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☆ すうしょう こう 高 嵩松浮世絵師名一覧
〔享保9年(1724) ~ 文化8年(1811)6月28日・88歳〕
 ※ 狂歌師、元木阿弥。ここでは嵩松名の記事と画業に関する記事のみ  ☆ 明和七年(1770)  ◯『明和狂歌合(明和十五番狂歌合)』〔江戸狂歌・第一巻〕明和七年の狂歌合   〝嵩松 舗号大野屋喜三郎、渡辺氏、狂名元木網、称落栗庵〟     〝渡辺氏嵩松子は落栗庵元木網うしといひて、江戸夷曲歌の元祖のその一人なりしが、年老て死世の旅路    の門出に筆を染め置土産となしけるも、冬のはしめ頃なりければ 関東米々山人      春の花夏は実のりて落栗の土に帰るや元の木網〟    〈この関東米々山人の識語は文化十一年(18141)のもの〉  ☆ 天明元年(1781)  ◯『擁書漫筆』〔大成Ⅰ〕⑫435(高田与清著・文化十四年(1817)刊)   〝天明元年四月十日、角田川わたりの水神の森にてかしらおろして、渡辺嵩松と名のりける時、     けふよりも衣はそめつ墨田川ながれわたりに世をわたらばや〟  ◯『をみなへし』〔南畝〕②14   (四方赤良詠)  〝嵩松子かしらおろして土器町のほとりにすめるよし  おつぶりに毛のないゆへか若やぎてかはらけ町にちかきかくれ家〟    〈飯倉土器町の元木阿弥の隠居を「土碗房」と呼ぶ〉  ◯『狂歌若菜集』唐衣橘洲編・天明三年刊(『江戸狂歌本選集』①213)   (唐衣橘洲詠)   〝嵩松がすみた川にて落髪し侍りしとき      中/\に梅若やぎて見ゆるかな君は柳の髪をおろして〟   〝墨絵松 あるじ嵩松英流の画に名あり      十かへりのはなふさ流は目にたちてかくともつきじ一筆の松〟    〈『狂歌若菜集』は天明三年正月の刊行だから同二年以前の詠〉     〝雁奴が一周忌追福、嵩松亭にて寄柏餅懐旧といふことを      こそのけふ君は仏になら坂やこの手合せてなつかしわ餅〟    〈雁奴は狂名大根太木、俗称山田屋半右衛門。大田南畝は安永八年八月「今ははや死出の山田となる人のおもかげのこ     る半えもんつき」と詠んで追悼しているから、大根太木のこの八年の五月と思われる〉  △『狂文宝合記』(もとのもく網・平秩東作・竹杖為軽校合、北尾葎斎政演・北尾政美画・天明三年六月刊)   〔天明三年(1783)四月二十五日、両国柳橋河内屋において開催された宝合会の記録。主催は竹杖為軽〕   〝主品 仙台河岸にたてしやらいの古枕 元の木あみ 家蔵〟    (画の説明文)〝仙台河岸夜来〟    (狂文は省略)   △『判取帳』(天明三年頃成)   (浜田義一郎著「『蜀山人判取帳』補正<補正>」「大妻女子大学文学部紀要」第2号・昭和45年)  〝もとのもくあみ自画賛 〈筆者注、老人の絵〉  かくばかりかはるすがたや梅ぼしも花をさかせしすいのみのはて〟   (大田南畝の注)〝渡嵩松住西窪神谷町号落栗庵〟  ☆ 天明四年(1784)  ◯『檀那山人藝舎集』〔南畝〕①465(天明四年三月刊)  〝題嵩松朱買臣画    鉈子一丁一把薪 傍開一巻更無人 知君能覆盆中水 墨画々成朱買臣〟    〈いわゆる大器晩成の喩えである〝朱買臣五十富貴〟の故事に取材した嵩松の画に南畝の狂詩〉    ☆ 文化元年(享和四年・1804)    ◯「絵本年表」〔目録DB〕(文化元年刊)    高嵩松画『狂歌巨月賞』一冊 嵩松等画 秋長堂物梁編〔目録DB〕    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文化元年刊)    嵩松画『狂歌巨月賞』一冊 嵩松其他画 秋長堂撰 秋長堂板〔狂歌書目〕     ☆ 文化五年(1808)  ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年(1808)補記)   (「英一蝶四季絵之絵跋」)   〝嵩谷がもとにこの絵跋ありしこと元木阿弥より聞しことあり。嵩谷は一蝶の門人にして、木阿弥はまた    嵩谷の弟子たり【画名嵩松】〟  ☆ 文化六年(1809)  ◯『街談文々集要』p141(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「文化六年(1809)」記事「無根桜花咲」)   〝(二代目蜀山人(文宝亭)随筆より)    文化六年七月、友とち虚白子のもとより、元の木網がかける吉野山苔清水の絵を送りて、此絵よくいで    きたれど、桜の幹枝ばかりかきさして、其後病ひにふしていと心むづかしとて、花をバかき残せしを、    おのれに此花ばかりかきそへよといひおこされしゆへ、盆前のいそがしきを過して、同二十三日、残暑    に汗をぬぐいつゝ、花ばかりかきてやれり、是も又一奇事なるべし。       此頃桜の花の咲たるを     文宝亭      時ならぬ花にも露の玉くしげふたたび春の色をこそミれ〟    〈この年の五月、時ならざるに、桜の花の咲し記事あり。元の木網は高嵩松の画名を持つ。文化八年六     月、八十八歳で亡くなるが、その最晩年の文化六年、嵩松が病に伏して画きのこした花の部分を、虚     白子なるひとが、文宝亭に画き添えるよう依頼したのである。「吉野山苔清水」の絵は未完ながら、     嵩松の絶筆であろう。虚白は未詳〉  ☆ 没後資料  ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「神田 古人・画家・誹諧師・狂歌師」〝杢阿弥 珠阿弥 落栗庵 永冨町 大野喜三郎〟  ◯『一簾春雨』〔南畝〕⑩507(文政頃記か)  〝薮へ来て鳴ならへどもそのなかにいちこゑ二ふく竹の鶯  右、自画自讃 元杢網〟    〈南畝との交渉は、明和七年以来のもので、ずいぶん長い。もちろん狂歌を介してのものだが、文化八年六月二十八日     の木阿弥逝去の際も、南畝は狂歌を詠んで追悼している〉 ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪182(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「英氏系譜」の項)
   「英一蝶系譜」〝(高嵩谷門人)嵩松【狂名元ノ木阿弥】〟  ◯『浮世絵師便覧』p241(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝嵩松(シヤウ) 一世嵩谷門人、狂歌名半阿弥、◯文政〟  ◯『狂歌人名辞書』(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   ◇「嵩松」p107   〝嵩松、初代嵩谷門人、通称渡辺喜三郎、有名なる狂歌師にして戯号を落栗庵、元木網と云ふ。(木網を    看よ)〟   ◇「元木網」p229   〝元木網(又、杢阿弥)、落栗庵と号す、姓渡辺氏、名は正雄、通称大野屋喜三郎、画を嵩谷に学びて嵩    松と号す、東都京橋北紺屋町の湯屋業、次で西久保に移り晩年薙髪して向島水神の森に閑居す、天明年    間の狂歌大家にして真顏、金埒、有政、物梁、白主、針金等皆此門より出づ、文化八年六月二十日歿す、    年八十八、深川正覚寺に葬る〟  ◯『浮世絵師伝』p106(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝嵩松    【生】延享元年(1744)  【歿】文化八年(1811)六月廿八日-六十八    【画系】初代嵩谷門人   【作画期】寛政~文化    高氏を称す、名は正雄、通称大野屋喜三郎、後ち平七と改む、武蔵松山の人にして、江戸に来り京橋北    紺屋町に湯屋を開業す、晩年浅草花川戸に移れり、国学及び狂歌を以て聞ゆ、狂歌名は元ノ木阿弥とい    ひ落栗庵と号す、後年剃髪して珠阿弥といへり。深川万年町正覚寺に葬る、一説に、歿時の年八十一と    云へり〟  ◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊)   ◇「夷曲同好続編筆者小伝」p456(昭和六年九月稿)   〝元木網 武州松山人、金子氏、正雄、幼名喜、又称大野屋喜三郞、初居京橋北紺屋町、営浴場【江戸方        角分曰、神田永富町珠阿弥大野喜三郞】後移西久保神谷町菓匠壺屋側衖、称渡辺嵩松、嵩松画        号也、一号落栗庵、文化八年辛未六月廿八日没、享年八十一、葬深川正覚寺【擁書漫筆、判取        帳裏書、天明四年春興抄、奴凧、若葉集、忌辰録】〟  ◯「集古会」第二百二十七回 昭和十五年九月(『集古』庚辰第五号 昭和15年11月刊)   〝渡辺刀水(出品者)嵩松 江戸名所巻 一巻 落栗庵元杢網画巻〟  ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    〈嵩松画の作品として収録するのは上掲、文化元年刊の狂歌本『狂歌巨月賞』一点のみ〉