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「曲亭馬琴資料」(文政九年・1826) ◯ 二月十四日『馬琴日記』第一巻 ①11 〝谷文二 来る。七半時比、文晁 并に門人乾堂 来る〟〈谷文二は文晁の実子。乾堂は未詳〉 ◯ 二月二十七日(『著作堂雑記』229/275) 〝三世市川三竹肖像【戌二月下旬、二代目歌川豊国図 】丙戌二月廿七日詠題 親ほどになるべきものを竹の子の みつとかぞふるよい名のみにて〟〈丙戌は文政九年。この豊国は前年の文政八年三月、二代目を襲名したばかり〉 ◯ 四月三日『馬琴日記』第一巻 ①12 〝越前屋長次郎、一名為永庄介と申者、二十餘年以前、予著述、ヤケ板三国一夜物語を再板いたし、甚 不埒之致方のよし、追々出板の旨、今日、みのや甚三郎噂にて聞候に付、打捨置がたく、近日、書林 中へ此段可申談旨、甚三郎へも申聞おく〟〈越前屋長次郎は後の人情本作者・為永春水。読本『三国一夜物語』の初板は豊国画・文化三年(1806)刊。「ヤケ板」と あり、これは文化三年三月の火災で焼失していた。これを春水は馬琴に無断で再版したのである。(天保十五年(1844) 三月二十六日、小津桂窓宛書簡(番号-26)参照)美濃屋は当時の『南総里見八犬伝』の版元〉 ◯ 四月 八日『馬琴日記』第一巻 ①12 〝画工北斎 来る。明後十日、画会致候に付、杉浦女、柳新へ案内いたしくれ候様、申に付、お百を以て、 案内致させ也。即刻帰去。杉浦方へ扇二本持参のよし〟〈この北斎は「後の北斎」であろう。杉浦は杉浦清太郎で神田明神下、馬琴宅の地主。柳新は未詳。お百は馬琴の妻。文 政九年四月十日開催の画会の案内を、北斎自らおこなっているのだが、馬琴に対する案内というより、杉浦女他に対し てのものであるかのように、馬琴は記している。翌年の歌川国丸や歌川国貞の書画会、名弘会への対応に比べると、馬 琴のこの北斎への対応はずいぶん素っ気ない感じがする。当然と云うべきか、当日に関する記事は見あたらない〉 ◯ 四月十九日『馬琴日記』第一巻 ①13 〝渡辺登 来る。余対面。閑談数刻。兎園別集下冊并に正徳金銀御定書一冊、小ぶろしき共、かし遣す〟〈渡辺登が崋山。「兎園別集下冊」は文政八年成立の『兎園小説』の別集〉 ◯ 六月 六日『馬琴日記』第一巻 ①14 〝芝片門前豊広 方より使札。巡島記六編三の巻さし絵三丁出来、被差越。但、義秀義盛に対面の処、短刀 を太刀に画き候故、右之処直しの為、この一丁はかへし遣す。并に、四の巻さし絵画稿三丁、返書共、 遣之〟〈「巡島記」は馬琴作の読本『朝夷巡島記』。歌川豊広は文化十二年刊の初編から文政十年刊の六編まで担当した。なお 馬琴作・豊広画の初出は享和三年刊の黄表紙『阴兼阳珍紋図彙』〉 ◯ 十二月十九日『馬琴日記』第一巻 ①20 〝谷文二 より、昨日たのみこされ候一封、今日、以多七、返之。蝦夷へ文通は禁止に付、外へたのみ可然 旨、予代筆にて、手紙そへ遣し、うけ取書とりおく〟