Top           浮世絵文献資料館          曲亭馬琴Top
              「曲亭馬琴資料」「天保十一年(1840)」  ◯ 正月 八日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-40)   ◇ ⑤151   〝(「八犬伝」)先板(第九輯下帙下)ハ丁平たのミに付、無是非貞秀に画せ候処、果して拙画にて、看官    評判不宜候間、後輯ハ又柳川重信に画せ候。重信ハ遅筆にて、且多病無精の画工に候へバ、中々速ニハ不    出来候〟     ◇ ⑤155   〝『金瓶梅』七集上帙廿丁ハ、書画共九月下旬ニ出来候へ共、下帙廿丁ハ画工国貞方ニて長引、十月下旬ニ    書画共出来申候。上帙ハとかく出板可致処、板元勘定高にて手配り間違い、上帙の彫刻存の外長引き、画    もほり崩し、ふすまのもやう下ゑ等をぬすミ略し、うるハしき写本を甚あしくいたし候上、歳杪ニ至りて    もほり揃ひかね、やう/\十二月廿八日ニうり出し候。下帙廿丁も引つゞき出来、十二月廿九日夕七時ニ    ほり揃ひ、板元の小ものこの日拙宅ぇ三度往来いたし、二丁づゝ校合いたし遣し候へバ、直ニ板木師へ持    参いたし直させ候。幸ひニこの板木師青山故ニ、校合はやくかた付候。依之、下帙ハ当春六日ニうり出し    候〟      ◯ 六月十三日『馬琴日記』第四巻 ④312   〝老眼、此節弥かすみ、細字稿本出来兼候間、昼時より、予作文にて、お路に教へ書せ、二丁半、二の巻の    終迄、是を綴る。言葉書、同断〟    〈二月に一両一分もする「厚眼鏡」をかけてはみたものの〝思ふに似ずして宜しからず〟(五月十二日記事)で、目の状態はい     よいよ悪化の一途。板下写本や板本、書状に至るまで、お路に読んでもらわないとどうしようもない状況に陥っていた。そし     て、今又、原稿も口述筆記に頼る以外ないところまで悪化した〉     ◯ 六月 六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-54)⑤191   〝「八犬伝芳流閣之大錦絵」三枚続、此節芝泉市ニて新板売出し、高料ニハ候へども能うれ候由、去乍色板    数返ニて、摺多出来兼候由聞伝候間、板元ハ遠方ニ付、近処伝馬丁絵草紙屋ニてかい取候。(中略)代銭    ハ壱枚三十八文宛、三枚ニて百十八(ママ)文ニ御座候。(中略)此度のは国芳作乍、至極評判宜敷由ニ候へ    ども、何分衰眼ニて見へわかず候〟
     「八犬伝之内芳流閣」一勇斎国芳画(山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)     ◯ 八月二十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-56)    ◇ ⑤197   〝(視力が極端に低下した馬琴は「八犬伝」等の校合に苦しむ)『金瓶梅』八集も同様ニ候へども、是ハ平    がな故ニ、二冊目より下ハ拙媳ニ代筆致させ、どやらかうやら六月大暑前ニ綴遣候。画割ハ代画之者無之    候間、手さぐりニて画かき候ニ付、頭二ッ有人抔出来、或は襟胸ニ目鼻有人抔いでき候へども、さすがに    国貞故、板下ハ如例宜敷出来、上帙四冊ハ書画とも板下出来、只今彫立居候間、此分ハ当冬早く出板可致    候。下帙四冊ハ、国貞画ニて幕支、板下いまに壱丁も出来かね候へ共、下帙も出板之節、二部御覧ニ入候    様可仕候〟    〈長年組んでいる国貞だからこそ、たとえ拙い画稿でも、馬琴の意をくんで描くことが出来たのであろう。「拙媳」とあるのが、     馬琴の長子故宗伯の嫁・おみち。馬琴の目となって音読、代筆、校合に精を出していた。合巻の「金瓶梅」はひらがな主体な     のでまだしも、これが「八犬伝」の読本となると、おみちの負担はかなりのものであった〉       ◇⑤201   〝(『三七全伝南柯夢』文化五年(1808)刊)稿本といん本と御引くらべ被成御覧処、ほく斎さし画稿本と    は同様ニハ候へども、人物之右ニ有ヲバ左リニ直し、或ハ添もし、へらしの致候。此心じつヲ以云々被仰    示候御猜之趣、少しも無違、流石ニ是ハ君なるかなと甚堪心仕候。小生稿本之通りニ少しも違ず画がき候    者ハ、古人北尾并ニ豊国、今之国貞のミに御ざ候。筆の自由成故ニ御座候。北さいも筆自由ニ候へ共、己    が画ニして作者ニ随ハじと存候ゆへニふり替候ひキ。依之、北さいニ画がゝせ候さし画之稿本に、右ニあ    らせんと思ふ人物ハ、左り絵がき(ママ)遣し候へバ、必右ニ致候。実ニ御推りやうニ相違御座無候〟    〈六月六日、馬琴は『三七全伝南柯夢』の稿本を殿村篠斎に譲渡していた。篠斎は版本と稿本を比較して、人物の位置や数が違     うことを指摘し、北斎のこの作為に猜疑心を抱いたことを、馬琴に書き送っていたのであろう。作者の稿本に従わない北斎も     相当な天の邪鬼だが、馬琴もしたたかである。北斎のこうしたつむじまがりを計算に入れて、右に配置したい人物をあらかじ     め左に置いて稿本を画いていたのである。もっともこのような両者が長続きするとは思えない。画工まかせに出来ない馬琴と     我が道をゆく北斎とでは、並び立つことは所詮無理である。文化十年(1813)の読本『皿皿郷談』が最後になったのもやむを得     まい。馬琴によると、自在な技量があって、なおかつ自分の稿本通りに画いたのは、北尾重政・歌川豊国初代・歌川国貞の三     人だけらしい。なおこの頃、馬琴は秘蔵していたかなりの量の自作稿本を殿村篠斎に譲渡している〉      ◯ 十月二十一日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-69)⑤228   〝「弓張月の錦絵」、三枚続キニて、素人之蔵板に御座候。画工ハ北鵞ニて、為朝大蛇を退治致候処ニ御座    候。色ざし廿ぺんほどの由ニて、美を尽し候。「八犬伝之錦絵」流行故之事ニ可有之候。先頃、引受人よ    り三枚百文ニてかい取せ候へども、老眼ニハ何かわからず、無面目に御座候〟          ◯ 十月廿二日『馬琴日記』第四巻 ④314   〝当三四月頃、佐藤正(一字□)が画きて、贈りこしたる八犬士画賛の歌并に扇面画賛一本、白石小塚縮図    の抄録等、今朝直し、書之。衰眼かすみて、見えかね、只手かげんのみ也〟      ◯ 十一月(『著作堂雑記』242/275)   〝天保十一年庚子冬十一月、谷文晁病死、七十八歳なるべし、田安御画師にて、近来第一の名画なり、養子    文一も画匠なりしに、早く死したり、実子文二は画下手にて行はれず、文一の子後の文一は、佐竹の画師    にて同居す、此文一画才ありて世評宜し、予文晁と相識久ければ、記してもて遺亡に備ふ〟      ◯ 天保十一年 月日、宛名を欠く(第五巻・書翰番号-73)⑤243   〝花山ハ主君ぇ御預ヶ、三宅殿御留守居御呼出シ、御引渡シニ成り、在所ぇ遣シ、隠居之上、可致蟄居旨、    於奉行所筒井殿被仰渡、則箯轎・鑓・挟箱ニて迎の警固人付添、屋敷ぇめしつれ別屋敷へ入置、番人被付    置候間、妻子も不被許対面、況懇も面会いたしがたきよしニ候。但シ、主君三宅殿、三日遠慮ニて閉門い    たされ、三日の後花山ハ在所三州田原へ遣され、妻子ハあとより是亦田原へ被遣べしと云。尤にが/\し    き事ニ候〟    〈「蛮社の獄」の崋山、国許である三河の田原藩にて蟄居を言い渡されることになった〉