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「曲亭馬琴資料」「天保元年(文政十三年・1830)」 ◯ 文政十三年正月二十八日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-56) ◇ ①253 〝(『近世説美少年録』二輯の製本中の正月二十三日、板元・大坂屋半蔵病死のため、売り出しが延期にな る。馬琴、存命中に発売できるよう画工・板木師に働きかけるものの間に合わなかった)画工北渓 、こと の外づるき性ニて、去年四月よりさし画をかゝせ候処、旧冬迄ニ出来をハらず、正月ニ至り、やう/\色 外題・ふくろ・とびらの板下出来。依之、製本不都合ニ相成、板元存命之内、出板間ニ合不申候。板元家 内の歎キハ勿論、於老拙も、遺憾此事ニ御座候〟〈馬琴によれば、「美少年録」の制作の遅れを気にしつつ病床にあった板元・大坂屋半蔵の気持ちを察して、せめて存命中の 発売にこぎ着けようという努力を、ご破算にしたのは北渓の遅筆にあるというのである〉 ◇ ①259 〝(馬琴「八犬伝」に続いて「九牛伝」を作品化するよう板元より懇望される。あまり気乗りのしない企画 であったが承知した。ところが)去年岳亭 と申画工の作ニて、尼子九牛士の事出来、それを又後の楚満人、春水 と改名いたし候ゑせ作者添削いたし、丁子や平兵衛、并ニかし本や共より合、ほり立候よし。依之、 拙作の『九牛伝』ハ、岳亭・春水 へゆづりくれ候様、『八犬伝』の板元、旧冬申候。素より得意ならぬ著 述の事故、即座に任其意、此方ハやめ可申候と返答ニ及び候〟〈「尼子九牛士」に関する岳亭の作及びそれを添削したという為永春水の作、いずれも未詳〉 ◇ ①259 〝旧冬、西村や与八方ニて、一夕種彦・今の焉馬・春水等三人おち合、雑談の語次、たね彦が話に、『八犬 伝』七輯上帙の事を申出し、ことの外甘伏の様子ニて、云々と評し候を側聞いたせしもの、愚老へ告申候。 聞候に、たね彦の評ハ、作者の苦心を思ひやり候意味多く、見物の評とハ格別ちがひ候事の聞え申候。あ らましを記したく候へ共、ほめられて風聴いたし候様ニも聞え、且長文をいとひ候故、こゝに贅し不申候〟〈馬琴は柳亭種彦の高い評価がよほど嬉しかったものと見える。三月二十六日の篠斎宛書簡では、種彦の評を詳述している。 なお、同書簡で馬琴は種彦をこう評価している。〝種彦作も『正本製』の二編を、ふと見候のミ、其余ハ見候事無之候。如 命、此人の『田舎源氏』ハ評判よろしきよし、及聞候へども、見不申候。才子にハ候へ共、趣向に手支候よしにて、新作少 く候よし。一向ニ交り不申候故、詳なることをしらず候〟「才子にハ候へ共、趣向に手支候よし」これは伝聞を装っている が、馬琴の評価であろう〉 ◇ ①265 〝東叡山宮様御家来にて、鈴木有年 と申画工、これも少し学問有之、尤小説好ニて、拙作一覧後、折々批評 を見せ被申候〟 ◯ 文政十三年閏三月七日 『滝沢家訪問往来人名録』下121 〝庚寅(文政十三年)閏三月七日来訪 八重洲河岸火消同心隠居安藤鉄蔵事 古人豊広 門人 画工広重 〟 ◯ 文政十三年六月二十日 『滝沢家訪問往来人名録』下121 〝庚寅(文政十三年)六月廿日地主杉浦より紹介 大暑中ニ付未面 麹町天神前京極飛騨守殿家臣 北斎門人之よし 近藤伴右衛門 画名葛飾戴斗 〟〈葛飾戴斗二代である〉 ◯ 文政十三年九月朔 河内屋茂兵衛宛(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-62)①292 〝(『開巻驚奇俠客伝』の筆工について)中川氏の外ニ、仙橘 と申筆工も有之候故、一冊づゝかゝせ可申存、 遣し候処、書やうよろしからず、用立かね候故、これハ止メ申候。板下宜しからず候てハ、ほね折候ても よめかね、且ほり立製本の節、ざく本ニ成り候間、筆工書を第一ニえらミ候事ニ御座候。中川氏ハ、年来 拙作筆工ばかりいたし罷在候間、筆やう・かなづかひ等、のみ込居候〟〈中川氏は中川金兵衛。仙橘は文政十年、渓斎英泉より紹介された筆工。英泉の『無名翁随筆』(天保四年(1833)成る)には 〝泉橘 紫領斎 渓斎英泉門人【俗称仙吉、向島、中本多ク、画作ヲ出セリ、筆耕ヲ業トス】〟とある〉