Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ゆうぜん みやざき 宮崎 友禅浮世絵師名一覧
〔承応3年(1654) ~ 元文1年(1734)6月17日・83歳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』  ☆ 天和二年(1682)     ◯『好色一代男』巻七 井原西鶴作・天和二年刊   (「末社のらく遊び」)   〝世につれて次第に奢がつきて、人の見しる程の大臣は、肌着に隠し緋無垢、(以下、帯・羽織・脇差・    印籠・巾着の記述あり)唐木細工の根付、扇も十二本祐善浮世絵(うきよゑ)、こぎくの鼻紙、運斎    織の袋足袋、大草履取に笠杖もたせて、名ある太鼓のつくこそ、くらがりにても御女郎買としるぞかし〟    〈祐善は京都の絵師宮崎友禅とされる〉      ☆ 元禄五年(1691)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄五年刊)    宮崎友禅画『物あらかひ』半紙本一巻 洛陽産扶桑扇工 友禅画之 尾嶋七左衛門板     ☆ 元禄十一年     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄十一年刊)    宮崎友禅画『新女哥仙』半紙本一巻 画工不記名 友禅風 利倉屋喜兵衛板     ☆ 宝永四年(1707)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝永四年刊)    宮崎友禅画『梶の葉』三巻「洛陽画工 友禅子図之」序「武陵遊士◎鳴子」     ☆ 享保十九年(1734)     ◯『本朝世事談綺』〔大成Ⅱ〕⑫436 菊岡沾凉著・享保十九年刊   〝友泉染    友泉は絵師なり。かれが書く所を模(ウツ)して染たるなり。尤も墨絵にて書きたるも有。友泉は祇園町に    住ス〟      ☆ 刊年不明    ◯「日本古典籍総合目録」(刊年不明)   ◇絵本・絵画    宮崎友禅画『和歌笑眉草』三冊 友禅画(注記「元禄五版」)    ☆ 没後資料    ☆ 天明年間(1781~1788)    ◯『俗耳鼓吹』〔南畝〕⑩31 惰農子(大田南畝)著   〝友泉染といふあり。友泉は絵師也、かれが書(カク)所をうつして染たる也、尤墨絵にて書たるも有、友泉    は祇園町に住すと沾凉が世事談にみへたり、按ずるに、貞享板友泉ひながた【四巻あり】序に宮崎氏友    禅といふ人有て、絵にたくみなる事いふ斗なく、古風のいやしからぬをふくみて、今様の香車なる物ず    きにかなひとあり〟  ☆ 文政年間    ◯『麓の花』〔燕石〕⑥183 好問堂主人(山崎美成)著・文政二年(1819)成書   〝今世に行はるゝ染に、友禅ばりとて、草花などの彩色せるをいふ。昔よりの説に、友禅は絵師なり、か    れが書く所を写し染たるものなり。尤、墨絵にかきたるも有などいへり、されど、友禅染といへるは、    草花の類を丸くしたる也、そは「女重宝記」巻の一、染やうのことをいへる条に曰「中頃の吉長の小色    ぞめ、友禅の丸づくし」、「伊勢家雑記」の巻の二に曰「ゆふぜん染とて、竹を丸くし、或は梅が枝を    まどかにして、模様とするは、ゆふぜんとやらん申せし画師が書そめしを、衣服のもやうとして、ゆふ    ぜん染と申なり」これこの文にて、友禅の丸もやうなることをしるべし、貞享四年の印本「女用訓蒙図    彙」巻の四に、丸もやうくさ/\を載たり、そのかみ行れたるを見るべし〟     ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝友禅 平安の人、其姓名詳ならず,其画風洒落にして比肩するものなし。今世染家にて友禅染と称する    ものあり、其画名高かりし事これ等にても如るべし。某氏の珍蔵に鼠の娵入の図あり、最奇絶の細画な    り、先其位地は一紙の上に大松樹を写し、傍倉庫の屋根計りを松樹の間に見せ、其牕中よりの行列なり、    其鼠の趣異にして分明なり、実に奇と称すべし。友禅は宝永年中の人〟     ☆ 安政二年(1855)    ◯『古今墨蹟鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④211(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   〝友禅【姓氏詳ナラズ、設色ノ画ヲ善セリ】〟〔印章〕「友禅」・「応物写形」  ☆ 明治十三年(1881)    ◯『観古美術会出品目録』第1-9号(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (観古美術会 第一回 4月1日~5月30日 上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十三年四月序)   〝宮崎友禅 菅公之像 友禅筆 一幅(出品者)篠原宗四郎〟  ☆ 明治十七年(1884)  ◯『扶桑画人伝』巻之四 古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝友禅    京師ノ人ナリ。染物ヲ業トス。後チ加州金沢ニ移住シテ、専ラ職業ヲ研究シ遂ニ一家ノ風ヲ興シテ友禅    染ト称誉ス。元ヨリ画ヲ工ミニシテ頗ル妙手ナリ。絹本ニ染物絵ヲ写シテ其精密ナルコト他人ノ及ブ所    ニ非ズ。元禄年中ノ人。明治十六年迄凡百九十六年〟  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループを代表する絵師   〝雅俗遊戯錯雑序位混淆    (岩佐又兵衛)小川破笠 友禅山人 浮世又平 雛屋立甫 俵屋宗理 耳鳥斎 英一蝶 鳥山名(ママ)燕     縫箔師珉江  ☆ 明治二十二年(1889)    ◯『近古浮世絵師小伝便覧』谷口正太郎著・明治二十二年刊   〝元禄 友禅    京都祇園町に住す、常に染物の下絵を業とせり、是を友禅染と称す、後加賀金沢に移り、専ら絹地に染    込を製し、是に挿画して諸方に弘む。故に加賀染とも称す。後友禅なるあり、二世を次し人か、画風相    同じ〟    ☆ 明治二十四年(1891)  ◯『近世画史』巻四 細川潤次郎著・出版 明治二十四年六月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (原文は返り点のみの漢文。書き下し文は本HPのもの。(文字)は本HPの読みや意味。茶文字は判読できなかった箇所)   〝友禅 本(もと)京師の染花の匠なり。又善く扇を造る。自署して扶桑の扇工と曰ふ。友禅此に因りて画    を工む。傅彩(ふさい)妍麗たり。後ち加賀金沢に遷る。一種の染法を創り、画家の着色の如くして、艶    美之に過ぐ。人称して友禅染と為す。不知友禅移画法以為染法乎、抑亦移染法以為画法。按ずるに宋時、    趙昌写生するに筆墨に由らず各色を染成す。友禅の染法と相類似す。未だ審(つまび)らかならず、友禅    亦た此等の事有るを知りて之を為すや否やを。蓋(けだ)し宝永元禄間の人なり〟  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p9 樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊   〝友禅    京師ノ人ニテ有名ノ染工ナリ、後ニ加州金沢ニ住ス、職業ヲ研究シテ遂ニ一家風ヲ興ス、所謂友禅染是    ナリ、又画ニ工ミナリ、絹本ニ染物絵ヲ写シテ、其精密ノ巧妙ナル、他人ノ及ブ処ニ非ズ、元禄中ノ人、    或ハ云フ、友禅ハ染工ニアラズ画僧ナリト、専ラ扇面ニ花草等ヲ画キテ、世ノ求メニ応ズ、婦女喜テ其    扇ヲ用フ、故ニ染工其画ヲ請ヒテ、以テ摸範トナシ一種ノ染法ヲ発明セリ、是レ友禅染ノ名アル所以也    ト、両説未ダ孰レカ是ナラヲ知ズ〟  ☆ 明治二十六年(1893)      ◯ 日本美術協会美術展覧会〔10月1日~10月31日 上野公園桜ヶ岡〕   『明治廿六年秋季美術展覧会出品目録』上下 志村政則編 明治26年10月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝宮崎友禅     福女図 一幅(出品者)三島佐次右衛門     扇面  一幅(出品者)小津与右衛門〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(23/103コマ)   〝宮崎友禅【宝永元~七年 1704-1710】    一に友禅斎、京都の人、祇園の社頭に住みて、扇面または畳紙に画き、衣服の上絵をも画けり、それ彩    色を施し、水中に浸して洗ふとも、更に色の褪ることなし、世人これを友禅模様と呼びて、貴賤の男女    争ひ求めぬ、是に於いて友禅染の名あり、一説に友禅は染工にて、後ち加州金沢に移り住に、専ら職業    を研究して、遂に一家を興したりといふ(本伝は『浮世絵編年史』『扶桑画人伝』等に拠る)〟  ☆ 明治三十二年(1899)     ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門 青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)18/218コマ   〝友禅     京師の人なり 後加賀金沢に移る 画を巧にして名手と称せらる 此人友禅染を製出す 元禄年中の人    なり(扶桑画人伝)〟  ◯『浮世画人伝』p35(関根黙庵著・明治三十二五月刊)   〝 友禅斎(ルビいうぜんさい)    友禅斎は姓氏詳(ツマビラカ)ならず、京都某院の僧にして光琳の画風を学び、設色に妙と得、後年一格を出    せり。落欵には鳳城東(ホウジョウトウ)友禅斎の号を用ひたり。蓋(*ケダ)し京都鴨川の東仁王門通に住みたれ    ばなるべし。世に伝ふるところに拠れば、京染と称する美麗なる模様を染出すことを工夫せしは、友禅    なり、故にまた友禅染とも称す。遊仙染と書くは誤なり。又友禅、鴨東に住みしをもて、加茂川染とも    呼べり、女用鑑に曰く、爰に友禅と云ふ浮世絵法師あり、一流を扇に書(カキ)出(イダ)せしかば、貴賤の    男女喜悦の眉うるはしく、丹花(タンカ)の唇をほころばせり、是によりて衣服のひな形を作りて、呉服師    に与へしと。友禅は法師なれば、扇亦畳紙などには書きもすべし、衣服の上絵まで物せしとはいかにぞ    や。衣服の上絵は友禅自ら画きしにはあらずして、何ものか友禅の画の設色(セッショク)美麗にして、意匠    の巧妙なるよりそをまねて、衣服の上絵に画き、友禅模様と名付しはあらざる歟。扨(*サテ)又女用鑑に、    花の丸(マル)尽(ヅクシ)しの模様を友禅染といふとあり、松葉集古今(ココン)ぶしに、いなり参りの振袖ゆか    し、ゆふぜんもやうでそんれはへ云々とあり、又西鶴(セイカク)の『胸算用』の中に、今は世間に皆紋どこ    ろを葉つきの牡丹と、四つ銀杏の丸、女中がたのはやりもの云々、これ等にて、其当時、友禅染の流行    せし様を概想(ガイソウ)すべし。演劇にて揚巻助六の衣裳の紋も、葉つきの牡丹と四つ銀杏の丸なり、今    かゞ紋と云ふはこの名残ならん。偖(*サテ)友禅斎は其生死の年月も亦詳ならず。兎(ト)に角(カク)一種の    画風を案出して、浮世絵伝記中一種の花を添へたり。宝永三年発行せし梶女の『可知能葉』の挿画は友    禅斎の筆なりと云ふ〟     ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』帝国博物館編 農商務省 明治三十四年七月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)※半角カッコ( ~ )は本HPが施した補記   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(167/225コマ)    友禅    京都の人なり。祇園町に住す。浮世絵に巧みにして、古風の雅趣を取りて今様の新致を写し、自ら一派    を成せり。或は扇面に或は畳紙(たとうがみ)、或は衣服に画き、或は墨画を以てし、或は彩色を施すも    のありて、之れを水に浸し洗ふも彩色の剥落すること無し。世之れを友禅模様と称して、都鄙遠近を論    ぜず、貴賤男女を問はず、争ひ求むるに至れり。是に於て染工等友禅の画を得、又は其の画を写して之    れを染出し、竟に友禅染の名あるに至れり。天和より宝永間の人なり〟  ◯『浮世絵の諸派』上下(原栄 弘学館書店 大正五年(1916)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(上70/110コマ)   〝宮崎友禅    京都の人で、衣服に墨絵や彩色絵をかくが、水に浸して洗うても落ちぬから、大に世にもてはやされ、    後にはこれを染出して、友禅染めと名づけたといふことである。(『扶桑画人伝』か『浮世絵編年史』    摘録)又友禅は京都某院の僧で、姓氏不明の人であるが、光琳の画風を学び、設色に妙を得て一格を    出した。彼の友禅染はこの人の工夫したものとか、或は衣服の上絵をかいたとか世にいうて居るけれ    ども、友禅の画が設色美麗で意匠巧妙であるから、それをまねて衣服の上絵にかき、友禅模様と名付    けたのではあるまいか。兎に角一種の画風を案出して浮世絵師伝記中一種の花を添へたものである。    (『浮世画人伝』抄録)    又『此花』第四枝には「友禅ひいながた」の巻末に「夕尽斎日置清親図之」とある日置清親は宮崎友    禅の異名で『都絵馬鑑』所載京都祇園社掛額「村山座狂言図」に「月直清親筆」とあるも同人であら    う。そして友禅は扇工で染工をも兼ねて居たらしいなどゝ論じてある〟  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇村越庄左衛門所蔵     宮崎友禅    「鵜飼舟図」絹本墨画 巾一尺五寸/「六歌仙図」絹本着色 横物 巾二尺    「下絵模様松竹梅絞り雲取り」紙本着色 巾一尺三寸  ☆ 昭和以降(1926~)  ◯『狂歌人名辞書』p15 狩野快庵編・昭和三年(1828)刊   〝宮崎友禅、元と加賀の産、京都に来り始めて絹帛に丹青を染着するの法を創む、所謂友禅染是なり、別    に設色の法に長じ、花鳥の画に巧みなり、享保頃の人〟     ◯『浮世絵師伝』p203 井上和雄著・昭和六年(1931)刊   〝友禅    【生】承応三年(1654)  【歿】元文元年(1736)六月-八十三    【画系】         【作画期】元禄~宝永    宮崎氏、一に日置氏、加賀金沢の人なるが、加賀染の法を習得して京都に赴き、東山智恩院門前に住し、    衣裳図案を画くの傍ら扇工を兼ねたり、世に伝ふる所の友禅染なるものは、実に彼によつて大成せられ    しなりと云ふ。其の著『余情雛形』(元禄五年版)の外に、挿画本『鵬羽掻』(元禄四年版)・『和歌    物あらかひ』(元禄五年版)・『梶の葉』(宝永四年版)等あり。晩年に故郷金沢に帰り、彼の地にて    歿せり。彼の生歿地及び歿年に就ては、近年に至り世人彼の偉績を慕ひて調査研究を進め、金沢卯辰山    麓上小川町龍国寺に過去帳、墓碑等を発見し、或は俳書『花の屑』に拠て、歿時も稍や明瞭と成りしも、    文学博士笹川臨風氏は全然其等の説を否定されたり。彼の伝記には尚ほ研究を要すべき点多し。たゞ、    天和二年版の『好色一代男』には既に友禅扇の流行せる旨記載あり、貞享五年版の『友禅雛形』は友尽    斎の画なるも、(友尽斎の頃參照)友禅に学びて此雛形を作りし事、序文に記せるを見ても、天和・貞    享年間には既に社会に認められ、且つ相当の年輩なりし事を想像するに難からず〟     ◯『浮世絵年表』漆山天童著・昭和九年(1934)刊   ◇「元禄五年 壬申」(1692)p53   〝此頃より友禅染始まれりといふ。    正月、宮崎友禅の画ける『余情ひなかた』出版〟      ◇「宝永四年 丁亥」(1707)p65   〝正月、友禅の画ける『梶の葉』(祇園梶子の家集なり)出版〟      ◇「正徳元年(五月七日改元)辛卯」(1711) p68   〝此年、宮崎友禅歿せりといふ。(友禅は染工にあらず、扇工なり)〟     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔宮崎友禅画版本〕    作品数:3点    画号他:宮崎友禅・友禅子・友禅    分 類:絵本1・歌集1・染織1    成立年:宝永4年(1点)        元禄5年(1点)