Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ たんけい いのうえ 井上 探景浮世絵師名一覧
〔元治1年(1864) ~ 明治22年(1889)9月14日・26歳〕
 ☆ 明治十七年(1884)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十七年刊)    井上探景画『角觝秘事解』挿絵 井上探景 松木平吉 松寿堂(6月)    ☆ 明治十九年(1886)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」明治十九年刊(国立国会図書館)    井上探景画    『野晒於墨花の曙』 口絵・挿絵 井上探景 何誰今夢 鶴声社 (5月)    『芭蕉翁行脚怪談袋』口絵・挿絵 井上探景 広野仲助 三好守雄他(7月)    〈明治24年に再版本あり。口絵の署名「井上探景」〉  ☆ 明治二十年(1887)    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(国文学研究資料館・明治二十年刊)    探景画『欧洲小説黄薔薇』表紙 探景・口絵・挿絵 未詳 三遊亭円朝 金泉堂(4月)③    〈初版(4月刊)の表紙を新調〉    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    探景画    「学校技芸寿語録」 「探景画」松野米次郎 明治20年11月 ②    「リードル英語双録」「探景画」版元未詳  明治20年   ⑥    ◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕    探景画「小学運動図解」「探景画」三宅半四郎 明治20年4月 ⑤     <五月 スパーラ(ボクシング)ラスラ(レスリング)興行 京橋区木挽町>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「西洋角觝 取組ヲラスラ・突込ヲスパーラ」錦絵 探景画 版元未詳  ☆ 明治二十一年(1888)(九月十四日没 二十歳)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十一年刊)    探景画    『朧月夜』口絵のみ  探景 清親 痴嚢狂夫 真木幹之助(5月)     『蔦紅葉』口絵・挿絵 一寿斎国貞・表紙 井上探景 柳水亭種清 石橋増五郎(合巻1-3編 12月)    〈口絵・挿絵は安政4年刊の原作と同じ。表紙のみ「井上探景」画に替える〉    ◯「読売新聞」(明治22年9月17日付)   〝井上探景氏逝く 画工小林清親の門人にて出藍の誉ありし井上探景氏【二十年(ママ)】は去十四日病死せ    り〟    ☆ 没後資料  ☆ 明治二十四年(1891)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十四年刊)    探景画『芭蕉翁行脚怪談袋』口絵・挿絵・表紙 探景 編者不記載 今古堂(4月)    〈明治19年刊と本文・挿絵は同じ、口絵1葉から2葉になる。1葉は明治19年刊と同じだが、なぜか署名が「探景」のみで     「井上」は削除。表紙は新調だが署名はない〉  ☆ 明治二十六年(1893)    ◯『浮世絵師便覧』p217(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝探景(ケイ)清親門人、俗称安次郎、山水錦画、◯明治〟    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(88/103コマ)   〝井上探景【明治元年~三十年 1868-1898】通称安次郞、小林清親の門弟、錦絵を画く〟  ◯「集古会」第百七十四回 昭和五年一月(『集古』庚午第二号 昭和5年2月刊)   〝浅田澱橋(出品者)探景筆 錦絵 赤坂仮皇居太教官真景馬車往復図 三枚続〟  ◯『浮世絵師伝』p118(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝探景    【生】元治元年(1864)  【歿】明治廿二年(1889)九月十四日-二十六    【画系】清親門人     【作画期】明治    井上氏、名は安治、俗称安次郎、浅草区並本町に住す、彼は少年の頃より清親の画を見て心から慕つて    門弟となり、天才的の手腕を版元から認められ、処女作として(十七歳)浅草橋夕景、明治十三年福田    版にて、画面に記せし落款は井上安次、欄外の届出では小林清親と記載しあり、次で代官町・新吉原夜    桜景・枕橋の図・淺草橋雨中景・蛎殻町川岸の図・富士見渡し之図・銀座商店夜景・京橋観業場之景・    霊岸島高橋之景、以上明治十五年迄の作、京橋松田之景及び新富座景は明治十七年作、松田之景迄は井    上安治とし、新富座景より井上探景と落款せり。(口絵第七十一図参照)     尚三枚続の新吉原繁栄の図は自信ある作の由、其外中判及び四ツ切(小判)の東京真画名所図解は百三    十図以上、其内清親の大錦より縮小して類似せるものは約四分の一にて、彼の写生に基きたるもの最も    多し、彼の終作としては皇城二重橋・吾妻橋・新吉原夜桜の景等、二十一年四月、教導立志基(歴史画)    の内、二十二年四月届のものあり。彼の遺族は解らず、たゞ清親のスケッチブックに遺る面影は、青白    き髪の毛を房々と初年風に分けたのが、よく似合ふ美しい若者であつたと、小林歌津子さんの筆記に載    せられたり〟    ◯『明治のおもかげ』p84「六本指」(鴬亭金升著・昭和二十八(1953)年刊)   〝清親の門人に井上探景と言う青年があった。風景には天才の筆だと師も感じて探景の号を与えたが、他    の画はどうも粗忽(ソコツ)をして笑われる事があった。折角の人物の指を六本描いたり、または試筆に去    年の干支(エト)を描いたりした。或年浅草で湯に入っていたら火事だと言われ、狼狽(アワテ)て石鹸を顔一    面に塗ったまま衣服を着て帰宅して笑われた事もあり、時々滑稽(コツケイ)を演じていたが、風景は真面目    (マジメ)に好(ヨ)く描いた。惜しい哉(カナ)、若死をしたので世に知られずにしまった〟    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p90(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)   〝探景(たんけい)    井上氏、名は安治、俗称安次郎。川越の出身、浅草並木町の呉服屋の息子であつた。少年の頃より絵を    好み、始め芳年の門にも入つたが、清親が同町内に住んでいたので、これを慕つて門弟となつた。その    天才的手腕を早くより認められ、十八才の時に処女作「浅草橋夕景」がある。清親が、洋風版画を捨て    た十四年後もこの分野に進んだ。明治十七年頃よりは安治と署名せず、探景となつている。探景を号し    てからは三枚続きの従来の錦絵風を取り入れた風俗画を多く出している。十八年より二十二年までの東    京の風物として、他にない好資料を残している。元治元年生れ、明治二十二年九月、二十六才で歿した〟