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       「曲亭馬琴資料」「嘉永元年(弘化五年)~ 同二年(1848~1849)」
 ☆ 嘉永元年(弘化五年・1848)     ◯ 四月 四日 『馬琴日記』巻四 ④336   〝貸本屋清吉、評林四十より四十五迄持参。是ニて三十四ノ間違、具そく致候間、右三十四ノ巻、夕方迄ニ半    時ほど、読之。右之外ニ、岳亭作奇人談中編二冊、借用〟    〈「奇人談」とは岳亭定岡著『狂歌奇人譚』(文政七年(1824)刊)。馬琴の狂歌に関する挿話も取り上げられている〉      ◯ 四月 十日 『馬琴日記』巻四 ④337   〝渥見祖太郎来る。棒ある平一袋持参。雪渓方へ用事有之、罷越、帰路のよしにて(云々)〟    〈渥見祖太郎は馬琴の女婿・渥見覚重の縁者か?。楠本雪渓との関係は未詳〉    ◯ 五月 廿日 『馬琴日記』巻四 ④361   〝豊国方より、同書(合巻『女郎花五色石台』)弐巻拾丁出来、手紙を以、同所画外題稿本受候て、書度由、    申来る〟    〈初代国貞が豊国三代を継いだのは天保十五年(1844)六~七月頃〉     ◯ 五月廿七日 『馬琴日記』巻四 ④364   〝(板元)和泉屋次郎吉来る。(合巻『女郎花五色石台』)四集画外題二枚、豊国え返書壱通、右次郎吉に渡    す〟    ◯ 七月十八日 『馬琴日記』巻四 ④389   〝楠本雪渓来る。太郎并に吾等、対面。去る十二日夜、近火見舞の謝礼也。太郎画を初候様、被薦〟    ◯ 八月 二日 『馬琴日記』巻四 ④396   〝太郎、楠本雪渓え行。先日の約束被致、今日二たび、入門之為也。肴代持参之所、辞して決して不被受。則、    手本を書、被与〟    〈以降、楠本雪渓の画手本を習う、太郎の記事が度々出てくる〉    ◯ 八月 三日 『馬琴日記』巻四 ④396   〝画工渓斎英泉居宅、茅場町ニあり。両三年以来、胸痛の病折々起り候所、先月廿二日之夜、頻りニさしこみ、    竟ニ死ス。亨(ママ)年五十七歳也。妻のミにて、子なし。養女壱人、新吉原町ニあり。此義、今日、泉市の話    也〟    〈馬琴と英泉との交渉は、天保十二年(1841)の『南総里見八犬伝』第九集「結局編」の挿画が最後となった。英泉の死亡は嘉永元     年七月二十二日の由、板元泉屋市兵衛の話である。信憑性は高い〉    ◯ 九月 四日 『馬琴日記』巻四 ④417   〝楠本雪渓来ル(中略)先頃雪渓、戸田殿ニ被頼候杉戸廿八枚、其外絵具代の事間違、役人差被出ず候ニ付、    昨日覚重、楠本ぇ被罷越、右之段申被聞候間、内談の為也。雪渓所持の絵具之外、此度買入候ゑのぐ代金十    七両ほど、雪渓所持の絵具を加ては廿八両ほど也と云。彼役々理ニ闇ければ、雪渓の損なるべし。楠本雪渓    忰慶次郎、当月朔日、尾州侯ぇ御目見え被仰付、首尾能相済候由、吹聴せらる。御め見え済候て、後来家督    の都合よろしき由也〟    〈覚重は馬琴の女婿渥見覚重。戸田因幡守の家臣。楠本雪渓が請け負った杉戸二十八枚の絵の具代に関するトラブルだが、よく様     子が分からない〉    ◯ 九月十三日 『馬琴日記』巻四 ④424   〝楠本雪渓来ル。(中略)先頃内談有之候、戸田殿絵の具料の事、去ル十日夕方、覚重、楠本え罷越、申候へ    バ、金高取揃、被渡候由、被告之〟    ◯ 十一月 六日 『馬琴日記』巻四 ④462   〝昨夜より家翁御容体御不出来ニ而、御胸痛・御煩悶甚敷、少も横に被為臥候こと成がたく、御煩悶度々に付、    御薬・竹歴等、少々ヅヽ度々被召上、八つ時頃より、少々納候御様子ニ而、被為臥候所、無程、御煩悶甚敷、    終に御養生不被為叶、今朝寅の上刻、御息絶被成候。種々薬種・医等、手を尽すと云ども、其詮なく、終に    御遠行被為成候事、御老年とは乍申、歎息此外有べからず。早速、御床北向ニ相直し、御香花、其外とも奉    備(ママ)。一同歎此上有べからず、拝し畢る〟    〈曲亭馬琴、 嘉永元年(1848)十一月六日没。享年八十二才〉  ☆ 嘉永二年(1849)     ◯ 二月廿五日 ④525   〝中村勝五郎来ル。九ヶ年以前願候四天王序文の事ニて来ル。右の序文ハ、稿被置候まゝ、種本其儘返し遣ス。    (中略)画工北斎、此せつ大病のよし、勝五郎の話也〟      〈中村勝五郎は板元。この「四天王」序文とは、天保四年(1833)十月二十五日記事「画工北渓来ル。予、対面。手みやげ、被贈     之。先比、中村や勝五郎頼候武者画本之事、北渓此節手透(二字ムシ)画に取かゝり度よし、申之。依之、右画の注文、示談。     先、頼光の四天王より画はじめ候様、示談」とあるものであろう。「九年以前願候」とは天保十一年頃に相当する、天保四年     の記事とは年数に隔たりがあるが、このあたりの事情については分からない。ともあれ、中村勝五郎は馬琴に預けておいた     「種本」を取りに来たのである。その中村から北斎大病の消息を聞いた。この頃になると、出版関係者の来訪記事は大変珍し     い。馬琴の死後、日記には、蔵書の貸出記事はあるが、筆工・画工・板元に関する記事はほとんど見あたらない。これ以降、     浮世絵師に関する記述もない。奇しき縁とでもいうべきか、北斎が滝沢家日記に登場する最後の浮世絵師になるとは。記述は、     故馬琴の嫡子故宗伯の妻・路(みち)〉   ※『馬琴日記」はこの年の嘉永二年(1849)五月三十日を以て終わる。六月から「路女日記」が始まって、安政五年(1858)十二月ま     で続くようであるが、残念ながらこちらは目を通していない