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       「曲亭馬琴資料」「弘化元年(天保十五年)~ 弘化四年(1844~47)」
 ◯ 正月十五日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-25)⑥90   〝去ル子年(天保十一年)、黙老同籓之御家族半俗退士作合巻六冊物、『拍掌奇譚品玉匣』と云新板もの、    老人より被頼候て芝泉市ニ彫せ、丑(同十二年)冬致彫刻候へども、節気ニ成候間、寅(同十三年)冬    売出し候半とて致延引候所、寅六月より新板物六ヶ敷相成、寅卯(同十四年)両年改ニ出し候得共、売    買御さし留ニて、仕入れ徒ニ相成、泉市大困ニ候。此合巻物、甚古風なる趣向ニて、御趣意ニ称候半歟    と奉存候所、夫すら改不済、板元困じ候て、仕入候分、内々ニて田舎へ而已売候候由聞え候。江戸ニて    ハ一部も不売候得共、田舎ぇ遣し候由ニ候間、其冊子御地へも廻り、被成御覧候半や、難斗候へども、    此段内々泉市ぇ申遣し、取よせ候て掛御目候様可仕候。画ハ英泉ニ御座候〟     〈改革の余波は、木村黙老が家老を務める高松藩士、半俗退士作の合巻をも弄んだ。「日本古典籍総合目録」には渓斎英泉     画、弘化二年(1835)刊とある。これは改めが済んで、江戸にて売り出されたものであろうか。改革は泉屋市兵衛などの板     元にとっては大打撃だったのである〉  ◯ 正月十六日 『馬琴日記』巻四 ④323   〝戯作者越後屋長次郎事、為永春水、去卯十二月二十三日、内損の症にて死。享年五十四歳。今日、丁子    屋噂にて、聞之〟    〈改革の犠牲になったともいえる春水の死。馬琴は春水の人情本を全く評価していないが、感慨や如何〉    ◯ 正月 六日 『馬琴日記』巻四 ④323   〝昨夜、兼次郎差置候、為永春水作大学笑句と云ものを、お路に読せ、聞候処、経書を弄び、聞に堪ざる    ものなれば捨去る〟    〈死者になお鞭打つような手厳しい評価である。経書を弄ぶのは、「仁義礼智忠信孝悌」の実践と「勧善懲悪」を標榜する     「八犬伝」の世界を弄ぶように感じられて、馬琴には不快なのだろう。また文政九年四月八日記事にあるように、春水を     名乗る以前の越前屋長次郎時代、馬琴作・豊国画の読本『三国一夜物語』(文化三年刊)を無断で出版していることも、     冷たい評価に影響していよう〉      ◯ 三月二十六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-26)⑥93   〝『新編金瓶梅』第十集稿本四冊四十丁半、黙老人の為に当正月中より愚媳ニ代筆を課せ候て、二月廿二    日迄ニ綴り果し、画工国貞方へ遣し、画せられ(ママ)候。書画ともに板下の如く致させ候。老人の好ミニ    御座候。同好之内、かゝる好事ハ黙翁の外、亦あるべしとも不覚候。為永春水事、旧冬十二月廿三日死    去。享年五十四歳のよし。早春丁平話ニて聞知り候〟    〈馬琴は為永春水を嫌っていた。「悪作悪文、誤字尤多し。見るに堪ず」とは、春水作読本『十杉伝』に対す評価。また     「聞くに不堪して、捨去らしむ」とは、人情本『春告鳥』に対するものである。(『馬琴日記』文政十二年二月二十六日     記・『馬琴日記』天保十年九月二十七日記)悪作悪文で読むに堪えない上に、馬琴は人情本そのものを受け入れようとし     なかった。さらにまた次のような事情も馬琴を不快にしていた。参考までに挙げておく〉    △『近世物之本江戸作者部類』(曲亭馬琴著・天保四~五年成立)(木村三四五編・八木書店刊)   (「読本作者部第一」「曲亭馬琴」の項目)   「曲亭作のよミ本その板燬に係りて烏有となりしは、勧善常世物語五巻の内二巻。此板文化丙寅(三年)    の春三月の火に焼亡す。文政に至りて越前屋長二郎【為永春水】恣にその闕を補刻して再刷す。この板    二三人に伝々して今ハ丁子屋平兵衛蔵弆すといふ。三国一夜物語五巻、こも亦その板文化丙寅の火ニ焼    て烏有となりぬ。文政中越前屋長二郎又恣にその出像を新にし文を増減して、再刊を大阪屋茂吉に委ね    たり。茂吉そを刊刻するに及て、曲亭これを聞て、その作者に告ずして再刻を恣にしぬるを咎めしかば、    鶴屋喜右衛門西村与八等、茂吉長二郎が為に曲亭に陪話(ワビのルビ)て、刊刻成るの後校訂を乞ふて免    許を受んといふ。いまだいくばくもならず大阪屋茂吉【京橋の頭(ホトリのルビ)なる書賈也】身まかりけ    れば、その再刻今に成就せず。こは曲亭の幸なるべし」    〈『勧善常世物語』は馬琴作・北馬画・文化三年(1806)刊。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によると、為永春     水の翻刻した再刷本は文政六年(1823)の刊行。『三国一夜物語』は馬琴作・初代豊国画・文化三年(1806)刊。「日本古典     籍総合目録」は再版本として国直画の『三国一夜物語』をあげている。これについては馬琴側にも資料があり、『馬琴日     記』文政九年四月三日記事によると、刊行は文政九年のようである)〉        ◯ 六月 六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-28)⑥105    〝『新編金瓶梅』第十集之義、(中略)拙稿ハ二月下旬不残出来候得共、画工国貞方ニて幕つかえ、今以    出来かね候。老人(木村黙老)待かねと存候得ども、人手ニ任候事ハ力及難、気の毒ニ存候。浮薄情之    人情、嘆息の外無之候〟       ◯ 十月 六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-29)⑥108   〝(『金瓶梅』十集)国貞の画ハ、四十丁之内半分、六月下旬出来ニ付、黙老人の江戸取次人ニ申示、筆    工谷金川ぇ遣し置せ候所、其後如何致候や、国貞よりも残り廿丁の画未出来、金川も筆工少しも出来か    ね候。此分ニてハ、当年内書画の写本皆出来の義ハ無覚束候。老人待かねとハ存候得ども、江戸取次人    の取斗悪敷故、敵やう子分かね候間、実ニせん方無之候。国貞も当夏中豊国と改名いたし、両国河内屋    ニて名弘会の折、盛会の聞えあり。錦絵ハ余ほどゆるみ候よしに候へバ、夫等にのミうちかゝり居候事    にや不知候〟     〈国貞の三代目豊国襲名は「当夏」とあり。弘化二年正月六日付、殿村篠斎宛書簡(番号30)には「秋書画会興行」ともあ     る。夏と秋、襲名とその披露の書画会とが別に行われたような書きぶりである。さて、天保改革の出版統制も、この頃錦     絵から緩みはじめたらしく、豊国は錦絵の作画に専念しているようだ。『金瓶梅』の遅れも、筆工のせいばかりではなく、     豊国側にもあったのである〉    ◯ 十月以降(『著作堂雑記』262/275)   〝肥前平戸の大男生月鯨太左衛門、去甲辰十八歳、身丈七尺三寸、安永中の釈迦ヶ嶽、文政の大空武左衛    門より巨大なりと云、旧冬より右の錦絵多く出たり、去天保十四年の冬、角力等と倶に江戸に来る、関    取某の宿所に同居す、丁子屋平兵衛の話に、其頃友人を倶に大男を見に行しに、実に風聞に違はず、地    取を見物しけるに、二段三段等の角力、手に立つ者なし、但いまだ身の太りつかず、腹も小く裸体は反    て劣り、且搶肩なれば衣服着たるを宜しとす、此者を廿人力を定めしは、平戸にありし日廿人曳の地曳    網二つおろして、一つは廿人に曳せ、一つは大男に曳せけるに、大男の方三足程先へ進たれば也、甲辰    十月下旬より両国回向院にて角力興行、大男土俵入するとて大入の聞えあり、右大男の食の多少を丁平    同宿の関取に問ひしに、外の角力の異なることなし、貌の如く大食はせずと云、丁子屋土産にかすてい    ら一折遣しける、大男見て食たそうにて食はざりしは、いまだ其味を知らざりし故なるべしと丁平いへ    り、此余聞たる事あれど只要を摘て録しつ〟  ☆ 弘化二年(1845)     ◯ 正月 六日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-30)   ◇ ⑥115   〝(「金瓶梅」十集之事)残り廿丁の絵は、国貞豊国方にて今以出来不申候。去年春二月、稿本残らず    渡置候処、二ヶ年ニ及其絵出来兼候事、実ニ呆れ果候ていらち候へども、詮方無之候。右之絵組を是迄    の通(二字ムシ)ハ、何も六ヶ敷事ハ無之候。(中略)右の板元泉市も、先年御咎手鎖以来、甚怕れ候    て、『金瓶梅』十集之事抔ハ、今ニ申も不出候〟       ◇ ⑥116   〝国貞豊国と改名之事、早く御伝聞のよしニて云々被仰越、承知仕候。如貴意之、国貞既ニ高名にて、其    師ニも勝り候へバ、豊国ニならでもの事ニ候得共、寅卯両年ハ机の上隙也し故ニ、黄白を得ん為ニ、去    年の秋書画会興行を催候ニ付、名とすべき事なき故に、名弘会と号候て、豊国ニ成候と聞え候。錦絵抔    に二代豊国と書候得共、実ハ三代也。前之豊国在世の時、黄白の為ニ末の弟子を養子分ニ致、豊国没後    二代目豊国と改名致、其折名弘会抔も、廿年ばかりむかしの事ゆへ、知りたる人も多く候。然ども、其    豊国ハ未熟ニて行ハれず、無程壮年ニて没し候間、豊国の跡ハ絶候。爾るに国貞豊国と改名の事ハ、師    より被譲たるニあらず、既ニ二代の豊国あれバ、三代たる事分明なり。後の豊国の跡ニ立ん事を恥てニ    代と書とも、知たる人をば欺き難かるべし。彼等の心術、かゝること多かり。己等ハ不承知ニ候。国芳    も近来ハ劣らず行れ候得ども、画才無候へバ、錦画之外ハ大きニ劣り候。猫児狂の絵抔にて御合点可参    る奉存候〟    〈国貞は師の初代豊国を超えて既に高名であり、いまさら改名するまでもないと、馬琴は見ていた。しかし、寅卯(天保十     三・四)の改革で仕事が激減する中、国貞は、昨年(天保十五年)の秋、黄白(金銭)を得るため書画会を開催した。た     だ、名分のない書画会を興行することも出来ないので、豊国襲名を大義名分にしたというのである。しかも、国貞が三代     を名乗らず二代目としたのは、二代目豊国の後に立つことを恥じたためだと、馬琴は推測している。さて、この頃の国芳     は国貞に劣らない人気があったようだが、馬琴に言わせれば、錦絵以外は全く問題外だとする。板本の挿画となると、国     貞は圧倒的な力量を誇っていたのである。同日付、小津桂窓宛書簡(番号31)参照〉       ◇ ⑥118   〝御改革以後、南北の奉行も代りて、次第ニ手軽く成候事、大幸之至りニ御座候。錦絵抔も鍋島殿処分ニ    て、江戸の名物成ニ美を尽すとも不苦、価ハ壱枚十六文より高直ニ不可売と被仰渡候よし聞え候。錦絵    の次第ニ遍数を増候て、十二三編摺迄ニ成候は是等の故に候。御値段百枚ニ付壱〆四百六十文なるを、    小売店にて壱枚ヅヽニ売候。壱枚売候て纔ニ壱文四分之利ニ候所、去十二月中ハ卸直壱〆六百文の錦絵    出候。夫等ハ小売店にて壱枚十八文ヅヽニ売候ハヾ、又叱れ候半と致一笑候〟    〈鍋島内匠頭直孝の北町奉行就任は天保十四年十月十日。錦絵は江戸の名物ゆえ美と尽くすとも苦しからずとして、摺数を     増やすなど再び華美を競う方向に動き始めた〉       ◇ ⑥119   〝大空武左衛門肖像大幅壱枚、是は武左衛門江戸出府の時、渡辺花山於林大学頭殿席上ニ、蘭鏡二枚ヲ以    生写しニ致候を、小子亦文宝方ニ写させ候。其上の方へ、小子拙筆ニて記事一編を記置候。右三種ニて    価金三分二朱ならバ手放度存候〟    〈馬琴所蔵の「大空武左衛門肖像」は、文政十年(1827)、林大学頭述斎宅において渡辺崋山が写生した原画を、亀屋文宝     (二代目蜀山人)が模写したものである。『兎園小説余録』(「日本随筆大成」二期-五巻)及び『馬琴日記』九月二日    (第一巻p182)参照〉        ◯ 正月六日 小津桂窓宛(第六巻・書翰番号-31)⑥121   〝(『新編金瓶梅』十集の事)旧冬十一月ニ至り、四十丁之内廿丁半ハ書画共出来、十二月上旬黙老人ぇ    差贈り候。残廿丁の画ハ豊国より出来不参候。去年春二月より遣し置候所、壱ヶ年ニて其画出来かね、    黙老人ハ不及申、小子とてもいらち候得ども、人手ニ任候事、実ニせん方無之候。国貞事、豊国と改名    の義ハ、早く御伝聞の由、さこそと奉存候。国貞既ニ高名之事故、改名せずとも不足有間じく、且豊国    の名ハ、昔年養子分之弟子ニ譲り候所、其人ハ画も下手ニて、且壮年ニて没候間、豊国より直ニ受次ニ    もあらず、此度の豊国ハ三代目に候間、おも正敷も無候得ども、一昨年より暫机の上隙也しを補ん為歟、    去秋書画会を催し候ニ付、無名の会ハ難致候間、無拠改名致、名弘と号書画会興行の処、殊ニ盛会也し    由、人の噂ニ聞知し候。夫より以来、錦絵多く出板自由ニ成候ニ付、豊国渡世不相替世話敷候間、『金    瓶梅』の画ハ板本ニならぬもの故、出来かね候事ニ而、外ニ訳ハ無之候へ共、余り久敷成候間、呆れ候    外無之候〟    ◯ 四月十五日 『馬琴日記』巻四 ④327   〝俳優岩井半四郎死去のよし。先日より今日迄、追薦の小記売ものあり。いかなるや、見ざれば不知〟    ◯ 五月十日 『馬琴日記』巻四 ④327   〝俳優市川団十郎、孝行に付、去る四日、町奉行処へ被召出、御褒美十貫文、被下候由也〟  ☆ 弘化三年(1846)    ◯ 正月 廿日 『馬琴日記』巻四 ④329   〝(正月十五~六日、大火)此節、焼原場処附といふもの三枚ほど、売来る。精粗ありといへども、皆不    文にて、疎漏也〟    〈所謂「かわら版」である〉     ◯ 七月廿五日 ④330   〝猿楽町二丁目市村座番付、南柯の夢と青砥もりやう案を混合候新狂言のよしにて、今日右やぐら下番付    を売に来る。狂言作者は、二代目桜田次助・清水新七・藤本某也。当座は、中村歌右衛門・市村家橘・    坂東しうか等、外に聞えたる者なし〟    〈この芝居は『青砥稿』。一勇斎国芳画「青砥左衛門藤綱」役の「中村歌右衛門」をあげておく〉
    一勇斎国芳画「青砥左衛門藤綱」(早稲田大学「演劇博物館浮世絵閲覧システム」)    ◯ 七月廿八日 ④330   〝此度、羽左衛門座にて、新狂言南柯の夢と、もりやう案とを綴り合候由、其儀は不苦候へども、我等戯    号を言あらはし候事、迷惑に候間、ふきや町名主なりとも、其筋の名主なりとも申入、宜敷取斗らはれ    候様、今日、平兵衛へ談じ置く〟    ◯ 十月五日(『著作堂雑記』264/275)   〝(弘化三年八月、市村座において馬琴の旧作読本に拠った桜田治助作の狂言「青砥稿(あおとぞうし)」    が大評判になる。その時、当の馬琴の承諾を得ず、看板や番付に「曲亭馬琴子」の文字を使用したこと    に、馬琴がクレームを付けた。その結果「近来高名家」と書き改められるというトラブルがあった。そ    のときに詠まれた落首)      桜田は青砥不実な摸稜案馬琴の責にあたり狂言    此歌はやく市村座の楽屋へも聞えて、俳優等絶倒したりといふ、書肆文渓堂が話なり、或は云、右の歌    は画工英泉の手より出たりと、他が口ずさみたるならん【丙午十月五日聞く所なり】〟    〈馬琴は英泉詠の落首ではないとみていたようだ〉    ☆ 弘化四年(1847)    ◯ 八月頃(『著作堂雑記』265/275)   〝京橋なる本屋蔦屋吉蔵が板にて、八犬伝を合巻に綴り改め、上方より来つる戯作者某に綴らせて、画は    後の豊国になりと云、この風聞今年【弘化四年】六月の頃聞えしかば、八犬伝の板元丁子屋平兵衛ねた    く思ひて、吾等に相談もなく、亦八犬伝を合巻にすとて、文は後の為永春水【初名金水】に課せて是を    綴らせ、画は国芳の筆にて、其板下の書画共丁秋七月に至り稍成りし時、初て予に強て曲亭校合として    出さまほしといひしを、吾肯んぜず是に答て云、吾等此年来、他作の冊子に名を著して、校合など記さ    せし事なし、思ひもかけぬこと也とて、其使をかへしたり、彼蔦屋吉蔵は利にのみはしるしれものにて、    吾旧作の合巻冊子を、恣に翻刻して新板と偽るもの、是迄二三板出したれども、いふかひなくてそが侭    に捨置たり、蔦吉は左まれ右まれ、丁平は八犬伝の板元にて、作者猶在世なるに、吾等に告げずして、    是迄合巻の作はせざりける金水の為永に課て、是を合巻に綴らせしはいかにぞや、彼金水は其師春水の    遺恨にもやよりけん、丁子屋板にて彼が著したる冊子に、吾等の事をいたく譏りたりとて、伊勢松坂な    る桂窓が告げたりしことさへあるに、こたび丁平の做す所、義に違ふに似て心得がたけれども、夫将利    の為にのみして、理義に疎き賈豎のことなれば、いふべくもあらず、蔦吉板の合巻八犬伝は、書名を犬    の冊子と云、初編二編四十丁、今年丁未九月上旬発板の聞えあり、丁平のは初編二十丁、書名をかなよ    み八犬伝と云、近日発行すべしと正次の話也、蔦吉の課たる作者の巧拙は未だ知らず、金水が手際にて    よくせんや、否可惜(アタラ)八犬伝をきれぬ庖丁にて作改めなば、さこそ不按塩なるべけれと、いまだ見    ざる前より一笑のあまり概略を記すのみ〟    〈笠亭仙果作・三世豊国画『八犬伝犬廼草紙』と二世為永春水作・国芳画『仮名読八犬伝』の挿話である。共に嘉永元年     (1848)刊〉    ◯ 十月頃(『著作堂雑記』265/275)   〝蔦屋吉蔵、又美少年録草ざうしにせんとて、後の十返舎一九に約文させて、画は後の歌川豊国筆にて、    弘化四年冬十月上旬出板の聞えあり、因て取よせて、閲せしに、多くは美少年録の抄録にて、初編二冊□□    野の段に至る、その約文、一九が其身の文をもて綴たる処は、前と同じからず、抱腹に絶ざる事多かり、    丁子屋平兵衛又此事を聞知りて、弥憤りに堪ず丁平も又美少年録を合巻ものにして、蔦吉が烏滸(オコ)の    わざはいふにしも足らず、丁平の恣なる、予を蔑(ナイガシロ)にするに似たり、懐ふに当今は寅年の御改正    の後、書肆の印本に株板と云物なく、偽刻重板も写本にて受ぬれば、彫行を許さるゝにより、同書の二    板も三板も、一時に出来ぬる事になりたるは、夫将に戯作の才子なければ、人の旧作を盗みて、利を得    まく欲しぬる書賈の無面目になれる也、独歎息のあまり、録して以て後の話柄とす〟