Top           浮世絵文献資料館          曲亭馬琴Top
              「曲亭馬琴資料」「天保七年(1836)」  ◯ 正月六日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-34)   ◇ ④130   〝去秋中得貴意候、雪丸作『濡燕栖傘雨談』前後二編十巻、去秋中より稿本借り置、折々夜分、半冊づゝ披    閲いたし候処、とかく倦候故、四五十日にてやう/\閲し終り候。作者ほね折候様子ニハ候へ共、何分あ    さまにて、驚奇の巻も無之候。殊ニ文字を使ふに苦労いたし候と見え、唐山の俗語の切り抜キ、拙作のよ    ミ本中よりとり出し抄録いたし、部わけでもいたし置候哉、俗語の字ハ悉く似せ候へども、その内ニハ原    書ニよらぬ抄録故、大ニ使ひざまの義理たがひ候事、間有之候。なれども、かねて存候より、文字も少々    はある仁ニて、春水の作抔よりはるかに立まさり、浅はかながら、好キ所も御座候。何分拙序を看板ニ出    され候事、難義ニ候間、度々辞し候へ共、免れがたく候間、前編の序、漢文ニて旧臘下旬、急ニ綴り立、    当月二日ニ丁子屋ぇ遣し候。本文ハ前後二編共彫刻出来、改も済候よしニ付、拙序彫刻出来次第、近々う    り出し可申候。二三月の頃ハ、御地へも本廻り可申候。尤難義の細工ニ候へども、丁子やに口説れ、義理    にからまれ、せんかたなく候〟    〈他人の作品には序跋の類を一切書こうとしなかった馬琴にしては、「八犬伝」の板元丁子屋の頼みには抗しきれなかったもの     と見える。とはいえ、作品の質が悪ければ、いくら板元の頼みとはいえ、断るくらいの気構えはあっただろうから、この雪麻     呂の作品に、馬琴は及第点を与えのだろう。それにしても、馬琴の春水嫌いは徹底している。別に雪麻呂との比較の為に春水     の名を出さずともよさそうに思うのだが……〉     ◇ ④135   〝去年大坂ニて出板の「八犬伝にしき画」大折本、当日桂窓子より噂聞および、見たく思ひ候へども、高料    のよしニ付、黙止候処、旧冬大坂板元より、見せ本一本参候よし、丁子屋よりかして見せ候間、望を果し    候。尤、板すりも、江戸より彼地ニ至リ、渡世致し候も有之候へども、上方細工ニしてハ、奇妙ニよく出    来候。惜しいかな、色ずりニて、しかも金摺も有之、江戸にてハ御制禁ニ候間、うり物にならず、縦内々    にて売候ても、江戸は錦画甚廉候故、高料にてハうれまじく候。かへす/\も、あたらしき事ニ御座候〟       〈「金摺」もあるという、天保六年板、上方の八犬伝錦絵の画工は誰であろうか。またよく分からないのは、    大坂では金摺が出版可で、江戸では禁制で出版も発売もできないという、江戸町奉行と大坂町奉行の姿勢    の相違だ。どうしてこのような違いが生まれるのであろう〉       ◯ 正月六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-35)④140   〝去年大坂ニて出板の「八犬伝錦画」折本、其節貴兄より御噂承り候処、旧冬大坂自板元、丁子やぇ見せ本    一本差越し候よしニて持参、致一覧候。上方細工ニハ奇妙によく出来候。乍然、いろずり・金摺等ハ、江    戸にて禁忌故、売買不成候。をしき事ニ御座候〟      ◯ 正月六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-36)④143   〝雪麻呂作『濡燕栖傘雨談』前後二編十巻、右稿本を、去秋中丁子屋よりかりよせ、夜々休筆の折、四五丁    づゝ披閲いたし候故、意外ニ長く成、旧冬十一月中、やう/\よみをハり候。作者ほね折候様子ニ見え候    得ども、何分あさまにて、目に付候新奇無之候。唐山の俗字を使ふに、ことの外苦心いたし候と見えて、    唐山俗字ハ、みな拙作のよミ本中よりきりぬき候と見え候。そが中に、原書に渉らぬ抄録故、いたく義理    のちがふ事ありて、きのどくニ候。なれども、かねて存候より、文字も少々ハある仁ニて、春水などより    はるかに立まさり、まれにはよき事も候。是に序文をかゝせらるゝ事、何分難儀に候へども、丁子屋に義    理合有之、竟にのがれがたく、旧冬大晦日前ニ、前編の序ヲ急ニ綴り、当正月二日ニ遣し候。本文ハ前後    二編とも、彫刻出来のよしニ付、拙序の彫刻出来候ハヾ、近々うり出し可申候。後編の序も、引つゞき綴    り可申候。二三月比ハ、御地へも本廻り可申候。出候ハヾ、かりて可被成御覧候。御求め被成候ほどの物    ニハ無之候〟    ◯ 正月十四日『馬琴日記』第四巻 ④289   〝葺屋町芝居、此節外題看板出候よし、風聞。狂言は曾我也。八犬伝を合組候よし。名題看板、上層の所に八    犬伝の事ありといふ。見る人俗物にて、不心得故に、未詳〟    〈市村座の曾我物と八犬伝とを組み合わせたという芝居は「富士霞和合曽我」。但し「大名題出せし処故障ありて(云々)」で     実際には上演されなかったようだ。(立命館大学アート・リサーチセンター「江戸歌舞伎興行年表」より)〉    ◯ 正月廿一日『馬琴日記』第四巻 ④290   〝八犬伝九輯中帙、弥盛に行はれ、製本五百部に及び候よし。大坂とても、二百部にて足らず、追注文申来    候よし、被申聞。但、大坂中の芝居春狂言、八犬伝の処、批評出来延引のよし也。申年に、犬の狂言不宜    などいふ俗忌によるといふ〟     〈この芝居は「花魁莟八総」であろう。二月朔日、小津桂窓宛書翰(番号37)参照〉     ◯ 二月 朔日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-37)④145   〝大坂中の芝居、いよ/\「八犬伝」ニて看板上り候よし、御しらせ下、承知仕候。異日、右の狂言本御手    ニ入候ハゞ、御めぐミ被下候様、奉希候〟    〈この「八犬伝」の芝居とは大坂中座の正月狂言「花魁莟八総」であろう。三月二十八日付、殿村篠斎宛書翰(番号43)に狂言     番付と狂言絵本を入手したとある〉
     春梅斎北英画「犬塚信乃 嵐璃寛」(東京都立中央図書館「貴重資料画像データベース」)     〝当地葺屋町市村座も、正月十五日比、曾我の外題看板上り、いよ/\「八犬伝」のよし。国貞画の肖づら    にしき画、犬飼現八に海老蔵、毛乃ニ菊五郎ニて、毛乃ハ女の姿の処、此間出来出板、処々小うり見せニ    出し有之よしニ御座候へども、金つかへのよしニて、いまだ始り不申候。江戸大坂同時ニ「八犬伝の狂言」、    頗一奇ニ御座候。右之狂言本出候ハヾ、かひとらせ、異日進上可仕候〟     〈この曾我狂言は『富士霞和合曽我』。しかしこの芝居は興行するまでに至らなかった。二月朔付、宛名を    欠く書翰(番号40)参照〉    ◯ 二月 朔日 小津桂窓宛(再白)(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-39)④148   〝聞人嗣子不幸の条、頭書追加    北尾政美ハ、後ニ一家の画風を興して、越後侯に徴れ、月俸十口を賜りて、鍬形紹真と姓名を改めにき。    しかれども子なし。養嗣にて相続したり    これら、要緊の事ならねども、原本ニ有之候故、御追写被成置可被下候〟    〈これは『近世物之本江戸作者部類』「画工之部」追加記事である。鍬形赤子は紹真の実子ではなく養子〉    ◯ 二月朔 宛名闕(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-40)④149   〝ふきや町芝居、「八犬伝」の看板あげ候所、海老蔵・きく五郎、役不足ニてもみ合、延引いたし、「八犬    伝」の看板、みなおろし候よし、只今及聞候。畢竟、きく五郎大人しからず、一人ニてよく役をつとめん    といひしによれり。えび蔵、木挽町ニて、壱人ニて「八犬伝」をするといふよ、風聞なれば、虚実詳なら    ず候へども、看板おろせし事ハ相違なし。仕かけ等無益ニ成り、金主大損のよし、聞え候〟       ◯ 二月六日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-42)   ◇ ④152   〝『江戸繁昌記』の事被仰越、承知仕候。四編も、旧冬出候を求候て見候。かりたくの編ハ、春画本ニ彷彿    たるものニ御座候。いかに銭のほしけれバとて、あまりの事の様ニ存候。乍然、文章ハいよ/\奇妙ニ御    座候〟    〈寺門静軒の『江戸繁盛記』(天保三~七年(1832~36)に対する馬琴の評価。吉原借宅の記述は「春画」を彷彿させ品性に欠     ける、しかし文章は一風変わって珍しいということのようだ〉            ◇ ④154   〝当春、葺屋町芝居ニて、曾我狂言ニとり組、「八犬伝」をいたし候よしハ、先便ニあらまし申述候キ。正    月廿五日前より、名題看板其外、追々かん板上り候ニ付、国貞画のにしきゑ、毛乃ニ菊五郎女形の処、現    八に海老蔵に二枚つゞき、又、伏姫ニきく五郎、金碗大輔ニえび蔵、但し、いづれも曾我時代の本名有之。    右にしき画抔、うり出候処、きく五郎一人ニて、よき役のミいたし候ハんといふにより、えび蔵役不足ニ    て、あらそひ出来。依之、「八犬伝」ハやめ候よしニて、右の看板、不残とりおろし候。仕かけ・道具立    等、多く出来候処、止メニ成候故、金主の損ニ成候〟    〈同年三月二十八日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-43)④165)には〝市村座ニて、「八犬伝狂言」延引ニ成候ハ、もめ合     のミニあらず、申年に犬の狂言ハ不宜とてやめ候よし、人々申候故、一笑いたし、申年に犬の狂言忌ムならば猿若いかに戌の     年はと口ずさみて、亦復自笑いたし候ひキ〟ともある〉    ◯ 三月 三日『馬琴日記』第四巻 ④290   〝八犬伝九輯下帙、十三・十四の巻の内、さし画の壱、各壱丁、重信より画写本出来、見せらる。然る所、    画きやう悪しく、多く本文と相違に付、川の幅ひろく、両人の賊左右へ引わけ、画き直し候様、下げ札い    たし、右写本并に稿本、丁子屋使へわたし、且、口上も申示し畢〟    ◯ 三月 九日『馬琴日記』第四巻 ④291   〝大坂中の芝居、当春八犬伝狂言番付・同絵本等、被贈之〟    〈「花魁莟八総」である〉     ◯ 三月廿日『馬琴日記』第四巻 ④292   〝大坂八犬伝狂言、一覧の処、仙台騒動をとり込、甚出来のよし。番付狂言本、被贈之〟       ◯ 三月二十八日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-43)   ◇ ④158   〝当春、大坂中之芝居、二の替り「八犬伝狂言番付」并ニ「狂言絵本」御打恵被成下、忝奉謝候。右着之比    は、何方よりもいまだ不参、走りニて、一入大悦、大ニなぐさめ候事ニ御座候〟    〈この正月狂言は「花魁莟八総」。二月朔、小津桂窓宛書翰(番号37)参照〉     ◇ ④159   〝楊舟画鹿の義、云々被仰示、承知仕候。右に付、『咫聞録』披閲いたし度、早春より処々の書林吟味致し    候処、何方ニも無之候。あれバ弐百疋の価のよし。此節、本払底と申事ニ御座候〟       ◇ ④164   〝先年、故弟琴魚子代作之賛いたし候、「八犬伝のにしきゑ」板元にし村屋、身上不如意ニて、久しく彫刻    不出来、去年ハ既に戸を建候様子の処、やう/\借財ヲ年賦いたし、商売とりつゞき居候ニ付、此節、右    「八犬伝にしきゑ」、八枚之内四枚彫刻出来、三月節句比、校合ニ差越し候間、早速校合いたし遣し候処、    いかゞいたし候哉、あと四枚幕つかへ歟、今に沙汰無之候。不残出板いたし候ハヾ、二通、松坂御本宅迄    可差出候。久しく成候事故、御案内の為ニ得貴意候也〟    〈この「八犬伝にしきゑ」とは歌川国芳画の「曲亭翁精著八犬士随一」。板元西村屋与八がこの企画を馬琴の許に持ちこんだの     天保二年のこと。(同年六月廿七日記参照(②379))。 以来、西村屋与八の台所事情が悪化したため遅延していたのである。     今回出来上がったのは、「犬飼現八信道」と「犬塚信乃戌孝」の「芳流閣屋根上の場」、「犬江親兵衛仁」「犬田小文吾悌順」     の四枚。以後、天保八年六月に「犬川荘助義任」と「犬山道節忠与」、天保九年三月に「犬阪毛野胤智」と「犬村大角礼儀」     が刊行される。天保八年(1837)八月十一日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-94)と、天保九年(1838)七月朔日、小津桂窓宛    (第五巻・書翰番号-8)を参照)〉    ◯ 四月 十日『馬琴日記』第四巻 ④292   〝重信より、十五の巻さし画のみ出来(中略)右さし画の二に、稿本に無之傘画き有之、過日見おとし、今    日心づき候に付、右傘は本文に不合、甚不宜候間、傘をはりけし、画のつなぎをつけさせ、彫刻にいたし    候様、つけ札いたし(云々)〟    〈二代目柳川重信の『南総里見八犬伝』挿画、折角のアイディアも、馬琴からすると、いらざる差し出口〉         ◯ 五月 六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-45)④170   〝大坂中の芝居弐ノ替り狂言「八犬伝」の趣向・巧拙、あらましを御しらせ被下、忝奉存候。好ミ候人へも    申聞、大ニ慰め候ひき。右番付・狂言本御めぐミ被下候御礼ハ、先便ニ得貴意候間、文略いたし候。今の    璃寛ハ嵐徳三郎主丞、綽号を目徳とやらんいふ役者ニて、十年許前、江戸へも参候ものニ候哉、今の中村    富十郎ハ、金蔵といひし、のしほの子ニ候哉、一向不通ニて、わかりかね候。先便黙老子より、大坂書林    敦賀屋九兵衛伴頭東七とやらん手紙、「八犬伝の狂言」、此もの、三日つゞけて三度見候よし、誉詞の長    文見せられ、致想像候キ。大入ニて外聞も宜く、大慶之事ニ御座候〟
     春梅斎北英画「犬塚信乃 嵐璃寛」 「犬川額蔵 関三十郎」      (東京都立中央図書館「貴重資料画像データベース」)     〝大坂中の芝居三の替り狂言番付・狂言本御投恵被成下、遠方御厚情、忝奉存候。しば/\熟覧、大ニなぐ    さめ申候。伴作ハ関三本役ニ候処、蝦十郎替りをいたし、評判よく候ニ付、ゆづり候よし。右にしきゑ、    二枚御めぐミ被下、是亦珍物、同好の友ニも見せ、大悦不少奉謝候〟    〈市川蝦十郎の犬塚伴作役とある。この大坂中座の狂言も正月に引き続き『花魁莟八総』か。この錦絵も春梅斎北英のものと思     われるが、どうであろうか〉     〝当地木挽丁芝居ニても、「八犬伝狂言」をいたし、四月廿四五日比より初日のよし、右番付、并ニ狂言画    本、御慰ニ致進上候。一向無人の芝居ニて、殊ニ春の「八犬伝狂言」延引故、諸人勢ひぬけ候故歟、一向    ニ評判不聞及候。岩井半四郎ハ、先月上旬死去いたし、三津五郎ハ廃疾ニて打臥候よし。海老蔵一人ニて、    殊に夏芝居に候へバ、はか/\敷事有之まじく候。丁子や、同道いたし可申よし申候へども、歩行不便故、    舟轎もわづらハしく、見る心無之候。何かつまらぬ物ニ作りかゑ候様ニ見え候。なまじいなる事かなと、    にが/\しくぞ候〟    〈大坂の「八犬伝」狂言は盛況のようであるが、江戸の方は正月興行の延引に引き続き、夏芝居も不評であった。この芝居は森     田座の「八犬伝評判楼閣」〉
     五渡亭国貞画「八犬伝評判楼閣」(「外題」に「八犬伝評判楼閣」と入力すると画像がでます)      (早稲田大学・演劇博物館浮世絵閲覧システム 新規検索)    ◯ 五月十五日(『著作堂雑記』237/275)   〝木々の落葉といふ写本随筆やうの物に、英一蝶が遠島になり候訳は、或一諸侯甚だ記憶悪く、諸侯の面    を見識候事成りがたく、難儀の由一蝶へ咄候得ば、夫は心易き事とて、一蝶右の諸侯の供を致し、御城    へ参り、諸侯方の面貌を写真に致し候てまゐらせ候へば、殊の外歓び候処、右の儀聞伝へ候他の諸侯よ    り、我も我もと頼み参り、段々画き遣候に付、御役人の聴に達し、甚不届のよしにて、遠島に被処候由    有之候、行状先後考合せ候に、此説実事とも候哉、右抄録彼是取集一冊と致候て、近々致進上可申と心    掛居申候、    右は讃州高松家宰木村黙老手簡、丙申二月十九日の状中に申来候処、同年五月十三日到着、右の答書に    予云、英一蝶謫居の事は、英一蝶当時御庫門徒なりし故なりと、口碑に粗伝へたり、しかるにその木々    の落葉に載する所、又一説なり、虚実孰れか是なるをしずといへども、尚珍説といふべし、申五月十五    日記〟    〈「木々の落ち葉」という随筆に、一蝶の流謫は大・小名に頼まれて彼らの肖像(写真)を画いたこと、そこが原因だという記     事があるらしい。高松藩家老の木村黙老がそのことを、馬琴に書状で伝えてきたのである。それに対して、馬琴は、一蝶の流     罪は一蝶が禁制の宗派、浄土真宗の異端派・御蔵門徒であったからという言い伝えがあることを、黙老に示すと共に、「木々     の落ち葉」の記事も又一説なりとしたのである。要するに、一蝶の遠島処分が何に拠ったものなのか、依然として虚実不明の     ままなのである。ところでこの御蔵門徒説であるが、一蝶の墓がある承教寺顕乗院は日蓮宗、こちらの禁制宗派だとすると不     受不施派になるのだが……〉      ◯ 六月二十一日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-46)④175   〝今般致進上候「八犬伝上にしきゑ」ハ、六七年許已前、西村屋与八頼ニて下画出来、略伝綴り遣し候。但    し、己が著を、みづから賛いたし候もいかゞニ付、琴魚子、其比ハ在世故、則琴魚子の代作にいたし置候    へども、西村や、近来身上むつかしく、シバらく店の戸をさしやり、借財済方年賦ニいたし、商売取つゞ    き候仕合故、右錦画も、板下のまゝにてうち捨置候処、当春より又思ひ起し、八番の内四番彫刻出来、近    比売出し候也。それ故、犬江親兵衛の略伝抔、不都合の事御座候。但し、並之錦画より彫刻・すりとも、    ことの外入念候故、直段も並の大錦より倍高料に御座候〟    〈歌川国芳画の「曲亭翁精著八犬士随一」。八枚のうち四枚が発売になった。三月二十八日付、殿村篠斎宛書翰(番号43)参照〉        ◯ 六月二十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-48)④180   〝古児肖像、花山子より五月上旬一周忌前、やう/\出来、被差越候。褙裱の間ニ不合候故、篗ニかけ候ま    ゝ、床の間ニ建候て、逮夜より祀り候〟    〈渡辺崋山画「滝沢琴嶺像」。棺桶の蓋を開けて容貌を観察し、火葬後には頭蓋骨を調べて描いたとされる琴嶺(馬琴の長男宗     伯)の肖像画である〉
     渡辺崋山画「滝沢琴嶺像」(フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」渡辺崋山の項目)     ◯ 六月二十二日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-49)   ◇ ④183   〝六月一日、西久保熊野権現の祭礼の大行燈の画も八犬士のよし、畳翠君、近習の画キ候者ニ写させて、書    くれられ候。これハ英泉筆のよしニ御座候。又、鍛冶橋外髪結床の長暖簾へも、貞秀画ニて、芳流閣組打    の処を画キ候よし。かやうのもの、処々ニ有之候趣、聞え候〝    〈「八犬伝」流行は歌舞伎から祭礼の灯籠や髪結床の暖簾にまで及んだのである。これらに英泉や貞秀らが起用されている。浮     世絵師の仕事は木版画に留まらない。こうした祭礼用から日常調度用まで請け負って画いたのである。これらは一過性のもの     或いは消耗品であるが、浮世絵師の仕事の中でも重要な分野であろうと思われる。しかしその性格上、現代に伝わらないのが     難点で、評価のしようがないは残念である。畳翠君とは三千石の旗本である石川左金吾。殿村篠斎、小津桂窓、木村黙老等と     ともに、馬琴作品の批評仲間で、馬琴四友の一人とされる〉     ◇ ④184   〝先便も得御意候「八犬伝錦画」、八番の内四番、四月下旬出板いたし候。是ハ五六年前、西村屋与八頼ニ    て、画工并ニ略伝をつゞり遣し候節、自分の著編に擬し候錦画へ、みづから書ちらし候もいかゞニ付、琴    魚様代題ニいたし候趣ハ、その比御両君へ得御意候ひき。当時ハ琴魚子在世の折候処、星霜やゝ過去り候    て、只今出板、代作ながら、御令弟御かたみのひとつニも候へば、御秘蔵なさるべく哉と奉存候ニ付、則    石大錦画四枚、進上仕候。かねてハ、琴魚様分とも二通り、差出し候様被仰示候得ども、彼人帰泉の上ニ    候へバ、一ト通り遣し候也。尤、並の錦画とちがひ、彫刻・すりとも、極細密に手をつくし、何がしと申    すり師に申付、すらせ候よしニ付、代料ハ並のにしきゑより一倍に高料ニて、小うりニてハ、よほど高直    ニうり候よしニ候へども、当今の人気ハ価の貴キを不厭候て、花美を好ミ候上、流行の最中故、多くうれ    候よしニ御座候。あと四番出候ハヾ、又々進上可仕候。とくト御覧可被下候。但し五六年前につゞり遣し    候物故、犬江親兵衛の略伝抔、五六編迄之処ニて、只今は不都合ニ成候得ども、今さら不及是非候〟    ◯ 七月二十六日 『滝沢家訪問往来人名録』下p127   〝右同断(丙申(天保七)年)同廿六日訪之    築地増山河内守殿家中  唐画師  南溟    〈春木南溟の父は南湖。春木南湖は『東京掃苔録』に〝谷文晁と天下の二老と称される〟とある〉     ◯ 八月 四日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-51)④192   〝「八犬伝錦画」、致進上候御厚礼之御書面、致痛却候。うり出し、当分すりの間合不申くらゐの事のよし、    板元西与申候。当今の人気、高料ハ不厭候て、とかく花美の品を好候事と被察候。泰平久しき故ニ、良賤    奢侈ニ走り候。和漢同一致の人気、ほむべき事との不覚候。大坂ニて「水滸伝の極細密錦画」出板いたし、    目を驚し候よし、黙老より被申越候。いかゞ、いまだ不被成御覧候哉。画工ハ北英とか申ものゝよしニ    御座候。彫工・板ずりの名迄あらハし有之と申事ニ候へバ、よほど入念候品と察せられ候也〟    〈この「八犬伝錦画」とは六月二十二日送付した『曲亭翁精著八犬士随一』(歌川国芳画)である。また、大坂出版・北英画     「水滸伝の極細密錦画」とは、春梅斎北英画「戯場水滸伝百八人之内」であろう。江戸の役者絵を見慣れた高松藩家老木村黙     老の目をも驚かしたというから、極細密の水準にはかなり高いものがあると、馬琴も推測したのだろう。以下、この書翰は八     月十四日の馬琴の古稀を祝う書画会の記事へと続くが、書画会記事は八月六日付殿村篠斎宛書簡(第四巻・書翰番号-52)に     従い、ここでは省略した〉
     春梅斎北英画「戯場水滸伝百八人之内」      (「収蔵資料/錦絵/絵師・画工で探す・しゅんばいさいほくえい」で検索する)       ◯ 八月六日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-52)④196   〝拙齢古稀賀会之義、七月廿九日とトシ候へども、盆前後ハ、世話人多務ニて行届かね、且配り物書画等も    間ニ合不申候故、八月中旬ニ致し可然旨、泉市・丁子屋等申ニ付、任其意、則八月十四日ト相定申候。当    今ハ摺物を略し、配り物に心を用ひ候方、流行のよしニて、世話人等取斗ひ、三種にいたし、      上 画賛ふくさ一幅づゝ      中 画賛扇二本づゝ      下 長寿盃箱入猪口也(盃の図あり)【金采ヤキツケ】    右三種、不残進上仕度奉存候へども、扇子ハ道中荷重ニて不便也。猪口ハ必砕け損じ候ハん。依之、服紗    一幅、当春御祝被下候御答礼として、進上仕候。     (中略)    弟子多き文人ハ、年毎に書画会興行の人々も、少からず候得ども、野生ハかゝる事嫌ひ候故、是迄発起不    致候処、丁子屋等に強てすゝめられ、無是非この仕合及候。立入候事ながら、前書之仕入、ふくさ弐百枚、    扇子五百本、猪口七百許、この余雑費、五六十金ニ及び候よし。五月上旬より取かゝり、七月廿五日より    会ぶれの為、江戸中廻勤、十日あまりもかゝり可申候。野生ハ歩行不便故、駕籠にて両三日罷出、そ    の余ハ親類共を名代ニ出し候。かゝる折にハ、雅友より俗人の方、たのもしきものニて、拙作を一たびも    彫刻いたし候書賈ハさら也。さもなきも打まじり、画工は国貞国直をはじめ、日々かハる/\ニ差添、    廻勤いたし候。世話人、酒飯の費も少からず、当日の入用迄ニハ、百金ちかくかゝり候半。折あしく凶年    ニて、人気いさましからず候へども、今さら延引も成がたく、かゝる勢ひニ候へども、実入りの処、いか    ゞ可有之哉、心配なきにあらず、損だにせねバ幸ひ也と存居候事ニ御座候。書画会抔いへバ風流に似て、    実ハ利の為にすなる大俗事なれば、うらはづかしく候へども、是も亦渡世の一助ニ候へバ、不及是非候。    右件の事ニて、六月下旬より、著述ハ休筆ニて、只この事のミに日をおくり候〟    〈馬琴の古稀の賀会は当初七月二十九日を予定していたが、泉市や丁子屋等世話人の多忙と配り物の手当が間に合わないため、     八月十四日に延期になった。その配り物の「画賛ふくさ一幅」の画師は沖一峨。『吾が仏の記』には「服砂地に唐画師一峨・     墨画の松と亀」とある。一峨は〝抱一門人ニて、両国薬研堀ニ住居いたし罷在候。当今被行候よし。董斎懇意ニ付、丁子やよ     りあつらへ候て、画せ候也〟とある。(天保七年八月四日付、桂窓宛(第四巻・書簡番号-51)④195)また、天保七年十月     二十六日付、篠斎宛の書簡には〝一蛾の事、御尋被成候。御答申候。此画工ハ、抱一門人ニ御座候。只今ハ、両国薬研堀ニ居     宅いたし、相応ニ被行候。野生ハ是迄面識ならず、董斎懇意ニて、賀会ニ付、はじめてちかづきニ成候。年三十余の男子也〟     ともある。((第四巻・書翰番号-65)④225)『滝沢家訪問往来人名録』によると、この書簡を認めた翌八月七日、一峨は     馬琴を訪問している。董斎は松本董斎。『吾仏乃記』は「白扇百扇は書家董斎に誂へてそが写字を以す」と記す〉    ◯ 八月 七日『滝沢家訪問往来人名録』下128   〝同(丙申(天保七年)八月七日)両国薬研堀 画工 一峨    〈一峨は馬琴の古稀の賀会の配り物「画賛ふくさ一幅」を担当した絵師。沖一峨〉     <鳥取県立博物館 山下 真由美「沖一峨における画風の多様性について」〝江戸時代後期に江戸の地で活躍    した沖一峨(1796~1861)は、鳥取藩の御抱え絵師として知られる。一峨は鍛冶橋狩野家の門人でありな    がら、狩野派のみならず、琳派・やまと絵・写生派・文人画など多様な画風を示す作品を多く遺している>    ◯ 八月 七日『滝沢家訪問往来人名録』下128   〝同(丙申(天保七年)八月七日)右同所(下谷三枚橋辺)長谷川雪旦〟    ◯ 八月 七日『滝沢家訪問往来人名録』◇下p128   〝同(丙申(天保七年)八月七日)同所(下谷、山本緑陰)隣家 蹄斎北馬〟    ◯ 八月十四日『馬琴日記』第四巻 ④293   〝今日、賀宴当日に付、朝五半時より、駕籠にて、両国柳橋万八楼へ赴く。太郎は、次郎同道にて、引つゞ    きあとより可参旨、申付置。先、回向院地嵯峨清涼寺釈迦仏開帳に参詣いたし、直ちに万八楼へ罷越、駕    籠の者元八等をかへし畢。丁平・泉市等をはじめ、世話人(二字文空白)平林・西与・鶴や嘉兵衛等、既    に来会せり。親類には、清右衛門・覚重等、既にあり。此外、中川金兵衛等、枚挙に暇あらず。董斎は袴    羽折也。四時頃、太郎・次郎来る。太郎は継上下、二郎は袴羽折也。四半時頃、お百、お路、おきくを携    へ、きのを召つれ、おさき、お次同道にて来る。終日の来客、凡六百人許也。尤盛会と云。御旗本衆は、    隣家橋本喜八郎殿御子息・山本宗洪殿等也。委細別紙意帳面にあり、略之。夕七半時前、太郎をはじめ、    家内の婦人おさき・お次・おきく等、先帰去。予は、六半時過、二郎をめしつれ、退去。但、駕籠のもの    元八等、暮六時過迎に来る。則、またせ置き、又駕籠にて、五時過帰宅。二郎は、此方へ止宿〟    〈馬琴の古稀を祝う書画会当日の日記である。世話人は江戸の板元、丁子屋平兵衛、泉屋市兵衛・平林庄五郎・西村与八・鶴屋     喜兵衛(喜右衛門)と錚々たる顔ぶれ。滝沢清右衛門・渥美覚重(画号・赫洲)は馬琴の女婿。中川金兵衛は筆工。董斎は書     家・松本董斎、この日の配り物である扇子の書、その半分を担当した。古稀を記念して画いた長谷川雪旦の肖像画と馬琴の自     詠をあげておく〉
     巌岳斎雪旦画「滝沢馬琴肖像並古稀自祝之題詠」(早稲田大学「古典籍総合データベース」)  ◯ 八月十四日 馬琴、古稀の書画会 於両国万八楼   (十月二十六日、殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-65)④221)   〝十四日ハ早朝より尤美日にて、一朶の雲一吹の風もなく、地上ハ洗ひ流し候て、四時比より、草履にて歩    行たやすく候ひキ。是全く天助ならん抔、人々申候て、歓び候ひキ、扠、十三日の風雨、右之通りニ候ひ    し故に、世話人等もあやぶミ候歟、膳ハわづかに三百人前あつらへ候処、出席の賀客七百余人、世話人そ    の外を加へ候てハ、八九百人集会いたし候故、万八にてハ庖厨大さわぎいたし、亭主ハ飯をたき、女房・    媳婦、膳椀の洗かた抔いたし、家内一同食餌のいとまもなく、終日立はたらき候よし。万八主人、始て飯    たきをいたし候とて笑ひ候よし、後に聞え候。されども、馴たる事とて、あつらへ候ハ三百人前候処、八    九百人前の膳碗を、よくも間ニ合せ候もの哉とて、人々感じ候事ニ御座候。乍然、夕方ニ及び、かへりを    急候ハ、飯の焚畢るを待かね候て、不啖して帰去る者も有之。又押着なる者ハ、肴札を二枚も三枚も掠め    とり、みやげの肴を多く包せて、懐にして迯去りしも有之候。刀番ハ殊ニ大切の役故、心利たるをえらミ、    三人附置候故、紛失物もなく争論もなし。この義、第一の幸ひニ御座候。世話人廿余人、各々職事あり。    取持人七八人、接上下にて走り廻り候。只今の流行のよしニて、酌取りの芸子五人を、終日やとひ候て、    酌をとらせ候。此芸子にのミ、壱両三分弐朱の費用かゝり候。是等、会主の意ニあらず候といへども、世    話人等の計ひニ候へバ、不及是非候。御存もあるべく候、万八楼ハ柳橋第一の大楼にて、中座敷四十畳、    前後三十畳、并ニ十畳も二間有之、通計百十畳あまりの座敷へ来客居あまり、後にハ縁頬へ立出て、膝を    合せてをるもあり、下座敷へも大勢罷在候故、立錐の席も無之候ひキ。二十年来、如此盛会ハなしと、万    八楼主人申候よしニ御座候。昔年、天民と誰やらと組合候て書画会の比、五六百人の来客あり。又鵬斎が    一世一代の大会のときも、六七百人出席いたし候へ共、此度のハなほまされりといひしよし、異日払金を    受取ニ来候折、万八の手代の話也と云。当日の光景、是等にて御想像可被成下候。外ニてハ、時節がら、    妙ならざるの会ニ候へバ、いかゞあるべきなどゝいふて、あやぶミ候人々多かりしが、此光景を見て駭嘆    せしと也。実に外聞不歹、僥幸ニ御座候。    一、当日、会主ハ十徳、嫡孫已下取持人ハ接(カミシモ(衣偏+上)(衣偏+下))也。来会の聞人ハ、    ◯儒者ハ     東条琴台  大郷信斎  菊池五山名代  大久保天民同    ◯書家ハ     松本董斎  関根江山  関金三      其外、高名ならざるハ略之     ◯画工 本画ハ     長谷川雪旦  有坂蹄斎【今ハ本画師になれり】  鈴木有年【病臥ニ付名代】     一蛾  武清  谷文晁【老衰ニ付、幼年の孫女を出せり】  谷文一  南溟     南嶺  渡辺花山    ◯浮世画工ハ     歌川国貞貞秀等弟子八九人を将て出席ス】  同国直  同国芳  英泉  広重  北渓      柳川重信      此外、高名ならざるものハ略之。    ◯筆工     中川金兵衛  嶋田道友【此両人ハ取持人也】    ◯狂歌師     芍薬亭長根  梅の屋カキツ  竹屋白酒 此外多くあり、略之    ◯戯作者     柳亭種彦  烏亭焉馬  墨川亭雪麻呂  同梅麻呂      東里山人  為永春水  山東京山【父子ともに湯治の留守ニて不出席】      この外、名の高からざるハ略之。    ◯落語家     林屋正蔵【その徒五六人と共に出席】    ◯和学者ハ交らざる故に不出    ◯紳搢家ハ     石川畳翠君【近習を名代】  屋代弘賢  山本法眼  山本升高君    ◯御本丸女房某【めしつかひの女を使とす】    ◯留守居ハ  帝鑑の間  雁の間  菊の間     右一席より惣名代として一両人づゝ出席。    ◯薩州家老伊貝氏    ◯板木師ハ 朝倉伊八  桜木藤吉  植田守  此外大ぜい出席。    ◯板屋両人 表紙問屋両人    ◯江戸中書林 不残    ◯地本問屋 不残    ◯かし本やハ 一組ニて、惣名代一人づゝ出席。    ◯紙問屋もよほど出候。     この余ハ、士民打混じて、七百余人出席、膳札・肴札共ニ、通計千百八十四人前仕出し候。     酒、三樽ニて不足故、又半樽、急ニかひ入候。    ◯当日祝義、もくろくより合せ、〆百拾両余の収納也。     此内、金七拾六両許、諸雑費さし引、わづかに三拾五両余、会主の手取ニ成候。     十四日已後、おひ/\におくられ候もよほど有之、八月下旬迄、又拾四五金あつまり候へども、過半世     話人ぇ謝礼などいたし候故に、全くの処四十余金、会主の有益にて御座候。是等楽屋内の事、御秘し可     被下候。     (中略)    ◯会の当日に、席上ニて被頼候扇面百本あまり、この余、きぬ地ふくさなど多く有之。みな携帰りて、異     日三日ばかりに書て遣し候。六月より八月下旬迄、三ヶ月を費して大骨を折て、身入りハわづかに右の     ごとし。かゝれバ、賀会をせずに、著述に精出し候方、宜しかりしにと、後悔の気味も有之候へども、     世上の評判ハ大造ニて、当分ハ鳴り不止候と云。(下略)〟        (天保七年十一月五日付、林宇太夫宛書簡には、この日の参加者を以下のように記している。(第四巻・書    翰番号-68)④241)   〝 儒者ハ    琴台【東条文左衛門】  信斎【大郷金蔵】  大窪天民  菊地五山     本画師    谷文晁【老病に付、名代として孫女を遣し候】  谷文一【文晁孫】  渡辺花山    有坂蹄斎  南嶺  南溟  鈴木有年  長谷川雪旦      一峨【この外従(泛々カ)の画工は、しるすにいとまあらず】  文晁弟子両三人も出候     書家    関根江山  関金三  松本董斎【この余、高名ならぬ画家をわすれ候。五六人も出候ヒキ】     浮世画師    歌川国貞貞秀等五七人の高弟を倶して出候】  英泉  同国直  同国芳    歌川広重  柳川重信 葵岡北渓 〔後ノ北斎載斗〕     戯作者    柳亭種彦  山東京山【湯治ニ罷越、欠席】  墨川亭雪麿  同梅麻呂 〔笠亭〕鯉丈     為永春水  東里山人  烏亭焉馬【此外高名ならぬハ略之】     歴々家    石川畳翠子【近習を以て使者とす】  屋代広賢翁  山本法眼  山本升高(卯亭)子     ◯此外    江戸草紙問屋 不残出席    同書林不残 紙問屋五六人    表紙(布袋)屋両人 安兵衛・長左衛門    板木屋棟梁 朝倉伊八・桜木藤吉・横田守行     此外のもの、大勢参り、立はたらき候。    板すり 右同断、立はたらき候。      落語家    林屋正蔵 その徒五六人     狂歌師    芍薬亭長根  梅の屋カキツ  六竹園白酒【此外、泛々(従者)のともがら略之】     武家にてハ    薩州家老伊貝氏  同家中司馬叟    雁の間留守居   三十一人名代壱人出席    帝鑑の間 同   二拾人 名代壱人    菊の間  同   六人(三人カ) 名代壱人    大広間  同   何人か〔忘れ候〕〟       (天保八年四月二十日付 鈴木牧之宛(第四巻・書翰番号-87)④297)にも、八月十四日の記事あり。    出席者の名前のみ載せておく)   〝儒者に琴台【東条文左衛門】・信斎【大郷金蔵】    詩人、菊池五山・大久保天民    書家、松本董斎・関根江山・関琴山・文鳳女史【此外、中くらゐの書家、略之】    本画師、谷文晁【老衰、歩行不便ニ付、幼年の孫娘出席】・同文一・渡辺花山・一渓・有坂蹄斎        南瞑(ママ)・南嶺【此外、中くらゐの唐画家、略之】 鈴木有年    戯作者、烏亭焉馬・東里山人・墨川亭雪麻呂・柳亭種彦【此外、中くらゐの作者多く出ヅ、略之】    浮世画工、歌川国貞【弟子多く同道】・歌川国直・歌川国芳・葵岡北渓・         後ノ北斎【此外、中くらゐの画工ハ略之】    狂歌師、芍薬亭・梅の家かきつ・六竹園白酒・梅丸【此外、中くらゐの狂歌師ハ略之】    名家、交山・サンセウ    落語家、林家正蔵【門人十人引つれ出立】    官医、山本宗洪殿・山本宗瑛殿    薩州家老伊貝氏 雁の間大名留守居衆三十人【惣名代三人】 菊之間留守居【二十人、惣名代壱人】    大広間留守居十人【惣名代壱人】    江戸書林不残 地本問屋不残 紙問屋十人許    表紙屋安兵衛・同長左衛門 板屋金八 板木師棟梁二人【伊八、守九】    是等を宗徒の客として、来会の人々、都て七百人余也〟       ◯ 十月 六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-59)④209   (馬琴所蔵の書籍及び書画の売却リスト。書画以外省略)   〝一、芙蓉  碁仙図    金壱分弐朱    一、波響  三谷堀の図  金弐分    一、金陵  梅ニ雀      一、鶴陵  蓮に翡翠二幅 金壱分    一、冬映画 大黒 吾山賛 金弐朱    一、白隠書 天満宮    金弐朱    一、十二匁ニかひ入候ヲ引く      『きほひざくら』  金弐朱    一、壱分ニかひ入、一朱引      元禄よし原遊君画像 金三朱〟    〈馬琴が所蔵していたのは、鈴木芙蓉・蠣崎波響・金子金陵・「鶴陵」は金子金陵の子か・冬映は未詳・白隠禅師。『きほひざ     くら』は馬琴が『燕石雑志』(文化七年刊)に「きほひさくら 全一冊折本なり/綉梓の書肆/奥村源八郎政信画/発兌の年     月日詳ならず」「宝永の年間の絵本にしてきほひ桜と題す。図する所の猛者すべて十余人、将門純友にはじまりて金平入道を     巻尾とせり。金平が祝髪の図は、画工の滑稽歟。これらを見ても当時の流行をしらん」と解説したもの。「元禄よし原遊君画     像」は未詳〉        ◯ 十月二十六日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-65)   ◇ ④225   〝一蛾の事、御尋被成候。御答申候。此画工ハ、抱一門人ニ御座候。只今ハ、両国薬研堀ニ居宅いたし、相    応ニ被行候。野生ハ是迄面識ならず、董斎懇意ニて、賀会ニ付、はじめてちかづきニ成候。年三十余の男    子也〟    〈八月十四日の馬琴古稀の賀会、沖一蛾は配り物の袱紗の絵を担当した。董斎は書家松本董斎。この人も配り物の扇子〝三千本     ばかりに候まゝ、私一筆にてハ手廻りかね候間、半分ハ書家董斎にかゝせ候〟とあり、書を担当した(十一月五日付、林宇太     夫宛(書簡番号68))〉   ◇ ④231   〝「八犬伝にしき画」の事、云々御頼被仰越候処、外より御もらひ被成候ニ付、求上ゲ候ニ不及旨、承知仕    候。あと四番出板いたし候ハヾ、早々二通り差出し候様被仰示、承知仕候。乍然、板元西与、身上甚むつ    かしき様子ニ候間、引つゞきて彫刻出来かね候。依之、いつ比出板とも料りがたく候。多くハ、あれ切り    にて可有之哉と存候事ニ御座候〟    〈「八犬伝にしき画」とは『曲亭翁精著八犬士随一』(歌川国芳画)。家運の衰えた板元西村屋与八には、残り四番を一挙に出     版する資力がなかった。実際残りは天保八年に二枚、同九年に二枚づつの出版となった〉     ◇ ④232(「八犬伝」九輯下帙)   〝九月中旬に至り、やうやく右の綴り残しを果して、下旬にハ附言・惣もくろく・口画等迄、不残稿し遣し    候処、画工重信養祖鈴木氏病死ニ付、又画ニて幕つかへ、口画ハ今に一枚も出来不申候〟    〈この重信は二代目(始め重山、馬琴は重政と呼ぶ)。その養祖父鈴木氏とは初代柳川重信の父にあたる〉      ◯ 十一月 三日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-67)④236   〝先月下旬、丁平病中ながら、駕籠にて拙宅ぇ参候而、談じ候ハ、『八犬伝』のうり出し、当年の荒凶にて、    十二月に至り候てハ、捌方不便利ニて、部数いかばかりも捌ケまじく候。いかで、十一月下旬迄にうり出    し度候。画工柳川ハ不達者にて、口画四丁、十一月十日比ならでハ、画キ終りがたしと申候間、稿本をと    りかへし、国直ニ画せ候。いかで、すり本校合を、はやく被成下候様ニと被頼候て、十五の巻一冊、校合    すり本持参いたし候間、受取置候へ共、野生方、転宅前ニていよ/\多用、机にかゝり候暇無之候間、い    まだ一丁も校訂不致候。且国直とても、口画速ニハ出来ざる様子ニ候間、十一月ニうり出しハ心許まく候    へども、板元甚しくいそぎ候間、十二月にハ出板可被致候〟    〈柳川重信がなんとか間に合わせたと見え、結局、国直が「八犬伝」の画工を担当することはなかった。馬琴の四谷信濃坂転居     は十一月十一日である。(天保八年三月十五日記事に〝去冬十一日転宅以来〟とあり、同年十二月晦日記事に〝去年十一月転     宅後〟とある)〉    ◯ 十一月 五日 林宇太夫宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-68)④239   (八月十四日、馬琴、古稀の書画会に配られた「画賛ふくさ一幅」について)   〝ふくさの画工一峨と申ハ、抱一門人にて、両国薬研ぼりに居宅いたし、相応に行ハれ候ものに御座候〟    〈林宇太夫は長州藩中老藤浦刀自の兄で、馬琴作の愛読者〉    ◯ 十一月十一日 ④297   (馬琴、神田明神下から四谷信濃坂へ転居。天保八年三月十五日記事に〝去冬十一日転宅以来〟とあり、また    同年十二月晦日記事に〝去年十一月転宅後〟とある)〉