Top           浮世絵文献資料館          曲亭馬琴Top
       「曲亭馬琴資料」「天保四年(1833)」  ◯ 正月 元日『馬琴日記』巻三巻 ③299   〝(宗伯、年始回り)関忠蔵・谷文晁・中川金兵衛方へ立寄、新年祝義申入〟    ◯ 正月 五日『馬琴日記』第三巻 ③301   〝(宗伯、年始回り)半蔵門外三宅内渡部(ママ)登    〈渡辺崋山である〉     ◯ 正月 六日『馬琴日記』第三巻 ③302   〝関氏より借用之巻物の内、大男大空武左衛門身長等、兎園余録へ加入、謄写之畢〟    〈大空武左衛門の肖像については文政十年九月二日(『馬琴日記』第一巻〉に詳しい。この巻物は渡辺崋山の原図を亀屋文宝が     摸写した画幅とは別の物のようである。また二月四日記事参照〉     ◯ 正月 七日『馬琴日記』第三巻 ③303   〝(宗伯を)関忠蔵方へ立よらせ、旧臘見せられ候大男大空武左衛門画巻物・ふくさともに返却ス〟     ◯ 正月十二日『馬琴日記』第三巻 ③306   〝(二字ムシ)鈴木忠次郎より、焼饅頭一重の内、カズ十五、被贈之。柳川重信四十九日忌のよし也〟    〈鈴木忠次郎は柳川重信の養父〉     ◯ 正月二十一日 『馬琴書翰集成』③24 殿村篠斎宛(第三巻・書簡番号-8)   〝『俠客伝』弐集、今日うり出しニ御座候〟    〈『開巻驚奇俠客伝』第二集の出版は、画工柳川重信の遅筆そして死亡もあって、紆余曲折、一時は正月出版も危ぶまれたが、     板元丁子屋の経済的事情がそうさせたのか、執念が実って何とか出版に漕ぎ着けたのである。なお参考までにいうと、年末売     り出しにこだわっていた大坂板元河内屋だが、やはりこの正月廿五日に売り出し、上々の評判をとった由である。(三月八日     付、殿村篠斎宛書簡(番号11))〉    ◯ 二月 朔日『馬琴日記』第三巻 ③319   〝予、今日禽譜かき入、并ニ三巻ニしわけ、取しらべ等やうやくしをハる。正月十七日よりかゝり、凡九日    にてやうやくに畢ル。尤、昼のミ七日ばかり、又、休日二日ほどあり〟    〈「禽譜」とは『禽鏡』のこと。昨年三月から十一月にかけてなった渥美赫州(覚重)の摸写に、馬琴の解説を加えた鳥類図鑑     である。「東洋文庫」所蔵のものを見ると〝天保四年癸巳春月製本三巻方成〟とある。『禽鏡』はこのあと〝五年秋九月釐為     六巻重裱褙畢〟と六巻に表装され〝天保五年甲午冬十月初八日著作堂老禿識〟の序が加わる。日記では天保五年十月八日記事     参照〉     ◯ 二月 四日『馬琴日記』第三巻 ③322   〝予、大空武左衛門肖像へ漢文にて記事染筆畢〟     ◯ 二月 九日『馬琴日記』第三巻 ③324   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。よミ本稿出来候哉ト問ん為也。俠客伝三集一の巻、本文半分程出来のよし    申聞、(中略)画工ハ国貞ニ可致旨も、及示談。俠客伝二集、大坂ニてハ正月廿五日ニうり出し候よし。    江戸ハ製本弐百五十部うり畢。此節(一字ムシ)百部仕入候よし也〟    〈昨年末十二月十七日記事では、故柳川重信のあと、『開巻驚奇俠客伝』の画工として、板元丁子屋は蹄斎北馬の起用を考えて     いたようであったが、馬琴の意向もあったのだろう、結局国貞に落ち着いた〉      ◯ 二月廿五日『馬琴日記』第三巻 ③332   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。俠客伝三集弐の巻、さし画三丁稿本、渡之。(中略)さし画稿、今日、本    所国貞方へもたせ遣し候よし〟    〈国貞画『開巻驚奇俠客伝』が本格的に動き出したようである〉    ◯ 三月 八日『馬琴日記』第三巻 ③339   〝古人柳川重信壻、鈴木左源二事柳川重正初て来ル。丁子や平兵衛同道、紹介ス。旧冬重信病死の節の謝礼、    且、自分の画已来所用等之頼也〟    〈この柳川重正は、柳川重信が病状重篤になった時、板元丁子屋平兵衛が云った〝(俠客伝の)残りさし画四丁は、重信婿重政     に画せ候〟(昨年閏十一月五日記事)の重政と同人である。ところで渓斎英泉の『無名翁随筆』には〝(重信)天保三年十一     月歿す、門人重山、続て其業をなせり、按るに、重山は師重信の聟となれり、馬琴作の侠客伝二編五ノ巻の末二丁、重信病お     もりし其時、重山続て画しものなり〟とある。この記事からいえば、この重正(重政)は柳川重山と同人である。ところが馬     琴はこの年の十月二十一日に柳川重信二代と表記するまで、どういうわけか重山ではなく重正あるいは重政と書き記すのであ     る。理由はよく分からない〉    ◯ 三月八日  殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-11)③34   〝(『俠客伝』三集)画工は国貞ニいたし候〟     〈『開巻驚奇俠客伝』の初集(天保三年刊)は渓斎英泉画。二集(天保四年刊)は柳川重信。そして三集(天保五年刊)は昨年     閏十一月死去した重信に代わって歌川国貞が担当することになった。昨年末、板元丁子屋は北馬を推薦したのであったが、恐     らく馬琴が難色を示したのであろう。結局、国貞に落ち着いた。しかし馬琴は読本の国貞をあまり高く評価していない。とす     るとネガティブな起用ではあろうが、では国貞に代わる画工が他にいるかと問われれば、北斎以外にないのであるが、彼を起     用できない以上、いるはずもないのである〉     ◯ 三月十一日『馬琴日記』第三巻 ③342   〝田中源治事、雪丸来ル。是又病気に托して不面。少々問度よし有之旨申、帰去〟    ◯ 三月十八日 ③347   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。手みやげとして鶏卵十五、被贈之。来月十日出立ニて、大坂ヘ罷越候よし、    申之。俠客伝三集ハ趣向仕込ニて、小六不出候間、四集迄十冊つゞき稿し可申候間、美少年録四輯ハあと    へ廻し可申旨、申談じ候処、美少年録も急ぎ候得ども、右の趣ニて、作のこと都合よろしく候ハヾ、俠客    伝四集迄引つゞき、当七月比ニ書をはりくれ候様頼ニ付、則、右の趣ニとり極め畢〟    〈『開巻驚奇俠客伝』の一~二集は物語の中心が小六であったが、三集からは姑摩姫の話に大きく転換してゆく。三集は四集以     降の展開をなるほどと思わせるような「趣向」を仕込んでいるという。馬琴が、三~四集を、小六が登場せず、しかも十冊続     きのようにみなしているところからすると、四集も三集同様姑摩の話が続くようである。すると小六と姑摩姫が邂逅するのは     五集以降という構想なのであろう。つまり三~四集はその大団円に向かう役割を担うという点では同じ位置づけなのである。     したがって三~四集を十冊続きで出版してもかまわない、いやむしろ好都合だと、馬琴は云うのであろう。これを丁子屋も承     知した。そして四集の七月頃の脱稿を依頼した。丁子屋平兵衛としては、この取り決めを持って大坂に向かい、「俠客伝」の     板元である河内屋茂兵衛に申し入れしようというのである。ところがこの計画は案に相違して暗礁に乗り上げてしまう。その     原因の一つは画工国貞の遅筆にあった〉     ◯ 四月 二日『馬琴日記』第三巻 ③355   〝赤坂職匠町画工北渓来ル。四谷伝馬町三丁め中村屋勝五郎といふもの同道。予、対面。右勝五郎、ゑ類并    ニ湯屋株所持いたし罷在候処、地本問屋仲ヶ間ニも入候間、予著述よみ本乞請、出板いたし度よしのたの    ミ也。依之、交肴一折持参。北渓も菓子一折贈らる。筆硯繁多ニ付、速ニハ出来候得ども、手透を得次第、    心がけ可申旨、及挨拶〟    〈北渓は当時『近世説美少年録』の挿画を担当していた。馬琴は紹介が無ければ未知の人とは絶対に面会しないのであるが、珍     しいことに、北渓の手引きが功を奏したか、中村屋の読本原稿依頼を受けたとったのである〉     〝宗伯、御蔵前画工椿年方へ、鮭の画頼ニ罷越、四半時比帰宅。右ハ昨日、松前江戸家老蠣崎民部たのミに    よりて也〟    〈椿年は大西椿年であろう〉    ◯ 四月 九日『馬琴日記』第三巻 ③360   〝丁子や平兵衛来ル。(伊勢、京都、大坂方面へ出立の由)俠客伝さし画、国貞方より、近々とりかゝり候    旨、申来候よし也〟      ◯ 四月 九日 河内屋茂兵衛宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-14)③51   〝(「俠客伝」三集)画工国貞、二月下旬より団扇の画、并ニ役者にしき画、こみ合居候よしニて、今以さ    し画ハ一枚も出来不申候。さて/\はり合なく、こまり申候〟    〈当時、国貞は役者似顔絵の第一人者。錦絵の注文が混み合い、読本挿絵に支障が出始めたのである。板元からすると、錦絵の     方が経済的効率は高い。昨年の正月を振り返ってみると、ひと月足らずで役者の死絵が三十数万枚も出る時世である。本HP     「浮世絵事典」「死絵」天保三年の項参照〉    ◯ 四月廿一日『馬琴日記』第三巻 ③367   〝(筆工中川金兵衛を以て)画工国貞方へさし画のさいそくいたし候処、丁子や留守居和介方へ伝言たのミ    遣ス〟    ◯ 四月廿五日『馬琴日記』第三巻 ③370   〝今日より、新編金瓶梅三編、稿しはじむ〟    〈この年、国貞が担当する馬琴作品はこの合巻『新編金瓶梅』三編と読本『開巻驚奇俠客伝』三集。ともに当時担当していた画     工(前者は歌川国安、後者は柳川重信)の逝去後を引き継いだもの〉    ◯ 四月廿八日『馬琴日記』第三巻 ③372   〝関忠蔵来訪。予、対面。筑後柳川西原一輔、隠居いたし、一甫と改名、惣髪被成候よし。近郊牛にのり逍    遙いたし度よしニ候へども、柳川辺ニ牛なし。十里許田舎ニ砂糖を絞らせ(ママ)牛有之、大庄屋へたのミ、    やうやく求め、攣入れ候得ども、是迄荷を付、人をのせ候事無之ニ付、暴牛ニて手にのりかね候間、無筌    め(ママ)、かへし候よし、一甫より申来ル。依之、関氏右乗牛の図を鈴木有年に画せ、予ニ賛を乞る。    近日、柳川へおくり遣し度よし也。旧友のたのミ固辞がたく、端午後までに稿案可致旨申聞ケ、右之画預    りおく〟    〈西原一輔は馬琴も一員だった「耽奇会」会員の西原梭江。当時は柳川藩留守居役。号松羅館。「耽奇会」は古書画・珍物奇物     の品評会で文政七年(1824)~八年にかけて月一回開催された。梭江は文政八年四月の例会から不参加。あるいは柳川に戻った     か。五月七日日記〝西原一輔駕牛逍遙画賛漢文一編・和歌一詠案、稿し畢〟翌八日〝西原一甫騎牛画賛漢文一編并ニ和歌、稿     畢〟同九日、関忠蔵に渡す。十日〝西原梭江騎牛図賛(中略)歌の書やうあまり細字ニ出来、本意ニ不称〟とあるから、会心     の賛ではなかったようだ。それにしても、西原一甫、牛に乗って近郊を逍遙してみたいなどと、どうして思いついたのであろ     うか。鈴木有年は狩野家の絵師で、馬琴の日記には鈴木一郎名でしばしば登場する。天保三年六月十三日参照〉      ◯ 五月 朔日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-16)③57   〝『俠客伝』三集五冊、四月八日比迄ニ、不残稿し畢り候。但し、序、惣目録・口画等、壱の口七丁ハあと    へ残し、いまだ稿し不申候。画工国貞、一向ニさし画出来不申、今に一枚も画キ申候故、張合なく候間、    右七丁ハ、さし画出来の上ト、まづ中入り休ミ致候〟    〈昨年は柳川重信の道楽と春画優先と病没に悩まされ、今年は国貞の役者似顔絵に苦しめられている〉      ◯ 五月 六日 河内屋茂兵衛宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-18)③67   〝『俠客伝』三集ハ、四月上旬、不残書をハり、筆工も五の巻迄、不残出来申候。然ル処、画工国貞より、    今以、さし画壱丁も出来参り不申候故、先ぇより差支ニ可相成哉と、甚心配いたし罷在候得ども、何分丁    平殿旅行ニ付、画工之様子わかりかね候。丁子やぇは、画工へさいそく、無油断いたし候様、折々申遣し    候事ニ御座候〟    〈「丁平」は『開巻驚奇俠客伝』の板元、文溪堂・丁子屋平兵衛。この当時大坂に向かっていた。丁子屋は気むずかしく時にわ     がままな戯作者や画工を引き連れて出版まで持ってゆく能力が傑出しているようで、馬琴はその江戸不在を心配している様子     だ〉  ◯ 五月十一日 河内屋茂兵衛宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-19)③68   〝『俠客伝』三集さし画、本所国貞子方より、今に一枚も出来不参候間、甚心配いたし候。尤、丁子やより    も、度々無油断致催促候得ども、いつもおなじ口上ニて出来かね、甚こまり入候よしニ御座候。一体かの    仁、何か気に障り候と、一年も二年も引ずり候事、折々有之候故、此度も、左様之事ニハ無之哉と存候事    ニ御座候。平兵衛殿、在宿ニ候ハヾ、又相談も致し方可有之候得ども、何分ニも旅行中の事ニて、致し方    なく候。もし、丁平殿帰府之比迄も、右さし画出来不申候ハヾ、相談いたしとり戻し、外画工ニかゝせ候    様ニも可致候。此段、丁平殿着被致ハヾ、御咄し被成可被下候〟    〈国貞「何か気に障り候と、一年も二年も引ずり候事、折々有之候」とある。今を時めく国貞ではあるが、これが通ってしまう     とは驚きである。今回もそれかと兆す懸念に、さすがの馬琴も処置なしの様子。とはいえ、口絵や挿画なしには、合巻はいう     までもなく読本でさえジャンルとして成り立たない。常なら丁子屋平兵衛の出番であるが、生憎大坂行きで不在である〉    ◯ 五月十六日『馬琴日記』第三巻 ③387   〝国貞さし画(『開巻驚奇俠客伝』三集)今以未出来に付(云々)〟    〈国貞、故柳川重信のあとを引き継いだものの、柳亭種彦の合巻『偐紫田舎源氏』をはじめ担当作品がたてこんでいるのか、仕     上がりが遅れている〉        ◯ 五月十六日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-20)③71   〝(「俠客伝」三集挿絵)画工国貞、今以さし画一枚も出来不申候。この画工、当時流行抜群故、勢ひ甚し    く、少しも気に入らぬ事候へバ、一年も二年も引ずり、不画事、毎度有之。先年拙編『白女ノ辻占』など    ハ三年引ずり、やう/\出来候事も候へば、此度も、何ぞ板元よりきびしくさいそくいたし、気に障り候    哉と存候得ども、丁平旅行中ニて、様子わかりかね候〟    〈国貞が挿絵の筆を執ろうとしないのは、板元の厳しい催促に臍を曲げたからではないかと、馬琴は見ている。三年もの間待た     されたという馬琴の合巻『代夜待白女辻占』は文政十三年(1830)の刊〉     ◯ 五月十六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-21)③74   〝『俠客伝』三集さし画画工国貞、二月中より今以、一枚も出来不参候。此画工、甚流行故、勢ひ甚しく、    少しも気に入らぬ事あれバ、一年も二年も引ずり候。先年、『白女辻占』の画抔も、三年めニてやう/\    出来候事有之。此度も、板元きびしくさいそくでもせし故に、わざとかゝぬ事かと猜し候のミ。丁平旅行    中故、様子わかりかね候。依之、はり合無之候間、同集ハ、さし画の様子次第ニ可致、見合せ候事ニ御座    候〟    ◯ 六月 三日『馬琴日記』第三巻 ③399   〝丁子や手代和介来ル。俠客伝三集壱の巻、さし画壱丁はじめて出来、持参〟    〈絵師名はないが国貞の挿画である。二月九日「俠客伝」三集の画工を国貞に決めて以来約四ヶ月、やっと一丁分出来たのであ     る〉    ◯ 六月 九日『馬琴日記』第三巻 ③403   〝丁子屋平兵衛来ル。(六日、大坂より帰府の由)俠客伝三輯、国貞画延引の義に付、示談数刻〟     ◯ 六月十八日『馬琴日記』第三巻 ③409   〝赤坂画工北渓来ル。予、対面。右は四谷勝五郎頼ミよみ本著作之事、尚又、同人ヲ以頼申越。北渓、小折    入砂糖・小朱墨二、手みやげ也。同人所望ニ付、同人画うちハ金魚売の賛、即席之発句しるし遣ス。◯銭    亀は壱朱のつり歟金魚うりとしるし遣し候処、あとニて考候へバ、銭亀ハつり歟一朱の金魚うりと、いハ    ん方宜し。しかれども遠方の事ニ付、直しニ不及して止〟    〈北渓画の「金魚売り」に、馬琴の「銭亀は壱朱のつり歟金魚うり」の句賛を配した「団扇絵」。果たして遺っているのだろう     か〉      ◯ 六月廿九日『馬琴日記』第三巻 ③418   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。(中略)柳川重正、雪丸作よミ本のさし画を見せらる。追て、重正にも書    せ度よし也〟    〈丁子屋が柳川重正の読本挿画を馬琴に見せたのは、『開巻驚奇俠客伝』四集の画工に重正を起用しようという意図からであろ     う。三月十八日の取り決め通り三~四集十冊続きの出版となると、三集の挿画もままならない国貞ではとても間に合わないと     判断したのである。それに四集の原稿の方も七月までには仕上げる約束であったのに、三集の画工国貞の大幅な遅れに気をそ     がれたのか、馬琴もまだ手をつけていない。おそらく丁子屋は馬琴の執筆を促す意味合いもかねて、画工の手当を考えたので     あろう。ところで「柳川重正、雪丸作よミ本」とは何であろうか。国文学研究資料館「日本古典籍総合目録」によると、墨川     亭雪丸(雪麿)作の読本は二つ、一つは『濡玄鳥栖傘雨談』(柳川重信二代画・天保七年(1836)刊)。もう一つは『絵本国性     爺合戦』(国虎画・嘉永年間(天保五年刊の合巻『国姓爺合戦』の縮綴という))。いづれも画工名と刊行年が合致しない。     また「日本古典籍総合目録」に「重正」の作画作品は見あたらない〉    ◯ 七月十三日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-22)③81   〝『俠客伝』三集の画工国貞、一向ニさし画出来不申候。六月上旬、丁子や平兵衛帰府いたし候処、右已前、    同人実母身故いたし、彼是とり紛れうち過、やう/\六月下旬より、壱の巻さし画弐丁、二の巻さし画三    丁、共に五丁出来。引つゞき画候よしニ候へども、今以、あとハ壱丁も出来不申候。丁平も無油断催促い    たし候よしニ候へども、よみ本のさし画はほねをれ候故、骨の折れぬにづらのにしき画の方、便利と見え、    手古でも動キ不申候間、板元もいたし方なく、一日/\とうち過申候。かゝる勢ひニ候へバ、第四集を急    ギつゞり遣し候ても、当暮のうり出しニハなり不申候。来年の暮ならでハ、出板成りがたしとしりつゝ、    只今よりつゞり立候も、尤気がなく候故、四集ハ今に一枚も稿し不申候。三集も、口絵・惣もくろく等ハ、    稿し遣し候へども、序ハいまだかゝず候。さればとて、合巻の作ハ、いよ/\いやに御座候間、一日/\    と廃業ニて、何の評のかの評のと、益にもたゝぬ筆ずさみに日をくらし、或ハ友人ニ被頼候詩歌やら、額    字様のものを書候て、つまらぬ月日を送り候なり。『金瓶梅』三集ハ、五月下旬、四冊分二十丁つゞり遣    し、是も国安死去いたし候ニ付、国貞に画をかゝせ候故、今以出来不申候。これも廿丁切りニて、当年ハ    間ニ合申まじく候〟    〈国貞の遅筆には実母の死という事情もあったようだが、馬琴は「よみ本のさし画はほねをれ候故、骨の折れぬにづらのにしき     画の方、便利と見え、手古でも動キ不申候間、板元もいたし方なく、一日/\とうち過申候」と、役者似顔絵を優先する国貞     の姿勢にも原因があると見ている。ともあれ三集の挿画は遅れに遅れ、馬琴の気持ちもうんざりの様子。このペースでは四集     の出版は年内どころか来年の見通し。それではとても筆を執る気にならない。三月、丁子屋と取り決めた三~四集十冊続き出     版など到底無理だというのである。ところで影響は「俠客伝」と留まらない。『新編金瓶梅』の挿絵も、昨年七月に死亡した     画工国安に代わって国貞が担当することになっていた。これも同様に遅れている。七月十四日付、小津桂窓宛(書翰番号・第     二巻-23)③91にも全く同じ記事あり〉     ◯ 七月十九日『馬琴日記』第三巻 ③433   〝古人画工重信婿根岸鈴木左源二事、画名柳川重正(ママ)より使札。時候見廻として、大丸づけ瓜八十、被贈    之。謝詞返翰遣ス〟    ◯ 七月廿四日『馬琴日記』第三巻 ③436   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。俠客伝四集稿本、催促也。国貞方、同書三集の絵とかく出来かね候間、四    集は重信婿重政に画せ度よし抔、被申之。并に、美少年録画工北渓事抔、予、示談。そのまゝ同人に画せ    候つもり、示談〟    〈国貞の『開巻驚奇俠客伝』三集は依然として不調である。しかし丁子屋は四集連続出版を諦めず、馬琴に原稿を催促している。     そして挿画の方は柳川重清の婿・重政(二代目重信)の起用を考えていた。なお『近世説美少年録』の画工北渓についてはそ     のまま継続である〉    ◯ 七月廿七日『馬琴日記』第三巻 ③438   〝丁子や平兵衛より、小廝を以、俠客伝三集の内、三の巻さし画三丁分、内弐丁、国貞より出来、見せらる〟    ◯ 八月 朔日『馬琴日記』第三巻 ③440   〝地主杉浦継母より、相沢久助持参のよしニて、海北友松鷺の墨江、唐紙一枚もの、見やりくれ候様、被頼、    差越さる。屏風はがしと見えたり。右友松絵、書付添、返し遣ス〟    ◯ 八月 八日『馬琴日記』第三巻 ③446   〝丁子や平兵衛来ル。手みやげおくらる。予、対面。俠客伝四集、時節おくれ候得ども、何分年内の間ニ合    せ申度よし、(一字ムシ)談也。いづれ近々とりかゝり可申旨、及挨拶〟    〈丁字屋平兵衛はなんとしても三月十八日の取り決めを実現させようという意気込みである。しかし馬琴の方は約束の七月をと     うに過ぎているのにまだ取りかかれない。気が進まないのである。八月十三日記事〝俠客伝四集稿、創め可申思ひ候得ども不     果〟同十四日〝俠客伝四集稿、今日も気分不進、筆渋り、更不出来〟とある〉    ◯ 八月十五日『馬琴日記』第三巻 ③450   〝予、俠客伝四集、今日も筆渋り、出来かね候ニ付、いたづらに日を消し、夜ニ入、四時迄ニはじめて壱丁、    稿之〟    〈夜十時、やっと一丁出来。この日から漸くその気になったか、原稿が次第に出来上がるようになってゆく〉       ◯ 八月廿一日『馬琴日記』第三巻 ③455   〝鈴木左源二事、画名柳川重正来ル。手みやげおくらる。予、対面。俠客伝四集壱の巻、稿本追々出来に付、    近日、右さし画稿、版元へ可渡旨、示談。并に、画きやう注文等、申聞ケ、右用事畢て、帰去〟    〈国貞の『開巻驚奇俠客伝』三集が遅れる中、四集の重正(重政)担当が始まる。重正はこの十月に二代目柳川重信を襲名する     ことになるのだが、それに先立つ馬琴の挿画担当である。異例の抜擢であろう。とにかく三~四集を続けて出版するためには     やむを得ない起用であった。重正は〝画ハ未熟也。なれどもはやく出来候上、丁平懇意ニて、大ニひいきに候〟とある。(十     一月六日付小津桂窓宛書翰(番号28))なお重正の二代目重信襲名は十月二十一日記事参照〉    ◯ 九月 五日『馬琴日記』第三巻 ③463   〝鶴屋喜左衛門、画工歌川貞秀同道ニて来ル。予、対面。右貞秀、為初見舞、鰹節五本持参。已来草紙画、    拙作分画キ申度よしの頼也〟    〈故歌川国安に代わって、合巻『傾城水滸伝』第十三編上(天保六年刊)の画工を担当することなった歌川貞秀、版元鶴屋喜左     衛門に伴われて挨拶に訪れたのである〉    ◯ 九月 五日 『滝沢家訪問往来人名録』下123   〝同(癸巳・天保四年)九月五日 鶴屋喜右衛門同道ニて初テ来訪 亀井戸 画工 歌川貞秀〟    ◯ 九月 十日『馬琴日記』第三巻 ③466   〝丁子や平兵衛方より、使ヲ以、今朝の俠客伝四集一の巻、さし画の壱、かしら直し并ニ枕かきそえ、柳川    重政方へ遣し、出来のよしにて、見せらる。外ニ、同さし画の弐・三出来、見せらる。右弐・三もかたち    直し等有之、依之、付札いたし、右三丁とも、使ぇわたし遣ス。さし画の壱ハ直し相済候間、ほりニ出し    候様、申遣ス〟    〈柳川重正、挿画に着手。『開巻驚奇俠客伝』四集である〉      ◯ 九月十二日『馬琴日記』第三巻 ③467   〝鶴や喜左衛門より使札。貞秀画キ候合巻似つら写本見せらる。過日約束によつて也。即刻一覧、返翰差添、    右写本かへし遣ス〟    〈「合巻似づら写本」とは『傾城水滸伝』十三編のもの〉     〝(丁子や平兵衛の使い)是より画工柳川重政方へ(二字ムシ)、残り一丁の直し、とりニ罷越候よしニ付、    同(俠客伝)弐の巻さし画の壱、稿本一丁、画工へ遣し候様、使ぇ申付、遣之。昼後、右使、根ぎしより    帰り来、残り壱丁の直し出来(後略)〟    ◯ 九月十三日『馬琴日記』第三巻 ③468   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面(中略)俠客伝三集口絵、国貞方へきびしく申遣候処、両三日中に出来のよ    し、申来候趣、被通達〟    〈十一月六日付、小津桂窓宛書翰(番号28)によれば〝丁平よほどきびしく画工へさいそくいたし、夫故九月中旬迄ニ、画ハ不     残来候得ども、画工と絶交同様之間がらニ相成り〟と、督促の厳しさを伝えている。ともあれ、九月十八日には残っていた口     絵が馬琴の許に届いた〉    ◯ 九月十六日『馬琴日記』第三巻 ③470   〝丁子やより、使ヲ以、根岸重政方へ使遣し候間、残り画稿御わたし被下候様、申ニ付、俠客伝四集二の巻    さし画の三・同三の巻さし画の弐、右ハ二丁ふくろニ入、わたし遣ス〟     〝丁子や平兵衛より、又使を以、俠客伝三集口画壱丁、国貞より出来、同四集弐之巻のさし画の壱、柳川重    政より出来、見せらる。四集弐の巻さし画は直し有之、稿本差添、かき直させ候様、使ぇ示談。則、返し    遣す。三集口絵は筆工ぇ廻し候様、使ぇ示談〟    〈「俠客伝」の画工二人、遅れに遅れた三集の国貞画と、仕上がりの早さで起用された四集の重政画とが、期せずして同日に届     いたのである。しかしやはりというべきか、馬琴から直しを求められたのは〝未熟なれども〟の重政の方であった。ただ国貞     は口絵はまだ二丁残っている〉    ◯ 九月十八日『馬琴日記』第三巻 ③472   〝丁子や平兵衛来る。予、対面。国貞画三集口絵残り二丁、昨夜やうやく出来(云々)〟    〈読本『開巻驚奇俠客伝』三集、国貞担当の挿画はすったもんだの末やっと終了した〉      〝一昨日之柳川重政画、今日直しに遣し候よしに付、姑摩姫頭・安次かしら、尤不出来に付、是又直させ可    然旨、及示談〟    〈こちらは『開巻驚奇俠客伝』四集、重政の担当であるが、仕上がりは早いが直しも多いようだ〉     〝芝神明いづミや市兵衛より使札。神明祭ニ付、如例、手製甘酒一重、生姜一把、被遣之。金瓶梅画、国貞    方より当月中出来のやくそくニ付、表紙外題画稿の事頼来ル〟    〈合巻『新編金瓶梅』(泉屋市兵衛板)の画工も国貞であるが、読本『開巻驚奇俠客伝』の挿画ほどの切実さは感じられない。     ほぼスケジュール通り進行している様子だ。十月十日の日記を見ると「当月中出来のやくそく」は守られなかったようだが、     許容の範囲内なのであろう。やはり国貞は読本が苦手なのであろうか〉      ◯ 九月 廿日『馬琴日記』第三巻 ③475   〝鈴木左源二事、画工重政来ル。予、対面。俠客伝四集二の巻の壱、かしら其外画直し、持参、見せらる。    一覧の処、玄関前ニ砂利画キ有之、蛇足也。八重ニ成候間、小石入候はりかごハ、此方ニてはりけし畢。    同さし画の弐下画も見せらる。それ/\示教、右用談畢て、帰去〟    〈これは「有像第四十六」の場面。「かしら」の描きようが馬琴が望むものと合っていないのだろう。不満なのである。     九月十八日記事同様、馬琴の重政に対する評価は厳しい〉  ◯ 九月廿六日『馬琴日記』第三巻 ③479   〝杉浦老婆、今の北斎戴斗と交ひくれ候様、頼ニ来ル。多様ニ付、及断畢〟    〈杉浦は神田明神下・馬琴宅の地主。「今の北斎戴斗」最初北泉と称した近藤伴右衛門。隣家の地主を通して交際を求めて来た     のである。馬琴は断ったが、ことはこれで終わったわけではなかった。十月十日日記参照〉    ◯ 九月廿八日『馬琴日記』第三巻 ③481   〝(丁子屋からの使いの者へ)画工柳川重正ぇ之手紙もたのミ遣す。右ハ三の巻のさし画の壱、画の注文少    しちがひ候事を申遣す故也〟    ◯ 九月 晦日『馬琴日記』第三巻 ③482   〝丁子や平兵衛より、使を以、過日、柳川重正へ申遣候俠客伝四集三の巻さし画の壱、取かへし、被届〟    ◯ 十月 三日『馬琴日記』第三巻 ③484   〝覚重来ル。此節やう/\主用記録うつし、手透ニ成候間、当春中たのミ置候、禽譜巻物仕立候間、夏中差    置候追加水鳥十丁許、并ニうら打入用にしの内十五枚不足ニ付、差越候様、被申之。右水鳥の図ハ今日わ    たし遣ス。多用ニ付、いまだ不及書入候へ共、仕立の後、書入可申旨、申聞おく。にしの内ハ、近日とり    よせ可遣旨、及示談。尚又、やくそくの水滸伝百八人の画像一巻かし遣ス〟    〈馬琴の女婿渥美覚重(画号赫洲)の主君は宇都宮藩戸田因幡守。用命に暇が生じたので再び「禽譜」の写本制作に取りかかる。     「水滸伝百八人の画像」とは、昨年覚洲が摸写した清・陸謙画「水滸伝百八人像」(春木南溟摸写・木村黙老所蔵)とは違う     もののようで、天保五年十月十日記事にある〝去年十月二日かし置候陳洪綬水滸百八人の画像〟これのようである〉
     水滸百八人画像臨本 / 陳洪綬画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     ◯ 十月 五日『馬琴日記』第三巻 ③486   〝画工北渓并ニ当四月中よミ本作被頼候中村屋勝五郎、外に同道人壱人、已上ニて来ル。北渓・勝五郎ハ、    各手みやげ持参。勝五郎板元ニて、大画本武者画彫刻いたし度ニ付、稿案願候よしにて、注文被申聞、彼    是雑談数刻、帰去〟     ◯ 十月 十日『馬琴日記』第三巻 ③489   〝芝神明前いづミや市兵衛来ル。予、対面。合巻物金瓶梅、画廿丁之内、十丁やうやく昨日、国貞より出来    のよしニて、今日、筆工金兵衛方ぇ遣し候よし也〟    〈「やうやく」とあるところをみると、国貞の挿画は「俠客伝」だけでなく『新編金瓶梅』の方にも、曲折があったのだろう〉    ◯ 十月十二日『馬琴日記』第三巻 ③491   〝此節、米穀高直ニ付、書林英大助等大勢合刻ニて、高井蘭山作麁食教草と云小冊出板、代銀壱匁のよし、    清右衛門かひ取とて持参ニ付、かり置、宗伯へ見せ、予も一覧の処、さしたる事なきもの也。大都会ニ    てハとりもちいがたし。編述あしき故也〟    〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」には『経済をしへ草』とある〉  〇 十月十三日『馬琴日記』第三巻 ③492   〝(『開巻驚奇侠客伝』四集三之巻「第三十六回」柳川重信(二世)の挿絵について)まくぐし并ニ幕内の人    物ちやせんがミ、画き不宜候間其処直し候様、書画供付札いたし(云々)〟    〈これは「有像第五十一」の場面。馬琴は二世重信の幕串と隅谷安次の茶筅髷の図様が気に入らなかったようだ〉      ◯ 十月十四日『馬琴日記』第三巻 ③493   〝木村黙老より使札。(中略)近来浮世画工之事被問、白石(叢書)十の巻かし遣ス。(中略)浮世絵師伝    略文一通、認之。いづれも長文にて、九時比迄に書畢る〟    〈木村黙老は高松藩の家老。馬琴が黙老宛てに認めた「浮世絵師伝略文」とは未詳。これは、この年末から翌年一月にかけて馬     琴自身によって執筆される『近世物之本江戸作者部類』の中で、巻第四として構想された「近世浮世画江戸画工部」に組み込     まれてゆくものに違いあるまい。ただこの時点では馬琴にそんな想定はないだろう。後年の弘化二年(1845)、黙老は『戯作者     考補遺』を編集し終えるが、ひょっとしたらその中に反映している可能性はある〉      〝芝泉市より使札。過日申遣し候金瓶梅三集外題の画の事、国貞存寄にて、荒物ニ付、おれん・啓十郎二人    並ニいたし候てハいかゞ可有之候哉、予に問候様、被申候よし也。然ども右男女は悪人也。悪人のミ外題    へあらハし候事、勧懲の為、不宜とて、悪ませて画せ候様、返翰ニ申遣ス〟    〈国貞が外題画を「おれん・啓十郎」の二人並びにしてはどうかと提案した。それに対して、悪人を外題にするのは勧善懲悪の     趣旨に悖り宜しからずと、馬琴は回答したのである〉      ◯ 十月十五日『馬琴日記』第三巻 ③495   〝(丁子屋の使いの者に)右さし画(俠客伝四集三之巻)の右、まくの内の人物其外、不宜ニ付、直させ候    様、過日、丁子やぇ申し遣し候処、不直候て、そのまゝニはり入参候間、其段使ぇ申聞、明朝、重正方へ    遣し、直させ候様、示談〟    ◯ 十月十六日『馬琴日記』第三巻 ③496   〝(丁子屋の小者)根岸重正方へ直しニ遣ス。(中略)根ぎしより帰来。重正方ニて直し出来、直し様未佳    といへども、そのまゝ写本へとぢ入、同巻十五丁より廿七丁迄、校合済、写本わたし遣す〟    〈『開巻驚奇俠客伝』四集担当の重正(重政)の方は、馬琴の望むような方向に挿画がいかないようで、直しが多い。しかしこ     れ以上やっても無駄と思ったのか「直し様未佳といへども」と未練を残しながらも校合済にしてしまった〉    ◯ 十月十八日『馬琴日記』第三巻 ③497   〝根岸鈴木左源次事、画工柳川重正より、つけ菜廿四把、被贈之。返翰遣す〟       〝木村亘へ遣し候浮世画師考追加一通、外に手簡一封ニ致し、今明日中ニ木村氏へ届候様(清右衛門へ)申    付、わたしおく〟    〈木村亘は木村黙老。「浮世画師考」の内容は未詳だが、追加とあるから、十月十四日の「浮世絵師伝略文」に続くものである〉       ◯ 十月十九日『馬琴日記』第三巻 ③498   〝木村亘より使札。(中略)近来戯作者変態沿革之事、認くれ候様、いろ/\申来る〟    〈「近来戯作者変態沿革」とは、この年の十二月から起筆する『近世物之本江戸作者部類』をさすか〉     ◯ 十月 廿日『馬琴日記』第三巻 ③499   〝丁子や平兵衛より人来ル。(中略)是より、根岸重正方へ(「俠客伝」四集の挿画)持参いたし候よし也〟    ◯ 十月廿一日『馬琴日記』第三巻 ③500   〝鈴木左源二事、画名柳川重信(ママ)来ル。予、対面。俠客伝四集五の巻さしゑの弐、猿の処出来、見せらる。    但、四の巻さし画の弐ふりかへニ成候趣、示談〟    〈馬琴はこの日から重政(重正)の名を柳川重信に改める。この頃、二代目重信を襲名したか〉    ◯ 十月廿五日『馬琴日記』第三巻 ③502   〝画工北渓来ル。予、対面。手みやげ、被贈之。先比、中村や勝五郎頼候武者画本之事、北渓此節手透(二    字ムシ)画に取かゝり度よし、申之。依之、右画の注文、示談。先、頼光の四天王より画はじめ候様、示    談。尚又、同人画勝五郎板諸国名所の錦画廿番ほど出来、右折本にいたし候よしにて、序文を被頼、右    用談数刻、訖て帰去〟
     葵岡北渓画「諸国名所 上州三国越不動峠」(山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)      〈北渓画・中村屋板「武者画本」は未詳。この横大判錦絵二十枚組ほどの「諸国名所」を折本仕立てにして、馬琴の序文を請う     たものだが、これは天保五年七月二十一日付殿村篠斎宛書翰(番号49)によると、馬 琴は序文を認めなかった〉    ◯ 十月廿七日『馬琴日記』第三巻 ③504   〝(丁子屋からの使い)根岸重信方へ、さし画とりに罷越候よしに付、帰(三字ムシ)参候様、示談〟    ◯ 十月廿九日『馬琴日記』第三巻 ③506   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。俠客伝四集、年内彫刻出来かね候ニ付、明々年未正月うり出しニいたし度    よし、申之。(中略)已来俠客伝五集の著編ハ断ニ及候内心之旨、今夕、宗伯申聞おく〟    〈馬琴はこの年の三月十八日、三~四集十冊続けて出版することを、丁子屋平兵衛と取り決めていた。とろろが三集挿画の遅れ     等もあって、その見通しが立たなくなったとき、馬琴の四集執筆意欲は急に失われてしまった。しかし当初の取り決めに執着     する丁子屋平兵衛の説得が功を奏したか、馬琴はもう一度意識を奮い立たせて、この八月中旬以降、四集の原稿執筆に専念し     てきた。馬琴の内心では当然板元の要請に忠実に応えたつもりであったろう。しかも間に合わるのために、まだ画技に未熟な     二代目重信の起用にも我慢して目をつぶったのである。そのあげくが「未正月(天保六年)」への発売延期である。馬琴の心     情推してしるべし。「已来俠客伝五集の著編ハ断ニ及候」と、穏やかならぬ決意である。実際馬琴が五集を書くことは決して     なかった。馬琴の腹案にあった館小六と姑摩姫との大団円は永遠に封印されてしまったのである〉     ◯ 十月(『著作堂雑記』235/275)   〝聞まゝの記第十一に載す、黙老問云々、美成答て云、浮世絵師家系及高名のもの御尋でに御記被下度、拝    覧の所、僕年来聞に及びたるを録し置たりといへども、今悉記しまいらせんことたやすからず、その一二    を左に記す、元禄二年の印本江戸図鑑に、浮世絵師菱川吉兵衛【橘町師宣】、同吉左衛門師房【同町】、    古山太郎兵衛師重【長谷川町】、石川伊左衛門俊之【浅草】、杉村治兵衛【通油町】、菱川作之丞師永    【橘町】下略、浮世絵類考、画伯冠字類、風俗画談、近世逸人画史等によらば大概はしるべきなり〟    〈天保四年十月頃の記事と思われる。同月十四日馬琴の日記に、高松藩の家老・木村黙老から「近来浮世画工之事」について質     問を受け、馬琴は早速「浮世絵師伝略文」なるものを認めて送ったとある。また弘化二年(1845)には浮世絵師や戯作者の小伝     『戯作者考補』の編集を終えている。『聞くまゝの記』はその黙老の随筆。馬琴が黙老に紹介した『江戸図鑑綱目』は石川流     宣著の地誌。「浮世絵類考」はどの系統のものであろうか。馬琴とは親密であった渓斎英泉に天保四年の序をもつ『無名翁随     筆(別名「続浮世絵類考」』があるが、おそらくそれではあるまい。『画師冠字類考』は「日本古典籍総合目録」に八冊、文     化文政頃の成立とあるが著者名はない。『風俗画談』は未詳。『近世逸人画史』は『江都名家墓所一覧』(文化十五年(1818)     刊)の著者でもある岡田老樗軒の画人伝。これは坂崎坦著『日本画論大観』中巻に収録されている。なお美成は山崎美成であ     るが、この記事における美成の関わりが判然としない〉    ◯ 十一月丁卯(ママ)(日付なしだが朔日)『馬琴日記』第三巻 ③507   〝(『開巻驚奇俠客伝』四集の発売延期を江戸の版元・丁子屋平兵衛に通告してきた大坂の板元・河内屋茂    兵衛への返書)明々年未正月うり出しニ致し度よしニ付、さやうに延引ニ及び候て、老年のわれら、大部    のもの満尾ニ数年かゝり、無覚束存候間、四集切ニて、あとハやめ可申存趣之断状也。別紙丁子やぇも其    断申遣ス〟    〈馬琴、五集以降の腹案を断固封印するとは大胆で頑固な決断である。それほど発売延期は、馬琴にとって信義に悖る行為と感     じられたのであろう。この経緯については十一月六日付、小津桂窓宛書翰(番号28)がより詳しい〉     ◯ 十一月 六日『馬琴日記』第三巻 ③511   〝( 丁子屋の使い)根岸画工重信方へ罷越候よし〟     〝近藤伴右衛門事、画名戴斗、口状書持参。是迄地主杉浦氏老母を以、対面之事、度々被申入候処、多用ニ    及れ候間、自身罷越、ひたすら願候よし也。来月中旬、又可参よしニて、おみちへ口状書わたし、帰去〟    〈九月廿六日参照。「今の北斎戴斗」は何としても馬琴に面会したいらしい。来月中旬、再度訪問する旨の口状書を置いていっ     た〉    ◯ 十一月 六日 『滝沢家訪問往来人名録』下123   〝巳(天保四年)十一月六日 口状書持参 是より前杉浦氏継母紹介ス来面 麹町天神前 京極飛騨守殿家    臣 画名後ノ北斎戴斗 近藤伴右衛門〟      ◯ 十一月 六日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-27)③108   ◇ ③108   〝『俠客伝』三集のさし画、やう/\九月十八日ニ出来揃ひ、夫より彫刻差急ギ、此節追々ほり出来、いま    だ揃ひ不申候得ども、十一月一日より校合ニとりかかり罷在候。十二月中旬下旬迄ニハ、ぜひ/\出板可    致候〟     ◇ ③108   〝同書(「俠客伝」)四集ハ、八月中旬より稿本ニ取かゝり、これも引つゞき、来正月中旬迄ニ、ぜひ/\    うり出し度よし、丁子や平兵衛達て願ひ出候間、任其意、秋中より昼夜出精いたし、十月廿九日ニ四集五    冊、不残稿本出来いたし、筆工ハ両人ニて、半冊づゝ引わけ、書せ候故、書画板下と稿本と、半冊ちがひ    ニて同時ニ出来、手廻し尤神速ニ候処、大坂板元河茂より急状到来、十二月中うり出しニ不成候て、正月    うりニ成候てハ、捌あしく御座候間、大延しにいたし、四集ハ明々年未正月二日うりニ致し度よし、申来    候。是ニて秋中よりの出精、画餅ニ成候故、五集の作ハ断候て、已来かゝぬつもりニ、書状大坂ヘ出し候〟    〈大坂板元・河内屋茂兵衛と江戸板元・丁子屋平兵衛との間で、出版時期をめぐって、意見の対立が表面化していたのである。     無論馬琴は丁子屋と同じ立場だ。しかし実の板元・河内屋の意向が優先されて、四集は「明々年」に廻されてしまった。こ     れでは、秋以来、板元の要請に応えるべく四集に傾けた「出精」が「画餅」になるではないか、加えて、当初の取り決めを     相談もなく一方的に破棄するといった信義に反する仕打ちを受けた以上、五集以降はきっぱり断筆すると、馬琴は断固決意     したのである〉      〝『金瓶梅』ハ、画工国貞故、夏中より引ずらせ、やう/\十月ニ至り、画写本出来ニ付、十二月下旬なら    でハ出板致まじく候〟    ◯ 十一月 六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-28)   ◇ ③117   〝『金瓶梅』三集合弐冊、当夏中より画工国貞ニて引ずられ、十月上旬、やう/\右の画出来、それより急    ニ筆工へ廻し、五七日已前、やう/\一弐終り、只今ほり立申候。これハ、十二月おしつめならでハ出板    致まじく、御地ぇは正月廻り可申候〟   〝『俠客伝』三集、画工国貞ニて幕支候趣、先便得貴意候処、やう/\九月十八日ニ至り、さし画・口絵共、    不残出来(中略)当冬出板、心もとなく存候処、丁平よほどきびしく画工へさいそくいたし、夫故九月中    旬迄ニ、画ハ不残来候得ども、画工と絶交同様之間がらニ相成り、うすゞみ・つや墨・色ざし、ふくろ・    とびら等の画もやうハ、別画工・今ノ柳川ニ画せ候〟     ◇ ③118   〝八月上旬、江戸板元丁子や平兵衛参り、『俠客伝』四集之事、画ハいかやうニもいたし、間ニ合せ候間、    何とぞ、四集を引つゞき出板にいたし度候。依之、願ひ出候。何分、早々御とりかゝり被下候様ニ申候間、    答ニ、潤筆も夏中過半請取置候上ハ、いなむにあらず候得ども、しばらく打捨置候故、急ニも筆とりがた    く、いづれ八月中旬比よりならでハ、取かゝりがたく候。左候へバ、年内彫刻出来かね可申哉之旨ヲ以、    推し候処、板木師の義ハ、一冊づゝ引わけ、速ニほらせ候つもり、手当いたし置候間、ぜひ/\間ニ合せ    可申ト、かたく申候間、八月十五日より筆とりはじめ候処、丁平ひたいそぎに急ぎ候間、一回づゝ稿し候    へバ、直ニ筆工ニわたし申候。尤、筆工両人ニかゝせ候間、よほど精出し不申候てハ、筆工ニ追れ候まゝ、    昼夜只これのミにて日をくらし候。八九月中迄は、忰もとかく同様ニて、よほどの大病ニ候へ共、見かへ    るいとまもなく精出し候。画ハ柳川重信婿重政、二代め柳川重信と改名いたし候へども、画ハ未熟也。な    れどもはやく出来候上、丁平懇意ニて、大ニひいきに候間、是ニ画せ候。既にして、十月廿九日迄ニ、五    冊不残稿し畢り、板下書画共、四冊め迄出来、五冊めの前三十九回半冊、筆工最中ニ書居候よしの節、右    廿九日夕方、丁子屋拙宅ぇ罷越候て申スやう、扨、彫刻之義ハ、年内ほり上候ても、江戸・大坂ハ第二集    のごとく、来正月下旬うり出しニ成り可申候。然処、大坂ニてハ、十二月下旬ニうり出し不申候てハ、捌    甚不宜候ニ付、第四集ハ、明々年未ノ正月二日うり出しニ可致旨、申来り候。尤、三集も画工ニておそな    ハり、年内うり出しの間ニ合かね候ハヾ、是亦明午ノ十二月うり出しニ可致候間、板ヲ船づみニいたし、    来夏迄ニ登せくれ候様、申越し候。私事、あひ持の義ニは候へども、実の板元ならず候間、自由いたしが    たく候。依之、四集ハ、明々年未ノ正月二日うり出しニ致度旨申候。是ニてビツクリいたし、且呆れ候得    ども、商ひ向の不都合と申ニハ、手もつけられず候故、その意ニ任せ、ともかくもと挨拶ハいたし候へ共、    中一ヶ年置候而うり出し候事、あまりに長々しく、ばか/\しく、八月中より大病人の中ニて、昼夜出精    いたし候骨折、画餅ニ成り候故、もはや五集ヲ書キ候気モなくなり候ニ付、則大坂河茂ぇ、急ニ書状差出    し、四集、江戸の手配り、少しも無如在候処、十二月製本不出来候てハ、捌ヶ方不宜候ニ付、明々年正月    二日うり出しニ被成度よし、承知ハいたし候へ共、拙者事、追々老年ニ及び候処、左様ニ中一ヶ年づゝも    間ヲ置候て、うり出しニ成候てハ、大部之もの、中々生涯満尾、心もとなく候。依之、『俠客伝』ハ四集    迄ニて、已来五集ハつゞり不申候間、かねて承知いたし候様、きびしく申遣し候。全体、四集ハ五集の    (糸編+宣)染(シタゾメのルビ)ニて、作者の専文ハ五集ニ有之。いろ/\腹稿いたし候を捨て仕舞候仕合、    御賢察可被成候。大坂板元は、河太『巡島記』ニてこり候間、『俠客伝』も二の足を踏候処、丁平達て願    ひ候て、一式引請、万事江戸板元の通りニいたし候よし申ニ付、つゞり立遣し候処、果して、如此変卦出    来、遺憾不少候。『俠客伝』四集、うり出し大長のびニ成候故、『美少年録』四集も来年ハ延引、明々年    より又はじめ可申哉、いまだしれかね候。その内ニハ、拙齢七旬ニ及び候故、気力追々おとろへ可申候。    何事も勢ひニ従ひ候ものニ候処、只今の利のミ考、はやく全部満尾させて、株板ニせんと思ふ了簡なきハ、    賈豎の猿智恵ニて、是非もなき事と、嘆息の外無之候。右之仕合ニ付、四集も、此節板下とも、不残出来    候へども、うり出しハ明々年未ノ正月ニ成り可申候〟    〈『俠客伝』三集の年内決着を目指す板元丁子屋は、流行絵師国貞と「絶交同様の間がら」になりながらも厳しく催促して何     とか間に合わせる見通しがついた。一方、四集の挿画は、三集の国貞の遅滞に手を焼いたか、「画ハ未熟也。なれどもはや     く出来候」と、仕上がりの効率を優先して二代目柳川重信に交代させた。馬琴の内心気が進まなかったが、ここは丁子屋に     譲った。しかしこの「俠客伝」四集もやはり変調をきたす。馬琴は丁子屋との三月十八日の取り決め(三~四集十冊の連続     出版計画)に添って、十月中には何とか原稿を書き上げた。ところがここに及んで、実の板元・大坂河内屋茂兵衛と馬琴・     丁子屋側との間に、発売時期をめぐる対立が表面化し、調整が付かなかった。結局、実の板元・河内屋の意向が通って、四     集の売り出しは天保六年の正月廻しとなってしまった。「あい持」板元では、丁子屋の交渉力をもってしても、流石にこれ     を覆すだけの力はなかったのだ。この出版に先立って「万事江戸板元の通りニいたし候よし」と、馬琴は聞いていたので、     江戸の板元・丁子屋平兵衛の思惑通りになるものと思っていたが、それがすっかり目算違い。馬琴にしてみれば、物語の展     開上よかれと思って取った計画が、板元の経済的な都合で、力づくで潰されたかのように感じられたのではないか。「江戸     の手配り」を理解しようとしない大坂板元・河内屋茂兵衛に対して、馬琴は「商ひ向の不都合と申ニハ、手もつけられず候     故、その意ニ任せ、ともかくもと挨拶ハいたし候へ共」と表面上は取り繕ったものの、古稀を間近に控えて次第に衰えつつ     ある「気力」「勢ひ」まで、板元の一存で封じ込められることには、なんとしても我慢がならなかったのであろう。かくて     「已来五集ハつゞり不申候」と断筆を宣言、且つ「作者の専文ハ五集ニ有」というその五集の腹案を永遠に封じ込めたので     ある。文政十年(1827)に中絶した『朝夷巡島記』(歌川豊広画)の河内屋太助もそうであったが、馬琴はどうも大坂の板元と     は相性が合わないようである。大坂の板元は、作者あるいは作品への配慮以上に、商品価値というか経済性の方を優先させ     ると、馬琴には映っていたのだ。さて、この『俠客伝』三~四集をめぐる騒動の締めくくりに、三集の奥書を引いて終わり     にしたい〉     (出典『開巻驚奇俠客伝』「新日本古典文学大系87」岩波書店)   〝開巻驚奇俠客伝第四集 第三集出板後推つゞきて発行遅延なし。第三集に局面詳ならざるもの、本集に至               て悉く分解す。且小六と姑摩姫と初面会の段第四集にあり。三集と四集と合し見               るときはその興いよ/\深長なるべし〟      〝俠客伝第三集稿成るの後、かねては文渓堂が美少年録第四輯を綴らんことを作者曲亭翁に乞ひまうせしに、    本集五巻は楠姑摩姫の紀事のみにて、小六助則と面会の段に至らず、こゝをもて看官飽ぬ心地し給ふもあ    るべしといふ翁の斟酌により、又次編第四集五巻を推つゞけて綴られたり。こは本房の幸ひ甚し。かゝれ    ば三集四集と陸続刊布の次に、美少年録第四輯をもつぎ出されんこと遅延あるべからず。是等のよしを四    方雲顧の諸君子に報ゲまつるになん。群玉堂謹白〟    〈群玉堂が大坂河内屋。この「謹白」がいつの時点のものか知らないが、河内屋はある時点まで、それも奥付の文面変更を断     念して見切り発車せざるを得ないという出版直前まで、馬琴の「斟酌」によって、三集四集が「陸続」と刊行されることを     「幸ひ甚し」としていたのである。登った梯子の外され方がいかにせっぱ詰まったタイミングだったかを物語っていよう。     馬琴が河内屋に対して、五集断筆・構想封印という、意趣返しとも自爆とも云えるような挙に出た震源はここにあるのだろ     う〉       ◇ ③120   〝『判官太郎白狐伝』トいふ物を綴り候腹稿ニ御座候。これハ、四谷辺の書賈中村や勝五郎といふもの、両    三年前より、画工北渓紹介ニて、よミ本被頼居候間、これニほらせ候て、責を塞ギ可申存候。これハ、前    文得貴意候『平妖伝』の翻案物也〟     〈国文学研究資料館「日本古典籍総合目録」に『判官太郎白狐伝』は見あたらない。この『平妖伝』は中国の古典である『三     遂平妖伝』。翻案の種本である〉    ◯ 十一月十七日『馬琴日記』第三巻 ③519   〝山本宗慎殿入来。予、対面。かし置候垣下徒然・金平双紙等、被返之。尚又、奥村文角遊女の内、同きほ    ひたて右折本二本・兎園小説十五之巻かし遣す〟    〈奥村文角は奥村政信。『耽奇漫録』下巻をみると、文政八年(1811)四月十五日と五月十五日開催の「耽奇会」出品記事に、     「奥村政信遊女の画像折本一巻」と「元禄年間奥村文角画本 競桜【折本】一巻」がある。この「折本二本」はその「耽奇     会」に出したのと同じものである。本HP『耽奇漫録』か「浮世絵師総覧」の奥村政信の項参照。山本宗慎は宗伯が就いた     医師啓春院の嗣子。書籍愛好家〉    ◯ 十一月廿四日『馬琴日記』第三巻 ③525   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。俠客伝三輯、予注文之表紙四五枚すらせ、見せらる。右之表紙へ蛍をほり    入候様、示談。直に、根岸重信方へ罷越、画せ可申よし也〟    ◯ 十二月 二日『馬琴日記』第三巻 ③534   〝先比より、木村黙老頼赤本作者部、稿しかけ候処、来客等ニて、未果〟    〈木村黙老は高松藩江戸家老。馬琴作品の愛好家であり蔵書家。依頼された「赤本作者部」は後に『近世物之本江戸作者部類』     の所収となるもの。軽く引き受けたらしいこの「作者部類」がまた紆余曲折、複雑な経過を辿って、馬琴父子を悩ませるこ     とになる〉    ◯ 十二月 六日『馬琴日記』第三巻 ③536   〝予ハ、物の本作者部類三四丁、稿之〟    ◯ 十二月 七日 ③538   〝物の本作者部類之内、三四丁、稿之〟     ◯ 十二月 八日『馬琴日記』第三巻 ③539   〝渡辺登来ル。予、対面(中略)当年初来也〟    〈渡辺崋山である。次項〝同刻、赤坂画工北渓来ル〟とあるが、馬琴が北渓に連絡を取るときはどういうわけか、崋山経由で     するから、両者同道して来訪したのかもしれない〉       〝同刻、赤坂画工北渓来ル。手みやげ二種、被贈之。中村屋勝五郎頼ミ、武者画本之事并諸国名所の画序文    之事、被談之。愚意之趣、巨細に示談〟    ◯ 十二月 九日『馬琴日記』第三巻 ③540   〝物の作者部類、終日稿之。両三伝に過ぎず〟    ◯ 十二月 十日『馬琴日記』第三巻 ③540   〝山本宗慎より使札。先月頼置候瀬田問答写し出来、被差越之。且、菱川師宣遊女之像懸幅箱入一幅、代二    百疋のよし。真筆に候はゞ、かひ取申度よしにて、鑑定を乞はる。一覧の処、落款等宜見え候得ども、卒    爾ニ付、尚又、花山・文晁ニも見せ可然旨、申進ズ〟    〈菱川師宣「遊女之像」の掛け軸一幅。二百疋は二千文。約2分の1両。馬琴は真筆と見たようである。念のため渡辺崋山と谷     文晁にも鑑定してもらうよう進めたのである。その後の展開については十二月二十七日参照。『瀬田問答』は天明五年~寛     政二年にかけて行われた大田南畝の質問とそれに対する瀬名貞雄の回答を収録したもの〉      〝物之本作者部類の内、二名餘、稿之〟       ◯ 十二月十二日 殿村篠斎・小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-34)   ◇ ③141   〝『傾城水滸伝』の板元鶴屋喜右衛門、急病にて昨十日八時死去のよし、昨夕右の訃聞え候。依之、『けい    せい水滸伝』十三編、年内売り出しの間に合かね可申候。いまだ四十余歳にて、幼少の子ども多し。いと    いたむべき事に御座候。老ては、かゝる事聞くにつけても心よはくて、ねらねぬまゝに、      しるやいかにこけの下なる冬ごもりしるしの松に春をまたして    と口ずさみ、手向申候。時節がらにて、余日なく候へば、葬式は来春下旬に致し候よしにて、その翌晩、    かりにとむらひにいたし候おもむけ、申来候へば、かく思ひつゞけたるにて御座候〟     ◇ ③142   〝『江戸名所図会』の事、かねて御聞及も被成候哉、この書は天明比、内神田佐柄木町の名主斎藤庄左衛門    が思ひ起し候処、不果志て没し候に付、その子庄左衛門、親の稿を続候とて、文化中より折々、鵬斎がり    ゆきかひ相談いたし、絵は雪旦にかゝせ候。小田原町肴市の図の板下を見候は、二十四五年已前の事に候    キ。此庄左衛門は、冷泉家の歌をよみ候て、生ぬるなる人物なりき。肝煎名主にて、冊子の改役人の一人    なりければ、野老も面識に御座候処、十ヶ年許已前に身まかり、その子庄左衛門、弱冠なれども、父祖の    志を果さんとて、誰やらに相談いたし、稿を続候よし、及聞候処、全部やう/\出来いたし、明春はうり    出し候よしに御座候。勿論、板元は日本橋通壱丁めの須原や茂兵衛也。凡四十年許かゝり候事故、須原や    も久しく元入いたし、及迷惑候へども、名主の事なればせんかたなく、編者の思ひのまゝにいたし、うち    過候よし。出板の節、かふても見んとおもひて聞候処、全部十巻にて、代金壱両二分のよし。是におそれ    て、沙汰に不及候。名所図会流行の折すら、『唐土名所図会』、代金壱両壱分なる故に、うれず候。況今    日、名所図会すたり候。よしや、江戸の名所図会なりとも、かゝる時節に高料の新本、尤心もとなき事に    御座候〟    〈『江戸名所図会』は斎藤月岑編で天保五年から七年にかけて刊行された。この書翰の時点ではまだ出版されていない。しか     し伊勢松坂の殿村篠斎や小津桂窓などの識者の間では、この出版が既に話題になっていたようである。『江戸名所図会』の     出版は月岑の祖父(長秋)・父(莞斎)と三代にわたる宿願であった。馬琴は月岑とは面識はなかったようだが、「冊子の     改役人」でもあった月岑の父莞斎とは面識があったというから、馬琴にしても無関心ではいられなかったのだろう。『唐土     名所図会』とは文化三年(1806)刊の『唐土名勝図会』(木村蒹葭堂発案、岡田玉山編、玉山・岡熊岳・大原東野画)のことで     あろうか。名所図会流行のとき出版された『唐土名勝図会』すら一両一分の高値ゆえにあまり売れなかったのである。まし     てブームの去った現在、『江戸名所図会』の一両二分は高すぎるのではないかと、その売れ行きを馬琴は危ぶんでいたので     ある。なお文化中より折々相談相談したという「鵬斎」とは亀田鵬斎(文政九年(1826)没)。参考までに言うと、『江戸名     所図会』の序は亀田鵬斎の長子亀田長梓(綾瀬)であった〉     ◇ ③143   〝先月、黙老人に問れ候事有之。それより思ひおこし候て、此節、『近世物の本作者部類』トいふものをつ    ゞり候。早速稿しをはり候はんと存、四五日前より取かゝり候処、中々手おもく成り、大晦日前ならでは、    出来をはり申すまじく候。先づ秘書にいたし置候半と存候へ共、黙老と御両君へは、おめにかけ可申候。    後世に至りては、尤も珍書たるべく候〟    〈黙老は高松藩家老木村黙老。その黙老に依頼された戯作者評論『近世物之本江戸作者部類』の執筆を、馬琴は軽くみていた。     しかしこれが案外手強くて、本業である戯作に影響が出るなど、これ以降来年にかけて本文の執筆及びその写本制作に手こ     ずることになる〉    ◯ 十二月十三日『馬琴日記』第三巻 ③543   〝予、物の本作者部類稿、四五丁、稿之。赤本の部大抵満尾、廿一丁め右迄也〟    〈とりあえず草双紙の「赤本の部」の原稿が出来上がった〉     ◯ 十二月十四日 ③543   〝物の本作者部類、稿之。赤本の部筆。夕方より小冊の部一丁、稿之〟    〈「小冊」は「小本」(洒落本)であろう〉      ◯ 十二月十五日『馬琴日記』第三巻 ③544   〝予、作者部類小本・中本作者の部、三四丁、稿之〟    〈「小本・中本」は「洒落本・滑稽本」〉       ◯ 十二月十六日『馬琴日記』第三巻 ③   〝予、作者部類小本の部、稿之。然処、谷峩をもらせしにより、凡一丁半棄去て、又稿之〟    〈「谷峩」は梅暮里谷峨〉     ◯ 十二月十七日『馬琴日記』第三巻 ③545   〝山本宗慎殿来訪。予、対面(中略)菱川画はこ入書付、被乞之。右かけ物あづかりおく〟    〈十二月十日記事にある「菱川師宣遊女之像懸幅箱入一幅」。崋山や文晁の鑑定結果はまだのようだ〉     〝今日、戯作者部類上巻、可稿終処、来客ニて不果〟    ◯ 十二月十八日『馬琴日記』第三巻 ③545   〝作者部類上巻三十三丁稿し畢。よみ返し、悞脱補写ス〟    ◯ 十二月十九日『馬琴日記』第三巻 ③546   〝作者部類下の巻、よミ本作者の部、今日創之。わづかニ弐丁、稿之〟    ◯ 十二月廿日『馬琴日記』第三巻 ③547   〝作者部類下巻の内、二丁餘、稿之。綾足略伝ニて四丁め迄也〟    〈建部綾足(寒葉斎)まで進む〉    ◯ 十二月廿一日『馬琴日記』第三巻 ③548   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。(中略)雪丸作よミ本序文之事、被頼之。此比、先比より度々及辞退とい    へども、度々ニて、懇望已ことなし。潤筆五百疋と定置候得ども、金三百疋ニて云々と申ハ、尚又勘弁の    上、可及相談、申聞おく〟      〝予、作者部類下之巻の内、二丁稿之。風来山人伝也〟    〈風来山人は平賀源内の戯作名〉     ◯ 十二月廿二日『馬琴日記』第三巻 ③549   〝作者部類の内、わづかに二丁、稿之。下の巻全交迄也〟    〈天明期の戯作者・芝全交まで脱稿〉     ◯ 十二月廿三日『馬琴日記』第三巻    〝予、作者部類中の巻の内、四丁稿之。よミ本京伝部終迄也。三冊ニ可成思ふ。惣て是迄下ノ巻としるすも    の、中之巻ニ成ル〟    〈山東京伝(北尾政演)まで脱稿〉    ◯ 十二月廿五日『馬琴日記』第三巻 ③550   〝いづミや市兵衛より使札。金瓶梅三集上、今日うり出候よしニて、右本二部、外ニ注文之弐部、都合四部、    被贈之。(中略)然ル(ママ)、泉市より、画工国貞へ遣し候同書一包、此方へ参り候内へまじり来候処、あ    とニて心づく、使帰候故、無是非、あづかりおくのみ〟     〝作者部類中の巻の内、予が分の内、わづかに二丁、稿之〟    〈曲亭馬琴の項目に入った〉    ◯ 十二月廿六日『馬琴日記』第三巻 ③550   〝山本宗慎殿より使札。(中略)菱川かけ物箱書付之事、催促申来ル。(中略)近日染筆、是よりもたせ可    遣旨、返翰ニ申遣ス〟    ◯ 十二月廿七日『馬琴日記』第三巻 ③551   〝予、山本宗慎殿たのミ、菱川吉兵衛画かけ物はこ書に付、作文書之、昼時書畢〟    〈「菱川師宣遊女之像懸幅箱入一幅」は真筆と見えて、馬琴は箱書きをした。「菱川吉兵衛画」はその懸幅の落款であろうか。     十二月十日の記事では、山本宗慎に渡辺崋山や谷文晁の鑑定を進めたが、馬琴自身にその形跡はない。なお箱書き料として、     山本宗慎は「鮭一、魴々魚」を贈っている(同月二十八日)〉      〝作者部類中の喜三二分、三丁弱、稿之〟    〈朋誠堂喜三二まで脱稿〉     ◯ 十二月廿八日『馬琴日記』第三巻 ③553    〝(山本宗慎殿へ)一包ハ菱川かけ物、一包ハ返済之書籍、古今医談・江戸繁昌記、各一冊、右返却〟   〝(山本宗慎殿より書状)菱川画かけ物箱うら書付潤筆筆として、鮭一・魴々魚、被贈之〟    〈この馬琴箱書きの菱川吉兵衛画「遊女之像懸幅箱入一幅」は現存しているのだろうか〉     〝作者部類中之巻自分の処、一丁半弱、稿之〟    〈『近世物之本江戸作者部類』はいよいよ自分自身・曲亭馬琴に項目にさしかかった〉    ◯ 十二月廿九日『馬琴日記』第三巻 ③553   〝予、作者部類中の巻の内、自分、二丁餘、稿之〟    〈これも自分の記事〉    ◯ 十二月晦日『馬琴日記』第三巻 ③554   〝予、今日、作者部類中の巻、自分一丁餘、稿之〟    〈これまた自分の記事である〉    ◯ 十二月(『著作堂雑記』259/275)   〝仙鶴堂は通油町絵草紙問屋鶴屋喜右衛門と云、姓小林氏、大酒淫情常に満たり、天保四年癸巳十二月十日    卒倒して身まかる、明午春正月十八日葬式をいとなむ、手向に詠て遣したり、      しるやいかに苔の下なる冬ごもり            ひがしの松に春をまたして〟