Top           浮世絵文献資料館          曲亭馬琴Top
              「曲亭馬琴資料」「天保十年(1839)」  ◯ 正月 三日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-17)⑤74   〝当春も、紙鳶の画に芳流閣の処など多く出候。芳流閣画キ候ハ二枚張ニて、価弐百五十銅のよし。此外の    画ハ、六十四銅ニ御座候〟      ◯ 五月十五日 『滝沢家訪問往来人名録』下131   〝己亥(天保十年)五月十五日初来 亀井戸国貞隣家 歌川貞秀   〈天保四年の『滝沢家訪問往来人名録』に〝同(癸巳・天保四年)九月五日 鶴屋喜右衛門同道ニて初テ来訪 亀井戸 画工 歌    川貞秀〟とある。同人と思うのだが、ともに初て来訪とあるのは不審〉       ◯ 六月 九日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-24)⑤97   〝(「八犬伝」九輯下帙)筆工板下も、追々ニ出来候へども、只画工重信、外事ニて幕つかへ候間、国貞弟    子の貞秀ニ助させて間を合せ候〟    〈天保十一年刊「八犬伝」奥書「八犬伝第九輯下帙下中編乙號上分巻五冊書画剞劂目次」に「出像 柳川重信」「補助画 巻之     三十一末ヨリ 歌川貞秀」とある。また同じ年に刊行されたもう一編の奥書「南総里見八犬伝第九輯下帙下乙號中画工筆耕彫     匠名號目次」には「出像画工 玉蘭斎貞秀」とある。つまり天保十一年刊行の「八犬伝」の挿絵は重信の都合がつかなくなり、     途中から貞秀が担当することになったのである。では重信の支障「外事」とは何であろうか。「滝沢家訪問往来人名簿」は柳     川重信を〝根岸中村御玄関番鈴木忠次郎養子重信婿養嗣 鈴木佐源次事〟と記す。本業である鈴木佐源次としての仕事(「御     玄関番」か)を優先せざるを得なかったのである〉      ◯ 八月十二日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第五巻・書翰番号-30)   ◇ ⑤115   〝三宅侯家老渡辺登ハ号花山、初画を金陵に学びて、故児と同門也。後に一家の画風を起して、且古画の鑑    定をよくす。門人多し。漢学ハ佐藤捨蔵弟子にて、読書の人也。世間ニては学者の様にいへども、書たる    物を見ざれバ、己ハよくもしらず。蕃(バン)学をこのミて、多くその書を見て学び、魯西亜の懐中鉄炮な    ど造り出して売弄スと云。久しき相識なれども、面会ハ稀にて深く交わらざれバ、其学力を量り知らざれ    ども、蘭学ハ尤好む処にて、発明多しト云。終には、画と蘭学をもて一家をなさんと思ひしなるべし。四    年前、予転宅已前、肖像の謝礼ニゆきて対面せしまゝニて、予が新宅を一度も訪れし事なし。然ルにこの    人、当五月十五日、俄に町奉行ぇ召捕られ、且家捜しせられ、所蔵の書画ハさら也、壁の腰張の反故まで    も剥して、御とり揚になさりしと云。(以下「蛮社の獄」の記事あり、略)〟    〈渡辺崋山と馬琴の嫡子宗伯はともに画を金子金陵に学んだ仲。その縁で馬琴とも以前から交友があった。「予転宅已前、肖像     の謝礼ニゆきて対面せしまま」とあるのは、馬琴が崋山に会った最後のことを言っている。その時期は、馬琴一家が神田明神     下から四ッ谷信濃坂に転居(天保七年十月四日)する前で、崋山に依頼した故宗伯の肖像画が完成したあと間もなくである。     宗伯の死は天保六年五月八日のこと。「滝沢琴嶺像」の完成は天保七年五月上旬一周忌前(天保七年(1836)六月二十一日付殿     村篠斎宛(第四巻・書翰番号-48参照)であるから、謝礼の対面は天保七年五月中と思われる。佐藤捨蔵は朱子学及び陽明学     に通じたので「陽朱陰王」と呼ばれた佐藤一斎。崋山は師一斎の肖像画も画いている。なお崋山の逮捕は五月十五日ではなく、     五月六日。馬琴自身が八月十六日付、殿村篠斎宛(書翰番号-32)で訂正している)〉       ◇ ⑤117   〝(渡辺崋山記事)昔年窮する折々ハ、古人の偽画をつくりて、人を欺キて利を射る事あり。故児この事を    予に咡きて、花山ハ才子なれども、偽画の一条ハ不人物の事也といひにき。我嫡孫に我を学せんと思ひし    比、花山にはなし置けるが、よく思へバ、かの偽画の事あれバ、心術なつかしからず、この故に、去秋よ    り楠本雪渓の弟子にしたり。今思へバ、よくも花山の弟子にせざりきと、ひとりうち笑れぬ、只後悔ハ、    故児の友にて、肖像を画キたりし人故、五ヶ年前、『後の為の記』一本を贈りし事あり。彼人所蔵の書籍    ハ、みな御取上ゲになりしよしなれば、彼書も没官せられしなるべし。しかれども、夷狄の事に干らぬ吾    家の事なれば、こゝろ安かり。是に就ても、秘書ハ知音の外、謹て人に贈り、人にかすまじき者也。    平賀鳩渓・林子平・渡辺花山、皆蛮学をもて名をしられたる者、終りをよくせしハなし。もて覆車の戒と    すべし。予、交遊にハ必信を尽さんとす。こゝをもて忠告して、謹慎小心あれかしといふのミ。好て人の    悪をいハん為にあらず〟    〈「故児」は馬琴の長子宗伯。崋山の贋作作りはどの程度に及んでいたものであろうか。馬琴の関心は崋山の身の上にあるとい     うより、孫を崋山の弟子にしなかった己の判断の正しさと、崋山に贈った『後の為の記』が没収されたことによって生ずるか     もしれない一抹の不安の方にあった。平賀鳩渓(源内)は獄死、林子平は蟄居、崋山は揚屋入りになった。この後、崋山は同     八年一月に蟄居、同十二年十月十一日には自害する〉    ◯ 八月十六日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-32)⑤120   〝八月十一日、画工【唐画師也】佐藤理三郎来訪。この理三郎は生和漢の学を嗜み、都て名家と広く交り、    処々走り廻り候遊人に候処、野生は当春所親の紹介にてはじめて対面、この人御故弟にも相識のよし、貴    君の御噂なども致候へば、御存に候哉。蘭学をも嗜候間、花山の懇友に候間、彼件の実説を聞候に、世の    風聞は虚実半分にて、たがへること多し。理三郎云、事の起りは当今有名之蘭学者佐藤某が、『夢物語』    といふ書を綴しによれば、『夢物語』は瓊浦の風聞書を探り得たる歟、アメリカ交易願の計較あるよしを    述てその特失を論じ、官府の指図がましき事を書たる也。花山は是を借謄せしのみにて、その作者にあら    ず。(以下、蛮社の獄の記事)召出さるゝ時、蔵書は皆取上ゲになりしかど、壁の腰張りにせし反故迄の    剥して持参せられし事はなし。風聞に蛮書を訳して国政を誤り奉りといひ候は、『夢物語』の事を聞ひが    めたる也といへり。其徒数人、このたびの件にもれたるあり。営利をたづねて夷狄を景慕しぬる中に、花    山は夷狄の防ぎを第一にして、御国のおん為に精力をつくすと云。予が云、それも入らぬ事也。人各その    職分あり、陪臣は陪臣の職分あり。その君の為に誠忠ならば事足るべし。その職にもあらぬ御国の大事を、    己が位のごとくにこゝろ得たる悞にて、不測の罪を得たるなるべしといひしかば、理三郎閉口して去りぬ〟    〈佐藤理三郎とは佐藤北溟(安政四年(1857)歿、四十九才)。名は正持、通称は理三郎。春木南溟門人。渡辺崋山と交遊があ     るということで、未知の人には会おうとしない馬琴にしては珍しく、実説に触れんがため特別に面談したようである。友人で     あった渡辺崋山が関わった「御国の大事」に、馬琴はよほど興味があったのである。もっとも崋山には批判的で、人には職分     があり、崋山の行為は陪臣としての身の程を知らない越権行為だとするのである。『夢物語』の著者を高野長英ではなく佐藤     某としたのは、馬琴の聞間違いか、佐藤北溟の過ちか。北溟のものだとするとその実説なるものも怪しくなるのであるが。た     だ北溟が頑迷固陋な馬琴に閉口したというのは事実であろう〉     ◯ 九月廿三日『馬琴日記』第四巻 ④307   〝今夕、お路に申付、金瓶梅七集一・二の写本、令読之、予、聞之。衰眼にて、細字の写本見えわかざる故    也。誤字なし〟    ◯ 九月廿七日『馬琴日記』第四巻 ④308   〝当春、丁平、見せに差越候、春水中本春告鳥、二編の口、為読之。序文并に本文五丁ほどよむ。聞くに    不堪して、捨去らしむ〟    〈丁平は板元・丁子屋平兵衛。為永春水作の中本(人情本)『【風月花情】春告鳥』(歌川国直画・天保八年刊)。勧善懲悪、     品行方正を旨とする読本作家・馬琴からすると、人情本の世界は淫靡で「聞くに堪えず」なのである〉