☆ 天保四年(1833)
◯『無名翁随筆』〔燕石〕(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
◇「堤等琳」の項 ③319 ※ 半角( )のかなは本HPの読み
〝雪舟流の町画工を興せしは、元祖等琳を以て祖とす、安永、天明の比より、此画風市中に行れて、幟画、
祭礼の絵灯籠は、此画風をよしとす、当時の等琳は、画風、筆力勝れて、妙手なり、摺物・団扇・交張
の板刻あり、仍て此に列す、筆の達者、尋常の板刻画師と時を同して論じがたし、浅草寺に韓信の額あ
り秋月と云し比、三代目等琳に改名せし時の筆なり、今猶存す、雪舟の画法には不似(にず)異(ことな
れ)りといへども、彩色、骨法、一派の筆力を以て、三代ともに名高し、画く所の筆意、墨色の濃淡、
絶妙比類なき画法なり、末(だ)、京、大坂に此画風を学ぶものなし、門人あまたあり、絵馬屋職人、幟
画職人、提灯屋職人、総て画を用る職分の者、皆此門人となりて画法を学ぶ者多し、門人深遠幽微の画
法を得てせず、筆の達者を見せんとして、師の筆意の妙処を失ふ者多く、其流儀を乱せり、世に此画法
をのみ、町絵と賤めて、職画と云は嘆かはしき事なり、雪山は貝細工等種々の奇巧を造りて見物させし
事有、【大坂下り中川五兵衛、籠細工ノ後ナリ】諸堂社の彩色も、多く此人の請負にて出来せし所有、
【堀ノ内妙法寺、ドブ店祖師堂、玉姫稲荷、其他多ク見ユ】近世の一豪傑なり〟
〈堤派は、絵馬あるいは祭礼・開帳を彩る幟絵・燈籠、提灯絵の作画、また堂宇社殿の彩色など、主に野外の装飾を専ら
請け負っていたらしい。他に摺物、団扇、交張画などの版画も手がけたようだが、本業はあくまで寺社のイベントに供
する肉筆の作画が中心であった。上掲『無名翁随筆』に「末(だ)、京、大坂に此画風を学ぶものなし」とある。英泉に
してみると、堤派のような画風は江戸ならではのものということになるらしい。ただこの流派の末裔が流儀を乱して画
格を失ってしまうと、嘆かわしいことに、世の人々がこの流派だけを町絵と賤しめ、職画呼ばわりするようになってし
まった、と英泉はいうのである〉
☆ 明治二十年(I887)
◯『暁斎画談』河鍋洞都(暁斎)画 瓜生政和編 植竹新/岩本俊板 明治二十年刊
「外編 巻之二」(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝堤等琳【堤流元祖/俗称孫二 安永中】→ 二代目等琳【月岡氏/俗称吟二】→
堤孫二【雪峯ト号ス/俗称雉子定】→ 等舟【号霞山/画風ヲ改一派ノ名人】→
等川 → 二代目孫二【号雪丘】→ 守一 → 三代目等琳 → 秋琳【後勝川春扇ト改ム】→
等明 → 秋月 → 等栄 → 栄山【月岡氏】→ 等楊 →
幡羽【月岡氏俗称庄五郎/春川島雪ノ門ニ入ル】