Top          浮世絵文献資料館         曲亭馬琴Top
              「曲亭馬琴資料」「文政十一年(1828)」  ◯ 正月三日 鈴木牧之宛(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-40)①206   〝『雪譜』之事、此節彫刻いたし度と申板元、有之よし、去冬十二月中、画工英泉参り、被申述候。板元    たしかなるものニ候ハヾ、追々可致す相談旨、申談じ置候〟    〈渓斎英泉も『北越雪譜』(鈴木牧之著・初編・天保七(1836)年刊)出版の引き受け先を探していたの     である。しかしこれも不調に終わる〉    ◯ 正月 六日『馬琴日記』第一巻 ①149   〝歌川豊国、為年始祝義、来。玄関ぇ申置、帰去。当時、本郷春木町二丁目ニ住居之由、告之〟    〈この歌川豊国は二代目。馬琴作の挿画は文政八年刊の合巻『傾城水滸伝』初編だけで、翌九年の二編か     らは国安が担当した〉    ◯ 正月十四日『馬琴日記』第一巻 ①254   〝仙橘、為年始祝義、来ル。於書斎、御逢、無程帰去〟    〈仙橘は筆耕。同日の記事に〝浅見魯一郎来ル。於玄関、宗伯対面。家君(馬琴)御留守之趣、申之〟と     ある。この浅見某は十二日も来訪し馬琴との面会を求めているがはやり断られている。肩書きは〝酒井     雅楽頭殿家中〟とある。馬琴は突然の訪問者や紹介のない者には対面しない。〝御留守之趣申聞、近年     癇症ニて御来訪之方ぇ、乍失礼、一統御断、不被為成御逢〟と居留守を使うのである。しかし仕事上交     渉のある人には律儀に面会するのである〉    ◯ 正月十五日『馬琴日記』第一巻 ①254   〝雪麿事、田中源治来ル。家君御逢有之。去冬持参之志賀瑞翁書翰外書付二通、今日、被為遊御返事後、    雑談数刻、薄暮帰去〟    〈家君とは馬琴を指す。宗伯の代筆である。墨川亭雪麿が持参した志賀随翁の書については、昨年十一月     十一日付日記を参照のこと〉    ◯ 正月十七日『馬琴日記』第一巻 ①255   〝去冬、八犬伝さし絵為見合せ之、英泉ぇ御貸被遣候越後闘牛之図、昨日、美濃屋甚三郎を以、被致返上、    被遊御請取候〟    〈この越後闘牛之図は『北越雪譜』で知られる越後の鈴木牧之が馬琴に寄せたもの。八犬伝第七輯巻之五     に「越後州古志郡二十村闘牛図」〝原図北越鈴木牧之筆 渓斎英泉縮図〟とある〉    ◯ 正月十七日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-41)   ◇ ①208   〝『水滸画伝』著述之事、去冬あらまし得貴意候通り、板元并ニ画工へも意味合有之、其上『水滸伝』ハ    勧懲之為、愚意ニ応じ不申もの故、堅くことわり、綴り遣し不申候。依之、板元英や、高井蘭山ニ訳文    ヲたのミ、画ハ北斎ニかゝせ、彫立候よしニ御座候。『けいせい水滸伝』より『通俗水滸伝』も引立ら    れ候而、はやり出し候事故、出板候ハヾ、『画伝』も多くうれ可申候半哉と存候。但し蘭山ハ、相識ニ    ハ無之候へ共、『三国妖婦伝』など著し候仁にて、下谷三絃堀ニ罷在候。漢文ハよみ候へ共、小説もの    などハ一向疎く、且戯作之才ハなき老人のよし、及承候。この人の訳文、いかゞ可有之哉、心もとなき    事ニ候へ共、切落しの見物ハ、文之巧拙ニも拘り不申もの、多く御座候故、北斎の画ニてうれ候半と被    存候〟    〈馬琴が『水滸画伝』の著述を引き受けないのは元の板元角丸屋甚助とのトラブルだけでなく、画工の北     斎とも訳有りだったからのようだ。ただし、北斎の技量に関しては、さすがに馬琴、高く評価して別格     あつかいである〉     ◇ ①210   〝一昨年冬中綴り候合巻、板元ハ西村やニ御座候。画工国貞ニ子細有之、昨年も画出来不申、当年にて三    年越シニ罷成候〟    〈この年、文政十一年、馬琴は合巻『今戸土産女西行』を出版しているが、この画工は国貞である。する     と国貞にあるする「子細(訳有り)」とは、馬琴との拘わりではなさそうであるが、何であろうか〉  ◯ 正月廿二日『馬琴日記』第一巻 ①257    〝画工英泉、為年始祝義、来ル。家君御対面。雑談暫、帰去。殺生石口絵、さし画二十丁之内、七丁出来、    持参。御請取被為置候〟    〈『殺生石後日怪談』の英泉画は二編で、文政十二年刊。初編は初代豊国と国貞画で文政七年の刊。初編     から二編の間に五年の隔たりがあるのは、文政八年正月の初代豊国逝去と文政十年の板元山口屋藤兵衛     とのトラブルが影響しているのだろうか。昨年十一月十三日記事参照〉  ◯ 正月 晦日『馬琴日記』第一巻 ①261   〝渡辺登来訪。家君御対面。所要は、両国加賀屋某と申書林、家君御著述願候趣、同人懇意候三木某、筆    耕いたす人之由、兼て登旧識之旨、及聞、以三木某、登方迄被頼候趣、依申之、委細被遊御示談。其後、    雑談数刻。夕七時前帰去〟    〈渡辺崋山を介して著述を依頼してきた加賀屋某とは両国の加賀屋吉右衛門であろうか。歌川国芳を売り     出した版元として知られている。馬琴とのその後の関係は未詳である〉      〝(宗伯、上野広小路の植木見物の帰路)帰耕堂ぇ立寄、芙蓉墨畫之山水折中ス、然共、価引ケざる趣、    申之。依之、返べき旨、申置、帰宅〟    〈芙蓉は鈴木芙蓉か。翌二月朔、馬琴自ら交渉するが、やはり値引きに応ぜず、結局、帰耕堂の言い値で     この掛け物を購入している。これは実は伊勢松坂の殿村篠斎の依頼だったようで、二月八日記事に〝松     坂殿村より被頼候、芙蓉山水御手ニ入候ニ依て、伝馬丁殿村店ぇ届候〟とある〉    ◯ 二月 八日『馬琴日記』第一巻 ①265   〝仙橘、殺生石筆耕書かた問ニ来ル。御示談後、無程帰去〟    ◯ 二月十六日『馬琴日記』第一巻 ①269   〝中井乾斎来ル。家君御対面。絹地横物ニ墨水を雪山と申絵師認候を持参、新宅開ニ祝ひ遣候趣、外より    無拠被頼候由、御染筆被願、近日御認被遣べく旨、留被為置〟    〈中井乾斎は兎園会のメンバー。大槻如電によると〝乾斎 中井豊民は、太田錦城の門人なりといふ。其     出処経歴いまだ詳ならず〟(『日本随筆大成』第二期一巻所収『兎園小説』解題①5)雪山は堤等琳雪     山の可能性がないではないが、未詳。二月廿一日、馬琴は画賛を認めている〉    ◯ 二月十八日 ①270   〝仏葊来ル。吉原巻物題跋、催促也。  楽翁様被成御覧旨、度々被仰越候間、急ニ仕立度旨、申之。家    君御対面。近々御稿之趣、御示談〟    〈仏葊は中村仏庵。楽翁すなわち松平定信が御覧になりたいということで急遽、馬琴に題跋を求めにきた     ようだ。「吉原巻物」とは如何なるものであろうか。同廿日には跋を清書して原稿を亀戸の仏庵隠居に     届けるよう手配している。その後、仏庵方の不調法で巻物が一時行方不明になるなど一騒動があったが、     思わぬところから無事見つかり、今度は、巻物に馬琴自筆で跋を認めるよう依頼される。三月廿一日記     事参照〉    ◯ 二月十九日『馬琴日記』第一巻 ①270   〝当月六日、中橋茶屋より和田源七、以使、鶴喜ぇ錦絵水滸伝之義ニ付、申談候趣有之由、呼ニ越候間、    喜右衛門罷越候所、源七、錦絵之事申談候後、(以下『傾城水滸伝』(歌川国安画・鶴屋板)の三編「寅    右衛門髻をきられ愁歎之段」に「つけ届目録」とあるべき箇所が「賄賂目録」となっていたので直した    等の記事が続く)〟    〈和田源七は同年八月十三日記事に〝改名主〟とあり、絵入読本の改方。文化四年十一月、山東京伝と馬     琴が連名で「勧善懲悪之趣意」を心掛け「殺伐不祥之儀」なき絵組みを専らとする旨の「内々以書付申     上候覚」を提出した宛先はこの和田源七であった。(『類集撰要』巻之四十六)「錦絵水滸伝」は未詳〉    ◯ 二月廿日『馬琴日記』第一巻 ①271   〝一昨日、仏葊罷越候節、御成道道具屋ニて、永真画ニ木下順葊之賛いたし候懸物見懸候趣、申上候由、    依之、被成御覧度旨被仰付、宗伯罷越、尋候得共、不見当。帰路、帰耕堂ニて、芙蓉之山水見せ候間、    携帰宅、為可入御覧也〟    〈仏葊は書家・中村仏庵。『【江戸當時】諸家人名録』(文化十二年版)に〝仏学 至観【名璉、字景璉、     又号仏】泉橋松下町 中村仏庵〟とある人。幕府御畳方頭梁で現役中は中村弥太夫ともいった。仏庵は     亀戸の隠居名。大田南畝などと交友があり、馬琴とは文政七年~八年にかけて開催された古書画・珍物     奇物の品評会「耽奇会」に同席して、旧知の中である。その仏庵、この記事にある「一作日」十八日に     松平定信の使いで「吉原巻物(「北里雑簒」とも記す)」の題跋を催促に来ていた。その時、御成道筋     の道具屋に狩野永真画、木下順庵賛の掛け物を一見したのである。馬琴も関心があったか、宗伯を使っ     て尋ねさせたが見つからず、その代わり帰耕堂に鈴木芙蓉の山水画を見掛け、預かってきたのであった。     芙蓉の画は馬琴の好みというより伊勢松坂の殿村篠斎から所望されていたもの。二十五日、値段の折り     合いがつかず、一度帰耕堂に戻したが、見過ごすことが出来ず、結局購入している。今度も帰耕堂の言     い値が通ったのである。ところが話にはまだ先があって、二十七日になると、その帰耕堂から〝芙蓉画     襖はがし八枚、鶴之群像之図〟が馬琴のもとに届けられる。しかし今度はさすがに気が進まなかったら     しく、翌日八枚とも返却している。芙蓉の山水画については三月廿一日にも記事あり。殿村篠斎は鈴木     芙蓉の山水画がお気に入りのようである〉  ◯ 二月廿二日『馬琴日記』第一巻 ①272   〝嶋岡権六来ル。白扇二本持参。当月廿七日、浮世小路百川ニて、書画会いたし候ニよつて也。右同人、    去年九月より、駒込御書院組やしきへ転宅。養子和田鋭之助同居のよし也〟    〈嶋岡権六は『滝沢家訪問往来人名簿』に〝神田橋通り 近藤淡路守殿ニて ひっこう書〟とある。後の     岡山鳥。二十七日、宗伯が参加した〉    ◯ 三月 二日『馬琴日記』第一巻 ①278   〝仙橘、殺石(ママ)四之巻筆耕持参。御逢後、無程帰去〟    〈殺石は英泉画『殺生石後日怪談』〉   ◯ 三月 十日『馬琴日記』第一巻 ①281   〝嶋岡権六使礼。書画会之節、致出席候謝礼也。近所にて摘候由よめな被恵、宗伯、返翰遣之〟  ◯ 三月十六日『馬琴日記』第一巻 ①284   〝(中川金兵衛を以て)国安ぇ御伝言有之、御用は、当年西与・森治とも被仰付候間、出情認候様、被仰    遣候也〟    〈国安は馬琴作合巻『傾城水滸伝』(鶴屋喜右衛門板)文政九年の二篇から天保四年の十二編まで挿絵を     担当。「西与・森治」は板元西村与八・森屋治兵衛である。西村与八は翌十二年、馬琴作・国安画の合     巻『漢楚賽擬選軍談』を刊行。森屋治兵衛は同じく十二年、馬琴作・国安画の合巻『風俗金魚伝』を刊     行する。馬琴が筆工中川金兵衛を以て国安に伝えたのは板元の要請で画工に起用するという内容であろ     う。中川金兵衛は『滝沢家訪問往来人名簿』に〝甲申九月十三日初来、対面 折違御門外御成道 小笠     原家中ニて 筆耕者〟とある。日記には頻繁に登場する〉    ◯ 三月十七日『馬琴日記』第一巻 ①284   〝経師金太郎来ル。家君御逢、芙蓉山水・江島鳥居記搨本二枚、表具被仰付、代銀弐十匁なり〟  ◯ 三月二十日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-42)①212   〝鈴木芙蓉画山水之事、かねて御頼ニ付、御注文通りニは無之候へ共、先ヅかひ入、差登せ候処、思召ニ    応候よしニて、代金三朱被遣之、慥ニ落手仕候。尚又、同人画絹地山水細密之品、御見出し候ハヾ、か    ひ取、御めにかけ申候様貴翰之趣、承知仕候。拙宅近所ニ、古かけ物類斗商売いたし候もの有之。此方    ぇも、先達而中より申遣し置候処、久々一向見せ不申候ひしが、四五日已前、芙蓉画絹地山水一幅、さ    し越申候。楓林暮景之図ニて、至極之出来と存候へども、細密と申程之事ニは無之候。殊ニ、直段も存    候より不廉候得ば、如何可有之哉、難斗候ニ付、先留置、一両日中、拙宅床ニかけ置、熟覧いたし候処、    見ざめも不致、実ニ唐人之山水之様ニ見え候。依之、かひ取、今般伝馬町御店迄出し置申候。代銀ハ廿    五匁、正札之よしニて、一文も引不申候〟    〈伝馬町御店とは伊勢・殿村篠斎の江戸出店〉  ◯ 三月廿一日『馬琴日記』第一巻 ①286   ◇中村仏庵依頼の「北里雑簒(吉原巻物)」一件   〝(「北里雑簒」の巻物と馬琴跋の原稿、一時行方知れずになった。馬琴の方は中村側発行の受領書を持    っていたので、中村方が家内を探したところ、座敷額の裏から出てきた。そして今度は)右北里雑簒題    跋、大巻物・小巻二本共、御直筆ニ被成下御認候様、達而頼之、被成御断候得共、後世之宝ニ相成候事    故、是非々々願度旨、再三依申、御承引被為成候。一両日中、紙指上候趣、申之〟    〈「後世之宝」にもなろうかという松平定信ゆかりの「北里雑簒」の巻物二本、馬琴直筆の題跋が認めら     れているらしい。現存しているのであろうか。二月十八日記事参照〉       ◇鈴木芙蓉画山水懸物   〝(伝馬町の殿村篠斎の店へ、清右衛門をもって)十八日ニ帰耕堂より指越候絹地芙蓉山水懸物、松坂表    ぇ届候様、可申入旨、為持被遣〟    〈芙蓉画の山水掛け軸の代金は金一歩二朱であった〉    ◯ 三月二十二日 殿村篠斎宛追啓(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-43)①219   〝(鈴木芙蓉画山水画について)昨朝、中村仏庵来訪ニ付、此画幅ヲ見せ、所存ヲ問合せ候処、仏庵云、    芙蓉画之山水、これら細密と可申候。全体、山水ニ極細密ハ稀レ也。蓉ハ殊ニ筆あらき方ニて、花鳥な    ども南頻風などゝハちがひ候。在世の節たのミ候ハヾ、潤筆二百疋、きぬわくニて二朱もかゝり    可之候。しかれバ、価も平和なるべきよし申候。仏庵ハ古物ヲ多く鑑定いたし候好事家也。芙蓉ハ、小    子も寛政中、他席ニて一両度出合申候〟    〈中村仏庵は南無仏庵・中村弥大夫。御畳方頭梁。天保五年(1834)没・八十三歳。馬琴とは古書画・珍     物奇物の品評会である「耽奇会」(文政七年(1824)~翌八年)などで交友関係を続けた〉    ◯ 四月 二日『馬琴日記』第一巻 ①292   〝経師金太郎、申付置候江島鳥居記・芙蓉山水表具出来、持参。芙蓉山水画之上下を壱寸ヨ裁切、殊ニ表    具絹色等、甚見ぐるしく不出来ニ候得共、其儘請取、手間料廿壱匁、払之〟     ◯ 四月十二日『馬琴日記』第一巻 ①298   〝鶴屋喜右衛門、西村与八・蓬莱山人、同道来ル。右は蓬莱山人、立川焉馬と改号、為披露、来ル廿一    日両国柳橋河半ニて書画会催候由〟    〈河半は河内屋半次郎。広重画『江戸高名会亭尽』に書画会の様子が画かれ、寺門静軒の『江戸繁昌記』初編「書画会」     にも〝多くは柳橋街の万八・河半の二楼を以てす〟とされている。この蓬莱山人は二世。いつもなら嫡子宗伯が出席     するところだが、体調不良ということもあってか、女婿の清右衛門を名代として出席させている。宗伯は十日夜から     激しい腹痛と下痢に襲われる〉    ◯ 四月十六日 『馬琴日記』第一巻 ①301   〝西村与八使礼。漢楚賽壱・弐、絵写本出来、指越。然所、国安心得違有之候ニ付、直し候様、被仰遣〟    〈合巻『漢楚賽擬選軍談』は歌川国安が画工を担当した〉    ◯ 五月 二日 『馬琴日記』第一巻 ①308   〝大坂大蔵十九兵衛来訪。古画模刻二枚持参。帰去。昨一日之事也〟    〈この大蔵十九兵衛(徳兵衛)とは農学者大蔵常永であろう。馬琴は紹介状のない未知の人とは面会しな     い主義である。大蔵とはどのような縁で結ばれていたのであろうか。大蔵は、大坂の鶴屋於佐丸の依頼     で、大田南畝(蜀山人)の許を訪れ、南畝の印譜を貰い受け、それを出版するなど、単なる農学者とし     てではおさまりきらない面をもっている人物であるから、馬琴も受け入れたものか。六月二日の記事に     〝大坂旅人、江戸止宿大蔵徳兵衛来ル。予、対面。雑談数刻、尤長坐。九時過帰去。堀田原奥やしき、     酒井左近殿門番所ニ当分寓居のよし也〟とあり。また十月五日も来訪。両三度対面している。それにし     ても江戸の人的交流ネットワークは意外な広がりをもっていたようである。それを支えていたのは、参     勤交代と大坂・長崎奉行等への勤番制度、そして民間でいえば江戸店や町飛脚の出現などであろう。江     戸時代は、官民ともに人も情報も様々なレベルで交流の機会をもっていたのである。余談になるが、馬     琴が、伊勢の殿村篠斎や小津桂窓、そして国家老として江戸から高松に行ってしまった木村黙老との交     遊を長年にわたって持続出来たのも、これらの制度や通信網の恩恵なのである〉  ◯ 五月 四日『馬琴日記』第一巻 ①309   〝英泉方より、京都丸や善兵衛年始状届来る。さしおきかへる〟    〈丸屋善兵衛は天保九年に高井蘭山訳・北斎画『新編水滸画伝』を出版する京都の板元である。この『新     編水滸画伝』は最初、馬琴作・北斎画で文化二年と同四年に出版されたものだが、版元角丸屋甚助と馬     琴の間にトラブルが発生して、馬琴が執筆を拒否、以来出版が中断するといういわくつきのものである。    この当時は英平吉が板木を所有しており、この年、蘭山訳・北斎画で二編が出る〉    ◯ 五月十一日『馬琴日記』第一巻 ①313   〝山下町筆工仙吉来ル。泉市板金毘船(ママ)六編壱・弐の筆工出来、持参。為校合、請取おく。先達而同人    かり出し、持参の金翹伝、全部今日返却。見料先方聞糺し、追て可遣旨、談じおく〟  ◯ 五月二十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-44)①219   〝先便ニかねて御頼ミ、芙蓉画絹地壱幅、当地御店迄差出候処、御落手被下、其砌、無程右価銀、御店よ    り被遣候。致落手、商人請取売上ゲ書、御店迄差出候〟    〈鈴木芙蓉の絹地山水画は殿村篠斎が引き取ることになっていたのである〉  ◯ 六月 五日 『馬琴日記』第一巻 ①330   〝昨四日、杉浦老母より見せられ候、清ノ嘉慶板拓本五百羅漢画像折本十本、外ニ子昂書拓本・定恵禅師    碑拓本等也。木食上人長崎ぇ罷越、来舶人ニもらひ候ものゝよし。五百羅漢画像の折本ハ望ましく候間、    価たづね候処、不残ニて金拾三両のよし。高料不企及、跋文のミ写しおく。今日返却。唐定恵禅師碑文    ・農休絵謄写ス。磨滅破裂多有、匇々ニ写了ル〟     〈杉浦老母とは馬琴住居の地主杉浦清太郎の母。木喰仏で有名な全国行脚の遊行僧・木喰が長崎を訪れた    のはいつの頃か。そしてまた杉浦家がどういう縁で、五百羅漢像や陳子昂や定恵禅師(藤原鎌足の子で    遣唐使)の拓本を入手したのであろうか。「農休絵」は未詳〉     ◯ 六月廿五日『馬琴日記』第一巻 ①342   〝画工国満、すり物持参。来月一日之会ふれに来る。未知もの也〟    〈この国満は初代であろう。七月一日の会で配られる摺り物を持参し招待したのであろう。「未知もの」     で面識はなかった〉    ◯ 七月廿三日『馬琴日記』第一巻 ①361   〝(経師屋)金太郎持参之かけ物、雪舟・雪山・常信・探幽等、いづれも横幅、はらひものゝよし。真偽    不定候ニ付預りおく〟    ◯ 七月廿五日『馬琴日記』第一巻 ①363   〝日雇人足ヲ以、文晁子へかけ物品々見せに遣す。右の内、雪舟山水并に常信竹雀は贋物也。常信の方は    新井甚之介などにて、名印は後人のわざなるべきよし也。常信の枯蓮ニ鶺鴒ハ正筆、又、探幽騎馬人物    も宜候。但、一両時其筋之粉本ニて有之候を、後ニ印を押候物歟。印ハ正印のよし也。又、雪山の山水    も宜候。これも印ハ後人の押候ものゝよし、返書に申来る〟    〈谷文晁は馬琴も信頼を置く鑑定家なのであろう。新井甚之助は未詳〉   〝(経師屋に馬琴の付けた値段を示す)雪山山水金百疋・探幽騎馬金百疋・常信せき鴒三朱ニ成候ハヾ、    求可申旨、申遣す〟    〈「金百疋」は一両の四分の一、「三朱」は一両の十六分の三〉     ◯ 八月 八日『馬琴日記』第一巻 ①371   〝画工英泉来る。予、対面。彼仁親類に不埒のもの無(ママ)之、借財等引請、甚困窮の上、大坂書林河内や    茂兵衛と談じ置候事、間違、河茂今以江戸へ不来候に付、弥難儀のよし。彼是長談、みのや甚三郎噂等、    聞之。其後帰去〟    〈英泉は親類の不埒者のせいで借財を抱えるなど経済的な苦境に陥っている様子。今年の正月、大坂の河     内屋茂兵衛は英泉の絵本『画本錦之嚢』を出版していた。そのことと関係があるのか不明であるが、英     泉は河茂をアテにしているのような書きぶりである。なお翌九月廿五日、英泉と河内屋が同道して馬琴     の許を訪れる記事あり、そこでが新たな話が持ち上がっている〉    ◯ 八月 十日『馬琴日記』第一巻 ①373   〝(板元大坂屋半蔵より)美少年録報条の画、美少年国安ニ画せ出来、見せらる。画がら不宜候得ども、    そのまゝにいたし、筆工へ可遣旨申聞け、返之〟    〈『近世説美少年録』初編は翌文政十二年に刊行されるが、それに先だって国安画による報条を出すとい     うのだろう〉   ◯ 八月十一日『馬琴日記』第一巻 ①374   〝大坂や半蔵来ル。美少年録報条の画、国安方ニて出来かね候旨、国貞弟子画(一字ムシ)出来よし、持参、    被為見之〟    〈どういう経緯によるものか、国安画は出来ず、結局国貞の弟子のものが採用されたようである〉  ◯ 八月廿三日『馬琴日記』第一巻 ①382   〝雪丸事、田中源治来ル。榊原家臣也。名前間違ニて不逢。近日又可参よしにて、帰去〟     ◯ 八月廿六日『馬琴日記』第一巻 ①384   〝榊原殿内、田中源治事、雪丸来ル。予、対面。右藩中の朋輩より、志賀瑞翁之神書巻物見せらる。此義、    過日大郷金蔵より申来り、粗承知候処、右之写し珍らしく覚候間かりおく。右の報ひとして、志賀瑞翁    事迹再考之一編、記し遣す。長談数刻、帰去〟    〈墨川亭雪麿記事である〉    ◯ 八月廿七日『馬琴日記』第一巻 ①385   〝今日、英泉書画会のよし、金兵衛申之。この方へ、沙汰無之に付、祝義不及遣。宗伯病中、遠慮被致候    もの歟〟    〈英泉の書画会。馬琴は招待状の来ざることを、嫡子宗伯が病中であるため、英泉が遠慮したと察したのである〉    ◯ 九月 二日 『馬琴日記』第一巻 ①388   〝ミのや甚三郎来ル。不逢。甚三郎、当三月下旬より不実いたし置、堪がたく、殊ニ此節ニ至り、八犬伝    校合等、致遣し候いとま無之故也。目録持参いたし候へども、推返し、不受之。お百ニあひ申度よし申    候へ共、出かゝり故不逢。空しく帰去〟    〈八犬伝の板元美濃屋の「不実」とは何であったのか。面会謝絶とはよほどのことである〉    ◯ 九月 四日『馬琴日記』第一巻 ①390   〝大坂や半蔵来ル。美少年録壱の巻本文之残り十二丁・同絵わり三丁わたし遣ス。右潤筆内金拾両也持参、    請取之。画工国貞、本文一トわたりよミ申度旨、申候よしニ付、右稿本、明朝国貞方へ遣し、明後日取    戻し、筆工ぇ遣し可然旨、談じおく〟    〈『近世説美少年録』の初編。国貞の挿画制作がいよいよ始まった〉    ◯ 九月 六日『馬琴日記』第一巻 ①392   〝大坂屋半蔵来ル。今日、画工国貞より使を以、昨日見せ候美少年録壱の巻稿本返却いたし候ニ付、只今、    筆工中川氏ぇ持参、わたし置候旨、申之〟    ◯ 九月十八日『馬琴日記』第一巻 ①401   〝榊原内田中源次(ママ)より使札。過日、被為見候、瑞応神書写、一覧相済候ハヾ、返しくれ候様申来ル。    此方写し相済候間、則、返し遣ス〟       〝大坂や半蔵来ル。美少年録一の巻さし絵のミ、国貞方より出来のよしニて持参〟     ◯ 九月廿五日『馬琴日記』第一巻 ①407   〝画工英泉、大坂書林河内や茂兵衛同道ニて来ル。予対面。著述のたのミ雪譜並ニよミ本等の事也。相談    数刻、則帰去、英泉も来月中旬出立のよし也〟    〈「雪譜」とは鈴木牧之の『北越雪譜』であろう。本文執筆を馬琴に頼んだのであろう。しかし馬琴はな     かなか筆をとらなかった。この出版は曲折をたどり、後年の天保七年(1836)、馬琴とは犬猿の仲の山東     京山の刪定、山東京水百鶴の挿絵で、丁子屋平兵衛と河内屋茂兵衛から出版されることになる。さて河     内屋茂兵衛の江戸入りを待ちかねていた英泉、着いた途端に今度は突然大坂行きだという。どんな事情     があってそういう仕儀に至ったものであろうか〉    ◯ 十月 二日 『馬琴日記』第一巻 ①410   ◇「美少年録」挿画のこと   〝(美少年録の板元大坂屋半蔵来訪して談)国貞之事も、間ニ合かね可申間、画工引かへ可然旨等、種々    致内談竟〟     ◇真顔・飯盛、俳諧哥宗匠免許のこと   〝狂歌堂真顔・六樹園飯盛、二条家より俳諧哥宗匠免許・烏装束等、被下之。并ニ、真顔社中、万象亭ハ    准宗匠、其餘三四人、宗匠格とやらんニ被定候ニ付、御太刀代・銀馬代等進じ、先月下旬両国大のし富    八楼ニて、六樹園宗匠弘会有之。真顔ハ亀戸天神別当所ニて、同断、会有之。真顔ニてハ各装束をつけ、    楽を奏し、もの/\しかりしよし。蜀山物がたり也。尤珍説といふべし。此ごろ了阿が落頌の狂歌に、    アヽラようらましや宗匠なりの翁たちめんばこありと思ふばかりに、これも蜀山の話也〟    〈狂歌師の真顔と飯盛が二条家より俳諧歌の宗匠免許を貰い受け、その弘めの会をそれぞれ行った。村田     了阿の「落頌の狂歌」なるものは、それを当て込んだようだ。それによると、それが狂歌師にふさわし     いものかどうかは別として、どうやら儀式能とされる「翁」の持つものものしい雰囲気の中でとり行わ     れたらしい。ところで、この話を馬琴に持ち込んだ蜀山(亀屋文宝)は、天明狂歌の総帥四方赤良(大     田南畝・蜀山人)ゆかりの人で、南畝公認の偽筆を執った人でもあるだが、赤良直系の弟子とでもいう     べき真顔と飯盛が、たはれ歌とか戯れ歌とか呼びならわされてきた狂歌を、二条家のおすみつけをいた     だくといった格式をほしがるような挙に出たことをどう思ったのであろうか〉    ◯ 十月 四日『馬琴日記』第一巻 ①413   〝美少年録二の巻板下筆工丸九丁、今日大半ぇわたし候節、画工国貞、無程かほ見せ、にづら画ニて弥出    来かね可申候へば、正月うり出しの間ニ合かね候ニ付、ふりかへ三の巻より末、国安ニ画せ可然旨、内    談いたしおく〟    〈歌川国貞、十一月の顔見世興行を控えて、役者「にづら画(似顔絵)」の方が忙しくなり、そのため挿     絵を担当している『近世説美少年録』の正月出版が、間に合わない恐れが出てきたので、国安の起用を     考えたのであろう。大半は板元大坂屋半蔵〉        ◯ 十月 五日『馬琴日記』第一巻 ①414   〝(大坂屋半蔵来訪)国貞事、昨ばん、半蔵参りかけ合い候処、ぜひ/\画き度候間、出精いたし、間ニ    合せ可申旨、国貞申ニ付、任其意候よし、告之。板元得心候上は、拒障可申いはれなし。いづれも宜様    いたし候へと、返答に及ぶ〟    〈国貞は是非やりたいと云う。馬琴は板元大坂屋半蔵が得心ならば……と承知する〉  ◯ 十月六日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-45)①231   〝芙蓉画、御表装も御出来のよし、さこそと想像仕候。老拙も其後、雪山墨画の山水、一ぷく求候て、表    装しかへ、折々かけてたのしミ候事に御座候〟   〈この雪山は堤等琳三代(深川斎)のことか。『馬琴日記』この年の二月十六日、馬琴は、中井乾堂とい    う人から〝雪山と申絵師認候〟〝絹地横物に墨水〟の画を、新宅開きの祝いに頂戴していた〉    ◯ 十月 七日『馬琴日記』第一巻 ①416   〝嶋岡権六来ル。番町辺御番衆何がし殿に被頼、大坂御加番附ニて、来ル十五日ニ出立のよし、申之。予、    対面。為餞別、有合之麁品三種、遣之〟    〈嶋岡権六は戯作者岡山鳥〉   ◯ 十月 十日『馬琴日記』第一巻 ①419   〝松前老侯御使太田九吉来ル。予、対面。此節元古地ニて、牧士并ニ蝦夷馬上炮打ならひ、専熊ヲ捕候ニ    付、右之図柳川ニ画せ、かけ物出来、予、見せ候様被申付候趣、被伝之。(中略)右之かけ物、被差越之。老侯へ申上候処、御かし被成候よしニて、うけぶミ    進之〟    〈松前老侯は松前道広。長子宗伯は同藩出入の医師。松前老侯と交際はその縁によるもの。柳川とは重信     であろうか。絵柄は、松前藩の役人である牧士(もくし)と蝦夷(この場合はアイヌ人という意味か)     が騎上から炮録で熊を打つところ。それを掛け軸にしたものらしい〉  ◯ 十月十二日『馬琴日記』第一巻 ①421   〝松前老侯御使太田九吉来る。予并に宗伯、対面。北馬画松前ウズ牧士と蝦夷と騎炮ニて熊ヲ打図、大ふ    くかけ物これを見せ給ふ。一覧之上、直ニ返し奉る。天文方高橋作左衛門あがり家へ被遣候よし、子細    不知趣、九吉余談。近来運気考密ニ流行、此等之故ニやと、予推察也〟    〈太田九吉の持参した大幅の掛け物「牧士と蝦夷と騎炮ニて熊ヲ打図」、十日の記事には柳川画、十二日     には北馬画とある。いづれが是か非か。なお文政八年七月、北馬は〝牧士代助立乗をして、百匁玉を放     つ〟図を画いている。(『兎園小説別集』「松前家走馬の記」)高橋作左衛門記事はシーボルト事件の     発端を伝えたもの、高橋至時の牢入りを松前老公の使者太田九吉から聞いたのである。運気考は「天気     予報」という意味のようだが、事件との関係は未詳〉    ◯ 十月十七日『馬琴日記』第一巻 ①424   〝大坂や半蔵、画工国貞より、美少年録四の口さし絵の意味しれかね候ニ付、予に承りくれ候様、過刻返    書ニ申来候よしニて、右国貞手紙持参。則、意味合くハしく書付遣ス〟      ◯ 十月十九日『馬琴日記』第一巻 ①425   〝大坂や半蔵より、小ものヲ以て、今日、画工国貞方へ人遣し候ニ付、美少年録口絵出来候ハヾ、遣し度    よし、申来ル。未出来候間、明日とりニ可参旨、申遣ス〟    ◯ 十月廿日 『馬琴日記』第一巻 ①426   〝関源吾より使札。(中略)同人懇意の仁、東叡山御画師鈴木一郎画名の事に付、予に可否を問るゝ文章    一通、被届之〟      ◯ 十月廿六日『馬琴日記』第一巻 ①430   〝画工英泉来ル。転宅并大坂へ罷越候事も、いまだ治定しがたきよし也。雑談数刻、帰去〟    〈一ヶ月ほど前には、十月中旬には大坂へ立つ予定であったが、何か支障が生じているらしい〉     ◯ 十月廿八日『馬琴日記』第一巻 ①432   〝(大坂屋半蔵来訪「美少年録」五之巻の画稿、紙幅の変更を申し出る)いろ/\注文替り、面倒ニは候    へ共、任其意、右之絵稿大きくハいたし置候へども、並わくへ画キおさめ候様、画工国貞ぇ口添遣し    (以下略)〟      ◯ 十一月 五日『馬琴日記』第一巻 ①436   〝大坂や半蔵来ル。昨日申遣候五之巻さし画の内、葡だうだいかき入候義、国貞方へ申遣候趣、わかりか    ね候よしニて、聞ニ来る也。今夕迄ニ、戸びら・ふくろ稿出来可申間、一処ニ明日国貞方へ人遣、可然    旨、致示談、夕方此方へ小もの遣し候様、やくそくニ及ぶ〟    ◯ 十一月 七日『馬琴日記』第一巻 ①438   〝小ぶすま四枚、谷文晁方為(ママ)持遣し、画之事頼ミ手紙并ニ画料、遣之〟    ◯ 十一月十三日『馬琴日記』第一巻 ①442   〝文晁子ぇ頼置候小ぶすま画とりニ遣候処、未出来よし、返書来ル〟     ◯ 十一月十五日『馬琴日記』第一巻 ①443   〝谷文晁方へ、小ぶすまとりに遣し候処、右之画未出来。後刻もたせ可進旨、口上にて申来る。夜に入、   暮六比、文晁より右之小ぶすまもたせ来る〟    ◯ 十一月十八日『馬琴日記』第一巻 ①446   〝明十九日、本所国貞方へ、外題の画とりに遣し候よし〟    〈『近世説美少年録』の外題画である〉     ◯ 十一月 廿日『馬琴日記』第一巻 ①448   〝(経師金太郎へ)文晁ニ画せ候小ぶすま、先方ニて火ニあぶり候と見え、はりさけ出来候間、つくろひ    候て、ふち打候様申付、尚又、大汝・神農賛、右画へはり合、表具過日申付候通り、可致旨申付、両様    共渡之〟