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「曲亭馬琴資料」「天保十四年(1843)」 ◯ 六月朔日 小津桂窓宛(第六巻・書翰番号-18)⑥77 〝種彦 の辞世也とて告げ候を聞くに、 吾も亦五十帖を世のなごりかな 此発句、四時の言葉なけれバ雑也。雑の発句ハ先例稀ニて、如何ニ存候。且種彦五十歳ニて終候ハヾ、此 発句都合よく候得ども、只『田舎源氏』を一世の名誉と思ひ候歟。然れども『田舎源氏』は既ニ絶板せら れたれバ、おもたゞしく(篠斎宛は「面正しく」)もあらぬ事と存候ハ僻事歟〟〈馬琴は『田舎源氏』が絶版処分になったこと自体を作者の面目に関わることとして問題視するのだが、これまで黙認してきた ものを、急にやり玉に挙げるという、気まぐれな権力の犠牲になった面もあるのだから、やはり「僻事」ではないのか〉 ◯ 七月廿日『馬琴日記』第四巻 ④321 〝清右衛門、嶋屋通持参。神明前和泉屋市兵衛并に蔦屋吉蔵、御触書御免無之内、最初摺込候二千部、内々 にて上方へ遣し売せ候事、露顕致、一昨日、御吟味中手鎖に相成候間、店の戸を引、慎罷在候由、告之。 右同書中本の板元、池の端仲町岡村庄兵衛義摺入候分、内々にて売出し候処、是は江戸にて売候間、本早 速取戻し、奉行所へ差出し候つもりのよし也。右板本は、両様とも御取上に可成、泉市・蔦吉は、上方へ 早速申遣し、取戻し候様、被仰付と云〟〈中本は人情本〉 ◯ 七月廿七日『馬琴日記』第四巻 ④321 〝丁子屋平兵衛来る。我等対面。手みやげ三種持参。八犬伝の事、聖堂附儒者より、林家へ申立、絶板に可 成由、ある人より被告候者二三人有之、種々心配致、ある人を以て、林家へ内々申入、漸く無異に可納由、 被告之。右に付、八犬伝多く摺込候内、八重摺抔、無之、右に付、久しく無沙汰に成候よし、被申〟〈天保の改革は「勧善懲悪」「仁義礼智忠信孝悌」で身を固めた「八犬伝」にさえ余波が及んで、絶版の風評がたった。板元・ 丁子屋はことの真偽を確かめに内々林家に申し入れをして無事を確認したのである。「八重摺抔、無之」とあるから、内容の 点で改革の趣旨に触れるというのではなく、摺りに贅を尽くしているか否かが問題にされたのであろう。八犬伝はその点でも 禁を犯していない〉 ◯ 十二月(『著作堂雑記』261/275) 〝戯作者為永春水 事越前屋長次郎、天保十四年癸卯年十二月廿三日、小柳町の宿所に死す、享年五十四歳、 書肆丁子屋平兵衛来訪の日、語次に是を聞知りぬ、春水は始めせどりと歟云ゑせ本屋にて、軍書講釈に前 座などを読で世渡りにしたり、其後をさ/\戯作を旨としつ、古人南杣笑楚満人の名号を冒して、又楚満 人と称しつゝを、ふさはしからずとて、貸本屋等が笑ひしかば、棄て又為永春水と称し、教訓亭と号す、 文政中人の為に吾旧作の読本抔を筆削し、再板させて多く毒を流したれば、実に憎むべき者なり、性酒を 貪りて飽くことを知らず、且壬寅の秋より人情本とかいふ中本一件にて、久しく手鎖を掛られたる心労と、 内損にて終に起(タタ)ずといふ、子なし、養女壱人あり、某侯へ妾にまゐらせしに、近曽(チガゴロ)暇をた まはりて、他人へ嫁しけるに、其聟強欲酔狂人にて、親の苦労を増たりと云、妻の親里さばかりまづしき 町人ならねば、良人死して後親里えかへりにきと聞えたり、吾春水と交はらざれば詳なることを知らず、 文渓堂の話也〟〈文渓堂は丁子屋平兵衛〉 ◯ 天保十四年(1843)欠月日 殿村篠斎宛(第六巻・書翰番号-21)⑥85 〝去年六月御改革之官令、拝聴仕候より方寸已に破れ、著述心を失ひ候。よしや及(一字不明)命候とも、 綴り立て候勢無之、。何事も時と勢とによるものにて、早く出板させて、世の人に見せんと思ひしときの 勢と、今銭のほしさに、世人の為めに綴まくする勢とは霄壌の差にて、いつ出来候ハんや、吾ながら計り 難き事に御座候〟〈天保の改革は馬琴の創作意欲をかなり喪失させたのである〉