Top           浮世絵文献資料館          曲亭馬琴Top
              「曲亭馬琴資料」「天保十二(18410)」  ◯ 正月二十八日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-75)⑤250   〝去冬十月中稿了畢候迄ハ、不眼ながら自筆ニ綴り候て、読かね候所ハ愚媳に補せ、筆工ニ渡候。さし画ハ    自筆ニ出来兼候間、其方斗を画キ、訳を委しく印させ、画工ぇ渡し候処、柳川重信ハ、画ハ上手ニ候得共    画才なく、機(ママ)之きかぬ男ニ候間、心得違致、本文ニたがい候口絵。さし絵抔、多有之候由ニ御座候。    (中略)十一月以来、今ニ至り候てハ、弥見へず成行候(中略)丁子屋抔ハ、夫を彼是と申、稿本ハ皆平    がなに御かゝせ可被遣候、文字ハ為永春水ニ補せ可申候抔申候。かな文を漢文に直し候事ハ、其作者より    学問十分にすぐれ候人すら成かね候事ニ候を、たやすく心得、春水を大作者ト心得、信仰の余り左様之事    すら申すゝめ候〟    〈視力を失ったため「八犬伝」の稿本に苦心惨憺する馬琴の姿である。挿絵は画工柳川重信二代に詳しく指示を出すので     あるが、意図するものと違う図になるらしく、画才のない気の利かない男だと愚痴を云っている。本文の方は嫁のお路     が口述を筆記するが、漢字に悪戦苦闘している。それを見て、板元の丁子屋は、漢字の方は為永春水を起用するから、     ひらがな原稿でもかまわないと云う。馬琴が承知するはずもない。かつて春水の作品を読んで「悪作悪文、誤字尤多し。     見るに堪ず」(文政十二年(1829)二月二十六日記。『馬琴日記』第二巻p43)と評した馬琴である。なお同日付の小津     桂窓宛(書翰番号・第五巻-76)にも同文あり〉      ◯ 天保十二年(1841)正月二十八日 小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-76)⑤255   〝年玉之印斗ニ、如例家製黒丸子ニ包、并ニ「弓張月の錦絵」三枚進上之仕候。右「弓張月錦絵」は、去年    申上候とは別板ニ而、早春の新板ニ御座候。為とも琉球ぇ渡り候時、難風の図に御座候〟    〈去年の「弓張月錦絵」とは北鵞画。天保十一年八月二十一日付、小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-69)参照のこと。こ     の「弓張月錦絵」は未詳〉     ◯ 三月 朔日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』書翰番号・第五巻-78)⑤268   〝今より十四ヶ年以前、文政十一年春之頃、西村屋与八に被頼候て綴遣し候『雅俗要文』ハ、其頃云々得御    意間、被為知候半と奉存候。然所、右西村屋ハ、近来身上甚衰、与八ハ逐電致、跡ハ分散ニ成、去年壱ヶ    年、店ハ戸をたて、此節漸々店ヲ開候へども、主人無之候間、かすかなる為体に候由、人之噂ニ聞え候。    此故ニ、『雅俗要文』稿本・写本とも売物ニ出し、当地英文蔵と云書肆買取彫刻致、当春売出し候へども、    其義、作者ニ不告候間、小子ハ夢ニも知らず候処、壬月中旬画工北渓、六七年ぶりニて致来訪候語次、    『雅俗要文』、此節出板致、人々もてあそび候と告候ニより、初メて聞知り候て打驚かれ、其後清右衛門    ニ申付、右之板元を尋させ候所、下谷広小路英文蔵のよしニ付、壱部買とらせ、且作者ニ不告して、叨ニ    出板致候等閑を咎候へ共、云がひも無由ニ御座候〟     〈壬月は閏月。この年は正月。『雅俗要文』は文政十一年(1828)春に板元西村与八に書き与えた往来物。その稿本を零落     した西村から買い取った英文蔵が、馬琴に無断で「文政十一年春日」の序を「天保十二年」に直して、この正月出版し     たという。それを六七年ぶりに来訪した北渓が知らせたのである。三月三日付、小津桂窓宛書簡にも同様の記事あり     (書翰番号81)〉      ◯ 三月 朔日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-79)   ◇ ⑤278   〝旧板『括頭巾縮緬紙衣』ハ、文化四年、四ッ谷伝馬町住吉屋政五郎といふ貸本書賈の為に綴遣し候、全三    冊之読本也。其後、政五郎没て家零落致、右之板も類焼にてなくなりしを、文政中、大坂屋茂吉と云ゑせ    本屋、小子へ沙汰なしに、恣に再板して、国芳ニさし絵ヲかゝせ、書名を『椀久松山話』と改、五冊ニ致    売候由、程歴て聞知候間、夫等の不埒を、『八犬伝』何集やらに粗印候を成御覧候得ば、御覚も可有之奉    存候。先頃、丁子屋より取寄候新本摺本之内に、右之『松山物語』も有之、大坂屋茂吉没て後ハ、其板を    大坂河内屋茂兵衛買取、年々に摺出し、江戸ぇも多く下し、よくうれ候由ニ御座候〟    〈『括頭巾縮緬紙衣』は豊広画で文化四年(1807)刊。国芳画「椀久松山話」は「碗久松山」の角書きをもつ大坂屋板『柳     巷話説』。奥付には「文政十四辛卯年正月再板」とある。ただ、文政十三年(1830)十二月に改元されているので、文政     十四年は実際には天保二年(1831)にあたる。一方〝予が名號ありといへども、補刻に予が校訂を経ずして、他人の手に     成れるものなれば、これらは予が全作とすべからず〟として、この「不埒」な出版を咎めたのは「八犬伝」第七輯・巻     之四の巻末。こちらは文政十三年正月の刊行であるから、一年先だっての告発であった。おそらく、馬琴は板元仲間の     内部情報によって、大坂屋の出版予定を知り、警告を発したのであろう。これをさらに、大坂の板元河内屋茂兵衛が買     い取って、今に至るまで出版を続けているというのである〉     ◇ ⑤281   〝貴君御知る(ママ)人、屋代太郎殿も死去のよし。肖像ハ本草家岩崎源三常正画キ候由。先日楠本雪渓の噂ニ    て聞きしり候。但し、死去ハ旧冬か当春か、未ダ詳ならず候。序もあらバ、聞ニ遣し候ハんと存候。当春    ならバ、八十四才ニ御座候。明神下ニ居候時ハ隣家同様ニて、しば/\来訪せられしに、四ッ谷へ転宅後    ハ、如胡越の罷過候。老年迄も日勤ニて、甚健なる翁なりしに、寿ハ限り有物と存候〟    〈屋代弘賢(通称太郎、号輪池)は天保十二年閏正月十八日没、享年八十四。蔵書は五万巻を数え「不忍文庫」として知     られる。馬琴とは古書画・珍物奇物の品評会「耽奇会」の会員同志。馬琴宅の神田明神下から四ッ谷信濃坂への移転は     天保七年(1836)である。岩崎常正(灌園)は本草学者。日本で最初の植物図鑑とされる『本草図譜』及び『シーボルト     肖像』画でも知られる。天保十三年(1842)没。天保九(1838)年、馬琴の嫡孫太郎が楠本雪渓に入門していた。交友はそ     の縁によるもの〉      ◯ 三月 三日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-81)⑤287   〝「八犬伝錦画」ハ、上野大喪にて、あきなひも無候間、早春売切候後、仕入申さゞる由ニて、近所絵草紙    屋に無之候。都てにしき絵ハよく売候物二千枚、さらぬハ千枚、千五百枚ニて売留ニ候間、壱両月過候へ    バ、其絵何れの店にもあらず成行候〟    〈この「八犬伝錦画」は未詳。「上野大喪」とは十一代将軍徳川家斉(閏正月三十日没)の喪に服したこと〉      ◯ 四月十九日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-83)   ◇ ⑤294    〝(「八犬伝」九輯、筆工中川病気のため)今以壱丁も不出来候間、板元取斗、金水と申筆工ニ為書候。其    金水ハ、中本の作抔致候ゑせ作者ニて、本ぎやうハ手習師匠ニて、浅草かや丁ニ住居致候。小子ハ対面致    候事無之候へども、板元は大学者の様ニ心え、金水にてハ間違無之候由申候間、少々書せ見候ところ、中    川氏ニハ可及もあらず。誤脱抔も甚多く候得共、小子見候事成難、婦幼ニ読せ校し候間、行届かね、甚日    間入、埒明かね候〟    〈皮肉なことに、「ゑせ作者」松亭金水は、馬琴没後の安政二年(1855)、『朝夷巡島記』(馬琴作・豊広画、文化十二年     (1815)~文政十年(1827)刊)の続編を葛飾為斎の挿画で出版している。泉下の馬琴の思いは如何〉       ◇ ⑤295   〝太郎画之師匠楠本雪渓同席ニて、尾州奥医師中嶋三伯と申人、壮年にハ候得共、良医之聞えありて家をお    こし、専行れ候間、雪渓老人、右三伯老へ小子衰眼之噂致、極老にても可治哉と問れ候へバ、三伯聞て、    那人の如きハ、海内に壱人の人物ニ候処、老後衰眼ニて読書ならず候ハヾ、尤可惜事ニ候。療治ハともか    くも、見度候と被申候由、雪渓自身拙宅へ入来之上、被告候間、左様之思ハれに候ハヾ、たのもしく存候    間、則来診を請候処、先月下旬、三伯来診被致、先両眼を見、脈を見、腹ヲおし候て、扨被申候ハ、御眼    病、かく迄とハ知らず候間、骨折候てなをし進じ度存候処、中々元之ごとく筆ヲとり、書ヲ読候事ハ成難    候。(下略)〟      ◯ 四月十九日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-85)⑤301   〝屋代殿死去年月、彼屋敷へ聞ニ遣し候所、当春壬正月十八日死去の由ニ御座候。今ニ御届ヶハ被致ず、内    々可成存候。家とくハ七八才の義曾孫ニ候や、或ハ二郎と云第二の義孫ニ候や。そこらの事ハ未聞ず候へ    ども、跡ハ衰候半と存候。名画谷文晁、旧冬十一月死去の由ニ御座候。七十八才歟と覚候。実子文二ハ、    画へたニて行れず候。義孫後の文一ハ画上手ニて、評判宜敷候。なれども今までの如くニハあらず衰候半    と存候。名画の後ハ皆衰候事、古今同様かと存候〟    〈屋代弘賢は、三月朔日付、殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-79)参照。谷文晁の逝去については〝天保十一年十二月十     四日病て卒す、行年七十八、浅草五台山源空寺葬、本立院生誉一如法眼文阿文晁居士、辞世、ながき世を化おほせたる     ふる狸尾さきなみせそ山の端の月〟とあり。(『写山楼之記』「新燕石十種」第五巻所収p50)〉    ◯ 七月十四日『馬琴日記』第四巻 ④315   〝太郎を以、中島三伯へ薬礼金二両、楠本雪渓へ金百疋、為持遣す。然る処、三伯老屋敷、閉門の様子に    付、楠本へ先罷越候処、(三伯、四月の花見に芸子を招いたことを、尾州侯より咎められ、奥詰御免の上    閉門に処せられし由)雪渓老人の話にて、初て知之〟    〈楠本雪渓は宋紫岡。沈南蘋派で知られる初代雪渓・宋紫石の孫、二代雪渓・宋紫山の子。馬琴の孫・太郎    は天保九年にこの雪渓に入門し画を習っていた。雪渓も尾張藩御用絵師であったから、同藩奥詰医師・中島三伯の閉門沙    汰は内部情報であった〉      ◯ 七月二十八日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-89)⑤308   〝『金瓶梅』九集八冊之稿本割入、代筆致させ、六月稿了遣候。画工自筆ニ成かね候間、手さぐりニ人物之    かた斗ヲ書候て、注文書委敷かゝせ候所、国貞よくのミこみ心得候て、奇妙に画キ候由、家内之者申聞候〟    〈さすがは「合巻の国貞」面目躍如たるものがあるのだろう〉    ◯ 九月十六日(『著作堂雑記』243/275)   〝辛丑秋九月十六日、丁子屋平兵衛同道にて、画工国貞亀井戸より来る、我肖像を写さん為なり、この挙    は我本意にあらず、丁平が薦めによれり、終日酒飯のもてなしあり、写し得て帰去、其後八犬伝第九輯五    十三の巻下のさし画に、我肖像を載せたるに、他人は似たりといへども、我家の内の者どもは、さばかり    似ずといへり、我左眼病衰して、かすかに見ることを得ざれば、似たるや似ざるや未だしらず、然れども    肖像は、其当人をかたへに置て見くらべては、似ざる事自然の理なり、却て肖像の似たりといふは、只其    趣あるのみ、写真は得がたきものなるべし、是にて肖像の真ならぬを悟るべし〟    〈『南総里見八犬伝』の最終回に馬琴の肖像を載せるため、板元の丁子屋は、当時肖像画に評判の高かった国貞を起用し     た。しかし馬琴は肖像画に対して一家言をもっていた。「昔年豊国が京伝没後に肖像ヲ画き候ハ写真ニ候ひき。是ハ日     々面会之熟友なれバ也」(天保十二年十一月付、殿村篠斎宛)、つまり一陽斎豊国と山東京伝のように、日々面談する     ような仲でなければ写真とでもいうべき肖像画は無理だというのである。それに比して国貞とはこれまで一二度ちらっ     と会ったことがあるだけ、むろん長時間対面するようなことは一度もなかった。内心気が進まなかったのは当然であっ     た。しかし不満を鬱屈させながらも要求を受け入れてしまうのが馬琴の常で、やはり丁子屋の薦めに従った。だがこの     国貞に対する違和感というか、馴染めない距離感のようなものが、馬琴の心中あったことは間違いあるまい。果たして     この肖像画に対する周囲の受け止め方はそれぞれ別であった。丁字屋など他人は似ているという、しかし家族のものは     似てないという。では本人の馬琴はというと、これが既に失明していて見ることが叶わない。おそらく国貞は馬琴に漂     う弱さと頑なさが同居するような窮屈な感じを写し取っているのだと思う。丁子屋が似ているとしたのは肖像画にその     おもむきが現れていると感じたからではあるまいか。一方家族のものたちは四六時中生活を共にしているから、他人が     感じる雰囲気は既に自然化してしまって殆ど感じず、関心は専ら容姿の形似の方に向かったのかもしれない。以下、国     貞の馬琴肖像画と、天保七年(1736)馬琴の古稀を記念して画かれた長谷川雪旦画の肖像画をあげておく〉
     香蝶楼国貞画「曲亭馬琴肖像」      (早稲田大学「古典籍総合データベース」『南総里見八犬伝』第9輯巻53下)
     巌岳斎雪旦画「滝沢馬琴肖像並古稀自祝之題詠」      (早稲田大学「古典籍総合データベース」)        ◯ 十月 朔日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-91)   ◇ ⑤314   〝「四天王」之事、是ハ北渓にて、頼光四天王の絵本之書入を八ヶ年以前、外書肆より被頼候事有之。北渓    甚長き人ニて、其絵漸々二丁斗画キ候まゝニて、今ニ出来終ず候得ども、旧冬右の板元度々参り、連りニ    書入ヲ催促致候ゆへ、『四天王剿盗異録』入用之事有之由、旧冬申上候也。然る所、右之書ハ手ニ入候得    ども、彼板元、当春より催促もなく、又不通ニ成候。とてもかくても、出来ぬ天命なるべし〟    〈読本『四天王剿盗異録』は馬琴作・初代歌川豊国画・文化二年(1805)刊〉      ◇ ⑤315   〝(「八犬伝」九輯)さし絵ハ柳川重信、家内病難ニ付出来兼候間、英泉ニ絵がゝせ、末壱丁、小子肖像あ    る所ハ国貞ニ画かせ、右さし画板下共、昨今不残出来、追々彫立候事ニ御座候〟    〈文化十一年(1814)から続いた『南総里見八犬伝』は、天保十三年(1842)正月の「結局編」と同年三月の「結局下編」をもって     漸く終幕を迎える。最終巻「巻之五十三下」「囘外剰筆」において、馬琴は二十八年間を振り返って感慨やら楽屋話などをか     たる。そして最後の挿絵には香蝶楼国貞の筆になる馬琴自身の肖像を掲載して締めくくったのであった。同日付、小津桂窓宛     にも同記事あり(第五巻・書翰番号-93)。国貞画の馬琴肖像は十一月十六日、殿村篠斎宛書翰(番号97)参照〉     ◯ 十一月十六日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-94)   ◇ ⑤322   〝(「八犬伝」九輯)画工も此度ハ重信・英泉両人ニて、小子画わりいたし、注文書のミにて画せ候事故、    不如意之所も可有之候得共、是又見候事成難候間、無心許存候のミに御座候〟    〈馬琴は失明してなお言葉で画割りを画工に注文していたのである〉        ◇ ⑤325   〝九月十六日に、丁平不慮に国貞同道致、拙宅ぇ罷越候間、終日酒飯之もてなしに家内を騒せ、愚面を写さ    せ候。是迄国貞とハ、対面壱両度にて、終日面談は当秋初ての事ニ候。肖像の下画ハ未ダ不出来へども、    『八犬伝』九輯五十三の下のさし画ニ、拙像を画せ候処、丁子屋家内之者抔ハ、よく似たりとて誉候由ニ    候へ共、小子家内之者ハ、さばかり似ずと申候。然バ、肖像ハ只其趣あるのミにて、其人と引くらべ候て    ハ不似事と存候。勿論、国貞と面談は、此度初てニ候へバ、癖抔のミこみ候までもなく、率爾ニ写取候故    も可有之候。昔年、豊国京伝没後に肖像ヲ画き候ハ写真ニ候ひき。是ハ日々面会之熟友なれバ也〟
     香蝶楼国貞画「曲亭馬琴肖像」      (早稲田大学「古典籍総合データベース」『南総里見八犬伝』第9輯巻53下)      〈「八犬伝」の板元丁子屋平兵衛が国貞を同道して、四ッ谷信濃坂にある馬琴宅を訪問したのは、最後の挿 絵となる馬琴の肖     像を写すためであった。丁子屋の身内では馬琴に似ているとできばえを誉め、逆に馬琴の家では似てないという。もちろん馬     琴は失明しているから、自分では判断できない。ただ肖像は一度や二度の面接では不十分で、日常を共にするくらいにその人     となりに接していないと真を写すことは難しいと、馬琴は判断したのである。というのは、初代豊国の筆による京伝肖像ので     きばえが良いのは、二人の間に親密な交友があったからだと、馬琴は見ていたからである〉         ◇ ⑤325   〝当夏より丁子屋ニて「漢楚軍談絵本」彫立候。絵ハ前之北斎ニ画せ候由。北斎ハ当年八十二三歳ニ成候処、    細画之写本ヲ画キ候事、細心之至りニ候。文ハ為永春水ニ綴らせ候よし。春水、『通俗漢楚軍談』之訳ざ    まわろしとて、板元より多く引書を取よせ、黒幕の内ニて助候人有之由ニ候得共、春水が文盲にて、如何    可有之やはかり難く、丁平夏中、小子ぇ序文頼候得ども、不眼ニ托してかたく断、不書候〟    〈丁子屋板『絵本漢楚軍談』初編は天保十四年刊。北斎の細心の筆意、八十路を過ぎてなお衰えず。それにしても馬琴の春水嫌     いは徹底している。黒幕とは誰のことであろうか。『通俗漢楚軍談』とは、元禄七年(1693)の跋をもつ夢梅軒章峯・称好軒徽     庵のものか〉