Top           浮世絵文献資料館          曲亭馬琴Top
              「曲亭馬琴資料」「天保八年(1837)」  ◯ 二月 三日 林宇太夫宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-78)④278   〝昔年、私本屋にたのまれ、『絵本天神記』といふ物をつゞり出し、画と筆工ハ古人北尾重政にて候が、と    し久しく画工方にて滞り、近来北尾病没前、やう/\板下出来仕候処、板元不如意にて彫刻成かね、潤筆    の代りに右五冊の板下を、私へ置候処、その板元も死去いたし候故、右の板下はひめ置候。これハ板下に    て、世上一本の品故、直段以の外高料に御座候故、御用には達がたく候半。もし右の板下本、御覧可被遊    思召ハヾ、貴君迄貸進可仕哉、此段、まづ伺ひ奉り候〟    〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」に『絵本天神記』はない。この板下は伝わっているのだろうか。天保九年(1838)     十一月二十六日付、丁子屋平兵衛宛覚(第五巻・番号-14)によると、馬琴は『絵本天神記』の写本を五両で丁子屋平兵衛に     譲渡している〉  ◯ 三月十日 林宇太夫宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書簡番号-85)④292   〝拙作半紙本上紙摺り合巻 絵草紙    『画本義経千本桜』合巻二冊     是は「千本桜」の狂言を、歌川豊国似がほ画に画き候ものにて、文は「千本ざくら」のままなり。私か     き入れ仕候ものに御座候〟    〈「日本古典籍総合目録」によると、馬琴作・豊国画の合巻『義経千本桜』は文政二年(1819)刊行〉      ◯ 四月二十二日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-88)④315   (『北越雪譜』出版の件)   〝『雪譜』の事、二十年斗已前、著述を野生にたのまれ、雪中の図説など百十数丁、書写しておこされ候。    (中略)然ル所、野生年々に、よみ本・合巻の著編に迫れ、且一足も踏ざる遠方の事を、人のいふに任せ    てつゞりちらし、誤ありて朽をしく候間、約束はいたしながら、稿本出来かね候間、年々催促頻りなれば、    是非なく右之著述は、四五年前及断候。依之、牧之大に望を失ひ、ふりかえて京山にたのみ候。京山は机    上いとまある人なれば、輒くうけ引候て、自分の著述にせずに牧之の著にいたし、謬あらんことを思ふ故    に而、京山は校閲の様にいたし候。是は骨を折らずに、謬ありても自分の失にせざる為也。画は京山二男    京水にかゝせ候よし。(中略)両三年已前、京山廿年ぶりにて拙宅ぇ参り、序を乞候へ共、思ふよしあれ    ば断り候て、序はつゞり遣し不申候。心あての板元も無之よしに付、序の代りに板元を引付遣し、則『八    犬伝』の板元丁子屋にてほり立候つもりにいたし候。(中略)牧之の宿望、京山によりて成就いたし候故、    彼人を神仏のごとく尊信いたし、来翰の度々、牧之より被申越候。田舎児の老実千万なる事と存候。右の    さし画は未見候へども、細画なるべく候。京水武清の弟子にて唐画のよし、その画は未見候。小児の時    見候歟、いかなる人物に成候哉。京山の愛子のよしにて、去秋も父子同道にて、越後に罷越候処、逗留中    牧之病臥、且年がらあしく成候故、怱々にしてかへり候よし(下略)〟    ◯ 五月 九日『馬琴日記』第四巻 ④299   〝上紙ずり合巻は、実に世に稀也。予、秘蔵といへども、旧冬以来、散財多く、財用に匱しく、依之、多く    沽却し畢。意中察すべし〟    〈「上紙ずり合巻は、実に世の稀也」とはどういう意味であろうか〉  ◯ 七月十二日『馬琴日記』第四巻 ④299   〝予旧友、三宅内渡辺登弟渡辺五郎、此節流行の時疫にて、昨十二日死去、今朝送葬のよし。国次郎噂にて    初て聞、駭嘆限なし。登事、画名崋山也。兄弟八人の内、此度にて、四人早逝す。五郎は、五六才より養    育いたし、学問いたさせ、画はみづからをしへ、養子に可致、存候哉の所、享年廿二才にて早逝、尤哀悼    すべし〟  ◯ 八月十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-94)   ◇ ④340   〝(『北越雪譜』)下ノ巻に、『としなミ草』の作者を、吾山としるし有之候。是ハ京山が暗記の失と存候。    直しおかれ候様奉存候。画ハ京山二男京水、弱冠ながら、かねて存候よりでかし候。但シ、雪の図多く候    故、甚さみしく、且画張をいとひ候故、細画のミニて、いづれも目先かハらで、遺憾に候〟    〈『としなミ草』は『北越雪譜』には『年浪草』とある。「日本古典籍総合目録」は『としなみ草』を似雲の歌文集とする。吾     山は俳人越谷吾山か〉   ◇ ④340   〝「八犬伝人物上摺大錦画」、六月中額蔵、荘介二枚つゞき弐枚、出板いたし候。かねて後約束ニ付、是亦    かひとり置候間、今便同封中ニ加入、差出そ候。いろざし十九遍かゝり候故、すりニひま入り、一日に五    六十枚ならでハ不摺候処、多くうれ候間、すり間ニ不合候て困り候よし、板元申候キ。価ハ新板の方、百    枚ニ付三匁、古板ハ弐匁五分のよしニ御座候。古板の方も、一ト通り御入用のよし、先年被仰越候様ニ覚    候間、則新板三通り〆六枚、古板壱通り四枚、右拾枚差上候〟   〝但シ、「八犬伝人物上にしき画」新板の方、忠与の与を知にあやまり有之候。一字御はりけし、御直し被    成置可被下候〟    〈「八犬伝人物上にしき画」とは西村与八板『曲亭翁精著八犬士随一』(歌川国芳画)。「額蔵、荘介二枚つゞき弐枚」そして     「忠与」とあるから、これは「犬川荘助義任」(額蔵)と「犬山道節忠与」の「円塚山の対決」を画いた「二枚続き」であろ     う。これで八枚のうち六枚が発売になった。残りはあと二枚。ただ「百枚ニ付三匁」がよく分からない。誤記か。三匁は三十     分で三百文。百枚では一枚三文になり、「壱枚卸値三分づゝ」(三十文)という卸値と合わないからだ。(天保九年(1838)七     月朔日付小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-8)参照)次いでに云うと、同書翰ではこの「八犬伝」の小売値は四十八文である。     またこの時代の「役者絵」は三十二文の由である〉
     一勇斎国芳画「曲亭翁精著八犬士随一」(館山市立博物館蔵・八犬伝デジタル美術館)      ◯ 八月十一日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-96)④348   〝「八犬伝上にしき絵」、先年上候四枚の外、当夏又弐枚出板いたし候間、求め置候。御約束ニ付、弐枚此    便りニ上候。色ざし、ことの外多く、十九遍かゝり候と申候。それ故、並大錦の一倍高料候へども、たけ    のしれたる事ニて、大かたハ先板の趣ニ御座候。但シ、忠与の与の字、知ニあやまり候。御直し置可被下    候。此板元西村や、弥零落いたし、盆前ニハ戸ヲサスとかいふ風聞有之、いかゞいたし候哉、その後の事    ハ不聞候。さあらバ、あと二枚出板心許なく、をしき事ニ御座候。うり出しの節、すり間ニ合不申、多く    出候よしニ御座候〟     〝『越後雪譜』三部、夏中出板いたし候。被成御覧候哉。越後牧之作のつもりニて、実ハ京山の文、画ハ京    山ニ男京水ニ御座候。この書、久しく牧之ニたのまれ候へ共、さるいとま無之故、四五ヶ年前に、無拠著    述を断り候ニ付、牧之切かえて、京山にたのミ候。京山ハ自分の著述ニせず、代作いたし候ものニ御座候〟    〈『越後雪譜』は鈴木牧之著『北越雪譜』〉    ◯ 九月二十四日(十月二十二日、小津桂窓宛書翰(第四巻-書翰番号98))④356   〝(馬琴作の愛読者で三千石の旗本・石川左金吾(畳翠)より招待を受け、九月廿四日、来訪した時、その    席上にて)武清・武一父子合筆の画、寿星の上に蝙蝠あり。このきぬ地の画賛を、おなじ頭に乞れて、席    上狂歌      福禄をいく世かさねていやたかきくすしのかしら長いきの君    など申出候キ〟    〈喜多武清・武一父子の画く福禄寿に蝙蝠の図、この肉筆絹地に馬琴が狂歌の画賛を認めたのである〉      ◯ 九月廿五日『馬琴日記』第四巻 ④300   〝足利義尚とし十六七と注文書いたし遣し候所、重信未熟にて、四五十才の面体に画がき、犬江親兵衛素袍    の紋所は、先日迄注文に告之候処、そのかひなく、元のまゝに画き、差越候間、両様とも直し候様、付札    いたし(云々)〟    〈八犬伝の挿画、馬琴の意のままにならないようである〉    ◯ 九月廿七日『馬琴日記』第四巻 ④300   〝金襴純(ママ)子、京織新制、八犬伝□□(ママ)八犬士を織り出し裁を以て、石川殿、たばこ入に被成候を見せ    らる。八犬伝流行、すべてかくの如し〟    〈京都の織物業者が制作した八犬士を織り込んだ金襴緞子、これを石川左金吾がたばこ入れの布地にしたというのである。石川     左金吾は、木村黙老の『戯作者考補遺』所収「曲亭馬琴小伝補遺」の項に、馬琴門人〝琴籟【麻布古川なる御旗本石川左金吾、     畳翠と号す。書画をよくすといふ】〟とある。本高三千石の大身。木村黙老や殿村篠斎・小津桂窓等と同様、馬琴作品の批評     グループである〉