Top          浮世絵文献資料館         曲亭馬琴Top
             「曲亭馬琴資料」「天保二年(1831)」  ◯ 正月 元日『馬琴日記』巻二巻 ②275   〝(宗伯年礼)松前下やしきへ罷出、老公へ御礼相済、家中廻勤。帰路、谷文晁・関忠蔵・屋代太郎殿等    ぇ年慶申入、夕七半時比帰宅〟    〈老公とは松前道広。屋代太郎は国学者にして蔵書家として知られる屋代弘賢〉    ◯ 正月 三日『馬琴日記』第二巻 ②276   〝下谷三せんぼり東条文左衛門方へ、新板袋入合巻上下二帙づゝ、弐部遣し候。右は去冬、先哲年表・人    物志後編等、被贈候返礼也〟    〈『先哲叢談後編』(文政十三年刊)で知られる東条琴台。「先哲年表」とは『先哲叢談年表』(文政十年序)。「人物志後     編」は『古今人物志補正』のことか。馬琴が琴台に返礼した「新板袋入り合巻」は何であろうか〉     ◯ 正月十一日 殿村篠斎宛別翰(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-1)②6   〝『美少年録』画工北渓、一向埒明不申、且、板元いやがり候故、四編より末ハ、外の画工ニ取かへ不申    候ハヾ、速ニ挿画出来申まじく候〟    〈渡辺崋山を介して挿絵を依頼した北渓、またも遅筆で板元と馬琴を苦しめるのである〉    ◯ 正月十五日『馬琴日記』第二巻 ②283   〝丁子屋平兵衛より、使を以、右同書(『開巻驚奇俠客伝』)壱の巻残りさし画壱丁、二の巻弐丁、英泉    方より出来のよしにて、見せらる〟    ◯ 正月十七日『馬琴日記』第二巻 ②285   〝(宗伯、芝・赤坂年礼の帰路)半蔵御門外へ廻り、渡辺登方ぇ罷越し、同人妹不幸にて、引籠居る候よ    しに付、年始御礼、不申述〟    〈渡辺登(崋山)は宗伯の画友。三宅家田原藩の家老に就任するのは翌天保三年(1832)のことである〉     ◯ 二月十四日『馬琴日記』第二巻 ②301   〝丁子や平兵衛来ル。さくら餅一折り持参。是より、画工英泉方へ罷越し候よしニ付、俠客伝五の巻さし    画稿三丁・一の巻口絵三丁・もくろくわく一丁、右稿本わたし遣す〟    ◯ 二月廿四日『馬琴日記』第二巻 ②308   〝丁子や平兵衛より、使ヲ以、美少年録三輯三の巻さし画の弐、壱丁、北渓方より出来のよしにて、差越    ス。(中略)北渓画、いよ/\出来かね候はゞ、今日人遣し、稿本とり返し可申旨、丁平より申来候畢。    右の趣、北渓方、為可申遣、則、手書認、丁子やぇ遣之。さし画稿とり返し可申ための文言也。丁平、    右手書見候上、北渓方へ遣し候様、この義も使へ申ふくめ、もたせ遣ス〟      ◯ 三月 五日『馬琴日記』第二巻 ②316   〝画工北渓来ル。手みやげ持参。予、対面。美少年録三輯口絵の内、一丁出来、持参。残り一丁は、明後    (ママ)出来のよし、申之〟    ◯ 三月 八日『馬琴日記』第二巻 ②318   〝丁子や平兵衛来ル。美少年録三輯口絵残り、北渓方よりわづかに半丁出来のよして、持参。明日、尚又    人遣し候処、北渓へさいそくの手書認くれ候様申ニ付、則催促状染筆、遣之〟    ◯ 三月廿一日『馬琴日記』第二巻 ②326   〝三宅内渡辺登、入来。則、秉燭対面。雑談数刻、五時前帰去。但、正月中同人妹不幸ニ付、年始礼延引、    今とし玉持参、去秋中、同人より借用の四庫全書一帙、今夕、同人ぇ返之畢〟       ◯ 四月 朔 『馬琴日記』巻二巻 ②331   〝丁子や平兵衛来ル(中略『近世説美少年録』)四の巻さしゑ写本一丁出来のよしにて、見せらる。小忠    二面体わかく候て、不宜候間、直させ候様、示談。北渓へ口上書さし添、かへし遣す〟    ◯ 四月 九日『馬琴日記』第二巻 ②335   〝清右衛門来ル。過日申付候八犬伝にしき絵三枚ヅヽ弐通り、つるやにてかひ取、持参〟    〈この八犬伝の錦絵、三枚づつ二通、鶴屋にて買い取るのだが、誰の八犬伝であろうか。四月十四日付、殿村篠斎宛書翰によ     ると、歌川国芳画『本朝水滸伝豪傑八百人一個』所収の「芳流閣」(竪二枚続き)と「対牛楼の場」のようである。四月二     十五日の記事を見ると、この錦絵のうち三枚一通は伊勢松坂の殿村篠斎に送っている。画像は上記書翰参照〉     〝(丁子屋平兵衛の使い)美少年録四のさし画壱丁直し過候分、五の巻さしゑ壱丁、ふくろ・とびら・外    題画写本、北渓方より出来分差越し候とびらもやうまちがひ、ふくろの稿本、不用ニ成候分、画キ候へ    ども、そのまゝ筆工金兵衛へ、右使ヲ以、不残遣之〟     ◯ 四月 十日『馬琴日記』第二巻 ②336   〝(いせや久右衛門へ)美少年録二篇め、三宅内渡辺登にかし置候間、幸便にうけとり見候様、示談〟      ◯ 四月十四日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-3)②18   〝「八犬伝のにしき絵」、此節三枚出来いたし候。信乃・見八くみ打の二枚つゞきと、毛乃仇討の処也。    画は国よしに御座候。八人追々に揃ひ候よし。これも『水滸後伝』返上の節、一処に上ゲ可申候。よみ    本をにしき絵にいたし候事、古今未曾有に候得ば、みな/\きもをつぶし申候〟    〈この歌川国芳画「八犬伝のにしき絵」とは両国加賀屋の板。(八月二十八日、殿村宛書翰参照)とすると、『本朝水滸伝豪     傑八百人一個』の中に収められたものであろう。犬塚信乃と犬飼見八の竪二枚続き「芳流閣」の場面と、犬阪毛野、父の仇     馬加常武を討つ「対牛楼の場」である。馬琴は、題材を読本から取った古今未曾有の錦絵だと得意化である〉
     一勇斎国芳画「芳流閣屋根上の場」 「対牛楼の場」      (館山市立博物館蔵・八犬伝デジタル美術館)    ◯ 四月十六日『馬琴日記』第二巻 ②339   〝家主いせや久右衛門来る(中略)過日申付候手紙、渡辺登方へ持参、美少年録二篇め・商人画詞共、請    取之。美少年録はおゆうへかし候に付、とめ置、商人画詞・文政元年五月十三日相州うら賀へイギリス    大ふね着の略記、返翰〟    〈商人画詞とは喜多村筠庭の『近世流行商人画詞』か。イギリス船の浦賀来航の略記とは馬琴所蔵で貸し出しているから機密     文書とは思えない。かわら版か〉     ◯ 四月廿四日『馬琴日記』第二巻 ②344   〝種彦合巻田舎源氏初編・二編披閲〟    〈柳亭種彦作・歌川国貞画の『偐紫田舎源氏』は文政十二年(1829)から刊行開始。天保十三年(1842)まで続く大ベストセラー     であった。版元は鶴屋喜右衛門。馬琴は初めて手に取るのであろうか。批評は特に記していない〉    ◯ 四月廿六日『馬琴日記』第二巻 ②346   〝(中川)金兵衛又来る。北渓方より画参候ふくろニ、そら(ママ)づくしの方、下書無之、いかゞと可仕哉    と、申之。とびらは竜のもやうに候処、右下書かへし不申候ニ付、ふくろは後ニいたし、外題斗書くべ    し。今日丁子やぇ罷越候節、北渓へさいそくいたさせ、下書参候節、書候様、及示談〟     ◯ 四月二十六日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-4)   ◇ ②22   〝「八犬伝のにしき絵」之事、先便申上候。此間、二通りかひ取置候間、一通りづゝ三枚進上仕候。錦画    ハその節のミにて、後年ニ至り候てハ、無之品ニ御座候。あとも追々出板可致候。よミ本の人物を錦画    ニ出し候事、古今未曾有と申迄之話柄ニ御座候〟      〈錦画は「その節のミ」当座のものという意識は馬琴に限らず一般のものであったに違いない〉       ◇ ②25   〝合巻ハ画をおもにして、画中ニ文ヲ添るもの故、こゝの斟酌第一也。すべて下女抔、随分不器量ニ画候    様、毎度画工ニ及示談候へ共、画工ハ、とかく下女迄もうつくしく画キたがり候故、主の女房より名も    なき下女の方、うつくしきもありて、見物まどハしニ成候事、多く御座候。右ニ付(『傾城水滸伝』)    勇婦共の百八人すら画キあまり候に、無用の雑兵・腰元女等、名もなきものを画中ニくハえ候てハ紛ら    しく、弥肝要の勇婦ハ袖ニなり候事も有之候故、画わりニ用ひ不申候〟     〈合巻は画が主で文は従と、馬琴は見なしている。とはいえ、画工はすべての人物を美しく画きたがり、作者の筋書きと関係     ない方向にいきがちだという。だから馬琴は画わりに勇婦以外は用いないとする。この頃の『傾城水滸伝』の画工は歌川国     安〉     ◇ ②26   〝度々被仰下候『田舎源氏』、昨日初編・二編四冊、披閲いたし候。なる程、よく出来候。娘子ども御歓    び候も、ことわりニ御座候。車あらそひのやつし、国貞画大出来也。藤壺をまことの不義にせぬも、大    ニよし。しかし、まつたく合巻に限るすぢにて、件々糾せバ埒もなき事のミ御座候。(中略)義太夫ぶ    しの略文也。まつたく合巻物の体裁にあらず。これも新奇といハヾいふべし。故人京伝にくらべ候へバ、    その才十段も下ニ候処、これが只今の戯作者の一大家に候ハヾ、才子ハなきもの也と、一嘆息いたし候    事ニ御座候。(中略)国貞の画、尤妙ニ御座候。種彦ハ画わり出来不申候故、人物の所◯(ママ)斗画キ、    画工の心まかせに画せ候よし。それ故歟、拙作を画せ候より、十段もよろしく御座候。あの手際にてハ、    よミ本のさし画などハ、いよ/\宜しかるべきに、よミ本のさし画をゑがゝせ候へバ、十段も劣り候。    合巻ハ、紙中せまく候上、筆工を書入候故、よく画がしまり申候。さし画ハ其義なく、且人がらも格別    のもの故、さし画はわろく御座候。国貞ハ、只今合巻の画において、一大家といひつべし〟    〈『偐紫田舎源氏』の国貞画の見事さは、作者柳亭種彦が画工国貞の意に任せたところからくると、馬琴は考えている。「拙     作を画せ候より、十段もよろしく御座候」。しかし馬琴にはそれが出来ない。自らの画稿を画工に与えて決して「画工の心     まかせに」はしないのである。馬琴は作品の隅々まで自分の望んだものが実現されていなければ我慢できない。(実際には     思うようにならず、結局妥協せざるをえなくなり、嘆くことが多いだが)再三にわたる校正は無論のこと、板元の不手際に     愚痴をこぼし、筆工にこだわり、画工の遅筆にいらだち、悪しき彫りに憤慨し、摺りにも細かい注文を出す、人任せに出来     ない性分なのである。しかし「画工の心に任せた」国貞の合巻は別格であった。「国貞ハ、只今合巻の画において、一大家     といひつべし」と、その技量を高く評価していた。ところが読本挿絵の方はそうはいかない。国貞が合巻に見せるその手際     の良さで、読本の挿絵に取り組んだなら、さぞかし見事なものが出来あがるだろうに、と多少皮肉を込めて馬琴は云う、し     かし生憎そうはならない、それどころか「十段も劣り候」というていたらくである。読本挿絵における、馬琴の国貞評価は     甚だ低いのである。確かに馬琴作・国貞画は圧倒的に合巻の方が多い。もっとも読本がないではない。文政十二年(1829)     の『近世説美少年録』初編(二編以降は北渓画)、天保五年(1834)の『開巻驚奇俠客伝』三集は国貞画ある。また『近世説     美少年録』の続編にあたる『玉石童子訓』弘化二年(1845)~四年は豊国(国貞)画である。ちなみに国文学研究資料館の     「日本古典籍総合目録」によれば、馬琴作・国貞画の作品数は27点、そのうち読本は上記3点、あとは24点全て合巻である。     馬琴は読本においては国貞起用に積極的でなかったのである。ただこれは馬琴に限らない。「日本古典籍総合目録」は豊国     三代(国貞)の合巻361点に対して、読本は僅か9点にしかすぎない。国貞といえば合巻というのが当時の定評なのであった〉    ◯ 四月廿七日『馬琴日記』第二巻 ②347   〝渡辺登より使札。当春中松前アツケシ一件記録、有之候はゞ、借覧いたし度旨、申来る。右記録は無之、    勿論さしたる事ニ無之、世上いろ/\風聞いたし候へ共、手前には及承候事、無之旨、返翰ニ申遣ス〟    〈天保二年春の松前アツケシ一件とは何であろうか。崋山にしてみれば、馬琴の長子宗伯が松前藩に仕官しているので、この     方面の情報が入りやすいとでも考えたのであろうか。〝手前には及承候事、無之〟と強く否定するのは、この手の情報が国     家機密となる場合が多いからであろう〉    ◯ 五月廿五日『馬琴日記』第二巻 ②362   〝(板元鶴屋喜右衛門の妻の会葬にて)鶴やにて、相客、西村与八・蔦や十(ママ)三郎・角久・森や次兵衛・    岩戸や喜三郎、外不知もの一人也。蔦や重三郎事、廿年来疎遠、今日及挨拶、明年より年始往来いたし    度よし申之、別去〟    〈この蔦屋は二代目。寛政四~五年頃、馬琴は山東京伝のすすめで、初代蔦屋重三郎の手代を勤めた。また飯田町の会田家に     入夫できたのは蔦屋の斡旋によるものであった。二代目であろうと、馬琴には感慨深いものがあったはずである。もっとも     二十年来疎遠とあるのは、義理を重んずる馬琴にしては奇異な感がある〉    ◯ 六月 三日『馬琴日記』第二巻 ②365   〝大坂大蔵十兵衛(ママ)状着。当二月中、大坂へ罷越候よし。此節大坂川々御さらひニ付、以の外繁昌、町    々より為冥加、スケと号し、人足揃ひ衣裳にて、多く出候よし。右二枚つゞきのする物二枚、被贈之。    十兵衛、又程なく出府のよし也〟    ◯ 六月廿四日『馬琴日記』第二巻 ②376   〝(清右衛門を以て)半蔵御門外三宅内、渡辺登へ返却のイギリス船図説、手紙差添、一封にいたし、右    登方へ持参〟    ◯ 六月廿七日『馬琴日記』第二巻 ②379   〝西村や与八、為暑中見舞、来ル(中略)八犬伝人物大錦画ニ彫刻のよしにて、右筆工書入稿案、被頼之。    国芳画にて、尚下画のまゝ也。先づ預り置申候〟    〈この八犬伝人物大錦画とは「曲亭翁精著八犬士随一」八枚組。ただ、作品を見ると、画題の署名は馬琴ではなく、櫟亭琴魚     (殿村精吉・殿村篠斎の妻の弟)となっている。天保七年(1836)六月二十一日、小津桂窓宛書簡によると〝己が著を、みづ     から賛いたし候もいかゞニ付、琴魚子の代作にいたし置候〟とある。なお、この出版は天保七年である。同上書簡に〝西村     や、近来身上向むつかしく、しバらく店の戸をさしやり(略)右錦画も、板下のまゝにてうち捨置候〟と板元西村屋与八が     手元不如意のため出板できなかったのである〉
     一勇斎国芳画「曲亭翁精著八犬士随一」      (館山市立博物館蔵・八犬伝デジタル美術館)    ◯ 七月廿七日『馬琴日記』第二巻 ②403   〝(『近世説美少年録』の)とびら稿、北渓方へ度々申遣し候へども、無之よし。申来候趣、被申之〟    ◯ 八月 四日『馬琴日記』第二巻 ②408   〝丁子屋平兵衛より、手代使を以、美少年録三輯とびら稿本、画工北渓方より差越候よし、申之。依之    尚又画せ可申哉と問しむ。予、右使に対面。右写本は六月中北渓より到来、稿本をかへさず候間、筆工    金兵衛方へ右写本預置候。昨、日、此方より使ヲ以、金兵衛方へ申遣し候へ共、此節病臥のよしにて、    返事不分明候。今一応、金兵衛方を吟味いたし、弥金兵衛方にて写本失ひ候はゞ、北渓方へ申遣し、画    せ候様、示談に及び、右とびら稿本、使ぇわたし、(以下略)〟    ◯ 八月 五日『馬琴日記』第二巻 ②409   〝(丁子屋より使い)昨日の美少年録三輯とびら、金兵衛方を尚又穿鑿いたし候哉と尋候処、昨日又たづ    ねさせ候へ共、彼方に無之よし、申之。然上は、稿本早々、北渓方へとびら写本画せ候様、示談申ふく    め遣し、今日之校合すり本は、請取おく〟    ◯ 八月六日『馬琴日記』第二巻 ②410   〝美少年録三輯とびら、先達而画キ参候もの、画工北渓方に有之候よし。丁子や手代、宗伯へ申候よし。    然ば間違、丁子やより又北渓方へ遣し、北渓方にて仕舞置候歟。こゝろ得がたし〟    ◯ 八月十八日『馬琴日記』第二巻 ②420   〝丁子屋平兵衛同道にて、画工柳川来ル(中略)右八犬伝八編、近々稿にとりかゝり候ニ付、右さし絵、    此度は柳川一人に画せ度よし。過日、平兵衛申といへ共、先年不落着のいたし方、度々有之候ニ付、一    応面談にて、ともかくも可致旨、丁平へ申聞置候間、今日同道のよし也。依之、右の趣かけ合に及び、    無滞画き可申旨、うけ合候に付、其趣に治定し畢〟    〈『南総里見八犬伝』七輯の画工は柳川重信と渓斎英泉が担当。八輯は柳川重信が単独で当たる。英泉がはずされたのは板元     丁子屋平兵衛の意向のようだが、どんな事情があったのであろうか。もっとも、重信の方にも問題があった。板元同道の上     で遅滞無く画くことを約束しているところをみると、〝不落着のいたし方〟とは、遅筆による一悶着でもあったのかもしれ     ない〉       ◯ 天保二年(1831)八月二十六日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-8)②51   〝「八犬伝の錦画」、いぬる比致進上候ハ、板元両国のかゞ屋に御座候。然処、西村与八が又『八犬伝』八    枚つゞきのにしき絵ほり立候よしニて、七月中、右下画を持参いたし、是へ八士の略伝を書くれ候様、た    のまれ候。ヶ様之もの、外より出候てハ、なか/\におかしからず。何分外人へたのミ候様申候て、辞し    候へども、承引致し不申候。依之、琴魚様御名を借用いたし、文ハ老拙綴り候て、作名は琴魚様ニいたし    可申候間、それニて納得いたし候様、申示し候へバ、やう/\致承引候。尤、来春のうり物ニいたし候間、    九月中迄ニ出来候へバよろしきよし、又四五日前、板元与八参りテ申候。左候へバ、尚余日も有之、琴魚    様、御なぐさミに作文被成候てハいかゞ可有之哉。それも、御病中御面倒ニ思召候ハヾ、老拙代作可致候。    画ハ、      房八親兵衛を背負ひ、使者二人を、一人ハ腕をねぢあげ、一人をバふみたふし居候図 一枚      毛乃女の衣裳、ふり袖にて雑兵ト血戦の図 一枚      【道節 壮介】やみ仕合、二枚つヾき      小文吾前髪、相撲とりの出立ニて、小ずまうの片頬をはりまぐる図      【信乃 源八】芳流閣の大刀打、二枚つゞき    右八枚ニ御座候。長キ事ハかゝれず、八犬士の略をかなまじりに、だれニもわかるやうニ、約ニ書キ候へ    バよろしく御座候。此義、琴魚様へ御伝声可被成下候。    扨此画へ、古人嵓軒翁の八犬士の御歌を加入いたし候てハ、いかゞ可有之哉。御追薦のひとつニも思召候    ハヾ、書加へ可申候。然ながら、錦画の事なれば、あらずもがなと思召候ハヾ、書加へ申まじく候。此両    条ハ、御近便ニ一筆、いづれとも御しらせ可被下候。    右の貴答ニよりて、いか様ニも取斗可申候。これハ当暮、八枚一度ニうり出し候よしニ御座候〟    〈加賀屋板「八犬伝の錦画」とは国芳画『本朝水滸伝豪傑八百人一個』三図。(四月十四日付書翰参照)西村与八の『八犬伝』     八枚続きとは同じく国芳画『曲亭翁精著八犬士随一』のこと。櫟亭琴魚とは殿村精吉。狂名、鈴留森近。篠斎の妻の弟。文     化五年正月十八日以来の親交。十一月二十一日、京都にて逝去するが、この時点では存命。嵓軒翁は殿村万蔵。号を常久、     巌軒、蟹麿。篠斎の異母兄弟。文政十三年(1830)七月没。篠斎は琴魚の代作と嵓軒翁の歌を載せることを結局依頼した。     「これハ当暮、八枚一度ニうり出し候よし」とあるが、西村屋の経営が難しくなり、実際に出版されるのは、ずっと後年の     天保七年に四枚、翌八年に四枚という難産であった〉
     一勇斎国芳画「曲亭翁精著八犬士随一」(館山市立博物館蔵・八犬伝デジタル美術館)    ◯ 九月 四日『馬琴日記』第二巻 ②432   〝画工赤坂の北渓持参、鮎一籠カズ廿、被贈之。予、対面。美少年録さし絵、二重墨入等の事、示談〟    ◯ 九月 六日『馬琴日記』第二巻 ②434   〝麹町三宅内渡辺登より使礼。かねて頼置候、水滸伝全書新渡本四帙、被為見之。代金三両のよし。望も    無之候はゞ、本直にかへし候哉、申来ル。則、返書ニ弐両迄ニ候はゞ、かひ取可申趣、もし二両ニ引ヶ    付申候はゞ、今少々はのぼり候共、宜取斗くれ候様、申し遣し、右二帙は、そのまゝとめおく〟    〈長崎経由の「新渡本」は武士の方が入手しやすいのであろうか〉    ◯ 九月 九日『馬琴日記』第二巻 ②436   〝(明朝届ける渡辺登宛書簡一通認める)水滸四伝全書値段之事、申遣し候用書也〟    ◯ 九月十一日『馬琴日記』第二巻 ②437   〝昨朝、渡辺登方へ手紙持参。則、回翰請取、今日持参〟    ◯ 九月十三日『馬琴日記』第二巻 ②440   〝(『近世説美少年録』)三之巻さし画の内、稿本とぢかひ以前、五郎書写候処有之、当書林年番、北し    ま長四郎、かれ是やかましく申ニ付、入木直し致させ可哉之旨、申之。その意ニ任せ、右之処斗入木い    たし候様、示談。画かき直しの注文、図之直シ、今夕持参の三之巻、右の画の処へ朱を入レ、丁平(丁    子屋平兵衛)ニわたし遣ス。画工、北渓にては埒明かね可申候間、柳川ニ画き直させ候つもり、示談〟    〈書林行事の北島長四郎から挿絵の手直しを求められたのである。しかし同月十六日の日記によると、この日の夜、丁字屋平     兵衛が馬琴宅からの帰路、同図を持って北島方に寄り、再び掛け合ったところ、今度は何とか納得したとのこと。結局北渓     の挿絵がそのまま使われたのである〉    ◯ 九月十七日『馬琴日記』第二巻 ②443   〝戸田内河合勇七郎来ル(中略)大雅画かけ物持参。見せらる。一幅対の処、右のかた欠候ものニ可有之    旨、鑑定いたし遣ス〟    〈河合勇七郎は深川清住町戸田因幡守下屋敷住の筆耕・河合孫太郎の父。馬琴は古書の書写を専ら「深川写し物の筆者」達に     依頼していた。孫太郎はそのグループの一人。今回、馬琴は『遺老物語』の書写を依頼していたのだが、孫太郎は〝此節主     用の書もの多く候間、出来かね候〟と、父が断りに来たのであった。併せて大雅堂掛け物持参し、馬琴に鑑定を依頼したの     である〉    ◯ 九月十九日『馬琴日記』第二巻 ②445   〝渡辺登より使以(ママ)、過日、及掛合候、水滸伝全書、代金弐両壱分に引取候よしにて、遣り二帙、被差    越之。内五十四回・五十五回大磨滅あり。同人、明日上州辺へ出立のよし也〟    〈崋山の上州行。三河・田原藩の領地でもないのに何用であろうか〉    ◯ 九月二十日(『著作堂雑記』233/275)   〝仲道事、御勘定馬場忠蔵事【下谷二長町に住】病気の処、辛卯九月十七日死去、いまだ御届に不及、内    分に候得共、旧来の相識に付云々と、右家内より今日しらせの手簡来る。此人文化の初めより、小普請    にてありし時は、内職に草紙類の板下筆工を書したり、文政のはじめ、御勘定見習に召出されし後は、    日勤に付、江戸暦の板下のみにて、その余の筆耕はせず、女児のみあり。仲道享年五十前後なるべし    【九月廿日記】〟    〈仲道は『南総里見八犬伝』の第一輯(文化十一年(1814)刊)から四輯(文政三年(1820)刊)や合巻『金毘羅船利生纜』初編     (文政八年(1825))など筆耕を務めた〉      ◯ 九月廿二日『馬琴日記』第二巻 ②447   〝画工柳川重信来ル。俠客伝表紙板下、墨がき致し、持参、見せらる。いろさし等相談之上、丁子やへ持    参、平兵衛ニのみこませ、今夕、大坂ぇ登せ可然旨、并に、俠客伝一の巻出来候間、今夕、人差越候様、    伝言たのミ遣ス。右用談畢て、帰去。柳川、手みやげ、被贈之〟    ◯ 九月廿四日『馬琴日記』第二巻 ②449   〝小林怪(ママ)茂といふ人、易学者にて、花(ママ)山懇友のよし。初て来訪、面謁を乞はる。此節多用寸暇    なきにより、風邪に托して辞之。則、宗伯を以、及挨拶、同人手みやげとして、藤房卿真跡のよし手製    墨本、被贈之〟         ◯ 十月 三日『馬琴日記』第二巻 ②456   〝渡辺登手紙持参候仁、大川又吉といふもの、水滸全書代金取ニ来ル。(中略)同書あとより被差濃候二    帙の内、五十六・七回に白紙同様之大磨滅多く有之。依之、直段少々引き候義不相成哉とかけ合せ候処、    右の仁一向不弁、いづれ罷帰り、本主へ可申聞旨、申に付、今日金子を不渡、そのままかへし遣す〟    ◯ 十月 七日『馬琴日記』第二巻 ②459   〝山口や藤兵衛来ル。則、殺生石五編二之巻稿本、わたし遣ス。昨日、英泉方へ罷越、かけ合候処、いづ    れ両三日中、下画出来次第、稿本返上可致よし。同人申之、云々〟    ◯ 十月 九日『馬琴日記』第二巻 ②460   〝水滸全伝之事に付、渡辺登手紙持参之仁、大川又吉来ル。右之書直段之事、金壱朱より外引不申由、同    人を以、本主より申来ル。帰府後、是よりかけ合、代金渡候様、可致旨、及返事、因て帰去〟    〈渡辺崋山(登)は九月二十日上州へ向け出立して以来、まだ江戸に戻っていない〉      ◯ 十月十三日『馬琴日記』第二巻 ②462   〝中川金兵衛殺生石画写本、英泉方より不来哉と問ニ来ル。未来よし、返事ニ及ぶ〟     ◯ 十月十五日『馬琴日記』第二巻 ②463   〝画工英泉来ル。殺生石後日五編壱の巻さし画、やう/\出来、見せらる。且、手みやげ贈らる。筆工、    金兵衛へ持参のよしニ付、直ニかへし遣ス。あとさし画の事、早々出来候様、示談〟      〝丁子や平兵衛手代、英泉は此方へ不参候哉と、問ニ来ル。過刻罷帰候金兵衛方へ罷越候よしに候へども、    時刻移り候間、馬喰丁山口やぇ参候哉、難斗旨、及返事〟    ◯ 十月廿四日『馬琴日記』第二巻 ②468   〝山口屋藤兵衛来ル。殺生石五編、如例、増潤筆并くわし手みやげ持参。予、対面。画工英泉の事に(ママ)    示談。是より英泉方へ催促に罷越候よしにて、帰去〟      ◯ 十月二十六日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-19)②78   〝『殺生石』ハ五編にて、当年大尾ニ成候故、第一ばんニ書遣し候へ共、板元素人同然のものゝの上、画    工英泉画師をやめ、あしなる渡世をいたし候故、何分画にさしつかえ、只一冊ならでハ画が出来不申、    『水滸伝』より手おくれニ成候故、全冊出板ハ心もとなく候〟    〈『殺生石後日怪談』は二編~四編(文政十二年(1829)~天保二年(1831))まで渓斎英泉が担当。天保二年には〝英泉画師を     やめ、あしなる渡世をいたし〟とある。斎藤月岑編『増補浮世絵類考』(天保十五年(1844)序)で補うと〝天保の頃より筆     を止て云、盛なれば心衰ふ、人に哢られんより、人を哢るに不如と、需るに不応して、根岸の時雨の里に隠る(根津花街等     に娼家をせし事もあり)後年俗事に苦心して志をとげず、遺憾といふべし。因にこゝにこれを記す〟ということになる。も     っとも完全に筆を捨てたわけではなく、一時的である。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によると、天保六~七     年あたりから刊行件数が増えてくる。「あしなる渡世」とは「娼家」をいうのであろうか。なお「殺生石」五編の画工は歌     川国安である。板元は山口屋藤兵衛〉    ◯ 十月廿八日『馬琴日記』第二巻 ②472   〝中川金兵衛来ル。昨日、英泉方より差越候よしにて、殺生石後日五編二之巻さし画、六丁之内四丁出来、    見せらる〟    ◯ 十月晦日『馬琴日記』第二巻 ②473   〝中川金兵衛、殺生石後日五編二之巻筆工、十六丁メ迄六丁出来、持参。昨日迄、英泉画まち居候へ共、    不指越候間、此分持参のよし、申之〟    ◯ 十一月 朔日『馬琴日記』第二巻 ②473   〝中川金兵衛来ル。殺生石後日五編二の巻残りさしゑ二丁、昨夕英泉方より差越候ニ付、今晩直ニかき入    いたし候由にて、書画四丁持参〟       〝(宗伯)半蔵御門外三宅内、渡辺登方へも罷越。九月中、彼仁せ話にて、かひ取候水滸伝全書、あとよ    り差越候本の内、大磨滅之事等申談じ、代金遣し候様申付、右金子弐両弐朱もたせ遣す(中略)渡辺登    は、先月廿七日相模より帰府。同廿八に又上州辺へ出立いたし、本月十五日ならでは不罷帰よし也〟    〈渡辺崋山は九月二十日上州へ出立、十月二十七日相模より江戸に戻り、同二十八日上州へ出立、十一月十五日に江戸帰着と     いう。約二ヶ月かけて江戸を起点に上州~相模間を往還しているのだが、何用か記載はない〉       ◯ 十一月 七日『馬琴日記』第二巻 ②478   〝西村や与八たのミ、八犬士錦絵の賛、今日より稿案。琴魚代作にいたし、予が名号をあらはさず。殿村    常久八犬士の歌加入、六人分賛出来〟    〈「曲亭翁精著八犬士随一」(歌川国芳画・櫟亭琴魚の題・殿村常久の歌)については、六月二十七日記事参照。〝琴魚事十     一月廿一日ニ病死のよし申来る〟とは伊勢松坂の殿村篠斎から来た書状を記した十二月十二日の記事である。四十四歳没。     この七日からわずか十四日後のことであった。また歌の常久は文政十三年(1830)没。五十二歳。国学者。称蟹麻呂・号巌軒。     本居宣長門人。この八犬伝の登場人物を詠んだ歌八首は『南総里見八犬伝』(天保三年(1832)五月刊)第八輯冒頭にも載っ     ており、「いはのやのかにまろおぢが、八犬伝をめでよろこびて、よみたる八うた」として収録されている。こちらは、天     保三年二月十三日記事に〝八犬伝八輯壱の巻九丁め、口絵のうら蟹丸歌并略伝半丁、稿之〟とあり、読本の原稿は来年の執     筆であった。殿村篠斎(馬琴の日記には佐五平名で頻出)は常久の異母兄である。この八犬士の錦絵の出版は、板元西村屋     与八の台所事情の関係で、ずっと遅れ、天保七年(1836)になる。この間の事情については、天保七年三月二十八日付、殿村     篠斎宛書簡、及び、六月二十一日付、小津桂窓宛書簡に出ている〉    ◯ 十一月 八日『馬琴日記』第二巻 ②478   〝山口や藤兵衛来ル(中略)殺生石五編、当年は並合巻ニいたし度旨、申に付、ふくろの画稿二枚、則、    表紙に用い、国芳ニ画せ候様、示談。英泉にては間に不合故也。五編下帙は画未出来、とても当暮うり    出しの間ニ不合候間、去(ママ)年に延し候様、是又示談。尤、来年は二年子(ママ)有之ニ付、山口やぇは    新著休之趣、申聞おく〟    〈英泉の遅筆の余波が国芳に及んだかたちだ。十一月十二日には国芳画の表紙外題が出来、馬琴の許に届いている。結局、英     泉画は五編の上までで、天保四年刊、五編の下は国安、表紙は国貞の担当に変わった。日記上からみると、歌川国貞、国安     への督促は殆どないが、英泉と北渓の遅筆は常態化している。また、八犬伝の柳川重信もそうで、八月十八日には、版元丁     字屋同道の上、今後滞り無なく画くことを馬琴に誓約していた〉     〝西村や与八たのミ、八犬士にしき画略伝八枚之内、七枚め迄、稿之。一枚遺ル〟    ◯ 十一月 九日『馬琴日記』第二巻 ②479   〝八犬士略伝、遺り一枚、早朝より取かゝり、昼時稿畢。惣出来にて、其後、殺生石後日おくもろく(ママ)    悞写を補ひ、つけがな等、一切稿之畢ル。一枚也。但、所存有之、琴魚代作にしたる也〟    〈代作にした理由については、天保七年(1836)六月二十一日、小津桂窓宛書簡によると〝己が著を、みづから賛いたし候もい     かゞニ付、琴魚子の代作にいたし置候〟とある〉     〝西村や与八より使札。昨日案内申遣候ニ付、八犬士錦画略伝稿乞ニ来ル。右八枚わたし遣ス(中略)潤    筆之義問合せ、書面ニ申来候へども、代筆に致し候間、いか程にても宜候旨、返翰申遣ス〟    〈馬琴の署名があればともかく、代作とは言え琴魚の署名がある以上、馬琴の責任で稿料を決めることは、出来ないというの     であろう。馬琴らしい義理の通し方である。しかし、原稿は出来上がったものの、実際に出版されたのは天保七年(1836)の     ことになる。遅れた原因は〝西村や、近来身上向むつかしく、しバらく店の戸をさしやり(略)右錦画も、板下のまゝにて     うち捨置候〟とあり、板元西村屋与八の経済的事情にあった。(天保七年三月二十八日付、殿村篠斎宛書簡、及び同年六月     二十一日付、小津桂窓宛書簡参照)〉    ◯ 十一月十一日『馬琴日記』第二巻 ②481   〝西村や与八来る。予、対面。八犬士略伝潤筆、金壱両持参、受取畢(中略)八犬士錦画、年内四番出し    候つもりのよしニ付、人物注文并八犬女(ママ)の名、書付遣ス〟    ◯ 十一月十二日『馬琴日記』第二巻 ②481   〝山口や藤兵衛より使札。殺生石後日五編壱・弐両巻、表紙外題、国芳画出来のよしにて、見せらる〟    〈壱の表紙には「殺生石【馬琴作 英泉画】」「後日怪談第五編」「外題 国芳画」「天保壬辰」「壱【錦畊堂 山口版】」     とある。天保壬辰は天保三年〉      ◯ 十一月二十五日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-20)②86   〝「八犬伝にしき画賛」、本月上旬稿し畢し、板元へ遣し候。当年おそなはり候故、まづ四枚出板のつも    りのよし。板元申候。四枚に候へば、道節・額蔵の二枚つゞき、並に犬江親兵衛・犬村大角、此四人を    先へ出し候様、申談じ度候。然ル処、今以直出来不申、幕の間に合候哉、これも斗難候。琴魚様御代作    にいたし、故人蟹丸ぬしの御歌、加入いたし度也〟    〈「八犬伝にしき画」とは国芳画『曲亭翁精著八犬士随一』。馬琴側の原稿は調ったのだが、この後が不調。実際に出版に漕     ぎ着けたのは天保七年のこと。事情については、天保七年三月二十八日付、殿村篠斎宛書簡、及び、六月二十一日付、小津     桂窓宛書簡参照〉〉    ◯ 十一月廿九日『馬琴日記』第二巻 ②494   〝画工柳川重信来ル。八犬伝八輯さし画の事ニ付、過日呼ニ遣し候趣、予、他行中ニ付、近日又可参よし    申置、帰去といふ〟     ◯ 十二月 二日『馬琴日記』第二巻 ②496   〝画工柳川重信来ル。予、対面。八犬伝八輯一の巻さし画二丁出来、持参〟    ◯ 十二月 七日 ②499   〝画工柳川重信来ル。予、対面。八犬伝八輯壱・弐の巻の内、さし画弐丁出来、見せらる。丁子やぇ持参    のよしニ付、稿本差置、見本はわたし遣ス。寒中見舞として、手拭二、被贈〟    ◯ 十二月 十日『馬琴日記』第二巻 ②501   〝谷中辺并ニ根津辺、二ヶ処出火有之(中略)根津は天明ニ火鎮ル。英泉類焼〟      〝(山口屋藤兵衛談)画工英泉、今晩類焼ニ付、罷越候処、殺生石後日下五編下帙稿本は恙なく候間、と    り戻し候よし、告之〟    ◯ 十二月十二日『馬琴日記』第二巻 ②503   〝大伝馬町との村店より、松坂表よりの佐五平書状并ニ本代金弐朱ト七百十七文到来。則、請取書、遣之。    琴魚事十一月廿一日ニ病死のよし申来ル。并ニ、三才発秘等の用談、返翰也〟     〈佐五平は馬琴作品の良き読者であると共に終生の友人であった伊勢松坂の殿村篠斎。琴魚は自身の署名が入った国芳画「曲     亭翁精著八犬士随一」を見ることはなかった。翌天保三年正月廿七日記事に〝琴魚菩提所、松坂一向宗一身田派ニて、寂光     山願証寺のよし、申来ル〟とある。それにしても、琴魚は馬琴が琴魚名で代作したことを知っていたのであろうか。馬琴は     十四日篠斎宛に琴魚の香典を送っている。「三才発秘」は占いの唐本〉     <インターネット上「殿村家復興計画」によると、檪亭琴魚は殿村左五平篠斎の妻の弟、殿村精吉。字は    守親。京都殿村の店の手代。享年四十四才、檪亭道香居士、松阪日野町眞宗寂光山願(ママ証か)寺葬と    ある>        ◯ 十二月十四日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-25)②98   〝(馬琴、門人櫟亭琴魚の訃報に接して)『美少年録』三輯ヘハ、琴魚様御評加入いたし置候処、御生前    ニ被成御覧候よし。是尤本望の至に奉存候。「八犬伝にしき画」の御代作ヲ見せ申さぬのミ、遺憾ニ御    座候。其後、右にしき画、いかゞいたし候哉、いまだ画も不出来候哉、筆工校合ニも差越し不申候。左    候へバ、いまだほり立不申事と被存候。春ニも至り、出板次第、早々可入御覧候〟    〈この国芳画『曲亭翁精著八犬士随一』が出版されるのは後年の天保七年(1836)である〉