、にしき画・さうし類ともに、色ざしニ金を用ひ候事、上 方ニてハ御かまひなく候へども、江戸は寛政中よりきびしき官禁ニ御座候。依之、右の錦画、何人が引受 候而、処々小うり店へ売渡し候哉。行事の改を不受にうり候品ニて、此間、草紙改名主より吟味有之、草 紙問屋行事、並に引受候而売渡し候当人、しば/\呼出され、売止之上、証文をとられ候。あまり『八犬 伝』流行故、かやうの義も出来いたし候〟〈長谷川貞信画「見立犬山道節忠與 中村玉助」「見立河鯉権佐守如 三枡源之助」の二枚続と「見立犬阪毛野胤智 中村歌右 衛門」「見立かなめの前 中村富十郎」の二枚続の計四枚。天保八年、大坂の板元天満屋喜兵衛から出版されたもの。江戸で は禁止されている金が摺り込まれた豪華版である〉
「役者見立八犬伝錦絵」 長谷川貞信画 (絵師「貞信」・外題「八犬伝」と入力すると画像がでます) (早稲田大学・演劇博物館浮世絵閲覧システム 新規検索) ◯ 六月二十八日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-6) ◇ ⑤24 〝「八犬伝錦画」、故御舎弟琴魚子賛ある残り弐枚、当三月出板いたし候間、早速かひ取置候。これも今便 ニ差出し候。これにて四枚揃ひ候也〟〈この「八犬伝」は、一勇斎国芳画の『曲亭翁精著八犬士随一』。天保二年八月の計画、以来、板元西村屋与八の経営難もあっ て出版は非常に遅れ、天保七年四月に八枚の内四枚、同八年六月に二枚、そしてこの三月に残りの二枚が出版されて漸く揃っ たのである〉
「曲亭翁精著八犬士随一」 一勇斎国芳画 (館山市立博物館蔵・八犬伝デジタル美術館) 〝閏四月中、市村芝居ニていたし候、「八犬伝狂言錦画」もかひ取置候。是亦今便ニ差出し候。近来、紙こ との外高料のよしニて、錦画の価いたく登り候。「八犬伝」残り弐枚の分ハ、おろし直段壱枚三分づゝ、 又芝居ニていたし候錦画ハ、おろし直廿四文づゝに御座候〟〈「閏四月中、市村座芝居」とは「歳戌里見八熱海」。これに取材した「八犬伝狂言錦画」の卸値が二十四文。一方「八犬伝」 (国芳画「曲亭翁精著八犬士随一」)の方は一枚三分の卸値。この三分は金三分ではなく、大坂通用の三分であろうか。する と、一分は一匁の十分の一で十文とされているから、三分は三十文に相当する。天保九年(1838)七月朔日、小津桂窓宛(第五 巻・書翰番号-8)書翰よると、「八犬伝狂言錦画」の小売値は三十二文、「曲亭翁精著八犬士随一」の方は四十八文で売り 出されている。不審なのは、馬琴が「曲亭翁精著八犬士随一」の卸値になぜ「文」ではなく「三分」を使用したかである。な お「八犬伝狂言錦画」は国貞画のものが確認できる〉
「歳戌里見八熱海」 五渡亭国貞画 (早稲田大学・演劇博物館浮世絵閲覧システム 新規検索) 〈なお立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃データベース」の「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」は、外題を「戌歳 里見八熟梅」とする〉 ◇ ⑤30 〝(「八犬伝」九輯下帙、筆工金川、多忙の由にて一向に出来ず、代わりに音成という筆工に依頼するも) 何分ニも字をしらず、大杜撰人ニて、毎行悞字多く、且脱字脱文も多く、此板下校合ニ七八日のいとまを 費し、やう/\無疵ニいたし候。(中略)画も重信 ハ多病、且不実等閑の本性ニて出来かね候間、半分ハ英泉 ニ画せ候。画ハ両面ニてもよろしく候へ共、筆工ニハこまり果候事ニ御座候〟〈九輯下帙の筆工は谷金川の他に白馬台音成。画工も従来の二代目柳川重信の他に渓斎英泉が担当した。なお、天保九年七月朔 日、小津桂窓宛((第五巻・書翰番号-8)⑤39)に同記事あり〉 ◯ 七月 朔日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-8) ◇ ⑤36 〝「八犬士錦画」、西村やニて、先年より追々ニ出板の残り弐枚【毛野大角】当三月出板いたし候間、早速 買取置候。是ニて、八枚不残揃ひ候也。(中略)錦画の紙イヨマサ、甚高料のよしニて、価前々とハ一倍 に成り、西与のハ壱枚おろし直三分づゝ、小うり店ニてハ四十八文づゝニうり候よし。役者画ハ、おろし 直壱枚廿四文づゝ、小うり店ニては三十二文づゝにうり候へども、よくうれ候よし〟〈西村屋与八板『曲亭翁精著八犬士随一』(歌川国芳画)の最後の二枚は「犬阪毛野胤智」「犬村大角礼儀」これの小売値が四 十八 文。なおこの「八犬士錦画」の出版時期を整理すると、以下のようになる。 天保七年三月刊 四枚 「犬飼現八信道」と「犬塚信乃戌孝」の「芳流閣屋根上の場」 「犬江親兵衛仁」「犬田小文吾悌順」 天保八年六月刊 二枚 「犬川荘助義任」と「犬山道節忠与」の「円塚山の対決」 天保九年三月刊 二枚 「犬阪毛野胤智」「犬村大角礼儀」〉
「曲亭翁精著八犬士随一」 一勇斎国芳画 (館山市立博物館蔵・八犬伝デジタル美術館) 〈またここにいう「役者画」とは、閏四月から市村座で興行していた「八犬伝狂言」の「錦画」で、国貞画の「歳戌里見八熱海」な どをいうのであろう。これの小売り直が三十二文〉
「歳戌里見八熱海」 五渡亭国貞画 (早稲田大学・演劇博物館浮世絵閲覧システム 新規検索) ◇ ⑤37 〝只芝居のミならず、髪結床の長のれん抔、八犬士を画キ候もの、此節十三軒有之。其内七軒ハ、馬喰丁辺 ニ有之。又その内、あづま橋辺の床のハ、大のれんハ細画ニて、目をおどろかし候よし。ある人の話也。 多くハ芳流閣の処、此外もあり。十ニ八九ハ国芳 画のよし、見たるものゝ話ニ御座候。此余、煙管の毛ぼ りニも、八犬士を彫刻いたし、らを一本の価五六匁のものあり、真図浴衣地にも染出し、表紙のもやうの ごとく、丸の内ニ雛狗を多く染出し候もの流行のよし、丁子やの話ニ御座候〟 ◯ 九月 朔日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-10)⑤46 〝俳優松本幸四郎、当月五日物故いたし候。中村玉助も、当七月死候よし。両人とも死後の錦画国貞 画キ、 致出板候。幸四郎ハ七十五才トあれども、午ノ生年なれば、七十七才なるべし。大立物ながら敵役ニて、 且老人ナレバ、その錦画多くうれずと云。玉助ハ上方役者なれども、江戸に久しく居たれば、江戸にて死 後の錦画出たり。是ハよくうれ候と云〟 ◯ 十月十一日 『滝沢家訪問往来人名録』下p130 〝戊戌(天保九年)冬十月十一日 太郎入門 覚重同道紹介 市谷本村町藤州御画師宋紫石跡楠本雪渓 同万里〟〈この楠本雪渓は宋紫岡。初代雪渓・宋紫石の孫で二代雪渓・宋紫山の子。嘉永三年(1850)没。画風は沈南蘋派で花鳥画を得意 とした。尾張藩の御用絵師。太郎は馬琴の孫。父親は宗伯だが、天保六年に亡くなっていた。覚重は馬琴の女婿で絵師でもあ る渥見覚重(画名・赫州)。覚重は宋紫岡の父である宋紫山に画を習ったのかもしれない。〝市谷本村町藤州御画師〟の「藤 州」は不審。「尾州」の間違いではないのか。尾張藩邸(戸山屋敷)は市谷にあったからだ〉 ◯ 天保九年(1838)十月二十二日 殿村篠斎宛(第五巻・番号-11)⑤52 〝先月上旬歟、丁子や板ニて、『増補外題鑑』といふ小刻一冊出板いたし候。是ハ、両面摺ニて『外題鑑』 といふ物、丁子屋旧板ニ有之、それを為永春水ニ増補致させし也。近来のよみ本類を集録したれど、撰者 疎漏ニて、上方板よミ本その外も、もらし候も少からず。(馬琴作品への春水記事の誤りを具体的に挙げ る、中略)只々丁子屋板ト、春水己が作と、懇意の作者の斗、身を入れて注し、世の看者を盲にせし也。 (書名・戯作名の誤りを挙げる、中略)かゝるあやまり、枚挙にいとまあらず。かくわろくハいふものゝ、 疎漏ハ疎漏なるに、よミ本を好む人の為にハ、近来の書名を見るに足りて、重宝にならぬにもあらず候へ バ、近日『八犬伝』の新本差出し候節、右『外題鑑』も一本同封いたし、御本宅ぇ可差出候。価ハ正味三 匁のよしニ御座候。その書、かし本やぇ多くうれ候と申候キ。後編ハ中本類ニて、明年続出のよしニ御座 候。この春水ハ、越前屋長次郎也。佐々木氏ニて、ふる本の瀬どりをいたし、かたハら軍書よみの前座ニ 出、且中本類の作をし、夫婦かすかにくらし候。丁子屋のふところ小刀ニ候間、丁平ハつねに中本の作者、 只この人第一人也と申候。しかれども、去年中本に猥褻の事を禁ぜられ候故、当冬ハ誨淫の事を除キ候故、 中本ハさらにうれずと申候。(以下略)〟 ◯ 十一月二十六日 丁子屋平兵衛宛覚(『馬琴書翰集成』第五巻・番号-14)⑤58 〝 覚 一 金五両也 右は、『絵本天神記』、我等作・古人北尾重政 画にて、金五冊五拾張余之写本、貴殿ぇ売渡し、右代金 前書の通、慥に受取申候。為念仍如件。 戌十一月廿六日 滝沢篁民(「滝沢」黒印) 丁子屋平兵衛様〟〈天保八年(1837)二月三日、林宇太夫宛(第四巻・書翰番号-78)④278参照。丁子屋はこれを出版した形跡はない。国文学研究 資料館の「日本古典籍総合目録」には見あたらない。あるいは書名を変えたか〉