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     「曲亭馬琴資料」「文政元年(文化十五年)~ 同八年(1818~1825)」  ※例(第一巻・書翰番号-14) ①29 :『馬琴書翰集成』第一巻 馬琴書翰番号6     一巻p29    (第六巻・書翰番号-来5)⑥218 :『馬琴書翰集成』第六巻 来簡(馬琴宛)書翰番号5 六巻p218  ☆ 文政元年(文化十五年・1818)  ◯ 文化十五年(1818)二月三十日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-14)①29   〝是より「雪話」の御こたえ    むかし、雪中の事思召立せられ、京伝子へ御かけ合の後、彼人とかく埒明不申、既ニ出来もいたしかね候    様子ニ付、野生方へ被仰下、著述可致様、御たのミ候へども、京伝子とハ懇意の事故、横合より引取候様    ニ被存候てもきのどくニ存、及御断候キ。然ルニ、とかく京伝子ニてハ出来不申ニ付、京都玉山遊歴之節    是へ御かけ合、既に玉山著述いたさるべきつもりの処、彼人死去いたし候ニ付、是又画餅ニ相成り、其後    芙蓉子遊歴の節、亦復御かけ合被成候へバ、是又御同意之処、帰府後、芙蓉子も遠行ニ付、終に年来御苦    心がいもなく、今に埒明不申よし、去月玄鶴様御物語、逐一承知仕候。尚又此度、もし野生著述もいたす    べく哉と被仰下、右「雪話」の図説、あらまし御かき立の分、その外雪舟・橇下駄等雛(ヒナ)形共、一箱ニ    被成被遣、委細御書中之趣承知、御風流御執心のしからしむる事とハ存ながら、さて/\多年の御苦心、    万事のほゐなさ、落涙いたし候までに感佩仕候。つら/\事の因縁ヲ按ズルニ、最初京伝子、埒明かね候    ニ付、野生方へ被及御掛合候ハ、はや十六七年の昔なるべし。それより玉山・芙蓉と、だん/\人ハかハ    れども、竟に成就する事なく、亦復野生方へ、その図説・雛形等の、まわり/\て来つる事、是天のしか    らしむるもの歟。京伝子、既に黄泉の客となられ候へバ、誰に遠慮いたすべきよしもなし。かくまで因縁    ある事なれバ、今ハ辞退すべきにあらず、いかにも御たのミにまかせ、ともかくも可仕と存候也。    (以下、鈴木牧之の『北越雪譜』の出版に関して、三つ問題点あげ、時節を待つよう記す。省略)〟    〈出版まで紆余曲折を辿った「雪話」(『北越雪譜』)の文政元年時点までの経緯。鈴木牧之は最初、山東京伝に出版の仲介を     依頼したが、埒があかないというので、馬琴へ話を持ち込んだ。馬琴は京伝への依頼を横合いから奪うようなことは出来ない     と断る。これは文政元年時点で十六七年前というから享和元~二年(1801~2)の頃の話。その後の状況も相変わらずで一向に     埒があかない。そこで京都の岡田玉山に打診する。すると同意は得られた。しかし出版するまでには至らず、玉山は文化四~     五年(1807~8)頃死去する。(『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」没年による)次に文化九年、越後塩沢に遊歴し     た江戸の鈴木芙蓉に、牧之は依頼する。しかしこれも日の目を見ることもなく、文化十三年(1817)、芙蓉は逝去する。馬琴は     この経緯を、文政元年正月、玄鶴(越後の医師黒田玄鶴)から聞くとともに、再び仲介を頼まれたのである。今度は以前と違     い、京伝は既に亡く(文化十三年没)、もはや遠慮する必要が無くなっていたので、馬琴は依頼を引き受けた。だが八犬伝等     の執筆に追われ、しかも売れ行きに自信を持てなかったので、馬琴はなかなか出版に取りかかれない。出版は遅れに遅れ『北     越雪譜』初編は実に天保七年(1836)のことであった。それも馬琴の仲介ではなく、馬琴とは犬猿の仲とでもいうべき山東京山     (京伝の実弟)とその男・京水(挿画を担当)の仲介・協力によるものであった。結果は馬琴の予想に反して、大ベストセラ     ーになった。馬琴はその際、手許に長年留めておいた原稿を、鈴木牧之に返却しなかったという。そのため牧之は最初から原     稿を書き直さざるを得なかったと伝えられる。仁義礼智を標榜する馬琴作品とは、およそ似つかわしくない人間馬琴の性格・     所行である〉    ◯ 文政元年(1818)五月十七日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-15)   ◇(頭書)「「雪中奇観」画工の事」〕①39   〝古人玉山ハ、自然と板木の画に妙を得たる人也。さして学問ハなけれど、才子なるべし。著述の事ハいざ    しらず、此人世にありて絵をたのミ、野生著述いたし候はゞ、尤よろしかるべし。江戸ニては北斎の外、    この画をかゝすべきものなし。乍去、彼人ハちとむつかしき仁故、久しく敬して遠ざけ、其後ハ何もたの    み不申、殊に画料なども格別の高料故、板元もよろこび申まじく候。しからバ、誰ト壱人ニ定めず、『東    海道名所図絵』のごとく、唐画・浮世画、そのムキ/\ニて、より合画ニいたさせ可申哉。これも画師一    人ならねバ、諸方のかけ合、格別わづらハしく候へ共、山水などハ、江戸の浮世絵師の手際にゆく事にあ    らず。又、婦人その外市人の形は、うき世絵ニよらねバ損也。両様をかねたるものは、北斎のミなれども、    右の意味合あれバ、より合画ニ可致哉と存候事〟    〈「雪中奇観」とは『北越雪譜』のこと。この当時、書名は揺れ動いていた。一時、著者・鈴木牧之が依頼した京都の岡田玉山     は既に故人となっていた。その玉山に対する馬琴の評価が記されている。馬琴は技量を高くかっていた。自分と組めば最高と     さえ云っている。しかし結局、玉山は『北越雪譜』の画工に採用されなかった。彼の「むつかしき」性格と高額な画料が支障     になったようだ。馬琴によれば、煩わしいが、唐画(ここでは山水画)と浮世絵の「より合画」にする必要があるという。北     斎のみは両様兼ね備えたたぐいまれな絵師として高い評価を与えているが、馬琴は北斎の起用を考えていないようだ〉       ◇(頭書)「ばせを像画賛の事」①42   〝ばせをの賛ハ作りおき申候。御用立候ハヾ、何時也とも可被仰下候。華(ママ)山と申唐絵かき、忰同門にて、    ことの外画執心の仁也。『玄同放言』ニも、右之仁の絵、二丁加入仕候。雪蜉も此仁ニうつさせ候つもり、    たのミおき申候。この仁へ画をたのミ、ばせをの像ハ、粟津義仲寺蔵板、杉風が筆の肖像を絵せ可申哉と    存候ひしが、止メ申候。粟津義仲寺蔵板の『ばせを終焉の記』も、只今の板にハ、像無之候。三十年已然    までハ、肖像のつき候板行なりしが、近来再板せし歟、今の本ニハなし。初代杉風が筆なれバ、肖像なる    べし〟    〈渡辺崋山と馬琴の伜・宗伯はともに金子金陵門。その縁もあって、交友関係の少ない馬琴にしては珍しく、崋山とは親しい関     係にあった。馬琴筆の芭蕉句賛に、崋山筆の芭蕉肖像画を配して、牧之に贈ろうという計画であったが、当時義仲寺で板行し     ていた『ばせを終焉の記』には杉風筆の肖像画が収録されていないという理由で、沙汰止みになったようである〉      ◯ 文政元年(1818)七月二十九日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-16)   ◇ ①57   〝雪虫、又々来春おくり可被下候よし、忝被存候。右写真、花山子へたのミ置候処、めがねいまだ手ニ入り    不申哉、埒明不申候〟    〈鈴木牧之から送られてきた「雪虫」を、馬琴は渡辺崋山に写生してもらおうとしているのだが、「めがね」がなく作画できな     いでいるらしい。『北越雪譜』には「雪蛆の図」として出ており、「験微鏡(ムシメガネ)にて観たる所をこゝに図して物産家の説     を俟つ」との説明がある。しかしこれはおそらく崋山のものではあるまい。『北越雪譜』は最終的には馬琴の手を経ず、山東     京山の手で出版されるが、その時、馬琴は牧之から送られてきて手許にあった資料を、牧之や京山に渡していないからだ。崋     山の写生図が制作されたとしても『北越雪譜』の出版には使われなかったものと思われる〉      ◇ ①58   〝(蕉翁像賛之事)此節、忰画ハ出来申候へども、拙画故、一ぷくハ花山子へ画をたのミ、注文申遣しおき    候処、彼人甚精細人にて、古図を穿鑿いたされ候哉、折々さいそくいたし候へ共、今以出来不申候。依之、    忰画出来候分斗二幅、今便差下し申候。花山子画ハ出来次第、後便ニ上ゲ可申候〟     〈馬琴は忰の宗伯が死んだときその肖像画を崋山に依頼した。すると崋山は棺桶のふたを開けて宗伯を覗き、さらに火葬後、頭     蓋骨を観察してそれを写生したという。崋山の「精細」さは、恐らく納得のいく写実的な古図を必要とするのであろう〉       ◯ 文政元年(1818)十月二十八日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-17)   ◇ ①70   〝(蕉翁像賛之事)当月中旬より、折々催促の文通仕候処、彼人甚だながき人にて、未認申、だん/\催促    致候へバ、一昨日廿六日の夕方、漸く認被差越候ニ付、拙賛しるしつけ、今般差上申候。毎度申候如く、    花山と申仁ハ、俗名渡辺登と申し、三宅備前守様家老の子息にて、たしか御近習を勤被申候。三宅ハ、備    後三郎高徳が子孫と申す事にて、『藩翰譜』並ニ『武鑑』にも、系図は高徳より引有之候。右三宅氏の家    臣の画故、則備後三郎題詩句桜樹図を誂へ、画せ申候。高徳ハ南朝の忠臣、関羽ハ蜀漢の忠臣なれば、和    漢の二幅対ニ可然哉と存候故、先達而唐紙を一枚遣しおき候処、いかゞの義にや、雁皮紙へ認、うら打を    為致、差越被申候。紙の長短、先頃の関羽と出合不申候ハヾ、上の処、よキ程ニ御切除可被成候。古土佐    の図にて被画候由。この図のセンサクニ、大ニ骨を折候由ニ御座候。いかゞ、御意ニ叶可申哉、難斗奉存    候。御用立候ハヾ、本望之至ニ候。花山御主人の先祖を図し候故、「奉謹図」と落款被致候と見へ申候。    人物の向やうも、関羽と向合候様ニあつらへ申候。とくト御覧可被下候。忰より十二分のうハてに候。い    かゞ。忰などが筆ハ、画にては無之候。この人、古画の目利執心にて、ちと交易利潤にも拘り候歟。気韻    高く、画もとかくひねりちらし、素人好ハ不仕候と存候〟    〈渡辺崋山は「関羽」と一対となる「備後三郎題詩句桜樹図」を画くのに「古土佐」の図に拠ったという。古画の詮索に骨を折     ったとある。崋山の鑑定眼も自ずと確かなものになっていったのであろう〉     ◇ ①74   〝雪虫、来春ハ亦復被遣可被下よし、忝被存候。先達て花山子へうつしをたのミ置候へ共、今以沙汰なし。    目がね手に入不申故か。今の若人ハ、とかく前約を等閑にする癖あり。心のどかなる仁に候〟    ◯ 文政元年(1818)十二月十八日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-19)   ◇ ①105   〝十遍舎、貴宅ニ止宿の折の雑話、不佞噂等、あらましの趣、汗顔仕候。一体一九とハ、ふかくも交り不申    候へども、気質ハ悪からぬ仁と見うけ申候。式亭などゝハ遙に立まさりて覚申候。如仰、一九ハ浮世第一    の仁ニて、衆人に嬉しがられ候故、遊歴の先々ニても、餞別の所得格別なるべし。そこらの手段ハ、中々    不佞などの不及事ニ御座候。彼仁ハ、寔に戯作一通りの仁ニ候。画も少々ハ出来候故、おのづから愛相ニ    なり申候。但し、文人のかたには遠し。学者のかたにハいよ/\遠し。天晴の戯作者ニ御座候。十遍舎ハ    能を妬むことなく、おのれを錺り不申事ハ、尤賞すべき事ニ覚申候〟    〈引き合いに出された式亭三馬こそ迷惑な話であるが、馬琴は一九の人柄に対してかなり好意的な印象をもっていたよう     だ。馬琴にとって一九は無害というか、自分の領域を侵す心配のいらない人だったのだろう〉       ◇ ①105   〝北馬子事、御尋被成候へども、此仁とハ十年余も交り不申候間、遊歴やら在江戸やら、一向存不申候。乍    去、先月上旬、京の書肆中川新七と申仁来訪、昨日、四日市ニて北馬子にあひ候所、只今ハ剃髪致候故、    見ちがへ候と噂被申候。左候ハヾ、当冬ハ在江戸なるべし。北馬ハ旅役者になりて、年中田舎を稼ギ被申    候よし。かねて風聞のミに候。彼書肆新七ハ、十四年前まで江戸にをれり。故に北馬と懇意なれバ、此噂    あり。共に江戸にをる不佞ハしらぬ北馬事を、京の人が来てその噂して、はじめて在江戸をしるは、われ    ながら浮世に遠き腐レ隠者かなと、をかしく存候〟    〈北馬も師の北斎に劣らず、所を定めず渡り歩いているようだ。しかも旅役者として〉      ◇ ①107   〝不佞ハ例の大小も不仕候。然処、下谷辺の歴々方、御慰ミに被成候御自画のすり物へ、拙句を加入仕候様    被為命候。此貴人、豊国にうき世絵御学び故、豊国より此義申通じられ、豊国代句もまけにしてくれ、そ    して只今直ニ認候様被申候。まづ御下画を拝見いたし候処、窓の内外に美女二人立り、窓の下に梅の花さ    けり。よりて、彼使をしばしまたせおき、      元日はをな子の多きちまた哉  豊国代句      梅一輪窓のひたひや寿陽粧   馬琴    と、あからさまに認メ差上申候。只言下に吐出し候と申ばかり、一向をかしからず候〟    〈この下谷辺の歴々で、豊国に浮世絵を習っている貴人とは誰であろうか。三田村鳶魚の「歌川豊国の娘」によると、豊国の娘     きんが奉公に出た下谷御成道の石川家当主で六万石の伊勢亀山城主、石川主殿頭総佐のようである。〝その殿様のお道楽は浮     世画であって、俳優の似顔などを描かれた。そうして画を豊国に習われ、国広という号さえ持っておられた〟とある。(『三     田村鳶魚全集』第十七巻所収)通常ならこの手の大小画に揮毫はしないたのだが、相手が歴々の画とあっては馬琴もさすがに     断り切れなかったのである〉  ☆ 文政二年(1819)     ◯ 文政二年(1819)八月二十八日 小泉蒼軒宛(第一巻・書翰番号-21)①125   〝壮年より、決して弟子をとり不申候処、十四五年已前、諸方より弟子入りいたし度よし、縁をもとめて被    申入候仁、数十人有之、或ハ雅名・堂号をつけて貰ひたい、琴の字をつけて貰ひたいなど、懇望のやから    少々ならず。その中ニは権家、或ハ無拠内縁などを以、申入らるゝ仁も有之候。此いひわけにハ、殆困り    候処、ある人の謀を以、入門ハ金何百疋、琴の字を遣し候ハ金何百疋と、相場を立候。これ尤野鄙ナル事    ニて、甚不本意ニは候へども、無是非、右之方便に任せ候へば、果して右之束脩に恐れ逡巡して、入門沙    汰ハやみ申候。是全く一時の権謀ニ候也。しかれども、多人数の中にハ、それニも屈せず、右之束脩を以    入門し、琴字を乞候仁少々有之。無是非、任其意候ハ、嶺松亭琴雅【節亭琴驢、後に山鳥とあらたむ】、    柯亭琴悟、六々斎琴鱗、櫟亭琴魚など数人に不過候。(略、入門後の馬琴の教え、専ら儒学・老荘。和学    を専らとし)戯作などすべきものにあらずと教訓致候故、その人々案に相違して、いつとなく疎遠ニなり    果候へども、かねて期したる事なれバ、此方より疎遠を咎不申。只今ニ至り、二季の束脩、はじめにかハ    らず志を運び候ハ、櫟亭琴魚一人ニ御座候。但この仁ハいせ人にて、年来京都ニ住居いたし、当秋より大    坂ぇ引うつり被申候。この仁ハ篤実人にて、拙者が清貧を助ケ候志あつく、その身富ムにハあらねど、志    の大かたならぬに愛て、そのおくりものを受ざる事なく、心の及び候程は、無覆蔵をしえ申候へども、此    方より弟子とハ不申、今以朋友の義を以、文通いたし候〟    ◯ 文政二年(『著作堂雑記』219/275)   〝狂題文晁画達磨    浙江のあしのひと葉は、水なぶりの章にもしられ、葱嶺の履かた/\は、草履かくしの鬼をも度すべし、    面壁の春永くして、九年母の尻くされ、伝灯の光あきらかにして、廿八祖は頭とおばる、吁是教化別伝の    大禅機、何ぞ起あがれ小法師といはんや〟    〈この記事は前後の年次から文政二年(1819)のものと推定される〉  ☆ 文政三年(1820)    ◯ 文政三年(『著作堂雑記』219/275)   〝画工北尾重政【紅翠斎又号花藍】、数十年来、根岸の百姓惣兵衛地内に住す。文政三年庚辰春正月廿四日    没、年八十二歳成べし。嘗て云ふ、年十六歳の頃より江戸暦の板下を書こと六十余年、其の間享和中二ヶ    年間断ず、其の他今の江戸暦に至るまで皆重政の筆耕也、其の極老にして細字を能せしを、人皆一奇とす〟    ☆ 文政四年(1821)       データなし    ☆ 文政五年(1822)    ◯ 文政五年四月二十八日(『著作堂雑記』246/275)   〝こゝろは直かるべく、かたちは常盤なるべく、行ひは一ふしあるべし、上見ぬ為の笠、ころはぬ先の杖、    唯この君をのみ友とすれば、清風耳にみちて、秀色目にあり【壬午四月二十八日画工柳川画】      うち霞む門の柳のけぶりより           もゆるともなき庭のくれ竹〟    〈柳川重信画は竹の図か〉  ☆ 文政六年(1823)      ◯ 文政六年(1823)正月九日 殿村篠斎宛(第一巻・書翰番号-23)①136   ◇ ①136   〝(『南総里見八犬伝』の出版について、版元と彫師にトラブルがあって)人を以板木とり戻し、外へ誂候    へども、昨冬十一月比の事ニ候へバ、諸方ニて受取不申候。埒もなき仁ニほらせ候上、只管ニ急ギ候ニ付、    甚しくほり崩し、一向よめぬ様ニしちらし申候。其上、画工柳川ハ、当春より上京ニて、四の巻より末は、    いまだ画も出来不申候。去冬十月に及び、画工英泉に画せ、絵ハ早速出来致候得ども、板木之方、右之仕    合故、画も甚しくほり崩し申候〟    〈これは「八犬伝」の五輯のトラブル。挿絵は柳川重信他に渓斎英泉が担当した。重信の上京は文政五年春〉           ◇ ①138   〝(文政五年、馬琴は合巻を休筆しようとするが、板元に口説き落とされた長子・宗伯の強い勧めもあって    執筆を決意する)無拠九月廿八日より、一向に考不申候而、合巻草稿に取かゝり、十二月中迄ニ、六冊物    合巻弐部、四十丁物弐冊、十五丁物三冊、已上板元四軒へ認遣し候処、六冊物合巻弐部ハ、十二月上旬ニ    製本出来、うり出し申候。四十丁物ハ、板元風邪ニて打臥、画工豊国も腫物ニて禁筆の時節故、出板いた    しかね、当秋出板のつもりニ成り候。十五丁物ハ前編のミ故、これも当春、跡十五丁認遣し、当冬出板の    つもりニ御座候〟    〈豊国が腫れ物で禁筆したため出版延期になった「四十丁物」の合巻とは何であろうか〉       ◇ ①140   〝素絢画家ヘ、一幅たのミ申度事御座候。今に恙なく、京に居られ候哉。これは忰へ遣し候品ニて、      きぬ地 横一尺七八寸、二尺斗にても。      竪ハ右に準じ    右一幅の内へ、大汝尊と神農ヲ画キ、大汝尊ハ極彩色にて、神農ハ草画のやうにいたし候てハ、いかゞ可    有之哉。しかし、先年文晁に画せ候大汝尊と神農と、これは唐紙半切づゝニて、二幅ニ御座候。画の出来、    さのミおもハしからず候故、素絢子ニ画せ候而、一幅ほしきよし申候得ども、何分潤筆の処、多くハ出し    得不申候。依之、内々御問合せ申上候。南三位の潤筆にて出来可申候ハヾ、御面倒奉願候。これハ別して    不急事、一両年中、貴兄御上京之節など、御直ニ御たのミ被下候様ニ奉祈候。但し、大汝と神農ハ、文晁    にて所蔵致候得ば、それヲやめにして、大汝尊と少彦名命にいたし可申哉。(以下、画題の詮索あり、略)〟    ◯ 文政六年(1823)正月 『滝沢家訪問往来人名録』下p113   〝同月(癸未・文政六年)同道初入来    八丁堀 未ノ夏より人形町田所町西例(ママ) 画工楽亭     酉(文政八)ノ年ヨリ小田原町内ぇ転宅のよし〟    〈この楽亭を岳亭の誤記とみて、とりあえず収録した。「同道」とあるのは前項にある〝癸未正月廿日入来 小船町廻船問屋小     林氏隠居舎弟 三枝屋勘次郎〟とある人か〉  ☆ 文政七年(1824)    ◯ 文政七年(1824)二月二十七日 『滝沢家訪問往来人名録』下p114   〝甲申(文政七年)二月廿六日初来訪他行中ニ付不逢 廿七日再来対面ス 水道橋内石河甲斐守殿家臣     国貞弟子のよし 鈴木長次郎 画名 貞勝〟    ◯ 文政七年(1824)八月七日 『滝沢家訪問往来人名録』下p128   〝同(丙申(文政七年)八月七日)神田明神下御台所町 御小人目付也 実名未詳 画名 歌川国濱    〈『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」に歌川国濱は見えない〉    ☆ 文政八年(1825)    ◯ 文政八年(1825)五月三日 屋代弘賢宛(第六巻・書翰番号-附12)⑥191   〝「屋代氏より、今朝古画美女の図三幅、箱書付ニ土佐又平画とあるを、使を以て被差越、此三幅御一覧可    被下候。とても又平よりはおくれ可申候。如此帯はゞ広きは、いつ頃よりの事に候や、示教希候と申来り    候に付、右の使またせ置、あらまし返書申遣す事左の通り」〟    〈屋代弘賢が土佐又平画の箱書を有する三幅を遣わして、又平より後の作ではないかと疑問を呈し、また幅広帯が使われた時代     を考証して欲しいと、馬琴に依頼したのである。この質問は(第六巻・書翰番号-来35)⑥253にもある〉       〝(返書・前略)図は天正中の京師の遊女にて、筆者は天正後にても可有之候。三幅の内、蔦模様有之方、    出来よろしく見え申候〟    〈この土佐又平画については『兎園小説別集』「帯被考」(『新燕石十種』第六巻所収)にもあり、そこには〝げに又平が筆に     はあらず。さばれ、画中の人物は天正中の妓女なるべく、画者は天正後にやあらん〟としている。また幅広帯と見えたのは実     は帯ではなく「帯被(オビカケ)」というものであると考証している。ところで、この土佐又平の箱書付き「古画美女の図」三幅     は現存するのであろうか〉    ◯ 文政八年五月三日(『著作堂雑記』250/275)   〝屋代氏より、今朝古画美女の図三幅、箱書付に土佐又平画とあるを、使を以て被差越、此三幅御一覧可    被下候、とても又平よりはおくれ可申候、如此帯はゞ広きはいつ頃よりの事に候や、示教希候と申来り    候に付、右の使またせ置、あらまし返書申遣す事左の通如仰箱書付はあてになり不申候得ども、図は天    正中の人物にて、慶長已来に画きしものにや、よろしき画とは見え不申候へども、土佐の筆意は少しづ    ゝ有之様に思ひ候、是は天正中の遊女歟、市井の婦人の図なるべく候、この頃かやうに幅広き帯あるべ    きやうなし、是は真の帯にては無之、帯ばさみにて可有之候、むあしは婦人出行の節、帯ばさみといふ    ものを致し候よし及承候、此帯ばさみは、紅染の布或は染絹など、人の好みにまかせ、二尺あまりに切    りて、一幅のまゝ帯のうへより、右の脇にて結びし由に御座候、これは古代の鞸の遺製にて可有之候、    鞸の和名ウハモ也、此鞸より今の前だれは出来しと申節あれ共、愚案は鞸より帯ばさみとなり、帯ばさ    みより今の前だれになり候哉と存候、今も佐渡越後の村落の婦人、他行の節は、紅染の木綿を二尺あま    りに切たるを三つに折、帯にはさみ候よし、只今は田舎といへ共帯の幅広き故、かくるに不及、依之折    り候てはさみ候よし、田舎者律儀なるもの故に、古風も遺り候、帯ばさみの図説は、所蔵いたし候得ど    も、只今急にとり出しかね候、ゆる/\尋出候はゞ、御目にかけ可申候、かゝればこの画の帯はからく    み紐などにて可有之候得ども、帯ばさみにて、真の帯は見えぬなり、又遊女のすり箔を着る事、うたが    ひあれども、遊女にすり箔禁制は、慶長已来の事故、その事なしとは云ひがたく候、かゝれば、図は天    正中の京師の遊女にて、筆者は天正後にても可有之候、三幅の内蔦模様有之方、出来よろしく見え申候、    愚案これにのみ不限候ことも、御使またせ即時に認候故、つくしがたく奉存候、早々已上、五月三日    かくのごとく申遣したり、但帯ばさみは、本名帯かけなるべし【文政八年乙酉仲夏初三】〟    〈幕府の表右筆・屋代弘賢が土佐又平画の箱書を持つ美人画三幅を馬琴のもとに送り、そこに画かれている幅広帯の時代考証     を依頼したのである。馬琴の見立ては「図は天正中の京師の遊女にて、筆者は天正後にても可有之候」というものであった〉