Top           浮世絵文献資料館           曲亭馬琴Top
              「曲亭馬琴資料」「天保十三年(1842)」  ◯ 正月十二日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-1)   ◇ ⑥5   〝(「八犬伝」九輯)此度之筆工ハ、金水・音成抔云やからニて、小子稿本を初て写し候上、甚敷文盲ニて、    且麁忽人等ニ候得ば、甚敷誤字多く有之。作者之外聞にかゝハり、恥敷存候得ども、『八犬伝』ハ結局ニ    て、再校を抄録致、附のせ候よすがも無之候得ば、せめて元本を直させ置候半と存候て、校合摺本ぇこと    /\く付札いたし、早束板元方ぇ直しニ遣し候得ども、売出し後ニ候得ば、速ニハ補彫致間敷、愈遺憾之    事ニ御座候〟    〈文化十一年(1814)の初輯以来二十八年、『南総里見八犬伝』はとうとう大団円を迎えた。馬琴にしてみれば、校正を十分にし     て誤字脱字のないかたちで終わらせたかったが、そうはならなかった。原因は筆工亀井金水と対二楼音成の「甚敷文盲」「麁     忽」にあるとした〉       ◇ ⑥6   〝『八犬伝』九輯五十より五十三下迄五冊も、旧冬板元甚差急ギ、廿日頃迄ニ彫刻大抵相揃、校合ももはや    壱二冊ニて、年内校了終候半と存候処、板元方ニ故障出来致、夫ニて勢折け候間、売出しハ当月下旬か、    来月ならんと存候。右故障ハ、旧冬押詰ニ、春画本ハ勿論、中本之板元、丁平を初六七人有之、一夕草紙    改名主両人宛、其板元方ぇ手分致罷越、有合候中本類不残取上、右之板ハ、十二月廿九日ニ町奉行処ぇ差    上候処、追而御沙汰有之候迄、上置候様御下知ニて、未ダ何とも落着ハ無之由候。就中丁平ハ、中本之板    多く有之、且当暮売出し候新板既ニ製本致候も有之、彫ハ大抵出来、頭ヲ未ダ彫ざる板も有之、是等皆損    失ニて、丁平ハさら也、右六七人之板元、色ヲ失ひ呟候由聞え候。是等のまがつミニて、『八犬伝』之売    出候も、おのづから遅り候。道中双六抔も、百五十文抔いふ高料之品ハ皆御さし留ニて、三十弐文渡し、    五拾文売ヲ限りニ可致旨、旧冬被仰渡候間、草紙問屋山本平吉抔ハ、高直之双六多く仕入、今さらもちニ    つき、因果候由聞え候。種彦事ハ、伝聞ニ候へども、御支配より沙汰有之、隠居ならば格別、当主ニて戯    作致候事相聞え、甚不可然るとて、差留られ候由聞え候。都而花美なる物、高料成物御禁止ニ候へバ、合    巻抔も如何可有や、無心許存候。小子ハ昔より、戯作ニ故障無之候得共、とてもかくても不眼ニなりぬ。    よきやめ時なれバ、速ニ足ヲ洗ひて、後易致より外無之候得共、嫡孫小禄ニて、其養ひを受候も心苦敷候    共、今さらせん方無候〟    〈ここから一連の出版統制が具体的に始まる。手始めは春本と中本(人情本)、その余波が読本「八犬伝」に及んだのである〉    ◯ 正月廿三日『馬琴日記』第四巻 ④317   〝三毛(ママ)備後守殿蟄居用人渡辺登事、華(ママ)山、旧冬十二月中旬、於三州田原、自殺の由、慥なる風聞    有之候由、山川白酒噂にて、初て是を聞、忠臣の志也と云。尤憐むべし。此故に、三毛殿を御奏者ばんに    なされしなるべし。崋山、老母あり、妻あり、娘あり、何れも薄命の至り也。痛むべし〟    〈蕃社の獄は天保十年五月。翌十一年一月より田原に蟄居していた。山川白酒は江戸後期の狂歌師で通称竹屋平八という人か〉    ◯ 正月二十三日(『著作堂雑記』243/275)   〝崋山は渡辺登なり、三宅肥後守用人なり、先年蘭学の事にて罪を得て、入牢久しかりしに、竟に三宅殿に    御預けに成て、三州田原に送られて蟄居す、然るに猶其侭にてあらば、主君の為あしかるべしと言ひ聞せ    し者あり、時に天保十二年十二月中旬、崋山意衷を書残して自殺す、享年四十九歳ばかり成るべし、此故    にや、三宅殿いく程もなく御奏者番に成て勤めたまへり、崋山の忠死其甲斐ありといふべし、此儀壬寅正    月二十三日、御刀研御用達赤坂の竹屋平八殿事、狂名山川白酒来訪、語次に是を告て、伝聞ながら慥なる    説を得たり〟    ◯ 二月 九日『馬琴日記』第四巻 ④317   〝丁子屋等、中本十色絵本板元、此節御吟味中、組合家主預けに相成候由、申来り候間、心許なく存候て、    右使いの者に尋候処、中本作者越前屋長次郎事、為永春水は、四五日以前、手鎖掛られ、家主預けになり、    金水等は未だ御沙汰無之。右に付、八犬伝売出しを延引候へども、苦しかるまじき由にて、今日急に売    り出候由、申之。右とびら・袋の校合摺も見せられず。且、丁子屋平兵衛御預け中、八犬伝売出し候事、    遠慮なき様に被思、不安心に存候得共、今更致方なく候間、何となく右請取、返書、お路代筆にて、遣之〟    〈「中本」とは人情本のこと。天保改革は風俗華美を矯正すると称して人情本のみならず地本問屋や団扇屋の出版するもの全体     に、その統制・弾圧が及んでいった。浮世絵師では歌川国芳がやり玉にあがり、戯作者では人情本の為永春水、合巻の柳亭種     彦がその犠牲になった。(六月十五日「日記」六月十九日書簡参照)勧善懲悪の『南総里見八犬伝』は事なきを得たものの、     馬琴の心中は不安であった〉    ◯ 二月十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-2)⑥12   〝旧冬より中本春絵本一件、旧冬大晦日ニ右板を五車程町奉行ぇ差出し候儘、暫御沙汰無之候所、当正月下    旬に至り、右一件の者不残召被出、丁平初中本春絵本の板元六七人、組合家主ぇ御預ケニ相成、中本之作    者越前屋長次郎事為永春水ハ、御吟味中手鎖ニ成候由聞え候。丁平御預ケ中ニ候ヘバ、『八犬伝』売出し    も遠慮致、右壱件相済候迄、三四月頃ならでハ売出す間敷存候処、小子ぇ無沙汰ニ急ニ売出し候ハ、必訳    可有候得ども、外事とハ申ながら、板元御預ケ中新本売出し候てハ、不慎の様ニ聞え候て、後の障りニハ    成間識哉と、小子等ハ不安心ニ存候得ども、板元久敷拙宅へ不参候間、其訳知れがたく、ひそかに阽ミ候    事ニ御座候。春水門人金水、其外鯉丈抔云ゑせ作者、中本綴り候者有之ども、夫等ニは御構なく、春水の    ミ召被出、御吟味の由聞え候。春絵本ハ中本より猶御吟味厳敷候間、国貞抔も罪可蒙哉といふ噂聞え候。    寛政の初、しやれ本一件之例をおし候得バ、此御裁許如何可有之や、気の毒ニ存候。但近来ハ、草紙改メ    方肝煎名主七人ニ被仰付、其ともがら稿本を下改致、かいはん差ゆるし候へバ、行事割印致、版元ぇ渡し    候。春絵本をのぞくの外、中本ハ皆改相済候物ニ候得ども、上より御下知ニ候ヘバ、名主の下改も御取用    ひ無之候ニ付、板元・作者の申訳ニハ成がたく候半と存候。しかれども、名主下改致候中本ハ、板もと・    作者の罪、先例より少しかるく候半歟と、恐乍奉存候。此義ニ付てハ、猶くさ/\の意味有之候得ども、    可憚事なきニあらねバ致省略候。余ハ御遠察可被成候。種彦も御支配より戯作ヲとゞめられ候事、愈実説    の由聞え候。『田舎源氏』『諸国物語』等之板元鶴屋・山本抔、大ニ力を落し候ハんと存候。しかれども    合巻草双紙ニハ未ダ何之御沙汰無之候へども、『金瓶梅』之板元泉市抔も悄地ニ阽ミ候や、当春抔ハ例ニ    替り、未ダ年礼ニも参らず候。況『金瓶梅』十集編述の頼も無之候。人情の異変、今ニはじめぬ事ながら、    此頃の人気、是等ニて御亮察可被成候。夫ハとまれかくまれ、『八犬伝』結局編、本意のごとく売出し、    是のミ悦敷存候〟    〈天保十二年大晦日、町奉行は中本と春本を大量に没収した。翌十三年正月下旬、丁平(丁子屋平兵衛)などの板元は組合家主     へお預けになり、作者の為永春水は吟味中から手鎖に処せられる。松亭金水や滝亭鯉丈はお構いなし。国貞は春本の件で罪を     蒙るにちがいないとの噂が流れた。また『偐紫田舎源氏』の作者・柳亭種彦が小普請支配より戯作を止められたという「実説」     が広まっていた。天保十三年正月には、馬琴の合巻『新編金瓶梅』九集と読本『南総里見八犬伝』の完結編が出版された。     「金瓶梅」の方は、合巻草双紙には未だ何の沙汰も無いのであるが、ことの成り行きを悄然と見守るしかなかった。「八犬伝」     方は、文化十一年(1814)の初編刊行以来、実に二十八年、途中から失明し長子宗伯の妻お路の代筆を得て、遂に大団円を迎え     たのである。感慨無量のものがあったことだろう。それにしても金水や鯉丈に対する「ゑせ作者」のレッテル貼りは、狷介な     馬琴らしいといえばいえるのだが、狭量で思いやりのない仕打ちである〉      ◯ 四月 朔日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-3)⑥21   〝(『近世説美少年録』四輯)さし絵の事、是迄のとふりニてハ彫刻細密にて、障りニも可成や、難料候間、    板下ハ只今国貞ニ画せ置、秋迄見合外聞合、或は伺ひ候上ニて彫ニ出し可申候。(中略)中本一件ニて、    御預ケニ成候板元六七人ハ、三月中旬、右御預ケ御免ニて、作者春水ハ、手鎖未ダ御免無之候得ども、外    中本作者・画工抔ハ、御呼出無之候間、落着ニ至り候ハヾ、かろく相済候半とて、一件の者共、難有り悦    居候。種彦戯作を禁ぜられ候といふ風聞も、空言ニ候や、『田舎源氏』十三編とやら四十編とやら、此節    板元鶴屋ニて彫立候由、先日丁平の話ニ御座候。(改革による株仲間解散のため、従来の仲間行事による    名主改め方が機能せず、出版手続きに混乱が生じた旨の記事あり、略)当年の新板物ハ、諸板元見合罷在    候。合巻物抔も、外題花実ニ致間敷旨、被申渡候。是ハ名主の了簡ニて、御下知ニハ無之候。風聞ニハ、    昔のごとく二冊三冊の黄表紙ニ可成抔申候。何れまれ、『金瓶梅』ハ九集限りにて可有之存候。大錦絵抔    も、廿文より高直之品売間敷旨、被仰出候間、三十弐文売の大錦絵を、多く摺込候板元ハ損を厭ハず、十    九文宛ニおろし候を小売ニて廿文宛ニ売候よし聞え候〟    〈改革の余波は馬琴の読本『近世説美少年録』・合巻『新編金瓶梅』にも及んだ。「美少年録」は〝五月下旬迄ニ稿本九冊出来     致、残り一冊ニ致候処、右御改正ニて画餅ニ成果候〟(第六巻・書翰番号-5)となって、その続編にあたる『新曲玉石童子     訓』の刊行は弘化二年(1845)。また「金瓶梅」も中断し、十集は弘化四年の刊行となる〉    ◯ 四月十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-4)⑥26   〝中本一件も、今ニ落着無之候。先日御吟味之節、板木師ヲ出し候様、被仰付候得ども、中本彫刻候板木師    ハ、内職ニいたし候御家人、或ハ家中人ニ候間、板元共、大ニ困り候由聞え候。或ハ又、市川海老蔵驕奢    甚しく、家四軒あり、妾三人有之候事聞え、右之御咎ニて御吟味中、手鎖ニ成候由聞え候〟    〈中本(人情本)摘発の余波はまだ続いている。彫師には御家人が多く、板元も彼らの仕事に依存している。御家人も市中の出     版システムの中に組み込まれていたのである。歌舞伎役者への弾圧も始まった。結末は海老蔵の江戸追放〉     ◯ 六月 十日『馬琴日記』第四巻 ④318   〝清右衛門来る。昨日、錦絵類・合巻并に読本類新板の事、御改正御書付出候由にて、右写し持参。読聞せ    候間、飯田町書役に為写、左越候やう、申付置。但、錦絵・団扇類・役者似顔・遊女芸者の絵は不相成、    表紙・袋、色摺不相成、続物二編の外、不相成。読本手のこみ候物不相成。作者・板木師等、実名相識し、    町年寄館市右衛門へ差出し、出版の節、壱部奉行処へ差出し候様、地本問屋・団扇屋へ    被仰渡候事、右の趣に付、以来、我等戯作排斥可致旨、了簡致候事〟    〈〝役者似顔・遊女芸者の絵は不相成、表紙・袋、色摺不相成、続物二編の外、不相成。読本手のこみ候物不相成〟という内容。     これでは浮世絵師や地本問屋や団扇屋に対して、これまで培っていたアイディアや技術をすべて使うなと云うに等しい過酷な     ものであった〉    ◯ 六月十五日『馬琴日記』第四巻 ④318   〝丁子屋中本一件、去る十二日落着致、板元七人・画工国芳・板木師三人は、過料五貫文づゝ、作者春水は、    咎手鎖五十日、板木はけづり取り、或はうちわり、製本は破却の上、焼捨になり候由也・丁子屋へ見舞口    状申入候様、申付遣す〟    〈歌川国芳過料五貫文。為永春水手鎖五十日、板木は破砕、本は焼却〉      ◯ 六月十九日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-5)   ◇ ⑥27   〝『八犬伝』絶板ニ成候よし、外より御聞被成、御苦労ニ思召候よし被仰示、承知仕候。此度錦絵類、合巻・    読本類、御改正被仰出候へ共、旧作は『八犬伝』ヲ初、合巻・読本とも、何之御沙汰も無之候間、御安心    可被成下候。但し、合巻ハ外題・袋とも、以来色摺相不成候間、古板摺出し候差支ニ相成候得ども、読本    ハ表紙ヲ取替、元の儘にて摺出し候へバ、障りニ相不成候〟    〈天保の改革が「八犬伝」に及ぶことを心配した伊勢松坂の殿村篠斎に対する回答である。合巻・読本の旧版はお咎めなし。新     板については、合巻が外題・袋の色摺り禁止、読本は表紙の取り替えのみであった〉     ◇ ⑥28   〝『美少年録』四輯ハ、先便申上候如く、二月中より取かゝり、五月下旬迄ニ稿本九冊出来致、残り一冊ニ    致候処、右御改正ニて画餅ニ成果候。(中略)『金瓶梅』ハ稿本未ダ取かゝらず候得ども、稿本今一集ニ    て、跡出し難、是のミ残念之仕合ニ御座候〟      ◯ 六月十九日 殿村篠斎・小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-6)   ◇ ⑥29   〝錦絵合巻類、并ニ読本類・団扇等新刻開板之義、地本問屋・書林・団扇屋等、御改正被仰渡、当月九日、    町触御書付出候。(中略)右御改正之御大意ハ、錦絵類、役者似顔・遊女・芸者等之絵ハ相不成候。彩色    も目立候程麁末ニ致、童子の為ニ教ニ相成候様成絵がらニ可致候。団扇絵も、右同断之事〟   ◇ ⑥30   〝合巻と唱候絵草紙之事、外題・袋とも、色摺ハ相不成候。墨摺のミに致、本文といへども手をこめ候事無    用ニ致、さら/\と手軽く綴り、二編より長き続き物ハ相不成候。読本類右同断。異教・妄諺并ニ好色之    事、無用可為候。表紙・袋等もやう、色摺ハ相不成候。都て手がるく人工ヲ費し申さゞるやう、さら/\    と綴立可申候。すべての新板、館市右衛門方へ差出し、改ヲ受候て開板可仕候。開板之節、壱部奉行処ぇ    差出し可申候。作者・板木師等、実名ヲ其書ニ記、開板可仕候。        権現様御名、是迄書顕し候事相不成候所、実録ニ候ハヾ御名書顕し候ても不苦候。御身之上の御義ハ無用    可為候。但し、ふるく申伝候御身之上之御義ハ、書見し候ても不苦候。右御書付、大抵此やう成御事と承    り候。昔之草紙ハ張外題ニ候へども、五へん斗の色摺ニ候。此度之御改正にてハ墨摺のミに候間、売間敷    候。地本屋大困りの由ニ候。読本も右同様、手のこまぬやうニさら/\と綴り立候てハ売間敷候。且作者    之実名ヲ顕し候事、小子等ハ難儀ニ候間、絶筆と思ひ定候。但し、是迄之読本『八犬伝』ヲ始、自他之旧    作ハ御沙汰無之候得ば、是のミ歓敷、難有迄ニ忝奉存候。中本一件も、去る九日一同御呼出しニ候間、落    着ならんといふ噂聞え候のミにて、如何落着致候や、其義ハ未ダ聞不知候。丁子屋より人参り次第、聞候    半と存候。(中略)        団扇屋ハ八月迄日延ヲ願候ニ付、御咎メヲ蒙り、各戸を鎖居候由ニ候。手遊人形類ハ百文限り、夫より高    直之品ハ八月迄ニ売払候様被仰渡候ニ付、うちわやも其例ヲ以、売留日延ヲ願候へども御ゆるし無、反て    御咎ヲ蒙り候由ニ候。役者絵・遊女之絵・団扇錦絵ニ、是迄仕入候分多く有之、板元はさら也、小売店に    ても一枚も売候事相不成候間、小売店抔ハ店ヲ仕舞候も有之由聞え候。板元山本平吉・泉屋市兵衛抔、多    分の損致、取続キかね候半と申程之事ニ候。風聞のミにて、委敷事ハ未ダ聞不知候。        種彦事、小十人小普請高屋彦四郎殿、五月中甲府勤番被仰付、家内甲府へ引移り候由、慥ニ告たる人有之    候。然れ共、左様之事ニ虚談まじり候間、聞正し候様、清右衛門ニ申付、鶴屋其外種彦懇意なる浅草辺り    本屋ニて聞せ候へども、未ダ不詳候。但し、種彦ハ拝りやう地面本所小松川辺ニて、両国より二里程有之。    此故ニ、三味せん堀ニて人之地面ヲ借地致居候所、其義御禁制にて、本屋敷へ帰らねバならぬと春中被申    候由聞え候。但し、当春より五月迄、甲府ぇ被遣候小籏本衆三十余人有之、種彦も其壱人成歟ならざる歟、    実説未ダ知れかね候へども、合巻長篇ハ相不成候間、『田舎源氏』三十九編・四十編を鶴屋ニて彫立候と    も、摺出し候事相不成、つるやハさら也、錦絵板元皆色ヲ失ひ、恐入候由聞え候。愚按に、合巻抔ハ昔の    草双紙より十倍の花実ニ成候。錦絵抔も同様の事にて、壮なる者は必衰ふ。褒貶黜陟之理ニ闇キ者ハ、追    てみづから身命ヲ失ひ候も有之候由聞え候。乍恐、御改正の御旨ハ御尤至極ニ奉存候へども、数十年其通    りニて仕来り候処、只今急ニ御改正ニ付、愚民等一同世渡ヲ失、困らぬ者ハなき様ニ聞え候。こまると申    ハ身勝手ニて、世渡ヲ替候ハヾ、大都会の御蔭ニて、左も右も暮されぬ事ハ有間敷候得ども、各皮きりヲ    苦しがり、難儀の由申候。就中小子抔ハ老衰不眼之上、世渡ヲ失ひ候へバ、外ニ世渡ヲ替候事も成かね候    得共、是迄の事と思ひあきらめ候得ば、実ニ五十年の非ヲ知り候ニ足とや申べき。但、二編より長き読物    ハ不成由之一条ハ、右御書にハ無之候。此義ハ、そうしがゝり名主より、地本屋へ申渡候由ニ候。『金瓶    梅』『美少年録』、皆長編之続き物ニ候間、とてもかくても跡ハ出板成がたく候。両三年も見合候上、書    名を取替、別本ニ致候ハヾ開板可成や、料がたく候得共、是迄のごとく手をこめ候本文・書画、不相成候    てハせんかたなく候間、『美少年録』四輯上帙五冊ハ、書画共板元之損、下帙稿本五冊ハ作者の損ニて其    儘納置、時節を待候外無之候。中本一件落着之事、六月十五日、清右衛門罷越、実説初て聞知り候。九日    より三日うちつゞき御呼出し、御取しらべニて、十一日ニ落着致候。板元七人并ニ画工国芳、板木師三人    ハ過料各五〆文、作者春水ハ尚又咎手鎖五十日、板木ハ不残手斧にてけづり取、或ハうち砕き、製本ハ破    却之上、焼捨被仰付候。是にて一件相済候。右は北奉行所遠山殿御かゝり御裁許に候。春画本も右同断の    由ニ候。寛政のしやれ本一件より、板元ハ軽相済候。春画中本之画工ハ、多く国貞重信ニ候得ども、重    信ハ御家人、国貞ハ遠方ニ居候間、国芳壱人引受、過料差出し候。春画之板元ニ成候板木師、并ニ中本之    板木師ハ、こしらへ者ニ候間、過料ハ丁平差出し候半と存候。右一件ハ相済候へ共、又丁子屋とかり金屋    を南町奉行へ被召出、当春板元無名ニて売出し候、ドヽイツぶしの中本之御吟味有之由聞え候。是ハ去年    中、深川遊処ニて男芸者之うたひ候、ドヽイツといふさハぎ歌流行ニ付、春水夫ヲ集メ、深川芸者之名ヲ    記、画を英泉ニ画せ、中本ニ致、板元無名ニて売出し候所、よく売候由聞え候間、此御吟味ニて、丁子屋    ・雁がね屋被召出候由聞え候へ共、是ハ風聞のミにて、虚実ハ未ダ不詳候。前文之役者似㒵、遊女・芸者    之画、不相成候ニ付、地本屋・団扇屋等致当惑、内々日々寄合致、生娘を板し候事、御免ヲ願候半歟抔申    候由聞え候。左様之義願出候ハヾ、又御咎ヲ蒙り候半と、苦々敷存候。『田舎源氏』重板致候者有之由聞    え候得ども、是も売候事成間敷候。『八犬伝』ヲ合巻ニ致、春水ニ綴らせ、森屋・丁子屋合板にて、近日    出来之由聞え候得ども、長篇之続キ物御禁制ニ候へバ、是も売候事成間敷候〟    〈今回の出版取り締まり。合巻・読本ともに色摺禁止。新板は館市右衛門の改めを受け、開板時に奉行所へ一部提出し、作者・     板木師等の実名を記すべく命じられた。団扇屋は販売停止を、手遊人形類同様、八月まで延期するよう願い出たが却下された。     但し風聞のみにて真偽不明の由。『偐紫田舎源氏』の作者柳亭種彦は五月に甲府勤番を命ぜられ甲府へ赴任したとの噂が流れ     たが、これまた真偽不明。合巻・読本は長編を禁じられたため、馬琴の作品では『新編金瓶梅』と『美少年録』が出版延期。     『新編金瓶梅』のこの後の出板は弘化四年(1847)、また『美少年録』に至っては天保三年(1832)以来の出版になるはずだった     のに見送られ、結局弘化二年(1845)まで「時節を待つ」ほかなかった。中本(人情本)一件の決着は、遠山北町奉行の裁許で、     作者為永春水は手鎖五十日。画工歌川国芳は過料五貫文。春画と中本の画は歌川国貞と柳川重信の手になるものが多いが、     「重信ハ御家人、国貞ハ遠方ニ居候間、国芳壱人引受過料差出候」とあり、なぜか重信と国貞はお咎めなしのようである。御     家人と亀戸居住は江戸町奉行の管轄外ということなのであろうか。釈然としない。春水編・英泉画の「ドヾイツぶしの中本」     とは「日本古典籍総合目録」に『度々一図会』とあるものであろうか。この板元らしい丁子屋・雁金屋が召喚されたようだが、     これも風聞のみで真偽不明。『八犬伝』を合巻化したという春水の作品は未詳〉    ◯ 六月廿六日『馬琴日記』第四巻 ④318   〝種彦事、小十人小普請高屋彦四郎殿、飯客に悪人有之。右一件に付、上り屋へ被遣、屋敷へは宅番つきし    といふ。昨日、関鉄蔵咄にて是を聞く。未だ不詳〟    〈「飯客(居候)」の中に悪人が居る、それを差し出せと云うことで、柳亭種彦は責任追及を受けることになった。八月七日の     日記に種彦の消息があり、結末は七月下旬の病死というものであった〉     〝歌舞妓(ママ)役者市川海老蔵、年来おごりの御咎にて、四月中より、御吟味中手鎖の処、去る二十二日落着    致、江戸十里四方御かまひになり候間、同二十二日、成田へ出立致候よし。泉市噂に聞之〟    〈この五代目市川海老蔵(七代目市川団十郎)はその豪奢を咎められ、手鎖・家主預りの処分の上、江戸追放となり、成田に旅     立つはめに陥った。江戸に戻るのは実に八年後の嘉永三年(1850)のことである〉    ◯ 六月(『著作堂雑記』244/275)   〝天保十二年丑十二月、春画本并並に人情本と唱へ候中本之儀に付、右板本丁子屋平兵衛、外七八人並中本    作者為永春水事越前屋長次郎等を、遠山左衛門尉殿北町奉行所え被召出、御吟味有之、同月廿九日春画本    中本之板本凡五車程、右仕入置候製本共に北町奉行所え差出候、翌寅年正月下旬より、右之一件又吟味有    之、二月五日板元等家主へ御預けに相成、作者春水事長次郎は御吟味中手鎖を被掛、四月に至り板元等御    預御免、六月十一日裁許落着せり、右之板は皆絶板に相成、悉く打砕きて焼被棄、板元等は過料銭各五貫    文、外に売得金七両とやら各被召上、作者春水は、改てとがめ、手鎖を掛けられて、右一件落着す〟    ◯ 六月(『著作堂雑記』244/275)   〝同(天保十三)年六月、江戸繁昌記の儀に付、右作者静軒実名寺門次右衛門は【静軒今は駿河台某殿の家    来に成りてある故に、右主人に御預けになれり】鳥居甲斐守殿南町奉行所え被召出、御吟味之処、右繁昌    記は静軒蔵板に候処、丁子屋平兵衛、雁金屋引受候て売捌候次第、五編は丁子屋平兵衛方にて彫立、初編    より四編迄の板も、平兵衛方へ売渡し候由申に付、丁子屋平兵衛を被召出、御吟味之処、右繁昌記の板は、    何某と申者より借財之方に請取り候て摺出し候、其何某は先年他国致、只今行衛知れず、五編を彫刻致候    事は無之由陳じ候、然れども右繁昌記は、初編二編出板之頃、丁子屋平兵衛引受候て、町年寄館役所え窺    に出し候間、館市右衛門より町奉行所え差出し伺候処、漢文物に候間、林大学頭殿へ付問合候に付、大学    頭殿被見候て、此書は不宜物に候、売買無用可為(タルベシ)と被申候に付、右之書は御差止に相成、出版仕    間敷旨、丁子屋平兵衛より館役所え証文被取置候所、平兵衛内内にて摺出し、剰へ五編迄売捌候事、重々    不埒之由にて、平兵衛は五人組え厳敷御預に相成候由にて、未だ御裁許落着無之候へども、犯罪、人情本    より重かるべしと聞ゆ〟    ◯ 八月 七日『馬琴日記』第四巻 ④319   〝柳亭種彦、当七月下旬、二十七八日頃病死のよし。今日、泉方にて噂有之。太郎聞候て、告之。田舎源氏    の板、町奉行所へ被召捕候日と同日也と云。種彦、享年六十歳ばかりなるべし〟    〈実際の柳亭種彦の死は七月十九日とされる。しかし当時は、ちょうど合巻『偐紫田舎源氏』の板木が町奉行によって没収され     た日と同日、二十七八日頃の死亡と噂されていたようである。なお「田舎源氏」の絶版処分について、鈴木重三氏は「理由は     今なお判明しないが、合巻装丁の過美はある程度かかわったかもしれない」としている。(「新日本古典文学大系」所収『偐     紫田舎源氏 下』解説〉    ◯ 八月七日(『著作堂雑記』(259/275))   〝天保十三年寅六月、合巻絵草子田舎源氏の板元鶴屋喜右衛門を町奉行え被召出、田舎源氏作者種彦へ作料    何程宛遣し候哉を、吟味与力を以御尋有之、其後右田舎源氏の板不残差出すべしと被仰付候、鶴屋は近来    渡世向弥不如意に成候故、田舎源氏三十九編迄の板は金主三ヶ所へ質入致置候間、辛くして請出し則ち町    奉行へ差出し候処、先づ上置候様被仰渡候て、裁許落着は未だ不有之候得ども、是又絶板なるべしと云風    聞きこえ候、否や遺忘に備へん為に伝聞の侭記之、聞僻めたる事有べし、戯作者柳亭種彦は小十人小普請    高屋彦四郎是也、浅草堀田原辺武家之屋敷を借地す、【種彦初は下谷三味線堀に住居す、後故ありて、其    借地を去て、根岸に移ると云、吾其詳なることを不知】其身の拝領屋敷は本所小松川辺也、此人今茲寅五    六月の頃より罪あり、甚だ悪敷者を食客に置たりし連累にて、主人閉被籠宅番を被付しと云風聞有之、事    実未だ詳ならざれども、田舎源氏の事も此一件より御沙汰ありて、鶴屋喜右衛門を被召出、右の板さへ被    取上しなるべし、予寛政三年より戯墨を以て渡世に做す事こゝに五十三年也、然れ共御咎を蒙りし事なく、    絶板せられし物なきは大幸といふべし、然るに今茲より新板の草紙類御改正、前條の如く厳重に被仰出候    上は、恐れ慎て戯墨の筆を絶て余命を送る外なし、さらでも四ヶ年以前より老眼衰耄して、執筆によしな    くなりしかば、一昨年子の冬より、愚媳に代筆させて僅に事を便ずるのみ、然れば此絶筆は吾最も願なれ    ども、是より旦暮足らざるを憂とする者は家内婦女子の常懐也、吾後孫此記閲する事あらば当時を思ふべ    し【壬寅八月七日記之、路代筆〔頭注〕路は翁の亡児琴嶺の婦】〟     〝天保十三年壬寅七月下旬柳亭種彦没す、廿七八日頃の事にて、田舎源氏の板元鶴屋喜右衛門も召捕れて町    奉行え差出せし日と同日也と云ふ、種彦享年六十歳許なるべし、此事同年八月七日太郎吾使して芝神明前    へ行きし折、和泉屋市兵衛に聞て帰り来て吾に告る事如此〟     ◇ 天保十四年(1833)記(260/275)   〝ある人、柳亭種彦が辞世也とて予に吟じ聞かせける其発句      吾もまた五十帖を世のなごりかな    種彦この発句四時の詞なし、古人に雑の発句は稀也、ばせをに一句【歩行ならば杖つき坂を落馬かな】支    考に一句【歌書よりも軍書に高しよしの山】、只是のみ、況や辞世の発句に雑なるはあるべくもあらず、    此れによりて是を観れば、種彦は前句などこそ其才はありけめ、俳諧を学びたる者にあらず、且享年五十    歳ならば五十帖も動きなけれども、只田舎源氏三十余編、いたく世に行れたるを自負の心のみならば、其    識見の陋(イヤ)しきをしるべし、都て古人といへども辞世の詩歌発句などの妙なるは稀也、意ふに其人病苦    に心神衰へながら、強て拈り出す故なるべし〟       ◯ 八月二十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-8)⑥42   〝種彦事、当七月下旬ニ致病死候。亓(其の古字)ハ廿七八日の頃にて、『田舎源氏』の板を、鶴屋より町奉    行所ぇ差出候日と同日の由ニ候。是等、一奇と人々申候。先便得御意候、彼人之身分ニ付、彼是噂有之候    得ども、亓は為差事ニてハ無、彼人之身分ニ障無之由聞え候。御支配ニよく被思候や。先頃小普請支配某    殿、種彦ヲ被呼、其元家来ニ種彦と云者アリ。不宜者ニ候間、早々暇遣し候得と被申候由ニ候。此故ニ、    奉行所ニて『田舎源氏』之作者の御尋ハ無、只板をのミ御取上ニ成候間、板元鶴屋も右ニ准じて御咎メハ    無、只絶板せらるゝのミならんと、其毎ハ申候。種彦六十許歳なるべし、子息無之候間、死の字ハ伏置て、    急養嗣を尋る成べし。委敷事ハ不知候得共、是等ハ正しき実説ニ候。又『江戸繁昌記』の作者静軒之事を、    よく知る人ニ尋候得ば、彼人、只今ハ駿河台何某殿の家来品ニ成て居候間、其主人ニ御預ケニ成候由ニ候。    堀田原ニ居候ハ、最初の事也といへり〟    〈種彦の処遇については、彼(高屋彦四郎)が御家人ということもあって、市中の関心は高かったようだ。小普請組頭の処理は     実際気の利いたものだった。組頭は柳亭種彦を旗本高屋彦四郎の家来と見なし、行いの宜しからざるをもって暇を出すよう命     じたのである。これで高屋家の存続に関わる危機は回避された。またこの処理が結果的に板元鶴屋に影響が及んで、板木は没     収になったもののお咎めは免れた。もっとも絶板になっただけでも鶴屋にとっては再起不能に近い大打撃ではあったのだが。     (下出『きゝのまに/\』参照)なお、種彦の忌日について、馬琴は七月二十七・八日とすが、墓碑は七月十九日である。六     月に人情本・好色本の一件(為永春水の手鎖)が落着し、役者絵や遊女絵を禁じる厳しい町触が出て、わずか一ヶ月後のこと     であった。ただ死因については病死説・切腹説等あってはっきりしないようだ。馬琴によれば、その死亡日はちょうど板元の     鶴屋が「田舎源氏」の板木を奉行所に提出した日でもあったという噂が立ったようだ。市中は種彦の死が鶴屋の没落をも意味     すると受け取ったのかもしれない。     馬琴の寺門静軒評は〝『江戸繁昌記』の事被仰越、承知仕候。四編も、旧冬出候を求候て見候。かりたくの編ハ、春画本ニ彷     彿たるものニ御座候。いかに銭のほしけれバとて、あまりの事の様ニ存候。乍然、文章ハいよ/\奇妙ニ御座候〟と、吉原の     借宅に関する内容については酷評、文章の方はいささか評価しているようだ。(天保七年二月六日付、第四巻・書翰番号-42)     2013/09/22追記〉    ◯ 八月二十三日(『著作堂雑記』260/275)   〝天保十三年寅年八月廿三日、江戸繁昌記一件落着、作者静軒は武家奉公御構、丁子屋平兵衛は所払にて    家財は妻子に被下、右繁昌記売扱ひ候雁金屋は過料十貫文、右之書を彫刻致候板木師等は過料五貫文、    右之彫刻料を不残被召上、是にて一件落着也、丁子屋平兵衛は同月高砂町の貸家へ移る、小伝馬町三丁    目の本宅は六歳の男子平吉を主人にして、手代等是に従ふと云〟    〈寺門静軒はこれで仕官出来なくなってしまった〉    ◯ 八月廿七日『馬琴日記』第四巻 ④319   〝丁子屋平兵衛、江戸繁盛記一件、去る二十三日に落着致、作者静軒は武家奉公御構ひ、平兵衛は所払、雁    金屋は過料十貫文、右の本売得金御取上げ、右の書を彫候板木師は過料、又、右の彫賃御取上げの由也。    依之、丁子屋へ見舞の手紙、お路に代筆為致、清右衛門に渡し置。明日、小伝馬町へ罷越候に付、届候由    也〟      ◯ 九月二十三日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-10)   ◇ ⑥48   〝種彦養嗣、早速相極り、直ニ養嗣願相済、引続き死去御届ケ致、先日麻布菩提所ぇ葬送相済候由ニ候。黙    老人、近頃種彦と懇意ニ被成、両三度も被致面会、折々物抔贈り遣し候由ニ御座候〟    〈馬琴は柳亭種彦死後の様子を当時種彦と懇意であった木村黙老から聞いたのであろうか〉       ◇ ⑥48   〝『江戸繁昌記』一件、八月廿三日ニ致落着候。作者静軒ハ武家奉公御構也。丁子屋平兵衛ハ所払ニ相成候。    但し、家材ハ妻子ニ被下候。(中略)抑丁平、旧冬より此節迄、三四度の禍事ニて、最初ハ春絵摺物ヨツ    ト(口+冒)(ママ)と類の一件ニて、大に散財致、引続人情本壱件ニて、当夏六月迄御吟味を奉受て、引続    又、『江戸繁昌記』一件ニて、前書の趣候へバ、身上過半のいたミに成候半と、気の毒ニ存候〟    〈丁平は「八犬伝」の板元丁子屋平兵衛。昨年末以来、「春絵摺物ヨツト(口+冒)(ママ)と類」の一件(春画・摺物は分かるが     「ヨツト(口+冒)(ママ)と類」は不明)、人情本(中本)一件、そして『江戸繁昌記』の一件で、丁子屋は財産が半減する打     撃を受けたのである〉       ◇ ⑥50   〝当地之書肆伊賀屋勘右衛門、当夏中猿若丁両芝居之普請建前之錦絵をもくろミ候所、役者似顔絵停止ニ成    候間、其人物の頭ハ入木直しいたし、「飛騨番匠棟上の図」といたし、改を不受して売出し候所、其絵ハ    人物こそ役者の似面ならね、衣ニハ役者之紋所有之、且とミ本・ときハず・上るり太夫の連名等有之候間、    役者絵ニ紛敷由ニて、売出し後三日目に絶板せられ、板元勘右衛門ハ御吟味中、家主ぇ被預ケ候由ニ候。    又、本郷辺之絵双紙や某甲の、改を不受して売出し候錦絵ハ、似面ならねど役者之舞台姿ニ画き候を、人    形ニ取なし候て、人形使の黒衣きたるを画き添候。是も役者絵ニ似たりとて、速ニ絶板せられ候由聞え候。    いかなれバこりずまニ、小利を欲して御禁を犯し、みづから罪を得候や。苦々敷事ニ存候。是等の犯人、    合巻ニもひゞき候て、障ニ成候や。合巻之改、今ニ壱部も不済由ニ候。然るに、さる若町の茶屋と、下丁    成絵半切屋と合刻にて、猿若町両芝居之図を英泉ニ画せ、四五日以前ニ売出し候。是ハ江戸絵図の如くニ    致、両芝居を大く見せて、隅田川・吉原日本堤・田丁・待乳山・浅草観音抔を遠景ニ見せて、人物ハ無之    候。此錦絵ハ、館役所ぇ改ニ出し候所、出版御免ニて売出し候。法度を守り、後ぐらき事をせざれバ、お    のづから出板ニ障り無之候を、伊賀屋の如き者ハ法度を犯し、後ぐらき事をせし故ニ、罪を蒙り候。此度    出板の両芝居の錦絵ハ高料ニて、壱枚四分ニ候。夫ニても宜敷候ハヾ買取候て、後便ニ可掛御目候〟    〈『藤岡屋日記』に〝天保十三寅年五月 飛騨内匠棟上ゲ之図、菅原操人形之図役者似がほニて御手入之事。去十一月中、芝居     市中引払被仰付、其節役者似顔等厳敷御差留之処、今年五月、神田鍋町伊賀屋勘左衛門板元ニて、国芳之絵飛騨内匠棟上ゲ図     三枚続ニて、普請建前之処、見物商人其外を役者の似顔ニ致し売出し候処、似顔珍らしき故ニ売ル也。又本郷町二丁目家根屋     ニて絵双紙屋致し候古賀屋藤五郎、菅原天神記操人形出遣之処、役者似顔ニ致し、豊国の画ニて是も売る也。右両方の画御手     入ニて、板元二人、画書二人、霊岸島絵屋竹内、日本橋せり丸伊、板摺久太郎、〆七人三貫文宛過料、画師豊国事、庄蔵、国     芳事、孫三郎なり〟とある〉   〈馬琴記事の「飛騨番匠棟上の図」と「似面ならねど役者之舞台姿ニ画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きたる」図とは、    その板元名やその住所から『藤岡屋日記』のいう国芳画「飛騨内匠棟上ゲ之図」と豊国(国貞)画の「菅原操人形之図」に相当    すると思われる。双方とも画題は「飛騨番匠棟上の図」で板元は伊賀屋勘右衛門も同じ。また藤岡屋のいう「本郷町二丁目」の    板元・古賀屋は、馬琴のいう「本郷辺之絵双紙や某」に相当しよう。(本HP「浮世絵事典」の「地本問屋」の項、嘉永四年の    「諸問屋名前帳」参照。「本郷弐丁目 金兵衛店 古賀屋勝五郎」とある)つまり藤岡屋の記事も馬琴の記事も同じ絵に関する    ものと考えてよい。(以下「飛騨番匠棟上の図」は「棟上の図」と記す)    天保十三年夏、伊賀屋は浅草猿若町に移転した中村・市村両座の建前(上棟式)を錦絵にしようと目論んだ。ところが同年六月    の町触で、役者似顔絵が禁じられてしまった。それで、その人物の頭を入木し直し「飛騨番匠棟上の図」と題して売り出した。    だが、案に相違して、役者似顔ではないものの、役者の紋や富本・常磐津の太夫の名前などが連ねてあるなど、役者絵に紛らわ    しいとして、発売三日で早くも絶板に処せられたと、これが馬琴の証言。藤岡屋も馬琴も同じ絵について証言しているのだが、    大きな相違点がいくつかある。    一つは役者似顔か否か。藤岡屋の「飛騨内匠棟上ゲ之図」は役者似顔絵だが、馬琴の方は「入木」「人物こそ役者の似面ならね」    とあるから、役者の似顔絵ではない。    二つ目は絶板の理由。上出のように藤岡屋は天保十二年十一月の禁制(役者似顔絵禁止)違犯とする。馬琴の方は「役者似顔絵    停止ニ成候間」とあるから、天保十三年六月の役者似顔絵禁止令を念頭において、似顔絵に紛らわしいことが処分に至った理由    だとする。また馬琴は改(あらため=検閲)を通さない無許可の出版だったとするが、藤岡屋記事は特に触れてない。馬琴の口    ぶりではこちらの方が絶板理由としては重大だと考えたようで、同年九月に出版された、渓斎英泉の「猿若町芝居之略図」の例    を出して、「此錦絵ハ、館役所ぇ改ニ出し候所、出版御免ニて売出し候。法度を守り、後ぐらき事をせざれバ、おのづから出板    ニ障り無之候を、伊賀屋の如き者ハ法度を犯し、後ぐらき事をせし故ニ、罪を蒙り候」と記している。それにしても、この記事    でよく分からないのは「改を不受して」とあるところ。検閲を受けなければそれだけで違犯である。伊賀屋は承知の上でこの挙    にでたのだろうか。おりから天保改革の最中である。    (館役所とは町年寄・館市右衛門。天保十三年六月、今後全ての新規出版物は館市右衛門に申し出て、奉行所の許可を得るよう     通達が出ていた。英泉の「猿若町芝居之略図」(大々判錦絵、板元、中野屋五郎右衛門・三河屋善治郎、文花堂庄三郎)は下     出画像参照)    三つ目は絶板処分の時期。藤岡屋は五月、馬琴は「夏中」としか記してないが、「役者似顔絵停止ニ成候間」の記述から、役者    絵禁止の触書の出た六月の記事と考えられる。    藤岡屋と馬琴の記事、画題も板元も同じ「飛騨内匠棟上ゲ之図」なのに、なぜこのような違いがあるのか。特に役者似顔絵か否    かに関する相違は実に不可解である。    なお国貞画の「菅原操人形」に関しても、藤岡屋は禁制の役者似顔絵を出版した廉で絶板処分になったとし、馬琴の記事も「飛    騨内匠棟上の図」の場合と同様、無許可出版、そして役者絵ではないものの役者絵に紛らわしいという点で絶板になったとする。    どちらかに錯誤があるものと思われるが詳しいことは分からない。        さらに話を複雑にするのが「飛騨匠柱立之図」(一勇斎国芳画・三枚続)という絵の存在。(以下「柱立之図」と記す)こちら    は絵が残されているので、ネット上の画像を引いておく。    画面の上部が大工たちによる「柱立」の図。図様からすると「柱立」から更に進行した「棟上」の図に見える。雲形で仕切った    下部には、常磐津文字太夫・佐々木八五郎・岸沢式佐・西川扇蔵などの名前を配した芸人二十数名の全身像が画かれている。名    前のない人物もいるが、多くは常磐津の太夫かその三味線方(岸沢・佐々木)である。また、三枚続の右図左端、名前を配して    いない人物の羽織には市川羽左衛門の家紋、根上り橘が模様として使われている。ついでに紋についていえば、常磐津連中の羽    織には家紋の木瓜(モッコウ)紋が入っている。    まさにこの絵は馬琴のいう「人物こそ役者の似面ならね、衣ニハ役者之紋所有之、且とミ本・ときハず・上るり太夫の連名等有    之候」の記事と符合する。(富本はよく分からなかったが)    しかし、それにしても疑問はなお残る。馬琴はこのころ失明しているから直接見たのではなく、亡き長男の嫁・お路などに見て    もらったのだと思う。そこで考えられるケースは二つ。一つは、その者が画中の「柱立之図」を「棟上の図」と読みかえて報告    した。もう一つは馬琴が「柱立之図」の報告に耳を貸さず、図様からわざわざ「棟上の図」と書き改めた。こんなことがあり得    るだろうか。とても考えられないのである。藤岡屋由蔵は「飛騨内匠棟上ゲ之図」とし、曲亭馬琴は「飛騨番匠棟上の図」とす    る。これは二人とも同じものを見ていることは確かだ。それでは、二人とも「飛騨匠柱立之図」を見てそう書き替えたのであろ    うか。これが最大の疑問である。一番自然なのは、「柱立之図」の前に「棟上の図」の存在を想定することだが、今は確認する    すべがない。    最後にこの「飛騨匠柱立之図」の異版について述べておきたい。(これも参考までに画像を引いておいた)異版は元の版から    「不許売買」の文字と常磐津連中など芸人の名前を削除している。これはどういうことか。そもそも「不許売買」とは商売用で    はないという意味なのであろう。すると原版は常磐津連中の配り物なのかもしれない。それを商売用に転じるために削除したの    だろうか。次ぎに芸人の名前の削除、これについては、天保十二年十月、市中取締掛りの「上申書」に「一枚絵和歌之類并景色    之地名、又は角力取・歌舞妓役者・遊女之名前は格別、其外詞書一切認間敷候」(本HP「浮世絵事典」「浮世絵に関する御触    書」の項参照)とあるから、これを意識して削りとったものと考えられる。2013/09/20追記〉
     一勇斎国芳画「飛騨匠柱立之図」      (ウィーン大学東アジア研究所FWFプロジェクト「錦絵の諷刺画1842-1905」データーベース)