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☆ ゆきまろ(ゆきまる) ぼくせんてい 墨川亭 雪麿浮世絵師名一覧
〔寛政9年(1797) ~ 安政3年(1856)12月5日・60歳〕
  〈「ゆきまる」「ゆきまろ」の読みについて〉   「墨川亭雪麻呂」:『弘智法印岩坂松』署名 山本板 文政五年   「雪麻呂」   :『笠松峠雨夜菅簑』表紙署名 文政九年   「雪まろ」   :『逢見茶娵入小袖』見返し「雪まろ作」文政十一年   「雪麻呂」「雪まろ」:『七種薺物語』前編見返し「雪麻呂」後編見返し「雪まろ」文政十二年   「ゆきまる」  :『風流列女伝』初編下 見返し「ゆきまるさく」文政十二年   「ゆきまろ」  :『紅粉画売昔風俗』上 見返し「墨川亭ゆきまろ作」文政十二年   「梅麻呂(うめまろ)」:『野夫鶯訛之投節』(墨春亭梅麿作・天保四年刊)の雪麿序。雪麿は弟子の梅麿に「うめまろ」のル     ビをふっているから、雪麿も当然「ゆきまろ」なのであろう   「雪丸」「雪麿」:『也字結恋之弶天(やのじむすびこいのわなてん)』(渓斎英泉画・墨川亭雪麿作・天保七年刊)の巻     末に作者雪麿と画工英泉との面談場面があり、雪麿の肖像に「雪丸」の名札が付いている   〈雪麿の読みは「ゆきまる」でも「ゆきまろ」でも、無頓着だったか〉  ☆ 文化十年(1813)    ◯『戯作六家撰』〔燕石〕②84(岩本活東子編・安政三年成立)   (「十返舎一九」の項目)   〝文化十癸酉年、予(本HP注、雪麿)稗史通と標題して、戯作者、浮世画師の小伝、并に印譜、自筆の    模(ウツシ)なんど書集めて、二巻となし、人に見すべき心もなく秘置しが、ある日、吾師墨亭月麿に密に    見せしを、先醒笑て曰、足下素人の上にしては能くこそ書集られたれ、誤れる事多けれども、そはその    筈也とて、辺近く住たる長亭五菜をまねきて、拙著をもてさし示さるゝに、長亭感じること甚しく、一    覧の上、其身の小伝なる印譜の所へ、所蔵の印をこと/\く押などせり、それより彼方こなたと人手に    伝へ/\て、式亭をはじめ、或は筆耕晋米なども一覧するに至りて、終に十返舎もかの拙著を披閲せり    とぞ(本HP注、これが翌年の雪麿と一九の不和の原因となる、翌十一年記事参照。中略)彼の稗史通    二巻は、墨亭に置けるを、師より奥の八戸侯の御隠居畔李君へ奉れり、これ復び右のごとき障れる事    (本HP注、前述の不和)のあらんことをおもひて也〟    〈この「稗史通」(文化一〇年成立)は石塚豊芥子の『戯作者撰集』(天保末年~弘化初年成立)に収録され、それが     また岩本活東子編の『戯作者小伝』『戯作六家撰』(共に安政三年の成立)に流用されている。いわば「稗史通」は     戯作者評伝の濫觴である。(この間の経緯については広瀬朝光著『戯作文芸論-研究と資料』(昭和五七年刊)所収     「戯作者伝記・書目再考説」が詳しい)さて、墨亭月麿に預けておいた『稗史通』は、その後、陸奥八戸藩の隠居・     畔李(南部七代藩主・南部信房)に進呈されたとある。しかし、その後の行衛はどうなったのであろう。今なお原本     は見つかっていないようである〉    ☆ 文化十一年(1814)   ◯『戯作六家撰』〔燕石〕②84(岩本活東子編・安政三年成立)   〝(本HP注、文化十一年春、墨亭月麿の書画会が行われた時、同席した十返舎一九が、『稗史通』の自    分に関する小伝中に、寺の門番をしていたという浮説を書いたのはけしからんと、著者・雪麿に抗議し、    二人は不和になる)三五日を隔て、予(本HP注、雪麿)が同門式麿が書画の会ありければ、此日たが    ひに出席して和睦をすることよからめと、式麿らがはからひにて(中略)和睦の盃をめぐらして、終に    に波風は納りぬ〟    〈不和の発端は、一九が記事の取材源を明らかにせよと雪麿に迫った時、雪麿が相手の迷惑になるのを案じて「ただ世     の浮説を聞たるまゝに書たり」と答えたことにあった。根も葉もない浮説を広められては生業の妨げになると、一九     は抗議したのである〉    ☆ 文政十年(1827)    ◯『滝沢家訪問往来人名録』下p117(曲亭馬琴記・文政十年十月十一日)   〝丁亥(文政十年)十月十一日初入来英泉紹介 榊原遠江守殿家臣湯嶋七軒町(上)中やしきに在り 雪麿    事 田中源治〟
  (貼紙)   〝口上 雪麿    先達而画工英泉御宅ぇ罷出候節 御話申上候志賀随翁の手紙為御一覧持参仕候 己(ママ)上〟
  (貼紙・馬琴筆)   〝随翁手帋伝来 牧野新左衛門ひまご 當時 牧野新介    同 持主ハ 岡嶋但見    榊原遠江守殿家臣 雪丸事 田中源治〟    〈雪麿の読みを「ゆきまる」とする根拠は馬琴のこの記事及び下出の日記、そして天保六年の項にある『也字結恋之弶     天』という合巻の挿絵にある〉     ◯「文政十年丁亥日記」①217 文政十年十一月十一日(『馬琴日記』第一巻)   〝雪麿事田中源治来ル。先達而、英泉より、志賀随翁真跡所持之人有之、同藩雪麿ト申者持参、入御覧度    旨、私迄頼候間、罷出候ハヾ、御逢被下候様申上候ニ付、今日逢有之〟    〈雪麿は戯作名墨川亭雪麿。雪麿が持参した「志賀随翁真跡」の随翁は、大田南畝の『一話一言』巻四十九に〝春毎に     松のみどりの数そひて千代の末葉のかぎりしられず 藤恕軒志賀氏随応行年百有余歳〝と書き留められた長寿で有名     な人であった〉    ☆ 文政十一年(1828)     ◯「文政十一年戊子日記」①384 八月廿六日(『馬琴日記』第一巻)   〝榊原殿内、田中源治事、雪丸来ル。予、対面。右藩中の朋輩より、志賀瑞翁之神書巻物見せらる。此義、    過日大郷金蔵より申来り、粗承知候処、右之写し珍らしく覚候間かりおく。右の報ひとして、志賀瑞翁    事迹再考之一編、記し遣す。長談数刻、帰去〟〈墨川亭雪麿記事である〉   ◯『兎園小説拾遺』〔大成Ⅱ〕⑤94(著作堂(曲亭馬琴)編・文政十一年記)   (「志賀随応神書」の項)   〝近ごろ越後高田侯の家臣田中源治〔割註 戯号雪麿〕てふ人、五六ひらの写本を懐にし来て、こは随応 が神書のうつし巻也。同家臣岡島但馬といふもの、借得て写しとりたれば、翁に見せまゐらせよとてお こしたりといふ〟    ☆ 天保二年(1831)辛卯  ◯『五虎猛勇伝』三編 合巻(北尾重政画 墨川亭雪麿作 天保二年刊)   〝(序)文政十四年辛卯春新板 北越高田の僑居に於ゐて 墨川亭雪麿戯述〟    〈この序文を書いたのは文政十三年(天保元年)、当時は主君の国元の越後高田に滞在していた〉  ☆ 天保四年(1833)    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③303(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
   「喜多川歌麿系譜」〝(菊麿(月麿)門人)雪麿【画ヲ留メ作者トナル、名高シ】〟  ◯『馬琴日記』第三巻p342(天保四年三月十一日付)   〝田中源治事、雪丸来ル。是又病気に托して不面。少々問度よし有之旨申、帰去〟  ◯「国書データベース」(天保四年成稿)    墨川亭雪麿作『絵本仮名手本忠臣蔵』歌川国貞画 天保四年二月十五日雪麿序    表紙「天保四癸巳仲春 山本平吉板」(書誌:林若樹旧蔵 版下本)    〈明治42年「集古会」第72回出品目録、林若樹の「絵本仮名手本忠臣蔵稿本」がこれに当たる〉    ☆ 天保五年(1834)   △『近世物之本江戸作者部類』p63(曲亭馬琴著・天保五年成立)   〝越後高田侯(傍注、榊原李部)の家臣也、俗称を田中源治といふ、文政の初の比より臭草紙を綴りて印行    せらるゝもの多かり、初は世評よしと聞えしのみ、抜萃なるあたり作なし、しかれども疊々として已ま    ず、戯作を著すをもて楽しみとす、みづからいふ、幾十歳になりても童こゝろのうせざればや、冬毎に    自作の冊子の発兌せらるゝを待わびざる年はあらずといひけり、好むことの甚しければならん、うち見    は老実なる好人物にて俗気あり、書は読まぬ人なるべし〟      ◯『馬琴日記』第四巻 p225(天保五年十月十八日付)   〝榊原李部家臣田中源治事、雪丸来訪。予、対面。同藩牧野新右衛門、享保十三年七十算賀之時、志賀随    応歌かけ物携来て見せらる。右新右衛門孫某書付ニ、随翁年百七十餘と有之。しかれども、随応自筆ニ    ハ、百有餘歳としるす事、例のごとし。同人懇友梅丸、来訪願候よし、紹介致さる〟    〈墨川亭雪丸は文政十年、十一年に志賀随翁の書簡などを持参していたが、今度は古稀の祝の歌の掛け軸を持参した〉    ◯『馬琴書翰集成』⑥42 天保五年十月二十日 馬琴宛・墨川亭雪麻呂(第六巻・書翰番号-来42)   〝(上略)其節御約束仕候『志里宇ごと』三巻、為持上候。御噺申上候通、梅丸子蔵書に御座候間、随分    緩々を御留置、御一覧可成候。(下略)      神無月廿日       曲亭老先生          墨川亭雪麻呂    〈『志里宇ごと』は「皇朝学者妙々奇談」という角書きをもつ『しりうごと』(天保三年刊)。国学者への「しりうご     と(悪口・陰口)」を連ねたもので、平田篤胤、石川雅望、屋代弘賢などがやり玉にあがっている。『しりうごと』     をもたらした墨川亭雪麻呂とは、馬琴は文政十年に渓斎英泉の紹介で面会して以来、交渉があった。七月二十一日付、     殿村篠斎宛書簡(番号49)によると、前年春、雪麻呂は自作の読本『濡燕栖傘雨談』の序文を馬琴に依頼しに来訪     したことがあった。馬琴は他作に序文はしないという方針を伝え断っている。『濡燕栖傘雨談』は二代重信の画で天     保七年の刊行。梅丸なる人は未詳〉  ☆ 天保六年(1835)    ◯『【銀鶏一睡】南柯廼夢』〔大成Ⅱ〕⑳358(平亭主人(畑銀鶏)著・天保六年刊)   (「連月廿五日於平亭書画会諸先生入来之図」毎月廿五日、畑銀鶏主催の書画会に参加した人々の図)   〝岩井紫若・市川白猿・文雪先醒・可中先醒・歌川国直・歌川国平・梅月先醒・令裁先醒・立兆先醒・松 嵐先醒・花笠魯助・鐵鶏・轍外先醒・雲渓先生・豊明先醒・抱儀先生・稼堂先醒・焉馬先醒・雲山先生 ・鶏雨先醒〟   〝会主銀鶏・梅翁先醒・万年橋先生・折違親玉・琴台先生・山鳥先醒・竹谷先生・樸々先生・英泉大人〟   〝政徳先生・江山先生・櫟斎先醒・五山先生・四妍先生・大内先醒・薫烈先生・北峰先生・南溟先生・ (一字不明)斎先醒・方外先醒・杏所先生・城南先醒・常行軒先生・研斎先醒・五車亭大人・楽水先醒 ・緑陰先生・文雄先醒・雪麿大人・梅子先醒〟     ◯ 三月以降(合巻『也字結恋之弶天』下巻末・墨川亭雪麿作・渓斎英泉画・天保七年刊)   〝此本のさうかうなりしころハ、しのばずの弁天かいてう◎し/\にぎハひ給へるを、ぐわこう英泉がべ    つそうのたかどのよりのぞみ見たる事のあり、そのづをこの半丁のうめくさとし、ひさしぶりにてさく    しやとゑしのいけどりをお目にかけるハ、しつかい山下のくわてう茶屋のもゝんぢいにちがねへと、コ    レわるくちをいひつこなし、めでたい/\/\/\〟    (柱に「従渓斎楼上眺望不忍池」とあり)    〈『武江年表』によると、不忍池の弁財天の開帳は天保六年の三月十日から。英泉の二階建ての別荘は上野山下の界隈、     近くには珍しい鳥獣を見せる花鳥茶屋があったようだ。その縁から、作者と画工の自分たちを「もゝんぢい(珍獣)」     に見立てたのである。なお雪麿の像に「雪丸」とある。雪麿は「ゆきまる」と称したのであろう〉
    『也字結恋之弶天』 渓斎英泉画(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)    ☆ 天保七年(1836)    ◯『馬琴書翰集成』④130 天保七年正月六日 殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-34)   〝去秋中得貴意候、 雪丸『濡燕栖傘雨談』前後二編十巻、去秋中より稿本借り置、折々夜分、半冊づゝ    披閲いたし候処、とかく倦候故、四五十日にてやう/\閲し終り候。作者ほね折候様子ニハ候へ共、何    分あさまにて、驚奇の巻も無之候。殊ニ文字を使ふに苦労いたし候と見え、唐山の俗語の切り抜キ、拙    作のよミ本中よりとり出し抄録いたし、部わけでもいたし置候哉、俗語の字ハ悉く似せ候へども、その    内ニハ原書ニよらぬ抄録故、大ニ使ひざまの義理たがひ候事、間有之候。なれども、かねて存候より、    文字も少々はある仁ニて、春水の作抔よりはるかに立まさり、浅はかながら、好キ所も御座候。何分拙    序を看板ニ出され候事、難義ニ候間、度々辞し候へ共、免れがたく候間、前編の序、漢文ニて旧臘下旬、    急ニ綴り立、当月二日ニ丁子屋ぇ遣し候。本文ハ前後二編共彫刻出来、改も済候よしニ付、拙序彫刻出    来次第、近々うり出し可申候。二三月の頃ハ、御地へも本廻り可申候。尤難義の細工ニ候へども、丁子    やに口説れ、義理にからまれ、せんかたなく候〟    〈他人の作品には序跋の類を一切書こうとしなかった馬琴にしては、「八犬伝」の板元丁子屋の頼みには抗しきれなか     ったものと見える。とはいえ、作品の質が悪ければ、いくら板元の頼みとはいえ、断るくらいの気構えはあっただろ     うから、この雪麻呂の作品に、馬琴は及第点を与えのだろう。それにしても、馬琴の春水嫌いは徹底している。別に     雪麿との比較の為に春水の名を出さずともよさそうに思うのだが……〉      ◯ 天保七年(1836)正月六日 小津桂窓宛(第四巻・書翰番号-36)④143   〝雪麻呂『濡燕栖傘雨談』前後二編十巻、右稿本を、去秋中丁子屋よりかりよせ、夜々休筆の折、四五    丁づゝ披閲いたし候故、意外ニ長く成、旧冬十一月中、やう/\よみをハり候。作者ほね折候様子ニ見    え候得ども、何分あさまにて、目に付候新奇無之候。唐山の俗字を使ふに、ことの外苦心いたし候と見    えて、唐山俗字ハ、みな拙作のよミ本中よりきりぬき候と見え候。そが中に、原書に渉らぬ抄録故、い    たく義理のちがふ事ありて、きのどくニ候。なれども、かねて存候より、文字も少々ハある仁ニて、春    水などよりはるかに立まさり、まれにはよき事も候。是に序文をかゝせらるゝ事、何分難儀に候へども、    丁子屋に義理合有之、竟にのがれがたく、旧冬大晦日前ニ、前編の序ヲ急ニ綴り、当正月二日ニ遣し候。    本文ハ前後二編とも、彫刻出来のよしニ付、拙序の彫刻出来候ハヾ、近々うり出し可申候。後編の序も、    引つゞき綴り可申候。二三月比ハ、御地へも本廻り可申候。出候ハヾ、かりて可被成御覧候。御求め被    成候ほどの物ニハ無之候〟    ◯『馬琴書翰集成』④221 天保七年八月十四日 馬琴、古稀の賀会、於両国万八楼   (参加者。天保七年十月二十六日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-65)④221参照)   〝◯戯作者     柳亭種彦  烏亭焉馬  墨川亭雪麻呂  同梅麻呂     東里山人  為永春水  山東京山【父子ともに湯治の留守ニて不出席】      この外、名の高からざるハ略之〟  ◯「大江都名物流行競 二編」(番付 金湧堂 天保八、九年頃刊)   (早稲田大学図書館 古典籍総合データベース「ちり籠」所収)   〈この番付に刊記はないが、番付が記載する版本や渡辺崋山の記事などから蛮社の獄(天保10年)以前の天保8-9年頃と考    えられる〉   〝文雅遊客    合巻 ウシコメ 墨川亭雪麿/密画 ◎◎丁 哥川国直〟    〈雪麿は合巻作者としての評価、対する国直、当時は人情本の挿絵を数多く担当していたから、版本の挿絵という意味     で「密画」という言葉を配したか。ただなぜ雪麿と国直とが一対なのか判然としない〉    ☆ 天保年間(1830-1844)  ◯「江戸自慢 文人五大力」(番付 天保期)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝出藍面獠牙 戯作    山東京山 文亭綾継 岡山鳥 東里鼻山 墨川雪麿〟  ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
   「喜多川歌麿系譜」(菊麿(月麿)門人)    〝雪麿 画を止め作者となる。    (月岑按るに、歌麿門人行麿あり、雪麿は其人か、別人歟)〟    ☆ 弘化三年(1846)  ◯「古今流行名人鏡」(番付 雪仙堂 弘化三年秋刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (東 五段目)   〝戯作 カヤ丁 花笠文京   戯作 トシマ丁  松亭金水   凧絵  ギンザ 歌川国次    戯作 シタヤ  墨川亭雪麻呂 定店 カミナリ門 とんだりはねたり替たり(ほか略)〟  ☆ 嘉永元年(1818)       ◯『名聞面赤本(なをきけばかおもあかほん)』一冊 渓斎英泉画 英魯文作〔目録DB〕    〈野崎左文の「仮名垣魯文伝」によると、この摺本は英魯文(後の仮名垣魯文)の戯号披露の摺物で、本来は嘉永元     年(1848)の頒布を予定していたが、資力不足で延引、刊行は同二年の春の由。(明治28年2月刊『早稲田文学』81     号所収)したがって弘化四年(1847)の詠と思われる〉   〝墨川亭雪麿 手入してやがて美事に咲せなん作りおぼえし梅の花笠〟      〈浮世絵師で歌と句を寄せた人々は以下の通り〉    柳川重信・葵岡北渓・一筆庵英泉・朝桜楼国芳・墨川亭雪麿・為一百翁(北斎)・香蝶楼豊国    ☆ 嘉永二年(1849)    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』p157   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 手入れして頓(ヤガ)て見事に咲かせなん作り覚えし梅のはな笠         墨川亭雪麿    魯曰、越後高田の藩主榊原侯の家士(カシ)にして通称田中善三郎名は親敬(チカヨシ)、画を墨亭(ボクテイ)月麿    (ツキマロ)に学びて雪麿(ユキマロ)と号し、戯作は独立にて草双紙数種を編めり、歿年を知らず。〔追補〕雪    麿は安政三辰年十二月五日歿す享年六十、白金台町妙園寺に葬る〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している。〔追補〕は野崎左文が後年追考補注したもの〉    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『【現存雷名】江戸文人寿命付』初編 ②351(畑銀雞編・嘉永三年刊)   〝田中雪麿 戯作 近頃の当りは君が濡燕京馬の上に出る文法 極上々吉 寿八百年 下谷無縁坂〟   ◯『戯作者小伝』〔燕石〕②52(岩本活東子編・安政三年成立) 〝雪麻呂    墨水亭と号す、高田侯藩中にて、通称田中善三郎といふ、墨亭月麿が門に入て画を学び、後戯作者とな    れり、作風は柳亭に似たり〟   ◯『戯作六家撰』〔燕石〕②84(岩本活東子編・安政三年成立)   〝文化十癸酉年、予(筆者注、雪麿)稗史通と標題して、戯作者、浮世画師の小伝、并に印譜、自筆の模    なんど書集めて、二巻となし、人に見すべき心もなく秘置しが、ある日、吾師墨亭月麿に密に見せしを、    先醒笑曰、足下素人の上にしては能くこそ書集られたれ、誤れる事多けれども、そはその筈也とて、辺    近く住たる長亭五菜をまねきて、拙著をもてさし示さるゝに、一覧の上、其身の小伝なる印譜の所へ、    所蔵の印をこと/\く押などせり、それより彼方こなたと人手に伝へ/\て、式亭をはじめ、或は筆耕    晋米なども一覧するに至りて、終に十返舎もかの拙著を披閲せりとぞ、    (中略、翌文化十一年春、墨亭月麿の書画会、若菜楼上にありし時、同席の十返舎一九、『稗史通』の     自分に関する浮説を記事にしたとして著者雪麿と不和になる)    三五日を隔て、予が同門式麿が書画の会ありければ、此日たがひに出席して和睦をすることよからめと、    式麿らがはからひにて、(中略)和睦の盃をめぐらして、尾張に波風は納りぬ、彼の稗史通二巻は、墨    亭を置けるを、師より置くの八戸侯の御隠居畔李君へ奉れり、これ復び右のごとき障れる事のあらんこ    とをおもひて也〟    〈この「稗史通」(文化一〇年成立)は石塚豊芥子の『戯作者撰集』(天保末年~弘化初年成立)に収録され、それが     また岩本活東子編の『戯作者小伝』『戯作六家撰』(共に安政三年の成立)に流用されている。いわば「稗史通」は     戯作者評伝の濫觴である。なお「稗史通」の原本は見つかっていない由。この間の経緯については広瀬朝光著『戯作     文芸論-研究と資料』(昭和五七年刊)所収「戯作者伝記・書目再考説」が詳しい〉    ☆ 嘉永五年(1851)    ◯『翫雀追善はなし鳥』(狂歌本)一勇斎国芳・隣春・豊国・清満画 琴通舎編・嘉永五年刊〔国文研・目録DB画像〕   〝墨川亭雪麿 笛による雀この世をかりがねのさをにつられておつるはかなさ〟    〈初代中村翫雀(四代目中村歌右衛門)追善狂歌集。嘉永五年二月十七日没〉  ☆ 安政三年(1856)(十二月五日没・六十歳)    ☆ 没後資料    ☆ 安政四年(1857)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安政四年刊)    雪麿画『略画手引草』一冊 雪麿画 文江堂板    〈〔国文研・目録DB〕に『略画手引草』は見あたらない〉    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
   「鳥山石燕系譜」〝(菊麿門人)雪麿 画ヲ止メテ作者トナル〟    ◯『浮世絵師便覧』p233(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝雪麿(マロ) 喜多川、◯月麿門人、◯天保〟    ◯『名人忌辰録』上巻p12(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝黒川亭雪麿 敬丹舎    越後高田の人、通称田中善三郎。墨川亭月麿の門に入り画を学ぶ、後戯作を兼たり。安政三辰年十二月    五日歿ず、歳六十。白金台町九丁目妙縁寺に葬る〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』「三世豊国伝」p131(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   〝墨川亭雪麿は、越後高田の藩士にして、田中氏、俗称喜三郎一に源治、かの戯作者撰集、即(スナワチ)戯作    者略伝の著者なり。作者部類雪麿の條に、越後高田侯の家臣なり。俗称は田中源氏という。文政の初め    頃より草そう紙を綴りて、印形せらるるもの多かり。初は世評よしと聞えしのみ。抜萃なるあたり作は    なし。然れども累々としてやまず。戯作を著すをもて楽とす。自らいう幾十歳になりても、童心のうせ    ざるにや、冬毎に自作の冊子を発兌するを待わびざる年はあらずと。好むことの甚だしければならん。    打見には老実なる好人物にて、俗気あり、書はよくよまぬ人なるべし〟     ◇「安政三年 丙辰」(1856) p235   〝十二月五日、墨川亭雪麿歿す。行年六十。戯作者なれども月麿に浮世絵を学べり〟     ◯『浮世絵備考』梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(74/103コマ)   〝喜多川雪麿【天保元~十四年 1830-1843】    通称田中善三郎、墨川亭、敬丹舎等の号あり、越後高田の藩士なり、墨亭月麿の門に入りて画を学び、    後に戯作者となりぬ、安政三年十二月五日没す、享年六十歳〟  ◯『浮世画人伝』p69(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)   (「喜多川歌麿系譜」より)   〝雪麿    菊麿門人、後ニ画ヲ廃シテ小説作者ト成ル、墨川亭雪麿是ナリ。安政三年十二月五日没、歳六十、白銀    台町、妙縁寺ニ葬〟
   「喜多川歌麿系譜」    ◯「集古会」第七十二回 明治四十二年(1909)三月 於青柳亭(『集古会誌』己酉巻三 明治42年9月刊)   〝林若樹(出品者)墨川亭雪麿作 絵本仮名手本忠臣蔵稿本 合一冊〟〈天保4年参照〉  ◯『狂歌人名辞書』p241(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝墨川亭雪麿、通称田中善三郎、名は親敬、字は虞徳、越後高田薄土、東都に来りて草双紙を作り、又狂    歌を真顏に学ぶ、安政三年十二月五日歿す、年六十、白金妙園寺に葬る〟    ◯「日本小説作家人名辞書」p829(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   〝墨川亭雪麿    通称田中善三郎、名は親敬、字は虞徳、墨川亭雪麿、敬丹舎と号す。越後高田の藩臣で江戸に住む。画    を喜多川菊麿に、著作を柳亭種彦に、狂歌を真顔に学ぶ。「寛政九年巳年生、安政三年十二月五日歿、    年六十。白金妙園寺に葬る〟    ◯『浮世絵師伝』p204(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝雪麿    【生】寛政九年(1797)  【歿】安政三年(1856)十二月五日-六十    【画系】月麿門人     【作画期】文化末~天保    田中氏、名は親敬、字は虞徳、俗称善三郎、墨川亭と号す、高田藩士にして、天保年間には江戸池之端    武縁坂に住しき。初め喜多川月麿に画を学びて、文化の末頃より錦絵美人画の作あり、然れども幾ばく    もなく版画の作を廃し、或は肉筆画、若しくは雑書の挿画などに筆を揮ひ、凡そ天保半ば頃まで、若干    の作例を示したり。其の外、狂歌を眞顔に学び、戯作は種彦の影響を受け、文政天保年間に亘りて草双    紙数種を発表せり。墓所は白金台町妙円寺なりと云ふ。因みに彼と喜多川行麿とは全然別人なり〟  ◯『集古』戊寅第五号 昭和十三年十一月刊)   〝林若樹所蔵の草稿    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)     作品数:71点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    戯作名:雪丸・墨川亭雪麿・墨川亭雪丸    分 類:合巻65・読本2・人情本2・伝記1    成立年:文政5~14年(35点)(文政年間合計36点)        天保1~13年(29点)弘化2~3年(1点)嘉永2~5年(4点)    〈作画はなく、全て戯作。伝記とあるのは『戯作者小伝』〉   (墨川亭雪丸名の作品)    作品数:6    画号他:墨川亭雪丸    分 類:合巻6    成立年:文政9~10・12・14年序(4点)天保2・4~5年(3点)