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「曲亭馬琴資料」 年月不詳」 ◯ 年不詳 三月二十二日 馬琴宛・歌川豊広(第六巻・書翰番号-来51)⑥272 〝(貼紙「歌川豊広 【豊春門人。芝片門前住居】」)〟 〝以手証啓進仕候。追日暖気相成候。いらい御清節之段、奉賀候。然ば、先達も上候青本之義、御承知可 被下、難有奉存候。泉市も早速参上可仕候処、いろ/\とりこミ、御遅引仕候。何卒先々私方相願くれ 候様申候。私参上可仕処、此節いろ/\多用ニ御座候。乍失礼、先々以手証申上候。何卒青本六冊御く り合、御認可被下候様相願候。いづれ此間は参上いたし度、此段よろしく相願候。以上 三月廿ニ日 馬琴先生豊広 〟〈「青本六冊」とあるから合巻であろう。この書翰は原稿の催促である。豊広画、板元泉市で出版の約束が既になされていた ようだ。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によると、馬琴作・豊広画・泉市板の合巻は『【加田建械長介海鰌】 敵討白鳥関 』前編三巻後編三巻。文化五年(1808)刊とあるから、この書翰は前年の文化四年と考えられる〉 ◯ 年不詳 三月二十八日 馬琴宛・栄松斎長喜(第六巻・書翰番号-来52)⑥272 〝(貼紙「長喜 【小伝馬町住。放蕩にして後住所不知。栄松斎 】」)〟 〝拝見仕候。如命、其後は御物遠奉存候。先以、御安全奉賀候。然者、表紙写本相認候様、奉畏候。早速 相認可申候。出来次第、つたや迄差出し可申候様、奉畏候。筆料壱匁弐分奉願上候。何も御答のミ、早 々申上候。余は尊顔万々可申上候。以上 三月廿八日 〆 曲亭君長喜 拝〟〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によると、馬琴作・長喜画の作品で一番年代の早いのは、読本『高尾船字文』 の寛政八年(1796)刊である。他は全て黄表紙で寛政十一年、享和元・二年(1801・2)、文化二年(1805)の刊行である。初代 蔦屋重三郎の死は寛政九年五月六日。この書翰にある蔦屋重三郎は初代かどうか未詳〉 ◯ 年不詳 十一月二十三日 馬琴宛・勝川春章 二世(第六巻・書翰番号-来53)⑥273 〝(貼紙「勝川春章 【馬喰町二丁目和泉町四方向裏住居】」)〟 〝寒冷ニ御座候へども、弥御勇健ニ被遊御座、珍重奉存候。然バ拙者義、久々不礼敬乍存、御無沙汰仕候。 御用捨可被下候。乍惶、御家内様宜敷奉頼上候。 一、先日若旦那ニ御目ニかけ置候、「宋紫石 鳥のゑほん」、此ものニ御入用相済候ハヾ、御貸被下候様 奉頼上候。急ニ花鳥絵本ニ甚困り、無拠申上候。万々御目懸り、御礼可申上候。以上 十一月廿三日 曲亭様勝川春章 机下〟〈この勝川春章は二世。若旦那とは寛政九年生まれの長子宗伯をいう。宋紫石の「鳥のゑほん」とは「花鳥画譜」という内題 を有する『宋紫石画譜』(明和二年(1776))か。宗伯は金子金陵について画を学んでいるが、絵手本として二世春章に借り ていたのかもしれない〉 ◯ 年不詳 五月二十三日 馬琴宛・葛飾北斎(第六巻・書翰番号-来54)⑥273 〝(馬琴筆朱書貼紙「北斎 、はじめは剞劂をまなびしが、捨て画を勝川春章 にまなびて、画名を春朗 とい へり。後に俵屋宗理 が名氏を冒し、又その名氏を弟子にゆづりて北斎 に更め、又これを弟子にあたへて戴斗 と更む。只北斎 のミ世にあらハれたり。居を転ずると名ヲかゆるとは、このをとこほどしば/\な るハなし。壮年、その叔父御鏡師中嶋伊勢が養子になりしが、鏡造りのわざをせず、こと子をもつて職 を嗣せしが、そハ先だちて身まかれり」〟 〝(表書「曲亭先生 机下かつしか北斎 拝」) 尚々、大坂之儀、参上御面談ニて可申上候。以上昨日は京橋へ御出之由、御空庵へ下画差上申候。今日 御校合相済候へば、何卒此ものへ被進可被下候。当年中出来之積りニ相認メ可申候。明朝は平林主人被 参候間、其節為朝之写本三丁斗り持参被致候間、是又御差図可被下候。御遠慮等、決而御無用ニ御座候。 以上 二白。御家内様へもよろしく御寄声奉願上候。以上 五月廿三日〟〈北斎が馬琴の許に届けた「下画」は「為朝之写本」「平林主人」とあるから『椿説弓張月』のものと考えられる。「平林主 人」は「弓張月」の板元平林庄五郎。従って「かつしか北斎」の署名で使いにもたせたこの手紙は、文化三年~文化七年 (「弓張月」の前編は文化四年の刊行、残編は文化八年)の間と考えられよう。「hokusai-paintings.com」を主宰する久 保田一洋氏のご示教によると、「大坂之儀」とは「文化五年十月に、大阪で『椿説弓張月』が興業された時に、それに関し て何らかの打ち合わせに、馬琴のもとに改めて赴くという意だと思われます。その摺物が残っており、そういった類の打ち 合わせと推測されます」とのことで、文化五年のものとされている。従いたい。ところで「御差図」とは馬琴の画稿上の指 示をいうのであろうか。「御遠慮決して御無用」と北斎はいう。満々たる自信である。しかし馬琴にすれば〝北さいも筆自 由ニ候へ共、己が画ニして作者ニ随ハじと存候ゆへニふり替候ひキ〟で意のままにならない北斎であった。(天保十一年(1 840)八月二十一日 殿村篠斎宛(第五巻-書簡番号-56)⑤201参照)所詮、自分の画稿のままを画工に指図する馬琴と、 自身の創意を画中に反映させようとする北斎とは相容れないのである。馬琴が北斎から離れたのもやむを得ない〉 ◯ 年不詳 九月二十九日 馬琴宛・北尾重政(第六巻・書翰番号-来55)⑥274 〝(貼紙「北尾重政 【紅翠斎、俗名佐介。根岸中村住】」)〟 〝(表書「曲亭賢主 貴酬花藍 」) 如来命、一昨日は得拝顔、大慶仕候。愈御楽慮之段、奉珍重候。然ば、拙画被仰付、御懇書之通、奉承 知候。只今暦取かゝり罷在候間、来月四日迄ニ認終申候。其次早速相認、呈上可仕候。右故混雑罷在候。 乍貴答、早々如此御座候。以上 九月廿九日〟〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によると、馬琴作・重政画の作品は文化三年が最後である。したがって、この 書翰は文化二年以前のものと思われる。興味深いのは暦の板下制作。重政はこの方面でも知られていたから、例年この九月 の頃になると、暦の板下制作に専念したのであろう。重政は馬琴にとってお気に入りの画工であった。〝小生稿本之通りニ 少しも違ず画がき候者ハ、古人北尾并ニ豊国、今之国貞のミに御ざ候〟(天保十一年(1840)八月二十一日 殿村篠斎宛(第 五巻・書翰番号-5+6)⑤201)。北尾重政は馬琴の画稿に忠実なのである〉 ◯ 年月不詳 二十三日 馬琴宛・窪俊満(書翰番号・第六巻-来56)⑥275 〝(貼紙「久保俊満 【馬喰町新道住】」)〟 〝一昨日は得貴顔、奉大慶候。然ば、相願ひ申上候御染筆、明朝もたせ上候間、何分/\奉希上候。今朝 さし上候はづに御座候へども、すきやがし手など入候ニ付、明朝さし上可申候。御繁多之御中、何とも 奉恐入候へども、唯々奉希上候。以上 氷月廿三日 曲亭先生俊満 拝 尊下〟〈「すきやがし」は狂歌堂鹿津部真顔のこと。持ち回りで狂歌でも揮毫しているのであろうか。狂歌堂のもとで支えて、馬琴 に届くのは予定より一日遅れると、俊満が連絡したのである〉 ◯ 年不詳 十二月十九日 馬琴宛・渓斎英泉(第六巻・書翰番号-来57)⑥275 〝(馬琴朱書「画工英泉 」)〟 〝以手紙啓上仕候。甚寒之砌御座候へども、御揃被遊、益御機嫌克、奉恐悦候。然ば、此品誠軽少之至御 座候へども、寒中御機嫌奉伺候印迄、奉御覧ニ入候。御笑納可被下候。段々御厚情御取立被下置候段、 誠外聞旁、難有仕合ニ奉存候。右御礼、推参仕可奉申上奉存候処、久々不快ニ而、御不音仕候段、奉恐 入候仕合ニ御座候。何分右之段急御取斗、 先生ぇ被仰上可被下候様、偏奉願上候。委細近日推参仕、 万々奉申上候。右之段申上度、如此御座候。以上 十二月十九日 滝沢様英泉 御取次中様〟〈馬琴の「御厚情御取立」に対して、英泉は直接お礼を云うべく訪問する予定であったが、「不快」のため延期したいという 内容の手紙である。この「御厚情御取立」の内容は分からない〉 ◯ 年不詳 七月十六日 馬琴宛・俵屋宗理三世(第六巻・書翰番号-来73)⑥283 〝(貼紙「三世俵屋宗理 【北斎門人。浅草第六天附近住】」)〟 〝(表書「飯田町仲坂 滝沢清右衛門様 当用俵屋宗理 ) 尚々 先日ハ御光駕被成下候所、折節他行仕、不得尊顔候。御残多奉存候。其砌は御文章被下、早束差出候所、 大キニ大悦奉存候。早束拙子も、乍御礼参上仕度存居候得共、御存被下候通り、日々之出勤にて、及失 礼候段、御高免可被下候。尚亦清書仕候間、御印奉願上候。近日以参御礼申上度、早々已上 七月十六日〟〈先の名宗二が改名して俵屋宗理三世と称したのは、二世宗理が「宗理改北斎」なる署名をして北斎名に改めた寛政十年(17 98)八月以降のこと。そして『【諸家人名】江戸方角分』(文政元年(1818)成立)を見ると「宗理 菱川 馬喰町(原)〔馬 場〕俵屋」とあり、しかも「古人」の合い印があった。三世宗理は文政元年以前に故人となっていたのである。そうすると、 この書翰は文政元年以前のものと見ることができる。さて、書翰の内容は、馬琴が「御文章」を持参して宗理宅を訪問した 時、宗理は不在であった。その折は「日々之出勤」のため失礼をしてしまったが、近日中には参上して直接お礼を申し上げ たいというのである。この「御文章」、馬琴の戯作ではない。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」に馬琴作・宗理 画の作品は一点もない。すると何であろうか。ところで「日々之出勤」とある。するとこの宗理は仕官していたのではある まいか。2011/09/26訂正追記〉 ◯ 年不詳 十一月二十五日 馬琴宛・蔦屋重三郎(第六巻・書翰番号-来75)⑥286 〝(貼紙「蔦唐丸 重(ママ)屋重三郎。書林耕書堂」)〟 〝(表書「清右衛門様 蔦屋十三郎」) 明後日より摺かゝりたく候。校合御急ぎ可被下候。頓首 十一月廿五日〟〈馬琴が書肆・蔦屋重三郎の手代から飯田橋の滝沢家に入夫して清右衛門を名乗るのは寛政五年(1793)七月下旬以降のこと。 また、蔦屋の逝去は寛政九年五月であるから。この書翰はその間のもの。正月出版の黄表紙の校合を督促したものである〉 ◯ 年不詳 七月二十一日 馬琴宛・蹄斎北馬(第六巻・書翰番号-来76)⑥286 〝 馬琴先生北馬 昨夜閑々得□□、大慶仕候。梓師卯八、私方へ昨日参り候よし。像之所は承知のよしに御座候へども、 内心は中の画十七匁□□、あまりきのなき様申聞帰り候よし、愚妻申聞候。相成候ハヾ、卯八へ頼み度 候間、十七匁の所、私壱匁出銀可致候間、卯八へ御申付可被下候。尤、私方より遣し候様申候而は不承 知故、画料さし引にて、其御方より直を上ゲ被遣可被下候。しかし、私出銀はゑんの下の(*力持ちの 絵)に御座候間、相成候ハヾ、五分もさきでだし候て、直□□□夫も出来候て、私壱匁ヅヽ出銀候ても 不苦候。可然御工夫奉願候。二巻目ハ、直はむつかしきよし、是も彫の所、やすあがりに致さぬ様に、 ひとへに(*拝む絵)(升の図)。何れ今日明昼迄に跡出来可仕、左様思召可被下、(一図意味不明) も明日かゝり申度候。以上 七月廿一日 一〇下第四上(ママ)〟〈「像之所」「中の画」とあるところから、これは読本の彫りの手間賃のことと思われる。彫工の卯八が「中の画」に十七匁 の要求をしている。北馬は卯八の技量を買っているらしく、自分の画料から一分を拠出して十七匁とするから、卯八に仕事 をまわしてほしいと頼んでいる。「日本古典籍総合目録」によれば、馬琴作・北馬画の読本は文化二年(1805)刊『石言遺 響』と同年成立『勧善常世物語』の二作だけである。するとこの書簡は文化元年~二年のものだろう〉 ◯ 年月不詳 十一日 馬琴宛・蹄斎北馬(第六巻・書翰番号-来77)⑥287 〝(貼紙「蹄斎北馬 【通称有坂五郎八。北斎門人。居宅鳥越御先手組屋敷】」)〟 〝先頃は閑々御物語仕、大慶仕候。其節相願候通り、弥来ル十二日発会仕候。何分御出席奉希候。尤、御 出席被下候様、外へもはなし置候間、乍御苦労、少々御せめ申上候。御子息様も御同道被下、御染筆奉 願候。以上 十一日 曲亭先生北馬 〟〈参考までにあげると、『「滝沢家訪問往来人名簿」上』(「近世文芸研究と評論」33号)に〝庚午春処々発会覚 ◯印ハ出 席◯二月十二日【浅草巴や】北馬〟という記事がある。書簡中の「来ル十二日発会」とは、この文化七年(庚午)二月十二 日の発会と同じものであろうか〉 ◯ 年不詳 七月二十九日 差出人不明(第六巻・書翰番号-来98)⑥299 (大坂滞在中の某より) 〝法橋玉山も、久々病気ニ而画を廃し罷在候処、此節の剰暑に殊之外差重り、快気の程無覚束奉存候〟〈この重病らしい玉山は岡田玉山であろうか〉