Top          浮世絵文献資料館         曲亭馬琴Top
              「曲亭馬琴資料」「文政十二年(1829)」  ◯ 正月十日『馬琴日記』第二巻 ②14   〝(年賀のため)尾張丁英泉・芝神明前いづミや市兵衛方にて饗応、しばらく手間どる。右已然、新橋今    春やしき青廬方へ立寄、片門前豊広えも同断。三田長雲寺え墓参いたし、麻布古川大郷金蔵方へ罷越、    畢而、半蔵御門外三宅内渡辺登方へ、罷越〟     〈この日年賀で回ったのは、絵師では渓斎英泉と歌川豊広、渡辺崋山。版元の和泉屋市兵衛に兎園会の会員でもある大郷信斎。     神田明神下の自宅から、現在の銀座・新橋・芝・三田・麻布・半蔵門辺への道筋である。今春屋敷の青廬は未詳〉  ◯ 正月廿三日『馬琴日記』第二巻 ②21   〝谷文晁、為年始賀義、入来〟  ◯ 正月廿七日『馬琴日記』第二巻 ②23   〝画工英泉、為年始祝義、来ル。年玉あり。余対面。雑談畢て、帰去〟   〝此節、春画板元吟味ニ付、改名主とり込居、美少年録改未済よし〟    〈春画について、正月十日年始回りをした大郷信斎は、前年の文政十一年、次のような記事を書いている。「新板の春画 寛     政年間、白川拾遺執政の時は、厳しく春画の類を禁ぜらる。之に依り都下に売者なし。三十余年を経て、いつしか其禁ゆる     みけるにや、近世年毎に増長し、大小の錦画はいふに及ばず、今春抔は、別紙の如き新奇の摺物、画本流行す。人心を蕩し、     風俗を敗る事、其害甚し。政を執り給はん人は、能々捜索して、痛く禁制し給ふべき事なるべし」(『道聴塗説』第廿三編     『鼠璞十種』中巻所収 文政十年四月廿三日参照)今度は春画のために『近世説美少年録』の名主の改めに遅れが生じたの     である〉  ◯ 正月廿八日『馬琴日記』第二巻 ②24   〝画工英泉より使札。昨日致約束候一九作合巻うりどめニ成候品、其外、改片附三通り    之秘画図三枚、被恵之。則、返書遣ス〟    〈この春、一九作・英泉画で出版された合巻は和泉屋市兵衛板の『博多小女郎物語』。「うりどめ」とは販売を禁止されたと     いうことか。改(アラタメ)名主の判断によるものか、それとも町年寄、あるいは町奉行の裁断によるものか。また改(アラタメ)済み     の「秘図」とは何であろうか〉  ◯ 正月廿九日『馬琴日記』第二巻 ②25   〝渡辺登、為年始祝義、来ル。とし玉あり。余、対面〟    〈渡辺登は渡辺崋山〉  ◯ 二月 八日『馬琴日記』第二巻 ①30   〝大坂や半蔵来ル。美少年録製本、仕立師ニ隙入有之、本出来かね候へ共、今日出来分百部うり出し候よし    ニて、製本二部・金百疋、持参。(中略)この新板、仲ヶ間うり正味十七匁、引けなしのよし也。製本弐    百五十部、江戸うりのつもり、仕入候よし也〟     〈『近世説美少年録』の製本に手間取っている原因は名主改めの遅れ。(正月廿七日記事参照)仲間売り十七匁で小売りはい     くらなのであろうか〉  ◯ 二月 九日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-47)①233   〝此間中、仕立師方、春画一件ニて隙入出来、約束の日限ニ製本出立不申候。板元甚心配いたし、昨日やう    /\百部出来候間、先づうり出し申候〟    〈『馬琴日記』同年正月廿七日記事に〝此節、春画板元吟味ニ付、改名主とり込居、美少年録改未済よし〟     (②23)とあり。名主の改めが春画一件吟味のために進まないので、『近世説美少年録』初編の製本スケジュールに狂いが      生じたというのである〉      ◯ 二月十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-49)①239   〝高井蘭山あらはし候『水滸画伝』第二編、旧冬出板、当早春借りよせ候て、致一覧候。貴兄ハ未被成御覧    候よし。如貴命、画ハさすがに北斎ニ候ヘバ、不相替よろしく候。乍去、作者より画稿を出さず、画工の    意に任せ、かゝせ候と見えて、とかく画工のらくニ画れ候様にいたし候間、初編にハ劣り候様に被存候。    (中略)この出像の巻ハ、さすがに北斎なれバ評判よろしく、屹度売れ可申候と存候。出板之節見候て、    いよ/\出来候ハゞ、その所斗求置可申存候事ニ御座候〟    〈「作者より画稿を出さず、画工の意に任せ、かゝせ候と見えて、とかく画工のらくニ画れ候様にいたし候間、初編にハ劣り     候様に被存候」。馬琴は初編において、蘭山とは違い、北斎の意に任せたりせず、画稿を作成して画工を支配下に置いたの     である。ここに自分の狙いを隅々まで徹底させようとする馬琴の強い意思を見てとることができるのであるが、この人任せ     にできない狷介さがまた、周囲との摩擦や軋轢となって現れるのである。北斎にしてなお然りであろう〉    ◯ 二月十九日『馬琴日記』第二巻 ②39   〝浪花人大蔵十九兵衛来ル。予対面〟    〈農学者・大蔵徳兵衛常永の来訪は昨年五月二日以来四回目〉    ◯ 二月廿六日『馬琴日記』第二巻 ②43   〝為永春水作十杉伝九の巻、過日、大半携来て、見せらる。今朝、披閲。悪作悪文、誤字尤多し。見るに    堪ず〟    〈為永春水は南仙笑楚満人二世から改名したばかり。馬琴が見た読本『十杉伝』は刊本ではなく二十四日大坂屋半蔵が携えて     来た写本である。刊行は翌文政十三年。馬琴は春水には苦い過去がある。文政九年(1826)四月八日の記事によると、春水は     当時の越前屋長次郎名で、馬琴作『三国一夜物語』(文化三年・1806刊)を無断で再販しようとしたことがあった。〝見る     に堪ず〟の批評にはそうした不快の念も影響しているにちがいない〉    ◯ 三月 七日『馬琴日記』第二巻 ②48   〝覚重来ル。牛込辺の寺より払物之よしニて、探幽画潘閭の図・常信画獅子牡丹一幅・児文珠(ママ)一幅持    参、被為見之。探幽の方表装美麗ニ候へ共、真偽心元なきもの也。常信獅子牡丹ハ雪山の印有之。雪山    の画へ、後人常信の名を書入たるものか。児文珠之方ハ表具ハ用立かね候へ共、宜く見え候間、直段つ    け遣ス〟     〈馬琴の鑑定によると児文珠のみ真筆のようである。覚重とは馬琴の女婿・渥美覚重。馬琴宅の杉戸絵を画いたり古書画の模     写も行う。戸田因幡守の家臣〉     ◯ 三月十一日『馬琴日記』第二巻 ②51   〝渥見覚重持参、払物のよしニて、探幽画よこ物遠帆の図、并雪の山人物、并ニ常信図丁令威騎鶴の図等、    三幅也。いづれも印斗、尤うたがハしきもの也〟     〝画工英泉来ル。当月廿四五日比出立ニて、大坂へ旅行のよし、申之。依之、紹介状被頼候。右に付、大    坂河太諸勘定之事、并に河茂潤筆わたり等の事、申談じくれ候様、頼之。尤、河太取引之義、一向不行    届候趣、あらまし示談〟    〈河太は河内屋太助、河茂は河内屋茂兵衛。共に大坂の版元。馬琴は英泉の紹介状を書くとともに、これらの版元に対して勘     定や執筆等の交渉をするよう依頼したのである。大坂行きは昨年から計画されていたのであるが……〉    ◯ 三月十二日『馬琴日記』第二巻 ②52   〝(板元)大坂や半蔵来ル。(中略)画工国貞事、其外用談・雑談等、長座及数刻、夕方帰去〟    〈国貞は当時『近世説美少年録』の挿絵を担当していた〉     ◯ 三月十四日『馬琴日記』第二巻 ②53   〝(板元)大坂や半蔵来ル。画工国貞事未致決着候よしにて、彼是物語に及び、其後帰去〟    〈「美少年録」の板元大坂屋半蔵と国貞との間に何事か問題が生じているらしい〉    ◯ 三月十七日『馬琴日記』第二巻 ②55   〝芝片門前画工豊広来ル。四月十一日、両国大のしニて書画会興行のよし。右会ぶれちらし印刻、持参。    予、対面〟    〈四月十一日の日記には豊広の書画会の記事なし。あるいは三月二十一日の大火の余波でもあろうか。両国の大のし屋は書画     会、落語の会などに使われた。蜀山人の狂歌「板東三津五郎・岩井半四郎、大のしやと書たる傘をさして出しわざおぎに」    〝浄るりの幕は大いり大のしの相合傘のやまと大和屋〟(『あやめ草』文化七年詠)「両国橋のほとり大のし屋にて夢らく子     のはなしの会ありときゝて」〝大鵬のはなしの会の大のしのつばさを空にたるゝむら雲〟〝両国のはしのたもとの唐錦たゝ     まくをしき咄をぞきく〟(『紅梅集』文政二年詠)〉    ◯ 三月十八日『馬琴日記』第二巻 ②57   〝英泉、近々上方へ発足ニ付、大坂河太・河茂え之かけ合・用談、其外紹介の名前、京都ハ角鹿氏、丸屋    善兵衛・近江や次介・中川新七・浜章作・松井舎人・小嶋典膳・田鶴丸等、大坂ハ河太・本利・高田・    尼崎や七三郎等、なごやハまくや伝兵衛・ひしや久八等、名前・用向等、帳面ニいたし、認之。餞別三    種、遣之〟    〈英泉の上方行きには馬琴の用向きも託されていた。ただ英泉自身の目的が何であるのかよく分からない〉     ◯ 三月十九日『馬琴日記』第二巻 ②57   〝大坂や半蔵来ル。板木師方へ罷越候留守中、英泉罷越、美少年録さし画、国貞方いかゞ相成候哉、もし    ふり替、英泉へ画せ候ハヾ、上方行出立延引いたし候ても、間ニ合可申旨申候よし、老母が申置ニ付、    われら方より英泉>へたのミ候哉と存、問合せ、相談之為来候よし也。われら方より英泉へ頼候事ハ無之    候。国貞方いまだ何とも決着無之故也。英泉いかゞ心得候哉、間違ニ可有之候旨、申聞。且又、国貞方    え之かけ合手段等、くハしく申聞候へば、承知之上、早々帰去。大半決着なく、板木師等にそゝのかさ    れし故也〟    〈作画に手間取っている国貞に代わって『近世説美少年録』の挿絵を担当しようという英泉の申し出、それは上方行きを延期     してまでもという強い意欲を伴ったものであった。それを聞いた板元大半こと大坂屋半蔵、それが馬琴の意向によるものか     どうかを確かめに来たのである。無論、前日大坂に発つ英泉に諸事を託した馬琴がそんなことをするはずはない。結局のと     ころ、英泉は板木師等にそそのかされたものらしい。またそうされるべき遺恨が英泉と板木師と版元との間にあったようで     ある。四月廿三日、五月朔の日記参照〉     〝昨日、杉田玄白養子、自分宅の図有之、すり物様之もの持参、対面いたし度よし申といへ共、英泉方へ    遣し候書物いたしかゝり、迷惑に付、病に托し断候へバ、写本一冊さし出され、是ハ懇意之者認候もの    ニ候。一覧いたしくれ候様、被頼候。それも快気之節、披見すべし。失ひ候事も有之候てハいかゞニ付、    先、もちかへり候様、取次かねを以、及挨拶。依之、帰去。はじめは、右すり物細画ニ付、何人なるヲ    しらず。洞水画とある故、洞水といふ人ならんと思ひしに、帰去後、よく/\見れバ、玄白宅の小図也。    彼人はじめによく名告候ハヾ、右の本ハ預りおくべかりしに、名告ざる故に未見の人と思いし故、右之    ごとく申述さしめたる也〟     〈昨日十八日、馬琴は英泉の上方行きにかかずらって、来訪者を未見の人と思い、取次の下女かねをもって追い払った。その     相手が杉田玄白の養子、杉田伯元であった。写本を預かっておくべきだったと悔やんだものの後の祭り。その写本、すり物     にある洞水と関係あるのだろうか。東北大学の狩野文庫に『朝顔譜』(秋水茶寮著・蜀山人序・濃淡斎画文化十五年(1830)     刊)と『牽牛花水鏡』(秋水茶寮痩菊撰・濃淡斎洞水画・文政元年(1818)刊)とある。あるいは伯元の持参した写本とはこ     の濃淡斎洞水の手になるものではあるまいか〉    ◯ 三月 廿日『馬琴日記』第二巻 ②58   〝大坂や半蔵来る。昨日、国貞方え美少年録稿本とり戻しニ遣候処、他行のよし。今朝も又、人遣候処、    板木師御家人原吉十郎へかけ合置候事故、吉十郎参候はゞ、可渡旨、申来り候。いづれむつかしく候間、    とり戻し、外画工え頼可申候間、依之、且、昨日、英泉も大半方へ罷越、為永長次郎噂にて承候故、    右之画かき申度旨、申候よし。依て、かけ引等之心得、くはしく及示談。数刻之後、帰去〟     〈国貞と板木師と板元の間にどのような問題が生じているのかよく分からないが、大坂屋半蔵は他の画工に依頼する意向を持     っているらしい。それを為永長次郎(春水)から噂として聞いた英泉が大坂行きを延引してまで自ら画こうと申し出たもの     らしい〉    ◯ 三月廿一日『馬琴日記』第二巻 ②59   〝(大火)芝居も、三芝居とも類焼といふ。懇意の板元、つるや・西村や・もりや・山口や・大坂や半蔵    等、皆、類焼なるべし。すきやばし辺延焼のよしに付、みのや甚三郎・画工英泉・芝神明前泉市も類焼    せしか、未知之。はま丁伊藤半平・甚左衛門町芝や文七・小あみ町西野や幸右衛門・十軒店英平吉も大    かたやけたるべし〟    〈文政十二年三月の江戸大火である。神田佐久間町より出火、南北約一里余、東西二十余町、日本橋、京橋、新橋に至る江戸     の中心街を焼き尽くし、千九百余人の死者を出したとされる。鶴屋喜右衛門・西村屋与八といった地本問屋を代表する大ど     ころの板元も類焼し、尾張町(今の銀座)住の英泉も焼け出された〉      ◯ 三月廿三日『馬琴日記』第二巻 ②61   〝今日、やけ場方角付うりニ来ル。かひ取、見候処、深川ハ恙なし。西ハかまくらがし迄、東ハ両国まで、    南ハ土橋ニてやけとまる。英泉いづれへ立退候哉、未詳〟    〈「やけ場方角付」とは、この火事で初めて登場したという江戸絵図の上に焼失範囲を書きこんだ「かわら版」のことであろ     う。鎮火が二十二日朝、するとこのかわら版は約一日を経て売り出されたのである。英泉の避難先が未詳という〉     ◯ 三月廿四日『馬琴日記』第二巻 ②61   〝下谷三すぢ町亀屋蜀山家内より使札。蜀山事、当月十三日より陰症傷寒ニて打臥候処、養生不叶、昨廿    三日夜亥刻死去のよし、しらせらる。享年六十二才。当月六日、右蜀山来訪、美少年録借覧いたし度旨    申候ニ付、関忠蔵へかし置候間、関よりうけ取候て見候様申談じ候間、不及其義、忽入鬼籍。この人平    生無病、一体齢よりわかく、友人中第一の好人物なりしに、をしむべき事にこそ〟    〈この蜀山は二代目蜀山人・亀屋文宝。天明狂歌壇の大御所であった初代蜀山人(大田南畝・四方赤良)の狂歌名を継ぐ。文     宝は初代の黙認のうえで偽筆をしていた。〝亀贋は奇麗にて真跡はきたなく〟とは大田南畝自身、竹垣柳塘に宛た書簡の言     葉である。(『大田南畝全集』第十九巻、文化九年(1812)五月十一日付。書簡 195)〉    ◯ 三月廿七日『馬琴日記』第二巻 ②63   〝今日昼前、門前脇ニて、お百、英泉ニあひ候よし。今日、根津縁者方へ罷越、当分罷在候ニ付、荷物、    船ニて筋違御門外までつミみつけ候よし、申之。近日罷出べき旨、申候よし也〟    〈お百は馬琴の妻。この門前脇とはどこであろうか〉    ◯ 四月十二日『馬琴日記』第二巻 ②70   〝画工英泉来ル。先月中之餞別并類焼見舞、答礼也。芝浜松丁へ行居候処、尚又勝手ニ付、根津七軒町へ    引移候よし、申之〟    〈類焼に遭った英泉はいったん芝の浜松町に避難し、その後根津へ移ったのである。紹介状まで認めて貰った英泉の大坂行は     どうなったのであろうか〉        ◯ 四月十七日『馬琴日記』第二巻 ②72   〝(大坂屋半蔵来訪。『近世説美少年録』)さし画の事、板木師原吉ヲ以、尚又、国貞えかけ合せ候処、    画料引にて不承知のよしニて、画稿返し遣候よし。今日、原吉、尚又本所え罷越、かけ合可申旨申よし    ニ付、左候ハヾ無用に可致、外画師へかゝせ可然旨、談じ遣す〟    〈原吉は板木師原田吉十郎。この人物が国貞のもとへ挿画を催促に行ったところ、国貞は画料引を(引き下げか)承知せず、     馬琴の画稿を返してよこしたのである。馬琴は他の画工の起用に傾いている〉       ◯ 四月廿一日『馬琴日記』第二巻 ②74   〝画工国貞一義ニて、是迄絵は一丁も出来かね候に付、其談、きびしく口上書を以、申遣す〟    〈「美少年録」の事態は膠着したままのようである〉      ◯ 四月廿三日『馬琴日記』第二巻 ②75   〝大坂屋半蔵来ル。過日申遣候画工之事也。其後、原田吉十郎ヲ以、国貞方へ両三度かけ合候処、とかく    決着いたしかね候間、乃断候。然ル処、英泉義も、石魂録後集画セ候節、義絶同様之手紙差越候ニ付、    今更たのミ候事難儀の趣、申之。いづれ花山方、北渓事問に遣し、かけ合之上、何レとも取極可申間、    四五日見合せ可然旨、及相談〟    〈大坂屋半蔵は国貞を断念する。しかし何が原因かよく分からないが、大坂屋は英泉とも『松浦佐用媛石魂録』後編(文政     十一年(1828)刊)で義絶状態にあり、今更頼み難いとする。そこで北渓の起用を考えたようである。ただどうして花山こ     と渡辺崋山経由で問い合わせるのか、不思議である〉        ◯ 四月廿六日『馬琴日記』第二巻 ②76   〝大坂や半蔵来ル。画工之事問合せの為也。北渓事、花山方へ問ニ可遣存候ニ付、飯田町旧宅より幸便待    居候へ共、両三日便り無之。近々可申遣旨申聞候へば、四五日中ニ又可参よし申、帰去〟    ◯ 四月廿七日『馬琴日記』第二巻 ②77   〝(馬琴、妻のお百に託して)三宅内渡辺登え遣候手紙為委之、明朝届くれ候様、清右衛門へ頼置之〟     ◯ 四月廿八日『馬琴日記』第二巻 ②77   〝(北渓の件で、渡辺崋山からの返書)披見候処、画工北渓事早々可申継旨、申来る〟    ◯ 四月廿九日『馬琴日記』第二巻 ②78     〝画工北渓来ル。則、美少年録第二輯さし画之事頼可申為、委細示談之。此方ニ差置候三より五迄之画稿    ・壱の口絵。惣もくろくのわく稿等渡し遣し、板元大坂や半蔵ぇ罷越候様申談じ、手紙差添、遣之〟    〈北渓との連絡に渡辺崋山が仲介するのであるから、北渓と崋山との関係は特別なものがあるのだろう〉      ◯ 四月二十九日 馬琴宛・渡辺崋山(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-来38)⑥257   〝拝読、如示、喧寒不定之候、審文御使、常勝奉欣聴候。然バ、被仰下候通、去月祝融氏之難、知人多延    焼仕候。私も武清方へ参、桑名侯邸ノ裏ニて蹻、危難将死三度、まことにこり果申候。扨復、北渓事御    尋被下、如仰、職匠町と申所にて、先日の回禄には幸のがれ申候。且かねて吹挙相願候ニ付、高著繍像    被仰付候半との御事にて、自私も聞御受可仕段、拝諾仕候。今日にも罷越、此段申述候ハヾ、定而雀躍    可仕候。早々当人にも御礼に罷越、拝眉御礼可申と奉存候。何も御報迄、如此御座候    拝復      四月廿九日      尚々、御丁寧之御端書、厚謝仕候       曲亭先生〟    〈「去月祝融之難」「先日の回禄」はともに三月二十三日の大火をさす。武清は絵師喜多武清。北渓が馬琴の挿画に起用され     たのは『近世説美少年録』の二輯。初輯は歌川国貞である。「定而雀躍可仕候」北渓にとっても馬琴の読本に挿絵をとるこ     とは名誉のことなのであろう。ただ、馬琴作・北渓画の作品はこの『近世説美少年録』二輯のみ。弘化二年(1845)の続編・     三輯以降は再び豊国三代(国貞)になる〉     ◯ 五月 朔日『馬琴日記』第二巻 ②79   〝画工英泉来ル。三月類焼前遣し置候ふろしき一枚、被返之。美少年録二輯さし画の事、板木師原吉、英    泉に宿恨有之、板元大坂や一致、彼是意味有之に付、右のさし画、北渓えたのみ候趣申聞ヶ、尚又、已    来大坂河茂板さし画の事抔、心得の為、内々及示談〟    〈英泉は板木師原田吉十郎とも絶縁状態のようだ。これも原因はよく分からない。大坂の河内屋茂兵衛は馬琴作・英泉画の     『松浦佐用媛石魂録』(文政十一年)後編の板元であった〉   〝大坂や半蔵来ル。過日、北渓に引付ケ遣し候謝礼也。(中略)且、英泉事、今日罷越候ニ付、画ハ北渓    えたのミ候段申聞〟    ◯ 五月 四日『馬琴日記』第二巻 ②81   〝大坂や半蔵来ル。北渓方より、美少年録さし画出来候哉、問合せの為也。未出来旨申候へバ、一両日中、    人遣し可申旨申之〟    〈ともあれ「美少年録」の挿画は国貞から北渓に移り動き出したのである〉    ◯ 五月 九日『馬琴日記』第二巻 ②84   〝大坂や半蔵より、使を以、美少年録さし画并ニ筆工出来参り不申哉、と問ニ来ル。両方共未出来、致催    促可然旨、申遣ス〟     ◯ 五月十一日『馬琴日記』第二巻 ②84   〝画工英山と申者、英泉方より参候よしニて、来ル。不逢。右ハ武家方より文を被頼候間、作文いたしも    らひ度よし、申之。此節、多用ニ付、急ニは出来かね候趣ヲ以、及断。お百、とり次也〟    〈この英山は英泉の師匠菊川英山〉    ◯ 五月廿一日『馬琴日記』第二巻 ②90   〝大坂や半蔵来ル。北渓方より、今以さし画出来無之ニ付、今日罷越、さいそく可致旨申ニ付、北渓方へ    の手紙を認、遣之〟    〈北渓は「美少年録」の挿画にだいぶ手間取っている様子である〉  ◯ 五月廿五日『馬琴日記』第二巻 ②93   〝大坂や半蔵来ル。一昨日、北渓方へ催促ニ罷越候よし也〟       ◯ 五月廿八日『馬琴日記』第二巻 ②95   〝画工北渓来ル。美少年録二輯口絵三丁出来、持参。惣もくろくハ近々出来のよし也〟    〈四月廿九日に画稿等を渡してから一ヶ月、やっと口絵が仕上がったのである〉  ◯ 六月 二日『馬琴日記』第二巻 ②96   〝大坂や半蔵来ル。今日、北渓美少年録二輯惣もくろくのわく出来、半蔵方へ持参のよし〟  ◯ 六月 五日『馬琴日記』第二巻 ②98   〝画工英泉来ル。金ぴら船七編の画、ゑがき様相談の為のよし。それ/\示談今日、泉市へ罷越候よしに    付、同書五より八迄稿本四冊、右同人えわたし、今日、泉市へ届くれ候様、たのみ遣す〟    〈合巻『金毘羅船利生纜』(初編・文政七年(1824)~八編・天保二年(1831)迄。七編は文政十三(天保元年刊)すべて英泉     が担当している〉  ◯ 六月 六日『馬琴日記』第二巻 ②99   〝英泉より使札。昨日、泉市より差越候金ぴら船七編潤筆残り金壱両、被届之。且、昨日の稿本、泉市へ    わたし候よし。申来ル。并ニ、やくそくの真書筆二本、被恵之〟  ◯ 六月十一日『馬琴日記』第二巻 ②101   〝山口や藤兵衛来る。則、殺生石後日三編壱の巻稿本、わたし遣す。并ニ、画工英泉え之添(ママ)認もたせ    遣し、肴代持参〟    〈合巻『殺生石後日怪談』は、初編・初代豊国画・文政七年刊、二~四編・英泉画・文政十二年(1829)~文政十四年(1831)     刊、初編と五編・国貞画・文政七年と天保四年(1833)刊、五編・国安画・天保三~四年)と、画工が入れ代わっている。     山口屋藤兵衛はその板元〉  ◯ 六月十六日『馬琴日記』第二巻 ②105   〝山口や藤兵衛より、使を以、英泉方より殺生石さし画出来候哉と問る。未来候よし申聞候へバ、右使、    直ニ根津英泉方へ催促ニ可参よしニて、帰去〟    〈英泉はこの時分も避難先である根津にいる〉  ◯ 六月十八日『馬琴日記』第二巻 ②106   〝鶴屋喜右衛門より使札。傾城水滸伝九編残り廿丁さし画出来、金兵衛筆工一向不出来候間、文(ママ)橘方へ    筆工かゝせに可出候哉之旨、申来ル。任其意、画写本一覧之上、稿本添、返し遣ス〟    〈合巻『傾城水滸伝』の画工は歌川国安。こちらは挿画は順調のようだが、筆工に手間取っているらしく、     急遽、英泉の紹介だった仙橘が起用されたのである〉  ◯ 六月廿一日『馬琴日記』第二巻 ②108   〝(山口屋藤兵衛の手代来訪して曰く)英泉方より殺生石さし画出来不参候哉、一昨日催促ニ罷越候処、他    行のよし。出来次第、此方へ届可申旨、内義申候間、参候よし、申之。右之画、未来〟    〈「殺生石」の英泉も仕事がはかどっていない様子〉    〝英屋平吉方より、先達出板之翻刻、金聖歎本水滸伝四冊【十一回迄】并に北斎画水滸伝百八人像一冊、代    筆いたし、差越之。過日、清右衛門幸便ニ、右本見せくれ候様、英やえ申遣し候故也。百八人像、林冲図    像なし。公孫勝羅真人袈裟かけてをる処などいかゞ。画はよく出来候共、杜撰甚し。只一覧に充るのミ〟    〈金聖歎本「水滸伝」とは『金聖歎批評水滸伝』(平山高知訳)。北斎画「水滸伝百八人像」とは『忠義水滸伝画本』。と     もに文政十二年刊〉  ◯ 六月廿四日『馬琴日記』第二巻 ②109   〝山口や藤兵衛より、手代ヲ以、殺生石後日三編壱の巻本文六丁半之内、さし画三丁、英泉方より出来のよ    しニて、見せらる〟  ◯ 六月廿八日『馬琴日記』第二巻 ②111   〝山口や藤兵衛より、手代ヲ以、右板下(『殺生石後日怪談』)とりニ差来す。画中よし時のかしら不宜、    直し有之ニ付、口上書いたし、英泉方へ持参、直り候はゞ見せ候様申談じ、且、序文口絵稿本四下、右使    えわたし遣し、是又英泉方へ差遣し候様、申談じ遣ス〟  ◯ 六月 晦日『馬琴日記』第二巻 ②112   〝山口屋藤兵衛来ル。殺生石後日壱之巻、本文中之画直し、英泉方より出来、持参〟   〝大坂や半蔵より、小ものを以、美少年録二編壱の巻の内さし画壱丁、北渓方より、出来参候よしニて、差    越之〟  ◯ 七月 五日『馬琴日記』第二巻 ②115   〝山口や藤兵衛より使札。殺生石後日三編の口画之事、画工英泉、今日迄之約束ニ付、取ニ罷来候処、無拠    用事出来、未画候よし、申之。段々延引ニ及候間、是より手紙遣しくれ候様、申来ル。四五日過、尚又さ    いそくいたし可然旨、返事申遣ス〟    〈板元山口屋藤兵衛より馬琴の方が英泉に対する影響力があるのだろうか〉    ◯ 七月 九日『馬琴日記』第二巻 ②118   〝花山事渡部(ママ)登来ル。予、対面。先月中、登舎弟、死去。其後、自分も中暑ニて、しばらく引籠居候よ    し也。北渓美少年録のさし画延引ニ付、さいそくいたしくれ候様、頼みおく〟    〈北渓に対する影響力は馬琴より渡辺崋山の方があるのだろう〉  ◯ 七月十六日『馬琴日記』第二巻 ②123    〝中川金兵衛来ル。今日、英泉方より、金ぴら船七編壱の巻さし画五丁・殺生石三編口絵三丁出来、使ヲ以    さし越候由ニて、右稿本持参、被為見之〟    ◯ 七月十九日『馬琴日記』第二巻 ②124   〝(清右衛門を以て)つるや・にし村や・森や・右三軒普請出来、為祝義、蒸籠代金百疋、一包ニいたし、    鶴やえ差遣し、つるやより外二軒へわり付くれ候様申付、右金子もたせ遣ス。并ニ、帰路、十軒店英平吉    方え立寄、先達而差越候水滸伝・同画像之事、盆前代金とりニ不来。此間申直段ニ引ケ不申候ハヾ、幸便    ニとりニ可遣。其節、本かへすべし。引ケ候ハヾ、代金払遣候様、委細申ふくめ、金壱両壱朱もたせ遣す〟    〈三月の江戸大火で類焼した板元のうち、鶴屋喜右衛門・西村屋与八・森屋治兵衛の普請が成り、馬琴は祝儀を贈ったのであっ     た。「水滸伝・同画像」とは『金聖歎批評水滸伝』と北斎画『忠義水滸伝画本』〉  ◯ 七月廿一日『馬琴日記』第二巻 ②126   〝(清右衛門)英平吉方へ罷越、申付候口状申述候処、甚恥入候趣にて、翻刻水滸伝并ニ同画像代金、此方    さし直の通りニて宜候趣申ニ付、金壱両壱朱渡之(云々)〟    〈『金聖歎批評水滸伝』『忠義水滸伝画本』。馬琴の指し値で一両一朱。店頭小売でどれくらいするのだろ     うか〉   〝中川金兵衛来ル。右ハ、昨日英泉方より差越候よしニて、金ぴら船七編二・三の巻十丁、画被為見之。此    内、画工心得ちがひいたし、二の巻の内、八戒を岩さきに画キ候処有之。其外、不宜処一二ヶ処有之〟  ◯ 七月廿二日『馬琴日記』第二巻 ②127   〝中川金兵衛来ル。昨日の金ぴら船七編画写本十丁渡し遣ス。但、此内二丁、直し有之。板元遠方に付、英    泉方へ遣し、直させくれ候様、たのミ遣ス〟  ◯ 七月廿八日『馬琴日記』第二巻 ②132   〝画工英泉、昼前来ル。予、対面。金ぴら船七編五より八迄画出来、見せらる〟   〝白砂糖壱斤被恵之。外に、頼み置候筆五本、持参(中略)北斎水滸伝百八人像、過日英平吉よりかひ取    置候全一冊、今日、英泉え遣之〟    〈馬琴が北斎画を英泉に遣わしたのは参考にせよという意味であろうか〉   ◯ 八月 四日『馬琴日記』第二巻 ②135   〝(『近世説美少年録』板元大坂屋半蔵)七月中より不出来ニて、打臥罷在候よし。右ニ付、美少年録二輯    さし画、北渓方より画キ不参、并ニ、板木師も埒明不申ニ付、其義のミ苦労ニいたし、病中日々申くらし    候よし。同人内儀申候趣、告之。并ニ、山口や藤兵衛方へ立寄、申付候口状申述候処、英泉方へハさし画    折々催促ニ遣し候へ共、出来不申故、及(ママ)不覧ニ及び候よし。此方出来三之巻、両三日中、使ヲ以、請    取ニ参り候筈、藤兵衛申候趣、告之〟
  〝大坂や半蔵、病中、画工不埒明事苦労ニ致候趣、きのどくニ付、渡部花山方まで其段申遣し、北渓方へ伝    へさせ、一日も(ママ)出来候様いたし遣し度思ひ候間、手紙認、今日、清右衛門へ申付、花山方へ届候様談    じ、もたせ遣す〟    〈板元にとって、国貞、英泉、北渓、なかなか意のままにならない存在のようだ。最も画工すべてがそういう訳でもなさそうで、     このころ、やはり馬琴作の合巻『風俗金魚伝』『漢楚賽擬選軍談』『傾城水滸伝』を担当した歌川国安は順調に進行している     のか、督促記事は見あたらない〉  ◯ 八月 五日『馬琴日記』第二巻 ②137   〝(馬琴、中川金兵衛を以て北渓に伝言)半蔵病臥、美少年録二輯さし絵延行之事気ニいたし、日々申くら    し候よしニ付、早々画キ、病人の心を休め遣し様伝言申くれ候様、巨細ニ談じおく〟   〝(中川金兵衛の報告)北渓へ立寄、口状申述候処、委細承知、美少年録さし画取かゝり居候間、出来次第持    参可致旨、申候よし〟  ◯ 八月 六日『馬琴日記』第二巻 ②138   〝山口や藤兵衛店、英泉方より請取来候殺生石三編二之巻さし絵、持参〟  ◯ 八月 六日 河内屋茂兵衛宛(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-52)①244   〝画工英泉ハ類焼後、根津の縁者方へ参り居、片辺土ニて不都合の上、いろ/\俗事出来のよしニて、外々    の画も一向出来かね候。且、筆工書千吉抔は、何方ニ居候哉、今以しかとしれかね候〟    〈「類焼」とはこの年の三月二十一日の大火のことである。千吉は仙橘とも書く。英泉の口利きで馬琴の筆工に起用された〉  ◯ 八月 七日『馬琴日記』第二巻 ②140   〝大蔵十九兵衛来ル。予、対面。雑談数刻、帰去〟    〈農学者・大蔵徳兵衛常永、何用あっての来訪か。五度目の面談。「雑談数刻」の内容が知りたいものである〉   ◯ 八月 九日『馬琴日記』第二巻 ②141   〝森や次兵衛来る。予、対面。金魚伝後編催促也。且、国安事、当分本所三ツめニ在宅、遠方、且、こみ合    出来かね候故、画ハ英泉ニ可致哉之旨、不(ママ)及相談、初編を国安ニ画せ候事故、国安しかるべし。英泉    とても、画埒明かね候趣、申聞おく〟    〈国安は当時本所三ツ目に住んでいた。板元森屋次兵衛は、国安の住居が遠方で画稿等の遣り取りに効率が悪いこと、加えて画     注文が混み合っているという理由で、金魚伝の画工に英泉の起用をもちかけたのである。これを見ると、英泉は板元に重宝が     られているようである。しかし初編が国安であること、また英泉では〝埒明かね候〟と推測して、馬琴は国安を選らんだ。こ     このところの英泉の遅筆が馬琴の判断に影響したのだろうか。結局、文政十二年から天保三年まで刊行された『風俗金魚伝』     は国安が単独で画工を担当することになる〉  ◯ 八月十三日『馬琴日記』第二巻 ②144   〝大坂や半蔵より、小ものを以、美少年録二編さし画、北渓方出来のよしニて、二之巻、三の巻とり合せ三    丁、下画差添、もたせ、差越候(以下略)〟  ◯ 八月十五日『馬琴日記』第二巻 ②146   〝山口やより使札。殺生石後日三編さし絵、英泉方より出来、見せらる〟  ◯ 八月十八日『馬琴日記』第二巻 ②148   〝山口や藤兵衛より、使ヲ以、英泉方より出来之殺生石後編四の巻さし画、被為之(ママ)〟  ◯ 八月廿一日『馬琴日記』第二巻 ②150   〝森屋次兵衛より、金魚伝下編稿本乞ニ来ル。画工国安手透ニ付、早々出来可申よし、申之。則、壱・弐両    冊わたし遣ス〟  ◯ 八月廿四日『馬琴日記』第二巻 ②153   〝(山口屋)藤兵衛又来ル。過刻画工英泉方へ罷越候処、ふくろ・表紙画写本出来ニ付、持参のよし、申之〟  ◯ 八月廿七日『馬琴日記』第二巻 ②155   〝画工英泉来ル。金ぴら船七編表紙外題の画写本出来、持参。一覧の処、画がら不宜候へ共、本写本かき立    候事故、その内少々直し候様、談之〟    〈〝画から不宜候へ共〟とあるが〝少々の直し〟で妥協したようだ。画工に対する要求の厳しい馬琴にしては珍しい〉  ◯ 八月 晦日『馬琴日記』第二巻 ②158   〝いづミや市兵衛より、小ものを以、金ぴら船七編表紙画かき入出来、見せらる。(中略)右之画、過日英    泉見せ候処、少々直し候様注文いたしおき候ニ付、画の直しも出来、右一覧の上、六の巻、写本共ニ、使    にわたし遣す〟  ◯ 九月 四日『馬琴日記』第二巻 ②162   〝画工北渓来ル。予、対面。美少年録二輯三の巻残りさし画壱丁・四の巻さし絵二丁、〆二(ママ)丁出来、持    参。(中略)北渓、今夕、板元大坂や半蔵方へ罷越候よしニ付、右写本はり入置可申間、明日夕方ニても、    明後日ニても、とりニ人遣し候様、板元へ可申通旨、示談し畢。暮六時過、北渓帰去。小田原提灯一ツ、    かし遣ス〟    〈「小田原提灯一ツ、かし遣ス」とは馬琴らしい細かさだ〉  ◯ 九月十六日『馬琴日記』第二巻 ②171   〝(馬琴と宗伯父子、根岸の大塚村石稲荷隣の地主林清三郎方を訪う)主人在宿。対面いたし、借地之事、    無覆蔵かけ合ニ及び、それより、借地の処尺杖を入、(中略)尚又、家作・大工之事等かけ合の上、頼    之〟    〈この頃馬琴は神田明神下からの転居を考えていた。発端は七月下旬の地主杉浦清太郎の継母とのいさかい。清太郎の弟で僧の     法運が同家の下女と密通しているという話を、馬琴の下女が近所に触れ歩いたとして、怒鳴り込んできたのである。この継母     の〝気随・短慮・長舌〟(七月廿七日記)と悪口雑言で、滝沢家全体が不快と不満を募らせていた。そこで八月からツテを頼っ     て転居先を探すことになったのである。この根岸の借地は鶴屋喜右衛門の紹介であった。この七日、父子は現地を既に下見を     していた〉  ◯ 九月十七日『馬琴日記』第二巻 ②173   〝(清右衛門)つるや頼ミ大沢抱えやしきの事ニ付、つるやえ罷越候よし、喜右衛門より伝言有之。右抱や    しきハ亀戸天神近辺のよし、画工嵩月より被頼候趣、過日つるや噂に付、予、汲引候て此義に及ぶ。然処、    嵩月、此節病臥のよし、一両日中ニ返事清右衛門方へ可申旨喜右衛門申候よし、告之〟    〈鶴屋が嵩月と話を進めていた亀戸天神付近の屋敷のことを、馬琴も関心を示したらしく、清右衛門を通じて状況を尋ねたので     あろう。絵師嵩月は病床にあってまだ結論が出ていない様子である〉  ◯ 九月十八日『馬琴日記』第二巻 ②173   〝画工英泉来ル。泉市より被頼候金ぴら船初編より五編、袋入いだし候ニて、袋画稿乞ニ来ル。即刻、五通    り略絵稿筆之、英泉へわたし遣ス。今日、英泉、真書筆十一本持参。かねて頼置候故也。過日之【七月廿    八日なり】五本と共に五百三十二文。此代金壱朱と百廿文、今日、英泉へわたし遣ス。右両度分筆代皆済也〟  ◯ 九月廿九日『馬琴日記』第二巻 ②184   〝鶴屋嘉兵衛来ル。傾城水滸伝十編下帙稿本催促也。并ニ、根岸ニ売家二ヶ所有(二字ムシ)、過日英泉    申候よし、告之。此方清三郎地面地面借地之事、大抵規定、明日弥取極可申趣、申聞候へども、先、英泉    方へ罷越、承り合せ可然旨、達而申ニ付、嘉兵衛同道ニて、即刻英泉方へ差越シ、承り合せ候処、先方世    話人壱人松山稲荷へ参詣の留守のよし。又一ヶ処の定かならず、これハ、世話人池之端罷在候人之よし。    今夕、英泉実否可承旨、申候由也。左様ニ延々にハいたしがたく候故、不及其義旨、申断候よし。夕七時    過ニ宗帰宅、告之。嘉兵衛ハ門前より別去。尤無益之事也〟    〈明日には転居先を取り決めようという際どいタイミングで、英泉が売り家の話を持ちかけて来たのであった。馬琴はなぜかそ     れに応じて、宗伯を英泉の許に遣わした。ところが世話人が留守であったり場所が不明であったりで埒が明かない、英泉は夕     刻再確認しようと言うのだが、これ以上は待てないということで、英泉の斡旋は断ったのである。〝尤無益之事也〟とは馬琴     の感慨であるが、しかし馬琴はどうして英泉を受け入れるのであろうか不思議でならない。英泉は英泉で、どうして馬琴の世     話をこんなにまで買って出るのであろうか〉  ◯ 九月 晦日『馬琴日記』第二巻 ②185   〝英泉来ル。昨日鶴屋嘉兵衛同道ニて、宗伯罷越、問合せ候根津売居之事、昨夕池の端某方へ罷越、承糺し    候処、根岸百姓惣兵衛と申者より、某も承候よしニて、定からず(ママ)、一向ニ浮たる事ニ付、もはや、土    岐村借地之事、今日規定の積りニて、宗伯先方へ罷越候ニ付、かさねて承糺しくれ候に不及旨、及示談〟    〈昨日の根岸の売り家の件、取次の必要なしと、馬琴は英泉に断りを入れる一方、この日、地主林清三郎の許に宗伯を遣わし、     手付け金十両を渡して普請の打ち合わせをさせた。しかし、実はこの転居騒動、意外な方向に展開してゆく。とても一件落着     したわけではなかったのである。原因は馬琴の占いに対する強いこだわりにあった〉  ◯ 十月 三日『馬琴日記』第二巻 ②187   〝英泉来ル。頼置候泉市潤筆前借之義、泉市承知の趣、并、根津七軒町かし寮之事、云云被報之。かし寮の    事、尚又、問合せくれ候様、たのみおく。今夕先方可申入旨申候而、帰去〟
  〝(神田の自宅より根岸新宅の方位を磁石にて測ったところ〝太歳の憚り有り〟ということで)当分、地形    等に取かかり候事、可及延引旨(地主林清三郎へ)示談。大工長三郎へも、故障有之付、来ル六日地形ニ    取かゝり候義ハ相止メ、尚又、日限ハ追て可申談旨、明朝通達いたしくれ候様、たのミ遣ス〟    〈こうしてさしあたり根岸新宅着工は繰り延べになってしまったのである。その代わり英泉紹介の根津七軒町「かし寮」の話が     浮上してきた。しかしこの物件も方角が悪く取り下げになる〉    ◯ 十月 四日『馬琴日記』第二巻 ②188   〝根岸の家誂之事、当宅へ罷在候而は太歳ニあたり候処、いたしがたく、いづれ、浅草或ハ千住辺え引うつ    候上ならでハなしがたく候故、彼処の家作いよ/\延引ニ決す。尚又、根津へうつり候ても同様、根岸は    艮ニあたり可申方道ニ付、是又方道あしく候。依之、今朝、英泉方へ宗伯を遣し、七軒町かし寮借用之事、    是又延引可致旨申述させ、且、内用之一義も申試候様、申遣ス〟
  〝亀井戸売地面、中条家抱屋敷之事、清右衛門世話ニて、此節、鶴喜引付ヶ画工嵩月相談いたしかゝり、昨    日、見物の為、清右衛門同道ニて罷越候様子、かねて及聞候へ共、右相談決着不致候ハヾ、しなにより、    根岸借地之事止候而、亀戸右之売地面かひ取可申哉と存付候間、昼前、お百を以、飯田町宅え遣し、昨日    之様子問合せ、嵩月方未決候ハヾ、今日中清右衛門ニ参候様、申遣ス〟   〝清右衛門来ル。則、亀井戸売地面之事、問質し候処、略絵図を以、如此々々と答ふ。買(ママ)い主嵩月意に    叶ひ(ママ)候様子ニて、その地并家作の為体もおもハしからず、加之、遠方ニて、宗伯松前家へ往来も無便    候間、おの念ひ一向ニ相止可申旨、清右衛門ニも申聞おく〟     〈馬琴は方角占いから、神田にいたまま根岸の新宅を普請することが出来ないので、方位の叶った処に一時的に借宅を設ける必     要があった。最初、英泉紹介の根津七軒町の貸寮を検討したが、やはりこれも方角がよくなかった。また鶴屋紹介の亀戸の売     地も候補の一つにあがったが、嵩月が依然関心を示しているらしいこと、そしてまたこの住居では宗伯が仕えている松前家へ     の往来に難儀するという事情があって断念した。とはいえ根岸の新宅への手付金は既に渡してある。いつまでも宙ぶらりんの     まま着工を伸ばすわけにもいかないのである〉      〝宗伯七軒丁へ罷越候節、英泉物語ニ、池の端の弁天より先の池畔にかし家有之、家ちん月壱両ニて、高料    ニハ候へ共、彼処にてハ、御宅よりとちがひ、方位異なるべく候へバ、御考之上、方位宜候ハヾ、かり請    進じ候様可仕旨、被申候よし。〟    〈英泉、今度もまた際どいタイミングで、上野池之端の貸家を紹介したのである〉  ◯ 十月 五日『馬琴日記』第二巻 ②190   〝(英泉紹介の池の端の貸家)池の端より根岸への方位宜候ハヾ、十一月拾一日夜中、予先ヅ池の之借屋へ    引き移り、翌十二日より追々諸道具運せ、宗伯并ニ家内のものハ同月十四日ニ移徒(ママ)いたし可申つもり、    并、本日正七時より根岸家作之地形ニとりかゝらせ候つもり、今夕、宗伯ニ示談いたし、近々池の端へ罷    越し、磁石を以、方位をはかり、弥宜候バヾ、彼処之借家之事、英泉へ頼み、可申入つもり也〟    〈馬琴はもう英泉の話に乗り気で、方違えの日取りまで計算済みである。ところが、六日になると、根岸の家作は来年二月より     取りかかったほうが〝年月の干支、宗伯生年ニ逆ハず、年月庚寅己卯、生年戊午甲寅也。彼是ニ都合よく〟ということになっ     て、結局、池之端借家は来年になると方位に支障があるということでご破算になるのであった〉  ◯ 十月廿三日『馬琴日記』第二巻 ②207   〝先日、英泉噂に、通徳類情、岡田やニ有之、代金壱両弐分のよし申ニ付、右の本とりよせ候ハん為、ふろ    しきもたせ、遣ス。然ル処、右通徳類情ハ代金弐両弐分のよし。(中略)英泉聞ちがへなるべし〟    〈『通徳類情』は中国清代の占い書。これも転宅の吉凶を卜するのであろう。英泉は馬琴の転居に全面協力だが、書籍の代金を     一両も聞き違えるなど、いささか心許ない〉  ◯ 十月廿四日『馬琴日記』第二巻 ②207   〝嶋岡権六来る。予、対面。去秋中、当番衆供にて大坂へ罷越、当四月中帰府、九月に至り、故主近藤讃岐    殿へ帰参いたし、哲輔と改名のよし、被告之〟    〈島岡権六は戯作者岡山鳥。馬琴の『物之本江戸作者部類』は岡山鳥を「中本作者の部」において〝近藤淡     州の家臣嶋岡權六の戲號也。文化年間讀本の筆工を旨として五六六(ゴムロクのルビ)と稱し、又節亭琴驢と號     せしを、文化の季の比より岡山鳥と改めたり。琴驢と稱せし比、鈴菜物語といふ中本二巻を綴り、曲亭に     筆削を請ひ、且曲亭の汲引によりて柏屋半藏か刊行したり。その後、今の名に改めても一二種中本の作あ     りと聞にき。文政中退糧して、濱町なる官醫【石坂氏】の耳房(ナガヤのルビ)を借りてありしか、舊主に帰     参して、又佐柄木町の屋敷に在り。戯作は素より多からす。筆工も今は内職にせさるなるへし〟と記す〉  ◯ 十月廿九日『馬琴日記』第二巻 ②212   〝大坂や半蔵より、使を以、画工北渓美少年録さし絵弐丁残り、段々延引ニ付、催促ニ人遣し申度、手紙認    くれ候様申来候ニ付、即刻、催促の書状認之。もし未出来候ハヾ、画稿かへ(四字ムシ)きびしく申遣ス。    此序ニ、北渓ぇかし置候美少年録初編并ニ小田原ちやうちん一ッかへしくれ候様、申遣候〟    〈病気の板元大坂屋半蔵、北渓の遅筆に相当悩ませられている様子。北渓に小田原提灯を貸し出したのは九月四日のこと。この     督促まで書状に認めるとは馬琴らしい〉  ◯ 十一月 朔日 ②213   〝(『殺生石後日怪談』三編(英泉画)の板元山口屋藤兵衛の使者に)上帙ハ、此方へ沙汰なく、先日うり    出し候よし申ニ付、外々よりハ、売り出しの節、本弐三部差おくり、此方へ断、うり出し候処、其義なく、    等閑のいたし方ニ付、きびしく意味合申聞、当年、西村・森やは著述延引ニて、間ニ(ママ)かね候へども、    山口や分ははやくいたし遣し、校合も、九月不快中、おして速ニいたし遣し候処、其義を不存、不沙汰ニ    うり出し、此方より尋られ、申わけいたされ候事、尤不実ニ付、已来は著述いたし遣しまじき旨、使絵申    聞、かへし遣ス〟    〈馬琴は「不実」に敏感であった。もっとも「殺生石」は以降も出版されるが、板元は依然として山口屋のままである。同月四     日、山口屋藤兵衛自ら来訪。その際、馬琴は上帙売り出しの際の不沙汰等を談じている。しかし下帙の方は製本とり揃えて馬     琴に差し出すことで合意、馬琴は下帙売り出しの祝儀を受け取っている。立腹も治まったのであろう〉  ◯ 十一月 二日『馬琴日記』第二巻 ②214   〝八犬伝は、ミのや甚三郎不埒ニて、三の巻より末ハ未及校合。然ル処、此方ニ無沙汰うり出し候事、言語    同(ママ)断也。製本早々見せ候様、平兵衛へきびしく談之。平兵衛驚き、校合ハ勿論すり本も相済候よし、    甚三郎申ニに付、左様ニ存候処、以之外の義也。行事わり印も不済処、これも相済候由甚三郎申ニ付、左    様ニ存候処、書林行事大和田安兵衛より故障申来候。いづれ製本早々可入御覧候。尚又、乙帙平兵衛引請、    板此方ニ有之候間、校合被成下候様申わび、帰去〟    〈こんどは「八犬伝」の板元美濃屋甚三郎の「不実」である〉  ◯ 十一月 三日『馬琴日記』第二巻 ②215   〝画工北渓、二かいより落、腕を損じ候よし。かしおき候小田原ちょうちんハ大坂やでつちもちかへり、丁    字やえ差おき候よしニて、いまだ此方へかへらず〟    〈北渓の怪我より、貸した小田原提灯がよほど気になると見える〉  ◯ 十一月 五日『馬琴日記』第二巻 ②219   〝当四月中、北渓へかし候美少年録初編五冊も、大坂や迄被返候よし〟  ◯ 十一月 七日『馬琴日記』第二巻 ②221   〝英泉来ル。予、対面。転宅延引之事物がたり、八犬伝七編四冊視之、且、ミのや甚三郎事等噂に及ぶ。英    泉、四大奇書之内、西遊記・三国志、払物のよしにて、一帙携来て、見せらる。西遊記は入用に候間、泉    市に申すゝめ、かひとらせ、此方差越し候様いたし度旨、談じおく。又、通鑑借書之事等も頼みおく〟    〈英泉は『南総里見八犬伝』七編の挿絵を柳川重信とともに担当していた。八犬伝は一昨日売り出されたが、その際、板元美濃     屋甚三郎は馬琴の校正を経ないまま無断で販売してしまった。その〝言語同断〟〝不埒〟(二日記)なる美濃屋の振る舞いが     話題になったのであろう。「四大奇書」は『水滸伝』『三国志演義』『西遊記』『金瓶梅』。「通鑑」は『資治通鑑』。英泉、     今度は漢籍の斡旋である〉    ◯ 十一月 九日『馬琴日記』第二巻 ②222   〝(大蔵常永来訪)十九兵衛ハ、鳥越組屋敷ニ宜あがり屋有之よし、申之。組やしきニては望無之旨、申断    ル。先達而大郷氏より被頼候日蓮真跡印本四通、十九兵衛、外へ世話可致旨申ニ付、四通かし遣す〟    〈農学者大蔵常永、どうやら馬琴の仮宅の斡旋をおこなっているらしい。また「日蓮真跡印本」とは、十月十六日の記事による     と「大郷氏蔵板日蓮真筆建治二年の蔓(ママ)陀羅棟札刻本」というもののようである。その日、大郷信斎金蔵は、これを信心の     ものへ五十文にて授けるくれまいかと、馬琴に頼んでおいたものである。それをこんどは大蔵常永が世話をするというのであ     る〉  ◯ 十一月 十日『馬琴日記』第二巻 ②224   〝画工北渓来ル。予、対面。美少年録二輯五のさし画壱丁出来、持参。これにてさし画やう/\皆出来ニて、    外題・ふくろ・とびらの事、早々画キ遣し候様申談じ、為見合、美少年録初輯上本壱の巻并にふくろ、か    し遣ス〟  ◯ 十一月十二日『馬琴日記』第二巻 ②226   〝大蔵十九兵衛来ル。予、対面。下谷立花侯近所組やしきニ、土蔵附之売居有之よしニて、汲引せらる。一    通り聞候処、様子不宜候へ共、折角世話被致候を、直ニも断がたく、明後日比、罷越候て、一覧可致旨、    及約束〟    〈気が進まないのに、相手大蔵常永の好意に報いるため、現地に赴こうというのである。十四日、馬琴は風邪、代わりに感冒で     臥している宗伯をわざわざ起こして実見させている〉  ◯ 十一月十五日『馬琴日記』第二巻 ②228   〝西村や与八并ニ丁子屋平兵衛来ル【左兵衛事】。予、対面。ミのや甚三郎、八犬伝編上帙、去丑三月中    より無沙汰にいたし、不受校合、うり出し候不埒之始末、申訳無之、且、平兵衛無念ニて、此方へかけ合    ニ不及、当月二日ニうり出し候処、今更後悔のよしニて、与八を頼ミ、わびいたし候よし也。依之、悞証    文さし入、下帙は、受校合、出板致度旨、申之。予、甚三郎不埒之趣申述候へども、達而相わび候ニ付、    任其意、証文認、近日甚三郎同道可致旨、及示談。且、如例、新本弐部・稿本七冊、外ニ、去々年甚三郎    へかし置候梅花氷裂新本一部を一部を持参いたし候様、巨細ニ示談。与八・平兵衛承知、右之通可致旨申    之、辞去〟    〈十二月三日、西村屋与八と丁子屋平兵衛は美濃屋甚三郎を同道して来訪する。しかし美濃屋は詫び証文を出さず、校合も不揃、     そしてまた「梅花氷裂」も戻さずということで、話がこじれてしまう。なお曲折があったが、同月十三日、美濃屋が謝り証文     と「梅花氷裂」を持参して、この件はやっと落着する〉    ◯ 十一月廿二日『馬琴日記』第二巻 ②234   〝根岸よし川佐右衛門来ル、予、対面。右ハ、林清三郎方借地、是迄追々取組候処、清三郎方ニ故障有之、    無拠及断度旨、清三郎ニ被来候間、罷越候よし也。(中略)全体隣堺社地ニて、且、百二十坪斗不用の地    かり込可申為体ニ付、再按之上、此方より断も可申入哉と存居候内、及此義、物稀の幸ひ也〟    〈二月から普請に取りかかる予定であった根岸の林清三郎借地について、仲介人のよし川が破談を申入れてきたのであった。理     由は地主の清三郎が貸家を三軒建てたいというもの。馬琴は信義を重んずる人である。この一方的な解約に険しい反応を見せ     るかと思いきや、こちらから断りを入れようと思っていたくらいだとして渡りに船「物稀の幸ひ」と即座に承知した。あるい     は占いから要請される方違えなどの煩雑さに倦んでしまったのか。ともあれ普請の手付け金まで渡していたのに、急転直下、     この落着とあいなった。ただ困ったことに、現在の住まい、神田明神下は転居する旨、地主杉浦清太郎に伝えてある。しかも     先の見通しは依然たっていない。先行き如何、前途多難は必至だ。ところが残念なことに、文政十三(天保元)年(1830)の日     記が欠けている。この間のような経過をたどったものかよく分からない。しかし天保二年の日記を見ると、正月四日の件に     〝地主杉浦清太郎其外南隣年礼申入〟とあり。転居騒動なんかなかったような書きぶりである〉  ◯ 十二月 三日『馬琴日記』第二巻 ②242   〝大坂河内や前太介より之来翰、京やより届来る。右は、大坂金屋和三郎といふもの、画工柳川弟子に成た    く存候に付、引付くれ候様たのみの用談也。和三郎より此方への書状、并に英泉への書状来ル。其外、八    犬伝の事・朝夷七編著述之事等、申来ル〟     〈河内屋太助は『南総里見八犬伝』の大坂での出版元。その河内屋から、金屋和三郎なる人の柳川重信への弟子入りを仲介して     ほしいと依頼されたのである。英泉宛の書状がどうして馬琴の許に届くのだろうか。朝夷七編とは、画工歌川豊広と組んで文     化十二年(1815)の初編から文政十年(1827)の六編まで刊行さ    れた『朝夷巡島記』の七編。執筆の依頼である〉    ◯ 十二月十一日『馬琴日記』第二巻 ②249   〝大蔵十九兵衛来ル。予、対面。嚮に見せられたる田舎夜話、早引書法の巻、返却。田舎夜話製本出来のよ    しニて、又見せらる。則、とめおく。此節無人のよし物がたり候へバ、雇婆之心あて有之、早々聞糺し可    申旨、約束ニ及ぶ〟    〈農学者大蔵常永、今度は雇い婆の斡旋である。翌十二日その婆を雇い入れることにしたが、肝心の婆は来ず〉  ◯ 十二月十四日『馬琴日記』第二巻 ②252   〝(大坂河内屋への返書)大坂金屋和三郎といふ町人、当地柳川弟子になり度といふ事、并ニ八犬伝七輯う    り弘の為知、巡島記七編著述等之事、件々及答。柳川事并ニ巡島記著述は及断〟    〈柳川重信への弟子入りと巡島記執筆の件は断った。結局『朝夷巡島記』は馬琴での復活はなく。安政二年(1855)になって松亭     金水作・葛飾為斎画で七編が出る〉    〝大坂や半蔵より、小ものを以、美少年録弐輯とびら并袋のわくもやう、画工北渓より出来のよしニて、差    越之〟  ◯ 十二月 廿日『馬琴日記』第二巻 ②261   〝(板元大坂屋の使い)画工北渓方へ罷越候よしニ付、則、北渓えはり外題画写本催促状、遣之〟  ◯ 十二月廿一日『馬琴日記』第二巻 ②262   〝芝片門前画工歌川豊広家内より、使を以、豊広事、昨夜病死いたし候ニ付、明廿二日昼九時送葬のよし、    しらせ来ル。相応之挨拶いたし遣ス。とり次おみち也。但、此節無人、且、病人有之時分がら、遠方故、    速に弔しがたかるべし〟    〈歌川豊広は外出嫌いな馬琴が年始回りをする数少ない一人であったが、家を空けることが出来ず、結局、娘婿の清右衛門を遣     わすことになった〉  ◯ 十二月廿二日『馬琴日記』第二巻 ②263   〝(大坂屋半蔵の使い)美少年録二輯画外題、北渓方より出来のよしニて、右写本持参。即刻、画賛下書    加へ、筆工金兵衛方へ持参いたし候様、使の小ものへ申付、此方箱ニ入、もたせ遣ス〟  ◯ 十二月廿六日『馬琴日記』第二巻 ②267   〝(清右衛門をもって)芝片門前豊広方え罷越、不幸之悔口状申述、ろうそく箱入壱遣し候趣、告之〟    〈馬琴は、歌川豊広の葬式に自身で行くことが出来ず、女婿滝沢清右衛門をもって、弔辞を届けたのであった〉