Top          浮世絵文献資料館         曲亭馬琴Top
         「曲亭馬琴資料」「天保六年(1835)」(日記なし書翰資料のみ)  ◯ 二月二十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書簡番号-5)④20   〝『俠客伝』四集ハ、旧冬校合いたし終り、右板木、追々船づミニて大坂ぇ登せ候処、海上の事故、正月下    旬迄も、大坂へ着不致候板も有之候よし。正月二日うり出しニなり不申候てハ、いつとてもうり旬あしく    候間、半紙下直に品出候節、ゆる/\とすい込うと、板元河茂申候よし。是迄のごとく、江戸ニてすらせ    候へバ、随分正月二日のうり出ニも成候処、聊の勘定合ニ拘り、板木を船づミにてとりよせ候故、右之仕    合ニ御座候。依之、いつうり出し可申哉、難斗候。もし来正月迄もちこしてうり候哉、しからバ、四年越    しニ成候。寔ニ沙汰の限りニ御座候。大坂板元ニハ、前ニ懲り候へども、丁子や彼是取持候間、無拠つゞ    り遣し、後悔いたし候。如此勢ひニ御座候間、一向はり合無之候〟    〈『開巻驚奇俠客伝』四集は、大坂板元河内屋茂兵衛の心づもりはともあれ、江戸の馬琴には依然として出版予定が分からない。     馬琴は丁子屋平兵衛の取り持ちとはいえ大坂の板元と組んだことを後悔している。馬琴には懸念材料があったからだ。「前に     懲り候」大坂板元とは『朝夷巡島記』(豊広画・文化十二年~文政十年刊)の河内屋太助。馬琴は文政十年の六編を最後に以     降断筆した。なお「巡島記」は馬琴の死後の安政二年と同五年に七八編がでるが、松亭金水作・葛飾為斎画である〉  ◯ 二月二十一日 河内屋茂兵衛宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書簡番号-8)④34   〝『俠客伝』四集五冊ハ、一昨年巳ノ冬十月下旬、稿本綴り終り、一二三板下出来の分ハ、丁子やより板木    師ぇわたし候処、正月二日うりの間ニ合かね候間、彫刻御延引のよしニて、右板木師へわたし候板下筆工、    とり戻し候よしニ御座候。然ル処、去春大江戸火事ニて、板木師共類焼いたし、丁子やも同断ニ付、昨春    ほりニ出し候『俠客伝』、彫刻故障のミニて及延引候上、此度ハ大坂に而職人ニ御すらせ被成候よしニて、    板木不残、船づミにて御とり被成候故、いよ/\遅滞いたし、うり出し時節あしく成候事ト存候。それを    作者の咎のやうに、うり出し時節、いつもあしき故、御引合不被成よし被仰越、何とも迷惑いたし候。此    段、失礼ながら、得与御勘考可被成候。何分、いきほひを抜キ候てハ、三ヶ年ニ及候ても出来かね、間ニ    合不申候事、自然の勢ひに御座候。前文之趣ニて、拙者事、老衰の上、眼気あしく成候故、心斗ハ急ギ候    へども、よみ本類著述、昼のミ故、是迄の通りニ速ニハ成かね候。右に付、『俠客伝』五集も、中々急の    御間ニハ合かね可申候。もしあまり長引候ハヾ、先達而被遣候五集潤筆内金ハ、先づ返却いたし度、此段、    丁子屋へも致相談置候。随分つゞり候つもりニハ罷在候へども、もし当年中ニも来年ニも出来かね候ハヾ、    きのどくに存候故、万々一、左様之仕合ニも成候ハヾ、金子返却可仕候間、此段、かねて御承知可被下候〟    〈結局、馬琴は『開巻驚奇俠客伝』五集を執筆しなかった。五集は、嘉永二年(1849)、萩原広道作・二代目柳川重信画で出版さ     れる〉    ◯ 三月二十一日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-11)④42   〝『江戸名所図会』後編ハ、去春うり出しの節、来秋出板のよし、丁子や申候へども、当秋出板、心もとなく    候。右画工雪旦ハ、老人ニ候而没し候。雪旦忰、細画をよくいたし候間、続て画せ候よし〟    〈雪旦病死は不審。天保七年(1846)八月十四日の馬琴古稀の賀会に長谷川雪旦は出席している。(『馬琴書翰集成』巻四参照)     当時そんな噂でも流れたのであろうか。雪旦は天保十四年(1843)一月二十八日没、享年六十六。雪旦子息は雪堤。昨年十一月     朔日、殿村篠斎宛(第三巻・書翰番号-55)にも同じ記事あり。『江戸名所図会』の板元は丁子屋ではなく、須原屋茂兵衛・     須原屋伊八〉    ◯ 四月頃 『滝沢家訪問往来人名録』下p125   〝前々より相識 根岸中村御玄関番鈴木忠次郎養子重信婿養嗣 鈴木佐源次事 二代目 柳川重信〟    ◯ 五月八日 (五月十六日付)殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号14)④57   〝忰宗伯義、長病終ニ療養不届候て、五月八日朝五時、致死去、同十日四時過、御菩提所、小石川茗荷谷、    浄土宗伝通院末、清水山深光寺ぇ為致安葬。享年三十八歳ニ候。法号、      玉照堂君誉風光琴嶺居士〟    〈宗伯の生涯は、父馬琴の過大な期待と厳格な教育のもと、父の意向に従おうとする意志とそれに抗う無意識との乖離によって、     心身の病気を患うために生まれてきたような一生であったように思う〉    ◯ 五月十六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-14)④55   〝『俠客伝』四輯、大坂ハ三月中旬ニうり出し候よし。例の浪花人の不実ニて、江戸下しすり本ハ、彼方ニ    てうり出し候後、板すり壱人にだら/\とすらせ、両三度ニ出し候由に候へども、そのすり本、久く着不    致、丁子や甚心労いたし罷在候処、五月節句前とやらに、やう/\すり本着、揃ひ候故、昼夜とりいそぎ    製本いたし、昨十五日ニ江戸うり出しニ御座候〟    〈天保四年の十月に原稿を渡した『開巻驚奇俠客伝』四輯、難産であったが、やっとうり出しになった〉    ◯ 六月七日(『著作堂雑記』237/275)   〝五月六日、琴嶺が病痾漸々に奇窮に及びしかば、いかで肖像を書かして、嫡孫等が成長の日に見せばやと    思う程に、末後に至て、飯田町より清右衛門が来にければ、予その事をばいはで、急に手簡一通を書て、    こをけふ翌日までに、麹町一丁目なる三宅備中守殿の家老、渡辺登【画名崋山】へ届けよとて、ゆだね遣    しけるに、清右衛門がものに紛れて、八日のあした渡辺氏へ遣はしたり、九日の哺時に登来訪して、きの    ふは貴翰を賜はりて、云々の義を命ぜられしかども、さりがたき主用ありて、けふも亦使者に出たるが、    箯輿は外にとどめて来つとて、手牌一折をもたらして、琴嶺が病の安危をば問はれしかば、予答て、琴嶺    はきのふ朝五つ時に身まかり候ひぬと告ぐるに、登いたくうち驚き悼みて、御亡骸いかにと問ふ、昨夕既    に龕に斂めたれども納戸に在りといふに、登點頭て、苦しからずばしばし蓋をひらきて見せ賜はりてんや    と云、素より望む所なれは、折からまう来たる清右衛門に案内をさして、納戸に伴ひて龕を開きて見する    に、登則筆硯を請求めて、枯相を写すこと一時ばかり、写し果て出てゝ予にいふやう、枯相なれば肖るべ    くもあらず、なれども骨格は写し得たり、異日画稿ならば見せまつらんと辞してまかれり、抑々此渡辺生    は、初に画を金陵に学びて、琴嶺と同門なりければ、二十七八年の友なり、後に画は一家をなして、肖像    を写すに、必蘭法により二面の鏡をもて照らし、その真を写すに、肖ざることなし、たゞ画事のみならず、    文字あり、且剛毅の本姓にて、曩にある人の酒宴の席にて、髑髏盃にて多く酒を喫せしと聞えたり、され    ばこそ琴嶺が亡骸に手をかけて、よくその枯相を写したり、この挙は実に千金なり、世に懇友はもつべか    りきと思ふ、予が喜しるべし【渡辺登画名は崋山、古画の鑑定をよくす、学力あり見識ありて、主君に登    用せられたり】寛政中孝妣の遠忌に、画像を作りて祀り奉らばやと思ひつつ、北尾重政にあつらへて、た    び/\画かせたれども、毫も知らぬ人を画く事なれば、竟に肖たるものなかりき、肖像は、必生前に画せ    おくべき事ぞかし【乙未六月七日】〟    〈「乙未」は天保六年。崋山と琴嶺はともに金子金陵に画を学んだ友人、しかも琴嶺の臨終に間に合わなかった崋山は、棺桶を     開けて琴嶺を写生したのである。一方、重政は馬琴の母親とは面識もなかった。馬琴の言葉を聞いて画像化したものであろう。     彷彿とするはずもないのである。「肖像は、必生前に画せおくべき事」とはもっともな言であるが、皮肉なことに必ずしも当     てはまらないことが、馬琴自身におこった。天保十二年(1841)九月、『南総里見八犬伝』の最終回に馬琴の肖像を載せようと、     板元の丁子屋平兵衛が、当時肖像画に定評のあった香蝶楼国貞を引き連れ馬琴宅を訪れて写生させた。出来映えはというと、     丁子屋はよく似ているというのだが、家族に言わせると似ていないという。家族が似ていないというのであれば、将来、生前     の面影を伝える形見ともなる肖像画としては失敗なのであろう。では肝心の馬琴はというと、既に失明していて自分の肖像を     見ることは叶わなかった。本HP「馬琴日記・書翰」の項目、天保十二年十一月十六日付 殿村篠斎宛書翰参照。『著作堂雑     記』天保十二年九月十六日記事参照〉
    「滝沢琴嶺像」 渡辺崋山画(ウィキぺディア「渡辺崋山」より)    ◯ 閏七月十二日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-21)④88   〝(「長州の前の大夫人で何がしの宮様」)野生作のよミ本、御愛観被成候よし。(中略)『江戸名所図会』    の画者雪旦の忰、今の長谷川雪旦ハ、長州の御画師のよし、『江戸名所図会』の画を、ことの外御賞美の    よし。右雪旦を案内ニ被成候て、蔽屋へ御出被成度よしなど聞え候間、尤恐入、貴人と申、殊ニ御夫人ぇ    拝顔之事抔、甚いとハしく奉存候間、此義ハ何分宜く御断り下候へとわび候て、帰し候也〟    〈長州毛利家の前の夫人が馬琴作の読本愛好家で、長谷川雪旦の案内で馬琴への面会を求めたが、馬琴はこれをきっぱり断った     というエピソード。不審なのは「『江戸名所図会』の画者雪旦の忰、今の長谷川雪旦」の記事。「江戸名所図会の画者雪旦の     忰」は長谷川雪堤のように思うのだが「今の長谷川雪旦」とある。これがよく分からない。三月二十一日、小津桂窓宛書翰     (番号-11)参照〉      ◯ 閏七月十二日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-22)④93   〝(長州の前夫人で何がしの宮様)ことの外当今の草紙御好キにて、就中野生を御信じ被成候而、(中略)    『江戸名所図会』の画工雪旦の忰今の雪旦も、長州の画工の画工のよし。雪旦を案内にして、彼宮様、蔽    屋へ御来臨被成、御面談なされたく思召候よし抔聞え候故、貴人と申、殊ニ夫人ぇ咫尺仕候事、尤いとハ    しく奉存候間、その義ハ御断申上候よし、きびしく断て、かへし候〟     〝唐の画に楊舟と落款あるを見給ハヾ、買とりて給ハらん事をねがふのミ〟    ◯ 九月十六日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-25)④101   〝「猩々小僧肖像の錦画」、此節致出板候間、為御話柄、一枚進上仕候。御笑留可被成下候。近日ハ、向両    国尾上町、三河屋かし座敷へ出張いたし、一人前六十四づゝニて見せ候よしニ御座候。その已前、媳婦の    父、主命ニて石原へ罷越し、見候よしニ付、此にしきを見候処、些シもちがひなし。衣類迄も此通し也。    髪の色合もよく似候画、画キやう、あまりきまり過て、かつらをかぶりしやうにてわろし。兄喜八十一才、    弟岩ハ七才といへども、年より大がら也。(中略)にしきゑの画賛、京山なるべし。真の猩々のごとくい    へるハ、いよ/\をかし。皆山師のわざニ御座候〟    〈同日付の桂窓宛書簡にも同記事あり。なお、閏七月十二日付、桂窓宛書簡には〝岩八 未十一才、喜八同八才〟とあり〉      ◯ 九月十六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-26)④111   〝種彦の『田舎源氏』、ます/\流行のよし。来春も五編ほど、引つゞき出候との噂ニ御座候。大体、世    評愚老と肩を比べ候様ニ聞え候。これも意外之事ニ存候。いかで、上手の作者多く出候ハヾ(一字ムシ)    も薄らぎ候半とたのもしく候へども、合巻画ざうしのミニて、よミ本にハいまだ上手も無之候哉、今以責    られ、困じ果候〟       〝此節、『田舎源氏』を春画にいたし、内々ニて出板、代金弐分弐朱にうり候(ム シ)終にハむつかしく    成候ハんと、ある人の話なり。とかく、淫奔にちかきもの、人気に叶ひ候事、昔より今に至るまで、勿論    の事ながら、嘆息の外無之候。その作者の胸の内を、かたハらよりうかゞへバ、なげかしき事に御座候。    かゝる画の(二字ムシ)なるもよくうれ候ハ、是亦意外の事ニ御座候〟    ◯ 九月二十五日 山東京山記(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-附16)⑥200   〝丁子屋へ雪の橋を渡はじめしハ国直也。(中略)【国直ハ丁子屋同町裏町に住居。丁子や入魂ゆゑ、京山    国直へたのミ、申入れせし也】〟    〈「雪の橋を渡はじめし」とは、鈴木牧之念願の『北越雪譜』の出版へ向けて、歌川国安が懇意の丁子屋平兵衛へ働きかけたこ     とをいうのである。『北越雪譜』は天保六年の序、同七年の刊。板元丁子屋平兵衛は当時小伝馬町三丁目にあった〉